Saturday, September 11, 2021

『ダッシュとリリー、その隙間に気をつけて(Mind the Gap, Dash and Lily)』

『ダッシュとリリー、その隙間に気をつけて(Mind the Gap, Dash and Lily)』 by レイチェル・コーン、デイヴィッド・レヴィサン 訳 藍(2020年11月12日~2021年04月20日)



『ダッシュとリリー』シリーズの最新刊が、(藍のおかげで、笑)もうすぐ出ます!!!


『ダッシュとリリーの冒険の書』、『ダッシュとリリーの12日間』に続く、シリーズ3作品目で、こんなに続くのは藍が訳したから??←なわけない。笑


それはともかく、藍的には、『ダッシュとリリーの冒険の書』を訳してから、世界が変わったというか、いつでもどこでもダッシュやリリーたちが周りにいる感じで、人生が楽しくなったので(悩んでいることすら楽しい状態になったので)、間違いなく『ダッシュとリリーの冒険の書』が、藍の人生最大の書になりました。



最新作のタイトルは『Mind the Gap, Dash and Lily』 で、

直訳すると、「そのギャップに気をつけて!」とダッシュとリリーに注意をうながしている感じになります。

ロンドンの地下鉄のホームには、乗り込み口付近に「Mind the Gap」と書かれているそうです。ロンドンの地下鉄は、電車とホームの隙間が結構広く空いていて、落ちる人が多いんだとか。

そう、今回の舞台はロンドンなのです!!


あと、「Gap」は、ダッシュとリリーの二人の間の「距離」という意味も込めているのでしょう。心の隙間と、物理的な距離。ニューヨークとロンドンの遠距離恋愛っぽいです...



今はまだダウンロードできませんが、11月12日になったら、これを見てくれている数百人でKindle版を即ダウンロードして、「なんで日本のAmazonでこんなに売れてるんだ?」と思わせましょう!笑


ちなみに、ポイントの「-145円」というのは、藍のAmazonポイントのことなので、601円ではなく、746円になります。




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リリー


12月21日

クリスマスにはダッシュが悲惨な境遇に陥ってくれないと困るのよね。暗い顔したダッシュをパッと明るい笑顔に変えるのが、私の役目みたいなものだから。そしたら私もハッピーになれるし。

ダッシュはね、この時期になると自然と顔がほころんで、何もしなくても幸せがにじみ出てくるような、そういう人じゃないの。私だったら自然と笑顔になっちゃうような光景を見ても、ダッシュはむすっとしたままなのよ。たとえば、大きな犬とか、よちよち歩きの可愛らしい双子とかね。同じ顔した小さな双子が、酔っぱらった海賊みたいに、砂場を縦横無尽に駆けずり回っていたりすると、私なら思わず笑顔になっちゃうけど。どしゃ降りの中、傘がなくて、しかめっ面で雨に濡れながら手を挙げている人が、ようやくタクシーを拾えたところを目撃しても、私なら自然と笑顔がこぼれちゃうわ。ダッシュにそういうのは通じなくて、逆に彼を笑顔にさせる場面っていうのはね、たとえば、かっこつけて気取った男が、スマホ片手にインスタグラムで配信しながら、大きな犬を連れて公園を散歩していたら、画面に気を取られ、自分の犬がした糞を踏んづけちゃって、うわって慌てふためく様子とか。あとは、砂場で遊んでいた小さな双子が、ヨーグルト味のチューブ型お菓子を剣代わりに戦いごっこをしていたら、それがどんどんエスカレートしていって、いつの間にか本気のけんかになっちゃって、辺りに砂をまき散らし、怒った親まで巻き込んで、双子の顔がギャーギャーと可愛くない形相に変わる場面とか。それから、雨上がりのウォール街に停まったタクシーから、さっそうと降り立った高そうなスーツを着たお偉いさんが、ちょうどタクシーの降り口にできていた深い水たまりに、ずぼっと足首まで足を突っ込むところを目の当たりにしたら、ダッシュは笑うでしょうね。

私は欲しがってばかりの恋人みたいに思われたくはないんだけど、ダッシュの笑顔を見るという、めったに訪れない瞬間のために生きているって感じなの。すっごくピュアな笑顔をするのよ。それはきっと、予想外にもたらされた笑顔だからで、誰かに強制されたものじゃないからね。あえて言わせてもらうけど、彼の笑顔は、巨大なクリスマスツリー全体を煌々と輝かせるほどの威力なのよ。(こんなのろけ話を彼が聞いたら、一瞬で彼の顔から笑顔は消え失せて、もう二度と笑ってくれない恐れもあるけど...)

今年のクリスマスは彼に笑顔を届けようと決めてるの。笑顔に限らず、彼の顔自体を見るのが久しぶりだからね! 去年の春、私たちは高校を卒業したんだけど、彼には二つの素晴らしい選択肢があったの。彼はコロンビア大学にも合格したから、ニューヨークに残ることもできた。そしたら、私はもっとハッピーだったかもしれないわね。さらに、彼はオックスフォード大学にも合格したのよ。彼は英国びいきだし、『オックスフォード英語辞典』を愛してやまないほどの本好きだから、それはそれは喜んでいたわ。それと、海を隔てて両親から離れられるっていうのも、彼にとっては大きな特典だったみたい。(私からしたら、彼の両親はいい人たちだと思うんだけどね。彼はうざいとか思ってるのかしら。その辺は複雑な親子関係ね。)

ダッシュと私は2年間付き合ってるの。大好きな人と離ればなれになるとか、飼っていたペットを手放さないといけなくなるとか、そういう時は私だってわがままにもなっちゃうけど、でも、私はぐっとこらえて、彼にオックスフォードに行くように勧めたわ。それが長年の彼の夢だったんだから。―彼はそれを叶えるべきでしょう! 私はニューヨーク市内のバーナード大学に合格したのよ。もちろん今年から入学できたんだけど、バーナード大学には「ギャップイヤー」の制度があったから、それを取ることにしたの。一年間入学を遅らせて、入学前にいろんな経験を積ませる制度よ。おかげで今年の私は、私自身が立ち上げた「犬の散歩ビジネス」に専念できるし、おじいちゃんがいる介護施設でのボランティアも引き続きできてるわ。私にとっての大きな特典はね、―私たちにとっての特典って言った方がいいかもしれないけど、―私が大学に行っていないことで時間がたくさんあるってこと。つまり、イギリスに行こうと思えば、好きな時にダッシュに会いに行けるってことよ! だからこそ、海を隔てて離れても平気って思えたの。

そういうわけで、遠距離恋愛でもなんとかなるって高をくくっていたんだけど、予想外に私のビジネスが右肩上がりで成功しちゃって、自由時間があまり取れなくなっちゃった。ダッシュに直接会ったのは今年の8月が最後で、それから4ヶ月くらい会ってないわ。ああ、彼のモップみたいな髪を撫でてあげたい。彼ったら、理髪店に行く時間も惜しんで勉強ばっかりしてるみたいなの。画面越しの彼は、髪の毛もぼさぼさに伸び放題だった。ひげとかもあまり気にしてないみたい。そんなだらしない外見の男が私のタイプだったなんて、自分でも全く気づかなかった。それだけが彼に会いたい理由ではないんだけど、そうするのがたまらなく好きなのよ。ああ、早く彼のむさ苦しい首筋にキスしたいわ。

ダッシュのイギリス暮らしもまた、彼が予想していたものとは違ったみたいね。私が感じた印象では、彼は彼自身が行く前に思っていたほど、イギリスを好きになれなかったようなの。イギリスというか、オックスフォードをそんなに好きになれていない感じね。あそこは規律や伝統を重んじるみたいだから、性に合わなかったのかしら。ダッシュもその辺はあいまいで、はっきりとは言ってくれないんだけど、私は彼の恋人なのよ。それくらい直感でわかるわ。(彼が「来年はどこか他の大学へ転校するかもしれないから、いろいろ調べてるんだ」みたいなことをぶつぶつ独り言っぽく言っていたことも、ヒントにはなったんだけどね。ああ、千里眼みたいに、海の向こうの彼の心を見通せる目を持ちたいわ!)

もうすぐクリスマスだから、彼がニューヨークに帰ってきて、そしたら、もっとたくさん話せるって楽しみにしてたんだけど、感謝祭の数週間前に彼が爆弾を落としてきたの。彼は「話がしたい」ってメールしてきたのよ。わざわざ前もってメールで「話」を要求するなんて、これは絶対良くない展開だって思ったわ。実際に電話で話してみたら、最悪の事態ではなかったから良かったんだけどね。私はシンガーソングライターのロビンが好きなんだけど、彼女が歌っているような展開にはならずに済んだわ。「他に好きな人ができたんだ」って深刻な声で言われるんじゃないかって、ドキドキしちゃった。ただ、ダッシュが私にクリスマス爆弾を落としてきたことには変わりないけど。「クリスマスはニューヨークに帰って、君と過ごそうと思っていたんだけど、ロンドンのおばあちゃん家に行って、おばあちゃんたちと過ごすことになってしまった」ですって。

事前メールでの空襲予告から、リリーの頭上めがけてズドンと爆弾を落とされちゃった感じ。その気になっていたリリーは完全にメルトダウン。

深呼吸を繰り返し、心を洗い清めるのよって自分に言い聞かせながら、やけ食いもしたわ。

そうやって私は会いたい気持ちを抑えて、やり過ごしていた。なんとかショックから抜け出し、冷静になって考えてみると、私には二つの選択肢があることがわかったの。一つは彼の決断を理性的に受け入れて、家族とクリスマスを過ごすこと。私は今までの人生ずっとそうしてきたんだし、それが私の喜びでもあるんだから。とはいえ、今年はダッシュがいないんだと思うと、寂しくて仕方ない。

それに、私は理性的になるのが大っ嫌い。

そして浮上した二つ目の選択肢は、―

「やっぱりやめておこう、リリーベア」と、いとこのマークが私に言った。彼はいまだに私のことをテディーベアみたいに呼ぶのよ。マークも私も、本屋さんのレジの後ろの掛け時計をチラチラ見ている。時計の針は午後6時10分を指していた。そういえば、戦時中でもないのに、イギリスではなぜか軍隊式に18時10分って言うのよね。「ボーイフレンドっていうのはな、そういうサプライズを望んでないんだよ。しかも、ひねくれ男のあいつならなおさらだ。あいつにサプライズを仕掛けるまで、俺たちの家に泊まるといい、なんて言うんじゃなかった」

そう、私がサプライズでロンドンに来ちゃったのよ!

これはクリスマス間近になって急に決めたことだったから、大幅にスケジュールを調整しなければならなかったし、ママとも何度もメッセージのやり取りをしなければならなかった。ママは私が四六時中いつでも手が空いてるものと思っていて、年に一度の大切な日に向けての飾り付けとか、料理とか、買い出しとかを当然、私が手伝うものだと思い込んでいたから、それはもうカンカンだったわ。だけど、ひょっとしたらママも、私と同じくらいほっとした面もあるのかもしれないわね。たまにはお互いに距離を置いてみるのも、ブレイクタイムみたいでいいじゃない。私が入学を1年間延期することに決めてからというもの、ママは事あるごとに「これは一時的なブレイクなのよ、リリー」と言って、ずっと続く休暇ではないことを私に思い出させる、というのが彼女の任務みたいになっていた。私が犬の散歩ビジネスで成功して、ソーシャルメディアでの認知度も高めていることに、ママは拍手喝采、大喜びでしょうって思われそうだけど、―私は犬のビジネスを分社化するみたいにして、犬の手芸品も作ってるの。それをSNSを通じて販売していて、今では私が編んだものすべてが売り切れちゃうくらいだから、ママもさぞかし喜んでいるかと思いきや、実際のところ、私の起業家としての普段の疲れを癒す、単なる「気晴らし」だと思ってるみたいね。彼女は私に大学の学位を取得することが最優先事項だって常に思い出させてくれるわ。「チワワのためにセーターを編んで、SNSでいいねをたくさん集めても、考える力は身につかないのよ、リリー」

彼女が間違ったことを言ってるとは思わない。私だってそれくらいの考える力は身についてるのよ、ママ。

それはそれとして、遅かれ早かれ、私は恋人に会う必要があるのよ! これはもう絶対的に必要なことなの。メインはそっちで、母親の小言から逃れられるのと、住み慣れたアパートメントを離れられるのは、おまけみたいなもの。最近、私の住むアパートメントがなんだか窮屈というか、狭すぎるように感じてきたのよね。

「もうすぐ彼がここに来ちゃうから」と私はマークに言った。「ここは外国なんだから、リリーベアなんて呼ばないでちょうだい。私はここでは家族のぬいぐるみちゃんから、新しい人間に生まれ変わるんだから」私は自分がロンドンにいるなんて信じられなかった! こんなに遠くまで旅行したのは初めてだったし、すでに目に映るあらゆるものに夢中だった。地下鉄! ブリティッシュアクセントの英語! キャドバリーのチョコレート! もちろん、今までも地下鉄には乗っていたし、英語も、上質なお菓子も、何度も経験してきたわ。だけど、ロンドンではそれらすべてが、異国情緒あふれる新鮮なものに感じられた。地下鉄の車掌さんが、乗り降りする人たちに向けて、「足元の隙間にお気を付けください」って言ってるのなんて最高だわ。車掌さんがマイクを通して、「そのギャップに気をつけて」と言うたびに、私は自分のギャップイヤーのことを言われている気がして、密かにうなずいちゃう。この一年は気を緩めちゃだめ、ちゃんと自分がやりたいことを見つけるのよって身の引き締まる思いがした。そして、ロンドンが気づきの場所になる予感がする。ギャップイヤーが終わった時、私は本当にしたいこと、―周りの人たちが私にしてほしいことではなく、私自身がしたいことを心に刻み付けられる気がするのよ。心の隙間にね、ママ。

イベントは午後6時からの予定だった。というか、18時ね。あー、いちいち計算するのが面倒臭い! でもすでに10分以上過ぎている。ニューヨークで書店員をしていたマークが言うには、「書店のイベントなんて、たいてい時間通りには始まらないよ」ということだった。会場はすでに、今か今かとイベントの開始を待ちわびる人々で埋め尽くされている。しかし、ダッシュの姿はどこにも見当たらない。私はちゃんと招待状に時間と場所を書いたのに。私はダッシュに〈アドベント・カレンダー〉を送っていた。「アドベント」というのは、キリストの降臨という意味よ。つまり、クリスマスまでの日数を数えるためのカレンダーで、カレンダーに付いてる小窓を毎日一つずつ開けていくの。その小窓にメモを入れておいたのよ。


ドーント・ブックス / ロンドン市内のメアリルボーン 12月21日午後6時

100%混じり気のないスリルを味わいたいのなら、欲望に逆らっちゃだめ。


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メアリルボーンはロンドンの中心地で、ちょうどピムリコとカムデンの真ん中くらいでした。(ダッシュもリリーも知らないでしょうが、ピムリコにはエズミーが、カムデンにはトムが住んでいます♡)


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これを読んでダッシュが部屋でじっとしてられると思う? 彼は宝探しが大好きなのよ。しかも、彼がこよなく愛する本屋さんだからね。私たちの関係は二年前のクリスマスシーズンに、〈ストランド書店〉での宝探しから始まった。赤いモレスキンのノートに、交互に手がかりを書き残すことで、二人の距離を縮めていったのよ。今年はその原点に立ち返ることにしたの。英国風のアレンジを加えてね。感謝祭の直後に、私は国際郵便でダッシュ宛てに手作りのアドベント・カレンダーを送ったの。アドベント・カレンダーは英国の伝統だけど、私にとっては新しいクリスマスの伝統だから、とってもわくわくしたわ。私は未知の伝統に触れるのが何よりも大好きなの。こういう伝統があるから、イギリスって素敵なのよね。12月1日に始まって、12月24日に終わるアドベント・カレンダーには、バリエーションが無限にあって、その作り方も十人十色だから、それは一大プロジェクトだったわ。アイデアを得ようと、〈ピンタレスト〉を覗いたら、たくさんの人がいろんな手芸品を作ってるから、リサーチに丸々一週間も費やしちゃった。おかげで、完成した作品には満足してる。

私がダッシュのために作ったアドベント・カレンダーは、木製の本の収納ボックスを土台にしたもので、まず最初に大きな扉を両側に開くと、24個の小窓が現れて、それぞれの窓には1~24の数字が書かれているの。それを毎日一つずつ開けていくと、日ごとに小さなプレゼントが彼の目の前に姿を現すってわけ。ほとんどの小窓には、クリスマスの大きな靴下に詰め込まれているような、典型的なプレゼントを入れておいたわ。履く用の靴下とか、紅茶とか、チョコレートとかね。それ以外にも、こんな感じで個人的な贈り物も忍ばせておいた。

12月1日 ー 〈プレタ・マンジェ〉のクーポン券を50ポンド分。ダッシュはイギリスの〈プレタ・マンジェ〉が気に入ったみたいで、ランチによく行っていて、〈チェダーチーズとチャツネケチャップのサンドイッチ〉がやみつきになっちゃったんですって。ニューヨークにも一応〈プレタ・マンジェ〉の支店はあるけど、彼が言うには、「本場の味は格別」だそうよ。

12月5日 ー 今年のクリスマスシーズンの大ヒット映画『サイボーグ・サンタ』(3D)のチケット。さっそくダッシュは見に行って、すぐに感想を送ってくれたんだけど、「さすがにサイボーグ・サンタはなかなか死ななかった」ですって。

12月8日 ー 無制限に使える〈添い寝券〉。ダッシュはこんな陳腐な券を差し出して、「添い寝して」なんて言う人じゃないってわかってるから、この券を目の当たりにした時のダッシュの表情を思い浮かべるだけで、私はクスクス笑っちゃう。きっと私に添い寝してもらいたくて、身もだえしたわ。

12月14日 ー 私の個人的なUSBメモリー。中には私の飼い犬のボリスの写真集が入ってる。このために、ダッシュのお気に入りのスポットを回ったのよ。ストランド書店、プロスペクトパーク野外音楽堂、ニューヨーク公共図書館...そういう場所で、ボリスに「ポージング」を取らせて、写真を撮ったの。ボリスはブルマスティフという犬種の、ブルドッグを大きくした感じの犬で、クリスマスの衣装なんて着たがらないんだけど、私がなんとか説き伏せて(犬でも、心を込めて語りかければちゃんと通じるのよ)、この写真集のためだけに特別に着させたの。

12月17日 ー トルーマン・カポーティのレゴ・ミニフィギュア。

今日 ー 〈ドーント・ブックス〉への招待状。アドベント・カレンダーの21日の小窓にこのプレゼントを入れた時の私の意図は、マークから聞いたロンドンのイベントにダッシュを招待すれば、本好きの彼なら喜んでくれるはず、という感じだった。その時は気づかなかったけど、ダッシュにとって本当のプレゼントは、私が彼の目の前に現れること、なのよね!

午後6時15分。

マークの新妻ジュリアが、レジのところにやって来て、私たちに「そろそろ始めるわね」と言った。

「もう少し待ってもらってもいいですか?」と私は彼女に尋ねた。「もうすぐ彼が来ると思うから」

「わかったわ。きっと地下鉄が遅れてるのね」とジュリアは、懇切丁寧な口調で言った。「あと数分時間を稼いでみるわね」

彼女の声には若干、戸惑いの色が浮かんでいた。自信家の彼女らしからぬ弱々しい声色だと思った。彼女はダッシュが来るかどうかを気にしているのではなく、彼女が取り仕切ることになっている〈宝探しゲーム〉のことが気がかりなんでしょう。昨夜、ジュリアとマークの部屋を訪ねて、泊めてもらった際に、一通りの段取りは聞いていた。彼女が自ら立案して、細かく計画を立てたイベントだから、彼女は緊張しているんでしょう。というか、私も緊張してきちゃった。

いとこのマークはニューヨークの〈ストランド書店〉で働いていたんだけど、一年前、休暇を取ってイギリスへ旅行に行ったの。その時の目的地の一つがロンドンの〈ドーント・ブックス〉で、〈ドーント・ブックス〉は特別に魅力的な書店だと聞かされていたみたいで、一度は行ってみたかったんですって。彼はその内装にうっとり見とれてしまったと言っていた。実際、私もここに来てみて、彼が言うほどではなかったけれど、たしかに、とは思った。〈ドーント・ブックス〉のメアリルボーン店は、エドワード朝様式の3階建てで、オーク材のバルコニー、青みがかった色の壁、温室のような太陽光を集める天井、ステンドグラスの窓などを備えた音楽学校みたいな場所だった。そこで、彼はジュリア・ゴードンと出会った。ジュリアはジャマイカ人のロンドンっ子で、ユダヤ教徒でもある。彼女はケンブリッジ大学で英文学の博士号を取った後、〈ドーント・ブックス〉の販売促進部で働いている。彼女がマークをロンドンに呼び寄せたのか、マークが彼女に結婚を迫ったのか、いずれにしても、私はいまだに彼が結婚したことが信じられない。私だけではなく、親戚中が信じられずにいる。

ジュリアはいつか文学をめぐるようなビジネスを始めたいと夢見ている。一方で、彼女は〈ドーント・ブックス〉で働きながら、せっかくのクリスマス休暇なのだから、どうにかしてお客さんを集めたいと企画を練っていた。そうして彼女が立案したのが、〈ドーント・ブックス〉始まって以来、初のイベント「愛書家チャレンジカップ」だった。ダッシュがアドベント・カレンダーの指示通りに来てくれれば、彼も参加することになるんだけど、ちゃんと来てくれるかしら? それと、私はジュリアの計画がしっかり機能するかどうかも心配。私の頭はまだちょっと時差ボケが残っているんだけど、それにしても、なんとなく彼女の計画には絵空事のような、現実味に欠ける印象を抱いてしまう。―私はアカデミックな家庭で育ったから、そういう人種には敏感に反応するのよ。ジュリアも、うちの親みたいに、頭はいいんだけど、実行性に欠けるアイディアにばかり思いをめぐらせているんじゃないかしら? 彼女から「愛書家チャレンジカップ」の詳細を聞いた時、私はすでに計画の穴というか、彼女の考えが及んでいない部分がいくつかあることに気づいていた。例えば、今日ロンドンに外国の要人が訪問することになっていないか? もしそうだったら、交通規制があったり、大規模な抗議デモがあったりして、地下鉄やこの辺りの道路にも影響が出るはず。あるいは、今日はロンドンの「サンタコン」の日ではないのか? そうだとすれば、大通りはサンタの格好をした人たちでごった返していて、歩行者がなかなか目的地にたどり着けない状況が生じているかもしれないわ。他にも、お客さんの気まぐれ、天候...私はニューヨークで犬の散歩のビジネスをしているから、こういう現実的なことを常に考えているのよ。ジュリアは本の中の住人だから、実際的な問題にはそれほど対処する必要がないんでしょうけど、本の外の私たちは、こういうこまごまとした事に心を砕いているの。とはいえ、私は彼女の起業家になりたいという野心を支え、応援したいと思ってる。ママが私の野心を支え、応援してくれているようにね。

「客の出足はよかったじゃないか」とマークが誇らしげに、新妻に向かって言った。ジュリアはほっとした表情をしている。彼女はソーシャルメディアを使って、このイベントの告知を拡散していたけれど、それにしたって、クリスマス直前で忙しいこの時期に、〈本探し〉に来る人が本当にいるのかどうか、ふたを開けてみるまでは、彼女自身も含めてみんな半信半疑だった。

店の中央、指定された集合場所には、ざっと見た感じ、20人ほどの人が集まっている。その時、私の心臓が、はっとした。ダッシュがいたからではなく、一組のカップルに私の記憶がビクンと反応したのよ。女性の方はヒジャブという、イスラム教徒の女性がかぶるスカーフを頭に巻いている。―エメラルドグリーンが鮮やかなシルクのスカーフで、ダッシュが私に送ってくれたオックスフォードでの集合写真にも、同じような素敵なヒジャブを頭に巻いている女性がいたから、ピンと来た。さりげなく二人を観察していると、彼女が彼氏らしき男性にこう言った。「オリヴィエ、私たちチーム・ブレーズノーズは、絶対に優勝するのよ」やっぱり! ブレーズノーズというのはオックスフォード大学の校舎の名前で、ダッシュが学んでいるところだから聞き覚えがあった。彼氏が彼女を見つめて、にっこりと微笑みかけた。ダッシュは私にそんな甘い微笑みを投げかけてくれたことはない。「アズラ、俺に任せておけば、もう勝ったも同然だ」と彼は、急に意識を集中させるかのように、キッと表情を引き締めて言った。

え、えぇーー、まじーーーーー!!!!!!!!

その二人は、オリヴィエ・ワイス・ジョーンズとアズラ・ハトゥンという、ダッシュのクラスメイトだった。彼はオックスフォードがあまり好きではないらしく、事あるごとに二人の名前を出しては、愚痴っていた。ダッシュにとって、彼らはオックスフォードの嫌いな面を象徴する二人なのよ。

イギリスの大学はアメリカの大学とは大きく異なっている。科目は専攻する対象ではなく、「読む」対象らしい。試験は「受ける」ものではなく、試験のために「じっと座っている」ものらしい(真っ黒なアカデミック・ローブを身にまとってね!)。1年生はフレッシュマンではなく、「フレッシャーズ」。大学では一つの科目だけを履修し、それ以外の分野は何も勉強しない。一年間を二つの学期に分けるのではなく、8週間ずつ三つの学期に分けている。それぞれの学期には、「ミカエルマス」、「ヒラリー」、「トリニティ」という、魔法学校?と思っちゃうような響きの名前が付けられている。(もちろん、イギリスは、イギリス国教会というキリスト教を中心にした国だから、一年間の分け方もイギリス人には理にかなっていて、お金をポンドという、重さと同じ単位で呼んでいることとも関係があるんでしょう。)イギリスの大学は基本的に複数のカレッジの集まりで、ホグワーツ魔法魔術学校の寮が「ハッフルパフ」とか「レイブンクロー」とかに分かれているように、それぞれのカレッジには独自の特色があるみたいで、そういうのはなんかいいな、と思っちゃう。ダッシュが応募したのはブレーズノーズ・カレッジで、彼は古典をひたすら「読む」学科に入学したのよ。なぜ彼がブレーズノーズを選んだかというと、そこの寮が一人部屋だったからで、ダッシュはルームシェアが嫌いなのよね。ただ、彼からすると誤算だったのが、彼があまり近づきたくないタイプの学生たちが、部屋から一歩出ると、そこら中でうろうろしている、ということだった。中でもオリヴィエ・ワイス・ジョーンズとアズラ・ハトゥンは、ブレーズノーズ内で大きな力を持つカップルで、ダッシュは彼らのことを、「ドラコ・マルフォイとフラー・デラクールが付き合ってるみたいだよ」と、ハリーポッターの登場人物に喩えていた。

私はダッシュがここには来ない方がいいかもしれない、と思い始めていた。


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「明日、文学の試験がある」と言う場合、

アメリカでは、Tomorrow I’ll take a literary exam.と言って、

イギリスでは、Tomorrow I’ll sit for a literary exam.と言うそうです。

もちろん、takeを使っても通じるし、

Tomorrow I’ll have a literary exam.と言ってもいいわけだけど、

イギリス人は、sit forという表現を「好む」みたいです。

たぶんそれは、試験中じっと座って、黙々と読んで解く、というイメージが強いからでしょう。


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同時に私はもどかしい気持ちにもなってきた。私以上にダッシュのことをよく知っている人なんていないと思う。彼が文学的な挑戦状に見向きもしないなんてありえないのよ。彼はそれくらいの文学オタクなんだから。だからこそ、私は彼のことがこんなにも好きになったんだし、もう2年も付き合っているのも、そういう彼だからよ。私がこうして近くまで来てるっていうに、彼のセンサーはビビビッと反応しないのかしら? 彼の最愛の人がどれだけ多くのことを犠牲にして、この素晴らしいクリスマスのサプライズを届けるためにはるばるやって来たのか、感じないの? この時期は一年で一番の繫忙期で、犬の散歩も稼ぎ時だっていうのに! 私は兄のラングストンに、私がいない間の仕事の埋め合わせを任せてきたんだからね! 私は犬をしつけるみたいに、できるだけ多くの訓練を兄に施してきたけれど、それでもまだ心配で仕方ないわ。私がニューヨークに帰った時、一気にお客さんが減っていないか、ちゃんとまた私に犬の散歩を頼んでくれるかって心配なのよ。

禿げた男が私のところにやって来た。中年のおじさんといった外見で、レインコートを着ている。外は雨でも降ってるのかしら? 彼が私に言った。「もしよろしければ、あなたと一緒に写真を撮ってもらえませんか?」

隣にいたマークが怪訝な目で彼を見た。マークは過保護すぎるってくらい、いつも私のことを心配してるのよね。「なんであんたが彼女と一緒に写真を撮る必要があるんだよ?」

その男が言った。「あなたは犬の散歩をしているリリーですよね?」

私はうなずいた。そういうことか、と私は状況を把握した。こういうことってたまにあるのよね。犬好きで有名な凄いフォロワー数のインフルエンサーが、私のアカウントを紹介してくれて、私のフォロワー数も爆発的に上がっちゃって、最近では『Dog People』という雑誌の取材を受けるまでになっちゃったのよ。目の前の男性が手に持っているその雑誌の最新号には、犬のインフルエンサー、通称「ドッグフルエンサー」のトップ10という記事が載っていて、私も10人の1人に選ばれたの。私は前から自分のサイトで犬の手芸品を販売してたんだけど、急にたくさんの人が買ってくれるようになったから、びっくりしちゃった! たぶん雑誌を見た人たちだと思う。

マークは渋い表情をしながらもスマホを受け取り、私とその男性のツーショット写真を撮った。写真を撮り終えると、彼が私に聞いた。「〈犬のサポーター世界教育会議〉のためにロンドンに来たんですか?」

「できれば参加したいんだけど」と私は曖昧に答えておいた。私の帰りのチケットは12月26日の早朝のものだった。クリスマスの前の週は忙しいとはいえ、なんとか私抜きでも回るかもしれない。だけど、クリスマスと新年の間の一週間は、犬の散歩ビジネスにとって繫忙期中の繫忙期で、私がいなければとうてい仕事が回らなくなってしまう。つまり、ロンドンで開催される世界最大級の〈犬のサポーター世界教育会議〉の日には、私はもうここにはいないんだけど。

まだダッシュにも私の両親にも話していないことがあって、うっかり口を滑らせてしまわないように気をつけた。その〈犬のサポーター世界教育会議〉を主催しているのは、ペンブローク・ケイナイン・ファシリテーター・インスティテュート(PCFI)という犬の専門学校で、実はその学校から私は入学の誘いを受けてるのよ! PCFIは、犬関連の学校の中のハーバード大学みたいなもので、要するに世界でトップの学校なの。今回ロンドンに来たのは、もちろんダッシュに会うためなんだけど、PCFIがあるロンドンがどんな場所なのか、私がここを気に入るかどうかを確かめるっていう目的もあるわけ。私はバーナード大学への入学を1年遅らせたわけだけど、そのことで両親はすでにカンカンだから、その上、ロンドンの犬の学校に行くなんて言い出したら、殺されかねないわ。さすがに殺されはしないとしても、親はこう思うでしょうね。大学へ行って勉強するのが嫌だから、PCFIに行こうとしてるんだって。

まあ、そういう面もあるかもしれないわね。

午後6時20分。

「そろそろ始めないとだわ、リリー」とジュリアが言った。「ごめんなさいね」

彼はどこへ行っちゃったの? 「わかったわ」と私はイライラしながら言った。このイベントにやって来たダッシュが私を見つけた瞬間、彼がどんな顔をするのか。私はその瞬間を胸が高鳴るくらい期待していたっていうのに、彼は面倒だと思ったのか、姿を見せなかった。メールで「いったいあなたはどこにいるのよ?」と聞いてしまおうかとも思ったけれど、せっかくのサプライズを台無しにしたくはなかったので、それはやめておくことにした。

ジュリアがマイクを通して、集まったお客さんたちに話しかけた。「みなさま、本日はお越しいただきありがとうございます! 私はドーント・ブックスのマーケティング・マネージャー、ジュリア・ゴードンと申します。以後お見知りおきを。このイベントは本書店初の試みですが、できればこれから毎年開催したいと思っております。それでは、ドーント・ブックス主催、〈愛書家チャレンジカップ〉の開幕です!」

誰も、うんともすんとも言わなかった。「なんでみんな歓声を上げないの?」と私はマークに小声で聞いた。

「イギリス人は歓声なんか上げないよ。それはアメリカ人のすることだ」

「でも、サッカーには熱狂するんでしょ?」

「そうだな、サッカーの試合の日はテレビ画面に向かって歓声を上げる。ただ、大抵の場合、試合が始まる前にすでに大量のビールを飲んじゃってるからな」

ジュリアはiPadを上に掲げながら続けた。「みなさまのチーム名はここにリスト化されています。順番にチーム名を読み上げますので、チーム名が呼ばれたら、参加確認のため、代表者は私にメッセージを送ってください。そうしましたら、最初の手がかりをお渡しします。その手がかりをヒントに毎回、目的地を見つけるわけです。それぞれのスポットでは、雑学的なクイズも用意されていますので、それに答えられた場合、ボーナス点が付与されます。一つミッションが達成されるごとに、新たな手がかりをチームリーダーに送ります。そして、最終問題は23日の朝に送信されることになります。各目的地でのメンバーの評価値に基づきまして、私がこのiPadで得点を集計し、クリスマスイブに最も得点の高いチームが優勝、惜しくも二番手となったチームが準優勝となります。その2チームには、それぞれ獲得したポイント分の〈ドーント・ギフトカード〉が贈呈されます。それではみなさま、幸運を祈っております! 本イベントにご参加くださり、誠にありがとうございました」

マークが声を上げた。「それと、もう一つ!」

ジュリアがわずかにため息をつき、言い足した。「もう一つあります。私の夫はアメリカ人なので、アカデミー賞とかグラミー賞とか、授賞式を見慣れているんでしょうね。彼がどうしても形として残る賞品を、と言うものですから...」

マークはミステリー本が並べられたテーブルの下から何かを引っ張り出し、ジュリアがお客さんに向かって挨拶しているところへそれを持っていった。それは私の犬よりも大きなトロフィーだった。ボリスはかなりの大型犬なんだけど、ボリスよりも高さがあって、形は典型的なトロフィーカップではなく、本を何冊も積み重ねたような独特のデザインをしていた。「これがドーント・ブックス愛書家カップです!」とマークは、オスカー像を誇示するような気迫で言った。しかし、誰からも拍手喝采は起きなかった。

私は心の中ではマークを応援していた。やっぱり、トロフィーは欠かせないでしょ! イギリス人のお客さんたちは一向にそれを手に入れたいというそぶりを見せない。あるいは、内心では闘志を燃やしているのかもしれないわね。わざわざ他の人に闘志を見せびらかして何になるんだ? とか思ってるのかしら。

ジュリアが最初の手がかりが入った封筒を各チームに配っている。私が一人で突っ立っていると、マークが同様の封筒を持って私のところにやって来た。それは私とダッシュのための封筒になるはずだったものだ。私たちは〈チーム・ストランド〉を名乗ろうと思っていた。「今回の宝探しは俺とお前で組むしかなさそうだな、リリー」とマークが言った。

彼が封筒を開けて、最初のヒントを読み上げる。


ヒースの近く

水浴びをする人が池を見つける場所

水の中に名前が書かれた者が眠る


「簡単すぎだな」とマークが言った。

「そうね」と私は言った。私にはそのヒントが何を意味しているのか、さっぱりわからない。そうね、と言ったのは、15分ほど前にマークが言ったことに対してだった。「やっぱり、ダッシュを驚かせようなんて、こんなことするんじゃなかった」

私はいとこが大好きよ。だけど、こうして海を超えてはるばるやって来たのは、恋人と一緒に宝探しをするためなのよ。マークとじゃないわ。

私は何ヶ月も待ち望んだのよ。ダッシュのだらしないぼさぼさの髪と無精ひげが見たかったの。彼のしかめっ面も。黒のスキニージーンズを穿いて、この時期の彼が好んで着る素敵なセーターに身を包んだ彼に、会いたかった。私は自分自身に言い聞かせる。クリスマスはまだ終わったわけじゃない。こんなの大したことないわ。そのうちダッシュに会えるわよ。でも、全部間違いだったのかしら

突然、店の入口の扉が勢い良く開いた。つかつかと店内に入ってきたのは、ファッションショーのような派手なドレスを着た年配の女性で、リードにつながれた猫を連れている。うっ。猫派の人は苦手なのよね。「遅れてしまったかしら?」と彼女が、堂々としたブリティッシュアクセントで聞いた。ただ、どことなくわざとらしさがあり、本当はニューヨークのブルックリン区、シープスヘッド・ベイ辺りの出身なんだけど、ブルックリンなまりを隠すために、長年はきはきと英国発音を心がけてきた、といった印象も受けた。彼女に続いて、エレガントなスーツに身を包み、シルクハットを被った紳士が店内に入ってきた。彼は大きく手を振りかざすようにして帽子を取ると、その帽子を彼女の方へ傾けた。「いいえ、そんなことございませんよ」と彼が彼女に言った。「世界はいつまでも、あなた様を待っておられます」

その紳士はダッシュだった。ダッシュ! 私の愛しい人! 彼の長かった髪はきれいさっぱり切られ、整えられていた。ひげもちゃんと剃ってあり、にこやかに微笑んでいる。

えっ。なんですでに笑顔なの!? 私が誰よりもよく知っていると思っていた人は、どこ行っちゃったの? そこには、私が全く知らない彼がいた。




2

ダッシュ


12月21日

これは、何かを失い、何かを見つけ、次に何をすればいいのかを考え続けた少年の物語である。

ことの始まりは、かなり奇妙ないきさつなのだが、子供用Mサイズのトレーナーだった。

僕は当時7歳か8歳で、学校から帰宅すると、おやつを求めて真っ先にキッチンへ向かった。すると、キッチンテーブルの上に何やら箱が置いてある。箱には切手が何枚も貼ってあって、切手に描かれた肖像は、名前までは知らなかったが、どこかの国の女王様だという認識はなんとなくあった。彼女の顔の上に消印が押され、長旅で少し擦り切れてはいたけれど、彼女の威風堂々とした表情は全く揺らいでいなかった。僕はそのことに感心しながら、小包をさらによく見た。そこに僕の名前が書かれていることに気づき、僕は驚きと興奮で胸がいっぱいになった。つまり、この箱は僕へのプレゼントってことだ。

「それはおばあちゃんからよ」と母親の声がした。振り向くと母親がキッチンの入口に立ち、僕の様子を見ていた。母親の言い方に喜んでいる感じはなく、むしろ驚いているような声音だった。

僕のまだ若く、柔らかな頭は、瞬時に祖母の面影を探した。ヒューンと飛んだ思考が着地したのは切手の上で、それから少なくとも数年間は、僕の祖母のイメージは切手のクイーンの肖像画と合致することになった。彼女は父方の祖母で、僕は直接会ったことがあるのかどうか、あったとしてもまだかなり小さい頃だったらしく思い出せなかった。僕の母親が彼女について言っていたのは、僕の理解の到底及ばないような不思議な話で、彼女は石(stone)と恋に落ちてしまい、いたたまれなくなって祖父と別れ、イギリスに渡ったということだった。僕の母親がママ友たちと雑談している時に、小耳に挟んだだけなので、幼い僕にはその意味がよくわからなかったし、その場に父親はいなかったので、聞くわけにもいかなかった。石を好きになったまでは良かったが、結局、石とは結婚できなかったらしい(この部分は僕にも、そりゃそうでしょ、と納得がいった)。ただ、彼女がロンドンに引っ越すくらいの大きな理由にはなったようで、僕の母親の言葉を借りれば、彼女はそこで「新しい人生」を始めたそうだ。それからも数年間、その話が出るたびに、母親は「石の中の誰?」と周りの人たちに聞かれ、「さあ、そこまでは知らないわ」と答えていた。僕が中学に上がる頃、母親が誰かとまた祖母のことを話している場面に遭遇し、ようやくそれまでの謎が解けた。彼女が恋したのはストーン(石)ではなく、ローリング・ストーンズだった。その中の一人のメンバーを熱狂的に好きになった彼女は、彼を追いかけて、海を渡ってしまったのだ。

彼女は毎年、僕の父の誕生日には電話をかけてきた。父は、自分の親との会話なんてそんなものかもしれないが、気乗りしない感じで少し話した後、受話器を僕の母へと渡した。それから受話器が僕へと回ってくるのだが、僕は何を喋ればいいのかさっぱりわからず、いつも彼女が一方的に話すのを聞いているだけだった。

彼女は僕が生まれた時にも、おもちゃやぬいぐるみを買ってくれたらしい。後になって、彼女が赤ん坊の僕を両腕で包み込むように抱いている写真を発見した。この写真は家の目立つところに飾られていたわけではなく、僕の赤ん坊の頃のアルバムを引っ張り出し、見つけたものだった。ついでに両親の結婚式のアルバムも引っ張り出して、めくってみた。そこには、ピンクのペイズリー柄のドレスを着た祖母が写っていた。彼女は満面の笑みを浮かべて、自分の息子の門出を祝っていた。(その時には、祖父には新しい妻がいたのだが、祖父も新妻も、その結婚式には参加していなかった。当時の彼はゴルフに明け暮れ、あちこちのカントリークラブを飛び回っていて忙しかったというのもあるし、自分の息子が妻選びに賢明な選択をしたのかどうか、漠然とした不信感を抱いていたからでもあった。)

それまで彼女から僕宛ての小包が届いたことは一度もなかった。しかも、そのタイミングが(僕の誕生日に近かったわけでもないので)、余計に僕の興味をそそった。彼女は梱包用のテープを惜しげもなく使い、頑丈に箱をくるんでいたので、母がナイフで手伝ってくれないと、僕の力だけでは開けられなかった。その小包が海を越えて旅してきたという事実が、いっそうそれを魔法の小箱のように思わせた。その中身は、僕の期待を裏切らないものだった。―箱の中には色々入っていて、がっかりする隙を与えなかった。まず、キャドバリーのチョコレート。それは僕が味わったことのない種類の甘さだった。それから、ロアルド・ダールのペーパーバック版の本が何冊か入っていた。『チャーリーとチョコレート工場』はすでに家にもあったけれど、アメリカの本とは表紙の絵が全然違った。トラックのおもちゃも入っていた。僕はずっとローリー(Laurie)という名前のトラックだと思っていたのだが、後になって母が、イギリスではトラックのことをローリー(lorry)と言うのよ、と教えてくれた。サンデー・ガーディアン紙のアート欄にくるまれたものもあり、その新聞紙を開いてみると、中には赤いフェルト帽が入っていた。タグの表示から、イギリスの最北端に住む〈くまのパディントン〉が被っている帽子だと明らかになった。そして箱の底には、オックスフォード大学の紋章が胸に描かれたトレーナーが入っていた。さっそく着てみると、僕の体にぴったりだった。

そのトレーナーにはメモ用紙がピンで留めてあった。


気に入ってくれたかしら、全部あなたへのプレゼントよ。

特に理由はないんだけど、受け取ってね。

愛を込めて、おばあちゃんより。


僕はうっとりとした心地になり、すっかり魅了されてしまった。

帰宅した父に、祖母から小包が届いたと言うと、父は「冗談だろ?」と怪訝な表情をしていた。

母に「お礼の手紙を書きなさい」と言われ、僕は全力で丁寧な字を心がけて、手紙を書いた。こうして、10年以上続くことになった僕たちのやり取りが始まった。忘れた頃に不意をつくようなタイミングで祖母から小包が届き、中には季節もののプレゼントの他に、決まってキャドバリーのチョコレートと、何冊かの本が添えられていた。僕は返事の手紙に、ほんの少しだけ、おまけ程度に自分の生活について書き、それよりもはるかに多くの分量を彼女が送ってくれた本の感想に割いた。これが僕たちの通信のやり方だった。それ以上のことを必要としない関係は、双方にとって、気軽で心地よいものだった。

その間に、僕のオックスフォード幻想が始まった。それは僕にとって文学的なユートピアであり、向学心のある子供は周りから軽蔑されるような世界で、僕の目指すべき場所を示してくれる灯台だった。クラスメイトたちは僕を見下し、あざ笑ったが、そんな時はいつでも、「オックスフォード」を夢見ていた。そこにはきっと、僕を正確に理解してくれる人がたくさんいるはずだ、と。僕の両親が、私たちの融合したDNAは、なんでこんな博識ぶったひねくれた子供になっちゃったんだろう? とでも言いたそうな、裏切られたような顔で僕を見る時にも、僕は親身になってくれるオックスフォードの教授たちを思い浮かべていた。僕がいくら知的好奇心が強くても、彼らなら、謎の子供を見るような眼差しを向けることなく、ちゃんと僕を解ってくれるはずだ、と。

ここより素敵な場所が存在することを知ってしまうと、副作用として、どうしてもそこへ行きたくなり、自分はその門をくぐる資格があるのか、それに見合うだけの優秀な学生なのか、と絶えず懐疑心にさいなまれるようになる。もし深い洞察力に裏打ちされた分析のつもりで僕が何かを言っても、それが単なる長ったらしい知識のひけらかしだったとしたら? もし僕がいくら適切な本を読み、古今東西の優れた思想家を概観したとしても、僕自身に正しい言葉をつなぎ合わせる能力がなかったら? 本当に大志を抱くことと、大志を抱いているようなそぶりをすることの間には、見えづらい境界線があって、その線は月日を重ねるごとに僕の心の中で不規則に変化した。その変化があまりに予測できないものだったので、僕は自分の立ち位置がその線のどちら側なのかわからなくなってしまった。実際に出願の手続きが始まると、僕は最悪のシナリオを思い浮かべるようになった。―僕が本当の意味で尊敬する教授たちに、今までこつこつと積み重ねてきた独学が認められれば、学校の友達にいくら奇異の目で見られようが、うぬぼれていると思われようが、耐えられる。しかし、もし僕は合格レベルに達していない、とオックスフォードに門戸を閉ざされてしまったら? 僕の精神は壊滅的な事態に陥るだろう。―暗く、不安定な心の中で、僕は最悪の事態を想定していた。

ところが、大変驚いたことに、彼らは僕を招き入れてくれた。

合格がわかった瞬間、僕の隣には母がいて、思わず二人で抱き合い、感極まって二人して泣き出してしまった。これほどまでに母に親近感を覚えたのは初めてだった。数時間後、彼女は僕が遥か遠くの地へと旅立ってしまうことに思い至り、巣立つ雛鳥に取り残される親鳥のような翳りの色が、彼女の興奮の上に覆いかぶさった。それから二日ほどして、僕は父親に報告した。というのも、僕の両親はすでに離婚していて、なかなか父親とは連絡が取れない状況だったからだ。父は自分の人生を歩んでいたし、母と距離を置いているのはもちろんのこと、僕にもあまり連絡をくれなかった。僕は時々、彼の部屋にひょっこり顔を出した。そうすると、彼は父親っぽい態度を見せようと躍起になってくれた。そのぎこちなさが可笑しくて、僕はそれを見に行っているようなものだった。僕がオックスフォード大学に合格したことを告げると、彼は抱擁ではなく、「おめでとう」というシンプルな言葉で僕を祝福してくれた。それから間髪入れずに、学費はいくらかかるのかと聞いてきた。僕が金額を答えると、彼はぶつぶつと煮え切らないようなことをつぶやき、「他にどの大学を受けたんだ?」と聞いてきた。この前一緒に食事した時にも、僕が受けた大学のリストを渡していたのだが、僕はもう一度それを口頭で繰り返した。他の大学では人生に精彩を欠く、という僕の気持ちがあからさまに彼に伝わるような言い方で。

幸運にも、父の友人たちがオックスフォードの価値に気づいてくれたらしい。息子がオックスフォードに合格したと言った時の、友人たちの反応があまりにも好感触だったらしく、父は気をよくしていた。そんな父を見ながら、僕は偉大な詩人たちを思い浮かべていた。自分のふさぎ込んだ気持ちと闘いながら、それを力に変えて、世界を泥沼から引っ張り上げてきた詩人たち。彼らの多くが学んだのがオックスフォードだ。それが僕の認識だった。一方で、父の友人たちのオックスフォードのイメージは、「未来のリーダーたちの学び舎」というものだった。父も、彼の友人たちの話に影響を受けていたので、僕はその追い風に乗ることにした。詩人ではなく、「未来のリーダーになれる」路線で、僕は父親に手厚くこびを売るようにアプローチをかけた。その結果、父も母もあちこち個人的なツテを駆けずり回り、普段の彼らでは考えられないような必死さで交渉してくれたようで、なんとか学費の問題は解決した。

実際に夢が現実のものとなり、僕はそのことをリリーに話した。僕たちは二人ともニューヨークに残るものと想定していた。―彼女はバーナード大学に、僕はコロンビア大学に合格していたからで、どちらの大学もニューヨーク市内にあるので、一緒に大学時代を過ごすつもりでいた。それを僕はぶち壊してしまった。でも、僕たち二人の未来まではぶち壊しにしていない、そう思いたかった。

僕は彼女をニューヨークの〈エレファント&キャッスル〉に連れて行き、スコーンケーキと紅茶を挟んで、オックスフォード大学に行くことを伝えた。〈エレファント&キャッスル〉はロンドンの地名から取った名前のレストランで、店内もメニューも英国風だった。そんな雰囲気で話したからか、彼女はさほど驚いた様子を見せなかった。むしろ彼女が自分のことのように喜んでくれたから、僕は感激してしまった。オックスフォードが僕にとってどれほど価値があるのかを彼女はわかってくれている。僕の人生でそこまで僕を理解し、喜怒哀楽をともにしてくれる人は他には誰もいない。


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ハッシュタグ、スコーンケーキ&紅茶←ハッシュタグってカタカナだっけ?爆笑


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「あっちで会えないかな?」と僕は聞いてみた。

「きっと会いに行くわ」と彼女は約束してくれた。僕は僕自身の言葉にはそこまで信頼を置けないけれど、彼女の言うことなら信じられる。リリーはいつでも約束を守るから。たとえ約束を守るためには、世界を背負って時間をねじ曲げる必要があってもね。

遠距離恋愛は大変だということはわかっていた。デジタルなやり取りに嫌悪感を抱いている僕にとっては、ことさらそうだろう。僕たちの関係の下にはしっかりと愛の炎が燃え続けていることを確かめるために、メールやFaceTimeには頼りたくなかったし、お互いの投稿の下に気の利いた甘いコメントをいちいち書くなんてありえなかった。

「僕は君にこうして直接会っている時が、一番君を好きになれるんだ」と僕はリリーに言った。それは真実だった。僕はリリーに手紙を書くことを約束し、彼女がバーナード大学に入学するまでには、つまり僕が2年生になるまでには、一緒にヨーロッパを旅行しようと提案した。僕もなんとか時間を作るから、と。僕は畑にオート麦の種をまくみたいに、いろんな女の子と手広く付き合うつもりはなかった。僕の畑はリリーだけだし、僕のオート麦の種は彼女が全部持っていた。彼女は僕の新しい生活サイクルに完全にはフィットしなかった。ただ、それは今に始まったことではない。彼女は僕の以前の生活スタイルとも呼応していなかったし、まさにそのちぐはぐさこそが、僕たちの関係の美しいところなのだ。お互いの生活がぴったり適合するかどうかに、多くの人がとらわれすぎている気がする。きっと愛は生活のフィット感とは別次元にあるんだ。必要なのは、繋がりを作るために、工夫して生活の方を変えること。僕たちは出会った時から似たような関係だったじゃないか。だったら、きっと今回もできる。

最初は精神的にきつかった。僕は寮の部屋でひとりぽつんと座って、〈デス・キャブ・フォー・キューティー〉というロックバンドの『Transatlanticism - atlantic(大西洋)を越えて』(同名のアルバムではなく、この一曲だけ)を繰り返し聴いていた。



I need you so much closer...(君がこんなにも必要なんだ。僕のそばにいてほしいのに...)

僕はオックスフォードのポストカードの裏に彼女への想いを書き、国際郵便で送った。

I need you so much closer...(君がこんなにも必要なんだ。僕のそばにいてほしいのに...)

僕は彼女の声を聞くために彼女に電話をし、彼女の言葉を聞き、彼女が僕の声を聞いていることに安心感を得ていた。

これは学校が始まって最初の2週間のことだった。それから猛烈に、容赦なく、オックスフォードが僕の生活を乗っ取っていった。

ポストカードに描かれている光景に、僕はずっと憧れていた。あのトレーナーを着た日から、オックスフォードへの好奇心を膨らませていった僕の頭の中には、ずっとこの風景があった。青々とした芝生、学び舎の洗練された大聖堂。ゴシック建築の屋根にはガーゴイルの守護神がいて、開校以来ずっと、古びてはいるが威厳に満ちた鉄の門を見張っている。ブラックウェル書店とボドリアン図書館には、無数の本がぎっしりと並んでいる。天才たちの英知が詰まった本たちは、天才たちに気まぐれに引き抜かれるのをじっと待っている。神が宿っているかのような趣きのあるキャンパス。そんな知識の城塞都市ともいえる大学に、僕はついに足を踏み入れた。しかし、そこはポストカードの中ではなかった。

緑豊かな芝生の上には、ポストカードには写っていなかった人たちがいた。風格のある建物の中は大勢の学生たちでごった返し、図書館の本も手当たり次第に引き抜いていた。古風な門を現代的な学生が次々とくぐり抜け、スマホを耳に当てながら大声で喋ったりしている。そう、僕はそこに生身の人間がいることを考慮に入れていなかったのだ。彼らはコミュニケーションの手段のみならず、思考回路を丸ごとApple社に委託してしまったかのように、懸命にiPhoneに当てた指を動かしていた。

オックスフォードの学生は、他のどの大学の学生よりも洗練されていて、知性に裏打ちされていて、文学に熱中しているのだろう、と僕は勝手に思い込んでいた。

しかし、結局のところ、彼らもまた、どこにでもいる10代と変わらない若者たちだった。

僕は俗世間から逃れたわけではなかった。僕の理想も含めて、俗世間はすっぽりと僕のすべてを飲み込んでいたのだ。たしかに、友達は何人かできた。―親切な人もいたし、寛大な人もいたし、本好きな人もいた。だけど、やっぱり周りには、心が狭くて、群れることを好み、自己顕示欲が強く、自己ブランディングに躍起になっていて、自身のステータスにとらわれがちな、神経質で、感情が不安定で、自己中で、対人関係に政治的な策略を持ち込み、行き当たりばったりで、学問的には見かけ倒しで、会話がつまらないくせに、さりげなく自慢話をする人たちで溢れかえっていた。

言い換えると、夢の場所に辿り着いたと思ったら、そこで僕は苦虫を嚙み潰したような気持ちになってしまったのだ。

大学は厳しい要求を課してきた。自分にはそれをこなせるだけの能力があると思いたかった。詩の授業だけは楽しく受けていたが、他の科目では全力を奮い起こさなければならなかった。授業が終わると、僕は真っ先に教室を出て、寮の部屋に戻り、本を読みたかった。それから夜が更けるまで読書に耽ることができたなら、どれほど幸せだったことか。しかし、隣の部屋のジョンという名の未来の大臣が、僕を飲みに誘ってきた。彼は友人たちを飲みに誘っては、ラガービールを飲みながら、大手を振って熱弁をふるうことを生き甲斐にしているのだ。僕は空気を読んで付いていった。場を白けさせるような人にはなりたくなかった。読書という至福の時間を犠牲にしてまで、僕はアルコールと愛想笑いの祭壇に飛び込んだ。

僕はどんどん寝る時間が遅くなっていった。まるで僕の体内時計がニューヨーク時間に戻ろうとしているかのようだった。僕はリリーにその辛さを正直に話した。ただ、そこは過度に深刻ぶるのではなく、努めてストーリーテリングに徹した。自分の身の回りの出来事について、読み手を惹きつける魅力的なキャラクターに乗せ、語りの推進力を発揮して、面白い物語を語るようにリリーに話した。でも、どうしても語りにどんよりとした暗い影が混じってしまう。それは僕自身の気持ちが乗っていないから? 僕はそれを新入生特有のぴりぴりした緊張感のせいにした。でも、そんな一過性の落ち込みではないことくらい、観察眼の優れたリリーには簡単に見破られたかもしれない。

僕は自分が期待していたほど高みには達していなかった。周りのみんなも、そこまで高みに達しているようには見えなかったが、なぜか彼らはそのことを気にもしていないようだった。

オックスフォード大学への進学が決まった時、僕は祖母に、これからは国際電話ではなく、国内電話で話せることを知らせるために、珍しくプレゼントのお礼以外の手紙を送った。手紙を受け取った祖母から電話があり、いつでも好きな時にウォータールーの私の家にいらっしゃい、と言われた。

「ここはあなたの家からは遠く離れているけど、あなたの家だと思っていいのよ」と彼女は言ってくれた。彼女の発音は、ほとんど磨きがかかった上品なイギリス英語だったが、かすかにアメリカ英語の耳馴染みな響きが、その奥から聞き取れた。

僕は長期の休暇に入ってからロンドンに向かおうと思っていた。しかし、あまりにストレスがかかる生活だったため、オックスフォードの寮に入って3週間後に音を上げ、僕は祖母に電話して、「ちょっと逃げたくなっちゃった。今から行ってもいい?」と聞いた。その日は土曜日だったのだが、祖母は「サタデーナイトは色々忙しいのよね。明日なら空いてるわ」と言った。それで僕は翌日の日曜日の午前中、バスで「都会」へ向かった。ウォータールー駅からテムズ川の南側の土手沿いを少し歩くと、おばあちゃん家のある〈ルーペル・ストリート〉に着くはずだった。僕がロンドンを訪れたのは、これが初めてだったので、何度も道に迷い、同じようなところをぐるぐると回ってしまった。グーグルマップがなければ、おそらく僕はテムズ川に落っこちていただろう。僕はスマホでストリートビューを開き、画面と同じ景色の中、静かな小道に入っていくと、目的地の赤いドアにたどり着いた。約束の時間を15分ほど過ぎていた。インターフォンを押すと、赤いドアが開き、彼女が笑顔で出迎えてくれた。僕の遅刻に気を悪くしてはいないようだった。


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オックスフォード大学は世界ランキング1位らしいです。



ウォータールーのおばあちゃん家をダッシュが訪ねている間、

ピムリコの一室では、エズミーとトムが、ベッドの上でモーニングティーをめぐって会話中なのですが、藍が続きを訳さないから、いつまで経ってもエズミーは飲みたくて仕方ない紅茶を飲めない。可哀想に...


