Thursday, September 9, 2021

『ダッシュとリリーの冒険の書(Dash and Lily’s Book of Dares)』

『ダッシュとリリーの冒険の書(Dash and Lily's Book of Dares)』 by デイヴィッド・レヴィサン、レイチェル・コーン 訳 藍(2017年12月02日~2018年09月01日)


1

-ダッシュ-

12月21日


こんな風に想像してみてほしい。

君が馴染みの書店に行って、書棚を適当に見ている。そして、お気に入りの作家の著書が並んでいるコーナーにたどり着く。すると、君には見慣れたそれらの背表紙の間に、ぽつんと赤いノートが居心地良さそうに挟まっていた。

さて、君ならどうする?

やることは決まっているよね。

その赤いノートを手に取って、開いてみるはずだ。

そして、そこに何が書かれていたとしても、書いてある通りに君は行動するよね。


ニューヨークはクリスマスシーズンだった。一年で一番嫌いな時期だ。騒がしい人込み、ひっきりなしにやって来る不幸な親戚、偽りの励まし、楽しさへのむなしい追及、そんな僕の元々嫌いな人間関係が、この時期には緊密になるだけだ。僕はどこに行っても、場違いなところにたどり着いてしまう。僕は手を差し伸べてくるどんな〈救世軍〉も受け入れるつもりはないし、ホワイトクリスマスなんか僕には関係ない。僕は十二月党員であり、過激な社会主義者であり、職業的犯罪者であり、原因不明の苦悩から逃れられない切手収集家なのだ。誰もそんな者にはなりたくないだろうけど、僕は自ら進んでなるよ。僕は人込みの中を透明な存在になって歩いていた。パブロフの犬みたいにクリスマスだからと飲んで騒ぐ人たちや、羽目を外した冬休み中の人たちや、ライトアップされたクリスマスツリーを見るために世界中からやって来た外国人たちを、僕はなるべく見ないように歩いていた。ツリーをライトアップなんてキリスト教の儀式じゃないのにな、と思いながら。


こんなに気分が暗くなる季節にも唯一嬉しいことがある。それは学校に行かなくて済むことだ。(そして、おそらく誰もがうんざりするくらい家族と一緒に買い物に行ったりして、家族というのは、たまに会うくらいが一番いいと気づくはずだ。一度に大量に飲むと死んでしまうヒ素みたいにね。)今年は、もうすぐやって来るクリスマスのために、僕は自ら進んで孤児になったのだ。母親には父親とクリスマスを過ごすと言って、父親には母親と過ごすと言ってね。そうして、両親はそれぞれ、離婚後の恋人と過ごすために、払い戻しのできない休暇を予約した。両親は8年間もお互いに話をしなかったから、僕には現実を正確に見極めて判断する余裕がたっぷりあったし、それゆえに一人きりになる時間も多かった。

僕は両親の住むそれぞれのアパートを行ったり来たりしながら過ごしていた。二人ともいない時は、ストランド書店にいることが多かった。そこは僕の知性を気持ちよく刺激してくれるとりでのような場所で、一軒の書店というよりはむしろ、百の様々な書店が衝突したような場所だった。その衝突により、18マイルの書棚に文学作品の残骸が散らばっているのだ。そこの店員は全員、スキニージーンズに古着みたいなボタンダウンのシャツを着ていて、みんな考え事でもしているみたいに前かがみになって歩き回っていた。なんだか年上の兄や姉みたいで、弟に話しかけたり、構ったりするのが面倒くさいようだった。友人たちが周りにいる時は弟の存在さえ無視しているような、そこの店員はいつもそんな感じだった。中には、プルーストの小説とかを売るために、クッキーの作り方講座を開いたりして、コミュニティーセンターとしての役割を果たそうとする書店もあるが、ストランド書店は客をほったらかして、好きにさせておくのだ。画一化しようとする力と、そこからはみ出ようとする力がぶつかり合い、常に勝つのは、はみ出る個性だ。言い換えれば、そこは僕にとって、墓地のような場所だった。

ストランド書