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直接会ってみると、彼女は切手の女王様とは全く違った。強いて言えば、彼女は別の種類の女王様という感じだった。ボヘミアンであることをラプソディー風に表現しているような、いわば派手に着飾った芸術家といった印象を受けた。髪型もスタイリッシュなシャギーヘアーという矛盾めいたスタイルだった。服装は、僕の両親の結婚式で着ていたピンクのペイズリー柄のドレスと同じくらい目を引く、鮮やかな模様の洋服をこの歳になってもなお着ていた。けれど、最も印象的だったのは、彼女がどれだけ僕に似ているかということだった。僕は父にはそれほど似ていないのだが、父を飛び越えて、なぜか祖母とは、不気味なほどそっくりだった。

「あら、まあ」と、ドアを開けた彼女も驚いた表情を見せた。「いらっしゃい。どうぞ遠慮なく上がって」

タウンハウスの中は、いたるところにスピーカーが備え付けられていて、すべての部屋にジョージ・ハリスンの音楽が流れていた。僕は彼女に促されて廊下にバッグを置くと、彼女の後に続いた。彼女は1階と2階をざっと案内し、特にゲストルームは、「あなたが英国にいる間はこの部屋を使っていいわよ」と言って念入りに説明してくれた。リビングに行くと、僕だったら本を並べているだろう棚に、彼女はぎっしりとレコードを保管していた。インテリアはとても今風で、天井からはハンモックのようなカプセル型の椅子がぶら下がっていた。かすかに揺れるその椅子の横に、黄緑色のソファーが置かれている。

ソファーに座ってくつろぐのかなと思ったところ、彼女は僕をキッチンへ連れて行った。年季が入った木製のキッチンテーブルには、遅い朝食が用意されていた。僕たちは紅茶を飲みながら(彼女の紅茶はほんの少しのウィスキーで味付けされていた)、パン菓子や甘いタルトを食べた。食べながら、僕の19年間の人生について大まかに時系列を追って話した。僕の両親の話はどちらからも出なかった。僕は自分のことを話しすぎていると感じ、彼女の方に話を振ると、彼女は一つか二つの事実を明かしてくれた。(彼女は美術関係の仕事をしていて、現時点では特に誰とも付き合っていないということだった。彼女に結婚を迫っている男は何人かいるそうだ。)それから、彼女はもう一度僕の方へ話を押し戻した。僕はオックスフォードについて思っている本心を話してみた。彼女は僕を恩知らずだと叱ったり、自分で困難を乗り越えなさいと𠮟咤激励したりはしなかった。代わりに彼女はこう言ってくれた。「まあ、オックスフォードはあなたに教育の一部分しか与えられないんだから仕方ないわ。残りは私たち家族の役目なのよ」

僕たちは何時間もキッチンで話し込んだ。彼女は僕の話ぶりから、リリーのことが好きだと言った。隣人のジョンに関しては、なんか嫌な感じね、と、こちらも僕の話ぶりから判断した。そうして、最終的に自然と会話が途切れた頃、彼女は言った。「これだけは言わなくちゃね。私はあなたがとても好きよ、ダッシュ。私たちの道がこうして交わってくれて、すごく嬉しいわ」

僕も嬉しかった。感謝の気持ちでいっぱいだった。

いつでもロンドンにおいで、という言葉の招待状を胸に、僕はその日のうちにオックスフォードに戻った。それからも、数週間に一度くらいの頻度で、寮の部屋の壁がどんどん僕に迫ってくるような息苦しさを感じると、僕は祖母を頼ってロンドンへ向かった。祖母は彼女の友人たちに僕を紹介してくれた。美術展や、ロイヤル・アルバート・ホールでのコンサートや、ウェストエンドの劇場にも連れて行ってくれた。彼女は、宝石を意味する「ジェム」と呼んで、と僕に言った。彼女の友人たちも彼女をジェムと呼んでいたし、僕は彼女に面と向かって「おばあちゃん」と呼んだこともなかったので、すんなりと祖母をジェムと呼べた。彼女は友人や知人に会うたびに、いつも僕のことを自分の孫だと言って紹介していたが、カールという男性に会うまでは、そのことを何とも思わなかった。彼女の友人の一人で、画家だというカールは僕にこう言った。「君が彼女の孫だということが、どれほど大きな意味のあることか理解した方がいい。俺は長年にわたって彼女を見てきたんだ。ジェムは年を取らないと思っていた。なのに孫がいたとはな」

ジェムと僕は、僕の父親の話は一度もしなかったし、僕は父に、たびたび祖母の家を訪れていることを言わなかった。僕の母親が感謝祭の休暇を利用して、僕の寮を訪ねて来た。(母は休暇だったが、オックスフォードに感謝祭の休暇はなかった。)母はロンドンに行きたいと言ったが、僕は学校があり、ジェムに相談すると、彼女は快く母をもてなしてくれた。いわば嫁と姑の関係なのだが、奇跡的に意気投合したようだった。(「前からあなたの母親のことは好きだったのよ。ただ、彼女の男の好みはどうかと思うけどね」という皮肉を利かせた名言をジェムは残した。)感謝祭の前から、ジェムには「クリスマスはとにかくここにいて、家族と過ごさなければならないのよ」と言われていた。僕は、とにかくここにいなければならないんだな、と思った。ジェムに言われたら、何でも受け入れてしまうような感覚だった。あれだけ祖母の悪口めいたことを言っていた母も、ジェムに丸め込まれてしまったのだから、母もその感覚を味わったのだろう。母はクリスマスには旅行に出かけることが多かったのだが、今年は家族と過ごすことにしたらしい。

リリーは残念がっていた。クリスマスにニューヨークに帰れなくなったことを、メールやメッセージのような文字ではなく、肉声で伝えたくて、僕は彼女に電話した。彼女は残念な気持ちを隠そうともせず、彼女の肉声から、本気で落胆しているのが伝わってきた。―僕たちは遠く離れていても、お互いに正直でいられている。信頼関係をちゃんと築けている。そのことに僕はじんわりと感動すら覚え、君の元へ飛んで行くよ、と申し出そうになった。しかし彼女が、「私も家族と一緒に過ごさないといけないから仕方ないわね」と言ったから、僕は反論できなくなってしまった。

僕は彼女がたまらなく恋しかった。その気持ちと僕がクリスマスにここに残るという事実は、矛盾してはいなかった。彼女にそのことを伝え、僕はここでしっかりと自分の足場を築く必要があることを伝えた。オックスフォードは僕の魂をボコボコに叩きのめしていたし、ロンドンがその傷を癒してくれる唯一の慰めだった。ニューヨークに帰ればリリーに会える。ただ、ニューヨークに帰ると、他にもたくさん、やらなければならない義務が僕にのしかかってくる。彼女は理解していると言ってくれた。

数日後、手作りの〈アドベントカレンダー〉が郵便で寮に届いた。彼女はここに来る代わりに、この作品を通して僕を慰めようと、彼女なりに考えてくれたんだ。

同じ寮のジョンとオックスフォードの同期たちは、そのアドベントカレンダーを見て、「かわいい」と言った。―まるでティーカップに描かれている動物の絵を見た時のような、棒読みの形容詞だと感じた。―ジョンの仲間たちは、勉強なんかそっちのけで毎晩のように集まっては騒いでいた。その中心的な役割を担うカップルが、嫌みったらしいアズラ王女と抜け目のないオリヴィエ王子だった。彼らは、影の薄い僕なんかよりもずっと、担当教官に目をかけられていた。

彼らはリリーの作品をおとしめ、僕の気分を台無しにしようとしたのだが、僕はそんな手には乗らなかった。(とはいえ、〈添い寝券〉だけは彼らに見つからないように、靴下を入れている引き出しの奥の奥にしまい込んだ。)僕は8歳の頃にジェムが初めて送ってくれた小包を思い出し、それを再現してリリーに送ることにした。キャドバリーのチョコレート、おもちゃのローリー(トラック)、僕が子供の頃から好きだった文学作品(表紙は英国仕立て)を何冊か、そしてオックスフォードの紋章が入ったトレーナーを買ってきて入れた。理由のない贈り物ではなく、理由のある贈り物。僕はそれを茶色の包装紙で包んで、十字に紐で結び、海を越えて送った。

それから、手厳しい試験期間に突入した。僕がこれまでに経験した中で最も難しい試験の連続だった。試験中、解答用紙に言うことを聞かせるために、僕は目に力を込めて睨み付けていなければならなかった。そうすると目が乾き、僕はまばたきをした。またじっと試験用紙を見つめ、またまばたき。何度も繰り返しまばたきをしていたから、試験が終わる頃には、まぶたがくっつき、瞳孔が塞がってしまったのではないかと心配になった。僕は内臓をえぐり取られたような、げっそりとした顔をしていたのだろう。試験が終わると、真っ先にジェムの家を訪れた僕を見るなり、玄関先で彼女は「あらまあ、可哀想に」と言った。

「数週間は寝込む必要があると思う」と僕は彼女に言った。「年が明けたら、元日の午前0時に起こしてくれない? それまでずっと寝かせてくれないかな?」

「とりあえず4時間、昼寝しなさいな」と彼女は答えた。「ちゃんと計画を立てて起こしてあげるから」

ぴったり4時間後、ドアをノックする音が聞こえた。僕はまだ眠すぎて、「どうぞ」と声に出して言ったのか、そう言おうと思っていただけなのか定かではないが、いずれにせよ、彼女は入ってきた。

彼女は僕の枕元で、「水晶玉で調べてみたわ」と言った。(彼女はスマートフォンのことを水晶玉と呼んでいる。)「今のあなたは気の抜けたシャンパンなのよ。そんなあなたに気力を注入するイベントを見つけたわ。きっと楽しいわよ」

「それって知らない人たちがいっぱい来る?」と僕はうめくように聞いた。

「もちろんよ」

「いやだよーーーー」と僕は、顔を覆い隠していた枕に向かって嘆いた。

「ダッシュ」と祖母はなるべく声を抑えて、諭すように言った。「このままでは、あなたは中途半端な僧侶になってしまうわ。ふさぎ込んでちゃダメ。今夜、あなたはめかし込んで伊達男になるの。私は強情な貴婦人になって、コンビを組みましょう。田舎で起こる数々の事件を解決する代わりに、文学の謎を解くのよ。きっとそれが気付け薬になって、あなたの傷をすっかり癒すわ」

疲れ果てて、眠くて、世界が歪んで見える僕にも、それは僕を安らぎへと誘うせせらぎのように、かなり良い計画のように聞こえた。

「なんかミセス・バジルみたいだね」と僕は思わずつぶやいていた。ミセス・バジルというのはリリーの大叔母さんで、彼女もまた、ここぞとばかりに気の利いた言い回しをぶつけてくるのだ。

「グルーヴィーで、イカしてるわね」とジェムが返した。その言葉に、一瞬かぶって見えたミセス・バジルの残像が払拭された。そこまで高度な若者言葉を、ミセス・バジルは彼女の全盛期にさえ使っていなかっただろうから。「さあ、支度して出かけましょう」

僕は、わかったよ、とうめき声を上げながら、枕の下からちょっと顔を出し薄目を開けた。祖母が頬を紅潮させ、これから挑もうとしている冒険に心躍らせているのが見て取れた。普段は、代わりに大好きなエリック・クラプトンを聴くことで、デヴィッド・シューリスの演技を見ることで、あるいは、ダミアン・ハーストや保守党の悪口を言うことで紛らわしている冒険心がうずくのだろう。

「そう来なくっちゃ!」と彼女は歌うように言った。「私は身支度をしてくるわ。たくさん宝石を身につけるわよ」

すぐに、彼女のお気に入りのアルバム『Red Hot + Blue』が流れてきて、室内の空気を音楽が埋め尽くした。僕はベッドから出て、リリーの〈アドベントカレンダー〉の前まで歩いていった。寮から持ってきた荷物の中で、これだけは眠りに落ちる前に取り出しておいたのだ。今日の日付が書かれた小窓を見て、僕は開けるのを躊躇した。開けないと、中に何が入っているのかわからない。これがアドベントカレンダーの欠点でもある。小窓に入るくらいの小さな物で、リリーの愛情が詰まった何かが入っている。そのご褒美にありつく前に、それに見合った良い行いを、今日僕はしただろうか? まだ夕方だし、ジェムと出かけて、帰ってきてからでも開けられると思った。

次に僕はトイレに行き、(a)電気をつけ、(b)鏡を見る、という致命的なミスを犯した。なんとなく頭ではわかっていたが、実際に目で見ると、その衝撃は半端なかった。オックスフォードで理髪店を探し回るのも億劫だったし、髪を切る時間とか、そういう隙間時間を見つけるのが、とにかく僕は苦手なのだ。しかし、こんなことになっているとは思わなかった。何かの胞子が大量に増幅したみたいなぼさぼさの髪に、伸び放題のひげ。イギリスの映画『輝ける若者たち』の世界から、一気に『ロビンソン・クルーソー』の未開の地へと流れ着いたみたいだ。

「髭を剃る道具ある?」と僕はジェムに呼びかけた。

「どうせだったら、私が髪を切ってお洒落な髪型にしてあげる。久々に腕が鳴るわ!」という声が返ってきた。(こうして彼女が高級サロンで、3年間美容師として働いていたことを知った。)

2時間後、僕は以前の自分にかなり戻っていた。大学に入り、自分をだましだまし、ずぶ濡れになった犬みたいに、がむしゃらに頑張ってきたけれど、風貌はすっかり変わってしまった。それが何とか前みたいに戻ったようで、清々しかった。ジェムのワードローブには、男性用の高級スーツも何着か入っていて、僕の体に見事にぴったりフィットした。(こうして彼女が老舗百貨店〈Liberty〉のブティックで、2年前からコンサルタントとして働いていることを知った。)彼女はシルクハットまで保管していた。かつて付き合っていた紳士が置いていった物らしい。帽子と一緒に彼女まで置き去りにするなんて、到底紳士とは呼べないが。

僕は一旦自分の部屋に戻って、ビシッとスーツを着込んでから、再びリビングに行ってみると、ジェムも着替えを終えていた。彼女は僕のスーツと系統は似ていて、色味をさらに派手にした感じのドレスを身にまとっていた。

「これでお似合いのコンビね?」と彼女が微笑んで言った。

「確かに、エレガントを超えてますね」と僕は彼女を褒めちぎった。

大学がどんよりと暗い葬送曲だとしたら、これはソナタの第三楽章辺りの華やかな音楽だと思った。ジェムが玄関の扉を開けると、馬車が僕たちを待ち構えているのではないか、と半分期待してしまった。実際には、僕たちは地下鉄に乗って、一般の人たちから、気味の悪いものを見るかのような視線を大いに受けることになった。でもそれは、不思議と気分が良かった。リリーに送って見せてあげようと、僕たちは地下鉄内で派手な衣装を着た自分たちの写真を撮ったのだが、地下鉄内は電波が届かず、すぐには送れなかった。ジェムがワードローブから、リリーのためにも同種のドレスを引っ張り出してくれればいいな、と想像した。そして三人で並んで街を練り歩くんだ。実現しそうな予感もあった。

僕たちはメアリルボーンで降りて、〈ドーント・ブックス〉まで王室のパレードのごとく歩いた。僕は〈ウォーターストーン・ピカデリー〉なら、イギリスに来てから何度も行っていたが、同じ本屋でも〈ドーント・ブックス〉は趣きが違った。〈ウォーターストーン〉は、100年前のジャズの時代から現代に出航してきた大型船を思わせた。一方、〈ドーント〉は、さらに数百年時代を遡った感じの概観で、ジェーン・オースティンやチャールズ・ディケンズがふらっと立ち寄って、小説について熱く議論を交わしたり、あるいは一人でじっくりと小説の構想を練るような場所に見えた。

「今夜は誰の朗読会があるの?」と僕はその書店に入る前に聞いた。まだどんなイベントなのかわかっていなかった。

「朗読会ではないわ。本のイベントではあるんだけどね」とジェムは答えた。「あらまあ、あれを見て」

僕たちから数歩離れたところに、首からリードを引きずってはいるが、飼い主の見当たらない猫が歩いていた。

ジェムが身をかがめて、猫に名札が付いているか確認している。僕は聞いた。「イギリスでは、猫にリードをつけるのが当たり前なの?」

「他の国と変わらないわよ。飼い主によるわね」ジェムは首を横に振った。「メスみたいだけど、名前も住所も何も書かれてないわ。なんて不用心な飼い主なのかしら。もしかしたら、飼い主は本屋さんの中かもしれないわね。―外で待たせておくのはかわいそうだから、彼女も中に入れてあげましょう」

僕たちが店内に入ると、すでに人だかりができていて、今夜のイベントはもう始まっている様子だった。いっせいにすべての目がこちらを向いた。―猫を連れていたせい?―ジェムが注目を浴びて気を良くしたのか、そのチャンスを捉え、大げさに貴婦人を気取った。「遅れてしまったかしら?」僕も彼女に合わせ、おどけて執事役を買って出た。「いいえ、そんなことございませんよ。世界はいつまでも、あなた様を待っておられます」

恐怖の試験期間が終わり、自分は本当にオックスフォードに向いているのか、と思い悩んでいた暗雲立ち込める日々を抜け出て、開放的になっていたのかもしれない。僕は空想から降って湧いたようなやり取りに喜びを感じ、有頂天だった。自分がこれからここで何をしようとしているのかはまだわかっていなかったが、それが何であれ、寮の部屋でストレスに押し潰されそうになりながら、神経質に夜を過ごすよりはずっとましだろう、と本能的にわかった。正直、この瞬間が最高で、これ以上楽しい事が待っているとは思っていなかったけど。―観客の反応を見ようと、群衆にざっと目を走らせる。なぜかリリーの顔があって、視線が合った。僕を見ていた。

僕は最初こう思った。こんなことはありえない。僕はまだ昼寝中に違いない。

次にこう思った。これはジェムが仕込んだサプライズに違いない。彼女はマジシャンなんだ。

もし夢ではないなら、仕組まれた計画だろう。でも、もしそうだとしたら、なぜリリーはあんなに混乱した顔でこちらを見ているのだろう?

僕は彼女の元へ駆け寄ると、感情のままに彼女を抱きしめた。

「信じられないよ!」と僕は声を上げた。「君にこんなところで会えるなんて!」

「そりゃ私はここにいるわよ」と彼女は(肯定しながらも)少し小首をかしげ、僕を抱きしめ返した。そして、一旦二人の体を離したところで、彼女は付け加えた。「あなたはひげを生やしてるのかと思ってたけど? 髪も長かったでしょ?」

ジェムの声が肩越しに聞こえた。「誰だったかしら? 私も歳ね。またど忘れしたみたい」

僕はジェムに微笑みかけた。「いつの間にこんなことを? どうやって僕に知らせずに、リリーをここへ呼んだの?」

ジェムが目を大きく見開いた。「この子がリリー!? あらまあ、どうりで思い出せないわけね」

「私は自分で来たのよ」とリリーが言った。「この人はどなた?」

「僕のおばあちゃんだよ!」と僕は彼女に言った。「ジェム、この子がリリーだよ。リリー、こちらがジェム。こんなことってあるんだな。―僕が世界で一番好きな二人が、こうして一つの場所に集まってるなんて、凄すぎる!」

満面の笑みを浮かべているのは僕だけで、二人とも、どこかぎこちなく微笑んでいる。

僕の足に何かが当たる感触があってビクッとしたけれど、足元を見ると、単に猫が頭を擦り付けているだけだった。

「この猫はあなたの?」とリリーが聞いた。

「そこで拾ったんだよ」と僕は言った。「飼い主がこの中にいないかと思って。どなたか、この猫の飼い主はいませんか?」

しかし、誰も名乗り出て、リードをつかもうとする者はいなかった。さっきまで好奇の眼差しで見守っていた人たちがもう飽きたのか、みんなじれったいような表情を浮かべている。そこにもう一人、見知った顔が視界に入ってきた。―リリーのいとこ、僕に対していつもけんか腰のマークだ。そういえば、彼はロンドンに引っ越してきていたんだ。リリーから聞いていたのに忘れていた。

「こいつも俺たちのチームに入るとか、ないよな?」とマークが聞いた。相変わらず、友好的だこと。

「私たちはあなたのチームにぜひとも入りたいわ、リリー」とジェムが、マークのつっけんどんな発言をぴしゃりと否定するように言った。

「ああ」とリリーが戸惑ったように声を上げた。

僕は手を伸ばし、彼女の手を取った。

それでも彼女が決断を下すまでには、もう少し時間がかかった。




3

リリー


12月21日

もちろん、ダッシュには私のチームに入ってもらいたいわ。彼とチームを組むために、ロンドンまで来たんだし。

ただ、このジェムっていう人も一緒?

それはどうだろ。

ダッシュがこうして心から好きだって言える家族ができたんだから、私も喜ぶべきなんでしょうね。今までは、彼が愛する人(ママ)と、義務感からであっても彼が許容している人(パパ)しか、彼には家族がいないと思っていたから。でも、彼がおばあちゃんとこんなにも仲良くしている姿を見せつけられると、私の中のダッシュに対する見方が、がらっと180度変わっちゃう。ダッシュは家族を避けて、独りでいたがる人なのよ。彼はそういう人で、私の認識では、だからこそ、彼は子供の頃から本の世界にのめり込んでいったの。本は彼にとって、家族からの逃避場所だったのよ。

「今日のあなたはとてもお洒落ね」と私はダッシュに言った。彼の貴族みたいな服装と、さっぱり剃り落としたひげに感心しながらも、あのむさ苦しい首筋が恋しかった。私は今ではすっかり清潔になってしまった首筋を見つめた。

ダッシュは私に向かってシルクハットを傾けた。「どうもありがとう」

ジェムが私を抱き寄せるように腕を回してきた。今出会ったばかりなのに、昔からの知り合いのような馴れ馴れしさだ。「あなたはありえないくらい可愛らしいわね。お肌なんてまだピチピチしてるじゃない」と彼女が私を間近で見て言った。

無理...無理...私には無理よ。こんなの耐えられない! 私はもう、ダッシュの最愛の祖母に対して、どこまでも深い底なしの嫌悪感に陥ってしまった。昔はロックバンドの熱狂的な追っかけで、今では文学の謎解きゲームに孫を引っ張ってきちゃうような人だったら、さぞかしみんなに好かれるんでしょうね。そんな素敵なおばあちゃんを嫌うような、不親切で、いじわるな人って誰? おそらく私ね。

あと、猫に首ひもをつけてまで、本屋に引っ張ってくる人って誰よ?

「ここにいたのね、モリアーティ!」とジュリアが言った。手がかりのカードを配った後、一旦裏手に下がっていた彼女が、私たちの方へ駆け寄ってくる。彼女が猫を抱き上げると、猫はほったらかしにされたことを怒ったのか、抗議の声を上げてジュリアの顔に猫パンチを食らわせた。それでもジュリアは笑顔のまま、猫の頭を自分の首元にすっぽりと収めるように、大きな愛情で包み込んだ。「思い、思われ、ふり、ふられ」という感じの関係は、猫ならではね。「彼はこの書店のオーナーの猫なのよ。1時間前に私はちゃんとオフィスに置いてきたんだけど、彼はどうやって抜け出したのかしら。あ、こう見えて彼はオスよ」

「窓が開いてたんじゃない?」と私は指摘した。

「そうかもね」と彼女は言った。自分のミスの重大さに気づいていないようだ。もし彼が窓の隙間からするりと外に出て、その後、車にでもひかれてしまったら。彼女の不注意が、モリアーティにとって、カタストロフィー的な大惨事になっていた可能性だってあるのに。猫だけに、キャットストロフィーって言った方がいいかしら。

「なぜ彼にひもなんてつけてるの?」と私は聞いた。

「ひも?」とジュリアが困惑した表情を浮かべた。

「リードだよ」とマークが言った。「イギリスでは首ひものことをリードって呼ぶんだ」

首ひもをリード? それこそ、ありえないくらい可愛らしい呼び名じゃない!

「私が彼を散歩に連れて行った後に、外し忘れたんだと思う」とジュリアは言った。またしても、自分の過ちに気づいていない様子だ。彼はロンドンの路上で自活して、一人で生きていかなければならなかったかもしれないのよ。そうなったら、首ひもが邪魔でしょ。どこかに引っかかって、その拍子に怪我をするかもしれないし、他にもいろんな危険が待ってるわ。人間たちよ。私には理解できない人たちだっているの。体を毛で覆われた動物のことなんて何とも思ってない人たちが、外にはたくさんいるんだから。

「彼はこの本屋さんの中で暮らす家猫なのかしら?」とジェムが聞いた。彼女がモリアーティを撫でようと身を乗り出し手を伸ばすと、モリアーティはその手をさっとかわし、ジェムにも猫パンチを食らわせた。私はこのモリアーティと気が合いそうで、この猫を好きになり始めた。

「彼はうちの従業員の中で一番優秀なのよ」とジュリアが言った。「ネズミを追っ払ってくれるし、彼がいるとオーナーの機嫌もいいのよ」

マークが言った。「チーム・ストランドは4人ってことだな? さっそく謎を解きに街に繰り出そう」

私はまだ煮え切らなかった。追い打ちをかけるように、ジェムが言った。「この文学の謎解きイベントについて読んで時、私は興奮したわ。これはまさしくダッシュが望んでいることだって思ったの」それを聞いて、ますます不快感が増す。

待って。ジェムはダッシュがここに来たのは、彼女のアイデアだと思ってるの?

「アドベントカレンダーの今日の小窓は開けた?」と私はダッシュに聞いてみた。

「まだだよ」と彼は陽気な声で言った。

その小窓には、彼をここへ導くメッセージが入っている。彼がここに来たのは、私のメッセージを見たからではなく、ジェムが彼を連れてきたから? 私からの今日のギフトをおろそかにしておいて、彼は全く気にもしていない様子だ。

無理...無理...私には無理よ。こんなの耐えられない! 私はどうしようもなく、嫉妬と怒りに駆られてしまった。海を渡って何千キロも旅してきて、犬の散歩の仕事を、犬があまり好きではない兄に任せてきて、そこまでして私はダッシュをこの文学の冒険に誘ったっていうのに。それがジェムのアイデアだと思われてるなんて、ありえない!

不愉快な気分が表情に出そうになって、私は慌てて、英国の偉大な女性パン職人メアリー・ベリーが焼いたチョコレートケーキにかぶりつく自分を想像した。うっとり表情がほころんで安心した。ダッシュはとても幸せそうな顔をしている。私はそれを台無しにしたくはなかった。

彼の笑顔を台無しにしたのは、私ではなかった。さっきからダッシュに気づかれないかと心配していたカップルが、彼らの方から、私たちのグループに挨拶に来てしまったのよ。

「ダッシュのだんなじゃないか! おいおい、今日はどうしちゃったんだよ。そんな粋なスーツできめちゃって」とダッシュのクラスメイトが言った。そういえばダッシュは、オリヴィエに「だんな」と呼ばれるたびにゾクゾクッと寒気がするんだって愚痴っていた。ダッシュが言うには、彼は単に英国の貴族ぶりたいから、アメリカ人の耳にはかっこよく聞こえるだろうと思って、昔ながらのスラングで彼を呼んでいるらしい。

ダッシュはあからさまには顔をしかめなかったけれど、眉間にしわを寄せた。彼が不愉快な時、そうなることを私は知っている。厳格に紅茶しか飲まないだんなが、緑茶を出された時にかすかに嫌悪感を示す、あの感じね。

「やあ、オリヴィエ」とダッシュが言った。「こんにちは、アズラ」彼の声は少し重く陰っている。彼は手ぶりで私とジェムを彼らに紹介した。「この子が僕のガールフレンドのリリー。そして、僕のおばあちゃんのジェム」

「それから俺が、リリーのいとこのマーク」と、マークが自分で付け加えた。「リリーの親戚の中では、俺が一番ダッシュと仲がいいんです」

もちろん、そんなことはない。ダッシュをけなしたり、困らせたりするのは兄のラングストンが得意としていることだけど、ラングストンの手が空いていない時は、マークがその役を率先して買って出る。入れ代わり立ち代わりいじめられて、ダッシュもかわいそうだとは思うけど、なんとなく、ダッシュはそれを期待している節もある。なんか、彼らがダッシュに優しく接すると、がっかりしている時もあるから。ラングストンとマークは、ダッシュにとって、いわば男兄弟みたいな関係なのよ。ダッシュは一人っ子だし、兄弟を持ちたいと思ったこともなかったでしょうけど。そんな感じの関係で、わりとうまくいってるみたいだから、私はなるべく関わらないようにしてるの。

ダッシュはマークを無視して、ジェムに言った。「オリヴィエとアズラは〈ブレーズノーズ〉で一緒の、僕のクラスメイトなんだ」

「まあ、凄い偶然!」とジェムが言った。「あなたたちも〈ドーント・ブックス愛書家チャレンジカップ〉に参加するの?」

「はい、参加します」とアズラは言った。

「そして優勝を狙ってます」とオリヴィエが付け加えた。

「相変わらずの負けず嫌いだな、オリヴィエ」とダッシュが言った。

「愛書家っていう穏やかそうな名前がついてるのに、こんなにも闘志あふれるイベントだったとはな」マークはそう言い放つと、オリヴィエとアズラを見て、うなずいた。「もちろん、チーム・ストランドがお前たちをぶっ潰す」

「チーム・ブレーズノーズはそんな言葉にびびったりはしない」とオリヴィエが返した。

私は視線を感じ、ふと見ると、アズラが私を見つめていた。彼女はあえて努力をしなくても、おしゃれであか抜けている感じがして、私は怖気づいてしまう。生まれながらにして彼女は、私よりもいけてるように思えてくる。彼女たちのチームに負けるのは仕方ないかな。私が自分でもよくわからない理由で弱気になっていると、彼女が私に向かって言った。「あなたって...リリー? 犬の手芸品を作ってる?」

「はい!」と私は言った。彼女に好印象を与えようとして、逆に声が上擦ってしまった。

アズラは言った。「私の妹があなたの大ファンで、〈リリー・ドッグクラフト〉のページをよく見てるのよ。私があなたに会ったって言っても、きっと彼女は信じてくれないわ。一緒に写真を撮ってもいいかしら?」

「もちろん!」と私は言った。

彼女は私の横に並ぶと、片手を伸ばしてスマホをかざした。「私は妹の誕生日に、〈リリー・ドッグクラフト〉のレインコートを買ってあげたの。彼女の欲しいものリストの第1位がそれだったのよ」

「ああ、あれね! 私のアイデアで、レインコートの裏地におやつ用のポケットと、うんち袋を入れるポケットを付けたのよ。そうすれば、雨に濡れないでしょ」普通のレインコートより20ドル高いけど、買う価値は十分にあるわ、というのが私の意見。

「たしかに」とアズラは言った。「あのピンクはいい色ね」

「あれは全ての色の中で一番いい色ですよね! 私はレインウェア用の生地を専門に扱ってる問屋さんから生地を仕入れてるの。ピンクにも色々あるんだけど、私の細かい注文に合わせて、あの色味を出してくれたのよ。私は凄く誇りに思ってるわ」

「妹も凄く気に入ってくれたわ」アズラはそう言うと、ダッシュの方を向いた。彼を見る彼女の眼差しには、新たに芽生えた尊敬のような感情が浮かんでいる。「どうしてあなたは、ガールフレンドが有名人だって言ってくれなかったの?」

オリヴィエが言った。「正直に言うと、ダッシュがニューヨークにガールフレンドを残してきた、という話自体信じてなかった」

マークが言った。「正直に言うと、ニューヨークにいる彼女の家族も大体そんな感じで、いまだに信じられずにいる」

ダッシュが吹き出すように笑った。やっぱりどこか嬉しそうだ。マークや私の兄に侮辱されても、彼は自分の家にいるような居心地の良さを感じているみたい。自分の家以上かもしれないわね。ここは本屋さんだから、ダッシュが一番本領を発揮できる場所だし、たとえ笑いのネタにされてからかわれても、彼はなんだか満ち足りて輝いている。

私は両腕を広げ、ダッシュに抱きついた。彼を安心させるように、同時に彼を誇りに思いながら、私は言った。「私の家族はあなたを慕ってるわ」

ダッシュは言った。「君の家族は人数が多いからね。たとえ10%の人たちでも好きになってくれれば、僕自身の家族で僕を好きだっていう人よりも、人数的に多くなっちゃうよ」

「私は家族の中でも、あなたを好む派よ」とジェムがダッシュに言った。

「だから僕はあなたを頼ってるんですよ」とダッシュが返した。

「アメリカ人同士の会話だな」とオリヴィエは軽蔑を込めて吐き捨てた。

「俺はアメリカ人だけど、ダッシュに大した愛情はないよ」とマークがオリヴィエに向かって、確約するように言った。

突然、モリアーティがジュリアの腕から飛び出し、書店の正面玄関に向かって走り出した。それを見て私はとっさに駆け出し、猫を追いかけてお客さんたちの間を縫うように走り抜けた。ダッシュは書店での振る舞い方や、私の親戚の扱い方を心得ている。一方、私は飼い主に無断で遠出しようとする動物たちの扱い方を心得ている。モリアーティが開け放たれた正面玄関の隙間から滑り出ようとする間一髪のところで、私はシュッと腕を伸ばし、彼を拾い上げた。

「惜しかったわね。あなたのチャレンジ精神は認めるわ」と私はモリアーティに言った。彼は体をくねらせて私の腕から逃れようとする。ここに私がいたのが運の尽きだったみたいね。私はこういうことで生計を立てている、この道のプロなのよ。私は彼を抱いたままドアを蹴って閉めると、ジュリアに言った。「モリアーティを安全なオフィスの中に戻してあげてくれない? それから、この首ひもは外してあげて。っていうか、リードだっけ?」ジュリアに小言は言いたくなかったけれど、どうしても言わずにはいられなかった。「散歩に連れていかない時は、本当にリードは外しておいてあげて。そうしないと、何かに引っかかって怪我しちゃうでしょ」

「そうするわ」とジュリアは言った。せっかく知恵を授けてあげたのに、私のアドバイスには全く関心がないような口ぶりだった。彼女は私の腕からモリアーティを奪い取ると、声を張って言った。「私は彼をオフィスに戻してきます。さあ、チーム・ストランドとチーム・ブレーズノーズのみなさん、―謎解きの開始よ!」

彼女は猫を連れて行ってしまった。ジェムが私に言った。「彼女にペットに関するアドバイスなんて必要ないんじゃないかしら、お嬢さん。猫が一人でその辺をぶらつきたいなら、そうさせてあげればいいのよ!」

うーっ。

私はペットケアに関しては誇りを持ってやっているから、そこに異議を唱えられるというのは、かなりこたえる。ダッシュはそのことを知っているから、私がジェムに言い返す前に、話題を逸らしてくれた。―「世の中にはね、動物について教育しなくちゃいけない、どうしようもない人たちだっているのよ!」そう口火を切って反撃に出る寸前だったので、助かった。―「そうだ! 最初のヒントなんだけど、何かピンと来た人いる?」ダッシュはそう言うと、声に出してそれを読み上げた。


ヒースの近く

水浴びをする人が池を見つける場所

水の中に名前が書かれた者が眠る


マークが「簡単すぎるな」と言っていたことを思い出し、私は彼の方を向いた。さっそく手がかりを解読してくれると期待したけれど、彼は首を横に振った。「俺はこれについて内部情報を知っている。ただ、いきなり俺が言ってしまったらつまらない。ここは一つ、ブレーズノーズの博士くんの腕試しと行こうじゃないか。スマホでずるはするなよ」

ダッシュは言った。「ずるなんかしないさ。それに、僕が博士号を取るにはあと6年は大学に通わなきゃいけないんだ。そこは、6年後の博士と呼んでほしいな。―水の中に名前が書かれた者が眠る。この最後の言葉は、詩人のキーツの墓石に刻まれている言葉だよ。遺言でキーツ自身がそう彫るように望んだんだ。つまりこれは...叙事詩として読むべきじゃないかな」

「あなた天才じゃない、ダッシュ!」とジェムが言った。彼女の横を、本をどっさり抱えたお客さんがレジの方へ通り過ぎていく。「ねぇ、彼はオックスフォードに通ってるのよ!」とジェムが、イベントには興味がなさそうなそのお客さんに声をかけた。それから彼女は、謎解きを楽しむように、ぶつぶつと独り言を言い始めた。「キーツ...キーツ...ヒース...水浴び...池」彼女は一瞬黙り込み、そして言い放った。「わかったわ! 最初の手がかりは、おそらくハムステッド・ヒースのことよ。近くにキーツが住んでいた家があるの。今はキーツ博物館になってるわ。そして、ヒースには水浴びができる池があるのよ!」

あなた様こそ天才でございます」とダッシュが彼女に言った。

「博物館のすぐ近く、角を曲がったところにすっごく美味しいインド料理店もあるのよ。あそこのドーサが無性に食べたくなってきたわ。あなたも好きでしょ?」とジェムが言った。

「もちろんでございます。そこまで気が回るなんて、僕なんかよりよっぽど天才じゃないですか」とダッシュが追い打ちをかける。

私はすっかり食欲が失せてしまった。私はインド料理が嫌いなのよ。少なくとも、息の合ったコンビのような関係を見せつけられている今日は、食べたくない。

私たちが書店を出ようとしたところ、オリヴィエとアズラが正面玄関に向かって私たちの横をさっそうと通り過ぎていった。オリヴィエが扉を開けながら、ダッシュに声をかけた。「優勝者のお立ち台から、手を振ってやるよ、だんな」

ダッシュは人差し指と中指を横に振って、彼の発言を否定した。オリヴィエはそれを見て、笑いながら書店を後にした。

「地下鉄? それともタクシーで行くか?」とマークがチーム・ストランドの面々に聞いた。

「地下鉄だろ」とダッシュが言った。

「タクシーで行っちゃおうぜ」とマークが返す。

私たちは外に出た。雨が降り始めていたけれど、マークが手を旗のように振って、すぐにタクシーを停めてくれた。私がロンドンのタクシーに乗るのは初めてだったけど、後部座席が広々としていて、凄く気に入ったわ! 4人全員が後部座席に収まり、2人ずつ向かい合って座れるようになっていた。マークと私が並んで座って、その向かい側にダッシュとジェムが座った。

「どこまでっ?」と運転手さんが聞いた。彼は『メリー・ポピンズ』に出てくるような、昔ながらの東ロンドンの訛りで喋った。『メリー・ポピンズ』は大好きな映画だから、それを聞いて私はとても興奮したわ。

マークが彼に行き先の住所を伝えている。私は精一杯メリー・ポピンズの真似をして、「お願いしやっす。タクシーのおやっさん」と東ロンドンのアクセントで付け加えた。

ジェムが言った。「ここではそういう言葉遣いは嫌われてるのよ、リリーちゃん。そのアクセントはやめなさい」

私は顔が真っ赤になって、急に恥ずかしくなった。運転手さんを嫌な気持ちにさせるつもりなんてなかったのに。

ジェムを嫌いになるつもりもなかったんだけど、嫌いになっちゃった。私はここに初めてやって来た観光客なのよ。少しくらい、はしゃいだっていいじゃない? そんな私を𠮟りつけるなんて。

マークが手に持っていた鞄のチャックを開けた。「ジュリアが、これをチームのみんなに配るようにって」彼は鞄から〈ドーント・ブックス〉のロゴが入ったノートとペンを取り出した。「これにクリスマスの神父様へ手紙を書くんだってさ」

「その手紙を暖炉の炎で燃やして、煙突から吹き出す煙に乗せて届けるのね?」とジェムが聞いた。「私の好きな英国式の儀式の一つなのよ」

彼女の口から吹き出すアイデアを全部、暖炉にくべて燃やしてやりたい気持ちだった。

こんないじわるなことを思っているようだと、今年はクリスマスツリーの下に私へのプレゼントはないでしょうね。私はボーイフレンドのおばあちゃんに腹を立てているような、悪い子だった。あんなに高い飛行機代を払ってまで、海を飛び越えてきたことを本気で後悔していた。私にはサンタさんからプレゼントをもらう資格はないわね。

「僕はサンタに手紙なんて書いたことないよ」とダッシュが言った。

マークはダッシュにノートをぽいっと投げると、言った。「今初めて書けばいいだろ」


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「ハムステッドヒースの池」の近くには、〈キーツ・ハウス〉という詩人のキーツが住んでいた家があるみたいです。(ジェムが美味しいと言っていたインド料理店もグーグルマップに載っていました!)


ちなみに、赤丸の〈ロスリン・アームズ〉というパブでは、今、トムが待ちぼうけをくらっています...笑(待ちぼうけをくらっているといっても一人ではなく、幼馴染たちと楽しそうに和気あいあいとお喋りしているので、ダメージはなさそうですが...笑)


というか、〈ロスリン・アームズ〉と〈キーツ・ハウス〉がこんなに近くにあるという、奇跡のような偶然に、その偶然を引き寄せた藍の右指に、感動しています...号泣


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4

ダッシュ


12月21日

僕はマークの顔を目がけて、そのノートを投げ返した。「嫌だよ。僕は書かない」

ほとんど無意識的な行動だったのだが、みんながびっくりしたような顔で一斉に僕を見たから、僕自身も驚いてしまった。何か考えがあったわけではなく、条件反射的に、つい投げ返してしまったのだ。

僕の体のどこかから、声が聞こえたといった方が正しいかもしれない。少なくとも僕自身の部分的な分身ではあるのだろうが、内側から聞こえたその声は、こう言った。

クリスマスの神父様に手紙なんて、書く必要ないぞ。

たしかに、と僕は思った。そして体が勝手に便箋を投げ返していた。

お前はこんなところに居たくもないだろ。今すぐタクシーから飛び降りてしまえ。

ちょっと待って…それって?

ほら、感じないか? このタクシーの壁が、お前の寮の壁みたいに、両側からどんどん迫ってきてるだろ? 頭も殴られたように痛み出したんじゃないか? ダッシュ、なぜそんなに汗をかいてる? ほら、今すぐそのドアを開けて、ここから飛び出さないとダメだろ?

終わったはずの試験期間に舞い戻ったようだった。僕はいつまでも試験を受け続けなければならないのか。

そして僕は落第するんだ。

僕は落ちる。だって、僕はこのタクシーの中に居たくないから。

僕は落ちる。だって、マークに我慢ならないから。彼はとことん嫌な奴だから。

僕は落ちるよ。だって、リリーがロンドンまで来ていたなんて知らなかったから。僕には、彼女が望むようなリアクションを取れる自信はないから。

僕は落ちるよ。だって僕は、彼女のインスタグラムを一度も見たことがなかったから。ただの一度も。

僕は抜け落ちるよ。だって僕は、彼女がレインコートを販売しているなんて知らなかったから。アズラの反応から察するに、リリーはソーシャルメディア上で、かなりの有名人なのだろう。

僕は抜け出るよ。だって僕はずっと…彼女がしているのは犬の散歩だと思っていたから。まさか犬の散歩中に、見知らぬ人に声を掛けられたり、声までは掛けられなくても、有名人のリリーが犬の散歩をしている!とか思われていたなんて知らなかった。彼女が作った犬関連のグッズを購入する人もたくさんいるなんて。

僕は降りるよ。だって、アズラとオリヴィエが僕に闘争心をむき出しだから。そういう態度で来られると、僕の心まで憤りでいっぱいになっちゃうんだ。そうすると、他の感情がすべて吹き飛んじゃって、あの二人をやっつけることだけに囚われることになるからね。

僕は降りるよ。だって、これからキーツと相まみえることになるんだから心がワクワクし出してもいいはずなのに、実際の僕は、キーツのことを考えると、とても気分が沈んでしまうから。

僕は落ちるよ。だって、心に浮かび来るこれらの事を、僕は声に出しては言えないから。

お前は首ひもでつながれた猫だ、と内なる声が言った。急にネクタイが首ひもになったみたいに、襟元がどんどん苦しくなる。内なる声に首を絞められているみたいだ。

僕はネクタイを緩め、シャツの一番上のボタンを外した。

「どうした?」とマークが言った。僕は『いじわるグリンチのクリスマス』のグリンチになった気分だった。そうすると、マークが『セサミストリート』のいじわるオスカーってことか。どっちもどっちだな。

「大丈夫?」とジェムが心配そうに聞いてきた。

リリーの顔を見ると、―リリーはまた混乱した表情を浮かべている。

ほら見たことか、ダッシュ。お前がまた彼女を混乱させたんだ。お前はここにいるべきじゃない。

「ごめん」と僕は言った。言ってから、「大丈夫?」と聞かれているのに、「ごめん」は変だろうと気づいた。

「ダッシュ?」とリリーが僕に声を掛けてくる。

「今夜は冷えてきたなっ。寒くないか?」とタクシードライバーが僕たちに声を掛ける。「ほら、暖房をもっと上げてやるよっ」

それだけはやめてくれ、と僕は心の中で叫んだ。急にカシミアのマフラーみたいな雲で覆われたように、車内が生暖かくなる。僕のシャツの中はもう汗でぐしょぐしょだ。スーツを脱いだら、脇の下にくっきりと湖の形が浮かび上がっていることだろう。

ジェムがリリーに質問を始めた。本当なら、それらの質問は僕が聞くべきことだった。―どこに泊まってるの? フライトはどうだった? どのくらいの期間、滞在する予定なの? 僕は必死で彼女の答えを頭に叩き込もうとしたが、汗と熱に邪魔されて、うまく頭に入ってこない。頭にのしかかってくる圧迫感がますます重くなり、心臓の鼓動は速さを増す。待てよ、鼓動はそれほど速まっていないのか? 僕は自分の脈拍を測ろうとした。馬鹿げている。

タクシーが〈キーツ・ハウス〉に到着した。ハムステッド・ヒースのすぐ近くだ。僕は真っ先にドアから飛び乗りるように外に出た。外の空気を大きく吸い込み、振り返ると、僕の祖母がタクシーの料金を払っている。しまった! レディーに払わせるなんて、紳士にあるまじき行為だ。

真っ暗な夜の中、白くぼんやりと浮かび上がるキーツ博物館は、ほとんど幽霊屋敷のように見えた。内部に潜む死者の霊魂で光っているようだ。こんなに遅い時間まで開いているとは思っていなかったが、何か裏工作でもしたに違いないアズラとオリヴィエが、僕たちより一足先にエントランスホールの中にいるのが見えた。

「ダッシュ?」

ふと横を見ると、リリーが僕の肘をポンと叩いている。僕を見つめる彼女の表情から、僕は自分がぼんやりしていたことに気づいた。彼女が僕に何か言ったのだろう。でも僕はキーツ・ハウスを眺めていて、聞いていなかった。

「聞いてるよ」と僕は言った。

「これって間違いだったかな。あなたをこのイベントに誘ったこと自体―」

「そんなことないよ!」と僕は言った。

間違いだったんだよ! と内なる声が付け加えた。その声はいまだに僕の首を絞め付けていて、一向に力を弱める素振りを見せない。

僕はその声を振り払うように、リリーに説明した。「人生で最もきつい、魂が砕かれるんじゃないかと思うような一週間が終わったばかりなんだ。試験期間中は睡眠もままならなかったよ。もし僕がぼんやりしているようなら、きっとそのせいだ。僕は、言うなればハングオーバー状態なんだよ。二日酔いっていう意味じゃなくて、崖からぶら下がってる状態。今にも真っ逆さまに落っこちそうだけど、自分の体を引き上げる力も残ってないみたいだよ」

そこでやめておくべきだったのに、僕はこう付け加えてしまった。

「それと、君がレインコートを売ってるなんて知らなかったから」

リリーの反応は一瞬で歴史から消え失せた。邪魔が入ったのだ。僕がリリーと話しているといつも茶々を入れてくる、マークという名の悪魔の使い走りが、不愛想に「早く入ろうぜ。何してるんだよ?」と言ってきたから、リリーも僕もそちらに気を取られてしまったのだ。そこへ、ジェムが遅れてやって来た。タクシーがようやくこの場を走り去っていく。

「あの運転手が私の番号を聞いてきたのよ」と彼女は言った。「ゼロよ!って答えちゃったけどね」

「気をつけた方がいいわよ」とリリーが言った。「そう言うと、今度はゼロを押せば繋がる電話の交換手だと思われちゃうわ」

「ぐずぐずしてると負けちゃうだろ!」とマークが叫んだ。

「じゃあ、さっそく中へ入りましょう」とジェムが僕らを促した。

僕は少しの間、夜気の中で熱を冷ましたかったのだが、そんなことを言い出せる雰囲気ではなかった。ジェムは活気に満ちた様子で先を急ごうとしているし、マークはただ単純に活気に満ちているし、リリーは…彼女だけはなんだか活気をそがれているように見えた。僕の陰気なムードが、彼女から活力を吸い取ってしまったのだろうか。

「ロマンを共有しないか?」と僕は思い切って言ってみた。ロマン主義の詩人キーツになりきって、リリーの目の前にそっと手を差し出す。

「私はロマンより、ロマンスの方が好きかな」とリリーは答えながら、僕の手を取った。二人で手をつないで、入口までの短い距離を歩いていく。それから僕たちは、入口で手を離し、個々に中へ入った。

この家はキーツが死んだ場所ではなかった。―彼はイタリアに移り住んだ後に亡くなったのだ。それでもなお、彼はこの家で死んだのではないか、と感じさせるものがあった。25歳で亡くなった彼の死が、そこかしこに宿っているようだった。空気中に、壁に、残された彼の言葉一語一語に、彼の残影を読み取れた。

僕の心臓が再び高鳴り始めた。

ロビーには、キーツの顔がリアルに彫られた仮面のような銅像が置かれていて、来場者はどうぞお触りください、と書かれている。僕はその不気味さに震え上がってしまった。触りたくはなかったし、彼に見つめられているのも嫌だった。僕は逆方向へと目を背けたのだが、すると今度は、キーツの等身大の胸像が立ち現われて、間近で彼とばったり出くわした感じになり、気まずかった。

「次の手がかりを探してるのよね?」とジェムがマークに聞き、彼はうなずいた。

ライバルチームはすでに家の奥の方へと進んでいた。

「それぞれ別々に手分けして、くまなく探していきましょう」ジェムがそう提案すると、今度はリリーがうなずいた。ジェムは向かって左側の部屋へ、リリーは右側の部屋へと入っていく。マークは階段を上がって、二階に姿を消した。

僕は一人で廊下を進み、家の奥深くへと歩いていった。観光客として来たわけではないことはわかっていた。―次の手がかりを探さなければならない。―それでも、キーツがここに残した言葉を読めば読むほど、僕を取り巻く霧はどんどん厚く深くなっていった。彼は母と弟が結核で死にゆくのをみとったのだ。そして彼自身も結核で死んだ。僕よりたったの6歳年上の若さで。

僕は彼の手書きの詩を見て、次々と胸に弾丸を撃ち込まれたような衝撃を受けた。

若さは成長するにつれ青白く薄まっていき、いつしか水のように見えなくなり、死す。

それから、この詩も目に飛び込んできた。

自分がいなくなるかもしれないという不安に包まれると、

私はペンを握る。頭の中に降りしきる言葉をかき集めるんだ…

それから、彼が愛した女性に宛てた手紙の中の一節。

私はまだ、私の死後も残るような不滅の作品を一つも残していない。―私の死後、友人たちが私を誇らしく思い出してくれるようなことを何一つ成し遂げていない。―しかし、私は目に映るあらゆる物を貫く美しさだけはずっと愛してきた。もっと時間があれば、私の存在を覚えてもらえるくらいまで、美の核心に迫れただろう。

そしてもちろん、彼の墓石に刻まれた碑文もあった。

水の中に名前が書かれた者が眠る。

僕の内なる声がキーツに触発されたように声を上げた。

お前はいったい何をしている?

僕はその声の意味を解釈する。

お前はオックスフォードで、いったい何をしている?

お前は大丈夫なふりをして、いったい何をしている?

お前はこの部屋でいったい何をしている? ほら見てみろ。ここの壁も迫って来てるぞ。

実際は壁は迫っていなかった。しかし、そう感じるだけで十分に息苦しくなった。襟元を緩めようとしたら、もうすでにボタンは開いていた。汗がとめどなく溢れ出る。

早くここから外へ出ろ。

父の姿が頭に浮かんだ。僕が尻尾を巻いて家に帰ったら、父は、ほら見たことか、と言わんばかりにうなずいて見せるだろう。父は初めから、オックスフォードは間違いだったとわかっていたんだ。本に多大なる価値を見出し、自分の道を突き進もうなんていう考え自体が間違いだったと。僕は未来のリーダーにはなれないし、意気消沈を言葉に変えて乗り越えようとする詩人にすら、きっとなれない。僕は今までずっとそうだったように、未来永劫、敗者のままだ。

こんなことしてる場合じゃないだろ。

文学の初めての授業で、僕たちは教授に聞かれ、一人ずつ自分の好きな作家の名前を挙げていった。僕が「サリンジャーです」と答えると、その教授は笑った。「サリンジャーを敬愛するアメリカ人の少年か、ロンドンの雨のようにありきたりだな」と彼は言った。

あんなことを続けてても埒が明かないだろ。

リリーのことを考えていた。彼女はどういうつもりで、遥々ここまで飛んできたのだろう? 僕はどうして、僕たちの関係を一旦凍結するみたいに宙ぶらりんにしたまま、無謀な夢を追いかけるために海を渡ってしまったのだろう? 上の階の床板がきしむ音が聞こえた。―おそらくオリヴィエたちのチームだろう。あるいは何人かの足音が聞こえるから、マークもそこにいるのかもしれない。どれだけの時間が経過したのか、僕にはもうわからなくなっていた。少し外に出た方がいい、と僕は自分自身に言い聞かせた。

問題は、僕の欠陥が常に僕につきまとっていることだ。僕には協調性が欠けていて、周りの人たちと一緒に何かをすることができない。他の人たちが僕にここにいてほしいと望んでいることはわかっていても、僕はその気持ちに寄り添うことができない。

まるでキーツにからかわれているような声がした。

君は生きているくせに、こんなことしかできないのか?

君の若さも青白く擦り減っていくんだよ、ダッシュ。君にまだ残っているものは何だ?

僕はほとんど無意識のうちに、キーツ・ハウスの外に出ていた。肺を夜の空気で満たそうと、大きく息を吸う。頭の中の声たちを追い払おうとしたが、彼らは頑なに出て行こうとせず、僕の頭の中の床板の上をポンポン飛び跳ねていた。外の空気は寒かったが、汗は一向に収まることなく、どんどん噴き出してくる。こうして玄関前に突っ立っていると、中から誰かに見られるかもしれない、と不安になり、僕は少し遠くまで歩いてみることにした。ハムステッド・ヒースはすぐそこで、僕がここを離れるのは数分だけだ。すぐに戻れば、ジェムもリリーも気付かないだろう。

僕はいったい何をしているんだ?

以前、友人のブーマーに聞かれた質問を思い出した。「喉がヒリヒリ痛いんだけど…原因は喉にあると思う?」今の僕も、喉がヒリヒリ痛い。たぶん原因は喉ではなく、僕はパニックに陥っていて、何かしらの攻撃を受けているのかもしれない。ということは…

ヒースの森に入ったところで、僕はスマホを取り出した。グーグルの検索ボックスに、「これってパニック発作かな?」と打ち込んでみた。

ウェブ上の医師たちはいくつもの症状をリストアップしていて、そのうちの多くが僕の症状に当てはまった。それを見て、僕はさらなるパニックに襲われた。僕はリンクからリンクへと、セカンドオピニオンを求めてネット記事を移り渡り、第三、第四と見ていくうちに、いつしか第九の意見にまで探りを入れていた。

「これはまずいぞ」と僕は周りの木々に向けて言った。

インターネットにはパニック発作に襲われた際の応急処置がいくつも載っていた。僕はそのうちのいくつかを声に出して読み上げた。

戦うのではなく、まずはそれを受け止めること。

「でも受け止めるって、一つの戦い方じゃないかな?」と僕は木々に尋ねた。

次の助言に目をやる。

自分自身と話してみて。

「そんなこと、もうとっくにやってるよ」と僕は言った。「他に何か僕に言いたいことある?」

「いや、特にない」と僕自身が答えた。「次に行け」

次の助言を見る。

目を閉じてごらん。

この助言は、今の僕の状況に適しているのか定かではなかった。今、僕は森のような公園の中を一人でふらふらと歩いている。下手したら、目を閉じた隙に、「切り裂きジャック」の末裔がその辺の陰から飛び掛かってくるかもしれない。それでも僕は助言に従って、目を閉じてみた。周りに広がっていた暗闇が一気に狭まり、個人的な闇になった。きっちり10秒数えたところで、近くの茂みで何かが蠢く音が聞こえ、妄想が現実のものとなったか、と僕はパッと目を見開いた。キツネだろうと、人間だろうと、攻撃してくる前に、一目顔を見てやろうと思った。

大きく深呼吸して。

誰も、キツネもいなかった。あるいは、まだ茂みの中にいるのかもしれない。僕はいつの間にか自分自身のことではなく、キツネのことを考えている事実に気づき、それを良い兆候だと思った。しかしそれも長くは続かず、すぐに思考は自分自身の胸へと舞い戻った。再び自分自身の置かれた悲惨な状況について考え始めている。僕は深く息を吸い込んで、フーッと大きく吐き出した。もう一度、大きく息を吸い込んで、白い息を闇夜の中に吐き出す。

自分の体に聞いてみて。お腹空いてない? 怒ってない? 寂しくない? 疲れてない?

言われてみれば、お腹が空いていた。何か食べてくるべきだったのかもしれない。あるいは、この精神状態でマークと対峙したのがいけなかったか? もしくはニューヨークに留まっていればよかったのか? というか、やっぱり新年までベッドで寝ているべきだった。

あなたが幸せになれる場所を思い浮かべてみて。

マークのいないストランド書店を思い浮かべようとした。今夜マークのやつがストランド書店の話をしていたから、どうしても彼の顔がちらついてしまう。彼はもう、あそこの店員は辞めてるんだよな。―僕は想像の中で、ストランド書店にたどり着いた。待ち合わせしていたリリーが正面玄関前で手を振っている。リリーと僕は、希少価値の高い本が陳列されたコーナーに行き、古いパルプ紙に包まれた本たちを眺める。表紙には昔の風刺画みたいな趣きある絵が並び、トレンチコートに身を包んだ男性が貴婦人みたいな女性と抱き合っていたりする。それは放課後の平凡な一時なのだが、僕の愛するすべてが、そこに凝縮されている。

一つの物体に意識を集中して、そのままそこに意識を留めて。

この助言を見つけるまでに、僕はすでにスマホという物体に意識を集中していたことに気づき、この助言の真偽をいぶかしんだ。その時、僕に見つめられていることを感じ取ったかのようにスマホが反応し、何かと思えば、バッテリーがあと10%しか残っていない、と表示された。

すぐに僕はスマホの電源を切った。それから、リリーとジェムにメールしようと思い立ち、再び電源を入れた。

ちょっと散歩に行ってくる。外の空気を吸いたくなったんだ。僕のことは心配しないで。

スマホのやつも、僕と同じくらい疲れていたに違いない。メッセージが送信されるや否や、画面が真っ暗になってしまった。

僕はスマホに向かって愚痴った後、ふと顔を上げると、いつの間にか公園の奥深くまで来ていることに気づき、自分がどこにいるのかわからなくなっていた。

僕は続けざまに、木々に向かって毒づいた。

時間はそんなに遅くはなかったが、公園は暗く、小道には誰もいなかった。街から届く光が、北極のオーロラみたいにぼんやりと木々の最上部に輪郭を描き、生命の気配をそこはかとなく感じさせてはいた。しかし、方角を示すコンパスとして使える物は何も見当たらない。僕は本能的に怖くなり、地図を確認するためにスマホをポケットから取り出した。そして、今度は森全体がびっくりするくらいの大声で、ピクリともしないスマホに向かって毒づいた。

お前は道に迷ったんだよ、と内なる声が教えてくれた。

そして、それはもう一つの意味を含んでいた。お前は人生の迷路に迷い込み、自分が何をやっているのかわからなくなっているんだ。

実際、僕はずっと迷っていた。それは、この一学期の間、僕を悩ませ続けていた声だった。ニューヨークにいるリリーと話すたびに、BGMのように僕の耳元でこだましていた声だ。未来が僕の目を覗き込もうとする時にも、その声が聞こえ、僕はどうしてもまばたきをしてしまう。僕は自分の未来を直視できなくて、ごまかすようにまばたきしてしまうのだ。

「僕は人生の迷路に迷い込み、自分が何をやっているのかわからなくなっている」と僕はつぶやいた。

たしかにそうだ、と思った。

だけど、そう声に出して言ってみても安心感は得られなかった。地獄のような恐怖に包まれていた。

僕はもう一度そう言ってみた。それから、鬱蒼と生い茂るような暗闇の中で叫んだ。

「僕は人生の迷路で、自分が何をやっているのかわからなくなっているんだ!」

その声に反応したように、今まで一度も聞いたことのない声が返ってきた。

「そういう時は、クラブに入ろう」




5

リリー


12月21日

クリスマスの神父様へ...

イギリスのサンタさんに手紙を書くなんて初めてだから、何を書いたらいいのか分からないわ。もしかしてイギリスのサンタさんって、私の苦手なきっちりとした英文法を要求してくるとか? cozyをcosyにしたり、いちいち「z」を「s」にしなさい! とか直されちゃうわけ? 文章の最後には毎回、「innit?」(ですよね?)を付けた方がいいのかしら?

私は子供の頃からサンタさんに手紙を書いたことがなかった。母の話では、私がサンタさん宛てに書いた唯一の手紙は申立書のようなもので、私は幼いながらも「サンタさんに言っても仕方ないな」と悟ったのか、それ以降は書いていない。その手紙で、私はサンタさんを強く批判してしまったから、今さら私から手紙を受け取ったところで、「あのリリーとかいう生意気な子か!」って思われるだけ、innit?(ですよね?)


サンタさんへ

私の名前はリリー、9歳です。あなたはトナカイにそりを引っ張らせていますけど、それって間違っていると思います。セントラルパーク周辺で馬車を見たことがありますか? 観光客があの辺をぐるりと観光するのに、馬に馬車を引っ張らせてるのよ。あれを見ると、ほんと腹が立つわ。馬たちはどんなに天候が悪くても外で待たされてるし、体を雨に打たれたり、頭に雪が降り積もったり、車やバスに排気ガスを吹きかけられても、文句一つ言わず頑張ってるんだから。ほんと、馬の扱い方をなんにも知らない失礼なお客さんが多すぎるのよね。それと、馬はお金をもらっていません。ご褒美にいくらニンジンをもらっても、全然割に合わないっての。大叔母さんの知り合いで、〈ニューヨークシティ・タクシー&リムジン労働組合〉の顧問弁護士をしている人に聞いたから、これは確かな事実よ。馬たちは賃金未払いを訴えて、ヒヒーンって嘆いているわ!

それで、私はトンプキンス・スクエア公園に立って、セントラルパーク周辺で馬車に乗ることを禁止する請願書に、28人から署名を集めました。それを市役所に持っていって、事態が改善したらまたお知らせします。今度は、あなたがそりに乗ることを禁止する、別の請願書を作ろうかなと考えています。私はすでに学校では人気のない子なので、この新しい請願書を作ることで、友達をなくすんじゃないかっていう心配はいりません。

もちろん、あなたがトナカイたちに親切に接していることは知っています。でも、トナカイにも自分で選択する自由があるはずです。きっと中には、あなたみたいな太っていて重い人を世界中に運ぶ代わりに、クリスマスには楽しく北極辺りを走り回りたいって思ってるトナカイだっているはずよ。

私がクリスマスに何を望んでいるかというと、それは、動物たちもあなたと同等に扱ってほしいってこと。だって、あなた自身はいい子だろうと悪い子だろうと、動物たちはあなたに奉仕しているんだから。

                                  お願いします。

                                  リリーより

追伸―ユニコーンの形をしたきれいに光るマジックランプも欲しいです。

追々伸―あなたはどんなクッキーが好きですか?


「クリスマスの神父様へって...今は手紙を書きたい気分じゃないわ」と私はマークに言った。ダッシュがキーツハウスに戻ってくるまでの時間を利用して、サンタさんに手紙を書くようにマークが言ってきたから、そういう気分じゃない、と伝えた。彼が言うには、サンタさんに手紙を書くことも、このイベントの一部らしい。ダッシュは早々と、「サンタに手紙なんか書くもんか!」と匙を投げてしまったけれど。

「私もよ」とジェムが言った。「ダッシュのことが心配なの。どうして急に出て行っちゃったのかしら。彼のことはあなたが一番よく知ってるんでしょ、リリー? こういうことってよくあるの? 心配すべき?」

「彼はきっと大丈夫だと思います」と私は彼女に言った。

実際はそこまで確信はなかった。

ダッシュは不安に駆られると、おかしくなるのよ。私がサプライズで突然現れるなんて愚行に出たから、彼のおかしな行動に拍車をかけてしまったのかな? それとも、オックスフォードでの極度の不安状態が原因なの? 私は怒るべきなのか心配するべきなのか分からなかった。何より、私自身がおろかしく思えてきた。〈アドベントカレンダー〉に込めた彼へのロマンチックな想いは、全部無駄だったってことになるわね。―私自身がプレゼントになったつもりで、彼の目の前に現れたことも、どうやら彼のロマンチックな琴線には触れなかったみたいだし。だって、こうして私と久しぶりに再会したっていうのに、私を置いてどこかへ行っちゃうんだから。

マークが言った。「まったく、あいつはオックスフォードに行っても、何も変わってないじゃないか。礼儀がなってないんだよ。誰にも何も言わずに勝手に出て行くなんて、失礼極まりないな」

ジェムが言った。「失礼というより、彼はひねくれ者なのよ」

まあ、ダッシュは失礼なところもあって、ひねくれてるところもあるんだけど、そんな彼がジェムの家を訪れた時、彼女はダッシュが不安を抱えていることに気付いたのかしら? 私はそれを知りたくて、彼女に聞いた。「彼がロンドンのあなたの家を訪れる時って、あなたたちはいつも何をしてるの? まさか、あなたの家にいる時も、彼は勉強で忙しいとか?」

「私たちはいつも最高に素晴らしい時間を過ごしてるわ!」ジェムは興奮気味に語った。「一緒に美術館に行ったり、本屋に行ったり、コンサートに行ったり。彼って一緒にいると楽しいのよ。まあ、あなたは知ってるでしょうけど」マークが鼻を鳴らすように笑ったが、彼女は続けた。「たしかに、今日彼を家から連れ出すのはひと苦労だったわね。とても疲れが溜まってるようだった。おそらく、期末試験が終わったばかりでへとへとだったんでしょうね」

「おそらくそうでしょうね」と私は言った。彼への怒りが徐々に薄まり、彼を心配する気持ちが大きくなり始めていた。ダッシュがどんな不安を抱えていたとしても、こんな風に逃げ出さずに、私に話してくれたらよかったのに、と思った。へとへとという言葉が、私にはなんだか別の響きを伴って聞こえた。彼の心が悲鳴を上げているようだった。

その時、私のスマホが鳴った。ダッシュからだと思い、急いで画面を見たのだが、―FaceTimeで電話をかけてきたのは、兄のラングストンだった。スマホの画面越しでも、一目ダッシュの顔を見ることができれば、どんなに安心したことか。とはいえ、ニューヨークの状況も気になってはいたから、私はキーツ博物館の外に出て、道端で電話に出た。

「私の犬はどんな様子?」と私はラングストンに聞いた。スマホの画面に彼の顔が映し出される。どうやら彼は今、私たちの両親のアパートメントのリビングにいるらしい。彼は実家を出て、ニュージャージー州のホーボーケンでボーイフレンドと同棲しているんだけど、私が留守の間は、私の仕事の穴を埋めるためにマンハッタンの実家に戻っている。

私の声がボリスの耳に届いたようで、突然ボリスがリビングに駆け込んできて、画面が狂ったようにくるくると回転した。ボリスがラングストンに飛び掛かり、その拍子でスマホが宙に舞ったようだ。ニューヨークでけたたましく吠えたボリスの声は、大西洋を一気に飛び越え、ロンドンのハムステッドの路上を歩く通行人の耳にまで届いた。見知らぬその人は、通りすがりに私を怪訝な表情で見ていた。今たしかに聞こえた怪物の遠吠えは、いったいどこから来たのだ? と私に聞きたそうな表情で、その人は辺りをキョロキョロ見ながら歩き去った。

ラングストンがようやくスマホをつかんだようで、画面にボリスが映し出された。「お座り、ボリス。お座り!」と彼がボリスを静止させようとしているが、ボリスは興奮冷めやらぬといった様子で吠え続けている。また今にも私の兄に飛び掛かるのではないか、という威勢だ。

私も画面に向かって、声を張り上げた。「お座り、ボリス」私の声に安心したかのように、ボリスは座り込むと、尻尾を激しく振り出した。

「こいつはまた俺を床に叩きつける気だ」とラングストンが言った。彼の体重は大体60キロくらいだけど、ボリスも負けず劣らず重い。

「そんなことないわ」と私は言った。「ボリス、大人しくしてなさい」

ボリスは立ち上がると、愛用の毛布に向かって歩き出した。カメラはその姿を追いかけている。ボリスは毛布の上に横たわると、クンクンといじけるように小声で鳴き出した。ラングストンがカメラを彼自身に向け直す。

「この野獣はお前のことが恋しいみたいだな」とラングストンが言った。

「他の家の犬たちはどう?」

「順調だよ」と言ってから、彼は一瞬間を開けた。「そういえば、今日サディに薬を飲ますのを忘れたんだ。一応、俺の口から言っておいた方がいいな。後で、あのドアマンがお前に告げ口した時のための予防策だ。ただ―」

「ポメラニアンのサディ? それともチャウチャウのサディ?」

「ポメラニアンのサディだよ。ただ―」

「彼女の場合、一種のホメオパシー療法だから大丈夫よ。気持ちの問題っていうか、彼女の飼い主が留守にしてると不安になるようだから、ちょっとした気休め」と言いながら、私は苛立ちを覚えた。こういう細かな指示は、ニューヨークを出発する前にあれだけ言っておいたのに。もしもう一方のサディだったら大変なことになっていたわ。「でもね、もしチャウチャウのサディだったら―」

「糖尿病なんだろ、わかってるよ。彼女にはちゃんと薬を与えたよ。人の話を最後まで聞け。俺はただ、散歩を終えて家に着く前に、ポメラニアンのサディに薬を与えなかったなって思い出して、わざわざ気休め薬を与えるために戻ったんだよ」

彼は私の返事を待っていたが、私は何も言わなかった。しびれを切らしたかのように、ラングストンが「どういたしまして」と言った。

私は彼にお礼を言うべきかしら? ラングストンはスーパーマーケット〈トレーダー・ジョーズ〉でアルバイトをしているんだけど、その一ヶ月分の給料よりも多い金額を、たったの一週間で私は彼に支払うことになってるのよ。逆に彼は私に感謝すべきね。私からの臨時収入を得た彼は、新年明けの1月は働かずに済んで、修士号の試験勉強に集中できるんだから。

「ママとパパはどこ?」と私は彼に聞いた。

「モーニングサイド・ハイツのおじいちゃん家に行ったよ。アップタウンに行ったついでに、ガーベイ教授と会ってディナーを食べるとか言ってたぞ」

私はため息をついた。ガーベイ教授はバーナード大学で国語を教えている先生で、私の母の知人でもある。私が来年ガーベイ教授の教え子になるのを、今から彼は鼻息を荒くして楽しみに待っているらしい。

「そんなにあからさまにうろたえるなよ、リリー。パパもママも、お前が大学に入ったら専攻する科目を勝手に決めちゃったとか、そこまではしてない、と俺は思うぞ。それより、ロンドンはどうだ? ダッシュの様子は? 彼は驚いたか?」

「どうだったかな?」と私は言った。私は勝手に、彼が驚いて大喜びするものと期待しすぎていたんだわ。実際のご対面の瞬間は、大したことなかった。あれだけ情熱を燃やして、彼への気持ちをつぎ込んだ私がバカだった。「なんか彼は気が抜けてる感じだったわ。ストレスを溜め込んでるみたい」

「実は俺も、彼を驚かせるのは良くないんじゃないかと心配してたんだ。大学の1年目ってかなり大変なんだよ。しかもダッシュの場合、全く不慣れな新しい国に飛び込んだわけだし。新しい環境に自分を馴染ませるのに四苦八苦しているところへ、今度はお前が現れたら、お前を楽しませなきゃっていうプレッシャーも乗っかってくる。このクリスマス休暇はリラックスして、疲れを癒す必要があったのかもな」

「彼は私にここで会えて喜んでいたわ」と私はラングストンに断言しながら、自分にもそう言い聞かせた。私たちはお互いに、新たな自分自身を再編成する時期にいるんだわ。ダッシュは海外の学校に通う、オックスフォードの自分。私はギャップイヤー中の、起業家としての自分。そういう自分自身の新たなバージョンを作り上げなければならない時期なのよ。

しかし、カップルとしての私たちは、まだ強固な絆を保っていた。私はそれを疑っていなかった。疑っていることなら、他にいくらでもある。両親の希望通りに、来年私は大学に行くことになるのかどうか。ダッシュは本当にオックスフォードに向いているのかどうか。気候変動による海面上昇に、マンハッタン島が沈まずに持ちこたえられるのかどうか。ダッシュが主張するような美味しいピザを、私はロンドンで食べられるのかどうか。でも、ダッシュ&リリーの絆だけは、一度も疑ったことはなかった。私が若くて世間知らずだからではないわ。私が恋人との関係に自信を示すと、親はすぐ、「あなたはまだ若くて世間知らずなのよ」って言うけど。

私に何が言える? 私の心はただ、ダッシュを求めているだけなのよ。凄くシンプルな気持ち。

マークとジェムがキーツ博物館から出てきた。私を探すように辺りを見回している。私は兄に「ちょっと待ってて」と言った。

「腹減ったよ」とマークが言った。

「そこの角を曲がったところにインド料理店があるのよ」とジェムが言った。「電話が終わったら、あなたも一緒にどう?」

私は言った。「私はご遠慮してもいいですか? ちょっと一人でロンドンの街をぶらぶら歩きたい気分なんです。その後、私はマークの部屋に行きます。それでいいでしょ? マーク」ダッシュがどこかへ雲隠れできるなら、私にだってできるでしょ? そりゃ、夜中に一人で街をふらふらするのは怖いけど、―だけどダッシュの祖母と一緒に、彼が同席してないところで食事をするなんて、それこそ恐怖だわ。彼女が選んだレストランなんて、どうせ不味い料理を出してくるに決まってるし、それをさも美味しいかのように笑顔で口に運ぶなんて、ありえない。

ジェムが言った。「これって世代的なものかしら? 若い子は文学の宝探しなんかやってられないわって感じで、年寄りを置いてけぼりにして、みんなどこかへ行っちゃうのね」彼女は自分で言って自分で笑っていたけれど、私はちっとも面白くなかった。

マークは私を見て、渋い顔をした。「お前を見知らぬ街の暗がりの中に、一人でほっぽり出すのは気が気じゃないな」

「そういうところから、楽しいことって始まるものよ」とジェムが言った。

「リリーなら心配いらないよ」と、話を聞いていたらしいラングストンがスマホから声を上げた。「彼女はどこへ行っても、野良犬たちが味方についてくれるから。彼女が危険な目に遭いそうになったら、野良犬たちが守ってくれるさ」

「たしかにそれは言えてる」とマークは言うと、私の父か祖父にでもなったつもりなのか、私を心配そうな目で見つめ、「一人で大丈夫か?」と聞いてきた。

「うん」私はため息まじりにうなずいた。

マークが言った。「夜中の12時までにアパートに戻らなかったら、インターポールに電話して、お前を探してもらうからな」

ジェムが言った。「私は数年前に〈インターポール〉のメンバーとマヨルカ島で素晴らしい週末を過ごしたわ。彼らは元〈ザ・スミス〉のモリッシーと一緒にヨーロッパを回るツアー中だったんだけど、途中でモリッシーと仲たがいしたみたいね」

ダッシュから学んだことの中にそのヒントがあったから、私にもなんとか彼女の話は理解できた。ダッシュが言うには、〈インターポール〉は国際的な警察組織であると同時に、バンド名でもあるらしい。そして、若い頃のモリッシーは優れたシンガーであり、ゾッとするほど才気あふれる曲を書くソングライターでもあったみたいなんだけど、晩年は右翼的な変人に成り下がってしまったということだった。〈インターポール〉が彼と仲たがいしたのも、その話を知っていたから納得がいった。ダッシュがモリッシーの歌詞を引用して、モリッシー自身をこう評していた。「輝ける光があれば、いつかは消える」

「じゃあ、またね」と私はマークとジェムに手を振って、ラングストンとの電話に戻った。「私はどこへ行ったらいいかしら?」

「今どこにいるんだ?」

「ハムステッド・ヒースよ」

「そこなら去年の夏に行ったよ。その辺りに良いパブがあって、ベニーと一緒に行ったんだ。今からそのパブのリンクを送るから、そこで俺の分までパイントグラスでビールをぐびぐび飲んでくれ!」

見知らぬ国のパブなんて行きたくはなかった。そんなところに一人で入ったら、不安で落ち着かない気がした。でも、パブって大体、お客さんは他人のことなんて気にしてない感じなのよね。ビールのせいでしょうけど、みんな笑顔で陽気にはじけていて、そんな空間で私も、ビールは飲まないにしても、陽気な気分だけでもあやかりたかった。切実にそう感じるくらい、私は落ち込んでいた。


ラングストンが教えてくれたパブ〈ホリー・ブッシュ〉は、キーツ・ハウスから15分ほど歩いたところ、―ハムステッドの中心部を抜けて、わき道に入り、坂道を上ったところに建っていた。外壁にはステンドグラスの窓が連なっていて、木の香りが漂ってきそうなオーク材でできた建物だった。中に入ると、色とりどりの壁紙が貼り巡らされていて、金の額縁に入ったデザイン画がいくつも飾られていた。ダークウッドを基調としたテーブルや椅子は、まるでディケンズの小説から飛び出してきたかのようで、私はすぐにその場所が気に入った。ただ、中はお客さんでごった返していて、確かに一人でいると怖さを感じた。その時、暖炉の近くの居心地良さそう(cozy)なテーブルから、「リリー!」と私の名前を呼ぶ声が聞こえた。―あ、イギリスではcozyじゃなくて、cosyだったわね。

私は声の方へ歩いていった。すると、アズラ・ハトゥンが囲炉裏のそばのテーブルに座っていて、ホットチョコレートを飲みながら本を読んでいた。彼女が言った。「よくここを見つけられたわね。ここは私のお気に入りの場所なのよ。私がロンドンでよく行くところは、〈ドーント・ブックス〉か、ここ〈ホリー・ブッシュ〉なの。ここで会ったってことは、私たちは友達になる運命みたいね」

「よくこんなところで本が読めるわね?」と私は周りの声に負けじと声を張り上げた。「こんな騒がしいところで!」

「私は騒がしいのが好きなのよ。逆にリラックスできるの。凄く陽気でうきうきしてくるでしょ! オリヴィエはうるさい場所が大嫌いみたいだけどね。どうぞ座って。お話しましょ」私は彼女の隣、暖炉のすぐそばに座った。「オリヴィエは少し前に帰ったわ。私はホットチョコが飲みたかったから、一人で残ったの」

「私、お腹ぺこぺこなの。ここの料理って美味しい? なんか、どの料理も肉々しい感じだけど」店内に入ってから、ちらちらと横目で見た限り、なんかみんな、狩りで捕ってきた獲物にかぶりついている感じだった。「私はベジタリアンなのよ」

「私は、ハラールっていうイスラム法で許された料理しか食べないから、ここのディナーメニューはほとんど食べたことないわ。でも、デザートのトフィー・プディングっていう、ねばっこいプリンは美味しいからお勧めよ」

ディナーのメイン料理を抜いて、いきなりデザートに行く人なんて、私と気が合いそうだわ。「それ食べたことない。名前からすると、不気味な感じで、しかも美味しそう。私の大好きなデザートって感じがする」

「きっとあなたも気に入るわ。ちょっと買ってくるわね」彼女は立ち上がると、そのプリンを注文しにカウンターの方へ歩いていった。戻ってきた彼女は、椅子にゆったりと腰掛けて、私をじっと見つめてきた。彼女の瞳が「これからたっぷりと、暖炉のそばでおしゃべりしましょ」と訴えかけてくる。「あなたとダッシュは付き合ってどれくらい?」

「2年よ」

「あら一緒。私とオリヴィエも2年よ。私たちはカレッジで知り合ったの」

私は混乱した。「大学で知り合ったのに、付き合って2年ってどういうこと? あなたたちって今年オックスフォードに入学したばかりじゃないの?」

彼女も、私の発言に一瞬混乱したようだった。それから彼女は言った。「あ、忘れてたわ。アメリカに住んでる私のいとこにも、前に同じ説明をしたことがあるんだけど、イギリスで『カレッジ』っていうと、GCSE試験の後に行く学校を指すのよ。高校と大学の間に行くところって感じかな。GCSE試験の後、大学に進学したいと思ったら、2年間『カレッジ』に行って準備段階の勉強をするの。アメリカ的にいうと、11年生12年生みたいなものよ」

その言い方のほうが、私にはぴんと来た。「あなたとオリヴィエは、前から一緒にオックスフォードに行くつもりだったの? それともたまたま、うまい具合にそうなったの?」

ダッシュと私の場合、12年生の時、卒業後の計画を全く立てていなかった。なんとなく、ニューヨーク近辺の大学を二人とも志望するという共通認識はあったけれど、なぜか今は二人とも、ニューヨークの大学に行っていない。もっとちゃんと卒業後の計画を立てておくべきだったのかもしれない。

「またまたこうなった感じね。正直に言うと...」彼女の声が次第に小さくなった。

私は彼女に助け舟を出した。「一緒に大学に行くっていうは、ちょっとやり過ぎよね?」

アズラが笑ってくれた。彼女はエメラルドグリーンのスカーフを巻いて頭と首を隠しているから、髪の毛や首元に視線が行くことなく、彼女の整った活力あふれる顔が直接、私の目に飛び込んでくる。「たぶんそうね」と彼女も同意した。「わかんないけど...私の親が言うには―」

「あなたはまだ若いんだから、将来を約束した付き合いなんて早い?」

「それ!」

「私はこれを『ささやきキャンペーン』って呼んでるのよ」と私は言った。「うちの親は、私のボーイフレンドの前では、温かく歓迎している顔をして、彼に聞こえないように裏では、私に小声であれこれ言ってくるの―」

「他の男にも出会ってみたほうがいい、とか?」

「まさにそれ、『ささやきキャンペーン』のスローガンよね!」

アズラが言った。「うちもそう。私の両親はイスラム教徒だから、私にもイスラム教徒の人と付き合ってほしいみたい」

「でもオリヴィエは大丈夫なの?」

「彼は英国国教会の信徒だし、親は反対してる。というか、たぶん彼がイスラム教徒じゃないから、というよりも、宗教は関係なく、私の両親はオリヴィエのことが好きじゃないんだと思う。あなたとダッシュはどうなの? 離れて暮らしてみてどんな感じ?」

「遠距離恋愛なんて望んでなかったんだけど」と私は言った。「でも今は忙しすぎて、逆に彼が近くにいなくてよかったって思うことが多いわ。彼がそばにいたら、気が散って仕事に集中できなくなるし、犬の手芸サイトを立ち上げることもできなかったでしょうね」その時、私はオリヴィエが本屋さんで言っていたことを思い出した。「あなたたちは、ダッシュがニューヨークにガールフレンドがいること自体、信じてなかったんでしょ?」

「あれはつまり...」彼女は言いよどんだ。何かうまい言い方はないかと、この場を取り繕う言葉を探している風だった。「彼って一匹狼っていうか、気難しいところがあるのかな?って。もちろん、彼が魅力的じゃないとか、そういうんじゃないのよ。彼はとてもハンサムだし、ね」私はうなずいて、声には出さずに「わかってる」と返した。「彼は誰とも関係を持ちたいと思ってないんじゃないかって。本と一緒にいれば満足、みたいな人かと思ってたから」

彼女が語る彼の印象は、決して彼を侮辱しているわけではなく、思ったことをそのまま言っているんだろうな、と私は受け取った。ちょうどその時、暖炉のそばに座っている私たちの間に、ネバネバしたトフィー・プディングが運ばれてきたから、私はご機嫌だった、という面もあるかもしれないわね。それは温かいトフィーソースがたっぷりかかったスポンジケーキで、その横には、とろけるような丸いバニラアイスも添えられていた。私はそのあまりの美味しさに、今すぐにでもイギリスに引っ越せるわ、と思ってしまったくらいだった。

「私、このケーキと結婚したいわ」と私は言った。「ごめんね、ダッシュ」

「私もよ。ごめんね、オリヴィエ」私はスマホを取り出して、ダッシュからメッセージが届いていないか確かめた。届いていなかった。アズラは、私が写真を撮るためにスマホを手に持ったと思ったらしく、こう聞いてきた。「あなたって、食べたものを全部インスタに載せちゃう系の人なの?」

「いいえ。私は犬の写真か、犬関連のグッズしか投稿しないわ。それと、イギリスにいる間はSNSを一時休止してるの」私はお酒を飲んだわけでもないのに、少しほろ酔い気分だった。周りの人たちが飲むビールの匂いと陽気な話し声。プリンの甘さと暖炉の暖かさ。それと、アズラの温かさにも、酔っていた。私はまるで大きな秘密を明かすかのように、身を乗り出して言った。「よくいるじゃない? 『しばらくSNSを休止します!』って宣言しちゃう系の人。私はああいうことはしたくないのよ。ただしれっと休んでるだけ」

「悪い子ね」とアズラが言った。

「まさに!」ダッシュにはオックスフォードを中退してほしくなかった。彼を訪ねてここまで来て、私はアズラと心を通わせることができた。きっとダッシュも、アズラやオリヴィエを好きになれるわ。私と出会ったばかりの頃の彼は、クリスマスが大嫌いだったのよ。それが今では、彼もクリスマスのとりこになっちゃったわけだし。

彼女の携帯が鳴った。メールが届いたようだった。「親から。もう遅いから帰ってこいって。たぶん次のチェックポイントでまた会えるわね。私たちは今、ドーントブックスのイベントで争ってるのよね?」

「そうだったわね!」と私は言った。「あなたの電話番号は何番?」彼女は私のスマホに彼女の番号を入力して、電話をかけた。そうして私たちはお互いの電話番号を共有した。

「私たちが友達になったみたいに、お互いの彼氏同士も仲良くなれると思う?」と私は彼女に聞いてみた。

彼女は笑った。「たぶん無理ね! あの二人は競争心が強いから」

「仲良しになった記念に、拳と拳を合わせよっか? 女子同士でグータッチ。男子同士だとよくやってるじゃない?」

「やめておくわ。また近いうちに会えるといいわね」

アズラはパブを出ていった。私は一人で暖炉のそばの椅子に座ったまま、満ち足りた気分だった。それは単に新しい友達ができたからではなかった。私は家族の付き添いもなく、一人で外国を冒険しているんだ。そんな達成感がふつふつと胸のうちに湧いてきた。時々、ダッシュがうつに苦しんでいるのではないかと心配になるけれど、私の場合、原因は息苦しさにあったのかもしれない。私は家族から離れたかったんだと、ようやく気づいた。ダッシュに会いに来たというのは口実で、イギリスに来た本当の目的は、家族から離れることだったのかもね。私自身の道を見つけたくて。

マークとジュリアが待つ家に帰らないといけない。インターポールに電話される前に。〈インターポール〉に電話して、モリッシーと仲直りできたのか聞くのかしらね。その前に私は、イベントの一環だとマークが言っていた、もう一つの課題をやり遂げなければならない。

私はバッグから〈ドーント〉と記されたノートを取り出して、書き始めた。


クリスマスの神父様へ

ダッシュがどこにいようと、どうか彼が無事でありますように。どうか、私がどれほどダッシュのことを愛しているかを彼にお伝えください。

                     愛と、ねばっこいトフィー・プディングを込めて

                     リリーより


追伸―ブリットレイル・パス(イギリス全土を回れる鉄道乗り放題のチケット)も欲しいです。もっとイギリスを探検する時間も欲しいな。


追々伸―あなたはアメリカのサンタよりもスリムで、ちょっと陽気さに欠けているようですね。もしかして、ヨーロッパの子供たちって、あなたにクッキーをどっさりとあげないのかしら?


私は書き終えると、サンタさんに届くように、と願いを込めて、暖炉の中にその手紙を放り込んだ。




6

ダッシュ


12月21日

その声は馴染みがなかったけれど、暗闇から浮かび上がったその姿を見たとき、顔はなんとなく見覚えがある気がした。彼の髪はぼさぼさに乱れていて、アニメで牛がつけているような金色の鼻輪をしている。その鼻輪がキラッと光り、にんまりと不敵に微笑んだように見えた。

彼は僕を見ると、笑った。 それから彼が叫んだ。「俺は生きて呼吸をしているぞ、ってことは幻じゃないよな。サリンジャーだろ! こんなところでサリンジャー君に会えるなんて!」

ようやく、その顔に少なくとも半分くらいは馴染みがある理由がわかった。彼は僕と同じ文学の授業を受けている同級生だ。でも僕は、彼と一言も話した覚えはないし、彼の名前も思い出せない。

僕が受け答えに窮していると、彼は冷静になって僕の気持ちを汲んでくれた。

「そっか」と彼は言った。「俺はなんてバカなんだ。まず名乗らないとだな。名前はロビー。イアン・ロビーっていうんだけど、ゲイってばれてからは、なぜかイアン卿って呼ばれてる。君もイアン卿って呼んでくれて構わないよ」

極度の自己疑心に駆られ、すたすたと公園の奥の方まで来てしまったが、孤独の時間に幕が下ろされたようで、少しほっとした。もし彼が僕をからかいたいだけなら、すぐに彼を振り切って、どこか落ち着ける場所を探せばいいやと思った。

「イアン卿? マジで言ってる?」と僕はぶっきらぼうに聞いた。

イアン卿は落ち着き払っていた。「まあ、半分は冗談かな。でも君の場合、マジでイアン卿って呼んでくれても構わんよ。だって君のその服装、なんだか上流階級の貴族みたいじゃないか。人生には意味がないって嘆く前に、俺も一度くらいは貴族の恩恵にあずかってみたいものだな」

そこははっきりさせる必要があると感じた。「そう聞こえたのかもしれないけど、僕はべつに人生の無意味さを嘆いていたわけじゃない。僕自身の無意味さに腹が立っていただけだよ」

「わかった。そう心得ておくよ。君自身の胸にもしっかり、そう刻んでおくといい。今後また同じような状態に陥った時のためにね」

またしても、僕には彼が僕をからかっているのか、それとも僕の味方であることを僕にそれとなく示そうとしているのか、わからなかった。

「君はここで何をしてるの?」と僕は聞いた。

「俺は散歩してたんだよ。この時期になっても葉を落とすことなく頑張ってる木々たちと語らおうと思ってな。っていうか、俺の服装を見ればわかるだろ。だいたい俺たちの世代は散歩に出るとき、こういう感じのラフな格好をするものだ。それなのに、君はいったい...?」

この正装にはちゃんとした理由があることを説明する必要があった。「〈ドーント・ブックス〉で文学の宝探しゲームみたいなイベントがあって、今日が初日だったんだ。最初のチェックポイントは〈キーツ・ハウス〉だった。でも、結局そこが僕にとっては、最後のチェックポイントになってしまったけど」

これに対してイアン卿は納得の表情を浮かべていた。「なるほど。君はいち抜けたってそそくさと戦線離脱したわけか。そんな態度でいると、卒業後もオックスフォードに残り続けて研究員になるなんて、絶対に無理だぞ」

「キーツが僕たちの年齢の時、彼にはそうなるだけの素質が十分にあったんだけどね。それはともかく、僕は戦線を離脱しただけじゃない。―僕のチームメイトたちも見捨てたんだ。僕の愛する人が二人も含まれているチームを捨ててきた。あとの一人は、チャンスがあれば猟犬の群れの中に置いてけぼりにしてもいいようなやつだけど」

当然のごとく、マークを思い浮かべた瞬間、彼のニヤニヤした顔が浮かんだ。僕が突然いなくなって、彼はそれ見たことかと、リリーに向かって勝利宣言しているだろうと想像した。「あいつの文学の知識なんて全然大したことないんだよ。だから怖気づいて逃げ出したんだ。つまり、お前の気を引くためにずっと文学好きアピールをしてただけなんだよ。やっと化けの皮が剝がれたな」とか何とか。

私はまだ、私の死後も残るような不滅の作品を一つも残していない。―私の死後、友人たちが私を誇らしく思い出してくれるようなことを何一つ成し遂げていない。―

「歩き続けよう」イアン卿はそう言うと、僕の返事を待つことなく、行き当たりばったりといった感じで雑木林の奥へとずんずん進んでいった。僕は彼に追いつくと、歩調を合わせつつ、彼の横を歩く。イアン卿はまっすぐ前の暗闇を見つめながら、僕に語りかけてきた。「イギリス文学の伝統から言って、二人の男がハムステッド・ヒースの月明かりの下で出会うというのは、お互いの失敗談を語り合うためとか、そんなまっとうな理由じゃないだろ。少なくとも二人のうちの一人は、その名を語ることをはばかることなく、同性愛者だと名乗っているんだからな、そういうことだろ。俺は間違ってるか?」

僕が同性愛者かどうか、それとなく探りを入れられたのは、これが初めてではなかった。僕はその気があるようなオーラを醸し出しているのかもしれない。また誘われているんだろうなと思ったけれど、念のため、僕は確かめるように言った。「君が言ったことを翻訳すると、―君は本気のゲイで、この出会いがきっかけとなって、僕たちが声を大にしては言えないような関係になるんじゃないかって思ってるってことかな。でもそんなことになったら、僕たちは実存的な絶望の淵に一緒に飛び込むことになるって君は気付いてる?」

イアン卿はうなずいた。「そうだな、大体は合ってる。ただ、君がその相手だと気付いてからは、俺たちが追い求めていくのは、官能的な肉体のつながりではないと感じていたんだ。君のガールフレンドが〈アドベントカレンダー〉を送ってきたという噂が教室中に広まって、俺の耳にも入ってきたよ。大抵のやつは軽蔑的に笑い飛ばしていたが、俺はそれを優しさのこもった行為だと思った。俺が幼い頃、祖母が俺と妹のために〈アドベントカレンダー〉を作ってくれたのを思い出したよ。俺自身は恋人からあれを贈られたいとは思わないが、優しさのこもった贈り物だとは思う」

「彼女は実際優しいよ」と僕は言った。「それなのに、僕は彼女につれない態度を取ってしまった」

イアン卿は僕の肩を叩いてくれた。僕が目の前の階段をおそるおそる数段下りている間に、彼はこの辺りを何周も回って待っていた、といった感じの余裕のある叩き方だった。「優しさとつれなさは、べつに相いれないものじゃない」と彼は達観したように言った。「俺はふと気付いたんだ。その二つはお互いにうまく補完し合える関係だよ」

「言いたいことはわかるよ」と僕も負けじと先回りして言い返した。「でも、絶望に打ちひしがれている時の僕は、全然楽しくない」

「それが健全じゃないか」

「そうかな?」

「絶望していながら、なんて楽しいんだとか思ってるよりはずっといいだろ。そういうやつは本当にやばいからな。絶望との闘いを楽しむのは構わないが、絶望にひたって、その中で楽しみ出したら、それはまずいぞ」

「たしかに」と僕は言った。

小道が曲がり角に差し掛かると、彼につられて左へ曲がった。どこへ向かっているのか僕はわからなかったが、イアン卿は行き先を知っているようだった。闇夜の中、1分ほど沈黙が続いた後、彼が聞いてきた。「聞いてもいいか、君は今どんな気分だ?」

歩くという身体運動が、気分にも良い効果をもたらしたようだった。僕はもう、壁の中に閉じ込められている、という感じはしなかった。あるいは、もう一人の自分や周りの木々たち以外の誰かと、実際に話をしたのが功を奏したのかもしれない。

「少しというか、だいぶ落ち着いたよ」と僕は告げた。

「それは素晴らしい」

君はどんな気分?」

イアン卿は首を横に振った。「実を言うと、まだクソみたいな気分だよ。こんなところで歩いてたって埒が明かないって気がしてくる。何か別のことをしないとって、せっつかれてるようだ。ひどい気分だって自分で認めざるを得ない」

「そんなにひどいの?」

「どん底のさらに底だよ、サリンジャー君。俺はグラスの底の残りかすになったんじゃないか」

僕がとやかく言える立場にいないことはわかっていた。でも気付けば、僕はこう言っていた。「でもオックスフォードにはちゃんと行ってるんでしょ!」

イアン卿は、残りかすは僕の方だと言わんばかりの目で僕を見ると、あざ笑うように言った。「ああ、たしかにそうだな。そこには皮肉があるな。ジョークのたぐいも隠れてるかもしれない。俺ががむしゃらに頑張ってオックスフォードに入った唯一の目的は、オックスフォードを焼き払うためだったんだよ。文字通り焼き払うわけじゃないが、偽善を暴き、反乱を起こし、開校以来きれいなままの壁に泥を投げつけて、少なくとも泥の破片は、壁にくっつけてやるつもりだった。不公平な伝統とか、凝り固まったものを全部ぶっ壊すつもりだったんだ...知らなかったよ。すでに昔から、そして今も、俺と同じような破壊願望のある連中が、オックスフォードで長い列を作っていたなんてな。とんだお笑いぐさだが、それでも俺は諦めなかった。なぜ俺が教室で、誰にも話しかけなかったかわかるか? システムの一部にならないための俺なりの手段だったんだよ。とうとう君に、こんなところで話しかけることになってしまったわけだが、―沈黙こそ、一番の反抗だと思っていたんだ! それでどうなったと思う? 周りの誰も気付かなかったよ。それでも俺は、―お前ら、っていうか世界、俺がどれだけ沈黙を決め込んでるか見ろ!ってシグナルを送っていた。俺にはそれを伝播できるくらいの知恵があると思っていたんだ。―最初の戦略から、何段階も愚かさが増していった感じだな。だから俺は教室を去ることにした。俺が教室からいなくなったこと自体、君は気付かなかったんじゃないか?」

そう言われてみれば、最近見ていないかもしれない。

イアン卿はうなずいた。僕の無反応が彼の予想通りだったのだろう。「サリンジャー君、俺はもう1ヶ月大学に行ってないんだよ。精神科の医者がすこぶる親切でね、『休学許可』を出してくれた。―大学に入った当初、最初の数ヶ月は、やっと手に入れた『入学許可』に心躍っていたけどな。それがどうだい、今はこんな有り様だ。〈ラドブロックス〉って知ってるだろ? イギリスは何でも賭けの対象にするからな。もし〈ラドブロックス〉が、今後俺が大学に戻る確率を設定するとしたら、ほぼ戻らないって予想を立てるだろうな。復学したら、逆に大穴ってやつだ。大方の予想通り、大学には戻らないとして、じゃあ、次に何をすればいいのか、っていう問題と今格闘してるんだ。バラバラに散らばった自分自身の破片を、地図も手がかりもなしに拾い集めるのは、至難の業だよな」

「ソファの下の、手を伸ばしても届かない隅っこに落ちてるかも」と僕は言ってみた。

「それならまだいいが、窓の外の庭に落ちて、それを見つけた犬が土の下に埋めちまったかもな」

僕は冗談めかして言ったのだが、彼の口調はなんだか寂しげで、彼の欠片は本当に手の届かない場所まで飛んでいってしまったみたいだった。そして、僕自身も彼と同じように、バラバラに壊れた状態なんだと思い知らされた。

「僕は自分が賢いと思っていた」と僕は唐突に言った。「本当に頭がいいと思っていたんだ。でも、ここ数ヶ月で確信が持てなくなった。感覚が麻痺しちゃったっていうか、自分に向いていると思っていたことが、実は苦手だったと気付くなんて、あんまりだよね?」

イアン卿が僕の心を読み取ろうとするかのように、僕の目をじっと見つめてきた。―オックスフォードに入ってから、誰かにそんな風に見つめられたのは初めてだった。「サリンジャー君、俺の抱いた印象では、君は賢い方の部類に入ると思うよ。というか、かなりの上位にランク付けされるんじゃないか。っていっても俺には、軽々しく君に学位を授ける資格なんてないけどな」

「どうして僕たちは、こんなにもめちゃくちゃに壊れちゃったんだろう? なぜ僕たちは、オックスフォードの輝けるスター的な存在になれないんだろう?」

「残念ながら、そうやってぐちぐち泣き言をたれてたって俺たちはどこにもたどり着けやしない。それに、君のその質問には正面から答えない方がいいだろうな。なぜならその質問は、君が本当に聞きたい質問じゃないからだ。君は本当は輝くスターになんてなりたいとは思ってないんだろ? 君はオックスフォードに入って、今まで憧れだったスターたちに接近した。遠くから見ていた時はあんなにキラキラ輝いていたあいつらを、君は間近で観察したんだ。違うか? その結果、君は気付いてしまった。あいつらは光り輝くスターなんかじゃない。―まばゆいばかりの光の粒で構成されてると思っていた星を目の前で見たら、ただの土の塊だった、みたいなものだ。金塊なら埋まってるかもしれないがな。それで君は、何もかもに幻滅したんだろ?」

「たしかに」と僕は認めた。金塊ではなく、僕は光に憧れ、光になりたかったんだ。

「それを叫べよ」

「は?」

「おいおい、さっきはあんなに大声で、内容とは裏腹に幸せオーラを全開にして、叫んでいたじゃないか。今度は、何もかもに幻滅したって叫べよ」

周りの茂みの中に逃げ込みたい気分だった。「さっきは誰かが聞いてるなんて思ってなかったから、言えたんだよ」

「頼むよ。俺はお前の叫びを聞きたいんだ」

「僕は何もかもに幻滅した!」僕は張り裂けんばかりの大声を上げた。それに反応して、名前の知らない鳥が飛び去っていった。

イアン卿は満足した様子だった。「じゃあ、次は失望したって叫んでくれ」

「僕は失望したんだ!」

「よし、いいだろう。じゃあ、次の質問だ。君は一生懸命頑張ったか?」

僕は一生懸命本も読んだし、勉強もした。おまけに、一生懸命悩んだ。

「自分で自分の尻にむち打って頑張ったよ」と僕は答えた。

「だと思った。俺が指摘したいのはそこなんだよ。君の失望と幻滅はそこに直結してるんだ。君はさっき、自分のふがいなさに腹が立った、みたいなことを言った。だけど、実際は君がオックスフォードをがっかりさせたわけじゃない。サリンジャー君、逆なんだよ。オックスフォードが君をがっかりさせたんだ。俺もそういうところがあるからわかるんだよ。―君は壁にぶち当たった時、それを自分自身のせいにしがちだ。それはやめろ」

彼のその発言は、単純な方程式のように、すっと僕の中に入ってきた。僕の体が僕の思考から解き放たれたかのように、僕の理性のダムが決壊したかのように、彼の言葉が、僕の内側にどっとなだれ込んできた。自分の攻撃から、自分の身を守るための決定的な方法を見つけたような気がした。考えなくても、とっさに着ることのできる鎧が見つかったような。さらに言えば、その鎧の脱ぎ方まで教わったようだった。

「君はいつもどうやって回避してるの?」と僕は聞いた。「自分からの攻撃の対処方法っていうか」

イアン卿はため息をついた。「俺だってまだうまくできてるわけじゃない。むしろ四六時中、自分で自分を責め立ててるよ。でも、俺が言ったアドバイスは健全だろ。外科医っていうのはな、患者を手術する方法は知ってるんだよ。ただ、自分で自分を手術するのは、至難の業だ」

彼になら、最近ずっと考えていたことを話してもいいと思った。リリーやジェムにそれを話すのは、あまり適切ではないと感じていた。―彼女たちは僕と同じ場所にはいないから。言い換えると、考え方というか、思考の運び方が、彼女たちと僕では違うのだ。とは言っても、オックスフォードで出会った人たちもまた、僕の思考パターンには相いれない感じだったけれど。

でもイアン卿なら理解してくれるのではないか。そう願いながら、僕は内側に抱え込んでいたすべてを吐き出してしまうことにした。

僕は彼に話した。「僕がオックスフォードに合格した時、父はあれこれ否定的なことを言ったけど、最後には前向きなことを言って送り出してくれた。『オックスフォードで人格を築いてこい』って。そんな言葉は何世紀にもわたって使い古された決まり文句だろうけど、僕はその言葉を握りしめて海を渡ったんだ。僕はここで人格を高め、築き上げたかったんだよ。でも、そのメッセージはなんだか文字化けしてしまって、人格を築くどころか、僕らはみんなでこぞって、キャラ探しに夢中になっていた。自分がこの場では何者であるべきかという考えが先にあって、それに合わせて、キャラを演じようとしているみたいだった。―潜在的にそのキャラが本人の内面と合致しているかどうかは関係なくね。ソーシャルメディアがそんな状況をさらに悪化させていると思った。そこでは、キャラクター作りがもはや自分という範疇を超えて、制御不能になっている。望むなら、自分を複数のキャラに分けたっていい。周りから愛されるようなキャラに変身する人もいれば、周りを攻撃する猟犬になる人だっている。僕だけはそんなことには巻き込まれずにやっていけると思っていた。でも今になって思えば、僕も他のみんなと同じように、まんまとその罠にはまってしまったみたいだよ。そして運が悪いことに、僕は演技が下手だったというわけさ。自分自身を演じるなんて僕には無理だったんだ。それが身に染みてわかった時、君ならどうする?」

「俺が思うには、もしかしたら...ああ、わからん」イアン卿は首を横に振って、言葉をせき止めた。

「途中でやめないでくれよ」と僕は主張した。「最後まで言って」

「なんかめめしい感じがする」

「もっと話してくれよ。まだ樹液は出るだろ」と僕は、樹液アレルギーにもかかわらず、言った。リリーから出る樹液だけは僕の体質に合うみたいだったけれど。

「わかったよ」とイアン卿は言った。「俺が君にアドバイスをするとしたら、俺自身がそれを実践できるかは別として、君に助言するとしたら、人格を築くためには、新たな自分自身を創造する必要はないってことだな。現時点でそこにあるものを土台にして築いていくんだ。君の中にある良い部分だよ。君が大好きなものたちだ。それが土台になってくれる。いい加減なことを言ってるように聞こえるかもしれないが、それしかないんだよ。一つの地点から、―すなわち、今いる時点から、―自分の大好きなものを土台として、その上に自分の人格を積み上げていくしかないんだ」

自分の大好きなもの。

僕は考えた。

僕はリリーが大好き。

僕は本が大好き。

僕は言葉が大好き。

僕は家族が、僕を認めてくれる時はことさら好き。

僕は、自分ができるだけ多くのことを学ぼうと一生懸命張っている、という事実が好き。

僕はホールデン・コールフィールドが大好き。彼が反逆者だからではなく、彼はあんなにも苦しんでいるから好き。

僕はシーモア・グラースが大好き。なぜだか自分でもわからないけれど、ホールデンよりもさらに強烈に、シーモアに惹かれてしまう。

僕は『Bloodbuzz Ohio』という曲が大好き。歌詞の意味はよくわからないけれど、あの曲を聴いていると、僕の魂にしっくりはまり込むような感覚を覚えるから。

僕は詩が大好き。ぐっと迫ってくるような詩を読むと、恐怖に怯え、少し混乱してしまうこともあるけど。あ、さっきは少しじゃなくて、大いに混乱してしまったけどね。

僕はニューヨークがとっても大好き。こうして離れてみると特にそう感じる。ニューヨークの街路を埋め尽くす観光客や、ゴミで溢れたゴミ箱が恋しくなる。あのバカ高いグリルドチーズ・サンドイッチも久しぶりに食べたいね。

僕はケイト・ブランシェットが大好き。ちょっと彼女が怖いと感じる時もあるけど。あ、ちょっとじゃなくて、すごくかな。

僕はカーリー・レイ・ジェプセンが大好き。彼女は全く怖いとは感じないし、彼女の歌声を聴いていると、一緒に踊りたくなるというか、同じ気持ちを共有している感じがするから。

僕の大好きなものをざっと挙げてみたけど、好きな順に並べたわけじゃないよ。あ、1位と2位のリリーと本だけは、間違いなくトップ2だね。

そして、それから思った。

それで?

僕は考えながら、歩き続けていた。ふとイアン卿の方を見ると、僕の隣に彼はいなかった。僕は足を止め、辺りを見回す。そこには暗闇と、揺れる木の葉があるだけだった。

「イアン卿?」と僕は声を上げた。

「心配するな。俺は近くにいる」暗闇の中から彼の声がした。「自分の好きなものを頭に並べていたんだろ?」

「うん」

「いいぞ。俺がいなくなったことに気づくのに、これだけ長い時間がかかったってことは、それだけたくさん好きなものがあるってことだ。つまり、強固な土台の上に人格を築いていける」

「でも僕には、ストレスとか不安とか恐れもあるよ」

「ほとんどの人間がそうだ」

「でも、僕の場合、時々それらに圧倒されて、飲み込まれてしまう」

「そりゃ、ほとんどの人間を飲み込めるほど強大だからな。いいかい、愛しのサリンジャー君。人生っていうのは、立ち向かったり、乗り越えようとするものじゃない。方向転換するんだよ。波の穏やかな方向へ舵を切るんだ」

街の明かりからかなり遠ざかり、僕たちはハムステッド・ヒースのずいぶん奥まで入り込んでしまったようだった。

その声は遠くから、かすかに聞こえていた。小さすぎて、僕の心が発している声のようでもあった。

「そろそろ戻ってこれる?」と僕は聞いた。「暗闇に一人でいるなんて、心細いから」

少し間があって、彼はこう聞いてきた。「君はクリスマスツリー農場に行ったことがあるか?」

「なんて言った?」

「頼むよ、サリンジャー君、質問に答えてくれ。クリスマスツリー用の木がずらっと植えられている農場だよ。行ったことあるか?」

ニューヨークでは、クリスマスツリー農場から引っこ抜いてきた沢山のツリーを、駐車場のような空き地にずらっと並べて売っている。

「ないけど」と僕は答えた。「なんで?」

「クリスマスツリー農場の問題点を知ってるか?」

「知らない。何が問題なの?」

「木は農場ではなく森の中で育てるべきなんだ。木がたくさん集まれば、どんな集合体であっても、それは森であるべきだ。同じ理屈で、ツリーを家の中に押し込んで、リビングの真ん中にぽつんと孤立させてはいけないんだよ。苗木の段階で、自分は大きくなったらクリスマスツリーになりたい、なんて思う木は1本たりともいないよ。街の広場に大きなツリーが1本植えられているような街なら、まだ住める。少なくともそこでは屋外に立っているという、木の尊厳はそのままだからな。だが、木を飼いならすように室内に置くのはどうだ? 俺は受け入れられない。それはどの季節の精神とも符合しないだろ」

「君に反対するつもりはないけど...でも、なぜ君が暗闇の中に隠れているのか、その理由と君の発言が僕には結びつかないよ」

「俺がここに来た理由はそこにあるんだ、サリンジャー君。特にこの時期はね、自分の身をクリスマスツリーからなるべく遠ざけることにしている。森の中に身を置くんだよ。オックスフォードは、言うなれば、クリスマスツリー農場だ。あんなに洗練された場所でぬくぬくと育つより、森の中で過ごした方がずっといい。野生の森で自分自身のスタンスを築き上げるんだ。注目されることはあまりないかもしれない。金塊のように輝くこともないだろう。だが、ここで成長すれば、自分らしさを手に入れることができる。一人でいることを受け入れろ、サリンジャー君。心で理解するんだ。君の心が何を望んでいるのか、その声を聞け...そして、それに向かって進め。求めるのは金箔に覆われたトロフィーとか、人生最大の贈り物とかじゃない。新たな友よ、俺たちが求めるべきは、―森だ」

彼の言っていることを完全に理解したわけではなかった。でも、僕の心の扉は、間違いなく理解の方向へ開き、それを受け入れようと待ち構える僕がいた。

その一方で差し当たって、僕にはもっと小さな目指すべきゴールがあった。

「とりあえず、今この場所から抜け出す方法を教えてくれないか? イアン卿」と僕は尋ねた。

「そろそろ俺はお前のもとを去るよ。そのうちまた君に会いに、きっと来る」とイアン卿は答えた。「一人で頑張れよ...一人で頑張れなくなったらまた来てやるから、それまで頑張れ」

彼が行ってしまう音が聞こえた。―足音ではなかった。枝が押しのけられるように広がる音がした。それから、空いた空間が塞がるように、カサッと枝が元の位置に戻った。

僕は一人取り残された。異国の地、異国の街で、僕は独りぼっちだった。風が強くなってきたので、僕はスーツの襟を立てて、首元を温めようとした。1分、あるいは3分ほど、僕は木々に囲まれながら、暗闇の中心に立っていた。そうしているうちに、小さな理解の欠片が、すっと扉から入ってきた。


親愛なるクリスマスの神父様

僕は迷っています。完全に迷いました。

でも、迷うことには大いなる価値がありますよね。

その価値のお零れにあずかった気分です。迷うことで、僕は自分が見つけようとしていたものが何なのか、ようやく見えてきました。迷うことで、僕は自分が見つけられたい場所がどこなのか、わかりました。あるいは、誰に見つけてもらいたいのかが。


「リリー」と、僕は大声で叫んだ。彼女の耳には届かないことくらいわかっていた。

「リリー」と、もう一度言って、僕は穏やかな笑みをこぼした。彼女の心には届く確信があった。




7

リリー


12月22日

クリスマスは、せめて夢の中だけでも、家に帰るわ。

午前6時30分、セットしておいたアラームが鳴り、私のスマホがこの歌を響かせた。目をつむったまま、夢うつつの私は、その歌声に導かれるようにニューヨークの地に降り立ち、理想のクリスマスをしばし過ごす。どんよりとした冬空の下、きらめく光のイルミネーションを眺めつつ、今年初めて雪が降り積もったワシントン・スクエア・パークを、私はダッシュと手をつないで歩いている。彼の温もりを感じながら。

ダッシュは夢の中の人ではなく、実在してるのよね。私ってどれだけ幸運なのかしら?

昨夜、〈ドーント・ブックス〉のイベントを抜け出した彼からメールが届いた。「僕はもう大丈夫だから、明日二人で会おう」と。つまり今日、ようやく私たちは二人きりで会えるのよ。目覚めたばかりの私の胸は、興奮で張り裂けんばかりに膨らんだ。と思ったら、体が言うことを聞いてくれない。痛っ! 私の背中が悲鳴を上げている。ふざけんじゃないわよ! と私の右肩が言った。あんたなんか大っ嫌い! と私の両ひざが私をののしった。私の目は破裂寸前のように大きく見開き、私は体じゅうの骨という骨が、ときめく気持ちに追随してくれない理由を思い知った。私は、おそらく世界で最も寝心地の悪いソファで一晩を過ごしてしまったのだ。表面がゴツゴツしていて、足を伸ばして寝るには小さすぎるソファだった。今になって、体じゅうの節々が痛み出した。せっかく犬の仕事で稼いだお金があるんだから、ホテルに泊まればよかったわ。と一瞬思ったけれど、ロンドンの物価を考えると、大金が一晩で消えちゃうなんて馬鹿馬鹿しいわね。それに、お金を払ってホテルに泊まるなんて、一人前の大人がすることのように思えた。実家暮らしの18歳で、しかもギャップイヤー中の私にはまだ早いかな。とはいえ、いとこの家のこんな寝心地の悪いソファで寝るよりは、床で寝た方がまだましだったわ。

私は上半身を起こして、きしむ体を伸ばしたり捻ったりして、元の状態に戻そうと試みた。今日は朝から一人で街に繰り出す予定なのよ。―もちろんイギリスにはダッシュに会いに来たんだけど、―それ以外にも、異国の地を一人で冒険するという、わくわくするような目的が私にはあった。これしきのことでその計画を諦めてたまるもんですか、いててててっ。ストレッチをしながら、生理痛に効くイブプロフェンは、たしか関節痛にも効くことを思い出し、私は自分のバッグに手を伸ばした。そのまま先に薬を取り出すべきだった。私はその前にスマホの画面を見てしまい、後悔した。母から「大学での計画」というタイトルのメッセージが届いていたのよ、まったくもう。体の痛みに今、頭痛が加わった。


リリーちゃんへ:

パパと私は今日、バーナード大学に行ってガーベイ教授に会ってきました。聞いたわよ。彼女の授業に一度出席するようにって何度も誘われてるそうじゃない。その後、あなたの1年次のカリキュラムについて話し合いましょうって。あなたから全く返事が来ないって聞いて、ママは控えめに言っても、残念でならなかったわ。何度も言ってるでしょ。ほとんどの新入生はこんな機会得られないのよ。学部で最も尊敬されてる教授の一人と直接会って、勉強計画について相談できるなんて、こんな機会はそうそうないことだし、せっかく相談に乗ってくれるって仰ってるのに、それをあなたが拒み続けるってことは、ガーベイ教授の指導には興味がありませんって言ってるようなものじゃない。彼女に悪い印象を与えかねないわ。

クッキーのこともそうよ。また作りっぱなしで片付けなかったでしょ。クッキーを作った後はキッチンをきれいにして、クッキー作りの器具はラングストンが元いた部屋に保管するようにって言ってるでしょ。私が昨日1時間かけて、台所に出しっぱなしだった調理器具を全部箱詰めしたんだから。(というか、あんなにたくさんの種類のクッキーの抜き型、普通必要ないでしょ?!)それからようやく、私はクリスマス料理の準備を始められたわ。ロンドンに出発する前にキッチンは空けておいてって何十回も言ったわよね。ああ、そうね...あなたには決め台詞があるのよね...忙しかったから! でしょ。犬の散歩とか、犬のグッズやら手芸品を作るのに忙しすぎて、私がお願いした、たった1つの作業なんてしてる暇なかったのよね。本当は今週もクリスマスの準備を手伝ってもらいたかったのに、あなたは素知らぬふりして行っちゃったわ。わかってる、わかってる。ロンドンにいるボーイフレンドに会うことの方が、ずっと大事よね。

あなたがダシールと素敵な時間を過ごしてることを願ってるわ。あなたが家に帰る頃には、私も機嫌を直してるかしらね。まあ、約束はできないけど。クリスマスに私のために何かしてくれる気があるのなら、ガーベイ教授からのお誘いにちゃんと答えなさい。それから、いらない調理器具は処分してちょうだい。あなたの調理器具がキッチンを占拠していて、調理するスペースがないのよ。


                                  愛を込めて、

                                  ママより


前はもっとまろやかな母親だったんだけど、この一年で二つも大きな出来事があったから、イライラが募っているんでしょうね。

一つ目の重大事は、ママがコネチカットに引っ越さないと決めたこと。パパが郊外にある全寮制の学校で職を得て、平日はそこに住み込んで働いているんだけど、ママはパパについて行かなかったの。つまり、私の両親は今、週末婚みたいな状態ね。というわけで、ママは平日の時間が有り余っていて、何かに取り憑かれたようにバーナード大学のウェブサイトを熟読しながら、私の4年間の計画を練ってるのよ。彼女もバーナード大出身だから、当時自分が入っていた〈バシャンティ〉がまだ存続していることに興奮して、私もそのアカペラ団に入るべきだってうるさいの! あと、〈急行列車隊〉にも入れば、遠方から電車で通っている人たちで友達の輪ができるわって! キャンパスに学生寮があるのに、私をニューヨークから通わせようとしているのは、口では寮費が高すぎるからって言ってるけど、―本当は、私がバーナードに住み込んじゃうと、ママが率先してボリスの世話をしないといけなくなるからなのよ。彼女は私の犬に対してすごく失礼な態度を取るから、ボリスと彼女を二人きりになんて絶対にできない。私の大学生活の計画に没頭していない時は、彼女はレンタカーを借りて、ニュージャージーのやたらに広いショッピングモールまで出向いていって、〈イケア〉とか〈ターゲット〉とかを何時間も、特に目的もなくぶらぶらと歩き回って、そんなにたくさん必要ないし、そんなの欲しがる人もいないでしょ!ってくらい多くのキッチン用品やら、キャンドルやら、装飾用のクッションやらを買い込んで帰ってくるのよ。他に、彼女の主な時間の使い方としては、そのガーベイ教授が主催している〈フェミニスト読書クラブ〉に参加することね。その集まりは学生とか学者とか、参加したい人は誰でも参加できるみたいだけど、月に一度開かれていて、経済的不平等や家父長制について活発な議論を交わしているらしい。参加者は、むしろ来た時よりも怒って帰路につくというから、その議論の激しさを物語っている。時には、アッパーウェストサイドで最高のチョコレートチップクッキーを作るお店は、〈ルヴァン・ベーカリー〉か、それとも〈ジャック・トレス〉か、という議題に対して熱い論戦を交わすこともあるという。(断然〈ルヴァン・ベーカリー〉の方が美味しいでしょ!って思うんだけど、このガーベイ教授だけは〈ジャック・トレス〉派らしいから、私はますます彼女に気を許せない。)

二つ目の重大事として、ママは中年女性が経験するホルモンバランスの大きな変化に直面しているみたいで、不機嫌極まりなくて、情緒も不安定なのよね。どれくらい不安定なのかって? 一つ目の重大事に長々と書いた彼女の行動を見ればわかるでしょ。

私とママはずっと仲良くやってきたのに、今年に入ってから急に喧嘩が絶えなくなってしまった。私が思春期にホルモンバランスの変化に直面していた時期も、ここまで険悪なムードにはならなかった。喧嘩といっても、私たちの場合、大声で罵り合うなんて大げさなものではないんだけど、顔を合わせれば空気がピリピリして、ママはチクチクと、オブラートに包んでいるようで包んでいない嫌味をぶつけてくる。私は黙りこくることで暗に応戦したり、目をくるりと回して見せたり、時にはバタンとドアを叩きつけて部屋を出ていくこともある。

神様はあなたに勉強を禁止してるのかしらね。犬の散歩と同じくらい真剣に勉強に打ち込んでみるとか、あり得ないわよね、リリー。

夜のうちに食器を洗って全部片付けてしまえば、朝にはキッチンがすっきりしてるでしょって、昔から言ってきた気がするんだけど、忘れちゃったのかしらね。あれだけ私が一生懸命にあなたをしつけようとしてきた努力が水の泡ってこと?

今夜の夕食は6時って言ったはずよ。6時30分ではなくね! 今までボーイフレンドとFaceTimeで話していたんでしょうけど、両親と実際に顔を合わせて話す時間も、それくらい大事にしてくれたらいいのに。

母に言われた嫌味の数々を思い出していたら、むかむかと腹が立ってきて、私はスマホを床に投げつけようとした。まさに腕を振り上げた時、スマホが手の中で震えて、見ればダッシュからのメールだった。もう起きてる? ジェムの家で一緒に朝食を食べない? ジェムがアボカドトーストの新たな作り方を発見したんだって。1975年頃のデヴィッド・ボウイよりも美味しいわ、とか言ってるよ。

彼女はデヴィッド・ボウイを食べたことあるの?! 私は思わず、クスクスと笑い出してしまった。一瞬体に痛みが走ったけれど、こわばった筋肉がほぐれていくようで、むしろ気持ちよかった。私はメッセージを打ち返す。私は昼食後なら空いてるわ。その時に会いましょ? ダッシュは「親指を立てた絵文字👍」を返してきた。私は付け加えた。〈ドーント・ブックス〉のチャレンジはどうする? 次のヒントに進む気はある? すぐに「👎」が返ってきた。少し間があって、ダッシュは付け加えた。正直言って、僕は〈フォイルズ書店〉派なんだ。ダッシュがゲームから外れたいと知って、がっかりした気分に包まれそうになった時、彼がハートマーク💖とともに写真を送ってきた。私が作ったアドベントカレンダーのその日のギフトが映っていて、このギフトには考えさせられたよ、と彼が続けた。

画面にはモレスキンのノートから切り取った一枚の紙が映っていて、その紙には私の筆跡で、詩人メアリー・オリバーの言葉が引用されて書かれている。

教えて。この冒険に満ちた一度きりの人生で、

あなたは何をするつもり?

親愛なる神様/アッラー/ブッダ/オプラ ― 私はダッシュにならって神様を一つに限定しないことにしたの。それくらい私は彼を愛してるってことね。あ、オプラ・ウィンフリーは私が尊敬している女性司会者よ。

その時、マークがリビングに入ってきた。ジュリアはまだ二人の寝室で寝ているらしい。「おはよう!」と私は言った。

「コーヒー」と彼がつぶやいた。

彼を追って、私もこじんまりとしたキッチンに入っていくと、彼はさっそくコーヒーを淹れ始めている。マークが言った。「俺が毎朝ジュリアの分もコーヒーを淹れて、ベッドまで持っていくんだ。それでコーヒーを飲みながら、本を読んだり新聞を読んだりする。1時間くらいかけてゆっくり飲んだ方が胃にやさしい、らしいからな。俺たちの朝の儀式なんだよ」

「それってなんか―」

「―『可愛いわね』とか言うなよ」

私は、台本がないようであるようなリアリティショーに出ているカリフォルニアの男女の会話を真似て、鼻にかけるようにわざとアクセントを平らにして言った。「きゃわいいわね」

マークが軽蔑するような表情で私を見た。そういえば、最近私も母を同じような目で見たっけ、と思い出した。彼が言った。「俺は〈ドーント文学チャレンジ〉の次のヒントを持ってるんだ。あのどうしようもないボーイフレンドに、今日のお昼頃会えるか聞いとけ」

「彼はもうゲームに参加したくないって」

「俺は途中で抜けるやつが大嫌いなんだ」

「あなただってウィリアムズ大学を中退したくせに!」

「フィッシュについていっただけだよ! 半年だけのつもりが、ボストン大学の方が俺には合ってるってわかったから、編入したんだ」

「たぶんそれが、ダッシュにも必要なことなのよね。ちょっと進む方向を変えること。中退するんじゃなくて」

「それは何の話だ? 〈ドーントブックス愛書家チャレンジカップ〉の話をしてるんだぞ」

何の話でしょうね。ふと心に浮かんだことなので、自分でもよくわからなかった。私は言った。「とにかく、ダッシュは〈フォイルズ書店〉の方が好きなんだって」

マークがハッと息をのんで目を見開いた。まるで私がヤンキースファンに「メッツも応援しましょう」と提案したかのように、意表を突かれたみたいだ。彼は私の目をじっと見つめ、言った。「お前はチーム・ダッシュのメンバーなのか? それともチーム・ストランドのメンバーか?」

「私はチーム・リリーよ」と私は言った。「最高の自分自身を目指して、レベルアップしていくゲーム中なの。最高のガールフレンドになれるように、最高の犬の散歩者になれるように、最高の家族の一員になれるように―」

マークが手を上げて、私を制した。「美辞麗句を並べるのはやめろ。もう聞き飽きたよ。どうせまた、ネットか何かの受け売りだろ」

彼はすでに、私がここにいることに苛立っているようだったから、私は思い切って言った。「私、残りの滞在期間はホテルに泊まろうかなって思ってるの。あなたとジュリアの邪魔もしたくないし」実はさっき、私の銀行口座に入金があったという驚くべきメールが届いていて、私のお得意様の、犬の散歩のクライアントの1人から、クリスマスのお心付けというか、チップにしては大金の施しがあったばかりなのよ。それで急に視界が開けたというか、これならホテルに泊まれる、という経済的めどが立ったってわけ。

マークがにやにやしながら言った。「ああ、なるほど。そういうわけか。ホテルで彼氏と二人きりになりたいってわけだな。ただ、それはおじいちゃんに報告しないとだな。お前が俺の家には泊まらなかったっておじいちゃんが知ったら―」

「そういう理由じゃないわ」と私は、そういう理由なのかな? と思いながら言った。

「バカなことを言うな」彼は2つのカップに湯気が立つコーヒーを注ぐと、再び寝室へ戻っていった。足でキッチンのドアを閉めながら、「家族は家族と過ごさなくちゃダメだぞ」と言い残して。

家族は家族と過ごす。子供の頃はそれが当たり前だった。ニュージャージーの海沿いに大叔父さんの別荘があるんだけど、毎年夏になると、私の両親とラングストンと私はそこに出かけていって、でも寝室は他の親戚たちでいつも埋まっていたから、私たちは物置部屋みたいな狭い部屋で、4人で身を寄せ合うようにして寝ていた。家族は家族と過ごさなくちゃダメ。おじいちゃんの兄弟のお孫さんにルイーズっていう女子大生がいるんだけど、週末を利用してペンシルベニア大学のオープンキャンパスに行った時、彼女のしっちゃかめっちゃかに物があふれていて、足の踏み場もないような部屋に、私は泊まる羽目になった。―それで彼女の部屋と大学があるフィラデルフィアを嫌いになったんだけど、私があそこにはもう行きたくない!って言ったら、両親は不思議そうに首をかしげた。一人暮らしはしたくないってことね、と母は勝手に解釈して、来年はバーナード大学に家から通いなさい、としきりに言い出した。―キャンパス内に住むとなったら学費の上に寮費もかかるから、両親の懐事情を考えると、その方が好都合なんでしょう。あるいは、イースト・ビレッジの私たちの実家に残るのが、母とブルマスティフだけになっちゃうから。つまり、巨大な犬と一緒にあの家に取り残されるのが怖いっていうのもありそうね。

家族は家族と一緒に過ごす。それは私たちの家族にとって、もう価値ある指針でもなんでもない。―もうそんな価値観にとらわれるのはうんざりだった。

私はマークとジュリアに向けて、「今日は一日中観光してくる」とメモを走り書きして、彼らのアパートメントを後にした。


ウォータールー駅から30分ほど電車に揺られ、ロンドンから南西に18キロほど行ったところにあるトゥイッケナムで降りた。この町の名前の響きが好き。トゥイッケナム。とってもブリティッシュな響きでしょ。名前から漠然と予想した感じでは、かなりの高級住宅地か、あるいは典型的な労働者階級の町か、どちらかね。それこそ、「精が出ますな、おやっさん」ってみんなが言ってそう。そんなことを考えながら、駅を出て歩き始めると、どうやら裕福な住宅地のようだった。道路沿いに、きゃわいい感じの家々や、おしゃれな建物が並んでいる。でも、なんだかさびしい雰囲気に包まれた町だと思った。空には灰色の雲が掛かっていて、辺りが薄暗かったからっていうのもあるけど。

私は手元の案内状を見ながら、その指示に従って、大通りから外れ、細長い一本道を突き当たりまで歩いていった。そこに大きな木が一本そびえ立っていて、木の幹には、「犬は大歓迎よ。人間は遠慮してね」と書かれた張り紙がくくり付けられていた。その巨木の横に、私の背よりもはるかに高い木製の門があった。私は門の掛け金を外すと、中へと入り、案内状に書かれている通りに、掛け金をきっちり締め直し、押しても門が開かないことを確認した。門の内側には、質素な二階建ての、かやぶき屋根の家が建っていた。門を開ける前は、駅からの道沿いに建ち並んでいたような普通のイギリスの家ではなくて、向こう側には『ナルニア国物語』に出てくるような、お城みたいな家がドンッと登場すると期待していたから、それを見てちょっとがっかりした。私は玄関の前まで行き、ベルを鳴らした。そのベルの音は、この世界のあらゆる雑音の中で最も美しい響きをともなって、辺りに広がった。私の大好きな音。―すぐに反応したのは犬の声だった。ベルの音に興奮したように吠える声が聞こえてくる。それから、玄関の近くの、少し開いていた窓から女性の声が聞こえた。「お客さんが来たのよ、イニス!」

犬に話しかけているらしいその声は、小鳥がチーチーさえずっているような細い声だったので、玄関から、気難しそうな顔の女性が出てきた時は、そのギャップにびっくりしてしまった。おそらく60代くらいの、白髪が筋状に混じった赤茶色の髪をしたその女性は、無愛想に私を見ると、素っ気なく言った。「私が校長のジェーン・ダグラスよ。あなたがリリーさんですね?」

「はい、私がリリーです!」

彼女はさらに顔のしわを深め、不愉快を露わにした。「あなたたちアメリカ人って、いつもそんな感じで、不必要なくらい陽気なのよね」彼女は、私の認識ではたぶんスコットランド訛りで、そう言った。私はテレビドラマ『アウトランダー』を食い入るように全話欠かさず見ていたから、スコットランド訛りで間違いないでしょう。そして、この周りを寄せ付けない感じの、彼女のいかめしさは、ストーリーの後半で裏切り行為に走る人物って感じね。これも『アウトランダー』に基づく予想だけど、当たってそう。

しかし、彼女の愛犬は私好みだった! 短毛のテリア犬で、茶色と白のまだら模様のふさふさした毛並みをしていた。体重は10キロをちょっと超えるくらいの、やや小さめの中型犬で、ピットブル犬みたいな愛らしい顔をしている。彼女は愛おしそうに私をペロペロと舐めて歓迎してくれた。「この子はイニスよ」とその女性が言った。

「犬種は何ですか?」私は身をかがめ、よしよしと彼女の頭を撫でてやり、挨拶を返した。

「スタッフォードシャー・ブル・テリアよ」

「彼女は私のことが気に入ったみたいです」私もイニスが気に入ったわ。彼女は人間の心を持ち合わせているのかしら? わからないけど。

「彼女の愛情を自分だけに向けられたものだとは思わない方がいいわよ。彼女は誰に対しても、そんな風にふるまうの。その犬種はね、犬の中でもとりわけ人懐っこいのよ。特に小さな子供には、一緒に添い寝してあげるくらい寛容だから、その犬種のニックネームは―」

「―子守犬ね!」私はイギリスの犬に関する本で、この犬種について読んだことを思い出し、先回りして言った。

「私は話に割って入られても、気にしないわ」とジェーン・ダグラスが言った。「正解よ。よくできました。さあ、お入りなさい」

私は彼女の後に続いて、玄関ホールを通り、壁がガラス張りになったリビングルームに入っていった。リビングは大きな庭に面していて、庭の端に花壇が一つ見えた。小型犬がはしゃぎ回るには十分に広々とした庭だった。リビングには暖炉があり、いくつかの椅子が散らばるように置かれ、ソファが二つ向かい合っている。「私は大体ここで講義してるのよ」彼女はそう言って、私に座るように手で促した。

「ここで?」私は彼女に口ごたえするつもりはなかったけれど、どうしても驚きを隠せなかった。このリビングルームが、あの有名なペンブローク・ケイナイン・ファシリテーター・インスティテュート(PCFI)?

彼女が私の向かい側のソファに座ると、彼女の横の床の上にイニスが座った。「みんなそうやって驚くのよね。なぜそんなに驚くのか、私には理解できないわ。私は年間20人しか生徒を取らないし、コンクリートで囲まれた建物より、こうして自分の家で講義した方がずっと快適じゃない」

「でも...生徒が実際に犬と触れ合える施設とかないんですか?」

「もちろんあるわよ。地元の救護施設と提携していて、そこを使わせてもらってるの。町の中心地からはちょっと距離があるんだけどね。彼らは今、クリスマス後に開催される〈犬のサポーター世界教育会議〉の準備で忙しいから、今日はそっちは案内できないんだけど、ほら、ごらんなさい。見ての通りここに、学びに必要なすべてが揃ってるでしょ」

「ここに? すべてが?」

「こうして犬もいるし、外に庭もある。私が自分で作った厳密なカリキュラムも用意してあります。犬の行動原理、ボディーランゲージ、発声法。犬はどのように考え、どのように学習する動物なのか。セラピー犬の訓練法。解剖学と応急処置」

私はもう一度聞いた。「ここでですか?」ジェーン・ダグラスは、ここがリビングルームだということに気づいているの?

彼女は言った。「本から学ぶプログラムは、ここでやります。その知識を使って、実際に犬と触れ合いながら行う実習は、施設でやります」

私は黙りこくってしまった。なんて言えばいいのかわからなかった。「犬の学校のハーバード大学」って聞いたから、すごく期待して来てみたら、これ? なんか違う、というか、全然話が違うじゃない! でも、こういうことってよくありそうね。〈Reddit〉サイトのコメントだけを見て応募して、実際に入学してみたら、思ってたのと全然違った!って嘆く人、結構沢山いそう。PCFIはホームページもなくて、インスタグラムもやってないみたいだったけど、イギリスの熱心な愛犬家たちからのコメントがどれも素晴らしくて、私は夢をかき立てられたのよ。(もしかしたら、ダッシュも同じ経験を味わったんじゃないかしら。ネットでオックスフォードへの夢をかき立てられて、実際に入ってみたら...)

うちの両親は、私がニューヨーク市内にあるバーナード大学に行くものと思い込んでいるから、絶対に賛成しないでしょうね。バーナード大学はコロンビア大学のすぐ隣にキャンパスがあるから、ダッシュがコロンビア大学に入ってくれれば、私も一緒に行ってもよかったんだけどな。でも、PCFIは1年で修了するプログラムだから、その後に大学に行くって言ってセールストークをまくし立てれば、両親を説得することは可能かもしれない。けど、それってかなり難しい売り込みになりそうね。

「住まいはどうするのですか?」と私はおとなしめに尋ねた。

「それは自分で考えてちょうだい。ここで学ぶ学生の中には、共同で住める部屋を見つけて、一緒に住んでいる人たちもいますし、卒業する時に新入生に部屋を譲ってくれる人も多いですよ。あとは、〈ペットショップ・レジデンシー〉に申し込むという方法もあります」

「それって何ですか?」

「外に出かけましょう。散歩がてら案内してあげるわ。町の中心地にペットショップがあるんだけどね、その上の階に部屋があるの。そのペットショップのオーナーがね、毎学期1名に限って無料でそこに住まわせてくれるのよ。私の生徒の中でも、とりわけ幸運な1人にね。まあ家賃の代わりに、お店が閉まっている時間は店内のペットたちの世話をする、という条件は付きますけど。行きましょう、イニス」

なかなか難しい選択になりそうだった。バーナード大学に通いながら、不機嫌な母と一緒に暮らし続けるのか。PCFIに入って、ペットショップの上の〈レジデンシー〉とかいう部屋に居候するのか。どちらも魅力が薄い気がする。

外に出ると、先ほどぱらつき始めていた小雨が本降りに変わっていた。ジェーン・ダグラスの家の前の庭は雨に打たれ、さっきよりも芝生の緑が濃く見えた。とはいえ、もの寂しい雰囲気は相変わらずだった。なぜだかはわからないが、私はその殺風景な景色に心惹かれるものがあった。不思議な気分だった。ここからなら、電車に乗ればダッシュに会いに行ける。―それなら、リビングルームの学校に通うのもありかなって気がしてきた。町の中心地に向かって歩いていると、ジェーン・ダグラスがイニスをつないだリードを私に手渡してきた。

「あなたの腕前を拝見させてもらうわ」と彼女が言った。私は右手でそのひもを持つと、イニスが私の左側を歩けるように、腕を斜めにして交差させた。それから、ひもを持っている手を私の体に近づけて、イニスが自分の意思で自由に歩けるように、ひものゆるみを調節した。ひもを伸ばしすぎると、犬の足がひもに絡まっちゃうから要注意だ。「すごく上手ね」とジェーンが認めてくれた。

「私は犬の散歩のプロですから」と私は彼女に言った。

「それは知ってるわ。あなたの願書を読みましたから」

「この学校には、他にもドッグフルエンサーがいるんですか?」と私は期待を込めて聞いた。

「ドッグフルエンサーって何かしら?」

「犬好きで、ソーシャルメディアのフォロワーがたくさんいる人たちです」

「そういう人たちは歓迎しないわね。ここに来る学生には、動物に奉仕してもらいたいのよ。自分たちに奉仕する動物を探しているような人たちではなく」

話が正確に通じていないようで、私はもの思いに沈んでしまった。この学校は史上最悪に頭の悪い人が運営しているのか? それとも、最悪を装って実は、天才にしか話がわからないほど高度な学習機関なのか? 「トゥイッケナムに住むってどんな感じですか?」と、私は大通りに近づいてきたところで聞いた。

「ロンドンから近いって喜んでる学生もいるわ。中には、そんなに近くもないって不満を漏らしてる人もいるけど。トゥイッケナム・スタジアムがあって、イングランド・ラグビーの本拠地なのよ。試合当日は、8万人の酔っ払ったファンがこの町にどっと押し寄せてくるわ。それから、ヒースロー空港の滑走路が近くにあるから、ジェット機の騒音とか、空港へ向かう車が混雑した時には、排気ガスでどんより空気が曇ることもあるわ」

「今のところ、なんだか素晴らしい町のようですね」と私は言った。

「あなたのユーモアのセンス、気に入ったわ、リリー。犬の扱い方もね」私たちは交通量の多い大通りを渡ると、小道に入っていった。川沿いに広がる公園を横目に小道を歩いていく。「トゥイッケナムの魅力的でない部分は今話した通りですけど、ちゃんと素晴らしいところもありますからね。公園。テムズ川。あなたはイングランドの古風で趣のある町を想像していたのかもしれないけど、トゥイッケナムにはトゥイッケナムにしかない風情があるのよ」

公園のベンチに座って、風情を醸し出している人が目に入った。「あれは誰ですか?」と私は聞いた。

それは、身長から顔のしわまですべてを忠実に再現したリアルな女性の彫像だった。彼女はひざの上に置いた本と帽子に手を添えるようにして、心がなごむようなたたずまいでベンチに座っている。「かわいそうなヴァージニア・ウルフよ」とジェーン・ダグラスが言った。「彼女は精神を患って、ここトゥイッケナムの保養施設に入院していたの。彼女の栄誉をたたえて永久的な像を建てるという提案もあるんだけど、その資金はいまだに承認されていないわ。これは、地元の芸術家が発泡スチロールで仮に作った等身大の彫像だけど、本当に彼女がそこに座っているみたいで、身近に感じられるでしょ」彼女の足元の舗道には大きな石が置かれ、そこにヴァージニア・ウルフの言葉が彫られていた。

あなたの心にも書斎があるでしょ。好きなだけ本をしまっておける図書館ほどの広い部屋よ。そこには門も鍵もかんぬきもないから、自由に出入りできるわ。

本は魂を写す鏡なんですもの。

当然のように、ダッシュのことが頭に浮かんだ。彼が最近、どれほどの喪失感にさいなまれていたのかを考えていた。

そして私は思った。私は自分の人生をどう生きていきたいのか、はっきりとわかったわ。それをどうやって実践していけばいいのかはまだわからないけど、―PCFIがその場所になるのかどうかもわからないけど、―でも、確信を持って言えることがある。私は生涯を通じて、犬に関わる仕事をしていきたい。私はバーナード大学には行きたくない。

教えて。この冒険に満ちた一度きりの人生で、

あなたは何をするつもり?

犬に関わる仕事をして、ダッシュのそばで暮らすこと。それ以上の冒険に満ちた一度きりの人生なんてないでしょ? なぜそれを実現するのに大学を卒業するまで待つ必要があるの? 私が望んでいる人生が、それなのよ。学校が誰かの家のリビングルームだって何か問題ある? 私はお金持ちになる必要はないし、有名になる必要もない。おとぎ話のお姫様になる必要もないわ。親を喜ばせるために、一流の教育を受ける必要だってない。私は私自身を喜ばせる必要があるだけよ。

人生はとても厳しい。どこを見てもそれがわかる。路上に目を向ければ、ホームレスの人たちがいる。地球に目を向ければ、人間がどれほど悲劇的に地球を傷つけているかがわかる。人間同士もずいぶんとひどく傷つけ合っている。私は自分がどれだけ幸運であるかを知っているし、私は自分に与えられた特権を当たり前に持てるものだとは思っていない。

正直なことを言うと、私の両親は、私がダッシュと別れた方がいいと思っている。うちの親は彼のことを十分に気に入ってはいるんだけど、あなたはまだ若すぎて、自分が何をしたいのかわかってないのよ、としょっちゅう言ってくる。でも、そう言われるたびに思う...本当にそうかしら? 大叔父のサルおじさんは、彼の両親の反対を押し切って、高校時代から付き合っていた恋人と18歳になったらすぐに結婚した。それから、もう50年以上も一緒に暮らしている。子供が4人いて、孫も9人、そして、ひ孫がもうすぐ生まれるのよ。聞くところによると、双子が生まれてくるらしいわ。ニュージャージーの海岸沿いにあるサルおじさんの家は、いつも混み合ってはいるけど、愛と笑いが絶えず溢れている。彼らは18歳の時、自分たちが何をしたいのか、ちゃんとわかっていたでしょ。

そして突然、発泡スチロールのヴァージニア・ウルフを見つめていたら、自分の将来がどうなるかというビジョンがパッと浮かんだ。それは閃光が走ったように一瞬で灯った光だったけど、これから先も消えることはないだろうと確信できた。私の将来は、少なくとも現時点の考えでは、ここイギリスにあった。味気なくて、風変わりで、素晴らしい国、イギリス。味気なくて、風変わりで、素晴らしい人、ダッシュとともに。

そして、〈ペンブローク・ケイナイン・ファシリテーター・インスティテュート〉が、おそらく私の未来を築いていく場所になるでしょう。ロンドンに戻る電車の中で、私は母にリクエストされたクリスマスプレゼントを書き、それを同時送信で、母にも送ることにした。


拝啓、ガーベイ教授

あなたの授業の聴講のお誘い、それから、私のバーナード大学でのコース選択について相談に乗ってくれる旨、とても感謝しています。あなたは素晴らしい洞察力をお持ちだと確信していますので、あなたのお誘いは大変ありがたいのですが、私はバーナード大学には行かないことに決めました。私の席を、心からあなたの大学に行きたがっている人にゆずります。そういう人こそが座るべき席だからです。本当にそれを望んでいる人にお与えください。私はわかったのです。今の私の望みは、ニューヨークとはかけ離れた場所にあります。

                                   敬具

                                   リリー


送信ボタンを押した後、私はロンドンでの残りの滞在期間のためにホテルを予約した。一丁前の大人になった気分だった。

早く街に戻って、ダッシュに会いたかった。会ったらすぐに知らせたかった。あなたと私で、一緒に暮らしましょう! ここイギリスで! 彼にメッセージを送ろうとした直前だった。彼から画像付きのメッセージが届いた。それは雪に覆われたニューヨーク、セントラルパークにそびえ立つクリスマスツリーの写真で、その下には彼の気持ちが書かれていた。僕は一刻も早くニューヨークに帰りたいよ。




8

ダッシュ


12月21日と12月22日

僕は何時間もさまよい続け、ようやく家に帰る道筋を見つけた。

スマホのバッテリーも切れていて道案内をしてくれるものは何もなかったけれど、僕はとにかくがむしゃらに突き進み、いつしか通りに出た。僕はもはや森の中にはいなかった。しかし、今度は別の種類の森に迷い込んだようだった。頭上を覆う木々の葉っぱが、そこではコンクリートやガラス窓に変わっていた。僕はコンクリートジャングルを縫うように歩きながら、静けさが街全体に広がりつつあるのを感じた。もう寝るべき時間を過ぎてしまったようで、意識がどんどん薄れていく。

ニューヨークではこういうことはよくやった。僕は街の中をひたすら歩くのが好きだった。混雑した地下鉄に乗り込んで汗だくになるくらいなら、50ブロックくらい平気で歩いて帰った。マンハッタンなら、あそこは僕の専用サーキットみたいなものだから、何も考えなくてもすいすい歩けた。しかし不慣れなロンドンでは、一歩一歩に不安がつきまとう。さまよい歩くという行為は同じでも、知らない街を歩いていると、新たなセンセーションが体内で呼び覚まされた。おなじみの世界が異次元に移ったかのような、地理の感覚が僕の中でがらりと変化したような、不思議な感覚だった。パブに入って、ちょっと何か補給しようかとも思ったけれど、やめておいた。そこで僕は道路脇に表示された地図を見つけた。その地図は日中の観光客向けのようで、夜の放浪者には不親切だったが、とにかく川を目指すべきだということはわかっていたので、しばしその地図を見つめながら、帰る道筋を吟味した。川の向こう側に行きさえすれば、なんとかなるはずだ。

テムズ川にかかる〈ミレニアム歩道橋〉にたどり着いた頃には、もう真夜中を過ぎていただろう。それでも橋の上にはまだ、ちらほらと人がいた。―ビールをたらふく飲んできたのだろう酔っぱらいがふらふらと歩いていた。カップルたちは、お互いの体を温めようとして、あるいは、二人の絆をつなぎ止めようとするかのように、身を寄せ合って歩いている。タキシードの正装に身を包んだ男の一団もいた。誰もが僕には見向きもせず、すれ違って行く。僕は自分が幽霊になったかのような感覚に陥った。自分の存在が危うくなるのを、僕は必死でつなぎ止めた。自分自身に錨を巻き付けるようにして足を踏ん張り、実存の世界に身を留めようとした。周りを見れば見るほど世界は広がり、自分の立ち位置が薄れていくようだ。僕は自分がどこに向かっているのかわからなかったが、とにかく狭い範囲に焦点を合わせることに努めた。テムズ川沿いにジェムのタウンハウスがある。とりあえず今は、そこが僕の目的地だ。

テムズ川の南側まで来ると、なんとなく知っている地区に入った。それでも僕は、まっすぐにジェムの家を目指さなかった。ようやく安心した気持ちで街を歩けるようになったのだから、もう少し歩いていたくなったのだ。僕は適当に角を曲がりながら、誰もいない通りを歩き続けた。昼間は混雑している空間が、今ではしんと静まり返っている。頭をすっきりさせるのに、これ以上うってつけの場所があるだろうか?

僕はこのような孤独を必要としていた...一旦独りになって、そこから戻る必要があったのだ。


携帯に充電器をつなぐと、すぐにリリーにメールした。それからキッチンに行って、もう寝ているジェムへ謝罪のメモを書き、ベッドに倒れ込んだ。間もなく意識が無限に広がっていき、僕は夢のない眠りに落ちた。翌朝、ドアの方から聞こえてくるジェムの声で目覚めた。「ダッシュ、ちゃんと時間を取って、マナーについて話さないといけないみたいね」

「ごめんなさい」と僕は目を開けずに言った。「僕の中でやる気というか、気力がなくなっちゃって、そしたら、それにつられて携帯電話のバッテリーも切れちゃって、だから、ぶらぶらしてきた」

「たしかにそういう衝動には同情もするけど、その方法論は看過しかねるわね」うっすら目を開けると、僕の部屋を見回している彼女が見えた。「でも少なくとも、ちゃんとスーツをハンガーにかけてから寝たようだから、酔っぱらって帰ってきたわけではなさそうね」

「僕の唇を潤す唯一の霊薬は、独りになること」と僕は彼女に向かって断言した。

「それにひたり過ぎないように気をつけなさい」とジェムが忠告した。「食生活と同じで栄養のバランスが必要なのよ。良い仲間と過ごす時間がたっぷりあってこそ、霊薬は効果を発揮するの。そこがないと、お酒と同じで悲惨な運命が待ってるわよ」

「今日は一日中、良い仲間との時間に専念するよ」と僕は約束した。「一日の始まりも、一日の終わりも、そして中間もずっとリリーと一緒に過ごすんだ」

「彼女はもう起きてるの?」

「どうだろう。今朝はまだメールもフクロウも送ってないから」実のところ、彼女がどこに泊まっているのかも知らなかった。まあ、あのいけ好かないマークの家だろうけど。

「じゃあ、もし起きてたら、彼女も朝食を一緒にどう?って招待してあげて。イギリス人はワカモレっていう素晴らしい朝食を発明したのよ。アボカドとかをすりつぶしたサルサ料理で、コーンチップをそれにつけて食べるのが定番なんだけど、それをトーストにのせて食べると、これが絶品なのよ」

「アメリカの若者たちにも大人気、なんでしょ」

「ほんとそうなのよ。一口噛むごとに、『Young Americans(アメリカの若者たち)』を出した頃のデヴィッド・ボウイを思い出すわ。あのアルバムの中でも、特にあの曲ね、『Somebody up there likes me』(ボウイは私を好きなんだと思うわ)」

リリーにメールを送る前に、今日の〈アドベントカレンダー〉を開いた。中には一枚のノートが入っていて、メアリー・オリバーの元気をくれるような言葉が書かれていた。

教えて。この冒険に満ちた一度きりの人生で、

あなたは何をするつもり?

とても良い質問だと思った。一人で答えるにはもったいないくらい良い問いかけだったから、リリーと一緒に考えたかった。

のそのそと部屋を出てキッチンに入ったところで、リリーにメッセージを送った。すると、彼女は昼食の後まで空いていないと返信が来た。幸いなことに、マークが手がかりを握っているあの文学ゲームから抜けることには、彼女も賛成してくれたようで、ほっとした。これでマークの指図に従うことなく、二人で自由にどこへでも行ける。(イアン卿もこの決断にはうなずいてくれると思う。)

ジェムは、リリーが朝食に参加できないと知ってがっかりしたようだったが、それを素直に受け止め、応接間に入ると、『Young Americans』のレコードをターンテーブルに乗せ、針を落とした。それを聞きながら、僕たちは朝食を食べ、僕も一緒に『Fame(名声)』を歌った。歌詞をよくよく嚙みしめながら歌ってみると、ボウイが有名であることにどれほど追い詰められていたかが伝わってきて、僕は有名人でもなんでもないのに、僕もファンに追いかけられている気分になった。その時、悲劇的なことが起きた。―レコードがエンストを起こしたようにガクンと止まったかと思うと、わだちにハマったかのように、ただでさえ繰り返しが多いこの曲の一箇所を繰り返し再生し始めたのだ。

「あら、よくないわね」ジェムが首をかしげる中で、ボウイが「I reject you first over and over.(もう何度も、君とは付き合えないって断っただろ)」と繰り返し歌っていた。

ジェムはレコードの傷口から針を抜くと、自分の傷口に軟こうを塗るように、ボウイの『Low』を流し始めた。キッチンに戻ってきたジェムが言った。「今日〈FOPP〉に行って、新しい『Young Americans』のレコードを買ってきてちょうだい。自分で買いに行きたいところなんだけど、今日は一日中〈Liberty〉のブティックに出なきゃいけないのよ。今日もお客さんで混雑するわ。私が出ないとクリスマスシーズンを乗り切れるかどうかもわからないわね」

僕はシャワーに向かった。(イギリスのシャワーは地味に滴る点滴みたいで、ターボジェットの激しいシャワーが恋しかった。)それでも僕は、シャワーを浴びながら耳に残っていた『Fame』を歌い続けた。ボウイのハイトーンボイスは、(シャワーの中で声を張り上げても届かないくらい、)僕が真似できるものではなかったけれど。

おそらくそれは僕の名声への思いの丈だったのだろう。あるいは、僕の意思ではどうにもできないほど神経が高ぶっていて、自由時間ができたらすぐにスマホを手に取りたい衝動に駆られていたのか。いずれにしても、僕の思考は再び、リリーがネット上で存在感を発揮している、という思念に舞い戻っていた。―存在感。僕にはまるで縁のなかった言葉だ。―服を着て、玄関でジェムを見送った後、僕は自然と〈犬の散歩人リリー〉のインスタグラムを開いていた。

なぜ今までチェックしなかったのだろう。インスタが流行っていることは知っていたが、スーパーマーケットの掲示板にベタベタと張り付けてある、コピー機で量産したようなフライヤーのたぐいだろうと高をくくっていた。―完全に僕の想像力の敗北だった。インスタを開いた瞬間、色とりどりの写真が画面を埋め尽くした。こういう文化があることは知っていた。ただ、写真がここまで親和性があるとは、僕の想像力は及ばなかった。みんなが見たいと思うような、目を引く写真を追い求める文化、といった感じだろうか? チェスをしている犬。ハンバーガーの衣装に身を包んだ犬。冷蔵庫に入っては戻ってきて、また入っては戻ってを繰り返している犬もいた。

しかし、リリーのインスタグラムはそういったものとは一線を画していた。確かに犬の写真ではあったが、決して犬だけでは写っていなかった。どの写真にも必ず、犬と一緒にリリーがいた。ジャック・ラッセル・テリアが公園の滑り台を必死で駆け上がろうとしている写真には、その犬を温かい眼差しで見守るリリー。4匹のブルドッグを引き連れて、ワシントンスクエア公園のアーチの下を幸せそうにくぐり抜けるリリー。木から離れようとしないチワワを優しくなだめながら、先へ進ませようとしているリリー。それらの写真は自撮りではなかった。カメラに向かってポーズを取っているわけでもない。なんとなくカメラの存在に気付いているような写真もあるが、ほとんどの写真では、彼女の意識は犬に向けられていた。そう、これらは他人が撮って投稿したものだった。みんなリリーが何者かを知っていて、どこで待っていれば、彼女が犬を連れて通るのかを知っているのだ。

すなわちそれは、リリーが有名人だということを意味していた。

全国レベルではないかもしれないが、間違いなくニューヨークではセレブだった。それはつまり、こういう人たちと同じ部類に彼女も入ったということだ。地下鉄に乗ると必ずといっていいほど広告が目に入る皮膚科の医者。ニューヨーク市長に復讐するために、市長の4人目の愛人をそそのかした3人目の愛人。ちょっと頭がおかしくなった美容師は、何人ものお客さんの首の後ろに自分のイニシャルを剃り込んでいった。数週間後になって、ようやく気づいた客たちが騒ぎ出したが、噂が広まるにつれ、そのイニシャルは一種のステータスを獲得し、リッチな人たちは数百ドルの追加料金を払って、イニシャルを剃り込んでもらうようになった。

さらにリリーは、ニューヨークのセレブたちの仲間入りを果たしたというだけでなく、―それを自覚しているようだった。彼女のインスタグラムは、〈リリー・ドッグクラフト〉というウェブサイトにつながっていて、そのウェブサイトには「SHOP」と書かれたボタンがあった。そのボタンを押してみると、犬用のレインコートがいくつも売られていた。犬用のセーターもあったし、犬用のニット帽もあった。〈ドーント・ブックス〉でリリーとアズラが話していたレインコートもあった。胸のところに〈Lily〉というブランド名が入っていて、たしかに裏地にはうんち袋を入れるポケットも付いている。

「こんなの実用的じゃない」と僕は声を荒げて言っていた。犬の糞を胸のうちに秘めて歩くなんて僕にはできない。

リリーがネット依存症だとか、他人のあら探しに病みつきになっているとか思っていたわけではない。彼女がソーシャルメディアを使っていることは知っていたが、僕が漠然と想像していたのは、友達の猫の写真を見るとか、見知らぬ人の腎臓手術のために寄付するとか、そういう用途だったのだ。言い換えると、彼女は周りの物事を見るためにSNSを使っているとばかり思っていた。まさか、見られるためだったなんて。

ふたを開けてみれば、思っていたのとはまるで違う世界にリリーはいた。

彼女を誇りに思うべきだということは頭ではわかっている。犬の散歩のビジネスが繫盛していることは知っていた。―だけど、これは全くの別次元へと彼女をのし上げているではないか。湧き上がる自分の感情を抑え込もうとしても無理だった。気づけば僕は...むなしさでいっぱいになっていた。僕たちは名もなき二人組だと思っていた。でも今僕は、名のある一人を見ている。彼女の近くには、僕の存在を示す痕跡はどこにもない。

僕は画面をスクロールさせて最初に戻り、もう一度上から順に写真を見ていった。犬、リリー、犬、ニューヨークの街並み。やはりどこにも僕がいない。そうだ、と思い立ち、僕は彼女のFacebookのプロフィールを見に行った。そこにはちゃんとリリーと僕が写っていて、僕はほっと胸をなでおろす。去年の夏、ブライアント公園の野外広場で行われた無料の映画鑑賞会の時の写真だった。芝生の上に毛布を敷いて、公開されたばかりの映画『ブックスマート』を観たんだ。二人とも弾けるような笑顔をしている。―カメラを手にしているのは友達のブーマーで、彼は「はい、チーズ」と言う代わりに、「ヤールスバーグ!」とか「ペッパージャック!」とか「ハヴァルティ!」などと、色々な種類のチーズの名前を天に向かって叫びながら、カチャカチャと写真を撮りまくっていた。僕たちの周りにはたくさんの若者たちがいたけれど、皆、はしゃぐ僕たちを白い目で見ていたから、次第に僕たちもしょんぼりと大人しくなってしまった。大画面で上映されていた映画がチーズ並みに安っぽいラブロマンスだったというのもあるけれど。

ロンドンの街を散策しようと外へ飛び出してからも、僕はリリーと一緒にタイムマシンに乗り続けていた。テムズ川の上を歩いていても、ニューヨークのハドソン川のことを考えていた。ウォータールー橋を渡り切ると、〈ストランド通り〉という表示が掲げられた通りに出た。その道を歩いていると、〈ストランド書店〉の書棚の間を練り歩いている気分になった。ピカデリーサーカス広場に立ち寄ってみると、二人で行ったタイムズスクエアを思い出した。僕はタイムズスクエア自体には愛着を感じていないけれど、リリーがタイムズスクエアのきらめくネオンに見とれている様子には、色とりどりの光を浴びてリリーの横顔がきらめく美しさには愛着を感じていた。僕はただ、人々がごった返しているな、と思って眺めていただけだったが、彼女はその群衆を人々の織りなす集合体として見ていた。僕にとっては目がチカチカするうざいネオンの光も、彼女には光のショーだったのだ。彼女の目を通してその場所を見ることで、そこに命を吹き込むとまではいかないにしても、僕が一人で通る時には感じなかった人間味がそこには生じていた。そして、自分が身を置く街に人間味を感じると、ますますその街が自分のホームグラウンドに思えてくるものなのだ。

僕は〈ウォーターストーン書店〉の本店に足を向けた。どこの街にいても本屋に行きさえすれば、きっとホームのような居心地の良さを感じさせてくれる。〈ウォーターストーン書店〉は僕の期待を裏切らない素敵な書店だった。しかし無数の本の間に逃げ込んでみても、心酔するような安堵感は得られなかった。様々な書店員さんがお薦めしている沢山の手書きのテロップを見て、一瞬笑みがこぼれはしたが、この街が僕の鼓動と直接つながっているような、血のかよった感覚はなく、やはりよそ者感は否めない。よりきちんとした教育を受けようと、僕は飛び出すようにオックスフォードに来てしまったけれど、ニューヨークが教えてくれた色々なことを、あのとき全部置いてきてしまったのだろうか? 両親から離れて暮らすことは、むしろ望んでいたことだったけれど、リリーやブーマーや、ダヴやヨーニーやソフィアたち、それから他の友人たちも、みんな家族の一員みたいなものではなかったのか?

僕は一刻も早くニューヨークに帰りたいよ、と気づけばリリーにメールしていた。それから、なんだかずいぶん長いこと帰ってない気がする、と付け加えた。

彼女からすぐに返信がなかったので、僕は指を止められず、追伸を打った。

今日は気分だけでも、僕と一緒に『Young Americans』に戻らないか。

そして僕は彼女に、レコードショップ〈FOPP〉のここから一番近い店舗のリンクを送った。


耳から脳に至る神経回路が電子的なリズム音で憔悴しきっているなら、〈FOPP〉のような店は、古き良き文化へと原点回帰するのにうってつけの場所だ。壁一面にはぎっしりとレコードが敷き詰められ、通路沿いの棚にはCDやDVDも並んでいた。言い換えると、1994年に戻りたいと願う僕たちのような人種にとって、そこは安息の地だった。お客さんもなんだか当時を意識しているようで、ファー付きのコートを羽織り、開いた前面からはフランネルのチェックシャツや、バンド名が書かれたTシャツがちらほらと見えた。店員はみんなバンド活動をしているか、少なくともライブハウスで照明とかの仕事を掛け持ちしているように見える。スティーヴィー・ワンダーが頭上で歌っている。その歌声、ピアノの音、間奏さえもがこの店に集う僕たちの心にまっすぐ降り注ぎ、クリスマスの幕開けにこれ以上ふさわしい喜びの歌はないと思わせてくれる。

僕の知る限りでは、ジェムのレコード・コレクションの中に、ジョージ・マイケルの後期の作品は見かけたことがあるけれど、それ以降の歌手やバンドの作品は所蔵されていないようだった。僕はリリーを待ちながら、彼女へのクリスマス・プレゼントとして、僕の好きなバンド〈ザ・ディセンバリスツ〉と〈ザ・ナショナル〉のレコードをいくつか選んだ。それからボウイのところに行き、『Young Americans』のオリジナル音源に忠実なリマスター版を見つけた。僕はボウイのアルバムを一枚ずつ手に取って見ていった。彼の目が次々と現れ、空間の四方八方に視線を投げかける。―斜め上を見たり、下を向いたり、横を向いたり、まっすぐこちらを見つめてきたり...彼は同じような写真を絶対に撮られたくなかったのか。僕の目の前に、彼自身の発明品ともいうべきデヴィッド・ボウイという人間が、これでもかと立ち現れる。凄い人だと感心はするが、人生においてどうやったらそんな自分自身にたどり着けるのか、僕にはその道筋が見えない。

「私はベビーシッターに世話をしてもらっていたんだけど、彼女が来るたびに『ラビリンス』を見せられていたの」とリリーの声が背後から聞こえた。「私はまだ小さかったし、デヴィッド・ボウイが人形の方なのか、魔王の方なのかわからなかったわ。ラングストンが音楽にのめり込むようになるまで、彼が歌手だということも知らなかったの。ラングストンに『何聴いてるの?』って聞いたら、そのアルバムを見せてくれたのよ。私は『えー! あのラビリンスに出てた人じゃない!』って叫んじゃった。そしたら、私がまたヒストリーを起こしたと思われちゃったけど」

僕はとっさに振り向くと、目の前に立つ彼女に思わずキスしてしまった。それから、「どうせ俺の人生なんて、所詮笑い話だよな」と言ってみた。

「どうしてそう思うの?」と彼女が聞いてきた。

「ああ」と僕は言って、『Young Americans』のレコードを持ち上げた。「このアルバムのタイトル曲の歌詞だよ」

「なんか私、話についていけてないみたいね」

彼女はボウイの隣の列に詰め込まれたレコードを1枚ずつ指で持ち上げ始めた。頭上から降り注ぐ曲がオアシスの『ワンダーウォール』に変わった。彼女の顔がパッと輝く。「私、この曲知ってるわ」と彼女が言った。「大好きなの。ワンダーウォールって何なのか、いまだによくわかってないけど」

「よくわからないってところがみそなのさ」と僕は彼女に言った。「彼は好きな人への気持ちを歌詞に込めたんだ。ほら、今のところ、『君は僕のワンダー・ウォールだ』っていう前に、『君が僕を救ってくれる人になるだろう』って歌ってるだろ。つまり、それがワンダーウォールの定義だよ」

「そういうことなら、あなたは私の...ソング・ループね。歌がぐるぐる頭をめぐってる感じ」

「じゃあ君は、リリーは僕のジョイ・ピルだ。僕の体内に喜びをもたらしてくれる感じ」

僕たちはさらにレコードを持ち上げては、ジャケットに目を通していった。

さりげなく、僕は言った。「君のインスタグラムを見たよ」

彼女は「B」と「C」の立て札の間に詰め込まれたレコードをさぐっている最中だった。「もう何日も投稿してないわ。先週のままだったでしょ」

「そうだったかな。というか、それについて言いたいことがあるんだけど、実は、今まで一度も見たことがなかったんだよ」

リリーはブランディ・カーライルのレコードを手に取ったところだった。ジャケット写真のブランディと見つめ合いながら、彼女は僕の方を見ることなく言った。「そっか...」

この話を持ち出したのは間違いだったと感じ始めていた。でも言ってしまった以上、引っ込められない。「君に興味がなかったわけじゃないんだ」と僕は言った。「わかるだろ? 君に興味があるからこそなんだよ」

そこに反応したようにリリーは振り向くと、僕をじっと見た。「あなたが私のインスタをチェックしなかったのは、私に興味があるからこそ?」

「つまりこうして、実際に会った時の君に興味があるってことだよ」と僕は説明した、「なんていうか...画面上の作品としての君じゃなくて」

これもまた、口が滑ったというか、言うべきことじゃなかった。

「そっか。作品としての私は、私じゃないんだ?」

「違うよ! あれも君だよ! それはわかってるけど、そうじゃなくて―」僕は自分で自分を制した。

「そうじゃなくて何?」

「あれは僕が愛してる君じゃない」

しまった。三度目の失言だった。

リリーはブランディ・カーライルのレコードを押し込むようにして戻すと、体ごと振り返り、僕と向かい合った。「ダッシュ、あなたは当然のように、ネットよりもあなたの方が優れてると思ってるんでしょうね。あなたがメールよりも手紙を書きたがる気持ちもわかるわ。実際に顔を合わせて直接会えるまでは画面上のやり取りは控えようっていう、そんなあなたが好きだっていう部分も私の中にはあるの。でも、そういうダッシュが立ち現れるとね、ああ、そっか、って思う。自分の方が優れてるって私をさげすんだ目で見下さないと、私を見ることができないんだって。―そんなあなたは、あなたが言ったことをそのまま返すようだけど、私が愛してるダッシュじゃない」

「たしかにそうだね」と僕は敗北を認めた。「完全に君の言う通りだよ」

「あなたは一段上に立ってる裁判官じゃないのよ! どんなことに対しても勝手に判断しないで!」

どんなことに対しても?

「そうじゃなくて、あなたの意見は私にとって重要だから、一人で決めないでって言ってるの!」

四度目の間違いを犯した時、基本的に二つの選択肢がある。それでもとことんそこを掘り進め、いつしか自分自身がその穴に埋まってしまうか...あるいは、その積み重なったミスを懸命に、わだちにハマった車を全身で押すようにして、わきにどけようとするか。

「ごめん」と僕は言った。「何一つとして、まともなことが言えてなかったよ。僕はただ、思ってることをそのまま君に伝えようとしているだけなんだ。非難しようとか、そういうつもりはないよ。僕が言いたいのは、君の人生にそういう部分が存在することは前から知っていた。前は抽象画みたいに漠然としたイメージだった。それが今は、細部まで鮮明に見えるようになったってこと。君の人生が急に、僕の目の前で色鮮やかに輝き出したんだ。そしてそれは僕が見慣れてる風景じゃない。僕は内向きの、独りを好む人間だからね。前からずっと独りでいるのが好きだった。でも君だけは、僕の内側の領域にすっかり入り込んでしまった。プライベートな空間に自分以外の人間がいるっていうのはなかなか慣れなかったけど、君が僕と一緒にその空間を守ってくれているんだって思うことで、受け入れていた。僕たちは二人で一つだと思っていたんだ。でもそれは、僕にとって都合のいい部分だけを見て、他は見て見ぬふりをするってことだった。だって、君はずっと何かをつくり出しては、世の中に向けて発信するってことをやっていたからね。そういう世界があることはわかってる。それについて君と話したくてたまらなかったよ。まさか、遠くからそれを眺めることになるなんて」

「ダッシュ、ただの写真よ。私と犬の写真」

「わかってる、わかってる。それがソーシャルメディアってやつなんだろ。絵葉書の表ばかりで、裏側に何が書かれているかはちっとも見せてくれないメディア。僕は絵葉書そのものを手にしたいんだよ、リリー。自分の手で裏返して、宛名とかも全部くまなく見たいんだ。ただ、皮肉なことに、表側すら見ないことで、君がどこにいるのかを見逃してしまった。まさか絵葉書の表に、君の居場所がばっちり写っているなんて思わなかったよ。個人に宛てた絵葉書でもないのに」

「インスタを通してあなたにメッセージを送ったことはないけど、それはあなたがインスタを使ってないって知ってたからよ。私たちがするコミュニケーションの手段じゃないって思ったから」

「でも君の生活の一部なんだろ? それに、もしインスタでやり取りすれば、僕がガールフレンドの投稿をいちいちチェックするような、良い彼氏かどうかわかるじゃないか」

「やめて、やめて。私がそういう付き合いを望んでいたとしたら、最初からあなたと付き合っていたと思う?」

たしかにそうだね、完全に君の言う通りだよ、と再び言いそうになって、僕は自分を制した。

リリーが微笑んだ。「いいのよ。思ったことは全部言って」

「いや、いいよ。やめとく」

「私をフォローした?」

「フォロー? どこへでも君に付いて行きますよ」

「そうじゃなくて、私のインスタを見たんでしょ。私のアカウントをフォローした?」

「僕はアカウントを持ってないから、見ただけだよ。フォローはできない。でもこうして、君のナンバーワンの追っかけになれてるから満足だよ」

「そうやって、毎年バレンタインを祝福してちょうだいね」

「君のウェブサイトでバレンタインの贈り物を買おうかな。ハート型のチョコみたいなのを見た気がする」

「あれは犬のおやつよ」

「じゃあ、そのおやつに、君のナンバーワンの追っかけよりって文字を刻んでもらうよ」

「あなたがそうするなら、私はクリスマスプレゼントとして、あなたに首輪とリードを贈るわ」

「変態っぽい」

「あはっ」

「そうだ。レコードはまた別の機会に買えるから、外へ繰り出そう。ロンドンが待ってる!」

「ニューヨークに帰りたいんじゃなかったの?」

「君と一緒にいたいんだよ。君がここにいるなら、僕もここにいる。せっかく二人でいるんだし、この街を楽しみつくそう。冒険に満ちた最高の一日にしよう」

リリーをコヴェント・ガーデンに連れて行けば、喜んでくれると思った。クリスマスの飾りに彩られた店舗が並び、イベントスペースでは、いろんな聖歌隊が入れ代わり立ち代わり、途切れることなく歌っている。僕たちは〈セブン・ダイアルズ〉と呼ばれる七つの通りが合流した円形広場まで来ると、〈ウダーリシャス〉という店に入って、アイスクリームを食べた。カウンターでキャラメル味(彼女)とブラックチェリー味(僕)のアイスクリームを買い、テーブルに座って、二人してぺろぺろと舐め始めると、僕たちがしていることの平凡さに衝撃を受けた。そして、もう何年もこういう平凡なことをしていなかったように感じた。

僕は動きを止めて、ぼんやりとリリーを見ていた。

「何?」と彼女が聞いてきた。

「君がここにいるんだなと思って」と僕は言った。「本当に目の前に君がいるから」

「私がここ以外のどこにいるっていうの?」と彼女は返した。

でも、彼女には他にも居場所がたくさんあることを僕は知っている。彼女が僕の人生に色々なものをもたらしてくれたことも知っている。―穏やかさとか甘さとか、度胸とか活力とか。それに引き替え僕は、彼女に何かをもたらしたのだろうか?

僕はまたストレスを感じ始めている自分に気づいた。

そうじゃない、と僕は自分の思考に修正を施す。楽しむんだよ。彼女は目の前にいるんだし。残りの人生ずっとこうしていられるかもしれないじゃないか。

「また黙り込んじゃったみたいね」とリリーが僕を観察しながら言った。

「いや、頭の中は黙り込んでないよ」と僕は彼女に言った。「僕の頭が言葉を発しなくなる時間なんてない

「私もあなたの頭の中に入れて。あなたの言葉を聞きたいな」

「それはちょっと、今君に聞かせたいような声じゃないんだ」と僕は言った。「今僕が聞きたい唯一の声は、君の声だよ。聞かせて、午前中はどんな日だった?」

彼女は午前中に訪問したらしい「犬の学校のハーバード大学」のことを話してくれた。「ハーバード」と聞いて、オックスフォードの血が騒いだのか、一瞬イラッと対抗意識を燃やしそうになったけれど、彼女の説明を聞いているうちに、その犬の訓練士の学校は良さそうなプログラムを用意しているという印象を持った。

「でも、君が今さら犬の大学院みたいなところに行く必要があるのか疑問だけどね」と僕は言った。「つまり、君はすでにミーガン・ラピノーなんだよ。去年、FIFAの女子最優秀選手賞を受賞したサッカー選手みたいなもの。君がすでにその道の頂点にいることを、僕はちゃんと知ってる。僕たちが出会った週から、君はもうその片鱗を見せていたからね。それが君のインスタを見て、確信に変わったよ。あれだけ称賛のコメントを集めてるなんて、まさに犬の世界の最優秀選手じゃないか。ディスりひとつない、ずらっと並んだ応援やお褒めの言葉を、僕は信じる方に進むよ」

「常に学ぶべきことはあるでしょ」とリリーが言った。

「なんか学ぶべきことが多すぎてうんざりするって意味にも聞こえる」と僕は切り返した。「っていうか、それは僕が思ってることなんだけど」

僕たちはアイスクリームを舐め切ると、コーンを口に放り込み、外に出た。そして大通りではなく、脇の路地を通ってコヴェント・ガーデンに向かうことにした。もうすぐコヴェント・ガーデンというところで、僕たちは異変を察知し、立ち止まった。

狭い路地の角から、恐れおののくような吠え声が聞こえてきたのだ。それはまるで、アーサー・ミラーの映画『るつぼ』で魔女裁判にかけられた若い女性たちを、バセット・ハウンドか何かの一匹の小型犬が演じているような、断末魔の叫びだった。あるいは、三人の魔女が大釜を囲んでニヤけているところを小型犬が見つけて吠えているような、甲高い呼び声だった。その遠吠えには苦痛と陶酔が入り混じり、残忍な行為が路地を曲がった先で今行われていることを如実に物語っている。

「なんてこと!」リリーは声を上げながら、一目散に駆け出した。

鬼気迫る叫び声を聞いた周りの通行人たちは、とっさに声とは逆方向へ走り出した。僕の恋人だけは声の方へ向かっている。

僕も彼女のすぐあとを追って角を曲がった。突然、すべての街灯が一斉に点灯し、僕たちの顔に向けられた、ような気がした。その眩しさに僕は思わず腕を上げて目を覆ったが、リリーは構わず進み続けた。

「大丈夫よ」という彼女の声が聞こえる。「こっちおいで。もう大丈夫だから」

カット!」人間の大声が響き渡った。

僕は腕を下ろし、辺りの様子をそっと眺めてみる。目の前でリリーが、巨大なジャーマン・シェパードの頭をよしよしと撫でているのが見えた。そして彼女の向こう側には...カメラがあった。それから、100人くらいのスタッフたちが周りを取り囲んでいて、その中心には、怒り狂った形相の監督がいた。

おい、お前たち、そこで何をやってるんだ?」彼は拡声器を使うことなく、拡声器のような耳をつんざく大声で言った。「誰がこいつらを―

すると彼は、途中で言葉を切った。リリーの腕の中で巨大なジャーマン・シェパードが、聞き分けの良い子のように大人しくなっているのを見つめている。

「いったいどうやって...?」

ヘッドホンをつけた若い男が僕の隣に滑り込んできた。「俺たちは何日もあの犬を落ち着かせようと悪戦苦闘してきたんだよ」と彼は打ち明けた。「専属のドッグトレーナーはいるけど、全く役に立たない。これこそ、みんなが待ち望んでいた奇跡だ」

リリーは、ようやく自分が撮影の邪魔をしてしまったことに気づいたようで、少し動揺しているように見えた。しかし彼女が何より心配しているのは、犬の状態だった。

「彼女の名前は何ですか?」とリリーが監督に聞いた。

「デイジー」

その名前を聞いても僕には何もピンと来るものはなかったけれど、リリーは、ハッと何かに思い当たったような表情をした。

「彼女ってもしかして...『イルカに乗った犬』の映画版で主役を演じた犬のデイジー?」

「その通り。100%このメス犬だよ」と監督がうんざりするように言った。この主演女優がこの監督を骨までしゃぶりつくし、長年ずるずると関係を続けていることは明らかだった。

華やかに着飾った三人組の男女が周りに集まってきた。

「こんなことってあり得ないわ」そのうちの一人が言うと、他の二人がうなずいた。

「共同製作プロデューサーたちだよ」とヘッドホンの男が僕の耳元でささやく。

「それってどういう意味?」と僕はささやき返した。

「さあね。映画のエンドロールにそういう肩書きで名前が出るからそうなんだろ。航空会社のシルバー・ステータスみたいなものかな。ちょっといい席に座れるってだけで、何か偉業を成し遂げた人たちじゃない」

「あなたってプロなの?」と三人組の一人がリリーに聞いた。

リリーは間髪入れずに即答した。「そうよ」

「あなた、今から二時間ほど空いてる?」

リリーが僕を見たので、僕はうなずく。

「はい」と彼女は答えた。

この映画は『私たちそれぞれのテムズ川』と呼ばれ、相互に関連のある五つの話から構成されているらしく、新年が近づくにつれて、ロンドナーたちが様々な形の恋に落ちる、というストーリーのようだった。現在撮影しているショートストーリーは、クラブで楽しく踊っていたら、頭上から煌めくミラーボールが落ちてきて、不運にも亡くなってしまったロマンチストが、唯一の選択肢として...犬の体を借りてこの世に戻ってくる、という設定らしい。犬の姿になった不運なロマンチストは、同じく運に見放された妹の家に入り込み、自分は姉だとほのめかしながら、事あるごとに妹の手助けをしている。そして、妹をずっと愛してきた男がいて、でもその男は勇気がなく愛を打ち明けることができずにいた。二人の仲をなんとか取り持とうと、犬は扮装しながら奮闘するのであった。(妹はセリーナ・フォレストが演じていた。彼女はぽっちゃりした愛嬌のあるアメリカ人女優で、過度に上品ぶったアクセントで話していた。相手役の求婚者はルパート・ジェストが演じていた。彼は〈ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー〉という劇団の俳優で、きっと映画出演で得た資金を彼の夫に渡すのだろう。彼の夫はその劇団の演出家で、『マチルダ』の再演ならびに全国興行を目論んでいる、とヘッドホンの男が教えてくれた。)

その時彼らが撮影していたシーンは、プロット(のようなもの)を僕が理解した限りでは、重要なシーンではなかった。その妹と求婚者が街角で喧嘩をして、別々の方向へ歩き出してしまった。今、犬は二人のどちらの後を追うか、という選択に迫られている。

そんなに長くはかからないだろう、と思った。犬がどちらに進むか迷っている風に両方向を見てから、最終的には右に歩き出すところを撮ればいいだけのことだ。リリーは、犬が吠え出したり、憤ったりしないようになだめすかして、そのようなパフォーマンスをさせることには長けている。長くても20分で終わるな、と僕は思って疑わなかった。

完全に当てが外れた。監督が「デイジーに十分な意思があるように見えない」とか言い出したのだ。かと思えば...今度は、犬の表情から「いろんな意図を読み取れてしまう」とか言っている。各テイクの間には犬の毛並みをブラシで再調整しなければならないし、ようやく監督と共同プロデューサーたちが納得のいくテイクを撮れたと思ったら...今度は、「さらによくなるかもしれないから、念のため、もうワンテイク撮っておこう」と言い出す始末だ。そんな感じで10回ないし11回同じシーンを撮影した後、20分もかけて複数のカメラを設置し直し、今度は別のアングルから犬を撮影し始めたのだ。

僕はさっきのヘッドホンの男に近づいた。彼は「PA」だと名乗っていたが、これがペンシルベニア州と何らかの形で関係しているのか、彼の子供がまだ小さくて「パパ」と言えずに、「パ」と呼ばれている、という意味なのか定かではなかった。僕は彼に聞いた。「カメラじゃなくて、犬を動かした方が早くないですか?」

「のどが渇いたのなら、水を持ってこようか?」と、なぜか彼は質問で返してきた。

撮影場所を囲うように簡易的な柵が置かれていた。通行人たちは、アクション映画の撮影でもしているのだろうと、激しいアクションシーンを期待してしばらく柵越しに眺めていたが、動きがほとんどない現場の退屈さに耐えきれなくなると、そそくさと退散していった。僕はデイジーを見ていて、主演女優って至れり尽くせりなんだな、と羨ましくなった。僕はリリーにあんな風に甘えられない。―リリーがお茶を飲むために少しの間その場を離れると、デイジーはオムツを変えてと駄々をこねる赤ん坊みたいに、あるいは、近くにそびえ立つビッグ・ベンが怖いとすねるように吠え出した。そしてリリーが急いで戻ってくると、その主演女優は喜びが抑えられないとばかりに、リリーを舐め始めたのだ。

僕は撮影スタッフの誰かに取り入って、ご機嫌を取ってみることにした。1匹の犬を撮影するために、ざっと見ても200人くらいのスタッフがいたから、僕は誰に話しかけようかと、吟味しなければならなかった。

デイジーの頭上、カメラには入らない部分にマイクが掲げられているのだが、その長い棒を持っている人の横に、僕は滑り込んでしゃがんだ。彼はその棒を超人的に長い時間、腕を少しも揺るがすことなく、バッキンガム宮殿の警備員のような威厳さと、断固とした意志を感じる表情で持ち続けている。

「いつも誰かが近寄ってきて、あなたのわきをくすぐったりするんでしょうね」と僕は会話の糸口に言ってみた。彼はマイクを1インチも動かすことなく、無言で僕をあしらうように顔をそむけた。その反応を見て、そうか、誰も彼をくすぐりに近寄ってきたりはしないのか、と悟った。

僕は一人の女性に目を付けた。彼女はエプロンのような作業着を身に付けていて、そのポケットにはたくさんの工具や配線が入っている。

「そのポケットにはツイッズラーが入ってるの?」と僕は、電気配線によく似た形の砂糖菓子の名前を言って、ご機嫌を伺ってみた。「レッド・ヴァインの方かな?」と、さらにお菓子の名称を付け加える。

彼女にも視線を逸らされ、相手にしてもらえなかった。

「あとどれくらいかかるかわかりますか?」と、そのシーンの撮影がついに2時間超えを果たした時、僕はPAに聞いた。監督はデイジーに向かって、このシーンで右を向く動機づけを説明しようとしている。

「本当に水を持ってきてあげようか?」とPAはまた質問で返すと、歩いて行ってしまった。

結局、僕はうろうろと撮影現場をさまよった末、スタッフやキャストが軽食を食べられるテントにたどり着いた。撮影は明らかに本日の全行程を終えていた。というのも、食べ物はほとんど食べつくされていたからだ。残っていたのは、セロリの切り株が数本と、ボウルの底に掬いきれなかったフムスがこびりついている程度だった。あと、12パック入りのカモミールティーは未開封のまま残っていたけれど。

僕は再び撮影現場に舞い戻った。リリーはカメラに映らないようにフレームの外側にいなければならない...とはいえ、デイジーが彼女の存在を感じ、安心していられるほどには近い距離を保っている。

共同製作プロデューサーの三人組が僕のそばまでやって来た。

「あなたは彼女のマネージャーかしら?」と、〈プロデューサー・トリオ〉の一人が僕に聞いた。

「彼女のボーイフレンドですよ」と僕は説明した。

すると、別の一人がため息をついた。「彼氏をマネージャーにしちゃうと、後々大変なのよね」

「母親がマネージャーってよりはましよ」と、最初に質問してきた一人が言った。

「それもそうね、母親よりはまだ彼氏を雇った方が無難ね」

「あ、それは一般的な意味じゃなくて、お母様の場合ってことね」

「なんてことだ!」今まで黙っていた三人目の男性プロデューサーが、スマホを手にして叫び声を上げた。「これを見てみろ!」

差し向けられたスマホの画面には、リリーとデイジーが映っていた。生涯の友のように並んで肩を寄せ合っている。

「セリーナがこれをツイートしちゃったんだ―」と三人目の共同プロデューサーは言う。

「写真はいっさい外に出しちゃだめってことくらい、あの女優だってわかってるでしょ!」と、一人目の共同プロデューサーが嘆いた。

「待って!」と、二人目の共同プロデューサーが他の発言を制するように言った。「このコメント欄を見て! あの犬の訓練士の女の子は、元々かなりの有名人みたいよ。それからデイジーのファンと、セリーナのファンも、訓練士の子に恋しちゃったみたい」

三人目の共同プロデューサーが、ニカッと満面の笑みを浮かべた。「レディース&ジェントルメン、ならびに、そういうカテゴリーには縛られない皆さん、喜ばしいご報告があります...なんと我々はトレンド入りを果たしました!

彼の言い方は、トレンド入りが良いことで、まるで偉業を成し遂げたかのようだった。

しかし僕には、それが良いことだとは到底思えなかった。




9

リリー


12月22日

私は彼の名前さえ知らないのに、彼はまるでプロポーズでもするみたいに私を誘ってきた。

「『私たちそれぞれのテムズ川』で一緒に働いてみないかい?」そう聞いてきたのは、先ほど大声で私たちがトレンド入りしたことを発表していた、アメリカ訛りで話す早口のプロデューサーだった。でも彼はiPhoneからワイヤレスで繋がったAirPodを耳に差し込んでいて、私にそう聞いたかと思うと、電波で繋がった誰かに向かって、早口で言った。「なるはやで俺に連絡するように彼女に言っといてくれ」すると今度は、「で?」という目で私を見た。

私には、何親等か離れた結構遠い親戚だけど、映画の撮影スタッフとして働いている人が3人もいるし、女優をしている叔母さんが2人もいる。もっとも、2人とも私の叔父さんとはすでに離婚しちゃったから、元叔母さんたちになるけど。(その叔父さんは立て続けに女優と結婚したってことは、よっぽど女優好きなんでしょうね。)そういうわけで、私はこの業界には結構詳しくて、たくさんの取り巻きがいないと、大きい映画には出られないし、テレビ出演もままならないってことを知っている。要するに、意思決定とか、交渉とか、契約書の作成を手伝ってくれる人たちが必要なわけで...それと労働組合にも入らなくちゃ。私は何の組合にも所属してないし、丸腰で乗り込むほどの能なしでもない。

私はそのプロデューサーに言った。「いえ、結構です。あなたの撮影会社では働きたくありません。映画に出演する動物たちのことをもっと考えて、責任を持って世話してください! 彼女は誰の犬ですか? 逃げ出した訓練士が連れて来たんですか?」

そのプロデューサーは肩をすくめた。どこからともなく、また別のプロデューサーが現れた。どのプロデューサーがより偉いとか、序列的なことは知らないけど、こちらのプロデューサーは女性で、イギリス訛りだった。「デイジーは私の犬よ」と彼女が言った。

私は言い返した。「それなら、あなたがデイジーの世話役として雇った訓練士は、明らかに準備不足でしたね」

「そう思うかい?」と、アメリカ訛りのプロデューサーがAirPodを耳に差したまま言った。

ダッシュが私にもたれかかってきて、耳元でささやいた。「彼は君と話してるの? それとも、スマホで繋がった誰かと話してるの?」

さあ、どっちなんでしょうね。

デイジーの飼い主で、明らかに私と話している方のプロデューサーが言った。「あなたを訓練士として採用します。それから、あなたにはスクリーンにも出てもらいます。ソーシャルメディア上で宣伝にもなりそうだから。それなりの待遇は用意しますよ。あなたがSNS上でファンを映画に引き込んでくれれば、その分報酬を上乗せします」

「お断りします」と私は言った。そう言った直後、もっとこの状況にふさわしく、かつ、ぶっきらぼうに聞こえる業界用語を思い出した。「そんなの無理ゲー」と言っておけば、もっと格好良く決まったのに。それから私は、私に報酬をもたらしたかもしれない犬、スクリーン上で私と共演することになったかもしれない犬を呼んだ。「デイジー!」デイジーは飛び跳ねるように私に駆け寄ってきた。「お座り」と私は彼女に命じた。彼女はどこか混乱している様子で、なかなか座ろうとしない。何十人もの撮影スタッフに囲まれ、摩天楼を照らし出せるほどに眩しいストロボライトを四方八方から向けられて、誰が平常心でいられるだろうか? 人間でも無理でしょうね。幸いにも、私は〈リリー・ドッグクラフト〉のコートを着ていたので、コートの裏地に、おやつ入れのポケットが縫い付けられていた。私はポケットから袋入りのおやつを取り出すと、もう一度「お座り」とデイジーに繰り返した。

彼女はすっと座ってくれた。私はおやつを一つつまんで与えてから、膝をついて彼女と向き合った。目線の高さが合い、彼女と私が心を通わせることができるように。

「バルカン人との精神融合の時間ですか?」とダッシュが私に聞いてきた。

バルカン人との精神融合とは何なのか、正確にはわからなかったけれど、ダッシュの母親が大好きだった昔のテレビドラマに関係していることはわかった。私がこうして、責任感のある飼い主に恵まれなかった犬と対話する厳粛な時間を、ダッシュが前からそう呼んでいることも知っていたので、私はダッシュに「そうよ」と答えた。それからデイジーに向かって、「握手」と言った。デイジーが前足を差し出してきたので、私は片手で握手してから、もう片方の手でおやつをあげた。そして、おでこを優しく撫でながら彼女の耳元に口を寄せて、内緒話をするみたいに囁いた。「デイジー、あなたにはお行儀よくしていてほしいの。あなたはもう大人の女性なんだし、力だって強いのよ。そのエネルギーを善いことに使ってちょうだい。わかるでしょ、混乱を起こすためじゃなくてね。あなたの周りには無責任で無能な人間しかいないから、あなたのことまで頭が回らないの。だからこそ、あなたには責任感を持ってもらいたいのよ。逆に周りの人間たちをあなたが仕切るのよ、デイジー。あなたにそれができる? できるなら私と握手して」

デイジーがよだれを垂らしながら私の頬にキスしてきた。それから彼女は前足を上げて、もう一度私と握手した。私は彼女の前足を上下に揺らしながら、最後にもう一つおやつをあげて、彼女の濡れた鼻先にチュッと口づけた。「おりこうさんね、デイジー」ふと見ると、デイジーの飼い主のプロデューサーの手にはiPadが握られている。私は彼女に言った。「トゥイッケナムに知り合いがいるんですけど、その人がしっかりした犬の訓練士を紹介してくれると思います。彼女のメールアドレスをあなたのiPadに入力しましょうか?」そのイギリス人のプロデューサーは頷いた。

私は手渡されたiPadにジェーン・ダグラスの連絡先を入力すると、それをイギリス人のプロデューサーに返した。アメリカ人のプロデューサーが私に向かって、「大した千両役者だな」と吐き捨てるように言った。彼は私とは出会いもしなかったというように、風を切って歩き去っていった。

私はダッシュの方を向いた。彼を見ると時々、私は無性にとろけてしまいたくなる。彼の顔が鏡みたいになって、そんな私の心が映って見えるようだわ。「さあ、私にロンドンを案内して。とんだ道草? だったわね?」

彼はにっこりと笑って、私が腕を入れられるように、彼の腕を曲げて輪っかを作った。「では行きましょう、お嬢様」と彼は言った。

私たちが撮影現場から離れようとした時、メインキャストの一人、ルパート・ジェストが駆け寄ってきた。「リリー・ドッグクラフトの人だよね?」と彼は私に聞いた。「君のインスタを見たことがあるんだ。素晴らしいね!」彼は、親戚にバッキンガム宮殿で働いている人がいるみたいに、上品なブリティッシュアクセントで言った。まさに王室といった感じのきちんと刈り込まれた王族の発音ではなく、映画で見るような、女王の私室に入ってきて、女王を「陛下」と呼んで、粛々と下界のニュースを伝えている感じの執事の発音だった。ダッシュと私が足を止めると、ルパート・ジェストは私に大きな茶封筒を手渡してきた。「明日もしお時間の都合がつくようでしたら、あなたとお友達を招待したいのですが、いかが? お友達は何人連れてきても構いませんよ。僕の夫が演出している『メリクリ、ディック・ウィッティントン』を観に来られませんかね?」僕の夫? 困惑している私たちに向かって、彼は説明を続ける。「無言劇なんですけどね、イギリスの伝統的なクリスマスの出し物で、おとぎ話とか、歴史上の人物を題材にしている演劇なんです。ディック・ウィッティントンは伝説的なロンドン市長の名前で、イギリスの神話にもよく登場する人物なんですよ。オリジナルの開放感は残しつつも、ストーリーに若干現代風の味付けを加えて、重厚感のある芝居に仕上がっています。きっと楽しいですよ。よかったらどうぞお越し下さいな」

私は彼から茶封筒を受け取った。重っ。売れ残りのチケットなのか、中にはどっさりとチケットが入っていて、その厚みが人気のなさを物語っている。「ありがとうございます」と私は、なるべく礼儀正しく言った。

「行けたら行きます」とダッシュは言ったけれど、その言い方から、「リリーのいとこの、いけ好かないマークと彼の新妻と僕の三人で、一晩中〈ピクショナリー〉とかのボードゲームで遊んでいた方がまだマシだよ」という意味だとわかった。

ルパート・ジェストが言った。「それと、この演劇のことを君のインスタに投稿してくれても構わないよ」それから彼はこう呟いた。「セリーナにも頼んだんだけど、投稿を拒否されちゃった。彼女はひどい人だよ、正直なところ」

なるほど。ぎくしゃくした関係をスクリーン上ではぼやけさせるために、犬を間に置く必要があったってことか。『私たちそれぞれのテムズ川』で描かれている儚くも淡い恋の物語は、「カット!」という声とともに断ち切れるってわけね。


「一緒に働いてる人を好きになれないって、どんな感じなんだろうね」と私はダッシュに言った。テムズ川沿いの〈ビクトリア・エンバンクメント〉と呼ばれる土手が見えてきて、そこに立つ大きなビルボードには、『私たちそれぞれのテムズ川』の広告が大々的に掲げられている。

私はダッシュにぴったりと寄り添った。私の幸せな場所。私たちはテムズ川を下るクルーズ船に乗っていた。ダッシュが言うには、これが最も効率的にリラックスしながらロンドンの主要な観光名所を回れる方法だそうよ。実際にそこに行かなくても、多くの観光地を見て回れる時短術にもなって、(浮いた時間で、本屋さんやレコードショップ、美術館や図書館、公園やお店を散策したり、アイスクリームやイギリスのチョコレートを食べたりできるみたいね。)クルーズ船の上からほんの数分の間に、国会議事堂、ウェストミンスター寺院、ビッグベン、それから〈ロンドン・アイ〉と呼ばれる大きな観覧車が見えた。ダッシュが「あの観覧車に乗ろう」と言わなかったのは、彼の優しさからだった。上空からロンドンの街を見下ろしたら壮大な景色が広がっているんだろうけど、私が高所恐怖症で、地上から離れるとめまいや吐き気を起こしやすいって彼は知ってるの。でも、船旅は純粋に楽しかった。冷たい空気に肌を撫でられ、髪の毛を風にさらわれながら、移り変わる景色を眺めているのは気持ちよかった。何より、彼の肩に私の頭を乗せ、ダッシュを独り占めしてる気分に浸っているのは最高だった。遠くにロンドン塔が見えてきた。私は、昔そこで起きた、ギロチン処刑などの恐ろしい出来事を思い浮かべながら、ダッシュのかけがえのない首に感謝のキスをした。

「嫌いな人と一緒に学校に行くようなものかな。もしそうなら、そんなに楽しくないかもね」とダッシュが言った。

「オックスフォードが嫌いなの?」

「いや、嫌いじゃないんだけど、なんていうか、属性が同じというか、そういう仲間がまだ見つかっていないだけかな」

「あなたの仲間はどこにいると思う?」

「さあ、それがわかればいいんだけど」

「あなたの仲間って誰? もちろん私以外でよ」

#いつメンは誰?とか言わないでくれてありがとう。ニューヨークにいた頃は、その質問にすんなり答えられてた気がする。ここに来てからは? ジェムと、ジェムだけかな。今のところは」

私は家族が大好きだけど、ずっと住みたくて憧れていた場所に行ってみたら、唯一繋がりのある人が祖母だけだってわかったら、私でも相当へこむでしょうね。 ダッシュがもっと犬好きだったら、そんなにもがき苦しむこともないのに、とも思ったけど。私は言った。「ここに来てまだ数ヶ月しか経ってないんだから、仲間を見つけるにはもっと時間が必要なのよ。もし私がペンブロークに行くことになったら、近くにいられるわ。それは助けになる?」

私は彼にこう言って欲しかった。「君がここにいてくれたら、すべてがうまくいくだろうね。ようやく僕の夢が叶うよ」とか。でも、そうは言ってくれずに、ダッシュは言った。「君がここで暮らすことになったら、僕は君にばかり気を取られて、自分の道がさっぱり見つからなくなるかもね」

イギリスに住めばダッシュの近くにいられる、という妄想しかしてこなかった。私はそのような角度からイギリス行きを考えたことがなかった。もちろん彼の言っていることは正しいと思うし、正直な気持ちを言ってくれたんだとも思う。だけど、私が彼のそばに来るかもしれないと聞いて、何はともあれまず最初に、熱狂的にそのことを喜んでくれなかったことに、私は軽いショックを覚えた。

私は聞いた。「私がロンドンの学校に来たら、あなたは幸せ?」

不幸にはならないだろうね」

それは私をひどく重たい気持ちにさせる悲しい答えだった。「私が自分の気持ちに反して、無理にここに来ようとしてると思ってるの? それとも、あなたは私にここには来てほしくないってこと?」

私たちは密着していた体を離し、お互いに向き合った。彼は、私の発言に不意を突かれたような顔をしていた。「僕はそんなこと言ってないよ。どっちとも思ってない。君が来てくれたら、そりゃ嬉しいよ。だけど、そもそも僕自身がここにいたいかどうかもわからないんだ。外国で生活するってことは想像以上に大変だし、君はマンハッタンでの生活に慣れきってるからね。あそこは君の庭みたいなものだ。君の家族がいて、犬もいて、いつでも安心していられる場所だろ。僕は心配してるんだよ。君が思ってる以上に、君がここに馴染むのは難しいんじゃないかな」

「私はここではうまくやっていけないって言ってるの?」

「そんなことも言ってないよ!」彼は私にキスをしてきた。私の口をふさいで黙らせるためね、と思いつつも、私はそのキスにとろけていった。夢のような一時を存分に味わった後、私たちは唇を離した。潤んだ瞳で彼が言う。「僕は居ても立っても居られないほど、ここに来たかったんだ。でも実際に来てみると、ここは思ったほど素敵な場所じゃなかったよ。君にはそういう経験をしてほしくないんだ。じっくり考えてから行動した方がいい、って僕が言いたいのはそれだけ」彼は少し間を空けてから、続けた。「でも、僕は君がどういう人か知ってるからね。犬がそばにいさえすれば、君はどこに行っても大丈夫だろうね。僕にもその能力があればいいのにな」

私は改めて、というか前にも増して彼が好きになっちゃったわ。

ダッシュの携帯がブルブルと振動したらしい。彼はポケットから携帯を取り出すと、私から目を離してメッセージに目をやった。私は携帯の電源を切っていた。ダッシュとの時間を満喫したいから、という理由と、―私がバーナードに行かないと決めたことに関して、きっとカンカンに怒った両親から、メールやらメッセージやらがガンガン届いているだろうから。クリスマスには家に帰るつもりだから、そのことは帰ってから対処しようと思っている。今は...誰にも邪魔されることなく、天にも昇るようなハッピーホリデーに浸っていたいの。

せっかく大きなシャボン玉の中にいる気分だったのに、あっという間に破裂してしまった。ダッシュが水を差すように言った。「ブーマーとソフィアが今ロンドンにいる! バルセロナへ向かう途中で、ロンドンに立ち寄ったみたい。バルセロナ行きの飛行機まで時間があるから、会えないかって言ってる。まさか君もロンドンにいるなんて!って驚いてるよ。君がトレンド入りしてるのを見て知ったんだって!」

「ああ、そうなんだ」と私は言った。舞い上がっていた気分が一気に地上目がけて落ちていく。いつでもテンションマックスなブーマーは、凄いなと感心はするけど、彼が周りにいるとエネルギーをどんどん吸い取られていくのよね。ダッシュの元カノのソフィアは、まあ大体は好きだけど、彼女のあり得ないほどの美しさと、何気ないクールさが我慢ならない時があるのよね。(そう、私はみみっちい人なのよ。)クリスマスにはニューヨークに帰るつもりだから、もうあと何日かしか残されていないっていうのに、これじゃますますダッシュと二人きりの時間が少なくなるじゃない。彼と私とジェムの三人で過ごすっていうのは、なんか気が引けるし。

「バービカンで会わないかって言われた」

「バービカンって何?」

「ニューヨークでいうと、リンカーン・センターみたいな芸術の複合施設だよ。コンサート、演劇、映画を楽しめるシアターがあって、カフェもあるよ。素晴らしい図書館もね。ブルータリスト建築なんだ」

「ブルータリスト建築? そんなものがあること自体知らなかったわ。それってどういう?」

「その名の通りだよ。ブルータルな、つまり荒々しい獣みたいなデザインの建物」

「行きたくないって言っても大丈夫?」私はダッシュと夜のデートがしたかった。バービカンとかいう、荒々しい獣に飲み込まれて、彼の元カノとダブルデートをするんじゃなくて。

ダッシュの顔がくもった。「そりゃあ、もちろん」と言いつつも、彼は明らかにがっかりしている。

「その代わり、当ててみて。何だと思う?」私の用意した代替案に、彼がブルータリスト建築よりも興奮してくれればいいな、と願った。

「何?」

「残りの滞在のためにね、ホテルの部屋を予約しちゃったの。マークとジュリアの家の、あのごつごつしたソファで寝るのは、もうこりごり」

「ほんとに? どこの?」

「クラリッジズよ」私は子供の頃、大叔母さんのアイダからそのホテルの話を聞いていた。アイダというか、ミセス・バジルっていった方がわかりやすいわね。ミセス・バジルは彼女の本名ではなく、私と兄が子供の頃に大好きだった本の登場人物から取った名前なんだけど、私も兄も、今でも彼女をミセス・バジルって呼んでるの。そこは大叔母さんのお気に入りのホテルだった。ロンドンで、というだけでなく、彼女が世界で一番大好きなホテルだった。「クリスマスのクラリッジズは本当に凄いのよ」と、何度もそのホテルの豪華絢爛さを聞かされていたので、そこを予約する以外の選択肢は思い浮かばなかった。私は普段は、かなりの倹約家なんだけど、ニューヨークに帰ったら両親との一世一代の壮絶な喧嘩が待っているし、クライアントから思いがけないボーナスも入ったことだし、ここは奮発して、最高のクリスマスを演出したっていいじゃない?

ダッシュが笑った。「いやいや、そうじゃなくて。君はどこのホテルを予約したの?」

「だからクラリッジズ・ホテル!」

君が自分で払ったの? それとも、ミセス・バジルがそこに泊まりなさいって...彼女のクレジットカードを渡してくれたとか?」

私は腹が立ってきた。「犬の散歩のお客さんからクリスマスチップをもらったから、それを使ったの!」

「あそこはロンドンで一番高いホテルのうちの一つだよ! いったい君は、チップでいくらもらったっていうんだ?」私は彼が感激してくれるものと思ったんだけど、感激というより、彼は恐怖でぞっとした顔をしていた。

「クラリッジズの中でも、私の手が届く一番安い部屋を3泊ほど予約しただけよ」

またしてもダッシュは、私がわかりやすく示したチャンスボールをみすみす不意にした。私がロンドンにいることに、どうしてもっと熱狂してくれないのかしら。彼が言った。「それはお金の無駄遣いじゃないか。一生懸命働いて、チップまでもらって、それをホテル代なんかに浪費する気?」

私は考える前に言い返していた。「そうよね、ドーント・ブックスで私に会った時、あなたは『君も一緒にジェムの家に泊まろう!』とは言ってくれなかったものね」

「君は何を言ってる? 僕が君に会えて嬉しくなかったとでも? ジェムの家は狭いんだよ。それに、まだジェムと知り合ってから日が浅いから、それを許してくれるような人かもわからないし、『この家にリリーを泊めてもいいかな?』って聞くのも変だろ。っていうか、君が彼女の家に泊まりに来るなんて思えなかったよ!」

私は考えるための間を空けずに、どんどん言い返すことにした。夢見心地のシャボン玉はもう割れちゃったんだから、いくら理性的に考えようとしたって、弾けちゃった感情はもうどうしたって収拾がつかない。「私がここに来なければよかったって思ってるのね! 家族のみんなに言われたわ、あなたにサプライズを仕掛けるなんてやめなさいって。あーあ、やっぱりサプライズで会いに来るなんてやめておけばよかったな! あなたはクリスマスをジェムと過ごしたいんでしょうから! それか、ブーマーやソフィアと過ごしたらいいじゃない!」

会話のテンポが急に速くなったと思ったら、坂道を転げ落ちるように、気づけば、谷底にいた。

ダッシュが深くため息をついてから、言った。「そりゃあ君の家族は、大切なリリーベアを海の向こうまで行かせたくはなかっただろうね。僕たちが離れていることが、彼らのお望みなんだからさ」

え、今彼は、私の家族を侮辱した? (まあ、彼が言う通りかもしれないけど。)

遊覧船がすでに桟橋に横づけになっていることに、船内アナウンスが流れるまで、私は気づいていなかった。「最終案内です。セント・キャサリン・ドッグです。ロンドン塔にお越しの方は、こちらでお降り下さい」

さっきダッシュは、じっくり考えてから行動した方がいい、と言ったけど、確かにそうね。私には考えなければならないことがたくさんある。―考えずに、口から出るにまかせて喋っていたら、せっかくの甘く愛に満ちた船旅が、意図せずして、大喧嘩に発展してしまった。それから今頃、家族はカンカンに怒っているんだろうな。クリスマスに家族と過ごさず、彼氏を選んじゃったんだから。さらに、ちゃんと大学進学の道を用意してくれて、学業への期待をかけられてるっていうのに、イギリスで彼氏と半同棲生活をする可能性を模索しているんだから。というか、私は本当にイギリスの犬の学校に行きたいのだろうか。それもわからなくなっちゃった。どの道を選んでも、大きな選択になるわ。ああ、もう何もかもが面倒になってきた。突然、疲労感がどっとのしかかってきた。なんか私、疲れちゃった。本当に、本当にボリスが恋しかった。

「私、ここで降りるわ」と私はダッシュに言った。私はフェリーから桟橋(さんばし)にかかる厚板をひょいと渡ると、桟橋をすたすたと早足で進んだ。ダッシュは無言で、ショックを受けたように、フェリーに乗ったままだった。じきに船は岸を離れた。




10

ダッシュ


12月22日

彼女が岸に向かってジャンプするように船を降りた時、僕はじっくりと次に言うべき言葉を考えていた。

誰かを愛している時は、そうする必要があると僕は思う。口論のようなものが始まったら、慎重に言葉を選び、うまい言葉を紡ぎ出せば、きっと元の平穏な場所に僕らを連れ戻してくれる。そう期待して、頭の中で文章を並べるのだ。

急(せ)いて逃げ出すようなことはしてはならない。

だから僕は頭にきて、むかついていた。同時に、僕は全くむかついてはいなかった。リリーがあんなに劇的に、激昂したってことは、それだけの理由があったってことだ。彼女はむやみやたらに怒りをぶつけたりはしない人だから。

僕が彼女の家族について言ったことは、残念だけど正しい。マークはその極端な例だけど、多かれ少なかれ他の人たちも、彼と同じようなことを思っている。彼らは僕が好きじゃないんだ。彼らはただ、僕を容認しているにすぎない。まあなんとか、ミセス・バジルは味方に引き込めた。もちろん彼女が僕に気を許してもいいと判断した範囲内だけど、それなりに打ち解けることはできた。ラングストンと僕は二人で良い時間を過ごして、気心が知れたというか、これから先良い関係を築いていけそうな予感を共有することができた。ただ、たったの二人に過ぎない。少なくとも200人くらいいそうな彼女の親戚たちの中の、二人だけだ。(正直、リリーの親戚は次から次へと出てきて、数える術はない。)

それでも、正しければ、何でもかんでも声に出して言っていいわけじゃない。正しいことと、言ってもいいことは、全然違うものなんだ。

ホテルに関してもそう。僕が言いたかった事を頭の中で整理すると、こうなる。僕たちが一緒に過ごすことのために、そんなに多くのお金を費やす必要はない。なぜなら、ロンドンの高級ホテルだろうが、アメリカでよく看板を見かける、格安の〈モーテル6〉だろうが、僕たちは一緒にいさえすれば、同程度にハッピーになれるのだから。費やす金額に比例して、感じる愛の量が変わってくるなんてことになったら、もう僕たちは、世間に蔓延している低俗な関係に陥る。谷底まで真っ逆さまに落っこちる運命しか待っていない。これは正しいだろう。しかし、声に出して彼女に聞かせるべきことではないな、と思って黙っていた。

僕は考えずにはいられない。彼女は豪華なホテルを予約すれば、僕が感激すると思ったのだろうか。彼女がそんなことを考えるとは思えない。彼女は僕のことを何もわかっていないのか?

僕は自分の思考を止められない。待てよ、クラリッジズ・ホテルが、彼女にとって特別な場所なのかもしれない。彼女はそこで僕と一緒に過ごしたいと思ったのかもしれない。それが、彼女がずっと思い描いてきた夢だったとしたら。ダッシュ、彼女のことを何もわかっていないのは、お前の方だ。

混乱してきた。頭が二つに引き裂かれるような混乱は、遊覧船に乗っている間ずっと続き、気づけば僕は、何通ものメッセージを次々と彼女に送り付けていた。

リリー、ごめん。僕が言いたかったのは、これまでで最高のクリスマスを過ごすために、豪華なホテルとか、君の家族の熱心な応援は必要ないってことなんだ。

イギリスのボリス・ジョンソン首相がEUからの離脱を宣言したみたいに、ジョンソン首相の仮面をかぶった海賊が、今この船をハイジャックして、この船は俺の国だと宣言したら、きっと君がロンドン中の野良犬を呼び寄せて、僕を救ってくれると期待してるよ。

ちょっとうまいことを書けたと思ったんだけど、それでも返信がないってことは、僕が何を言っても、今の君には苦痛しか与えられていないってことだね。君に喜びを与えられないのなら、もう送るのをやめるよ。

...あ、もう一通だけ。僕は今から〈バービカン〉に行って、ブーマーとソフィアに会ってくるよ。気が向いたらでいいけど、君も来てほしいな。

あと一通。やっぱり締めの言葉は、ベタだけど、ビートルズかなと思って。恋人に捨てられた詩人気どりとしてはね。『僕たちはきっとうまくいくよ』

〈バービカン〉に到着してすぐに、ブーマーもソフィアも、リリーからメッセージを受け取っていないことがわかった。僕の顔を見るなり、ブーマーがこう言ったからだ。「リリーはどこ? リリーを連れてこないとか、あり得ないだろ!」

ソフィアは、何かを察知したのか、もっと要点を突いた質問をしてきた。「何があったの?」

二人の顔を見たら、なんだか一瞬でニューヨークに戻ったような気分になった。目の前にそびえ立つ〈バービカン〉が、ホイットニー美術館またはニューヨーク近代美術館のようにも思えてきて、懐かしさがこみ上げてきた。僕たちは一緒にいる。そのことがそういう気持ちにさせるのだ。その時立っている街や場所は、たまたまそこだったってだけで、どこだっていいんだ。

ブーマーにはオックスフォードからほぼ定期的にメールを送っていた。返信は来なかったけれど、まあ彼のことだから、こっちも何とも思わずに、一方的に送り続けていた。定期的にメールを書くって、送る方は結構な時間と労力を必要とするんだけど、彼はメールボックスにパッとメールが出現する現象を、何の苦労もいらない魔法か何かだと思っているのかもしれない。彼はコロラド大学ボルダー(Boulder)校の1年生で、入学してみたら、校舎が巨大な岩(boulder)の上に建っていなかったことに、「ボルダリングしながら通学するのかと思って張り切っていたのに」と言って、がっかりしていた。そんな失望も一時(いっとき)のことで、今は平地のキャンパスライフを楽しんでいる。

ソフィアと僕はあまり連絡を取っていなかった。お互いに連絡を取りたくなったら取る、というスタンスの友達関係を育んできたわけだけど、連絡するきっかけがなく何ヶ月も経ってしまったとしても、僕たちは平然としていられるくらい、ゆるやかな関係だった。お互いに必要なら、いつでも非常ベルのガラスを割って、警報機を鳴らすこともできたけれど、そうするためには、火事に匹敵する大きな出来事が必要だった。

彼女の目を見て、僕の中の火災感知器がまだちゃんと作動していることを、確認している自分に気づいた。

「彼女はそのうち来るよ」と、僕は何の説明も加えずに言った。「リリーは君たち二人に会いたがってるはずだから」

「そう来なくっちゃ! ボクたちがここに飛び降りたのは、そのためなんだから!」とブーマーが言った。

「飛び降りてはいないわ。立ち寄っただけね」と、ソフィアが笑って訂正する。相変わらずの名コンビだ。「3時間後にはスペイン行きの飛行機が出発するのよ。バルセロナに帰ったら、初めてブーマーを私の家族に紹介するの」

「でも、ロンドンの歴史を丸ごと全部見る時間はまだある?」とブーマーが彼女に聞く。

「もちろんあるわ」ソフィアはうなずくと、〈ロンドン博物館〉への方角を示した標識を指さした。

ブーマーはにっこりご満悦な様子だ。簡単に心が満たされる彼の気楽さが、僕は羨ましかった。

ソフィアの心はそんなに簡単には満たされない。僕はそれを知っていたから、ソフィアとブーマーが付き合いだしたと知って、信じられなかったのだ。まあ、信じられなかった理由は他にも山ほどあるけれど。それが、どういうわけか、二人はうまくいってるみたいだから、何がどうなるかなんて誰にもわからない。彼はコロラド大学、彼女はニューヨーク大学だから、それなりの遠距離恋愛を半年間続けながら、いつの間にか、親に紹介するまでの段階に発展していたのだ。

ブーマーは緊張などしていないんだろうな。僕だったら、僕がリリーの家族に初めて会うとなったら、心の準備に2年くらいは必要だったかもしれない。実際には、僕には有無も言わせてもらえない形で、会う羽目になったわけだけど。

「それで、あなたたちは喧嘩でもしたの?」とソフィアが聞いてきた。「そうじゃなかったら、リリーは私とブーマーには会いたくないってことでしょうね」

そう言われてしまったら、僕には説明するしか選択肢はなくなる。「そうだね。喧嘩と呼べるかどうかはわからないけど、感情が爆発したって言った方が近いかな、最終的にリリーは僕から逃げ出すように立ち去って、僕がメッセージを送っても、返事は来ない」

「そう、そういうことなら、彼女が私とブーマーに会いたくないってことではなさそうね」ソフィアはスマホを取り出すと、指を走らせ、おそらくリリーにメッセージを送った。それから再びスマホをポケットに戻し、僕を見て言った。「きっかけはどんなこと?」

「要するに、お互いの心がうまく読めてないってことかな。細かいことを言いだしても、たぶんどんどん核心から離れていくと思う」

ソフィアがうなずいた。言わんとしていることが通じたみたいだ。

「恋人関係っていうのは、犬の時間で測るものなんだよ」とブーマーが言った。

「は、どういう意味?」と僕は聞いた。

「これはボクが思いついた理論なんだけど」と彼は続けた。「犬の1年って人間の7年に相当するでしょ。それと同じで、恋人と付き合い始めてからの期間に7を掛けるわけ。そうすると、今どの段階にいるかっていうのが見えてくる。最初の1年は? そう、7歳くらいまでの幼少期なんだよ。物事を楽しみながら、ゆっくりと理解していく時期。そして今のボクたちが到達した2年目は? 14歳まで、つまり思春期だよ。歯がゆいし、反抗的にもなるよね。人生と同じでアイデンティティを見つけようと、もがく時期だから、自分たちの関係って何だろうって考え始めるんだよ。そうでしょ? それから3年目、4年目には、仕事を見つけて働き始めるんだ。絆の礎(いしずえ)が出来上がる時期だね。7年目頃には、中年になって更年期障害が襲ってきたりもする。それでも関係を続けて10年目を過ぎれば、―70歳を超えたカップルと同じで、成熟期に入る。その頃にはすっかり落ち着いてるはずだよ。そういう関係って憧れるよね。でも実年齢じゃないから、14年目や15年目を迎えたって、―実際に死ぬわけじゃない。本当にうまくいけば、100歳になっても、絆はちゃんと機能してる。50年も60年も一緒にいるカップルは? 彼らはヨーダだよ、ダッシュ。7を掛けたら300歳超えだからね、完全にヨーダだ」

僕たちはロンドン博物館に入った。中にはロンドンの歴史が地図のように展示されていて、好きなところから見て回れるようになっていた。入口で警備員に、閉館まであと30分しかない、と注意を促された。

「ロンドン大火!」とブーマーが叫んだ。「ロンドン大火を見てみたいな。あの大火事は牛が引き起こしたんだ。その牛も飾られてるかな」

「牛が原因だと言われたのは、シカゴ大火だと思うな」と僕は言った。

「どこだってきっと同じだよ」とブーマーが反論した。「いつだって可哀想な牛のせいにされる。ヤギとか、弱い人がやり玉に挙げられるんだ」

「たしかに」と僕は負けを認めた。

ブーマーは〈ロンドン大火〉というプレートが掲げられたコーナーへ向かい、残された僕とソフィアは自然と話し始めた。

「君たち二人がまだ付き合ってるなんて信じられないよ。意味がわからない」と僕は言った。

ソフィアが声を上げて笑いだした。「あなたとリリーにも同じことがいえるわ。あなたたちがまだ付き合ってるなんて、意味がわからない」

「いや、そう言われちゃうと何も言い返せないけど。リリーと僕の場合、もうすぐダメになるんじゃないかな。相性が悪いのかもしれない」

「いや、いや、そうじゃなくて」とソフィアが言った。「相性が悪いからこそでしょ! 相性は判断するものじゃなくて、作っていくからこそ価値があるのよ。あなただって経験を積んで、もうそれくらい気づいてるでしょ。ブーマーと私は似てる? 全然似てないわ。あなたとリリーはうり二つの同一人物なの? 違うでしょ。違うことを神様に感謝しないとね。相性っていうのは、2つの別々のものが一緒になることなんだから。そうじゃなかったら...ワンセットの食器みたいじゃない。全く同じスプーンが2つ並んでいても、退屈だわ」

「でも、作っていくのって難しいと思わない? 特に二人が遠く離れている場合?」

「私も彼がそばにいないと寂しいけど、いつもメールしたり通話したりしてるから、そこまで距離を感じないわ。それに、ある程度の距離感があった方が、私はハッピーなのよ。近づきすぎて関係性にのめり込んじゃうと、他に手がつかなくなっちゃうかもしれないでしょ。ある程度の距離を保つことで、そういう心配もなく、私は私らしく成長してるって感じがするの。二人の関係性にのめり込むのもいいけど、自分の仲間を作ったり、自分自身の経験を増やしていくことも、やっぱり必要なんだと思う」

「君たちはそれができてると思う?」

「ある程度はね。っていうか、そういうのって大体ある程度まででしょ? 恋をしてるとさ、100か0かっていう領域に入り込んじゃうものなのよね。中間がないっていうか、そういう二人きりにこもる関係からは、恋をしていても、抜け出したいって思ってる。私たちは、ある程度はできてるわよ。それぞれ別々の世界を持ってるし。私たちが付き合い始めた頃、ブーマーがカタルーニャ語を習いたいって言ったの。彼から聞いて知ってる? 私の家族や友達と、私みたいに話せるようになりたいって。でも、それはしないでって私が頼んだの。私は、彼が理解できない言語を持っていたかったから。私自身の領域を残しておきたかったの。周りの人たちにシェアしたいことがあれば、それは自分のやり方で伝えたいわけ。べつに彼を除け者にしようとかそういうんじゃないのよ。―私の家族も友達も、みんな英語を話せるしね。芯の部分に自分らしさを保てる大切な何かを持っておきたいって感じかな。オックスフォードも、あなたにとってそんな感じの相手だったでしょ。うまくいってないみたいだけど、ね?」

僕はオックスフォードでの生活についてソフィアには何も話していなかった。「どうして知ってるの?」と僕は聞いた。

「あなたのことは報告を受けてるのよ」

「ブーマーからじゃないよね。だって、ブーマーには『何もかもが順調だよ』っていつも言ってるから」

「彼からじゃないわ。実は、私とアズラ・ハトゥンは2年間、寄宿学校で一緒だったの。彼女があなたのことを周りに馴染めない人だって言ってたけど、私はそんなに心配してなかったわ。だってそれが、私のダッシュですもの。私が知ってるダッシュそのものだったから、そうでしょうね、くらいに最初は思っていたんだけど、アズラが、あなたを見ていて可哀想になるくらい、惨めな感じだって言うから。あなたが好きなはずの文学の授業でさえ、浮かない顔して周りから浮いてるって言うから...何かあったんだって思ったの。それで、自分の目で確かめようと思って、ここに立ち寄ることにしたのよ」

「それで、今見て、僕はどんな感じに見える?」

「惨めではないわね。ただ少し、迷路に迷い込んじゃった感はある」

「リリーがここに来るって知ってた? 彼女はサプライズでやって来たんだけど、それで僕は戸惑っちゃって、もう少し心の準備っていうか、前もってリリーが来るって知ってれば、物事はもっとスムーズに進んだと思う」

ソフィアは首を横に振った。「私たちは誰も、リリーとはそんなに会ってないわ。私たちは大学に行ってて、彼女は行ってないっていうのもあるけど、理由はそれだけじゃないと思う。彼女の方が、周りから距離を置いてる気がする。彼女は人間よりも犬と一緒に過ごす時間の方が長いのよ、ダッシュ。私も彼女にメールして会う約束を取り付けようとはしてるんだけど、結局いつも、彼女が犬の散歩中にニューヨーク大学周辺を通る時、歩きながら話す感じになる。そういえば彼女もあなたみたいに、少し迷ってる感があったわね」

「彼女は成功してるんだよ。知ってると思うけど、犬の散歩者として有名なんだ」

「私も彼女のインスタとか見てるからそれは知ってるけど、彼女は有名人になりたいわけじゃないんだと思う。あの感じからすると、それだけが彼女の望みだとは思えないわ」

僕たちはゆっくりと歩きながら、ようやくブーマーのいる〈ロンドン大火〉の部屋に入った。1666年当時のロンドンの街が模型になって展示されている。街並みは至極普通に見えた...突然、天井のスピーカーから警報のようなアナウンスが流れた。「プディング通りにある〈トーマス・ファリナー・ベーカリー〉で火災が発生しました。炎はまたたく間に街中に広がっています」そして炎の広がりを表すように、僕たちを取り囲む壁が赤く光りだした。―街の模型も徐々に大規模に赤く点滅を繰り返している。「トーマス・ファリナーという男が〈プディング通り〉でパン屋を経営していたことは事実です。〈プディング通り〉という美味しそうな名前の道も実在します...」アナウンスは天井から事実を並べ立てている。

「そのパン屋もやっぱり牛を飼ってたんだろうな、ミルク用に」とブーマーが、やりきれない思いを吐露するように言った。地獄のような烈火が街全体を真っ赤に染め上げた時、彼は首を横に振り、気をそらすように僕に聞いた。「リリーから連絡は?」

ソフィアと僕はもう一度それぞれスマホをチェックしたが、何の連絡も届いていなかった。

「彼女がサプライズで彼に会いに来たんだけど、計画通りに物事が進まなかったそうよ」とソフィアがブーマーに説明した。

「ボクたちみたいに?」とブーマーが聞いた。

「いや、そうじゃなくて」ソフィアは詳しい説明を省いて、ざっくりと付け加えた。「私たちとはまた違う感じで失敗したのよ」

「君たちにも何か失敗があったの?」と僕はすかさず聞いた。

「ボクはコロラドから飛行機に乗って、ラガーディア空港に到着するって彼女に言っちゃったんだけど、実際はジョン・F・ケネディ国際空港の方だったんだ」とブーマーが言った。「ボクは彼女に早く会いたくて、JFKからラガーディアに向かったよね。そしたら彼女は逆に、Uberを利用してJFKに向かっちゃったんだよ。あの時はほんと、すれ違いの連続だったな! ボクはむしろ面白くなってきちゃったんだけど、彼女はそんなに楽しそうじゃなかった」

「ようやく会えた時、私は怒っていたかもしれないわね」

「別れようって言われるのかと思って、ドキドキしちゃったよ!」

「正直言っていい? ほとんど、別れましょうって口から出かけてたの。だって、行ったり来たりしてるうちに日が暮れちゃうし、ボクは何も悪くない、みたいな顔してるから」

「でも、ボクが何か面白いことを言ったら、笑ってくれた」

「そうじゃないわ。特定の発言が面白かったわけじゃなくて、気づかせてくれたのよ。私には決める権利があるんだって。怒ったまま一晩中過ごすか、昼間のことはとりあえず脇に置いて、楽しく過ごすか」

「僕だったら、一晩中怒ったまま過ごしただろうね」と僕は正直な気持ちを言った。

「そんなことないっしょ」とブーマーが言った。「ダッシュはボクといる時は、怒ったりしないじゃないか。正面切って、楽しくて仕方ないって顔してるよ」

目の前で街全体が真っ赤な炎に包まれ、〈ロンドン大火〉の再現演出は終了した。その後、炎はだんだんと減退し、照明は元の昼白色へと戻っていった。模型全体がリセットされたようだ。

「今度は出火したらすぐに教えてあげよう!」とブーマーが言いだした。

僕はソフィアにさっと視線を送った。

彼女も僕を射貫くように見た。

二人の視線がぶつかり合い、意見が合致した。やれやれ、そんなのバカげてる。

再び〈ロンドン大火〉の再現が始まり、〈トーマス・ファリナー・ベーカリー〉がチカチカと点滅しだした。そこでブーマーが周りの家々に向かって、天空から「火事だ!」と叫んだ。「みんな、火事だよ! 早く逃げて!」それを面白がってはくれなかった警備員が飛んできて、一緒にいた僕たちも当然仲間だと思われ、三人もろとも部屋の外に追い出されてしまった。

次のブースは〈拡大する都市〉と銘打たれていた。―ロンドンは大火の後、着実に再建され、ドラマ『ダウントン・アビー』で描かれていたような、貴族が台頭する華やかな時代へと次第に移り変わっていった。ブーマーは特に〈ヴォクスホール・プレジャー・ガーデンズ〉という庭園のミニチュア模型を食い入るように見ていた。そこはテムズ川のほとりに位置し、17世紀半ばから19世紀にかけてロンドンの娯楽の中心地だった公園だ。そこには様々なマネキンが置かれ、そこにいる誰もが、自分を社会の高みに押し上げようとしているかのように、豪華な衣装で自身を着飾っていた。

「おー、格好いいね」とブーマーが、シルクハットをかぶったマネキンに声をかけた。頭上のスピーカーから、「まもなく博物館は閉館いたします」と、丁寧な口調で僕たちに退場を促すアナウンスが流れてきた。

「こうしてぶらぶらして過ごす時間が、なんだかいとおしいよ」と僕はソフィアに言った。「言ってる意味わかるよね、意気込むこともなく、それが友達だからさ。オックスフォードにはそういう相手がいないんだ」

「アズラが言ってたわ、あなたは周りに溶け込もうとする努力を怠ってるって」

「まあ、アズラは寄宿学校でそういうスキルを学んだんでしょ、君と一緒に。だからオックスフォードでも、うまく泳げているんだ」と僕は言った。「僕は初めてプールに放り込まれて、あたふたしっぱなしだよ。周りを見ればほとんどの人が、生また直後からこのプールで泳いできましたっていう余裕の表情で、すいすい泳いでる」

「大丈夫よ。あなたは泳ぎ方を知ってるんだから」とソフィアが指摘した。「こうして私と、友達と、ちゃんと泳げてるじゃない。オックスフォードでもできるようになるわ」

「ニューヨークではもっとうまく泳げてたんだけどな」と僕は言った。「ニューヨークの方が、水が僕の肌に合ってるから」

「そんな台詞、初めて聞いたわ。私は初めて耳にした。蛇口から出てくる水道水の話じゃないわよね」

「でも言いたいことはわかるだろ。僕は地元に帰りたいよ。あそこが僕のホームグラウンドだから」

「じゃあ、帰れば」

警備員が再びやって来て、もう閉館の時間だからそこの出口から早く出ていけ、と丁重に言った。

「出口に〈現代〉っていうプラカードを掲げた方が面白いのに!」とブーマーが言って、出口に向かって真っ直ぐ駆け出す。僕たちも後を追った。

外はもう、真っ暗だった。僕たちが建物の中にいる間に、12月の太陽はすっかり身を隠し、どこにも見えなくなっていた。ソフィアはスマホで時間を確認してから、手早くメッセージを入力していた。

「彼女があなたに対して怒ってるからといって、私にも返信が来ないなんて、ちょっとおかしいわね」と彼女がつぶやいた。

「〈バッドエッグ〉で腐った卵か、他のものでもいいけど食べる時間はある?」とブーマーが聞いた。

ソフィアはスマホで検索しながら答えた。「ええ、あるわ。でも1時間後にはタクシーに乗らないと、飛行機に間に合わなくなっちゃう。もう私たちの荷物も機内に積み込まれてる頃だろうし、この便が今夜の最終便だから、逃すわけにはいかないわ」

「ソフィアの家族に、ボクは時間にルーズなやつ(skipper)だと思われちゃう。ボクは飛行機の機長(skipper)だから最後に降りたんだ、とか思ってくれればいいけど」とブーマーが言った。彼としては笑いを取ろうとしたのだろうが、彼女はスマホの画面を見たまま操作し続けている。

「彼女の家族に初めて会いに行くんだろ、どんな気分?」と僕は聞いた。

「怖いよ...いい意味でね」ブーマーはにっこりと笑った。「でもそれが愛ってもんっしょ?」

僕は一瞬考えてから、結論を出した。「ああ、きっとそうだ」

〈バッドエッグ〉は、ブランチ・レストランといった感じの、太陽光を存分に取り込める全面ガラス張りのお店だったが、夜の遅い時間まで営業していた。ロンドンの中心地で、メキシコの卵料理「ウェボス・ランチェロス」を注文するのは違和感があったのだが、ブーマーはお構いなしといった様子だ。

「胃が欲しがってるものを食べるに限るよ」と彼は言うと、ウェボスに追加で、クリスマス・プディング・サンデーも注文した。それはアイスクリームの上に、ブランデーに浸したフルーツと、なぜかクリスマス・プディングと呼ばれているチョコの塊が、こんもりと盛りつけられたパフェだった。

僕もブーマーにつられ、「シャクシューカ」というトマトベースの卵料理を注文した。ソフィアは普通に「ハンバーガーをください」と言った。店員さんが僕らのテーブルを去ると、向かい側に座っている二人を見て...僕の胸がキュンと鳴った。久しぶりに聞いたときめきの音だった。オックスフォードでは、こんな状況は一度もなかった。あえて和気あいあいとした情景は心のうちから排除していたのだ。楽しいひと時を思い出せば、むしろ孤独の声が大きく聞こえるだけだから。大学院に行って学問を究めるのだ。そう自分に言い聞かせていた。そのためには奨学金を得る必要があるし、当然博学を身につけなければならないと、僕は独りの時間に没頭した。でも本当は、誰かと向かい合って食事をしたかったんだ。心に浮かんだことを何でも話し合える相手が欲しかった。ブロンテ姉妹、ジョナス・ブラザーズ、カール・ヴァン・ヴェクテン、カーリー・レイ・ジェプセンなど、芸術や音楽について思う存分語り合いたかった。

「目がうるうるしてる?」とブーマーが僕の目を覗き込んで聞いてきた。それから彼はソフィアの肩に腕を回すと、言った。「見て、彼が泣きそうになってるよ」

「僕はただ...君たちが近くにいなくて寂しかった」と僕は言って、零れそうになった涙を手でぬぐった。自分の口から飛び出した表現があまりにありきたりで、特別な人生を歩もうとしていた自分が、これほどまでに平凡な存在だったのかと思い知ったが、それ以上に喜びの方が大きかった。そのうち僕は耐えきれなくなって、僕の方から彼らの元へと、泣きつくように帰っていただろう。逆にこうして僕のところへ来てくれた。僕はなんてラッキーなんだと思い知り、感謝の気持ちが溢れて止まらない。

「ボクたちも君がいなくて寂しかったよ」とブーマーが言った。

「砂漠たちが雨を恋しがるようにね」とソフィアが割って入るように、イギリスのロックバンドの曲を引用した。

僕は言わずにはいられなかった。「その歌を聞くたびにずっともどかしかったんだけどさ、なんで砂漠たちなの? 普通に砂漠でよくない?」

ブーマーが、そう来なくっちゃ、みたいな目で僕を見て、「確かにいえてる」と言った。

「じゃあ、私が喩え直すわ」とソフィアが続けた。「氷冠たちが寒さを恋しがるように。北極と南極の両方あるから、氷冠たちね」

「いやいや、そこは熱帯を恋しがってよ」と僕はつっこみを入れる。

「今の状況でいうと」とブーマーが追随した。「ボクの胃袋がプディング・サンデーを恋しがってるように。ってか、遅くない...」

それからしばらく、ネタ切れで一息つくまで、僕たちは三人で比喩のオリンピックを繰り広げていた。

僕の心を読んだのか、それとも僕と同じ気持ちになっただけか、ブーマーが言った。「彼女もボクたちの中にいなくちゃだめだよ」

「そうだね」と僕は言った。「彼女もここにいるべきだ」

「じゃあさ」ソフィアが提案した。「みんなで一斉に彼女にそう伝えましょうよ」

僕たちはそれぞれのスマホを取り出すと、君もここにおいで、と画面に打ち込んだ。そして三つ数えて、同時に「送信」ボタンを押した。それからさらに同じことを三回繰り返した。

返事はなかった。

僕たちは彼女から返事が来ないことを笑い話に変えようと、冗談交じりに憶測を言い合ったりしていた。食事も済んで、ソフィアが、そろそろヒースロー空港に向かった方がいいわ、と時間を気にしだしたので、店員さんにお会計を頼み、支払いをした。

僕たちが立ち上がってコートを着ようとした時だった。ソフィアのスマホが鳴ったのだ。

ソフィアは驚いた表情を浮かべながら、届いたメッセージを読んでいる。

「リリーから?」と、ブーマーと僕が同時に聞く。

ソフィアは首を横に振った。「いいえ、アズラからよ。でも、あなたたちびっくりするわよ。彼女とリリーは今、信じられない場所にいるみたい」




11

リリー


12月22日

リリー、やってくれたな。お前のせいでクリスマスが台無しだぞ。

なんとか勇気を振り絞ってスマホの電源を入れてみると、最初に目に飛び込んできたメッセージがこれだった。兄のラングストンの声が頭に鳴り響く。でも続きを読んでみると、完全に気が滅入るようなメッセージではなかった。

お前のせいというか、お前のおかげといった方がいいかもな。お前が送ったメールにママが怒りをむき出しにして、「今年はもうクリスマスをやめる」と言いだした。交換するプレゼントも用意してないし、一日中パジャマ姿でうろうろ過ごすこともないし、クリスマス・ブランチの準備もしてない。やっほーい! って俺は叫んだよ。一年に一度のバカげた日が消えてくれたー! 毎年うんざりしてたんだよ。無駄に労力とお金をつぎ込んで、くだらない消費主義に踊らされて、ひどいセーターをもらって、みたいなクリスマスを今年もやり過ごすのかと思っていたから、待ちに待ったクリスマスなしの年末になりそうだって喜んだ。ただ、家族の中で誰よりもこの時期を待ちわびていたはずの、ナンバー1のクリスマスオタクが、そのきっかけを作ってくれるとは予想外だったな。おかげで俺は、クリスマスをベニーの家族と過ごすことができる。自分の家族をないがしろにして、ボーイフレンドの家族と過ごすなんて、ちょっと気が引けるけど、そこまで罪悪感を感じなくて済む。だって、クリスマスをやめるって言いだしたのはママだからな。―俺は彼女の考えに乗っただけだ! ほんとにお前ってやつは天才だよ。はっきり言って、プエルトリコのクリスマス料理の方が、うちのより美味いんだ。それでもお前が作るクッキーは、一位に君臨し続けるけどな。(大学には行った方がいいぞ。バーナード大学じゃなくてもいいからさ。今度相談に乗ろうか?)

私は地下鉄を降りて、マークとジュリアの部屋へ向かった。私の荷物を置きっぱなしだったから取りに向かっていたんだけど、ダッシュからは一向にメールが届かない。―いったい何なの?!?!?―ママからのメールはちらちらっと見ていったけど、メッセージを開くたびに、ママの逆鱗に触れたというか、逆鱗のスクリーンショットを撮っているかのような気分になり、最後まで読めずにすぐに次のメッセージへと移ってしまう。

あなたが大学に行きたくないと思うのなら、あなたは...

電話に出なさい、リリー!

我が家はね、4世代に渡って女性は全員バーナード大学に入ったのよ。あなたがその伝統を閉ざすなんて...

しかし決定打になったのは、パパからのメールだった。30分ほど前、まだダッシュと船の上にいた時、ちらっとスマホを覗き見たら、パパからメールが届いていた。それが引き金となって、つい私は船を降りてしまったのだ。

ママの心を傷つけたようだな、リリー。

私はいったい何を考えていたのかしら。自分でもわからないまま、気づけばフェリーから飛び降りていた。衝動的な行動だったけど、そうすることで、ダッシュを怒らせて喧嘩状態に引きずり込もうとしたのかもしれない。彼の気を引きたかったのか何なのか、あの時の私はいろんなことで頭がいっぱいで、自分を見失っていた。異国の地にやって来て、独立へ向けて一歩を踏み出した、はずだった。それなのに、たったの一日でこんなことになってしまった。真剣にここで身を立ててやって行こうと考えていたはずの良き日が、こんなにも早く、あっけなくダメになってしまうなんて、いったいどうなってるの?

私は臆病者だからでしょうね。勇気がないから、こうなるのよ。

私は勇気がない小娘だ。バーナード大学には行きたくないってずっと思っていたのに、ママには逆に行きたがっているそぶりを見せてしまった。勇気がないから自分の口では言えずに、メールの一斉送信という邪道な手段で、ママの思い描いている大学への夢を、ママの代わりに叶えてはあげられない、と伝えた。(私は臆病者で、卑怯者だ。)

私はまぬけな恋人だ。クリスマスにボーイフレンドを驚かせてしまった。彼がオックスフォードでの生活に疲れきっていて、力を抜いて頭を休めるための休暇を必要としていることくらいわかっていたのに、のんきにサプライズを仕掛けてしまった。それに、私がイギリスに移り住んで彼のそばにやって来たら、彼が私に気を取られて、この地に彼の土台を築き、根を張る邪魔になるってことに、私は気づかなかった。

私は独りよがりの夢見る乙女だ。トゥイッケナムの、よくわからない犬の学校に行くとかいう考えを思い描いて、甘い気分に浸っていた。現実問題として、イギリスに引っ越すということは、マンハッタンで私を犬の散歩人として頼りにしている、ありがたいクライアントの皆さまを裏切ることになるし、愛犬のボリスとも離ればなれになってしまう。

臆病者、臆病者、臆病者。私は卑怯で、まぬけで、最低だ。

あの時、ガーベイ教授とママにメールを一斉送信した瞬間は、我ながらいい考えだと思った。反抗的な行為であると同時に、―あれよ、あれ、最近みんなが使ってる流行り言葉でいうと、―そう、代理行為にもなって一石二鳥でしょ。私は自分で意思決定をして、運命を選択できるだけの力を手に入れたんだって爽快感もあったわ。ただ、送った後のことまでは見通せていなかった。後から余波がどっと押し寄せて来るとはね。

私は早くホテルの部屋で独りになりたかった。私もダッシュと同じくらい疲れきっていたから、全身の力を抜いてゆっくり頭を休める必要があった。マークとジュリアが家にいなければいいなと思った。そうすれば、荷物だけを持って泥棒みたいにこっそり抜け出せるから。それこそ、臆病者の私らしいでしょ。しかし、そっと鍵でドアを開け、彼らの部屋に入ってみると、マークがあの忌ま忌ましいソファに寝そべって、マーティン・エイミスの小説を読んでいるのが視界に入った。(マークはこの作家が大のお気に入りなんだけど、ダッシュは、あんな作家を好きなやつを信用できるか、とか言ってたから、それも二人が敵対する理由の一つになってるっぽい。)マークは私を見ると、本にしおりを挟んでぱたんと閉じ、体を起こした。

「聞いたぞ。お前はまたやらかしたらしいな」と彼が言った。

「知ってる。私のせいでクリスマスが台無しになったんでしょ。私はモンスターなのよ」と言いながら、私は頭の中で自分の持ち物の在りかをざっと把握した。歯ブラシと化粧品のバッグはバスルームに置いてある。洋服はすべてリュックサックから手の届く範囲にあったはず。私は家の主(あるじ)の邪魔にならないように、ソファの後ろを通り抜けた。私にも先を見通す力はあるのよ、少なくとも数分以内の範囲なら。5分で荷造りして出て行こうと思った。―長くかかっても10分でしょうね。マークが、家族は家族と一緒にいるべきだとか言って、私がこの窮屈な部屋から豪華なホテルに泊まりにいくことを非難してきたら、私は捨て台詞の一つも残してさっさと出ていくつもりだった。

マークが言った。「またニューヨークで家族の危機が始まったそうじゃないか。俺がお前をロンドンに誘い込んだんだろって、なぜか俺が責められたよ。まあ心配するな。全部ダッシュのせいだって言っといたから。彼らは簡単に納得してうなずいてたよ」

「ダッシュは関係ないわ。私よ。全部私が決めたことよ!

「それもそうだな」とマークは、不信感を顔に滲ませて言った。「〈ドーントブックス・愛書家チャレンジカップ〉も途中で断ち切れになっちまった。お前らが抜けたとたん、脱落者が続出したんだ。ジュリアは自分が企画したイベントが頓挫して、ひどく落ち込んでるよ。まあ、それもダッシュのせいにしといたけどな。あいつは自分が元凶だってわかってるのか」

私は言った。「経営者として言わせてもらうと、企画のタイミングが悪いのよ! クリスマスに向けてみんな忙しいこの時期に、謎を解いてる暇なんてないでしょ! そういうのはイルミネーションがすっかり消えて、冬の淋しさばかりが目立つようになってきた頃、人々が何かやることないかな~ってふらふらと家を出る1月にやらなきゃだめよ」それから、私はまるで常識を言い聞かせるみたいに、世界中の誰もがダッシュを知ってるみたいに付け加えた。「それからね、何でもかんでもダッシュのせいにしちゃだめって」幼稚園で習ったでしょ。

「彼と出会う前のお前はもっと優しかった。もっとお手軽で気さくな感じだったよ」

「私は今だって十分優しいわ。ってかお手軽って何? 礼儀正しいって言ってよね」

マークがソファから立ち上がった。「俺は小学生のリリーの方が好きだったな」

ようやく風穴が開いたというか、捨て台詞を吐けるきっかけができた。すかさず私はマークに言い返す。「小学生のリリーなら、そのソファでも十分体を伸ばして寝れるでしょうね。大人のリリーには残念ながら無理でした。私は荷物を取りに来ただけだから、今からホテルへ行くわ」

マークがはっと息を呑んだ。「この裏切り者!」私がさらに自分の正当性を主張しようとした直前だった。マークの家のテレビ画面が受信音を発した。見れば、スカイプの着信で、発信者IDには「おじいちゃん」と表示されている。

「待って、マーク」と私は懇願した。「お願い、私がここを出ていった後に電話に出て」

「それはならぬよ、裏切り者ちゃん」とマークがにやけながら言った。「俺はさっきガチャってドアが開く音がした時すかさず、リリーが帰ってきたってニューヨークにメールしといたんだよ。みんながお前と連絡を取ろうとしてるみたいだけど、お前は一向に電話にも出ないし、メールも返さないそうじゃないか。ただ、ここなら問題ない」そう言うと彼は、躊躇なく〈リモート〉ボタンを押した。「やあ、おじいちゃん!」私の祖父と、それから私の兄の顔が大きなテレビ画面に映し出された。どうやら二人は今、〈モーニングサイド・ハイツ〉にある特別養護老人ホームの祖父の部屋にいるらしい。そういえば、〈モーニングサイド・ハイツ〉にはバーナード大学もあるのよね。

やっぱり私は最低の最悪みたいね?

そうか、私はおじいちゃんからも離れようとしていたんだ! 私の大好きなおじいちゃん。ほぼ毎日、私が来るのを老人ホームで楽しみに待っていてくれるおじいちゃん。気乗りする日は老人ホームの周りを一緒に散歩して、彼の気が乗らない日は、私がベッド脇に座って本を朗読するのを喜んで聞いてくれるおじいちゃん。彼の子供や孫たち全員を愛しているおじいちゃん。特に彼のお気に入りは私なんだけどね。老人ホームの他の皆さんも、私がボリスを連れてくることを楽しみにしている。ボリスは施設の中に入っても礼儀正しいし、動物との触れ合いが皆さんにとって、癒しの一時になっているみたい。知っての通り、外見は恐ろしい犬なんだけど、ボリスはセラピー犬としての驚くべき資質を開花させちゃったのよ。まあ見方によっては、彼は単純でわかりやすいオスで、ボリスの人生には、ピーナッツバターのおやつと私、それからお年寄りの皆さんがいれば満足みたいね。

私はさっさと画面の前から消えようとしたのだが、マークが私に向かって「座れ!」と鋭くつぶやいた。私はまるでボリスになった気分で、耳から入った命令に条件反射的に座ってしまった。相変わらずゴツゴツしたソファにお尻を埋めた瞬間、私を非難がましく見ていたおじいちゃんとラングストンの視線と、私の視線がぶつかった。

おじいちゃんが言った。「リリーベア、お前のせいでクリスマスが中止になったそうだな?」私はおじいちゃんの顔から目をそむけたが、目に入ってきたのはおじいちゃんのベッドの枕元にずらっと並べられた家族の写真だった。―少なくともその半分には私が写っている。過去のクリスマスパーティーでにこやかに笑う私。可愛らしくて、屈託のない笑顔を振りまく過去のリリーは、私じゃないみたいだ。

「ミセス・バジルはどこ?」と私は聞いた。確か今日は、ラングストンではなく、彼女がおじいちゃんを訪問する日だったはず。

ラングストンが言った。「今日は俺がこの街にいるってことで、彼女に代わってほしいって頼まれたんだ。ってか彼女も今年は、毎年恒例のクリスマスパーティーをキャンセルするとか言ってたぞ。彼女の高級シャンパン・コレクションは、大晦日のパーティーまでおあずけってことだ。それさえも中止になったら、彼女のシャンパンがお目当ての親戚たちと俺に、お前は袋叩きだからな」

「彼女は今日はどこへ行ったの?」私の心はさらに痛んだ。大叔母さんのタウンハウスで毎年クリスマスの夜に開かれるパーティーは、私たち親族にとってメインの行事だった。プレゼント交換がなくなったことよりも、あそこで親族みんなが顔を合わせる機会がなくなったことの方が、大きな損失のように感じられた。

おじいちゃんが言った。「わしの妹のことは気にするな。あいつは姿をくらますのが好きなんだ。ほっとけばいい。それよりリリー、よく聞け。お前の母親がクリスマスを中止したことは、大したことじゃない。どうにでもなる」彼はそう言うと、ベッドから出て、よろよろと歩行器につかまった。彼の足腰が弱っていることを、改めて私に思い知らせようとしているかのようだった。すると彼は片手を振り上げ、私に向かって握りしめた拳(こぶし)を繰り出した。「だがな、お前が大学に行かないというのは絶対に許さん!

ラングストンがおじいちゃんのそばに寄り添うように立った。「そうだぞ、リリー。お前はいったい何を考えてるんだ?」

「私はバーナードには行きたくないの」ついに言ってしまった。頭の中で何万回と繰り返してきた言葉を、声に出して私は言っていた。

私の背後でマークが言った。「あそこは名門のお嬢様大学だからな。お前みたいな、ちんけなやつが入ったら浮いちゃうってか」

マークに関しては、ダッシュが正しいと痛感した。ほんと彼はひどい人なのよね。っていっても、彼は私のいとこなわけだし、何があっても家族愛はあるけど。でもね、ちんけとか言われると、あんたにだけは言われたくないわって気持ちにもなる。

「それで、大学に行かずに何をするつもりなんだ?」とおじいちゃんが聞いてきた。

今さら悪あがきするみたいに、言い訳めいたこと言っても無意味だとわかっていた。何をどう言ったところで、それはならぬって言われるに決まってるから、私は本当のことをそのまま言うことにした。「犬のトレーニングの学校があって、そこに行こうと思ってる。ここ、イギリスにあるのよ」

一同沈黙。

それからラングストンが口を開いた。「なんていう学校だ?」

「ペンブローク・ケイナイン・ファシリテーター・インスティテュート」と私は答えた。

マークが言った。「なんだ、そのふざけた名前は? 校長はあれか、ロマンス小説の名手バーバラ・カートランドとかか?」

「いいえ、ジェーン・ダグラスよ」と私は言った。

「その学校をどうやって知った?」とラングストンが聞いてきた。「犬の散歩のクライアントにでも教えてもらったか?」

私はうつむいて、小声で言った。「〈Reddit〉サイトで」

また一同に沈黙を引き起こした、わけではなかった。コップで水を一口飲んだラングストンが、それを聞いて、のどを詰まらせ噴き出してしまったのだ。「待て、待て」彼は口を拭いてから続けた。「リリー、しっかりしろよ。バーナードがお前にとって、合わない大学だっていうのなら、なんとか理解できる。まあ、あそこは誰にでも合いそうな校風だけどな。それに、せっかく合格したのにもったいないとは思う。ちょっと待って、今検索してみるから。えっと、―Googleによると、合格率は17%だな、素晴らしい大学だよ。たくさんの優秀な学生がバーナードに行きたがってるってことだ」黙って、グーグル! 私はラングストンの声が一瞬Siriみたいな機械音声に聞こえ、そう叫びそうになった。ラングストンが付け加える。「しかしだ、どの大学にも行かないっていうのは話が違う。犬のスキルをさらに深めたい? それは大学に行きながらでもできるだろ

おじいちゃんが言った。「まったくだぞ、リリー。お前の人生設計を話してみろ。どんな人生を思い描いてるんだ?」

それは一言では到底答えられない質問で、たくさんの答えが胸のうちにあった。ダッシュと一緒にいたいし、どういう形でもいいから、何か人の役に立つことをして生きていきたい。中でも一番上に浮かんだことを、私は口にした。「私は犬と一緒に働きたいと思ってるのよ、おじいちゃん。例えば、獣医さんになるのもいいかな?」

私は本当は獣医さんになりたいわけではなかったけれど、その響きがなんかかっこよかったし、ふらふらしてなくて、責任感のある成熟した大人が、将来設計を語るのにふさわしい職業のように感じた。

おじいちゃんが言った。「だったら獣医学部に入って、学位を取らなきゃだめだろう」

「それか犬関連の起業家もいいな」と私は言った。「犬の散歩とか、犬の手芸品とか。それなら学位は必要ないでしょ」

「それでも、経営について学んでおくことは役に立つはずだぞ」とおじいちゃんが返した。

ラングストンが聞いてきた。「イギリスのドッグスクールに行きたいっていうのは、ダッシュが理由か? それとも、そこが自分に合った学校だからか?」

「たぶん両方かな?」と私は答えたけれど、たぶんどちらでもない。今日の午前中、ジェーン・ダグラスと行った土手の公園で、私はそのことに気づいてしまった。今までもやもやしていた自分のやりたいことが、突如として、はっきりと見えたのだ。ただ、待ち伏せされたみたいに、家族にスカイプで突撃されて、私は混乱していた。すっかり混乱していたから、そう答えてしまったのよ。

「わしはもう十分、ダッシュのことは大目に見てきたつもりだ。彼のためにイギリスに引っ越すなんてことは、許さんからな」とおじいちゃんが言った。「お前の母親があんなに怒ってる理由がようやく今わかった」

「それはあなたが決めることでも、彼女が決めることでもないわ」と私は強めに言った。ついに言うべき時が来た、と思ったけれど、本当はもっとずっと前に、みんなに言っておくべきだったんだ。「ダッシュは、大目に見るとか、許容するとか、そういう対象じゃありません。このピザは普通の味だけど、まあ大目に見るか、とか、地下鉄がちょっと遅れたけど、許容範囲だな、みたいな感じで言わないで! 彼は私の人生で最も大切な人なんだから。こんなことを言って気を悪くしたら申し訳ないんだけど、これは事実なのよ、あなたは最愛のリリーベアを、ぬいぐるみみたいにまだ手元に置いておきたいだけなの。でも私は巣立って飛び立とうとしてる。一緒に飛び立つ相手が彼で、ダッシュみたいな人で良かったって思ってほしい。だって、彼は善良で親切で面白くて、素晴らしい人だから。彼は、ありのままの私を愛してくれてるの。彼がこうあってほしいって望む私じゃなくてよ。今のあなたがそうしてくれてるようにね」

一同が長い沈黙に陥った。

それからおじいちゃんが口を開いた。「リリー、こういうのはどうだ? 今すぐに大学へのドアを閉ざすんじゃなくて、―わしが言ってるのはRedditなんとかじゃなく、ちゃんとした大学のことだからな、―お前がこっちに帰ってきたら、まずは家族で話し合おう。わしのためにそうしてくれるか? そしたらわしも、ダッシュのことは大目に見るんじゃなく、受け入れると約束する。わしは、結局お前の父親も受け入れたんだ。ダッシュにも同じことができるはずだ」

そこには、おじいちゃんの弱った見た目とは裏腹に、往年の力強さがみなぎっていた。ここでさらに私が自分で決めるからいい、とか言って抗っても、決して勝てない戦いだとわかった。私の気持ちを代弁できる人は私以外にいないけど、―私は家族の一員でもあるから、家族の思いも酌(く)む必要があるのよね。「わかったわ。そうする」と私は言った。

「ありがとう、リリーベア。メリークリスマス」彼はそう言うと、彼のいるあっち側の世界から、私に投げキッスを送ってくれた。

「ママに電話しろよ」とラングストンが言った。「ママは悲しみに打ちひしがれてるから、早くお前の声を聞かせて、そこから引っ張り出してやれ」

「そうする」と私は約束した。そうするわ、後でね。

私はマークの手からリモコンを取って、通話を切ろうとした。私が〈オフ〉ボタンを押す直前、マークが言った。「彼女は今夜、俺んちじゃなくて―」彼がネズミみたいに早口で告げ口を終える前に、私は思いっきり〈オフ〉ボタンを押した。さっき私のことを裏切り者とかほざいてたくせに、裏切り者はあんたの方じゃない。ネズミみたいにニヤニヤしちゃってさ。


ダッシュにはちゃんと謝らないといけないわね。とにかく彼に会ったら、思いっきり抱きついて、激しくキスをしよう。それが一番の穴埋めになるはずだし、私は最低な臆病者だったけど、私もくよくよしてないで、きっと夢中になれるわ。

しかし、私の携帯は心の欲求に協力してはくれなかった。マークの家を出た後、私はさっそくダッシュにメールした。ごめんなさい。今どこにいるの? と何度メールを送ってみても、送るたびに不達のエラーメッセージとともに戻ってきてしまう。携帯の設定をいじってみたけれど、何度やっても同じエラーメッセージが出てダッシュの携帯まで届かなかった。けど、ソフィアとブーマーからのメールはちゃんと受信できたわ。

ソフィアから。何があったのかわからないけど、あなたが正しくて、ダッシュが間違ってるってことは確かでしょうね。でも彼を許してあげて。ブーマーと私がバルセロナへ出発する前に、少しでも会いましょうよ!

ブーマーから。リリー、どこにいるの? 犬の群れに連れ去られちゃったとか? もしそうだとしたら、どこに連れて行かれたの? 犬が人間を監禁するための犬小屋って、どんな小屋だろう。

それからソフィアとブーマーの両方から、同時に同じメールが届いた。君もここにおいで。

あなたはどこにいるの? と私はダッシュにもう一度メールしてみた。またしても届かない。

どうやらダッシュのスマホと私のスマホだけが通じ合っていないらしいとわかり、仕方なくソフィアとブーマーに返信しようとしたら、アズラ・ハトゥンからメールが届いた。今夜空いてる? 〈ハイドパーク・ウィンターワンダーランド〉のチケットが余ってるんだけど、私と一緒に行かない?

ニューヨークでは、私のせいでクリスマスがキャンセルされちゃったのかもしれないけど、ロンドンでは、私の心はクリスマスまっしぐらよ。いまだかつてないくらい、私はクリスマスを祝いたい気分だった。行く! と私は返信した。私は一旦ホテルに立ち寄って、予約しておいた部屋に背負っていたリュックを置いてから、今夜のスケジュールを修正して〈ハイドパーク〉へ向かった。ソフィアとブーマーに返信するのをすっかり忘れていた。


ついに! やっと! 待ちに待ったクリスマーーーーーーースーーーーー!

「あなたが来てくれて嬉しいわ」とアズラが言った。私たちは壮大なイルミネーションの中を並んで歩いていた。私は私を取り囲む幻想風景に圧倒されていた。これってもしかして、私をさらにロンドンに引きずり込むためのイベントなの? こんなのが毎年開催されていると知ってしまった私は、もっとこの街に住みたくなっていた。この時期に冬のワンダーランドと化すのはニューヨークの〈セントラルパーク〉と同じだけど、〈ハイドパーク〉の方が、(私の考えでは、)気合が入っていた。敷地はまばゆいばかりの妖精の光で照らされていて、あちこちにアトラクションの乗り物があった。サンタの家には妖精たちと、偽物の太った男が住んでいた。実際の氷でできた滑り台を、よせばいいのに子供たちが滑り降り、濡れたズボンを引っ張って身を縮こまらせている。クリスマスマーケットで掘り出し物を探す人々。サーカスが練り歩き、巨大な屋外アイスリンクでは人々が手を取り合って滑っている。〈バイエルン・ビレッジ〉っぽく出店が並んだ通路には、音楽、食べ物、陽気な笑い声が溢れていた。私は天国にいた。どのアトラクションを一番に体験したいか決められず、ただキョロキョロしながら歩いているだけだったけれど、その光景を体感するだけで満ち足りた気分だった。連れてきてくれたあなたに感謝よ!  ロンドン最高! アズラが付け加えた。「だけど、あなたがダッシュと一緒じゃなかったのが意外ね」

「私自身も意外なの」と私は言った。「こんなことになるとは思わなかった。ちょっとした喧嘩なんだけど、私のせいなの。彼にメールしようとしたんだけど、何度送ってもすぐ返ってきちゃうの」

「そういう時期なのかもね。神のみぞ知るって感じだけど、カップルには休息が必要な時もあるのよ」

そのワンダーランドでは、巨大スクリーンで映画の上映会もやっているようだった。それが私の大好きな映画『ラブ・アクチュアリー』だったから、ダッシュと腕を組んで観たい衝動に駆られたけれど、もしダッシュがここにいて、私が「あれを観ましょ!」と言ったら、私たちの関係はさらにおかしな方向へ曲がってしまうでしょうね。―あれは彼が大っ嫌いな映画の一つだから。私は言った。「一時的な休息ならいいんだけどね。私は彼と仲直りするつもりよ、絶対に」私は彼に素敵なセーターを買ってあげたかった。それを着て、さまになっている彼の姿を見たいっていうのもあるけど、彼の体からセーターをはぎ取るのがもっと楽しいのよね。

アズラが笑った。私は彼女に尊敬の念を抱いてやまない。彼女は〈ハイドパーク・ウィンターワンダーランド〉みたいな素敵な場所を知っていて、それだけでも尊敬しちゃうのに、スキニージーンズにハイヒールを合わせ、こんなのなんてことないって感じで広大な敷地を練り歩くことができる。私だったら、あんなにお洒落でとがったハイヒールを履いてたら、1ブロックも歩けないわ。「仲直りか」とアズラが言った。「そういう気持ちってなんだか羨ましい。私は今朝、オリヴィエと別れたの」

私は足を止めて立ち止まった。「ほんと?」

彼女は5インチの刃物みたいにとがったヒールを履いているのに、それを感じさせないさりげなさで歩き続けている。「本当よ。だから今夜のここのチケットが一枚余っちゃったの」

「何があったの?」

「もう彼とは付き合いたくないって思っただけ。2年くらい付き合ってきたけど、今朝目覚めたら急に、もういいやって思ったの」

「それだけで?」

「前から感じてたことなんだけどね。少しずつ溜まってきたものが、ついに溢れちゃった感じかな。一緒にオックスフォードに行くっていうのは、最善の選択ではなかったみたいね。二人とももっと広い場所で、ある程度の距離を保ちながら付き合うべきだったのよ。最終的に決定打になったのは、昨夜の電話ね。夜遅くまで電話で話してることはよくあるんだけど、昨夜は彼の叔母さんの話になったの。彼女はとても気高くて、反フェミニストなのよ。私も会ったことはあるんだけど、その叔母さんが私のことをすごく気に入ってくれたって彼が言うの。私が最近の若い人に多い、意識高い系のフェミニストじゃなくてよかったって、彼女が言ってたんですって。だから私はオリヴィエに言ったわ。『私はフェミニストよ。意識高い系かどうかは自分では判断できないけど、意識的に他の人を尊重して敬うようにはしてる』って。そしたら彼が私の言葉を遮って、『君は意識高いし、社会的にも力を授かった女性だ。だけど君は、ちゃんと伝統に則ってヒジャブを頭に巻いてるんだから、フェミニストじゃないよ』ですって。彼って私のこと何にも知らないんだ?って思ったわ。思わず私は言い返していた。『ヒジャブを身に着けることこそが、私をフェミニストたらしめてるのよ。それは選択の自由で、私が選んだの。謙虚さや敬意を表現するには、こうしてつつましやかなヒジャブを身に着けるのが一番でしょ。私が生まれ育ったコミュニティを思い出させてくれるし、私自身の中に一つ信じるものがあるって大きいのよ。これを被ってると、私がそれを代表してるんだっていう気分にもさせてくれる。これ以上のフェミニズムがある?』」

「神との関係に基づく自己肯定感みたいなもの?」

今度は彼女も足を止め、こちらを振り向いた。「それよ! 昨夜思い余って、オリヴィエにうっぷんをぶつけちゃったけど、私は電話を切った後もすっきりしなかったわ。ほとんど眠れないまま朝が来て、シャワーを浴びて、いつも通り頭にスカーフを巻いたら、わかったの。もう終わったんだって」

「悲しい?」

「そうね。でもほっとした部分もあるかな。彼って、あのシェイクスピア俳優のオリヴィエみたいに、競争心が強くて、ちょっと気取ってるっていうか、うぬぼれが強いのよね。彼はやりたいことが多い人だから、もうすぐ新しい年になるこの時期に別れるのは、タイミングとしても良い気がする。彼のあのエネルギーを、私の肩に背負ったまま新年に持ち越す気にはなれないわ」

「あなたの両親は喜んだでしょうね?」

「驚いてたけど、喜びを隠そうとしてるのが見え見えだったわね」

近くに〈バイエルン・ビレッジ〉の入り口が見えた。美味しそうな匂いも立ち込めている。「そういうときは、ドイツの美味しいおやつに限るわ。レープクーヘン・クッキーでも食べましょうよ、私がおごるからさ」

「じゃあ、クッキーに合う〈モクテル〉もお願いしちゃおうかな。フルーツジュースがたっぷり入った、アルコールは入ってないやつね」

私たちが匂いにつられるようにビレッジの門をくぐったところで、私は言った。「その靴でよく歩けるわね。足が痛くならないの?」

「平気よ。寄宿学校で部屋が一緒だった子がいるんだけどね、その子はモデルの仕事とかしてたから、ヒールの歩き方を教わったの。今でも彼女とはメールでやり取りしてるんだけど、実はね、あなたのダッシュの、元カノの、―ソフィアなのよ」

「えっ、あなたソフィアを知ってるの?」

「ええ!」

「どうして今まで言ってくれなかったのよ?」

「今の今まで頭に浮かばなかっただけよ。それが何か問題でも?」

問題はないけど、なんか、私がバカみたいじゃない。またしても、ソフィアの完璧さが浮き彫りになって、私はまたまた彼女に嫉妬しなきゃいけないの? 彼女がモデルもやってたなんて、今初めて知ったわ。ランウェイとか歩いてたってこと? ハイヒールできちんと歩けるだけじゃなく、それを他の子たちに指導もできちゃうなんて。「全然」と私は言った。「彼女って当時からあんな、完璧な感じだったの?」

「彼女はかなりやんちゃしてたわよ! 彼女にはスイス人の彼氏がいてね、門限を過ぎた夜中にこっそり寮を抜け出して、彼に会いに行ってたわ。そして、朝の4時頃になってようやく部屋に戻ってくる、なんてことも結構あったわね。私は真面目な女の子だったから、よくやるなーって呆れて見てたけど、感心する部分もあった。それから、彼女の家族がニューヨークに引っ越すことになって、彼女は彼を捨てたのよ。取り残された彼は惨めだったわ。たぶん彼に引っ越すことを言わずに突然消えたんでしょうね、真夜中に彼が寮にやって来て、中庭から彼女の名前を叫び出したんだから! 張りのある声が部屋まで聞こえてきて、誰かが夜中にヨーデルの練習でも始めたのかと思っちゃった!」

「ヨーデルの歌に乗せて彼女の名前を呼んでたってこと? 彼はコーラス隊に入ってたのかしら?」

「さあ、そこまでは知らないけど」

この話を聞いて、私はなぜかソフィアのことが好きになった。そして、まだソフィアとブーマーのメールに返信していなかったことを思い出し、ソフィアもその彼氏に言いそびれただけかもしれないな、と思った。アズラとのリアルな会話が楽しすぎて、今さらスマホを取り出してメールなんてしてる気分じゃなかったけれど。私たちは〈バイエルン・ビレッジ〉の中を歩いていた。通りの四方八方をキラキラしたイルミネーションが取り囲み、人々が笑い、飲み、食事をしていた。私にぴったりの、クリスマスキャロルを歌えるカラオケバーを見つけ、私は聖杯を見つけた探検家みたいに、喜び勇んで店内に入っていった。

バイエルン風の衣装を着たウェイトレスが、スキー板の形をした長いトレイを抱えて、私たちに近づいてきた。トレイにはグラスが収まる穴が開いていて、お酒がスキーに乗っていた。「スキーウイスキーはいかが?」と彼女が私たちに聞いた。

アズラが言った。「私はお酒は飲まないわ。リリーは?」

「せっかくイギリスにいるんだし、飲もうかな?」と私は言った。イギリスの法律では、18歳から飲酒ができる。今ここでお酒を楽しめば、ニューヨークの3年後、21歳の誕生日にタイムスリップしたような感覚を味わえるかもしれない。パーティーは私史上、最高の盛り上がりを見せ、私の中で伝説になる予感がする。

ウェイトレスが「5ポンドです」と言って、〈スキートレイ〉からスコッチ・ウイスキーっぽい色の液体がなみなみと入ったショットグラスを手渡してくれた。

私はウェイトレスに5ポンド札を手渡してグラスを受け取った。私はそれをちょっとずつすするのではなく、―〈ショットグラス〉っていうくらいだから、思いっきりゴルフクラブを振るみたいに飲まなきゃね、と思い、口の上でぐいっとグラスを傾け、一気にのどの奥へ流し込んだ。―まさにショットのように、その液体はのどを高速で通過し、 私の心臓にクリーンヒットした。体がぼわっと熱くなり、私は今年のクリスマスに、今の今までずっと欠けていたものを思い出した。そうだ、歌わなくちゃ!

3、4、5、―何杯飲んだのか、途中から数えてられなくなっちゃったけど、―とにかく何ショットもウイスキーをのどの奥に打ち込んで、私はマイクを握りしめ、歌った。私はその場のスターと化した。お店のお客さんたちが手拍子をしたり、一緒に歌ったりして盛り上げてくれた。アズラは隅のカウンター席から、私を眺めて笑っていた。私は中央のステージに立ち、私の視線の下にあるカラオケモニターに映る歌詞を、見なくても覚えているんだけど、チラ見しながら歌った。私の背後には巨大なスクリーンがあって、私の顔がアップで映し出されている。そのスクリーンは、〈ハイドパーク〉のいたるところに設置されたスクリーンとも同期され、〈ハイドパーク〉全体に私の歌声が響き渡った。

It’s the most wonderful time of the year . . .(一年で最も素晴らしいこの季節に . . . )

歌姫になったような気分だった。私は夢見心地で観衆を見渡し、私ののどから放たれた歌声が、マイクを通り、スピーカーで拡声されて、私の耳に戻ってくるさまに酔いしれていた。突然、マイクが私の手からひったくられた。半開きだった目を見開いて、振り向くとそこには、ダッシュがいた。彼は全然幸せそうには見えない顔をしていたけれど、彼のお気に入りの古いピーコートは、思わず脱がしたくなるくらい、すごく似合っていた。

「そんなに素晴らしい季節ですか?」と、ダッシュがマイクで群衆に尋ねた。




12

ダッシュ


12月22日

一人の人間の二面性を描いた『ジキル博士とハイド氏』のように、〈ハイドパーク〉もジキルに戻る時が来たようだ。祝賀パーティーは最高潮に達し、心のうちに巣食っていた野獣をすっかり外に吐き出し終えたみたいだから。

最初、リリーがお酒を飲んで酔っぱらっているのか判然としなかった。実のところ、リリーはお酒を飲まなくても、クリスマスキャロルを歌うだけで完全に陶酔してしまえる女の子だったから。『リトル・ドラマー・ガール』のヒロインのように、イントロが流れさえすれば、その場のビートは彼女のうちに引き継がれ、あとは勝手に彼女の音楽的才能が花開き、その場を包み込んでしまうのだ。『グッド・ウィル・ハンティング』で描かれたように、才能とはそういうものだ。彼女がゾーンに入ってしまえば、もう僕の出る幕はない。僕は一歩身を引いて、その調和のとれた歌声に身を委ねることしかできない。だから初めは黙って聴いていた。『Do You Hear What I Hear?』(あなたにもサンタの鈴の音が聞こえる?)をホイットニー・ヒューストンばりに歌い上げる彼女は、完全にサンタの鈴の音をかき消しているな、と皮肉めいたことを考えながら僕は聴いていた。『Do They Know It's Christmas?』(アフリカの人たちはクリスマスの喜びを知っているのか?)を聴きながら、その問いかけに対して、「そもそもアフリカの人たちにはクリスマスを祝う習慣がないのに、勝手にクリスマスを祝う側のものさしで価値をはかって、押し付けようとすることに問題があるって思わないのか?」と僕は考えていた。歌詞に今年のクリスマスもアフリカには雪は降らないっていう箇所があるけど、リリーの歌声で聴いてさえ、その内容にはオエッて気分だった。「これをCDとかに焼き付けて、世界中にばらまいているなんて、とんだお笑いぐさじゃないか?! 上から価値観を押し付ける植民地主義のがらくたソングにしか思えない」みたいな考えが頭を行ったり来たりしていた。僕をそれを胸のうちに秘めていられるだろうか? いちゃもんをつけることなく、音楽が夜の空気を満たしていくのを傍観していられるだろうか? 最初、僕は黙って聴いていられた。まあ多少、歌詞に問題はあるにせよ、世界中の人に幸せになってもらいたい、という大きな精神を、リリーの歌声から感じられたから。

僕は空港へ向かうブーマーとソフィアを見送った後...恥ずかしげもなくチャラチャラと頭に角をつけたりしている人々に交じって、〈ハイドパーク〉にたどり着いた後...『Santa Baby』を歌い上げるリリーの歌声が聞こえてきて、その歌声を追いかけるようにして、ステージ上に一人で立ち、歌っている彼女を見つけた時...ごちゃごちゃとした細かいことは先送りにして、とにかく今は聴き入っていたい、という気分になった。彼女の後ろにある大型スクリーンでは、この後、クリスマス映画の、あの定番が上映されることになっているらしい。(『ラブ・アクチュアリー』だったか、『ラブ・アクチュアリー・ノット』だったか、僕は興味ないから知らないけれど、)映画ごときにむきにならなくてもいっか、という気分にリリーの歌声はさせてくれた。

次の曲が始まると、一年で最も素晴らしいこの季節に . . . とリリーが歌いながらステージを下り、お客さんの間を練り歩き始めた。その時、酔っぱらった3人のサンタが、群衆をかき分けるように彼女に近づいてきて、リリーのお尻を掴もうとしたのだ。

僕は『クリスマス・キャロル』のスクルージみたいにサンタが大っ嫌いだし、なんとか3人のサンタを追い払いたかった。しかし、空飛ぶそりでもない限り、僕が3人の男を押しのけるなんてことは無理だとわかった。ここは、リリーから注目をそらし、安全な場所へ逃がすには、僕がこの場を取り仕切るしかないだろう。3人のサンタも、今度は僕のお尻を触りたくなってくれる、かも。

「そうですか?」僕はリリーからマイクをひったくると、言った。「そんなに素晴らしい季節ですかね? 誰もが髭を付けて、サンタの格好をして、ふぉふぉふぉって丸々太った彼の真似して、それってそんなに素晴らしいこと? なんでサンタばかりをそんなに祭り上げるんだ? サンタは北極辺りで、自分の住むべき場所で暮らしてればいいんだよ。サンタの格好をしてるみんなだってそうだろ、世界中の注目の的になるなんてことは一生なく、ひっそりと自分の持ち場で生きて死んでいくんだからさ。ああ、そういうことか、サンタは口実に過ぎなくて、そうやって飲んで騒ぎたいだけなんだ? あるいはあれか、白人男性の優位性を、サブリミナル的に世界中に植え付けるために、また一つ神話を創ったってわけか? プレゼントをあげるかどうか、今年は良い子にしていたかどうかをジャッジするのは、自分のことは棚に上げた太った白人男性なんだから。っていうか、みんな実際にお金を出してクリスマスプレゼントを買ってるのが誰かなんて知ってるだろ? それでも、サンタにお願いしたり、サンタの承認を得ようとするのは、完全に彼を神格化してる証拠だな。っていうか、だったらサンタに頭を撫でてもらえるように、良い子にしてろよ! なんだその振る舞いは? お前らの酒臭い息から、クリスマスの大いなる精神なんて、ちっとも匂ってこないぞ。初代サンタの聖ニコラス様が頭をお抱えになって、お嘆きになっていらっしゃるぞ」

「お前は黙っとけ!」と三人組のサンタの一人が声を張り上げた。

「いいえ、黙りません」僕は、純粋に聖歌を楽しみたいと思っている人たちに語り掛けるように、言った。「この場所は楽しく歌いたい人たちのものであって、ふざけた真似をしたい人はこの場から出ていってもらうしかありません。そうですよね? みなさん、賛成のアーメンをください」

アーメン!」と聖歌好きの人たちが声を上げてくれた。ただ、みんなイギリス人だったから、アメリカ人の僕の耳には、「アーメン」ではなく、「ワイ、メン」と、お前がやれよ的なことを言われているように聞こえた。

それでも三人組の酔っぱらいサンタは、自分の立ち位置を譲ることを拒否し、野外カラオケバーの中心から動こうとしない。

「ここはあれしかない」と僕はリリーの耳元でささやいた。「君の『きよしこの夜』砲をガツンとお見舞いしてやるんだ」

彼女は僕をぽかんと見つめている。そうか、と僕は気づいた。彼女は背後からガラの悪いサンタたちに取り囲まれつつあったことに気づいていなかったのか。そうすると、彼女から見たら僕は、わけもなくサンタ(たち)に喧嘩をふっかけている、ただの悪ガキ?

「オーケー、それじゃあ」と僕は言った。そして、もうこれしか方法がないと腹をくくり、僕は歌い始めた...

Silent night, holy night. . .(静かな夜、聖なる夜. . . )

ちょっと声が上ずってしまったが、聖歌好きのお客さんたちが次々と合唱に加わってくれた。カラオケマシンはオフになったままで、僕たちの歌声だけが、夜空に舞い上がっていく。

All is calm, all is bright. . .(すべては安らぎ、すべては輝いている. . . )

『きよしこの夜』は素晴らしさに満ちた曲だ。まず第一に、みんなの心を和ませてくれる。天から降り注ぐ子守唄のように、この場にいる者みんなの魂が浄化されていくようだ。しかも、ほとんどの人が歌詞を知っていて、思わず歌ってしまう。静かな曲だから、一緒になって歌っても、自分の声が目立つんじゃないかと心配することもない。この歌には時代を超越した趣きもある。誰もが自分の人生において何度も耳にしてきたはずで、この曲を聴いた時の記憶が蘇り、目頭が熱くなる人もいただろう。何より、こういうピリピリしたムードをなだめるにはもってこいの曲だった。この優しいハーモニーに包まれて、それでもいきり立ってなどいられないはずで、一番を歌い終える頃には、酔っぱらいサンタたちもすっかり武装を解除していた。

僕は途中からマイクを置いた。―『きよしこの夜』にはソロシンガーは必要ないのだ。僕がマイクを置くと、周りの歌声はさらに大きくなり、リリーも合唱に加わった。

Sleep in heavenly peace.(眠り給う、いと安く)

Sleep in heavenly peace.(眠り給う、夢やすく)

群衆たちはしっとりと歌った。街全体が静かな歌声に包み込まれていくのを感じた。何人かの人が携帯電話の画面を光らせて、天に掲げ、ろうそくのように振り出した。ライターを振っている人もいる。野外カラオケバーが一つの小宇宙となり、その天体が優しいメロディーとともにゆるやかに回っていた。

この場にいて、感動しないなんて誰だって不可能だったろう。

しかし、リリーは感動以上のものを感じているようだった。彼女の体は震えていた。その時、彼女が単に聖歌を歌っていること以上の何かに陶酔しているのだと、僕は気づいた。彼女の目に涙は浮かんでいなかったけれど、それが伝わってきた。彼女は、泣きながら歌うのではなく、歌声に泣きを込めるシンガーなのだ。歌詞と歌詞の間の小休止に、それがよくわかった。彼女のいろんな感情が吐息になって、行間に浮かんでいた。彼女はお酒も飲んでいたようで、彼女の歌声はさらなる深淵の鍵を開け、吐息からも泣きを感じ取れた。

僕たちは肩を組み、いつまでも歌い続けた。歌声も、歌い人たちも、すべてが今、一体となり、最後の音符に辿り着くまで、僕たちをいざなってくれた。いつの間にか、ガラの悪いサンタたちはどこかへ行ってしまい、残った僕たちの声だけが、天上への音階をのぼり続けていった。

それが終わった時、しばしの沈黙が訪れた。ゆっくり息を吐き出し、十分に呼吸を整えた後、歓声が湧き上がった。人々は抱き合い、微笑み合い、手を叩き合った。僕はリリーを抱きしめた。彼女の顔を覗き込むと、彼女の目から涙が溢れ出てきて、どっと流れ出した。

「どうしたの?」と僕は聞いた。「それ何の涙?」

「私、クリスマスを台無しにしちゃったの」と彼女が言った。「私のせいで、みんなのクリスマスがつぶれちゃった」

「君のせいなんて、そんなわけないよ」と僕は彼女の両肩を掴んで言った。

「私は家族に嫌われてるのよ」

「そんなことないって」

彼女の肩を抱きながら即席のステージを降りると、即席の舞台袖でアズラが待っていた。彼女は一人だった。

「あれ? あの貴族ぶった君の連れは?」と僕は聞いた。彼女の顔に不穏な色が浮かんだから、僕はこういう風に聞かずにはいられなかった。「『オリヴァー・ツイスト』ばりの思わぬ展開が、オリヴィエに待ち受けていたとか?」

「早すぎたのよ」とリリーが僕の耳元でささやいた。

「遅すぎたわ」とアズラは言って、ため息をついた。「オリヴィエと私はもう一緒にはいられない」

「マジか」と僕は言った。「まさか君たちがそんなことになるなんて思わなかったよ」

「そうね」とアズラが言った。「私も思わなかったわ」

「なんかすごく悲しくなっちゃう」とリリーが僕に言った。

「リリーはどれくらい飲んだの?」と僕はアズラに聞いた。

「たくさんよ」とアズラは答えた。「その時は良い考えだと思ったから止めなかったけど」

「私は全然平気よ」とリリーが言った。「ちゃんと歩くこともできるし、頭の中で計算だってできるわ。テストしてみて。平方根の問題か何かを出して」

「平方根が何であるかをわかっているのなら、それは良い兆候だ」と僕は見解を示した。

「初めてあなたに直接会った時とは違うわ」とリリーが言った。「あの時みたいに、あんなにお酒に打ちのめされてない。ただちょっと...」彼女はそこで言葉を切って、あくびをした。「眠いだけ」

「君の中に、耐性か何かができたのかもしれないね」と僕は言った。

突然、リリーがうずくまって、何かを吐き出すような声を出した。それがお酒への体内反応なのか、僕が言ったことへの意図的な反応なのかはわからなかった。

「毛玉でも吐いた?」と僕は聞いてみた。

「それよ!」とリリーが僕の言った単語に食いついた。「耐性よ。私の体内にお酒に対して耐性ができたように、私の家族もあなたに対して耐性ができたってことじゃない?!」

え、僕って毛玉みたいな存在ってこと?! それが単なる喩えであってほしいと願いながら、僕は言葉を失ってしまった。

アズラが間に入って、言った。「彼女の家族からひっきりなしにメールが来るんですって。彼女が飛行機で飛び立っちゃったから、今年のクリスマスは中止だって責められてるみたい。気の毒というか、私の意見だけど、それはあんまりね」

「そうだ! 家族に電話しなくちゃ!」リリーはそう宣言すると、携帯を取り出した。「本当にしなくちゃ!」

「今はダメ!」アズラと僕が同時に声を上げた。僕らは二人して、彼女から携帯を奪おうと手を伸ばす。リリーは素早く僕らの手を跳ね除けるようにして...携帯をポケットにしまった。

「わかった、わかった、わかった」と彼女が言った。「じゃあ、次は何する?」

「今夜はこの辺でお開きにしよう」と僕は言った。時刻は9時をちょっと過ぎたところだったけれど、リリーは一日中ハイテンションで動き回って、もう限界だろうし、血中アルコール濃度の上昇に加え、飛行機の時差ボケだって黙ってはいないだろう。

アズラがうなずいた。「彼女のリュックはもうクラリッジズ・ホテルに置いてきたみたい」

それを聞いて、僕はほっと一安心した。今夜はマークの相手をしなくて済みそうだ。

「それと」とアズラが付け加えた。「あなたが送ったメールは彼女に届いてないみたいよ。あなたのメールだけ届かないみたいだから、あなたの携帯側の問題だと思う。ただの不具合かもしれないけど、携帯をWi-Fiにつないで、どうなるか試してみて」

「あ、そういうことだったのか。教えてくれてありがとう」と僕は言った。「それと、君とリリーがいる場所も、ソフィアに知らせてくれてありがとう。君とオリヴィエのことは、まあ残念かな。僕にとって君たち二人は、なんていうか―」

「鼻持ちならない?」

「あっ、まあ、そうかな。でも君一人だったら―」

「鼻が持つ?」

僕は思わず笑ってしまった。アズラが僕を笑顔にしてくれたのは、たぶんこれが初めてだった。「確かに持つ!」

そして何と、僕も初めて彼女を笑顔にしていたのだ。大学が休みの時期に打ち解け合うなんて、人間同士何がどう転ぶかわからない。「私の家の運転手を呼んだから、クラリッジズまで連れて行ってくれるわ。私はここから歩いてすぐのところで、何人かの友達と待ち合わせしてるから、今日はここでお別れね」

「ちょっとふらついてる人もいるけど、乗って平気かな...」と僕は言った。

「ありがとね」とリリーが割り込んだ。

「ええ、もちろんよ」

アズラは、また明日電話するね、とリリーに言った。あなたがアメリカに帰る前にまた会えるといいわね、と言いながら、僕たちを大通りまで送り、運転手を紹介してくれた。彼はスーツを着て、帽子をかぶり、まるでNetflixの王室ドラマ『ザ・クラウン』でエキストラでもやってるの? と思うくらい、きっちりした態度だった。彼は、僕たちが誰なのか、なぜ僕たちをホテルまで連れて行かなければならないのか等、普通疑問に思うようなことを一切聞いてこなかった。彼の表情には何のクエスチョンマークも浮かんでいない。感情を表に出さないように表情を作るのも、大変だろうな、と感心した。

リリーをエスコートしながら、車の後部座席に乗り込むと、彼女の口から、ごめんなさい的な吐息がこぼれだした。

「僕の方こそ、ごめんなさい」僕は、彼女の口がはっきりとそう発話する前に言った。「もう過ぎたこと、だよね?」

リリーはそれについて少し考えた後、僕の肩に彼女の頭を乗せてきた。

「そうね、もう過ぎたこと」と彼女はつぶやいた。

それから1分もしないうちに、彼女は眠り込んでしまった。


ホテルに到着し、僕は彼女の肩を揺すった。

「もう着いたの?」と彼女がうっすらと目を開けて聞く。

「着いたよ」と僕は答えながらも、どこに着いたのか、彼女はわかってそう聞いているのか疑問だった。

その疑問はすぐに払拭された。リリーは車から降りると、まるで彼女の家に帰ってきたかのように運転手に、どうもありがとう、と言った。彼女の言い方はとても甘く、彼女の笑顔には感謝の気持ちがあふれていて、あれだけ硬かった運転手の表情が、ほろっととろけそうになり、きりっと顔を引き締め直すさまがおかしかった。それから彼女は、もう何年もここに通っていると言わんばかりの優雅さで、ドアマンに「ハロー」と手を挙げた。

ロビーに足を踏み入れたとき、僕は一瞬自分が夢を見ているのかと見まがい、目を見開いてしまった。ジャズの時代にタイムワープしたかのような錯覚に陥り、思わずキョロキョロしてしまう。高い天井には、きらびやかなシャンデリアがいくつも浮かび、黒と白のタイル張りの床は、タップダンスをしたくなるほど光り輝いている。スキップしたい衝動に拍車をかけるように、リズミカルなジャズナンバーが優美に流れ、ロビーの先には赤いじゅうたん張りの大階段があった。その階段に寄り添うように、クリスタルでできた巨大なクリスマスツリーが鎮座していて、その神々しさを誇っていた。コール・ポーターの言葉を借りれば、そこは「エレガント極まる」場所だった。

「悪くないっしょ?」と、リリーが目を輝かせて聞いた。

「すっげー!」と、僕は認めた。

エレベーターに乗って上昇しながら、彼女の体からエネルギーが、まるで無数の花びらが枝から落ちるように、はらはらと消えていくのが見えるようだった。もうすぐ充電が切れそうな表情で、彼女はエレベーター内でコートを脱いだ。そしてエレベーターを降りると、ふらふらと廊下を進んでいく。文字通り、コートの裾を床に引きずりながら。

「持つよ」と僕は言って、コートの裾を取り上げた。「コートは僕に持たせて」

彼女が部屋を見つけ、ルームキーでドアを開けるのにさらに1分かかった。

部屋自体はロビーと同じアールデコ調の色彩で統一されていて、ロビーの縮小版といった印象だった。キングサイズのベッドが部屋の中央に、まるで君主のごとくデンッと居座っていた。

「さっそくあなたとキスを始めたいんだけど」とリリーはあくびをしながら言った。「ただちょっと」―もう一度あくびをしてから―「あたし」―さらにふわぁとあくびをして―「疲れちゃった」と、なんとか繋げた。

「じゃあ、今夜は一回キスするだけにして、明日またいっぱいするっていうのはどう?」と僕は提案した。

彼女はうなずき、両手を広げ、顔を寄せてきた。僕たちはキングサイズのベッドにポフンッと腰を沈めると、しばしの間キスをした。それから彼女は体を引き離すと、名探偵さながらに人差し指を突き出して言った。「あのローブを着て寝たいな」

僕が「どのローブ?」と聞くより先に、彼女はクローゼットの前面にかかっていた、艶やかなフラシ天のバスローブを手に取ると、バスルームに入っていった。まだ荷物を出していない彼女のリュックを横目に、僕は窓際まで行き、窓の外に広がる夜のロンドン、メイフェア地区の夜景を眺めていた。

リリーがバスルームから戻ってきた時、彼女が身にまとっているのはバスローブだけだった。中には何も着ていないというのが伝わってきて、一瞬そそられそうにもなったけれど、彼女の体が全身全霊を込めて眠いオーラを放っていて、僕は身動きが取れなかった。

彼女は僕のところまで来ると、チュッと僕の頬にキスしてから、そのまま動作を止めずに歩き進み、ベッドの上に崩れるように倒れ込んだ。

またしても、彼女は1分もしないうちに眠り込んでしまった。最初はすーすーとピアニッシモから入った寝息は、いびきと呼べるまでの大きさへとクレッシェンドをつけていった。

僕は彼女が寝やすいように電気をいくつか消し、靴を脱ぎ、バスルームに入った。リリーの服が脱ぎっぱなしで、床のあちこちに散らばっている真ん中で、僕はジェムにメールを送った。

リリーと一緒にクラリッジズに泊まることになったから。じゃあ、また明日。

「送信」ボタンを押してから2秒ほどしか経っていないうちに、ジェムから電話がかかってきた。

「もしもし?」と僕は電話に出る。

「一つだけ確認なんだけど、今あなたが全身でひしひしと感じているはずの、あなたを突き動かす力の源は、愛なの?」とジェムが言った。

「愛以外の何物でもないよ、断言できる」

「わかったわ。明日どこかのタイミングであなたに会えるのなら、そしてリリーとも一緒に過ごす時間を私が持てるのなら、今夜はもう何も言わないわ。でも不思議ね。―私はひとりっきりのクリスマスにすっかり慣れたと思っていたのに、あなたが来てくれたことで...私を取り巻く環境が変わっちゃったってことかしら? きっとそうね。明日は昼間ちょっと用事があるから、早めの夕食を三人で一緒にどうかしら? 今すぐには答えなくていいわ。とりあえず、カタリーナに電話してみようかしらね。彼女はクラリッジズでコンシェルジュをしてるのよ。もうずいぶん昔の話なんだけど、―ああ、今思い返しても腹が立ってきたわ。私がチャールズ皇太子とデートするってところまでこぎ着けた時に、彼女のお節介焼きが原因で、すべてが水の泡よ。だから彼女は私に借りがあるの。私が言えば、彼女があなたたちに良くしてくれるわ。10分後にあなたたちの部屋のドアがノックされるわよ」

僕がその必要はないと言う前に、彼女は勝手に話を完結させ、ぐっすり寝るのよと言って、電話を切ってしまった。10分後、部屋のドアが軽くノックされる音がした。ドアを開けると、ホテルの制服を着た女性がにこやかに立っていて、きれいに折りたたまれたシルクのパジャマの上下セットと、洗面道具が一式入ったバッグを僕に手渡してくれた。僕は彼女にお礼を言うと、バスルームに入り、それに着替えるために服を脱いだ。僕の服も脱ぎっぱなしで、リリーの服と仲良く一緒に放っておいた。

シルクのパジャマなるものが存在するということ自体は知っていたけれど、その意味を実感として理解したことはなかったので、それを初めて羽織ってみると、シルクのパジャマという概念に少しは迫れた気がした。僕が普段着ているフランネルの生地は、暖かい毛布のような質感なのに対して、それは、極めて薄く繊細に織り込まれたシーツに包まれて、肌が滑るような感触だった。

僕がベッドに入ると、リリーが少し寝返りを打って、いびきが、ほんの一瞬だけ和らいだ。

「あら、あなた」と彼女が寝ぼけまなこで言った。

僕は彼女に寄り添うようにして、僕たちは二人一緒に深く、贅沢な眠りの世界に落ちていった。




13

リリー


12月23日

「二日酔い?」とダッシュが聞いてきた。私はうっすらと目を開けてみるけど、彼がカーテンを開けたばかりの窓から、まぶしい朝日が差し込んできて、再び目を閉じそうになる。「まぶしそうだね」

「あなたのパジャマ姿に目がくらむわ!」

彼はパジャマの上着の裾をつかんでみせた。「これ気に入らない?」

「凄くいい感じよ!」と私は言った。「あなたが紫のシルクのパジャマを着る日が来るなんて、想像もしてなかったわ。まるで壮大な夢物語の中にいて、王子様が登場したみたいよ。っていうか、それをどこで手に入れたの?」

「コンシェルジュがわざわざ部屋まで届けに来てくれたんだよ。彼女はジェムの友達なんだ」

「私も起きてればよかったな。あなたのおばあさまと、そのコンシェルジュの会話を聞きたかったわ。だって、それって女性用のパジャマでしょ! 気が利くっていうか、それを着るとあなたが安らかに眠れるって彼女たちは思ったのかしらね」

「こんなにも快適だったなんて知らなかったよ。もし知ってたら、何年も前から女性用のパジャマにハマってたのに」

「写真を撮ってもいい?」正直言って、彼がここまでセクシーに見えたことは今までなかった。

「いいけど、ラングストンには送らないでくれよ。こんな姿を彼が見たら、やっぱりな!って、僕の性的指向を疑い始めちゃうよ」

「パジャマくらいじゃダメよ。それを着て、あなたが『ケイト・ブランシェットとカーリー・レイ・ジェプセンが好きなんだ』って彼に打ち明ければ、ダメ押しになるわ」ダッシュが笑った。私はナイトスタンドからスマホを手に取ると、紫のパジャマの彼を写真に収めた。スマホがカシャッという小気味よい音を立てるたびに、私はこの写真をどう加工して、自分用のセクシーなバレンタインカードに仕立て上げようかと、加工のバリエーションに考えをめぐらせていた。「ねえ、もっと近くに来て。私もその紫のシルクに手を滑らせたいわ」

いきなり、彼がベッドの上に飛び乗ってきて、バネの反動で私の体がぽよんと飛び上がった。私は頭をベッドの枕元のボードにぶつけてしまった。「今になって頭に二日酔いを感じたわ」と私は言った。「でも、幸せな頭痛よ。あなたがここにいてくれて本当に良かった」

彼が頭を抑える私に覆いかぶさるようにして、キスしてきた。私は自分の頭から彼の頭に手を移動させると、熱烈なキスで応えた。それから唇を引き離すと、私は言った。「昨日はごめんなさい」

「謝らなくていいよ。君のクリスマスキャロルをいっぱい聴けて楽しかったし、お酒が入っていたとはいえ、素晴らしい歌声だった」

「そのことじゃなくて。あの時は、フェリーから突然降りちゃってごめんなさい」

「ああ、そっちね。あれは突然のことで僕も戸惑っちゃったけど、今謝ってくれたから、もういいよ。っていうか、いったいあれは何だったの?」

私は彼に話した。来年バーナードに行くつもりは全くないこと。それを家族に宣言したら、いろんな感情が一気に噴き出して、私の中で収拾がつかなくなってしまったこと。ダッシュが言った。「それは大きなことだね。君がトゥイッケナムの犬の学校の話をしてくれたとき、バーナードに行くことについて真剣に考え直しているんだろうな、とは思った。けど、そんなに固い決意だったとはね。それで、家族の反応はどうだった?」

「よくないわ」私はスマホの接続をオンにしてwifiに繋ぐと、母からの怒りのメールを見せてあげようとした。当然のごとく、wifiがオンになった途端に、昨日私がフェリーを降りてからずっと受信できていなかったダッシュからのメールが、次々に届いた。私が送ろうとして、どうしても彼に届かなかったメールも、すべて「送信済」になった。「ねえ、私たちのスマホ同士がついに通じ合ったみたいよ。昨日いっぱいメールを送ろうとしたんだけど、何度やっても跳ね返されて戻って来ちゃったの」

ダッシュが私の手からスマホを奪い取った。それをベッドの下のじゅうたんの上にぽいっと放ると、言った。「今日はスマホのことは忘れよう。家族のことも。ね―」

「うん!」私は彼に手招きして、もっと近づいて、と目で合図した。今日は本当に集中したいことに集中する。彼にキスする。

しかし―

リンッとベルが鳴った。

それはホテルの部屋のドアベルだった。上品な、とてもイギリスらしいつつましやかな音で、ニューヨークのドアベルの、あのリンッリンッリーーーンッという攻撃的な音とはまるで違った。もう少しで触れそうだった唇を一旦離して、「あなたが呼んだの? 何か用事でもあるの?」とダッシュに聞いてみたけれど、彼は首を横に振るばかり。

彼がベッドから出てドアへと向かう。「うちのコンシェルジュからのご厚意でございます、サー」という男性の声がした。私も覗き込むようにドアの方を見ると、ホテルの制服を着たウェイターが廊下に立っている。ダッシュがドアを開けて、彼を中に招き入れた。そのウェイターはカートを押して、銀のトレイを中に運び入れた。「どちらにお持ちしましょうか?」

「じゃあ、その机の上でいいかな?」とダッシュが言った。「それは何ですか?」

「モーニングコーヒーと焼き菓子でございます」ウェイターはそう言うと、机の上にトレイを置いて、その横に白いポットを置いた。ポットからは湯気が立ち昇っていて、美味しそうなコーヒーの香りが私の鼻をくすぐる。頭に少し残っている二日酔いを完全に消し去ってくれそうな匂いだった。

ダッシュが受け取りの署名をすると、ウェイターは去っていった。

「コーヒー飲む?」とダッシュが私に聞いた。

「うん、お願い!」彼が私の分もコーヒーを注いでくれた。それを紫のパジャマの袖口から肌色の腕を伸ばして、私によこした。私は思わず付け加える。「これを飲んで、それを食べたら、あなたにむさぼりつきたいわ」

でも、その前にコーヒータイム。私がベッドの枕元のボードに背中をつけて座ると、ダッシュも私の横に座った。そしてお互いに、湯気の立つコーヒーをすすり始めた。それは完璧な味だった。―濃くて、舌触りが滑らかで、決して苦すぎない、絶妙なコーヒーだった。

ダッシュが言った。「君のホテル選びについてとやかく言ってしまったけど、僕が間違ってたよ。泊まる場所に大金をかけるなんて馬鹿げてるって思ってたけど、実際ここに泊まってみて、君がここの宿泊料を払えるくらいの、犬の散歩人の大家(たいか)になったことに感謝してる」

「ありがとう。ほんとに素敵な場所よね!」

「前に母が、シーツには織り目の細かいものと粗いものがあるとか、わけのわからないことを言っていて、その時はシーツなんかどれだって同じだろって思ってたんだけど、今その意味がわかったよ。ここのシーツは素晴らしい」

「でしょ? 柔らかくって、かつシャキッとしてて。私、ママが〈ターゲット〉で一番高いシーツを買ってきた時は、それに寝っ転がってお嬢様になったような気分だったけど、クラリッジズのシーツと比べたら、あれでも砂やすりって感じね」

「バスルームは大理石だし!」とダッシュが言った。

「ナイトスタンドの上には生け花が飾ってあるし!」

「このコーヒーはうますぎるし! 他のホテルにはもう泊まれなくなりそうだよ」

「だったら、新婚旅行はここにしましょうよ」と私は冗談めかして言った。

「それじゃあ、犬の手芸品のビジネスをもっと拡大しなくっちゃ、ねっ」とダッシュがからかってきた。「最高級のスイートルームを期待してるよ。僕の将来はたかが知れてるから。英文学の学位なんて取ったって、新婚旅行でクラリッジズに泊まれるほどの、高給がもらえる仕事にありつけるとは思えないな」

「この部屋は空気もいい匂いがするわ!」と私は言った。

「たしかに! 気のせいかなと思ったけど、たしかにするね。ラベンダーとミントと、それから、クロテッドクリームの焼き菓子の香りがする。あ、そういえば...」

ダッシュが立ち上がってベッドから離れ、銀のトレイを持って戻ってきた。彼がシルバーに光るドームを外すと、ほくほくとした焼きたてのお菓子の盛り合わせが姿を現した。その隣にはクロテッドクリームの入ったボウルと、小さなジャムの瓶が数種類置かれている。彼は焼き菓子を一つ取ると、その上にクロテッドクリームと、ラズベリージャムを塗って(ラズベリーは私のお気に入りで、―しかも彼はそれを聞かなくてもわかってくれてるなんて感激)、私に手渡してくれた。私は一口かじってみる。口の中に広がるおいしさに、思わず息が漏れる。「最高。こんな朝食初めて!」

「もう僕たちはここから離れることができないね」

「ずっとここにいましょうよ」私はもう一口焼き菓子を頬張って、口元にはみ出したジャムを舌で舐めてから、言った。「ボリスも一緒にここで暮らせるかしら?」

ダッシュが首を横に振った。「それはちょっと素敵な夢を見過ぎだよ、リリー。せっかくのムードが台無し。このシーツはきっと、エジプトの妖精が丹精込めて綿を織り込んだものなんだ。この上にボリスが乗ったら、秒で引っかいてボロボロにしちゃうだろうね」

ああ、愛しのボリス! 彼がそばにいなくて私の胸と、頭が痛いわ。でも、コーヒーが頭痛の種を取り除いてくれる。コーヒーが全身をめぐって、頭がすーっと霧が晴れるように、ひと時の明晰さを得た。「さて、私が次に欲しいものはね」と、私はダッシュに言った。

「ん? 次の焼き菓子はどれにする? あ、それとも人生における欲しいもの?」

「じゃあね、焼き菓子は、そのレモンシロップがたっぷりかかったやつが食べたい。で、人生ではね、やっぱり私、犬の起業家になりたい

「そんな職業あるの?」

「もちろんあるわ。犬と一緒にいたいし、犬のしつけもしたいし、犬の手芸品のデザインとかもしたいわね。犬関連のビジネスを全般的にしたいの。犬関連で、まだ見いだされていないビジネスだってきっとあるはず。私はそれを掘り起こして、本格的な商売にするのよ。母が言うところの、『片手間な暇つぶし』とか、『ギャップイヤーの穴埋め』ではなくてね。私はそれが天職だと思ってる。そんなのくだらないって見限る意味が私にはわからない」

「僕はそんなこと一度も言ったことないけど」

「わかってる。うちの両親の話よ。帰ったら彼らに言うことを、今リハーサルしてるの」

「リハーサル? じゃあ、アドバイスはいる?」

「一般的なアドバイスならいらないけど、あなたが、そのきらびやかな紫のパジャマ姿で言うアドバイスなら、欲しいわ」

「そうだな、両親と話し合う時には、バーナードに行く気がないのなら、何か他の代替案を考えておいた方がいいと思う」

「だから代替案はさっき言ったでしょ、私は犬の起業家になりたいの」

「リリー」ダッシュはコーヒーをサイドテーブルに置いて、私をじっと見つめてきた。「これは君を心から愛してるから言うんだけど、犬と一緒にいられればいい、だけじゃなくて、もっと何か人生に望むものはあるだろ。それを言ってくれ」

ダッシュとこういう練習ができてよかった。絶対両親とも同じような議論になって、今彼が言ったことを、うちの親も言い出すはずだから。そして全く同じことでも、親に言われたら、なぜだか私はむきになって、反発しちゃうのよね。でも、ダッシュの口からそれを聞く分には、冷静にそれについて考えられる。

私は言った。「もちろん、他にも人生に望むものはあるわ。犬に限らず、いろんな動物のレスキュー活動をしてるボランティアにも関わりたいと思ってるし、お年寄りの方々に関わる仕事もしたい。―たとえば、セラピーアニマルを連れて老人ホームを訪問するとかね。それから、洋服やアクセサリーを作るのも好きよ。今もやってて凄く楽しいし、犬用と、人間用のもね。スケッチとか裁縫も、もっと上手になりたいわ―」

「FITについて考えたことはある?」とダッシュが聞いてきた。

「ないけど、どうして?」

「君のノートパソコンは?」

「リュックの中よ」

ダッシュがノートパソコンを引っ張り出してきて、ベッドに戻った。彼は私の目の前でラップトップを開くと、ニューヨーク、マンハッタンにあるファッション工科大学 (Fashion Institute of Technology)、通称FITのウェブサイトにアクセスした。選択科ごとにたくさんのタブが並んでいて、私たちはそれぞれのコースについて熟読した。バーナード大学と違って(ごめんね、バーナード)、そこには私の興味が湧くような科目がたくさんあった! アクセサリーのデザイン。起業家としての心構え。イラストレーション。パッケージングデザイン。織物の開発とマーケティング。おもちゃのデザイン!

「大学に行くって、こんなにワクワクするものだとは思わなかった。もっとじめじめと本ばっかり読んでるだけかと思ってた」と私は言った。「全部の科目を受けたいわ!」

ダッシュが言った。「ほら、願書の締め切りは一週間後だ。まだ間に合うよ」

「でも、ポートフォリオって書いてあるから、何か自分の作品も提出しないといけないみたいね。もう時間がないわ...」

「君はインスタグラムに手芸品の写真をたくさん載せてるじゃないか。もう売れちゃったのもあるだろうけど、ポートフォリオとして使うには十分な量の写真だよ。SNSで『いいね』ばかりを追い求めるのはあまり賢明ではないって、君も知っての通り普段は思ってるけど、今回の場合は、むしろ『いいね』が多いのはアピールポイントになる。君の作品の素晴らしさが数字になって表示されてるわけだから」

「本当にFITに願書を出した方がいいと思う?」と聞きながらも、私は彼の答えを必要としていなかった。ここに行きたい、という声が胸のうちから聞こえていた。

「絶対出すべき。ここだったら君にぴったりだよ。FITだけに、まさにフィットしてる」と彼はダジャレを言ってから、少し間を空けて私が笑うのを待っていた。でも私は笑わなかった。そんなしょうもない、パパが言いそうなダジャレで得意げになるほど、ダッシュはレベルが低くないはず。「バーナード大学に行くのをやめると言えば、君の両親は残念がるだろうけど、そこで、他の大学に行きたいという代替案を出せば、多少はあつれきも緩和されるんじゃないかな。犬の起業家になりたい!って声高に叫ぶだけじゃなくてね」そこで彼はひと息ついた。「僕が犬の起業家になりたい、とか言うと、なんだか滑稽な感じする」

「滑稽でいる時のあなたが好きよ」私はノートパソコンを操作して、私のお気に入りの曲を色別に並べたプレイリストを選択した。もちろん今日の気分はパープル。紫っぽい曲がずらっと並んだプレイリストを選び、今日の午前中をどう過ごしたいかをわかりやすく示すために、この曲から始めた。―プリンスの『キス』。


「予想以上に倒錯してるというか、ひねりを加え過ぎて、もう何が何だか」とダッシュが私の耳元でささやいた。

「たしかに!」と私はささやき返した。「何が何だかわからないものの中に、完璧さがあるってことじゃない」

私たちは薄暗いシアターの観客席に並んで座っていた。『私たちそれぞれのテムズ川』に出演していた俳優から前日にもらったチケットで、『メリクリ、ディック・ウィッティントン』のマチネ公演(昼公演)を観に来ていた。

あのチケットをくれたイギリス人が、舞台で有名な俳優だということは知っていた。シェイクスピアの戯曲を演じた彼の演技は、かなり高く評価されていた。舞台で鳴らした後に映画に進出した俳優たちは、選ばれし精鋭といった感じで、あの『X-Men』に出てくるおじさんたちみたいに、プロ中のプロということだ。私の大好きなオスカー女優ヘレン・ミレンも、映画界に進出する前は、舞台でトニー賞とか数々の賞を受賞して、演劇の女王と呼ばれていたそうよ。その後、彼女は私の大好きな、コーギー犬が大活躍する映画『コーギー&ベス』でエリザベス女王の声を担当することになるわけだけどね。挙げればきりがないから、もう一人だけ。イドリス・エルバなんかもロンドンの劇場で腕を磨いた俳優よ。

しかし、この無言劇は、ロンドンのウエスト・エンドの大劇場で上演されている伝統的な演劇とは一線を画しているというか、かなりかけ離れているようで、動き一つ一つも度を越えて大げさすぎるし、演出も凝りすぎのような気がした。あえてそうして芸術性を高めようとしているのかもしれないけど、奇抜な衣装に身を包んだ役者たちが、わざとらしく大手を振って舞台を駆け巡る様は、演劇好きの同人集団といった趣きだ。悲しいことに観客もまばらで、私のイメージだと、イギリス人は観劇中もシャキッと背筋を伸ばしているのかと思っていたけど、なんだかみんな、だらっとしているし、悪役が現れた時は、「失せろ!」「引っ込め!」などと罵声を浴びせている。善良なディック・ウィッティントンの背後に悪役が忍び寄ってきた時は、全く気づいていない風のウィッティントンに向かって、「後ろだ!」「やつは後ろにいるぞ!」などと面白がって教えている。そして、彼のクリンボー(クリスマスを意味するイギリスのスラング)の願いが達成されたあかつきには、ブーイングだか歓声だか区別がつかないような、奇声が方々で上がった。ついにネズミの王様が、ロンドンで一番腕利きの策士猫の手により、闇に葬られたのだ。(ちなみにこの猫は、『テレビでルームメイトに全部打ち明けちゃいまショー』という、ルームシェアを覗き見る形のリアリティショーに出演していた、知名度はDランクくらいの微妙に有名なタレントが演じていた。)

けばけばしく派手な衣装で着飾ったキャストが舞台上に勢ぞろいし、少ない観客も一体となって、『ムーラン・ルージュ』ばりの熱狂的な大合唱が始まった。私が今までに見た舞台の中で、最も狂喜乱舞といった感じで、キラキラ感も、紙吹雪の量も、間違いなく観客が飲んでいるビールの量も、一番多かった。

「これはクラリッジズを離れた甲斐があったね」と私はダッシュにささやいた。

「そう?」と彼がささやき返した。

私たちの後ろに座っていた酔っぱらいが、「うるさいぞ! 携帯は切っとけ!」と怒鳴ってきた。さっきまで、「俺に全部打ち明けちゃいまショー!」とか叫んでいた人だ。ディック・ウィッティントンの妻のアリス・フィッツワレンを演じている、ぽっちゃりした女優のファンみたいで、彼女が登場すると、彼は俄然興奮し、私たちの真後ろで声を荒げていたくせに。

ダッシュは怒鳴られたことも、携帯の電源を切るように言われたことも無視して、おもむろにスマホでメッセージを確認すると、その画面を私に見せてくれた。「コンシェルジュのカタリーナからだ。クラリッジズで午後のティータイムのお招きがあるから、戻って来いって」と彼は、もうささやくことはせずに言った。

「お招きって誰から?」

「さあ、わからない。カタリーナはただ、ハーフスリーまでに戻るように、とだけ言ってる」

ハーフスリーってどういう意味?」

「3時半って意味だよ!」と後ろの酔っぱらいが口を挟んできた。「さっさと行っちまえ。俺たちは純粋にショーを楽しんでるんだ」

「じゃあ、そうさせてもらいます」と、ダッシュが言って立ち上がった。私も中腰になって、彼の後に続いた。

劇場の外に出て、急に明るくなった世界の中で、私はダッシュに聞いた。「気晴らしになった? 大学とか大変だったんでしょ?」

「うん、凄くなったよ」

「私も凄くよかったわ」と私も彼に同意した。家父長制の守護聖人ともいうべきサンタへの手紙を燃やしてから始まった私の旅は、ハイドパークのウィンターワンダーランドを経て、そして今、クリスマスの「パントマイム」を観た。イギリスで過ごすクリスマス休暇は、うっとりするほど楽しいことづくしで、私はすっかりイギリスの大ファンになっていた。

「イギリスの午後のお茶会には参加したことある?」とダッシュが聞いてきた。

「ないわ」

「じゃあ、きっと凄く気に入るよ」

昨日クラリッジズ・ホテルに着いた時は夜だったので、その日の午後ホテルに戻った時、初めてそのアールデコ調の壮観さを陽射しの下で目の当たりにした。それは赤れんが造りの建物だった。正面玄関の上に飾られた複数の旗が風になびいて、心地よさそうに波打っている。メインフロアに入ると、まばゆいばかりのクリスタルのシャンデリアが降り注ぎ、チェスボードのような市松模様の床、パネル張りの壁、アンティークの金色の鏡、そして私の背よりも大きなフラワーアレンジメントが待ち構えていた。エレガントなロビーにはピアノの音楽と、午後の紅茶を楽しむ人たちのティースプーンの音が、軽快なアンサンブルを奏でている。

ダッシュと私は喫茶店の入口に立つボーイに、自分たちの名前を言った。彼は「ご予約を承っております。さあ、どうぞ」と言うと、私たちをホテルのロビーから喫茶店の中へと招き入れた。ゴージャスなロビーにもっと身を置いておきたい気分だったので、名残惜しくもあったけれど、「こちらはゆったりと読書も楽しめるお部屋でございます」と案内された空間の心地よさに、再び顔がほころぶ。「あなた方のもう一人のメンバーはすでにいらしてございますよ」

私たちをお茶会に招いた謎の人物は誰なのか、私は聞くまでもなくわかってしまった。ボーイが私たちを案内する先から、ほのかに漂うシャネルNo.19の凛とした香り。(ちなみにNo.5はありきたりって感じでつまらない。)視界に入ってきたベルベット張りの長椅子に腰かけていたのは、やっぱり!

ミセス・バジルが私たちを見て立ち上がった。彼女はボーイに向かってうなずいた。「どうもありがとう、ジェフリー」

彼は彼女にお辞儀をすると、「またお越しいただき嬉しく思います、マダム」と言って、去っていった。

ミセス・バジルは私の頬にチュッとキスをし、ダッシュの肩をポンと叩いた。彼女は長椅子に再び腰を沈めると、私たちに「遅刻ですよ」と言った。

「今は3時40分ですから、ほんの10分です」とダッシュが言った。「それにここに招待されたのは、つい1時間前のことでしたし」

「時間厳守は一つの美徳よ」と彼女は言った。

「待ち伏せするなら、もっと早く予告状を送ることもね」とダッシュが言い返した。

ミセス・バジルが笑った。「さすがの切れ味ね。ひねくれ具合に磨きがかかってるわ。誰にも真似できない感じ」

「ありがとうございます」とダッシュが言った。「おばさまも真似できない感じです」

私の大叔母さんは私の家族の中では珍しく、ダッシュのことを単に許容しているだけでなく、彼と一緒にいることを楽しんでいる。そして逆に、彼もそうみたいね。

「ここで何をしてるんですか?」と私は聞いた。

「あなたが急に街を飛び出して、ロンドンに行っちゃったと聞いて、だったら私もついて行こうかしらね、と思ったのよ」

「他に理由は?」とダッシュが聞いた。

ミセス・バジルは答えた。「リリーが大学を中退するつもりだという風の噂を耳にしてね」

「なるほど」とダッシュが言った。私の親族に共通している過保護っぷりを、彼は改めて確信したようだった。

「中退も何も、私はまだ入学もしてないのよ!」と私は言った。

ダッシュが言った。「その問題なら、今日二人で話し合って解決済みかもしれません。問題はリリーが大学にまだ通っていなかったことじゃなくて、間違った大学を選んでしまったことで...来年は軌道修正が必要かもしれませんね」

ミセス・バジルが私をじっと見つめてきた。「私の母、つまりあなたの曾祖母にあたる人も、バーナードに行ったのよ! 私もバーナードに行きました! あなたのおばあちゃんもバーナードです。彼女がどうやってあなたのおじいちゃんに出会ったと思う? 私が紹介したのよ。彼女と私はバーナードで一緒だったから

ダッシュが言った。「そのロジックに基づいて、リリーが将来のビジョンを決めなきゃいけないなんて、不条理にもほどがあるって思うのは僕だけでしょうか?」

「それが伝統だからって、私もそこに行かなくちゃいけないってことにはならないでしょ」と私は言った。

「じゃあ、どうしてバーナード大学に出願したの?」とミセス・バジルが聞いてきた。

「おじいちゃんの老人ホームの近くにあったことと、私以外の全員が、あそこが私のおさまるべき場所だって確信してるみたいだったから」

「それと、家族のプレッシャーがすさまじく大きかったからですね」とダッシュが付け加えた。

「どれも、もっともらしい理由ね」とミセス・バジルが言った。

ダッシュがもっと踏み込んで言った。「実は、リリーはFITに出願しようと考えているんです。デザインと起業家精神を学ぶためです」

ミセス・バジルはうなずいた。「それは悪い選択肢ではありませんね。でもバーナードはどうするんですか? うちの家族は誰も、FITなんて行ってませんよ」

ダッシュが片手を飛行機に見立てて、飛び立つ動きをしながら、言った。「この人は、またしてもそのロジックだ...こうやってリリーが軌道を変えたっていいでしょ」

その時、私はふと思い出した。「あなたってバーナードを中退したんじゃなかった?」と私はミセス・バジルに聞いた。

「たしかにそうね。私は1年しか続きませんでした」

「は? どうして中退したんですか?」とダッシュが聞いた。

彼女は微笑んだ。「彼の名前はアンリといってね。彼はプラット大学の美術科の学生だった。バーナードから近かったし、私はプラット大学まで出向いて、人物デッサンの授業でヌードモデルをしていたの。その時に見初(みそ)められちゃって、私たちは付き合い始めたのよ。それから大学を辞めて、二人でヨーロッパへ1年ほど放浪の旅に飛び立ったの。―2年だったかしらね?―あの頃が、私の人生で最高に華やいでた時期だったわ」

私は啞然として何も言えなくなってしまった。私はダッシュに目配せして、テレパシーで言いたいことを伝えた。彼女って自分のことは棚に上げちゃって、偽善者よね! 彼の唇がわずかに上向きになって、彼がめったに見せることのない種類の笑顔が浮かび上がった。私をうっとりと、その笑顔に釘付けになる。私はテーブルの下で彼の膝を叩いてから、ミセス・バジルに言った。「中退したことを後悔してないんですか?」

「後悔なんてとんでもないわ」

「でしたら、どうしてリリーも、そこに行くのをやめる、という権利を行使してはいけないのですか?」とダッシュがミセス・バジルに聞いた。

私に向かって、彼女が言った。「べつに行かなくても、私は構いませんよ。ただね、それを補って十分なほどのまっとうな目的が必要です。犬だけでは十分ではありません。まあ、FITに行くというのなら、考える余地はありそうですけど、私も、もう少し考えてみないといけませんね」と言って、彼女はアフタヌーンティーのメニューに目を落とした。「ところで、あなたはどこに泊まってるの? マークの家? あのひどく座り心地の悪いイケアのソファで寝てるのかしら? マークも結婚すれば、もう少しインテリアとか、家具の美意識が上がると期待していたんですけどね」

「私はクラリッジズに泊まってるのよ」と私は言った。「っていうか、だから私たちをここに呼び戻したんでしょ」

彼女が笑った。私が冗談でも言ってると思ったみたいだ。私が真剣な表情をしていることに気づくと、彼女は言った。「あなたたちをここに呼んだのは、私がここに泊まっているからよ。ここのコンシェルジュにあなたたちの名前とメールアドレスを教えて、ここに招待してもらったの。まさかあなたもここに泊まってるなんて、思いもしなかったわ」

「あなたが何度もこのホテルのことを私に話してくれたから、私もいつかここに泊まりたいって思ってたんですよ!」と私は言った。

「誰が宿泊料を払ったの?」と彼女が聞いた。

私が払いました」

「そんな大金どうしたの?」

「自分のお金です! 犬の手芸品が予想以上に売れたし、何人かのお客さんからクリスマスチップをもらったし、中にはびっくりするくらいの額をくれた人もいたから」

「でも、年末のこの時期は、ここのホテル代も一年で一番高くなるのよ。あなたがそんなに稼げたとは思えないけどね」

私が稼ぎました。一番大きかったのは、犬の散歩のクライアントにとても裕福な方がいて、ありがたいことに彼が、思わぬ大金をチップとして振り込んでくれたことですけど。彼は私のおかげで年老いたメス犬が散歩好きになったって喜んでくれています。彼女は関節症を患っていて、前まではマンションから絶対に出たがらなかったそうですけど、今では〈トンプキンス・スクエア・パーク〉で、子犬みたいにハトを追いかけていますよ。あと、彼は私がデザインした犬のセーターもたくさん購入してくれたんです」

「あなたは自分の得意なことを仕事にしてるみたいね」とミセス・バジルが言った。

「はい」と私が言うのと同時に、ダッシュが「彼女は凄いんです」と言った。

「それは立派ね。とてもまっとうな目的です」とミセス・バジルが言った。「あなたにはバーナード大学の教育を必要としない将来がふさわしいのかもしれませんね」ウェイターが注文を取りに来た。「私が三人分を注文しちゃっていいかしら?」

ダッシュと私はうなずいたけれど、彼女は私たちの返答はお構いなしといった様子で、メニューを吟味している。

ミセス・バジルがウェイターに言った。「じゃあ、こちらのオックスフォードの友人には、クラリッジズお手製の午後ティーをお願いします。彼はたしか、英国の朝食ティーには目がないのよね。そしてこちらの私の姪っ子には、ベジタリアン用のベーコン抜きサンドイッチをお願いします。彼女は動物や地球への思いやりを常に念頭に置いてるの、ベーコンがどんなに美味しくてもね」

ティーサービスが始まると、私のイギリスへの浮気心が深まってしまった。私の心をぐっとひきつけたのは、陶磁器の美しさやティーポットから漂ってくる香ばしい香りだけではなかった。ウェイターの精度の高い所作振る舞い、私たちのカップに整然とお茶を注ぐさまは、まるでサーカス団のピエロが綱渡りをしているかのようで、完全に意識を集中させつつも、完全なる気楽さをかもし出すという芸当に、私はすっかり見とれてしまう。お茶を味わう前からすでに、私はお茶会のとりこになっていた。ティーポットからカップへと注がれ描かれる、寸分の狂いもない放物線は、水しぶきが跳ねることもなく、正確に同じ分量ずつ私たちのカップを紅茶で満たしていく。その注ぐ行為自体が、芸術といってもよいほどに見事だった。

「紅茶にはミルクを入れる?」とミセス・バジルがダッシュに聞いた。

「いや、甘ったるくなるんで結構です」とダッシュが言った。

「いい心意気ね」と、ミセス・バジルはうなずきながら言った。

ダッシュがミルクも砂糖も入れずに、紅茶の最初の一口をすすった。私も同様にストレートティーを喉に通す。彼の喉仏がごくんと動いて、彼は言った。「今まで味わった中で、一番美味しい紅茶だ」

紅茶に添えられたサンドイッチの盛り合わせを食べてみて、私も同じ感想を持った。白いパンの上にイングリッシュ・キュウリが刻まれ、レモンとクレソン葉のクリームがかかったサンドイッチ。ヤギの乳で作ったシェーブルチーズをベースに、かぼちゃとセージの葉がのり、コショウをまぶしたサンドイッチ。綺麗な模様の陶器のお皿が3つ、金色の細い棒を軸に塔みたいに3段に重なっていて、それぞれの段にそれらのサンドイッチがのっている。その陶器の台は、置いておくだけでテーブルを華やかにしてくれるようで、私はそれをナプキンでくるんで、こっそりアメリカに持ち帰りたくなった。(世界中の万引き犯よ、今こそ団結せよ、と歌うザ・スミスのボーカル、モリッシーが歌声がふいに頭に流れた。あんな悪漢が歌う歌は聴いちゃだめよ、リリー、と私は自身に言い聞かせる。)「このサンドイッチを編み出してくれた人には、イギリスの女王からナイトの称号が贈られるべきね」と私は言った。

ミセス・バジルが言った。「ね、そうでしょ。あなたにぴったりだと思ってそれを注文したのよ。でも、リリー、そのお紅茶の飲み方は感心しないわね。もっとおしとやかに飲みなさい。それはそうと、ダシール、オックスフォードのことを聞かせてちょうだい。すべては順調? 期待通りに進んでる?」

「イギリスはとても気に入りました」とダッシュは言った。「でもオックスフォードに関しては、どうなんだろ、よくわかりませんね」

「それはどうして?」と彼女が彼に聞いた。

「理想があって、現実があるって感じかな。子供の頃から、こうあってほしいっていう理想の上に乗っかって生きてきたのに、大人になった途端、現実を突きつけられて幻滅した、みたいな。前からずっと英文学を勉強したいって思ってたから、それが叶ったといえば叶ったんだけど、なんかそればっかりなんですよね。他にもたとえば、そうだな、心理学とか、アジア史とか、アフリカの美術とか、文学にしてもイギリスだけじゃなくて、南米のマジカルリアリズムなんかも勉強したいなっていう気持ちが強くなってきた感じです。なんていうか、予想以上に制限されてるんですよね」

「それはもしかすると、オックスフォードの問題ではないかもしれないわね」とミセス・バジルが言った。「イギリスの大学システムがあなたの性に合ってないんじゃないかしら。あなたこそ、ギャップイヤーを取って、じっくり進むべき方向を考え直した方がいいかもしれませんね。あなたが本当に勉強したいのは何なのか、どこで勉強したいのか」

「ニューヨークが恋しいです」とダッシュは認めた。

「そうでしょうね」と彼女は言った。

「私はここが好きよ!」と私はドアベルを鳴らすように割って入った。「ロンドンをちょっと出たところに犬の学校があるんですけど、そこにも行ってみました。あそこも選択肢の一つとして、私は考えています」

ミセス・バジルはレーズンの乗った焼き菓子をお皿に戻すと、私を睨みつけた。「あなたがバーナードに行かないという考えがようやく腑に落ちてきたところで、今度は犬の学校に行くためにここに引っ越すだなんて、私はそんな話には聞く耳を持ちませんよ。馬鹿馬鹿しい。あなたはニューヨーカーなんですよ。イギリスとは一時の戯れ程度の関係で終わらせなきゃだめです。情が移って、このままずるずると関係を続けてたって、その先に真実の愛はないわ」彼女は自分の過去に思いを馳せるように紅茶を一口すすると、ダッシュの方を向いた。「あなたにも同じことが当てはまりますよ」そこで彼女はカップを置き、ひと呼吸置いてから、言った。「ゲルタのことは話したかしら? 彼女はとうとう引退して、アリゾナ州のスコッツデールに引っ込んでしまいました」

「急にゲルタの話なんか持ち出して、ダッシュと私が行くべき場所を探してることと何の関係があるんですか?」私は混乱して彼女に尋ねた。ゲルタはミセス・バジルの家で長年、家政婦をやっていた人だ。彼女はこの1年くらいは、ミセス・バジルの豪華なタウンハウスの中の、とても暗くて、かなり狭い地下の一室で暮らしていて、こんな風に彼女が私たちの食事中の話題としてのぼることは、今まで一度もなかった。

「彼女は妹と一緒に暮らすために、そして再び太陽の光を浴びて暮らすために、アリゾナへ旅立ったのよ。私の考えを聞いてちょうだい」ミセス・バジルはそう言うと、私の手を取り、そしてダッシュの手も取り、二人の手を重ね合わせた。「解決策は明白です。まあ、これをあなたたちの両親に提案するのは気が引けますけど、あなたたちは地下のアパートに引っ越したほうがいいわ。薄暗い部屋にこもって、二人で目的を見つけるの。きっと何か見えてくるから」

シチュエーションコメディの道化に慣れ親しんできたアメリカ人の私としては、口に含んだ紅茶を、ブーッと吹き出すにはうってつけのタイミングだったけれど、クラリッジズの瀟洒(しょうしゃ)な談話室の神聖さを汚すのは忍びなくて、ぐっとこらえて紅茶を飲み込んだ。

ダッシュが私の手を優しく包み込むように握りしめながら、私の大叔母さんに向かって言った。「僕がどれほどあなたの姪を愛しているかご存知ですよね。でも、まだお互いの人生の今の段階では、一緒に暮らすなんてことを話す時期には来てないし、まだそんなことを言える立場にもたどり着いていないと思います」

「同感」と私は言った。彼女は正気なの?

ミセス・バジルが言った。「私はね、何もうちの地下室に空きができたから、ルームメイトの穴埋めをしてちょうだい、とか言ってるわけじゃないのよ。リリーの大叔母として私が所有している不動産をあなたたちの新居に提供します、とかいう話でもないの。二人は今すぐ結婚すべきです。駆け落ちしなさい!」

あらまあ、憐(あわ)れんだほうがいいかしら。私の最愛の大叔母さんは、本当に正気を失ってしまったらしい。




14

ダッシュ


12月23日

「いったい何を言いだしてるのよ?」とリリーが驚きの表現を浮かべて、叫んだ。かなり憤然(ふんぜん)たる様子だ。

僕は比較的落ち着いていた...なぜなら、ハッタリをかましてるんだな、とわかったからだ。僕にはそういったことを見抜く目がある。

「彼女は本気じゃないよ」と僕は言って、リリーを落ち着かせた。「彼女がやっていることには、たしか心理学的な用語があったと思うけど...思い出せないや、僕は心理学の授業を受けることを許されていないからね。それはともかく、彼女はそういうことを言うことで、僕たちの態度をはっきりさせようとしてるんだ。僕らはそんなことまで望んでいないって、一緒にどこかへ逃げ出すなんてしたくないって自分たちの心に確認させて、一緒に住む必要はないし、カップルでいるために同じ街に住む必要もないなって気持ちにさせるためだよ。挙句の果ては、結論として...」僕はミセス・バジルの方を向いた。「ここはあなたが言う台詞ですよ」

ミセス・バジルはため息をついた。「あなたはバーナードに行った方がいいわ」

「なんでそうなるのよ?」とリリーが嘆くように言った。

僕は彼女の大叔母さんに話し続けた。「ミセス・バジル、こんな言い方をして気を悪くしないでほしいんですが、ちょっと今のあなたは、頭の中がとっちらかってるというか、もう少し考えを整理した方がいいですよ」

ミセス・バジルはそこで、その話題を続けるのを断念した。しかし、そこから他の話題を持ち出すのも、3人ともためらわれ、僕たちは黙って紅茶をすすり、黙々と焼き菓子やサンドイッチを味わった。お皿がすっかり空になると、ウェイターがすっとやって来て、塔みたいに段になった陶器とか、ティータイムにぴったりの繊細な模様が描かれた食器類を奥に下げていった。きっとイギリスの厨房の洗い場には、ハリーポッターに出てきた〈屋敷しもべ妖精〉がいて、陶磁器をピッカピカになるまで磨いているのだろう。

僕は腕時計を見た。

「そろそろ行かないとだね」と僕は言った。「僕たちはこれから僕の祖母と会う約束をしてるんです。素敵なアフタヌーンティーをありがとうございました。心を通わせる、とまではいきませんでしたが」

僕たちが立ち上がって行こうとすると、ミセス・バジルが言った。「リリー、私もこの後、夜までいくつか予定があるんだけど、10時までにはここの私の部屋に戻ってると思うから、寝る前に私の部屋にいらっしゃい。私の寝酒に付き合いなさい。あなた一人で来るのよ」

「わかったわ」とリリーは静かに言った。

「そんな、絞首台までの十三階段をのぼっていくような態度はやめなさい」とミセス・バジルがたしなめた。

「次に会う時までには、僕たちは結婚して、夢のマイホームのローンをせっせと返していることでしょうね」と僕は言った。

僕はミセス・バジルのしょんぼりしたまなざしを僕の方へ向けようとした。間接的にリリーをかばうことになれば、と思って言ったんだけど、大成功だった。僕はこの技が得意みたいだ。

「あなたね、そうやってひねくれたことばっかり言って、食って掛かるのはやめなさい」と彼女は僕に矛先を向けた。「あなたの中にある邪悪な部分をちらつかせて、悪びれて見せてるんでしょうけど、ひねくれなくたってあなたは魅力的なはずよ。言っておきますけど、私が大西洋を渡ってここまで来たのは、皮肉を言い合って、おしゃべりを楽しむためじゃありません。あなたたちはとても重要な岐路に立ってるの。間違った道を歩みだそうとしてるんじゃないかって心配してるのよ」

「間違った道も何も、ここから一番近い地下鉄の駅までは一本道ですよ」と、僕はさらに皮肉を重ねた。

「また今夜会いましょう」とリリーが付け加え、大叔母さんにハグをして別れを告げた。

リリーと僕は、ホテルを出るまでお互いに何も言わなかった。ミセス・バジルがロビーのいたるところにスパイを配置していて、僕の皮肉めいた発言や、リリーの後悔の言葉を、もらさず彼らにメモさせ、報告させるのではないか、と考えたとしても不思議ではなかった。外に出て、地下鉄の駅へ向かって歩きだして、ようやく僕は「いったいどうなってるんだ?!」と声を発した。それに対してリリーも、「何がどうなってるのか私にもさっぱり!」と白い息を吐き出した。

「駆け落ちだなんて、ね」と二人で驚き合っていると、カーリー・レイ・ジェプセンの『Run Away with Me(一緒に逃げよう)』が頭に浮かんだ。「そういえば、こういう曲あったよね」と、その歌をリリーに向かって口ずさんだ時、僕たちは地下の中心部に向かって、1キロくらいあるんじゃないかと思うほど、長いエスカレーターに乗っていた。

「あんな言葉が彼女の口から飛び出すとはね、本当にびっくりした」とリリーが言った。「夢にも思わなかったわ」

「なんとなくだけど、あれは君の両親の発案じゃなくて、彼女が思いつきで言っただけじゃないかな」と僕は言った。「まあ誰の発案だとしても、君の気持ちをバーナード女子大に戻すための作戦だろうけど」

「私はバーナードには行かないわ」

「わかってる」

「わかってくれてありがとう」

彼女はエスカレーターの一つ上の段に立っていたので、僕らの顔はほぼ同じ高さにあった。僕は思わず身を乗り出して、彼女にキスをした。

「これって何のためのキス?」と彼女が聞いた。

「バーナードに行かないためだよ」

エスカレーターが終点に近づいてくると、地下通路でキーボードの弾き語りをしている女性が見え、ジョニ・ミッチェルの『River(川)』のイントロが聞こえてきた。この寒い時期にぴったりのしっとりとしたバラードで、リリーの大好きな曲の一つだ。その時だった。妙なことが起こったのだ。そのピアノのイントロはたしかにジョニの『River』だったのだが、彼女は『River』を歌い始めることなく、そのまま自然な流れで曲調を変更し...さっき僕の頭に流れたばかりの『Run Away with Me』のピアノバージョンにつなげ、それを歌いだしたのだ。

「まさか」と僕は驚きの声を上げた。

その路上パフォーマーは、妙にカーリー・レイ・ジェプセンに似ていた。でも、有名歌手がこんなところで歌ってるなんて、ありえない、よね?

彼女に興味を持ち、その歌声に魅了されたのは、僕だけではなかったようで、他の通行人たちも足を止めて、曲に合わせて体を揺らしていた。

「ちょっと待って」と僕はリリーに言った。「やらなければならないことがある」

するとリリーは微笑んで、「わかってる」と言った。

当然のように彼女は覚えていてくれた。僕は以前、彼女にこの誓いを話したことがあったのだ。もし、そこを通りかかる前に僕の頭の中で流れていた曲を、偶然にも、あるいは運命的に演奏している路上パフォーマーがいたら、僕は財布の中のお札をすべて、その人のギターケースに入れるよ、と。

そんなことがあるとしたら、財布のお札をごっそり持っていかれるのは、ビートルズの曲になるだろうな、と思っていたのだが、それがカーリー・レイ・ジェプセンだったことに、より運命的な意味があるように思えた。

その女性シンガーの歌声を聴きながら、僕は財布を取り出し、中から紙幣をすべて引っ張り出して、彼女がギターケースの代わりに置いていた、クリスマス飾りのティンセルが巻かれたクッキー缶の中に入れた。ついでだ、とばかりに、僕はつい財布の中の小銭も全部入れてしまった。

そのシンガーは、困惑と感謝の入り混じった不思議そうな表情を浮かべながら、サビに突入した。

Hey, run away with me(ねえ、私と一緒に逃げようよ)

Run away with me . . .(二人で一緒に逃げようよ . . .)

通行人たちに邪魔だと言わんばかりに背中を押される中、僕はリリーを持ち上げ、くるくると体を回転させた。他のカップルや一人で歩いていた人も一緒になって、もう一度めぐって来たサビを一緒に歌った。カーリー似の歌手も満面の笑みで指を弾ませ、声を高らかに地下通路に響かせる。

リリーは僕の手をつかむと、僕を引っ張るように歩き出した。カーリー似の歌声が僕たちの背中を追い風のように押し、僕たちはふわりと舞うように歩みを進める。そのままホームにたどり着き、電車に乗り込んだ時、僕たちは二人して、ニヤニヤとにやけてしまった。周りを見れば、他の乗客たちもなぜか、にこやかだった。

ジェムのタウンハウスの最寄り駅に着く頃には、魔法の効力が切れたように、二人とも落ち着きを取り戻していた。

「なんか緊張する」と、ウォータールー界隈を歩きながら、リリーが心のうちを打ち明けた。「第一印象があまり良くなかったと思うから」

「これは本心から言うんだけど」と僕は言った。「何も心配することはないよ。君はありのままの君でいれば大丈夫」

玄関前に着くと、リリーがノックをしようとしたので、僕はそっと鍵を持っていることをアピールした。それを使ってドアを開けると、玄関ホールに入ってから、ジェムに声をかけた。家の中はシナモンとバニラの香りで溢れかえっていて、天上のスピーカーからはトム・ジョーンズのクリスマスアルバムが流れている。

ジェムがエプロン姿でキッチンから出てきた。―いつもの彼女とは違う姿だ。

「いらっしゃい!」と彼女は言って、僕にハグし、そしてリリーにもハグした。「あなたの曾祖母から受け継いだクリスマスケーキを作ってたのよ。コーヒーケーキをちょっとゴージャスにしただけなんだけど...やっぱり伝統の味は守らないとね」

「ダッシュの家に伝統のクリスマスケーキがあったなんて知らなかったわ」とリリーが言った。

「僕も知らなかったよ!」と僕は認めた。

ジェムも一瞬驚いた様子だったけれど、すぐに合点がいったらしく、こう言った。「まあ、あなたの父親がこれを一度でも、あなたの前で作ってみせたとは、―やっぱり思えないわね。仕方ない、ここはひとつ、私があなたに秘伝のレシピを伝授してあげましょう。世代を飛び越えた伝統の味の継承といったところかしら」

「すごく美味しそうな香りがしますね」とリリーが言った。

「ありがとう。作った甲斐があるわ。うちでディナーパーティーを開くのが昔から大好きだったのよ。みんなうちに来れば、心ゆくまで食事ができるって知ってるから、たくさんの人が集まったわ。あの頃はヌーベルキュイジーヌの時代でね、フランス語で「新しい料理」っていう意味なんだけど、具材の量を減らして、お皿にちょこんと料理を乗せて、見せ方とか見映えを工夫した料理が出てきた頃だったから、私が主催するディナーパーティーは時代に逆境してたのよ。コーヒーケーキを侮(あなど)ってはいけないわ。味も量も増し増しにした私の特製ケーキはね、ロンドンっ子の肥(こ)えた舌だってうならせたんだから。他の料理も、そうね、あと1時間くらいで出来上がるから、ダッシュ、それまで彼女に家の中を案内してから、あなたの部屋でくつろいでてちょうだい。ディナーにふさわしい服装に着替えてね」

「何か指定の服装でもあるの?」と僕は聞いた。

「そのうちわかるわよ」とだけジェムは答えて、それ以上の説明をしなかった。

彼女がキッチンに戻ると、僕は家の中を案内し始めた。まずダイニングルームに顔を出すと、ジェムはそこを〈ホリデー・ワンダーランド〉と呼べるような、キラキラ輝く空間に仕立て上げていた。部屋の真ん中にひときわ目を引くクリスマスツリーが飾ってあった。緑の葉っぱは一枚もなく、全面が色とりどりの花で覆われたクリスマスツリーだった。

「24時間前は、ここには何もなかったんだ」と僕はリリーに言った。リリーは目を輝かせて大喜びしている。僕はキッチンに向かって、「これをどこで手に入れたの?」と声を張って聞いた。

「〈リバティ〉で働いてる子たちが、私への感謝の気持ちにってくれたのよ!」とジェムが答えた。

テーブルの上には食器類が3セット並べられていて、リリーがそこから花柄の布ナプキンを手に取った。「素敵なお友達をお持ちなんですね」と彼女は感想を口にした。

リリーも一部に溶け込んだその光景に、僕はうっとり見入ってしまう。「それはいえてる」

1階の他の部屋も見せてから、僕の部屋がある2階へと彼女を案内した。

「ようこそ、僕のホームルームへ。といっても、実家からはかなり離れたホームだけどね」と僕は彼女に言った。

「本、本、本、さらに本、洋服が少しと、壁に写真がちらほら...あなたの実家の部屋によく似てるわ」と彼女が言った。

「それに、アドベントカレンダーもあるよ」と僕は指差した。

「ええ、気づいたわ」

彼女がクローゼットに歩み寄った。クローゼットの扉には、これ見よがしに〈リバティ〉の衣装バッグが2つかかっている。

「これは何?」とリリーが聞いた。

「さあ、何だろう」と僕は答えた。

一つにはリリーの名前が書かれた紙が貼ってあり、もう一つには僕の名前が書かれていた。

リリーがまず、彼女の名前が記された衣装バッグのファスナーを開けると、中から、色鮮やかで華やかなワンピース型のドレスが姿を現した。

「これは...すごい」というのが彼女の反応だった。

僕のバッグの中には、こじゃれたスーツが入っていた。〈ドーント・ブックス〉に着ていったものよりは若干控えめだったけれど、それでもかなり高級感あふれるスーツだった。

「彼女の〈リバティ〉のお友達に感謝しなくちゃね」と言って、僕はリリーと視線を重ねた。

リリーは手に持っていたドレスをクローゼットの扉に掛けると、僕のベッドに腰を掛け、真剣なまなざしを僕に投げかけてきた。

「ダッシュ、これから私たち、何をしましょっか?」と彼女が聞く。

そして僕は気づく。この2、3日の間、いろんなことがあれよあれよという間に、僕たちの身にふりかかってきた。こうして冷静にじっくりお互いを見つめ合うのは、この数日で初めてかもしれない。

僕は自分のスーツを彼女のドレスの横に掛ける。

彼女の質問は、僕たちのこれからの人生についてなんだろうけど、僕はあえて、今からの1時間について答えることにした。

「そうだな」と僕は彼女に言った。「僕たちは今着てる服を脱いで、それから、この新しい服に着替えることになると思うけど、その合間に、何らかの行為に及ぶんじゃないかって気もするけど、どうかな?」

「比喩にしても、将来のことを言ってるようには聞こえないわね」と彼女は言った。「でも、その計画もたしかに良さそうね」


・・・


1時間ほどして、夕食の準備ができたとジェムに呼ばれた時、僕たちは慌てて新しい洋服に身を包み、ボタンを閉めている最中だった。

なるべく平静を装って、二人向かい合って食卓の席につく。僕たちの間の主催者席にジェムが座った。スピーカーからはエイミー・ワインハウスの、その名の通りワインに酔ったような歌声が流れていた。―エイミーと同じく20代で亡くなったニック・ドレイクという歌手を、ジェムは好きだったのよと言って、思い出したように席を立ったけれど、リリーも僕も、それが誰なのかピンと来なかった。ジェムがレコードを差し替えて、ニック・ドレイクを聴かせてくれた。ギターをかき鳴らしながら牧歌的に歌うバラードは、どこか寂しげで、12月の夜にしっくり来る気がした。

ジェムが僕たちの今日一日について聞いてきたので、僕たちは話せる範囲で詳しく今日の出来事を彼女に伝えた。パントマイムの劇を観に行った話をしたら、またしても彼女の記憶の片りんを刺激してしまったようで、ジェムがうっとりと語りだした。イギリスのコメディグループ、モンティ・パイソンと彼女は一緒に仕事をしたことがあるらしく、祝日のイベントでパントマイムを披露したそうだけど、セクシーの要素が強すぎて、BBCは放送を断念したという...そこから彼女の話は広がって、若き日のマギー・スミス、アンジェラ・ランズベリーという二人の有名女優に挟まれて、ジェムも一緒に女子三人で音楽スタジオに忍び込み、イケメン俳優リチャード・バートンの誕生日を祝おうと、『You're the Top』のちょっと卑猥(ひわい)な替え歌をレコーディングしたことがあるそうだ。

「言っておきますけど、当時はまだ、リチャードはリズとは付き合っていなかったから、私たちはみんな必死だったのよ」とジェムは僕たちに向かって断言した。

知らねーよ、とは言えずに、僕たちはふむふむと納得したようにうなずいていた。

「さて、私の話はもういいわ」とジェムが言った。「あなたたちはパントマイムを観たんだったわね、そこから話が逸れちゃったけど、そのあとはどうしたの?」

その後は、サプライズ的にミセス・バジルにお呼ばれしたんだけど、リリーがそのことを話すのは抵抗があるんじゃないかと思って、彼女を横目でちらりと見た。でも、彼女はすべてを事細かに話しだした。彼女が大学への道を拒んだ結果、ミセス・バジルが突如、ティラノサウルス(T-Rex)みたいに怒っちゃって、いや、お茶会だったから、お茶の女王(Tea-rex)みたいに気がふれてしまって、という話を、リリーは講談調にまくし立てた。僕にはすべての隠語を理解できたけれど、ジェムにすべてが伝わったかは微妙だった。けれどリリーはお構いなしといった感じで、最後にミセス・バジルの「間違った道をうんぬんかんぬん」という台詞で締めくくった。

「おそらくあなたが選ぶ道は、バーナードとは逆方向へ進む道ってことかしらね?」とジェムが尋ねた。

「そう考えてもらって差し支えないと思います」とリリーが答えた。

「わかったわ、それなら」ジェムは、一旦持ち上げたワイングラスを口につけないままテーブルに戻すと、言った。「二人に質問があります。率直に言って、私があなたたちくらいの年齢の時には、誰も私にこういうことを聞いてくれませんでした。だからあなたたちには聞くのよ。私も自分の親と同じ過ちを犯して、年頃の息子には聞けなかったわ。あの頃は、母親になったとはいえ、私はまだ若かったし、自分の息子には怒ってばかりで、そういう質問の大事さに気づけなかったのよ。リリー、私はあなたにとって、まあ他人ですね。ダッシュ、私はあなたにとって他人ではないけれど、まだ知り合ってから日が浅く、あなたがどう答えたところで、私がその答えに一喜一憂するほどの仲には、まだなっていないでしょう。だからこそ二人に聞きますが、もし私があなたたちに、これからの人生で何をしたいかって尋ねるとしたら、あなたの心はどう返答しますか?」

リリーは躊躇(ちゅうちょ)しなかった。「私は犬と一緒に働きたいです。それが私の得意なことだから、というだけではなくて、犬たちのためになるからです。私は心からそうするのが好きだし、それが何らかの形で役に立つことも知っています」

「素晴らしいわ」とジェムが言った。「さて、ダッシュ、―あなたはどうかしら?」

僕の答えは「わからない」だった。しかし、僕自身その答えでは満足できなかった。心の奥底に別の答えがあることを感じていた。ジェムの言葉を借りれば、僕の心が跳ね返してくる答えがある、と。

「本を扱う仕事がしたい」と僕は言った。「それが僕のやりたいことです。リリーが犬に囲まれて仕事をしたいように、僕は本に囲まれて仕事がしたい。僕の未来は本とともにあります」

そう声に出して言うのはおこがましい気がした。

でも、清々(すがすが)しさもあった。

リリーとジェムも、僕からそれを感じ取ったに違いない。二人とも納得するようにうなずいていた。

「よかった」とジェムが言った。「これでわかったわ」

そう。今、僕たちはわかったのだ。

ジェムが突然テーブルを叩いて、僕たちを驚かせた。―イギリスの環境に囲まれて、実にアメリカ的なジェスチャーだった。

「善は急げよ!」と彼女は言って、立ち上がった。「すぐに戻ってくるわ。電話をかけないといけないから」

「それで」とリリーは言い、テーブルの向こう側から僕に手を伸ばしてきた。「本なのね」

僕は彼女の手を取った。「そう、本。それと、犬だよね」

彼女が僕の目を見て、にっこりと微笑んだ。「そう、犬よ」

「君はFITに応募するんでしょ」

「みんな反対するでしょうね」

「彼らは無駄に月に向かって吠えてるだけだよ」

1分ほどして、ジェムが食卓に戻ってきた。満足そうな笑みを浮かべている。

「明日の11時よ」と、彼女は椅子に腰を掛けながら言った。

「それがどうしたの?」と僕は尋ねる。

「あなたにはセント・ジョン・ブレークモアとの面接を受けていただきます」

はあ?!」と、僕はきょとんとするばかり。セント・ジョン・ブレークモアといえば、ニューヨークで最も有名な文芸編集者のことだろう。

「ブレーキーが、ちょうど今この街にいるのよ。クリスマス休暇を利用して、彼の両親に会いに来てるの。電話してみたら、明日の11時にあなたに会ってくれるって」

ブレーキー?!

「ああ、私は彼をそう呼んでるの。80年代に一時期、彼の面倒を見たことがあるのよ。ラシュディの小説『悪魔の詩』が出版された時、熱心なムスリムから激しい反発が巻き起こってね、彼の両親が地下に潜らなければならなかった時期に、彼は私のもとに身を寄せていたの。それからの仲なんだけど、私は彼のために何冊か本を書いたことがあるのよ」

「あなたが書いたんですか?」

「ええ、そうよ。彼が出版した有名人の回想録の何冊かは、私の手によるもの。ゴーストライティングと言っちゃえば聞こえは悪いけど、歌手とか俳優とか、有名人っていうのはね、忙しすぎて、自分の過去をあんまり覚えていないものなのよ。彼ら自身より、私たちみたいな、近くで見ていた取り巻きのほうが、あの時はこうだった! とか、よく覚えているの」

「っていうか明日、セント・ジョン・ブレークモアと面接? そんなの無理だよ! 心の準備もできてないし」

「何のための面接なんですか?」とリリーが聞いた。

「そうだよ」と僕は言って、ジェムの方を向いた。「それって何の面接?」

「べつに何だって構わないわ」と彼女は答えた。「チャンスをものにできるかどうかはあなた次第よ。自分のなりたいものになるために、自分を思いっきりアピールして来なさい」

僕は緊張と興奮で過呼吸になりそうだった。

「オッケー」と僕は言った。「そういうことなら、やってやろうじゃないか」

「ただ、一方で」とジェムは続けた。「残念ながら、私には犬関係の世界につてはないのよ」

「そのことなら大丈夫です」とリリーは言った。「自分でもう見つけたと思います」

食事の残りの時間は、僕がリリーに、セント・ジョン・ブレークモアとは何者なのかについて説明したり、ジェムが誰の回想録を書いたのかについて、彼女は秘密保持契約にサインしたそうで、言えないわ、とは言いながらも、ヒントを散りばめつつ、ほのめかすことに費やされた。

それからクリスマスケーキが出てきて、これが実に美味しかった。

「僕の人生で今まで君に出会えなかったなんて、いったい君はどこに雲隠れしていたんだい?」と僕はそのケーキに向かって尋ねた。

「私も同じことを知りたくて仕方ないわ」とジェムが言った。

「さっき、これは僕の曾祖母のレシピだって言ってましたよね。彼女の名前は何ていうの? 彼女はどんな人でした?」

ジェムは微笑んだ。「彼女の名前はアンナ。私が子供の頃は、グラナと呼んでいたわ。グランマ(おばあちゃん)とアンナを一緒くたにして呼んでいたの。彼女はお菓子作りが大好きでね、でも食べることにはあまり執着がなくて、自分が作ったものを他の人が食べて喜んでるのを見るのが、何よりの喜びっていう人だった。私たちはいつも、おばあちゃんに『こんなに美味しいパンを作れるならパン屋さんをやったらいいよ』って言ってたんだけど、彼女はその対価として人にお金を請求するのが嫌だったのよ。それよりも、自分で作ったクッキーや、オーブンから取り出したばかりのケーキを持って、友達の家の玄関を訪れるほうが好きだったみたいね」

「僕の父は彼女を知ってた?」

「少しね。彼はまだ小さかったから、覚えてるかしらね。彼のお気に入りのトラックの形をしたクッキーを彼女が作ったら、彼は大喜びしてたのよ」

これには思わず笑ってしまった。「僕の父に、お気に入りのトラックがあったの?」

「ええ、あったわ!」とジェムが言った。「そのトラックにポールという名前をつけて、肌身離さず持ってたわ。―ポールっていうのはおもちゃ屋さんのおじさんの名前でもあって、おもちゃ屋さんをやってるくらいだから、すごくいい人だったわ! ―それはともかく、人じゃなくてトラックのポールは、私の手と同じくらいの大きさで、あなたのお父さんはいつもポールをなくすのよ。そうして、「ポール、どこへ行ってしまったの?」って、ソファのクッションの間とか、ベッドの下を探し回っていたわ。彼の幼少期の半分は、ポール探しに費やされたといっても過言ではないわね。あなたのお父さんはポールを、それはそれは大事にしていてね、いい年になってからも、ベッド脇にポールを置いて寝ていたのよ。私は部屋の掃除をしながらポールを棚に戻すんだけど、また次の日になると、枕元に置いてあるの。彼が高校生になってからのことよ」

僕は、父がこんな風にトラックのおもちゃを大切にしていたとは、なかなか想像しがたかった。

「で、ポールは今どこにいるの?」と僕は聞いた。

「ああ」とジェムが言った。「今は私が持ってるわ。二階の私の寝室よ。彼は今は、私を見守ってくれているんだと思う」

その時、彼女の目に涙が溢れてきた。幸せな気持ちがこみ上げてきているようでもあり、そこから一筋の寂しさがこぼれ落ちた。家族と過ごした日々や、人間の方のポールを思い出したのかもしれない。

「おお、ジェム」と僕は言って手を伸ばし、今度はジェムの手を握りしめた。

「大丈夫よ」と彼女は言った。「もし、もう一度やり直すことができたら、今度はきっと、もっとうまくやれるわ。でも、みんなそう言うんでしょうね? 口だけなら何とでも言えるから」

リリーに目を向けると、リリーも悲しそうな顔をしている。

「私も家族と離れて寂しいわ」と彼女が言った。「ここで、あなたたち二人と過ごすのも楽しいけど、やっぱり私もこうしていると、自分の家族が恋しくなります。あっちとこっち、両方でクリスマスを過ごせる方法があればいいのに」

「でも、リリー」とジェムが言った。「あるわよ。ちゃんと、その方法はあるわ」

「どういうことですか?」

「1日は24時間しかないけどね」とジェムは言った。「それは東から西に飛んで移動しなければ、の話よ」

「それはつまり―?」と僕は口を挟む。

「私は、こっちでクリスマスを祝いましょうと言ってるのよ」とジェムが言った。「それから、あっちでも、お祝いしましょう。私たちみんなで!」

「私たちみんなで?」と僕は聞いた。

「そうよ」とジェムがきっぱりと言った。「私たちの家族も、ようやくみんなで一緒にクリスマスを祝う時が来たのよ。私たちの親族は今では少なくなっちゃって、もうあんまり残っていないけど、そろそろみんなで集まってもいい頃なんじゃないかしら」

僕は頭の中を整理して、彼女の言っていることを理解しようとした。リリーも明らかに同じことをしている。

「すぐに答えなくてもいいわ」とジェムは間を空けずに付け加えた。「ヴァージン・アトランティック航空で親友が働いているの。善は急げよ。彼女に連絡して、クリスマス前ギリギリになっちゃったけど、席を取れるか確認してみるわ」

「なるほど」とリリーが言った。

「それはいい考えだね」と僕も同意した。

「みんな考えはまとまった? もしオッケーなら、時間を飛び越えるわよ、リリー。その前に今夜は、私たちと一緒にここに泊まってくれるわね?」

「あ、いけない!―今何時ですか?」

「9時半よ。どうして?」

「ミセス・バジルが待ってるんだった!」

リリーは僕の部屋へ行き、急いで元の洋服に着替えた。真新しいドレスを着ている理由をミセス・バジルに説明するよりも、その方が手っ取り早いと判断したらしい。ジェムがすぐにタクシーを呼んで、リリーに『クリスマスイブのサプライズがあるから、明日の晩もう一度いらっしゃい』と言って、彼女を見送った。

「僕は本当に一緒に行かなくていいの?」と僕は、通りでタクシーに乗り込むリリーに聞いた。「君が彼女の寝酒に付き合ってる間、僕はホテルの君の部屋で待ってることもできるけど」

「いいの。これは私一人でやる必要があるから」とリリーは言った。「つまり、彼女と二人きりでゆっくり話さないといけないから。もちろん、あなたが寄り添っててくれるのはわかってる、精神的にね」

「僕たちはいつも一緒だから」と僕は宣言するように、同時に誓うように言った。

「そうね、いつも一緒」と彼女は言って、僕の頬にさよならのキスをした。

「幸運を祈ってる」というのが、その夜、僕がリリーに発した最後の言葉になった。彼女の乗ったタクシーは、夜のとばりの中に消えていった。




15

リリー


12月23日と12月24日

ダッシュは彼のおばあちゃんが大好きなんでしょうね。あのクリスマスケーキは、私からすると月並みだったけど、彼はすごく美味しそうに頬をほころばせて食べていたから。―少しパサパサしていたのは、焼き時間が3分くらい長すぎたからなのよね。それと、ジェムは粉砂糖をふるいにかけなかったんでしょう、クリームに砂糖の小さな塊が残っていて、なめらかさが十分ではなかったわ。って、ちょっとダメ出ししちゃったけど、実は私もすごく好きな味で、あのケーキを通して、ジェムのことを見直したというか、好きになっちゃった。作った人が込めた心が感じられたというか、彼女の人柄が表れていたから。

公に認めます。私は完全に間違っていました。

私はジェムのことが大好きになった。彼女の家は居心地が良くて、家中に流れていた音楽のコレクションは、どの曲も素晴らしかった。どの部屋のテーブルにも、お皿に入ったキャドバリーのチョコレートが置かれているのも感心したけど、何よりも私が心を打たれたのは、彼女がどれほどダッシュを愛しているか、ということだった。生物学的につながっているから、ではなくて、それは彼女が心から彼を受け入れているからでしょう。

私はさっそく、彼女がどんな犬を飼うべきかを考えていた。彼女とその犬をつなぐ手助けができればいいな、と考えていた。彼女の資質に合った、彼女とペアを組むべき犬は、―そうね、人懐っこくて、警戒心が強く、それでいて陽気で、勇敢な犬種といったところね。*Googleで探してみるから、ちょっと待ってて...* 見っけ! ウエスト・ハイランド・ホワイト・テリア、通称ウェスティっていう白い小型犬が彼女にぴったりね。きっと生涯を通じて最高の友になるわ。現実にウェスティが見つかり次第、彼女に引き合わせたいな。

私はロンドンも大好きになった。タクシーでジェムの家からホテルに戻る間、私は流れゆく街の様子を眺めていた。ニューヨークのように人々の活気に満ちてはいたけれど、そこに漂っている空気の質は異なっていた。ニューヨークには生々しく、慌ただしいエネルギーが渦巻いているのに対し、ロンドンには威厳のようなたたずまいがあった。訪問客を喜ばせなくては、という焦りがまるでなく、街全体がこう言っているようだった。私はあなたがたがここを訪れるたびに想像以上の驚きを与えてきました。でもそれは意図したものではなく、私は私なりの、―こうあるべきだという振る舞いをしてきた結果に過ぎません。あなたがたが目を潤ませて、私に感銘を受けようと、そうでなかろうと、私にはどうでもいいことです。あなたがたの評価など気にしていません。

この季節になると毎年クリスマスを最優先に考えてきたけれど、私は生まれて初めてクリスマスを後回しにした。もちろん、クリスマスの飾り付けやワクワク感を楽しんではいたけれど、クリスマス自体は二の次で、イギリスでダッシュと過ごす時間を楽しむことが最優先だった。ダッシュがニューヨークに戻ってきて、ずっとニューヨークで一緒に暮らせればいいな、と望む気持ちと同じくらい、ロンドンの魅力や、彼がここで出会った祖母の魅力も痛烈に感じて、それらを否定することはできなかった。彼にしっくりきていたから。

そのため、私はトゥイッケナムの犬の学校に行くという考えを完全には除外できずにいた。もちろん、ニューヨークのFITに応募することは確実なんだけど、ロンドンの道も捨てきれなかった。12月のホリデーシーズンの数日間だけでは、ダッシュと過ごす時間は十分ではなく、物足りなさが残った。欲張りなのはわかっているけど、もっと長く、クリスマス休暇が終わってもずっと続く魔法をかけてもらいたかった。私は今のこの幸福感にひたっていようと心がけた。なるべく、ダッシュと離ればなれになってしまう未来からは目を背けようとした。―けれど、またあの独りぼっちの日々に戻るのかと思うと、憂鬱な影が忍び寄ってくる。海を隔てて、時差もありすぎるニューヨークの私と、オックスフォードのダッシュ。そんな関係性に今さら戻れる自信はなかった。

とはいえ、私はなる早でニューヨークに戻って仕事に復帰しなければならない。飛行機代に貯金を切り崩してしまったし、豪華なホテル代に散財したのは、完全に予定外だった。

ロンドンという街には見るべきものがたくさんあり、するべきことが山ほどあるようだったけれど、帰国便までにすべてを見て回ることは無理そうだった。でもそれでよかった。なぜなら、私はクラリッジズに泊まっているから。車を降りてホテルのロビーに足を踏み入れた瞬間、先ほど頭をよぎった金銭的な後悔は一気に吹き飛んだ。「お帰りなさいませ、リリー様」と言って迎えてくれた親切なスタッフは、私の名前を覚えていたし、ロビーの特設ステージではジャズのカルテットが美しい音色を響かせている。あちこちから快活な会話が華やぐように聞こえ、美味しそうな料理や飲み物の匂いが鼻をくすぐる。これはほんのひとときのファンタジーに過ぎないことはわかっていたけれど、できる限り長く、この中で楽しんでいたかった。こんな贅沢は、もう二度と味わえないだろうから。

「ずいぶん幸せそうな顔をしてるじゃない。私たち家族はあなたのせいで、みんなしょんぼりムードだっていうのに」スイートルームのドアを開けると、ミセス・バジルが私の顔を見るなり、そう言った。私はあえて返事をせずに、彼女が泊っている「スイートルーム」を観察して回ることにした。まあ、なんということでしょう! ブロードウェイ劇場のチケットにたとえるなら、私のシングルルームは最後尾の隅っこの方、鼻血が出た時みたいにずっと顔を上げてないと舞台が見えない席で、ミセス・バジルの、この宮殿のようなスイートルームは、舞台の真上に突き出ているプライベートのボックス席だった。

「こんな部屋が実際にあるんだ?」と私は彼女に聞きながら、くるりと体を一回転させて、ベッドが二つ置かれた寝室から、リビングルームに向き直った。―待って!―グランドピアノがあるじゃない! 私はすたすたと歩み寄って、ピアノの前に座った。「ホテルの部屋を予約するとき、いつもグランドピアノがある部屋にしてるの?」

ミセス・バジルが言った。「本当はね、フランス皇帝ナポレオンの妻、ウジェニー皇后がよく泊まっていた〈ウジェニー・スイート〉に泊まりたかったんだけど、すでに予約済みだったのよ。もうクリスマスも差し迫っていたから、スイートはこのピアノがある部屋しか空いてなかったの。直前のキャンセルが出たんですって」

「これでも、いつもよりランクダウンした部屋ってこと?」

「ランク的には同じくらいね。この部屋も素晴らしいけど、〈ウジェニー〉の内装の方が私の好みには合ってる。ここのインテリアは、私にはちょっとモダンすぎるわ。でもピアノがあってよかった。マークが来たら弾いてもらおうかしらね」

「すっかり忘れてた。そういえば、彼はピアノをやってたわね」まあ、むしろ忘れていてよかったかも。マークがピアノを弾いている姿を思い出して、なんだか悲しい気分になってしまった。おじいちゃんが『憂鬱なピアノ・エレジー』と呼んでいた、マーラーとか、ショパンとか、―そういう悲しげで、眠気を誘うような曲ばかりをマークは弾いていたし、発表会の観客席でそれを聴いている私は、ピアノがなんだかかわいそう。もっとぱっと明るい、エリントンとか、ガーシュウィンとかの方があなたの性格に合ってるわ、と思っていた。それから、それは私は思ったことではなくて、観客席の私の隣に座っていた母が私に耳打ちしてきた発言だったと思い出した。あの頃の私はむすっと、こじれていたんだった。

ミセス・バジルが言った。「このピアノがきっかけとなって、またマークが真剣にピアノと向き合ってくれればいいんだけど。彼がピアノへの興味をぽいっと投げ捨てるみたいに、やめちゃう未来が見えていれば、私は彼のピアノのレッスン料を払わなかったのに...本なんかに興味が移っちゃうとはね」彼女は汚いものでも吐き捨てるように、本なんかに、と言った。

「あなたは本が好きな人だと思ってたけど」

「私は本が好きよ。でもね、ピアノが弾ければ、みんなで共有できるじゃない。特に私が主催するパーティーでね」

私はピアノから離れて、ソファに座った。「今年の、あなたの家の大クリスマスパーティーは、あなたが取りやめたって聞いたわ」

「私は、あなたがクリスマス自体を取りやめたって聞いたわ」と彼女が返した。「だったら、私には他に選択肢がないじゃない」

「参りました」と、痛いところを突かれた私は言った。

ドアベルが鳴った。「きっとアドウィンよ」彼女はドアを向かって声を上げた。「どうぞ、入って!」

「エドウィンって誰?」と私は小声で言った。こんな夜遅くに女性の部屋を訪ねてくるなんて、いったい誰?

玄関ホールでドアが開く音がした。ミセス・バジルが私に耳打ちしてくる。「エドウィンじゃなくて、アドウィンよ。彼はもともとはガーナ出身で、彼の父もアドウィンで、彼の祖父もアドウィンだし、彼の曾祖父の名前もアドウィンよ」

「だから、誰?

その質問にミセス・バジルが答える前に、アドウィンが部屋に入ってきた。彼の姿を見たら、それ以上の説明は必要なくなった。彼は執事の制服を着ていて、銀色のカートを部屋の中に押し入れた。カートには、氷の入ったシャンパンボトル、シャンパングラス、チョコレートがかかったイチゴの盛り合わせが載っている。

彼はミセス・バジルに頭を下げ、礼儀正しく「マダム」と言った。

「ありがとう、アドウィン。あなたもご一緒にいかが?」

「ご親切にありがとうございます、マダム。ただ、わたくしの子供たちがクリスマスプレゼントを期待しているもので、―」

「あら、なら急がないといけないんじゃない? もうすぐお店も閉まっちゃうわ」とミセス・バジルが彼に言った。

「そうですね。他に何か必要なものはございますか?」

「もう大丈夫よ、ありがとう。明日またあなたにお会いできるのを楽しみにしてるわ。さあ、早く行ってあげて。お子さんが待ってるんでしょ。いいプレゼントが買えるといいわね。たしか、『ハリー・ポッター』が若い人たちの間で人気があるって聞いたわ」

「あなたのお子さんは何歳ですか?」と私は彼に聞いた。

「双子で、4歳でございます」とアドウィンが答えた。

「まだハリーは早いわね」と私は言った。それから、私はまるでダッシュが乗り移ったかのように、つまり、誰よりも本を薦めるのが得意である顔をして、「4歳くらいだと、『スーパーヒーロー・パンツマン』がお薦めよ」と付け加えた。

アドウィンはもう一度私たちに向かって頭を下げ、「そのアドバイス、確かに承りました。おやすみなさいませ」と言って、〈グランドピアノ・スイート〉を後にした。

ちょっと、リリー、と私は自分自身に言った。あなたね、自分が今何を言ったかわかってるの? ビシッとかっこいいスーツで決めたガーナ出身のイギリス人執事に向かって、『スーパーヒーロー・パンツマン』とか口走っちゃったのよ。私はお下品なアメリカ人ですって言ってるようなものじゃない!

「ちょっと待って」と私は、声に出してミセス・バジルに言った。「このスイートルームって...執事まで付いてるの?!」

「彼ってチャーミングでしょ? 彼は5ヶ国語を話せるし、トランプの《ピノクル》の名手で、それにね、完璧なマティーニを作れるのよ。彼の夫は幸せ者よね」彼女は、シャンパンとイチゴが載った銀色のカートに歩み寄った。「こういう時は、シャンパンを飲みながらの方がいいと思ってね」

「それって、私の婚約とか、駆け落ち? に乾杯するため?...っていうか、あなたはいったい何を考えてるのよ? そんなことを私とダッシュに勧めるなんて!

「そんなに声を荒げないでちょうだい、お嬢さん。あなたたちを祝福するとか、そんなんじゃないわ。むしろあなたにはがっかりしてるのよ。こういう難しい話をする時は、上質な発泡酒を飲みながらの方がうまくいくの。会話も喉ごしが大事なのよ」

私は息を呑んだ。胸が張り裂けそうにドキドキしている。目の前で彼女が、大晦日のパーティー用みたいな派手に飾り付けられたシャンパンボトルを開けて、私たちそれぞれのグラスに注いでいる。

「どうして私にがっかりしたの?」と私は、とても肩身が狭い思いで尋ねた。私はシャンパンを一口飲んでみる。口の中にさわやかさが広がって、大粒の泡が幸せそうにはじけ、繊細な線香花火がパチパチと火花を散らすように喉を通って落ちていった。そのシュワシュワ感は、これから私の身に降り注ぐはずの小言の大雨の、しっとりとした素敵な降り始めだった。

「大学に行かないと決めて、それをメールで、家族以外の大学教授にまで宣言したそうじゃない。そんな重要な決断をメールなんかで済ませちゃだめでしょ」

「わかってます」と私はつぶやいた。「ごめんなさい」

「それよ。それもがっかりしたことの二つ目ね。あなたは私ではなく、お母さんに謝るべきです。謝る以前の問題として、お母さんからのメールや電話に出なくちゃだめでしょ。そういうのは、よく言えば、ずぼら。悪く言えば、意固地ね。自分でよくわかってるでしょ」

「わかってます」と私は繰り返した。「ごめんなさい」

「私の大好きな姪っ子があなたのせいで落ち込んじゃってるのよ。感心しないわね」

ちょっ、ちょっと待って。「あなたの大好きな姪っ子って、私じゃないの?」

ミセス・バジルはシャンパンを一口飲んでから、言った。「大好きな姪っ子の一人目が、あなたのお母さんだったのよ。ほら、イチゴを食べなさい」

一人で呼び出しをくらってから、𠮟られることは薄々わかっていたので、あんまり食欲はなかった。けれど、イチゴは完璧な赤色を放ちながら、完璧な形でたたずみ、チョコレートは、完璧なアドウィン自身が溶かしながらイチゴの上にかけたようなつややかさで光っていたので、断るのは失礼な気がして、私は一口かじってみた。断らなくてよかったわ! そう心から思うほどの美味しさが口の中に広がった。

「じゃあ、どうすればいいの?」と私は彼女に尋ねた。

「何をすべきかはわかってるでしょ。謝りなさい。自分の行動に責任を持ちなさい。そうしないと、どうなるかわかるでしょ?」私は首を横に振った。「ダッシュが責められるのよ」

「彼は私の決断に何の関係もありません!」

「だったら両親に、ちゃんとそう説明しなさい。話さなきゃわからないでしょ。あなたが素直に気持ちを伝えないから、はっきりしない態度で親と接してるから、彼らだって不安なのよ。そしたら、クリスマスだっていうのに突然ロンドンへ飛び立っちゃうし、バーナードには行かないって一方的にメールを送り付けてくるし、そりゃあなたの両親だって、あなたにとって唯一の優先事項は、ボーイフレンドなんだなって思うでしょ。彼らはあなたが盲目的にダッシュに従うことを望んでいないのよ」

「なんて侮辱的なことを言うの」

「あなたの両親は今、FoxNewsの視聴者みたいな気持ちなのよ。不安をあおられて、恐怖にさいなまれているの。彼らの気持ちもわかってあげなさい。彼らも若くして結婚したのよ。―若すぎたわね。彼らなりにうまくやってはいたけど、いろいろ浮き沈みもありました。まあ、どんなカップルだって浮き沈みはあるでしょうけど。彼らはようやく棚卸しができる年齢になったのよ。今までの後悔を一つ一つ再確認していて、それで、あなたが同じ過ちを繰り返すんじゃないかって恐れているの。こんなに早い年齢から、一人の人に限定してしまうことで、あなた自身を縛っているんじゃないかって心配なのよ。彼らだけじゃなくて、―あなたのおじいちゃんも、私も同じ意見だけどね、―真剣な交際をするには、あなたはまだ若すぎるわ」

昼間と言ってることが真逆じゃない。まさかあの時、彼女はアフタヌーンティーと見せかけて、すでにお酒を飲んでたの?「ダッシュと私に結婚を勧めてきたのはあなたでしょ!」

「ああ、あれはあなたを煙に巻こうとしたのよ。ダッシュに対するあなたの本心をさぐろうとしたの」

「やっぱり! ダッシュの言った通りだわ」

「彼は頭が良すぎて、いつかそれがあだとなって身を滅ぼしそうね。でも、そうよ。彼が言ってた通り。で、どうなの、リリー。ダッシュに対するあなたの本心は? 彼と結婚するつもりなの?」

「そんなことわかるわけないでしょ? 遠ぉーーーい将来そうなるかもしれないけど、それまでに私にはやり遂げたいことがいっぱいあるの。バーナード女子大に行かないという選択は、ダッシュとは一切関係なく、すべて私一人で決めたことよ」

彼女はうなずいた。「それを聞いて安心したわ」

「ダッシュと私がもっと近くに住めたらいいな、とは思うけど、でもそのことを中心にして、私はこの先どうしたいのか、どうしたくないのか、自分の行動を決めてるわけではありません」私はシャンパンをもう一口飲んだ。ぐっと来た! これって飲めば飲むほど気持ちが大胆になっていくわ。「それと、もう一つ! 真剣な交際をするにはまだ若すぎるって、みんな口をそろえたようにそればっかりで、もううんざりだわ。むしろあなたたちは、私を褒めるべきよ。ダッシュのような人を選んだことをたたえるべきよ。あんなに賢くて、あんなに親切で―」

彼女は私の口を止めるように手を横に振った。「やめて。ダッシュに関する常套句(じょうとうく)はもういいわ。彼の良いところなら、みんな知ってます。でもね、あなたはこの家の子なの。あなたが自立して、もっと広い世界へ飛び立っていくのを見たい気持ちはあります。一人で立派にやっていく姿を、家族みんなで温かく見守りたいのはやまやまなんだけど、あなたはそうする準備ができたんでしょうけどね、私たちはまだそこまで心の準備ができてないの」

2年前、もしもダッシュと出会っていなかったら、私の人生はどうなっていただろう、と考えてみた。今と同じくらいやりがいのある生活を送っていたかもしれないし、今よりもっと家族に守られて、安心した日々を送っていたかもしれない...だけど、こんなに甘い人生にはならなかったでしょうね。彼は私の人生にぽっかり空いた穴を埋めてくれただけではなくて、そこからさらに豊かな、実りをくれたのよ。

彼女が私に何を言わせたいのかわからなかったけど、思いのままに私は言った。「私は彼を愛さずにはいられないの。いったいどうしろっていうの?」

「思いやりを持ちなさい。あなたが家族のぬいぐるみになりたくないのはわかっています。もちろん、そうなる必要もありません。私が言いたいのはね、家族から離れて独立するのなら、その分もっと、あなたの両親やおじいちゃんに優しくしてあげなさいってこと。離れるっていうのはね、あなたが想像してる以上に大変なことなのよ」

私はその大変さを想像できた。彼が夢を追ってオックスフォードへ行ってしまった時の、あのたまらなくつらい痛みは、世界を暗転させた。でも、その道を選んだのは正しかったのよね。

「やってみる」と私は言った。

「あなたはおじいちゃんの世話をするという責任から逃れたくて、バーナードには行きたくないって言ってる、彼らはそう思ってるのよ」

ちょっと面喰ってしまった。そんな風に思われていたなんて。なんだかむかむかしてきた。「それとこれとは全く関係ありません。場所が近いからって勝手に関連づけないで。バーナードには行かなくても、おじいちゃんの老人ホームには、もちろん行きます」

「でも、あなたが検討中って言ってたイギリスの学校にしたらどうするの?」

「あそこは1年間のプログラムだから、長く離れるわけじゃないし、できる限り頻繫に帰ってくるつもりよ」

「イギリスに永住するなんてことは、ないんでしょうね?」

「将来のことはわからないけど、ダッシュのためという意味なら、それもありえるかもしれないわ。でも、他によっぽどの理由がなければ、私はそこまではしないと思います。あのドッグスクールが提供している重点研究領域に、〈セラピーアニマルとの付き合い方〉っていうのがあって、私はそのスキルをニューヨークに持ち帰って、おじいちゃんの老人ホームでそれを活かしたいと思ってるの」

「面白いことを考えてるのね」シャンパンを一口すすって、イチゴをひと噛み。「私はまだ認めたわけじゃないけど、あなたは自分がやるべきだと思ったことをやろうとしてるわけね」

「そして、私はいつまでもあなたの大好きな姪っ子のままよ。私がどの道を選ぼうとね」

彼女がグラスを置いた。「もう行っていいわ。自分の部屋に戻って、もう一人の私の大好きな姪っ子に電話しなさい。わだかまりを解消するのよ。クリスマスのキャンセルを撤回しなさい!」


「ごめんなさい」と、私はママに言った。自分の部屋に戻ってきていた。ミセス・バジルの〈グランドピアノ・スイート〉に比べれば、星が一つしか付かない、まがいものの部屋にしか見えないけれど、私はここが気に入っていた。ここは私のものであり、私だけの空間だった。私が自分で稼いだお金で取った部屋だし、この豪華で狭苦しい小屋が私のお気に入りだった。

ビデオ通話の画面は鮮明ではなかったけれど、それでも彼女の疲れきった表情を見て取れるくらい、―彼女は疲弊していた。もう何日も寝ていないような、泣きながら、せっかく作ったクリスマスクッキーを全部一人で食べてしまったような、目を真っ赤に腫らした、腫れぼったい顔をしている。背景にはリビングが見えた。感謝祭の後に私も一緒に飾り付けをしたはずのクリスマス飾りが、すっかり取り外されていた。私は付け加えた。「私の対応がまずかったわ」

「そう思ってくれたのね?」とママは言った。画面越しに、ほんのわずかだけど、彼女の表情がふっとほころんだのが見て取れた。「バーナードに行きたくないのなら、どうして応募したの?」

「この際正直に言うけど、去年はまだ、大学に行くとか行かないとか、全く何も決断できていなかったの。バーナードに応募したのは、どうせ受からないだろうと思ったから。ただそれだけの理由よ」私の学校の成績やテストの点数は、それなりに良かったんだけど、バーナード女子大の合格者の平均点には届いていなかったから、願書を出しても、はじかれるのではないか、というのが私の計算だった。しかしなぜか受け入れられてしまった。誤算が生じた理由は、私の母親が卒業生だからという、いわゆるレガシー制度のゆえか、あるいは、願書と一緒に提出したエッセイを、編集能力の高いダッシュに添削してもらって、完璧に仕上げてもらったからか、どちらかでしょう。

「なぜ、それをもっと早く言わなかったの?」

「あなたをがっかりさせたくなかったから」

「今ごろ打ち明けられたほうがよっぽどがっかりよ。当然入学するものだと期待させておいて、実は入学するつもりはありませんでした、なんて」

「入学するつもりはあったのよ」

ママの顔に若干笑みが浮かんだ。「本当に?」

「なんていうか、理論的には、そうなるわね。あなたが私をどうしてもバーナードに入れたいっていうのはわかってたから、あなたのその野望を叶えてあげたかったし、あなたが通った道を私もたどろうって自分に言い聞かせてた。それに、おじいちゃんにも頻繁に会いに行けるしって。でも、なんだか自分の中でしっくり来なかったのよね」

「それで、あなたは何にしっくり来たの?」

「今はまだ、これっていう答えにはたどり着いていないけど、たぶんそれは、私が望んでいたことで、あなたにどう伝えればいいのかわからなかったことだと思う。私はそれを、自分なりのペースで、自分のやり方で見つけ出せる自由がほしかったのよ」

「そうなのね、わかったわ。もっと早く言ってほしかったというのはあるけど、でもあなたの気持ちがわかってよかったわ」

「驚かないで聞いて。こっちに、イギリスにドッグスクールがあって、そこに行こうかなって考えてるの」

「それは絶対にダメ」

「ママ」と言って、そこで私はひと呼吸、間を空けた。ドラマチックな演出のためではなく、勇気を振り絞ったのだ。「それは私が決めることです。あなたが決めることじゃないわ」

彼女がびっくりして目を見開いた。次の瞬間には、彼女の頬に涙が伝い、彼女が手でそれを拭った。「手厳しいことを言うのね、リリー」

「でも、その決断をする手助けをしてほしいのよ」と私は付け加えた。「家に帰ったら、もっと詳しく話すから。そのドッグスクールに行くことが素晴らしい機会になるかもしれないってあなたもわかってくれると思う」

「ダッシュのそばにいるため?」

「それはただのおまけに過ぎないわ。それが理由じゃない」私は大きく息を吸ってから、言った。「お母さん、私は彼を愛しています。あなたのもとを離れる心の準備もできています。あなたはまだ、子供を手放す準備ができていないみたいだけど、もうそういう時期なのよ。彼はもう私の人生の大部分を占めていて、それだけじゃなくて、彼は私の人生の最高の部分なの」私は去年のクリスマスの時期を思い出していた。私はあの頃、不安定極まりなくて、取り乱していた。ダッシュとの関係を見失っていて、私たちがどこに立っているのかわからなくて、彼が私と同じ気持ちを抱いてくれているのか不安で、疑心暗鬼になっていた。それから1年経って、今は世界がすっかり変わった。見渡す限り視界が開け、関係の中に強固な芯を築けた感じがするし、自分自身の中にも自信が湧いてきて、かつてないほど充実している。ダッシュがくれたんじゃなくて、私がつかんだ自信だった。自分の道を進もうと決めたから(できるだけ多くの犬がいる道をね)。

「気持ちはわかるわ、リリー。パパと私はね、あなたがそんな風にダッシュに心酔する前に、まずはあなただけの力で親離れしてほしいと思っているのよ」

「もう遅いわ。私の心は彼に向かって、もう彼の島に着地しちゃったから、もうどこへも行かないわ」

ゆっくりと、彼女の目から大粒の涙があふれ出した。「わかったわ」とママが、しばしの沈黙のあと、泣きじゃくりながら、涙と一緒にこぼすように言った。

良い知らせを告げるタイミングが来たと思い、私は言った。「FITにも応募しようと思ってるの」

彼女の表情がぱっと明るさを取り戻し、彼女はティッシュで涙を拭い始めた。「FITって、ここニューヨークの? 本気?」

「そうよ。私はデザインに興味があるの。それから起業家としての心構えにも。両方とも私に向いてるかもしれないわね?」

「犬以外のことじゃない! あなたの口から犬以外のことが聞けて、私がどれだけほっとしたか、あなたはわからないでしょうね」実はわかるのよ、と私は思った。リハーサルが功を奏したわ。ありがとう、ダッシュ。

「ところで、私の愛犬はどこ?」ママがカメラを足元に向けると、ボリスがママの足に頭をくっつけて、眠っていた。私は目を疑った。ママがダッシュを私のボーイフレンドとしてどうにか「許容」してくれたとしても、私の巨大な愛犬だけはずっと「毛嫌い」したままだと(ママ自身が肌に合わないのよ、と言っていたし)、思っていた。

「私たちはあなたを待ってるのよ」ママはそう言って、カメラを彼女の、疲れてはいても愛らしい顔に戻した。

「ママ、愛してるわ」

「私もよ、リリー。とにかく、大きな決断をする前に、まずはもっとよく話し合いましょう。それでいいわね?」

「はい。クリスマスのキャンセルは撤回します」と私は言った。

「わかったわ。早く帰ってきてちょうだい!」


翌朝、目覚めた私は、昨日みたいに紫のパジャマを着たダッシュが目の前に立っていればいいのに、と思った。そして、今日はクリスマスイブだと思い出した。それだけではなくて、今日はダッシュにとって、とても重大な日になるはずだった。彼は自分の身を本に囲まれて暮らしていく将来に投じようとしている。今日はそのための最初の大きな一歩となる面接の日だ。相手はたしか、シンジン・ブレーキーとか聞こえたけど、初めて聞く名前の人だった。ともかく、ダッシュの未来への扉が今日開かれるのかと思うと、私もドキドキしてきた。それから、今頃彼は、アドベントカレンダーの最後の扉も開けて、私が彼に贈ったプレゼントを見てくれたかしら、と想像した。ダッシュは本に囲まれたがっているでしょ? だから、そういうプレゼントにしたの。

最後のプレゼントはUSBメモリーだった。中にはたくさんの写真が入っている。10月下旬に兄と日帰りでハドソン渓谷に紅葉狩りに行った時の写真で、紅や黄色に色づいた紅葉の写真も入っているけど、それがメインではなかった。私たちはニューヨークの北部、ヒルズデールにある〈ロジャース・ブック・バーン〉という素晴らしい本屋に行った。そこは田舎の古い家を改築したもので、どの部屋の中も、そして庭に置かれた書棚も、本、本、本、本、本で溢れていた。そんな中でラングストンが私の写真を撮ってくれた。金色、黄色、赤の葉っぱに覆われた木の下で、ダッシュのお気に入りの本を腕いっぱいに抱えている私や、〈ブックバーン〉のあちこちにある読書スペースで本を片手にポーズを決める私の写真が収まっている。

私は目を開けた。あいにく今朝は、紫のパジャマを着て窓辺に立っているダッシュの姿は見当たらない。幸いにも昨日撮った写真がスマホの中にあったので、昨日のダッシュのパジャマ姿を見て気分を紛らすことにした。それを眺めてほくそ笑んでいたら、ちょうどダッシュからメールが届いた。

今、君からの最後のアドベントプレゼントを開けたところだよ。すっごーーーーーくたくさんの本だね。

そのあとに彼は感激の言葉や感謝の言葉を打ってくると思い、待った。

何もない。

それで? と、しびれを切らした私は打ってみた。

僕はパニック発作を起こしたみたいなんだ、と彼が答えた。




16

ダッシュ


12月24日

クリスマスイブは朝からドタバタしていた。「何を着て行けばいいのかわからないよー!」と、僕はジェムの家中に響き渡る大声を上げた。

こんなことは、普段の僕だったらそうそう口にするセリフではない。僕にとって衣服というものは、それ相応の体の部分、たとえばズボンだったら足、上着だったら上半身を覆ってさえいれば、特段どれだろうとお構いなしだった。

しかし、面接となると? 相手はセント・ジョン・ブレークモア...通称SJBとして知られ...ニューヨークで最も力のある文芸編集者の一人であり...(なぜか)ジェムの友人の「ブレーキー」でもある人との面接ともなると?

ジェムが僕の部屋に入ってきた。

「あらまあ、あなたのお父さんにそっくりだわ!」と彼女が僕を見て声を上げた。

僕が思わず一歩後ずさると、僕のがっかりした気持ちが伝わったようで、彼女はすぐに訂正した。「高校生の時のお父さんにって意味よ。今みたいな...あんな風になる前の若かりしお父さん」

高校生の父と言われても、なかなかその姿を思い浮かべることは難しかった。彼は今まで一度たりとも、かつて自分は若かった、という片りんを示すことはなかったから。

一方、ジェムは今まで積み重ねてきた年輪のようなものを幾重(いくえ)にも身にまとっていた。若かりし頃の彼女も、今の彼女からうっすらと見て取れた。

「ていうか、何を着ればいいの?」と僕は彼女に聞いた。

ジェムが微笑んだ。「あなたが似合うと思うものなら何でもいいわよ。あまり堅苦しくならない方がいいわね。あなたらしさを心がけて。ブレーキーが見たいのはそこなのよ。これだけは覚えておいて。この面接は洋服ではなく、言葉で決まるのよ。あなたの発言」

ジェムが予め見繕って中央にかけておいてくれた、しゃれた洋服をわきにどけて、僕はいつものお気に入りのセーターの中から適当に一つを手に取った。

僕はありのままの自分で勝負しようと決めた。それで失敗してもいいや、と思った。他の誰かが望むような自分を演出して、こういう感じが望まれているんだろうな、と取り繕っても、そんな偽(いつわ)りの自分に価値などないから。


人生が変わる時というのは、まさにその変わり目に立っているさなかには、その大きな変化に気づかないことがほとんどなんだ。僕は両親が離婚する前、最後に家族三人で出かけた時のことを覚えていない。それが最後になるなんて思いもしなかったから。ストランド書店の棚でキラリと目に留まった赤いノートを見つけた時には、それがリリーにつながるとは思わなかったし、ポストに入っていた〈オックスフォード〉と胸に記(しる)されたトレーナーが、僕の学業面での大いなる勘違いにつながるなんて、その時は想像もできなかった。

でも、たまに、ごくたまにだけど、未来との約束を感じる瞬間がある。運命は、見えない風であることをやめ、行く先を示す飛行経路の形をとる。

ブレークモアのタウンハウスの玄関前に立っている時が、僕にとってその瞬間だった。玄関横についている電子的なドアベルを鳴らすか、それとも、玄関扉の中央についている昔ながらの金属製ドアノッカーを使うか決める時、未来へ通じる飛行経路が見えた気がしたのだ。

僕はドアノッカーをつかんで、ドアを叩いた。

木製の扉の向こうから聞こえてきた足音は、僕の鼓動よりもずっとゆっくりしたものだった。だんだんと足音が近づき、そして扉が開いた。僕は対面した顔を見て...

イアン卿(きょう)?

「おお」彼も同様に、僕を見て驚いている様子だった。「君じゃないか!」それから彼は僕に向かって、親しみのこもった笑顔を見せた。「なるほどね。ある意味では完璧に筋が通ってる。SJBおじさんがクリスマスを中断してまで会いたいなんて、そんな男は、君くらいしかいないよな?」

彼は僕を家の中に招き入れ、コートを預かるよ、と手を差し出してきた。彼にコートを手渡しながら、僕は聞いた。「君は彼のことをSJBおじさんって呼んでるの?」

「そうとも、サリンジャーくん」とイアン卿は答えた。「だがな、そう呼んでるのは俺だけだ。君が彼をそう呼ぶのはお勧めしない」

恐ろしいことに、発作が再び始まってしまった。頭蓋骨の壁が四方からぎゅっと脳を押しつけてくる。思考がめまいを起こし、異常をきたしたかのように、言葉が出てこなくなりそうだった。

イアン卿が僕の肩にそっと手を乗せた。

「ほら、深呼吸するんだ」と彼は言った。

僕はうなずき、深く息を吸い込む。

イアン卿は続けた。「いいか、SJBおじさんなんて呼ぶんじゃないぞ...ただ、気持ちはSJBおじさんだと思いながら話すんだ。どうせ君はおじさんを、王室に編集者として仕える騎士のような威厳ある存在だとイメージしてるんだろ。全然そんなことなくてな、彼はこの家のお風呂場の湯船の横に、アヒルのおもちゃを置いてるんだ。それから彼はチョコレートアレルギーにもかかわらず、すぐにチョコレートを食べちゃうんだよ。彼は現代を代表する偉大な作家たちを世に送り出してきたけど、同時に、現代を代表することになったはずの偉大な作家たちを世に送り出しそこねてもきたんだ。彼は初恋の人を失った。いまだに未練があるみたいだな。彼女はある動物学者と恋に落ち、彼のもとを去ったんだ。彼は毎朝、朝食にヨーグルトを食べる。自分にご褒美をあげたい朝には、ヨーグルトにベリー類を入れることもある」

「どうしてそんな話を僕に?」

「彼は人間だということを思い出させるためだよ。それから、君が動物学の話を持ち出さないようにするため」

「ありがとう」

「オックスフォードの脱走仲間が、進みたい業界に入ろうっていうんだから、助言でも何でもするさ。さあ、こっち。―彼は応接間にいると思うよ」

廊下を数歩ほど進んだ先に、玄関と同じくらい古そうな木製の扉があった。

「さあ、どうぞ」とイアン卿が言って、華麗に扉を開ける。

僕はもう一度深く息を吸い込んだ。

この扉の向こうに未来があるんだ。

僕は中に足を踏み入れた。一瞬、イアン卿もついてくるのかと思ったけれど、彼は「幸運を祈る」と言うと、僕にウインクし、扉から手を放すことなく、僕の背中で豪快に扉を閉めてしまった。戸惑う僕の目の前には、白髪(しらが)が大半を占めた黒髪の男がいた。彼は肘掛け椅子から立ち上がると、僕に向かって、歯を見せてにっこりとほほ笑んだ。

「おお、ようこそ!」ニューヨークで最も名高い文芸編集者が、きついロンドン訛りで声高らかに言った。「君が伝説のアメリカ人のお孫さんか!」

そして、すっかりうろたえてしまった僕は、つい「SJBおじさん!」と返してしまった。

恥ずかしさでカッと顔が熱くなり、プールに飛び込みたい気分だったけれど、彼は笑って僕の手を握りしめた。

「私は彼女をジェマと呼んでいてな、私たちは親戚以上に親密な関係なんだ。ロンドンで一緒に暮らしていた時期もあるからな。『私たちは人生を入れ替えちゃったのね』って彼女もたまにジョークを言うよ。私がマンハッタンに行き、逆に彼女はロンドンで名を馳せることになったんだからな。まあ、座ってくれ」

彼は肘掛け椅子の向かいにある横長のソファを指差した。僕は最大限の優雅さでソファに腰を下ろそうとしたのだが、ソファが予想に反して柔らかく、僕は慌てふためきながら沈み込むように背もたれに背中をつけた。もっとさりげなく背もたれに身を落ち着けたかったのに。

SJBは、肘掛け椅子の肘掛けに腕を乗せると、すぐに面接を開始した。「さて、ここからが本題だが」と彼は言った。「ジェマは今の君がどんな状況にいるのか説明してくれた。私も君の状況には同情している。君がオックスフォードで、うちの甥っ子とどの程度親しかったのかは知らんが、最近うちの家族にも同じような問題が襲い掛かってきたよ。あいつは勝手気ままなやつだからな。それでも私は終始変わらず弁護する側なんだ。追求する検察側ではなくね。私は自分の身だって弁護する。もし聞かれれば、私はいつだって同じことを言うさ。私はこの国を追われ、致し方なく海を渡ったんだ、とね。―実際は、脱獄同然に逃げ出したんだけどな。当時のこの国の女王になんら恨みはないが、彼女と私は決して相容れなかった、ということだな。そこでだ、まず言っておくが、私は女王とか、そういう後ろ盾(だて)に気を遣うのが好きじゃないんだ。君でいうと、ジェマのことだ。君はジェマの推薦でここまで、入口までは来た。ただ、だからといって扉は自動で開くわけじゃないんだよ。彼女には数えきれないくらいの恩義がある。しかし、私はこの道のプロでね、プロとしての信念をねじ曲げるほどの恩義は、誰にも負っていない。それはわかるか?」

僕はうなずいた。

「よし。じゃあ教えてくれ。―君はなぜここにいる?」

僕は自分の心臓が早鐘(はやがね)を打つのを感じた。彼の耳にも届きそうなくらい、大きな鼓動だったが、彼は平然と僕を見つめている。それはとてもシンプルな質問だった。それなのに、シンプルな答えはどこにも見当たらなかった。

心の中心から話そう、そう決めた。

「僕は本が好きなんです」と僕は言った。

ここで黙るわけにはいかない。こんなんじゃ全然足りない。

「昔からずっと本が好きだったんです」僕は続けた。「そしてこれからも、本を愛し続けることになると全身全霊で感じています。そして僕は今、非常に恵まれた環境にいて、自分が何を愛しているのかを自分自身に問いかけることができています。自分が愛しているものとともに歩む未来を作れるかどうかを自分に問うことができる稀有(けう)な特権を与えられているのです。オックスフォードに入ったとき、僕がやりたかったことは、本を研究し、蝶の採集家のように、それぞれのページを掲示板にピンで貼り付け、それぞれの羽の模様を分析することだと思っていました。しかし僕は、―それは違うと気づいたんです。その場にぴったりハマる言葉を見つけた瞬間の快感は、それはそれは格別ですが、ただ一方で、僕の将来は作家になることではないな、とも感じています。クリエイターでも科学者でもありません。あえて言うなら、僕は羊飼いになりたいんです。本のことを十二分に心得ていて、作家の頭の中から出てきたままの状態よりもさらに良くしようと、無数の言葉を統率し、全体として魅力溢れる一冊の本に仕上げる手助けができる、羊飼いのような存在になりたいんです。なぜなら、僕が『本を愛しているんです』と言うとき、『僕は本の読者です』と宣言しているのと同じだからです。博識の文学者ぶった態度は、この際すべてボイルして水蒸気にしてしまいます。そうして僕の中に残るのは、面白がりながらページをめくる読者の姿だけです。時にはページに書かれていることに、うんうんと頷きながら啓発され、言葉がページ上でできることの無限の可能性に、ただただ放心状態になることもあります。それが、僕がここにいる理由です。なぜなら、僕は今まで一度たりとも、同じ気持ちを抱いている人と出会ったことがなかったからです。そして今、あなたが私の向かい側に座っています。率直に言って、恐ろしい気持ちでいっぱいです」

SJBは椅子の背もたれにぐっと寄りかかると、恐ろしく長い時間、僕をじっと見つめ続けた。あるいは、それはほんの1、2秒だったのかもしれないけど。

ついに彼の口が動いた。「最近君が読んだ本の中で、これはみんなが読むべきだ、と思った本について聞かせてくれ。考えすぎないで。―最初に頭に浮かんだ考えこそ、最高の考えだ」

「デボラ・ワイルズの『ケント州』という本があるんですけど、―もうお読みになりましたか?」

彼は首を横に振った。

「でも、ケント州立大学の事件のことはご存知ですよね?」

「ベトナム戦争反対集会のさなか、州兵が学生に向かって発砲し、4人のアメリカ人学生が殺された事件だったか、あれは1970年だったかな? 」

「その通りです。半年ほど前、僕が高校を卒業する時に、国語のキャメロン・ライアン先生が薦めてくれた本です。卒業後、オックスフォードで新たな生活が始まる秋までの長い夏休みに『これくらいは読んでおきなさい』って、ずらっと本の題名が並んだ紙を彼女が僕に手渡してくれて、そのリストの一番上に書かれていたのが、『ケント州』でした。この本はフィクションではなく、かといってノンフィクションでもなく、―さまざまな立場の人が、それぞれの視点から当時の事件を物語っています。その時何が起きたのかを多角的に知れるようになっている本です。あなたもおっしゃったように、事件の概要は有名ですから、4人の学生が亡くなることは最初からわかっています。しかし、結末がわかっているにもかかわらず、読み進めるにつれて、そうならないでほしい、と心から願うようになるんです。でもそうなることは目に見えてるから、ますます絶望感でいっぱいになります。なぜなら、この4人の学生は、大人のせいで、アメリカに根強く残る敵対心と不義のせいで死んだのだと気づくからです。彼らは今の僕とほぼ同じ年齢でした。ですよね? その場にいた学生の中にはキャンパスを歩いて教室に向かっていた人もいました。そんな中へ、自分たちの軍隊が、学生を守るべき任務にあるはずの州兵が、発砲したのです。もう壊滅的ですよね。そして、州兵の中には、学生たちと同年代の若者たちもいました。この本を読めば、彼らも、みんな追い詰められていたことがわかるでしょう。読者として、彼らと一緒にそこに閉じ込められてしまう。そんな経験ができるのは、素晴らしい本の証しですよね? 読者をその中へぐっと引きずり込んで、何か重要なことを身をもって感じさせるのです。自分自身について、社会について、理想的にはその両方について、体感として考えさせるのです。僕もこれを読んでたくさん考えました。特に彼らが僕と同年代だったということの意味を考えました。そして、僕のこの年齢で時間が止まってしまうことについて考えました。それがいかに間違っているか。本当にこの本は読んでみるべきです」

「読んでみるよ」とSJBは言った。「初日にその本を持ってきてくれ」

「初日?」

「インターンの初日だよ。私に付いてもらう」

「待ってください。―これで面接はすべて終了ですか?」

SJBが再び微笑んだ。「ああ、これですべてだ。編集職の面接では、この二つの質問だけをすればことは足りる。オフィスで面接するときは、人事部の連中も横にいる手前、他の質問もいくつかして体裁(ていさい)を整えるが、結局のところ、自分がここにいる理由を正しく認識し、それを的確に伝えられるかどうか、そして、自分と本をつなぐ方法を知っていて、そのつながりを他の誰かに広げる方法を知っているか、―私が知りたいのはそれだけだ」

「なるほど」と僕は言った。「というか、ありがとうございます。どうもありがとうございました」

「それで、君はクリスマス休暇が終わったらニューヨークに帰るのか? 私は1月の第1週は、まるまる1週間ニューヨークにいる。じゃあ、その週の金曜日に私を訪ねて来れるか? その時に、勤務曜日などを決めようじゃないか」

僕はそれについて考える必要性を感じなかった。

「それで全く問題ありません」と僕は言った。

なぜなら、彼は質問として尋ねているようでありながら、僕には答えを突き付けられていると感じたからだ。僕はニューヨークに帰ろうと本気で思った。ニューヨークで、インターンとして彼のもとで働き始めようと思っていた。フルタイムではなさそうだし、給料は、少しはもらえるかもしれないけど、大した額ではないだろう。でも、必要であれば他の仕事も掛け持ちするつもりだった。また母との生活に戻ろう。そして、オックスフォードを中退して、―コロンビア大学か、ニューヨークの僕を受け入れてくれる大学に編入しよう。

またリリーと同じ街で暮らすんだ。リリーと二人で一緒に生活していくんだ。二人で一つの人生を築くための最初のステップになる。

それは正しい道だと思った。すべてが正しく感じられた。

それから、SJBと僕はさらに話をした。―彼は僕にジェムのことや、僕のロンドンでの暮らしぶりについて聞き、僕は彼に今携わっている仕事のことや、彼の家族はクリスマスイブをどう過ごす予定なのかを聞いた。仕事は得られた(っぽい? よね?)とはいえ、それでも僕は好印象を与えようと必死に喋った。頭がフル回転しすぎて、そのうちに、エンストを起こしたかのように減速したプロペラは空回りを始め、埃(ほこり)のような、どこにも着地しない言葉をまき散らすだけになってしまった。

ようやく、SJBが肘掛け椅子から立ち上がって、「私はクリスマスギフトの包装を終わらせなきゃならん」と言った。その発言は僕にとって、まさしくギフトだった。神経を張り詰めすぎて、うまくキャッチできなくなっていた彼の言葉からかろうじて、ギフトという単語だけが僕の頭に舞い降りてきた。

そういえば、どういうわけか、僕はまだ誰にもクリスマスギフトを買っていなかった。

SJBにうながされて、僕も廊下に出た。応接間の扉が開く音を聞きつけたようで、すぐにイアン卿が、僕のコートを持って出て来た。SJBが、詳しくはジェムにメールしておく、と言った。「私のアシスタントの連絡先もメールに書いておく。彼女がすべての段取りを整えてくれる」そう言うと、彼はもう一度僕の手を握りしめてから、2階に上がっていった。

イアン卿が片方の眉をつり上げた。「こりゃ驚いたな、サリンジャーくん」と彼は言った。「やったみたいじゃないか」

「やったよ」と僕は、自分でも信じられない、という気持ちを隠そうともせずに言った。「本当に手に入れたんだと思う」

「俺の場合、ヘンリー王子とメーガン夫人みたいなものだな。彼を通してインターンシップを手に入れようと思ったら、正式にこの家族と縁を切らなければならない...こんなに素晴らしい俺がそいつを手に入れられないのは、だからさ」

「で、君はどうするの?」と僕は聞いた。「オックスフォードには戻らないみたいだけど」

「まあ、俺の目の前に死神でも現れて、強引に腕を引っ張られない限り、俺がオックスフォードに戻ることはないだろうな。代替案としては、ロンドンの地理や歴史を勉強する。―ロンドンでタクシードライバーになるためには、専門のテストがあって、この街のすべてを知り尽くしているかを試されるんだ。べつにタクシードライバーになりたいわけじゃないけど、テストには合格したって言いたいじゃないか。あるいは、他の大学に編入して、もっと学ぶっていう選択肢も考えてる。とりあえずそれまでの間は、フォイルズ書店の情けにすがって、書店員として働かせてもらうよ。あそこは親切というか、慈悲深いというか、こんな俺を受け入れてくれたんだ。これで俺も、一応は出版業界に身を置いてるって言えるかもしれないな。親族のコネは使ってないぜ」

「あのさ」と僕は彼に言った。「親族に本を宝物のように扱う人がいるっていうのは貴重だから、もっと感謝した方がいいよ。僕の母は基本的には本好きなんだけど、なにせ忙しくてね、本を読む時間がないんだ。僕の父は、本のタイトルにという言葉が入っている場合のみ、それこそを見つけたみたいにさっと手を伸ばして、その本を棚から引き抜くんだ」

「そいつは考えただけでぞっとするな」

「父は僕を気味悪がって、僕は父を気味悪がってる...素晴らしい関係だよ」

「信じられないかもしれないが、俺の父親も似たり寄ったりなんだ。でも、なぜか父以外の家族がその穴埋めをするみたいに、本好きなんだよな」

「穴埋めか」と僕は、ジェムを思い浮かべながら言った。「うちの家族も、そういうところあるよ」

イアン卿が僕のコートを差し出してきた。「君をさっさと追い払おうってわけじゃない」と彼は言った。「もう少しここにいたいのなら、エッグノッグでも飲むか? すぐに俺が美味しいのを入れてやる」

「遠慮しとくよ」と僕は答えた。「もう行かなくちゃ。お店が閉まる前に、いくつかプレゼントを買わなきゃだから」

イアン卿が腕時計を見て、「今日はどこも早い時間で閉まっちゃうだろ?」と言った。

僕は肩をすくめた。「まあね、今日はイブだし」

イアン卿は、来年どこかのタイミングで時間を作って、必ずニューヨークを訪れるから、俺たちの道が再び交差することを願ってる、と言った。僕もそう願ってる、と返した。

「ありがとう」と僕は言った。「面接の前に廊下で深呼吸をするように言ってくれて。それから、この間の夜のことも」

「自分以外の誰かにとって、必要とされてるタイミングで、最適な相手になれることは、俺たちができる最高の奉仕さ」と言うと、イアン卿はお辞儀をした。「さあ、プレゼントを買いに行け」

路上に戻ってすぐに、僕はスマホをチェックした。プレゼントを買う時間は、2、3時間しか残されていなかった。リリーの。ジェムの。それからママのも。ママはまだ知らないけど、クリスマス中に帰れそうだから。ミセス・バジルのも買おう。僕はそれぞれのプレゼントがみんなにとって、特別なものになることを願った。とっても特別なものになってほしい。単にクリスマスを記念するものじゃなくて、次の章へのスタート記念だ。オックスフォードの章は、あっけなく終わっちゃったな。

でも、次の章は?

始まる前から、もっとずっと長くなりそうな予感に満ちていた。


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〈タイムテーブル〉

12月23日(クラリッジズ・ホテル→劇場→クラリッジズの談話室→地下鉄→ジェムの家→クラリッジズ・ホテル)

朝起きて、極上のコーヒーを飲んで、ジャム付きの焼き菓子を食べて...


午前中、何があったのか知りたい!!

藍はうぶだから、書いてくれなきゃわかんない!笑

明らかに、この空白時間以降、(藍の頭の中の)リリーの表情がほがらかになった♡♡爆笑


昼過ぎ、演劇を観て、

3時半~、ミセス・バジルとアフタヌーンティー

地下道でカーリー似の歌手の歌を聴いて、

ジェムの家で...


ホテルへ戻るタクシーの中で、リリーがロンドンという街から受けた印象は、「べつにあなたがたの評価など気にしていません」だった。

これは藍が愛読している『嫌われる勇気』にも通じるものがあって、藍の到達したい(いまだに到達できていない)境地でもある。「あの人に悪口を言われたらどうしよう」「みんなに悪く思われたらどうしよう」ではなく、そもそも気にしない。(そんな思考にしばられて生きるのって窮屈だよね。by『嫌われる勇気』)


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17

リリー


12月24日

今、私は欲しいものをすべて手に入れた気分だった。目の前にどっと大量のクリスマスプレゼントが降ってきたみたい。

ダッシュが面接に行っている間、私はトゥイッケナム郊外にあるレスキューセンターに出向き、今、ドッグランの真ん中に立っている。犬たちは男の子も女の子も、みんなとってもいい子たちで、青空の下、気持ちよさそうに口を開け、白い息を吐きながら走り回っている。思う存分走った後は、彼らは犬舎に戻り、きっと将来暮らすことになる温かい家庭を夢見て眠るのだろう。彼らはすべてミックス犬ではあったが、それぞれの特徴を観察してみると、スタッフィーの血が強い犬が2匹、ビーグル色が強い犬が1匹、テリア系が4匹、シャー・ペイが1匹、それから、お目当てのウエスト・ハイランド・ホワイト・テリアが1匹。この白い小型犬がジェムに合うんじゃないかと思って、私は会いに来たのよ。そして、黒のウィペットとラブラドールのミックス犬が1匹いた。この犬が私に近寄ってきた。

「彼女はあなたを気に入ったみたいね」とジェーン・ダグラスが私に言った。―すらっと背が高くて、神々しいほどに可愛い、黒の短毛犬だった。首からお腹の上部にかけて太くて白いストライプが入っている。彼女は私の足元にまとわりつきながら、くりっとした茶色の瞳をうるうるさせて、私を見上げてくる。

ていうか、どの犬もみんな私のことが好きなのよ」と言いたいところだったけれど、石のように無表情な顔をして立っているジェーン・ダグラスは、アメリカ人がおふざけで自画自賛しても笑ってくれない気がしたから、やめておいた。ただ、他の犬たちはフリスビーや鳥を猛烈に追いかけたり、犬同士で追いかけっこをしている中で、このウィペドール(ウィペットとラブラドールのミックス犬)だけが、私の足首に体を押し付けて甘えてくる。「彼女の名前は?」と私は聞いてみた。

「アスタよ。彼女はもう1年以上ここにいるけど、まだもらい手がつかないの。彼女は良い子なんだけど、ひどくシャイでね。『私のことを好きになって』っていうアピールをしないから、他の犬にどんどん先を越されちゃうのよ」

「何歳ですか?」

「8歳くらいだと思う。彼女はとても賢くて、穏やかで、他の犬とも仲良くできるけど、仲間との友好を深めようとするタイプじゃないわね。他のペットがいない家庭が一番合ってるでしょうね。この子は少し心配性だから、辛抱強くこの子と向き合ってくれる人、できれば仕事で長時間家を空けない人がいいわね。彼女は一冊の本と飼い主がそばにいてくれるだけでいいのよ。―誰かいないかしらね。あなた、思い当たる人がいる?」

「私のボーイフレンドのおばあちゃん。彼女はロンドンに住んでいて、その条件をすべて満たしています。―それに、彼女は本も好きよ、彼女の孫みたいに」ジェムがアスタの飼い主にぴったりだと思った。冬の寒さに凍えそうな私の足首の骨が、この犬の温かな心を感じ取り、そう思った。

私は微笑んだけど、ジェーン・ダグラスの表情は厳しいままだった。「まさかとは思うけど、クリスマスプレゼントとして犬を贈ろうなんて考えていなかったでしょうね」

「それはないわ!」私はそんなことを考えていたかもしれないと思われただけで、不愉快だった。ペットが新しい家庭環境に適応するためには、時間と愛情、それからたっぷりと気をかけてあげながら、慣らしていく必要があるのよ。クリスマスは、あれやこれやと最も気が散る日だから、じっくりとした関係を築くには、1年で最悪の日だった。「アスタの動画を撮って、ジェムに、―あ、ボーイフレンドの祖母の名前ですけど、―休み明けにでもアスタに会いに来てもらうように話してみます。その時まで、アスタはまだここにいると思いますか?」

「きっと大丈夫よ。それで、どうなの? リリー。次の学期からPCFIに入るかどうか、もう決めた? あなたの席に座りたくて仕方ない他の候補者たちが、私からの連絡を手ぐすね引いて待ってるのよ。あなたが席を譲るというのなら、すぐに埋まってしまうでしょうね。決断の期限は、あと2週間といったところね。そういう人気の業界なのよ、わかるでしょ?」

わかってはいた。PCFIが提供してくれる種類の教育を受けたいとは思った。だけど、家族には、ボーイフレンドありきで進路を決めるわけじゃない、みたいなことを言っちゃったけど、実際のところ、ダッシュがイギリスにいないのなら、私はPCFIには入らないだろうな、と思っていた。それに、こうしてドッグランではしゃぎ回る犬たちを見ていると、ニューヨークで私を待ってくれているたくさんの犬たちのことが愛しく思え、彼らと離ればなれになることを考えるとつらかった。それと同時に、大西洋を越えて、大好きなイギリスで1年間、「犬に関するあれこれ」に没頭するという考えも、わくわくするようで捨てがたかった。

「どうすればうまくいくのか考えています」と私は言った。どうすれば家族に勘当されることなくこっちに来れるのか、と考えていた。「私は犬の手芸品を作る仕事もしてるんです。こっちに来るとなると、こっちのやり方に慣れるまで大変かもしれません。―材料の調達、作品を作る場所の確保、イギリスの出荷ルールとかも覚えて、どうやって続けていくかを考えなければなりません」

「問題は解決よ」とジェーン・ダグラスが言った。「PCFIでの1年間は、そんなことをしている時間はないでしょうね。フルタイムで参加してもらいますから。私の家で勉強するか、それ以外の時間はこのレスキューセンターでたくさんの犬の世話をすることになります。実は今、さらに多くのボランティアを募集しているんですよ。来週ここで、〈犬のサポーター世界教育会議〉が開かれますから、その準備に総力を挙げなくてはなりません。あなたも協力してくれるわね?」

でも...

「今日はクリスマスイブですよ」と私は彼女に思い出させた。

「わかってます。今日と明日、多くのボランティアが休むことになっててね、みんな口をそろえたように『クリスマス、クリスマス』って。普段は自分たちをドッグピープルと呼んで、犬好きを公言しているくせに。くだらない」

クリスマスイブでもボランティアを休まなかったドッグピープルの一人が近寄ってきて、ジェーン・ダグラスに声をかけた。「中であなたを呼んでいます」と彼が彼女に言った。「ケータリングを何にするか決めてほしいそうです」

「犬用の? それとも人間の?」と彼女が尋ねた。

「人間のです」

「まったくもう」と彼女はふてくされながら、施設の中に戻っていった。

「彼女って魅力的な人ですよね?」と、彼女の背中を見送りながら、そのボランティアが言った。ヒップスターというか、ミュージシャンっぽい身なりの、あごひげを生やした二十歳を過ぎたくらいの男性だった。そこで彼の視線が止まり、私をじっと見つめながら言った。「君はリリー、ドッグウォーカーのロックスターじゃないか!」

「私はリリーですよ」と私は肯定した。「犬は大好きですけど、ロックスターじゃないわ」

「君に感謝しなくちゃいけないんだった。―ほんとにありがとう」と彼は言うと、握手を求めて手を差し出してきた。「僕はアルバート。PCFIを卒業したばかりなんだ」

私は彼の手を握った。「卒業おめでとう。でも私に感謝する必要はないわ。それはあなたが頑張ったからでしょ」

彼が笑った。「まあ、それはそうだね。去年は死に物狂いで頑張ったから。いや、そうじゃなくて、君の紹介で仕事が決まったから、感謝してるんだよ」

「は? 何がどうなったらそうなるの?」私は犬の扱いには長けていた。ただ、私は魔法使いでも何でもないから、シノフィリスト(愛犬家のことをかっこよく指す言葉)に、知らず知らずのうちに仕事を与えるなんて魔法は使えない。というか、シノフィリストって言葉はダッシュが好きそうだと思って、胸がドキッとときめいた。

アルバートが言った。「君が『私たちそれぞれのテムズ川』の撮影現場で、あの犬の訓練士にぴったりの人がいるって紹介してくれたんだろ?」

「デイジー?」

「そう、デイジーだよ! 君が映画のプロデューサーにジェーン・ダグラスの電話番号を教えて、その流れで僕が指名されたんだ。まあ、ジェーンの紹介だけど、元はと言えば、君の紹介で仕事が決まったようなもの。おかげで、今年はクリスマスを祝えるお金も入ったし!」ひょっとしたら、ちょっとだけ、私って魔法使いなのかもしれない? なんて、アメリカ人らしく自画自賛しちゃったけど、めぐりめぐって人を笑顔にするなんて、そうそうできることじゃないでしょ? すると、彼の顔から笑顔が消えた。「でも、僕はひとりだから、クリスマスもここで働くけどね」

私は言った。「あなたが稼いだお金は、クリスマスが終わってから使えばいいじゃない。時間ならたくさんあるわ。商品だって店頭から消えることはないでしょうし」

「これで来月の家賃が払える。十分なクリスマスプレゼントになったよ」そこで、彼は私の足元にまとわりつくアスタに気づいた。「君は友達ができたみたいだね。しかも、ここの犬の中で一番気を許さない子がなつくなんて」

「休み明けにボーイフレンドのおばあちゃんに、彼女を引き取ってくれるか説得してみるつもり」

「じゃあそれまでに、アスタが立派なセラピー犬になるように頑張ってみるよ」アルバートはしゃがみ込むと、アスタのお腹をさすった。「おまえはリリーの追っ掛けなのか?」と彼がアスタに聞いた。そうだったのか! そういえば、ジェムもロックバンドの元追っ掛けだったらしいから、アスタとジェムはやっぱり気が合いそうね。

私もアスタにもっと気を配ろうと、地面にしゃがみ込んだ。彼女の頭を撫でながら、アルバートに聞いてみる。「それで、PCFIはどうだった? 私は行こうかどうか迷ってるんだ」

「ここ以上のプログラムや先生は、世界中どこを探しても見つからないよ」とアルバートは言った。「ただ、覚悟しておいた方がいいね。ジェーン・ダグラスは犬のことを第一に考えて生活してるし、学生にもそういう生活を期待する。彼女にはパートナーはいないし、子供は何人かいるらしいけど、今はもう疎遠(そえん)みたいだ。彼女の関心はすべてイヌ科の家族に向けられている。彼女は24時間、きっと寝ている間も、犬のことを考え、犬とともに呼吸してるんだ」

私の両親の心配が客観的にわかった気がした。私の犬への愛情が行き過ぎているのではないか、と彼らが心配している理由がようやくわかった。ダッシュも言っていたけど、彼らは私に、犬以外にも、もっと多くのことを生活に取り入れてほしいと望んでいるのね。

ジェムがダッシュに、やりたいことを聞いたときのことを思い出した。―彼の心の底から湧き出る望みを。私も私自身の心に同じことを聞いてみた。答えはすぐに返ってきた。はっきりとした明瞭な声だった。

そうよ、私は犬と一緒に仕事がしたい。―だけど、家族や、恋人や、他の関心事を排除したりはしない。たとえば、デザインとか、ビジネスを大きくしていくことにも、私は興味があるから。

ダッシュがどこへ行くことを選ぼうと、私は、今はニューヨークにいるべきなんだ。家族のそばにいて、息苦しくなるほどの愛情に包まれていたいと思った。それから、私の輝かしい愛犬のボリスや、ちゃんと責任を持って散歩に連れ出さなきゃいけない、私を慕ってくれる犬たちの元へ帰りたかった。そして、そこで自分のビジネスを成長させたかった。そのためには学校でいろいろと学ぶ必要があるけれど、そのためにマンハッタンを離れる必要はないわ。

教室がジェーン・ダグラスの自宅のリビングルームだと知った瞬間から、そんなことはわかっていたのかもしれない。でも今、はっきりとわかった。PCFIは私の居場所ではない。

私は家に帰る心の準備ができていた。私の未来はニューヨークにあるのよ。


そして、ダッシュの未来も一緒!

ダッシュ、ジェム、私の3人は、一日早いけど、ジェムの家でクリスマスを祝った。そうすれば、飛行機でクリスマスの早朝にはニューヨークに戻れるから。ジェムがイギリスの伝統的なクリスマスディナーを用意してくれた。ダイニングルームにはキャンドルが灯(とも)され、ヒイラギの枝が飾られていた。ジェムがスマホのプレイリストを手元で操作すると、連動したスピーカーから、スティーヴィー・ワンダーの『想い出のクリスマス』が流れだした。

ジェムはグラスを掲げて、乾杯の音頭を取った。「ダッシュの出版業界での未来に!」と彼女が言った。

「そして、リリーの、犬の起業家としての未来に!」とダッシュが言った。

「それから、アスタの最も偉大な飼い主としての、ジェムの未来に!」と私が言った。

私たちは「乾杯!」とグラスを鳴らした。すると、ジェムが私の方を向いて言った。「私はイエスとは言ってないわよ、リリーちゃん」

「もう一度アスタの動画を見ましょうか? ボールを投げると、彼女はちゃんと取ってきてくれるんですよ」と私は提案してみた。ジェムは、ロンドンでのダッシュとの付き合いにすっかり慣れてしまったみたいだから、ダッシュがニューヨークに帰るとなれば、彼女は彼が恋しくなるでしょう。その寂しさを癒してくれるのが、アスタなのよ。私も、ダッシュがイギリスに行っちゃってからというもの、ボリスが心の穴を埋めてくれたんだから。

「考えてみるわ」とジェムが言った。私の経験からすると、その反応はイエスを意味していた。ノーの人は、最初から聞く耳を持たない感じで拒絶するものなのだ。考えてみるわ、という答え方は、その考えに慣れるために少し時間が必要ということで、ほとんどの場合、そこからイエスの方向へ傾いてくれる。私の予想では、1ヶ月もすると、アスタがこの家の暖炉のそばの犬用のベッドで寝そべり、その間に(「間」はwhileより、イギリス式にwhilstと言った方がいいかしらね)―その間にジェムは、彼女の壁の棚を埋め尽くす膨大な数のレコードのコレクションを、アスタの反応がいい順に並べ替えている様子が目に浮かぶようだった。この音楽の良さがわかるのね、なんていい子なの、アスタちゃん!って。

「さあ食べよう」とダッシュが言った。

「イギリス式のクリスマスはね、食事の前にバンガーズよ」とジェムが言った。彼女は目の前のお皿の上に置かれた、クリスマスプレゼントみたいに包装された筒(つつ)を持ち上げた。真ん中にリボンが結ばれ、両端をねじってある。「あなたたちも手に持って。イギリスではバンガーズって言うんだけど、これはクリスマスクラッカーよ。右手でクラッカーを持って、左手は隣の人の腕と交差させて、隣の人が持ってるクラッカーのひもを持つの」

私たちは三人で腕を絡め、輪を作ると、「せーの!」で引っ張った。パンッ!と、三つのチューブが同時に破裂し、中に入っていたいくつかのギフトがディナーテーブルの上に飛び出した。―小さなカードが紙吹雪と一緒に目の前に落ちた。それから、折りたたまれたティッシュペーパーも入っていた。

ジェムが一枚のカードに手を伸ばした。「ひどいジョークの時間よ!」彼女はそのカードを読み上げる。「海賊がグレートなのはなぜでしょう?」ダッシュと私は肩をすくめるしかない。ジェムが自分で答えた。「彼らはいつも、グルーグルゥーグレー(ト)って喉(のど)を鳴らしてるでしょ!」

「たしかに、海賊は巻き舌で歌うようにうなってるね」と、ダッシュが言った。

「お見事!」と、私は合の手を入れて拍手した。

「海賊といえば、ジョニー・デップにクリスマスカードを送ろうかなって思ってるの」とジェムが言いだした。「彼と一週間ほど、彼のヨットの上で一緒に過ごしたことがあるのよ。彼がお金持ちだった頃、まだヨットを所有していた頃の話ね。べつにこの話はしゃべったっていいのよ。彼の回想録を書いた時、秘密保持契約書にサインはしたけど、それから彼の身辺が騒がしくなっちゃって、回想録なんて出版してる場合じゃなくなっちゃったから、私が書いた回想録はお蔵入りよ。契約書も一緒にね」

「ジェムがそう言うのなら、そういうことにしておくよ」とダッシュが言った。それから彼は私の方を向いた。「君のカードにはなんて書いてある?」

私はクリスマスクラッカーから飛び出したカードに手を伸ばした。「海はサンタに何と言った? 何も言わなかった! ただ手を振っていただけよ。waveには「波」と「手を振る」の二つの意味があるから!」

ダッシュがやれやれといった感じで、両手を広げて首を横に振った。

ジェムが「ダッシュのカードは?」と聞く。

彼がカードを手に取って、読み上げた。「サンタの小さなお手伝いさんを何と呼ぶでしょう? これは文法用語の従属節(サンタに従うクローズ)だね!」そう答えると、彼はため息をついた。私にはその答えはわからなかったから、「すごい!」と今度は本気で拍手した。

「さて、お次は『ザ・クラウン』よ」とジェムが言った。

「それは無理です!」と私は言った。「ここで一緒に『ザ・クラウン』を観たいのはやまやまなんですが、実は食事の後、私の叔母に会いに行く約束をしていまして」

「Netflixの『ザ・クラウン』じゃないわ」とジェムは言うと、バンガーズから飛び出てきた、折りたたまれたティッシュペーパーをつかんだ。それを一つずつ私とダッシュに手渡す。それから、まずは自分でお手本を示すように、彼女はティッシュペーパーを広げて、頭の上に乗せた。それは王冠のような形をしていた。「クリスマスのディナー中、こうして紙の王冠をかぶるのが、イギリスの伝統なのよ」

ダッシュが言った。「この国は威風堂々とした荘厳(そうごん)さを誇っていると思いきや、クリスマスにはバンガーズとかいう筒から飛び出したカードで、しょうもないジョークを言い合ったり、薄っぺらいティッシュペーパーで作った王冠をかぶったりして、なんだか威厳(いげん)のかけらもないね」

私は紙の王冠を頭に乗せた。「おやっさん、あたいは気に入ったぜ」と、『メリーポピンズ』で見たロンドンの下町、そこで労働者のみなさんが使っていた言葉をあえて使った。

するとダッシュも私に続いて、ピンクの王冠をかぶった。もし今、彼が紫のシルクのパジャマを着ていたら、私の目にもっとハンサムに映っていたことでしょう。

テーブルの上の食事に目を向けると、私の胃袋が歓喜の声を上げたように、グルルルルと鳴った。ジェムがベジタリアンの私に気遣って、お肉を使わずに、レンズ豆のローストを作ってくれたみたい。そのローストビーンズの周りには、イギリスらしく健康的な料理がずらっと並んでいた。ニンジン、エンドウ豆、ローストポテト、パースニップという芋料理、芽キャベツの和え物、それから、ブレッドソースと呼ばれる濃厚でクリーミーなポタージュ。すべての料理をこのポタージュにつけて食べるのね。

「まず最初にお祈りしますか?」と私は尋ねた。

「お祈り?」とジェムが、怪訝(けげん)そうな表情で言った。

「食事に言葉の花を添えるだけだよ」とダッシュが言った。

ジェムは笑った。「リリー、あなたが花を添えたい?」

もちろん。私は言った。「私はこの場にいられることがどれほど幸せか、あなたとダッシュがお互いに慈(いつく)しみ合っている中、私も食事をともにできることの幸せを嚙みしめます。アーメン」

「とても素敵な言葉ね」とジェムが言った。「ありがとう。私も同じ気持ちよ」

優雅に花を添えられた気分で、私はこう付け加えた。「最近の私は、なんだか気もそぞろだったというか、そういう基本的な幸せにも気づけずに、人生の大きな決断をすることばかりに気を取られて、実は、クリスマスプレゼントを買うのを忘れてしまいました」

私としたことが、どうしちゃったのかしら。「クリスマスの女王」を自任していたくせに、クリスマスの核となるものがすっかり抜け落ちていた。ぽんこつすぎて、あきれちゃう。

ジェムが言った。「月並みな言葉になっちゃうけど、本心からこう思っているのよ。あなたたち二人が今、私の目の前にいてくれることが、私にとって何よりも嬉しいプレゼントです」

ダッシュは愛に満ちた眼差しで私を見つめ、私の手を握った。「リリー、僕も心からこう思うよ。君は忘れずに、僕にプレゼントを用意するべきだったね」私は思わず彼の手を離してしまった。そこで彼はふっと笑い、それから再び真剣な表情になった。「君がこっちに来てくれた時、僕は自分を見失っていたんだ。君にそばにいてほしいのかどうか、自分でもわからなかった。会いたくなかったわけじゃなくて、―ずっと会いたくて仕方なかったけど、―夢破れたというか、大志を抱いて海を渡ったのに、こてんぱんに打ちのめされてしまった僕を、君に見られたくなかったんだと思う。でも、君はとにかく会いに来てくれた。僕はそんな君が大好きだ。君を愛してる。君は自分のやりたいことを見つけ出し、自信を持ってその達成に向かって突き進む。僕もそうできるように、君が身をもってお手本になってくれている。そんな君が、僕にとって最高のプレゼントだよ。君は優美だ」

ジェムが目の端からこぼれた小さな涙を手でぬぐった。「正直言うとね、ダッシュ。あなたがどこでそんなに健全で、幸福な関係のむすび方を学んだのか、実はさっぱりわからないのよ。あなたの家族にはお手本が一人もいなかったでしょ」

「本だよ」と彼は言った。

私もちょっとうるうるきて、涙がこぼれそうになったけれど、笑顔を努(つと)めてダッシュに聞いた。「実際のところ、あなたは私に何をプレゼントしてくれるの?」

ダッシュが珍しくパッと明るい表情になって、私に微笑みかける。私をメロメロにする彼の笑顔に、もう芯までとろけそう。「もうちょっと待って。もうすぐわかるよ」

ジェムが料理をお皿に取って、それを私たちに手渡しながら、言った。「プレゼントといえば...せっかくイギリスにいるんだから、ホテルに帰る時、クリスマスの靴下とお菓子を持って行きなさい。イギリスではね、靴下は暖炉のそばじゃなくて、ベッドの枕元に置いておくのよ。サンタクロースへのお返しとして、ミンス・パイも一緒にね」

ミンス・パイと言われても、異国の食べ物をイメージするのは難しかった。なんだかマウス(ネズミ)をミンチに切り刻んだみたいな響きで、思わず顔をしかめそうになる。食べる気がしなくて、逆に、まるまる太ったサンタさんにあげれば、新年からダイエットを始めるきっかけになるかもね。

ダッシュが言った。「なるほど。アメリカのサンタは子供部屋まで入らず、暖炉にそっとプレゼントを置いていくけど、イギリスのサンタはベッドの枕元まで入っていくのか、なんかストーカーっぽくない? どうりでイギリス人は、お返しにサンタにクッキーをあげないわけだ。変態サンタにクッキーをもらう資格なし」

もしも私が子供の頃、クリスマスイブにサンタさんが私の部屋まで来て、枕元に置いた靴下にプレゼントを入れてくれる、なんて知らされていたら、私は彼を待ちわびていつまでも眠れなかったでしょうね。サンタさんに話したいことがたくさんあったから。

Tiny tots with their eyes all aglow(お目目をパチクリさせたちびっ子たちは)

Will find it hard to sleep tonight.(きっと今夜はなかなか眠れそうもない。)

ちょうどその歌が流れていた。ジェムのプレイリストは、次の曲が『The Christmas Song』だったのだ。この曲はいろんな人が歌っていて、このシンガーの声にはどことなく馴染みがあったけれど、いつどこでこのバージョンを聞いたのかは思い出せなかった。ダッシュは熱心に耳を傾けている様子で、言った。「これって...バーブラ・ストライサンド?」

「正解」とジェムが言った。「彼女のクリスマス・アルバムはね、全歌手の中で最も売れたクリスマス・アルバムの一つに数えられるくらい、指折りの名盤なのよ」

「でも、彼女はユダヤ人でしょ」とダッシュが言った。

ジェムは言った。「そうね。『ホワイト・クリスマス』を作曲したアーヴィング・バーリンもそうだし、サックス奏者のケニー・Gだってそうよ。彼のクリスマス・アルバムは、エルヴィスに次ぐ売り上げを記録したのよ」

ダッシュが言った。「まさかケニー・Gが、プレイリストの次の曲だとか言わないでほしいな」

私は言った。「だったら、エルヴィスがいいわ!」

それから、私たちは料理を食べることに専念した。ジェムはパン作りよりも、料理の方が得意なことがわかった。「おいしいです」と私はジェムに言いながら、ローストビーンズをもぐもぐと頬張った。これに、Tescoブランドの菜食主義者向けのブレッド・ソースをかけて食べみたら、さらに美味しくなった。このソースは動物性のグレービーソースだけど、動物が苦しむような製法はとっていないはずよ。そのソースをローストポテトにもかけてみたら、これが相性抜群だったので、明日の夜、ニューヨークでのクリスマスディナーでは、〈ラトケス〉にもかけてみよう、と思い立った。ちなみに〈ラトケス〉というのは、ローストポテトに似たユダヤ民族の伝統料理よ。ラングストンはボーイフレンドの実家に行ってるし、ミセス・バジルの家で行う恒例のクリスマスパーティーは中止になったので、今年はユダヤ系のクリスマスにしましょう、とママからメッセージが来ていたのだ。ダッシュがジェムを連れて、彼の家族に会いに行っている間、私は家族と中華料理を食べに行って、その後、映画館で『サイボーグ・サンタ』を見るつもりだった。ママは、映画の中で人工知能が、資本家と男性に権力が集中している社会を破壊してくれるのを見るのが楽しみだと言っていた。そして家に帰ったら、〈ラトケス〉にビーガン・ソースをつけて食べるのよ。ああ、今から待ちきれないわ。クリスマスの新たな定番になるかしらね?

そうだ! さっき聞いたユダヤ人アーティストたちのクリスマス・アルバムをオンラインで購入して、みんなにプレゼントするっていう手もあるわ! これならクリスマス・プレゼントを買いに走らなくて済む! サンキュー、バーブ!(あ、バーブっていうのはバーブラ・ストライサンドの愛称よ。)

思い返してみると、私は毎年クリスマスイブを、たまらないほどの興奮と期待で胸がはち切れんばかりになりながら過ごしていた。ジェムの家のお祝いは、なんだかとても...大人っぽいものだった。礼儀正しくて、節度をわきまえていて、優雅で洗練されていた。私の子供時代のクリスマスイブとは正反対だった。どっちが良いとか、悪いとかではなく、―違うものだった。そして私はこの和(なご)やかな雰囲気が気に入った。私たちは、本や音楽、ダッシュの出版業界での将来、犬とともに歩む私の将来、それからジェムが近い将来、本を読みながら、アスタと一緒に聴くことになる音楽について話した。

食事が終わってテーブルを片付けた後、ジェムが発表するように言った。「さて、クリスマスサプライズの時間ね」私は、サンタクロース(イギリス式にファーザー・クリスマスと言った方がいいかしら?)が、どこかから突入してくるかも、と半分期待して身構えた。今夜は私たちの眠りを邪魔したくないから、プレゼント用の靴下は枕元ではなく、やっぱり暖炉のそばに置いてほしいと懇願(こんがん)されるのではないか、と。そこでジェムはドラマチックに、もったいつけるように間を空けた。その間、私の頭の中では甘い砂糖菓子のような幻想が、プリマが舞台で舞うようにふわっと広がっていった。ジェムが誇らしげに口を開く。「さあ、デザートを食べましょう!」

ダッシュが言った。「ちょっとジェム、こんなダメ出しみたいなことは言いたくないけどさ、食後にデザートを食べるのは、全然サプライズじゃないよ」

「このデザートはサプライズなのよ」とジェムが言った。「火だって使うんだから」

彼女はキッチンに行き、ドーム型のフルーツケーキらしきものが乗った銀色のプレートを持って戻ってきた。ケーキの上にはヒイラギの小枝が飾られている。「誰か電気を消して」と彼女が言う。

ダッシュが椅子から立ち上がって、電気を消す。キャンドルの灯(あか)りのみが空間を照らし、私たちを包む雰囲気がより一層安らか(cozy)になった。(あ、イギリス式は cosy だったわね!)ジェムがケーキのプレートをテーブルに置いて、言った。「これはイギリス人がクリスマスプディングと呼んでるものよ。フルーツケーキといっても、アメリカの、あのまずいフルーツケーキとは全然違うわ。クリスマスプディングはね、クリスマスの何ヶ月も前から、フルーツをアルコールに漬け込んでおくの。そしてクリスマスディナーで、これに直接火をつけて、目の前で焼いて食べるのよ」

彼女はシルバーに光るスプーンを手に取ると、そこにブランデーを注いだ。もう片方の手で、ライターをつかむ。

ダッシュが言った。「味が悪くなくて、フルーツにひたったアルコールで酔わせてくれるのなら、それは確かにサプライズだね」

ジェムが言った。「いいえ、サプライズが成功するかどうかのカギは、家を燃やさないようにすることなのよ。前にこれをやったときはね、あなたのお父さんが10歳くらいのときだったんだけど、私は最初にヒイラギの小枝を取り除くのを忘れちゃって、ケーキと一緒に小枝も燃やしちゃったの。そしたら、小枝から炎が飛び火して、彼が着ていた一張羅のネクタイに燃え移っちゃったのよ。彼はあのネクタイをつけて食べるって聞かなくてね、結果、そんなことになってしまったの。彼自身は無事で、すぐに火は消えたからよかったものの、彼の眉毛が焼けて縮れちゃったのよ。彼は今でも、あの時の私の失態を根に持ってるんじゃないかしらね」彼女は大きく息を吸った。「さあ、やるわよ。今度こそ成功してみせるわ」

ダッシュが機転を利かせて、ヒイラギの小枝をケーキの上からさっと取り除いた。ジェムはまたしても、ヒイラギの小枝ごと燃やそうとしていたのだ。

彼女はスプーンの中のアルコールに火をつけた。彼女の瞳にゆらめく炎が映る。恐怖と歓喜が入り混じったようなに彼女の表情を見て、私は彼女の勇気を賞賛した。彼女はケーキに火をつけようとしている。そして同時に、クリスマスで自分の息子にした失敗を取り戻そうとしているのだ。明日、彼女は孫のダッシュを連れて、久方ぶりに息子に会いに行く。いったん切れた縁(えん)を結び直すのは、ケーキに火をつけるよりも勇気が要ることでしょう。

スプーンの上で小さな炎が燃えている。ジェムがその炎を、アルコール漬けのケーキの上に注ぐように、かけた。ボワッと炎が大きくなり、見事に、青みがかった黄色に燃え盛った。しばらくパチパチと燃え上がる炎を見つめていたら、私の脳裏で夕食前の興奮が蘇ってきた。炎が消えると、ケーキはいい感じに茶色く焼き上がっていた。さっきはミンス・パイという名前から変な想像をしちゃったけど、イギリスの〈ベイクド・フルーツケーキ〉は、想像以上に食欲をそそるものだった。

「リベンジ成功だね」とダッシュが誇らしげに祖母に言った。

「やったわ」と彼女はつぶやいた。


「私たちの今の衣装、とっても素敵よね」と私はダッシュの耳元でささやいた。私たちはジェムが〈リバティ〉からもらった、もしかしたら買ってきてくれた、エレガントな洋服を着ていた。ダッシュは格好いいスーツとネクタイでキメていた。私は赤のミニドレスを着ていた。フリルとスパンコールがあしらわれたハイネックのドレスで、腕の袖は長く、そして小悪魔っぽく、丈がすごく短いプリーツスカートが特徴的だった。

ダッシュが私を抱き寄せて、言った。「そんなふしだらなドレスを着てたら、サンタクロースが、けしからん!って鼻息荒く憤慨(ふんがい)するよ。そのミニスカートはなんだ!って。と、とてもそそるじゃないか!って」

「でも、こういうの好き? サンタさんはこういうのが好きなのかな?」

ダッシュは私の頬にキスすることで、それに答えた。「好きに決まってるよ。でも、クロース夫人には内緒だよ。つまり、サンタクロースの奥さん? っていうか、イギリスではサンタの奥さんは誰なんだろう?」

私は笑った。「まったくもう。あなたもすっかりクリスマス好きになったのね」

「まあね。君がクリスマス好きに戻るなら、僕も大好きさ」

私たちはミセス・バジルの〈グランドピアノ・スイート〉のバルコニーに出て、二人きりだった。部屋の中ではミセス・バジルが、派手なクリスマスパーティーを打ち上げていた。ガラス越しにガヤガヤと、陽気な話し声が聞こえてくる。彼女がロンドンに、これほど多くの友人がいることには驚かなかったけれど、クリスマスの直前になってからパーティーに招待して、こんなに多くの人たちのイブの予定が空いていたことには、目を見開いた。ミセス・バジルの人望かしら? 少なくとも20人以上の人たちが、飲んだり食べたり笑ったりして、イブの夜を楽しんでいる。これこそ私の大好きな、みんなが賑(にぎ)やかに浮かれ騒ぐクリスマスだ。マークがピアノでクリスマスの讃美歌を次々と演奏し、ジュリア(マークの妻)、ミセス・バジル(私の大叔母)、ジェム(ダッシュの祖母)が彼の伴奏に合わせて歌っている。部屋の片隅では、アズラ・カトゥンと、イアン卿とダッシュが呼んでいた男の子が、二人だけの世界に入り込んだみたいに話し込んでいる。ピアノの横には、誰も手にすることのなかった〈ドーントブックス・愛書家チャレンジ〉の優勝カップが置かれていた。マークは、〈グランドピアノ・スイート〉の新たな装飾品として、クラリッジズ・ホテルがこの優勝カップを受け取ってくれないかな、と言っていた。

ダッシュが私を後ろから抱きしめ、私たちはクラリッジズからのぞむロンドンの夜景を眺めている。友達がいて、親戚がいて、昔からの、そして新たに知り合った人たちが、ここにいる。絶対にまた、ロンドンに戻って来よう。私はそう誓った。

数時間後には、飛行機に乗ってニューヨークに帰る。ダッシュも地元に戻って、彼が慣れ親しんだ地に足をつけて、新たな旅を始めることになる。私の旅も、始まる。

「メリークリスマス」と私はダッシュに言った。

「ハッピークリンボー」と彼は英国式に返した。

こんな彼と一緒になれて、私はラッキーだ。

背中から彼に包まれながら、私は愛を感じていた。




18

ダッシュ


12月25日

ロンドンのメイフェア街を歩いていると、それが目に留まった。面接を終えた僕は、急ぎ足でクリスマスプレゼントを探していた。どの店の窓もキラキラしたクリスマス飾りに彩(いろど)られていて、いい加減うっとうしいなと思っていたところに、シンプルな窓枠が現れたので、ぽっかり空いたその空間に、目が癒(いや)しを求めるように向いたのかもしれない。僕は立ち止まり...しばらくそれを眺めていた。

それはガラスの鳩だった。僕の手のひらに乗るくらいのサイズで、翼を大きく広げ、自分の行くべき場所が定まったように、まっすぐに飛んでいる。思わず僕は店内に入ると、それを見せてください、と言っていた。それはまさしく、僕が探し求めていたものだった。―美しいほどに堂々としていて、美しいほどに不完全で、一瞬にして凍り付いてしまったようだけど、明らかにこの鳥は飛んでいる最中なのだ。―手のひらに乗せてみると、結構な重さはあったが、翼は今にも折れてしまいそうなほど薄く、全体的に繊細にできていた。それでも大切に扱い続ける限り、割れることはないだろう。

普段の僕なら手が出せないほどの高値が付いていたけれど、迷わずそれを購入した。


時計の針が午前0時を回り、12月25日の到来を告げた時、僕はその鳥を彼女に手渡した。僕らにとっては、30時間のクリスマスの始まりだ。

僕らはサンタを待つまでもなく、自分たち専用のソリに乗り込んだ。ロンドンの中心街、高級ホテルのベッドの形をしたソリだ。このソリはトナカイたちが持ってきてくれたものだが、あとは自分たちでご自由にどうぞ、と言って、トナカイは飛び立っていった。彼らもクリスマスは自由に楽しみたいのだろう。ミセス・バジルの部屋でみんなと宴(うたげ)を楽しんだあと、僕らはリリーの部屋で二人きりになった。彼女は紫のシルクのパジャマの上着を着ている。彼女にはサイズがちょっと大きいようだ。そのパジャマのズボンは僕が穿いている。二人合わさると、パジャマも僕らも、一つになる。

僕はそのプレゼントをソリの上に乗せた。彼女はまるでコートを脱がすようにそっと、その包みをはがしていった。彼女が箱を開けた時、それは彼女が期待していたものではなかったようで、彼女は一瞬目を見開いたけれど...それはまさしく、僕と同様に、彼女も潜在的に望んでいたものだった。ホテルの部屋の柔らかな青い光の中で、彼女の手のひらに乗った鳥は、あたかも宙に浮いているかのように、透明な彫刻が青い空気と同化して見えた。

「私はこの鳥を、彼女をすごく気に入ったわ」とリリーが言った。

「僕もだよ」と僕は言った。

僕はここぞとばかりに、エラ・フィッツジェラルドが歌う『Have Yourself a Merry Little Christmas(ささやかなクリスマスでいいじゃない)』を選曲し、彼女の華やかな歌声を部屋中に響かせた。僕らはソリの上でお互いを抱きしめ合った。繊細で勇敢な鳥が、僕らのそばに寄り添ってくれている。僕らはここにいる。薄暗い部屋の中、二人の心臓の音がして、息づかいが聞こえる。ガラスの翼が寄り添い、愛に包まれ、音楽が流れている。これ以上望むものは何もない。そこは世界中で最高の場所だった。そして、それらがある限り、二人でどこへ行っても、そこが最高の場所になるだろう。自然と言葉が舞い降りてくるように、そう思った。もうすぐこのソリを降りて、飛行機に乗り換える。その前に、魔法のソリに乗っているうちに、この気持ちを声に出して伝えておこう。

「すごくワクワクしてるんだ」と僕はリリーに言った。「この先の未来に、すごく、すごくワクワクしてるんだ」

「私もよ」と彼女が答えた。

そして、その瞬間、一切の恐れが吹き飛んだ。迷いも消えた。絶え間なく聞こえ続けていた不安をあおる、あの声さえも消えてくれた。あるのは、一体感だけだった。ワクワクするような興奮だけがあった。愛だけがあった。

「未来が待ってるわ」とリリーが言った。「素晴らしい未来がね」

僕もその確信に満ちていた。






〔訳者あとがき〕(2021年4月20日)


2020年12月に発表された〈世界都市ランキング〉によると、←ランキングにする必要ある?笑




東京が3位で、ニューヨークが2位で、ロンドンが1位みたいです!



そして、藍の面接が始まった。←どういうこと?笑


「まずですね、『ダッシュとリリー、その隙間に気をつけて』は、ロンドンという都市の観光ガイドであると同時に、イギリス文学の外観が知れる文学案内にもなっているんですよ。その二つが境目なく溶け合っていて、たとえば、ハムステッド・ヒースですけど、あの夏目漱石もですね、ロンドンに留学中に精神を若干病んだ時なんかに、ハムステッド・ヒースの森を訪れていたと言いますから、それから20年後くらいに『吾輩は猫である』とか『坊っちゃん』とかの名作を書くわけですけど、その土壌はハムステッド・ヒースにあったんじゃないかっていうくらい、文学的な場所なんですよ。それはまあ言い過ぎかもしれませんが、そんな場所でイアン卿(きょう)に出会うわけですけど、あれはドラキュラ伯爵(はくしゃく)の化身なわけですね、イアン伯爵と訳してもよかったんですけど、藍の中ではイアン卿の方がしっくり来たので、イアン卿と訳しました。とにかくですね、説話的と言いますか、こういう土壌ではこういうストーリーが生み出されるというのを、現代的なスマホとかを交えながら書いているわけです。シャーロック・ホームズを生んだ地でもありますから、ミステリー仕掛けの伏線回収劇の要素もはらんでいて、次に何が起きるんだろう、というハラハラドキドキ感も満載でしたね。いや~、ストーリーの先の展開がなかなか予測しづらかったです。もちろん、いい意味でですけど、謎解きゲームがずっと続くのかと思っていましたから。(笑)それで、ダッシュが編集者の面接に受かったのはですね、彼の発言がものを言ったんです。藍は至近距離で聞いていましたけど、感動的ですらありましたね。アメリカ文学の主要どころはちゃんと読んできましたよ、ということを、たとえば、フィッツジェラルドとかですね、そういうのをスピーチの中にさり気なく盛り込んだんですよ。とっさの判断でしょうね、はい、今のぼくみたいに、準備なく瞬時に書いている、というかダッシュは喋っていたんだと思います。そんな頭の回転のよさに、なんとかさんっていう有名編集者はほろっときたんでしょう。もう何十年も編集者をやっているみたいでしたから、最近では感受性も薄まってきていて、小説でも泣けなくなっていたところ、不意に涙腺を突かれた感じじゃないでしょうか。藍もですね、気づけば40代半ばになってしまいまして、もうパッと明るい未来なんてこの先開けていないかな...としょんぼりしちゃうことも多いですけど、こういう光(と、ちょっとしたエッチ)に満ち溢れた小説を訳しますと、生命力をもらった感じで若返りますね。素晴らしい未来が藍にも待っているんじゃないかと、錯覚しかけます。(笑)どなたか、慈悲深いお方、藍に翻訳の仕事をください。」⇒hinataaienglish@gmail.com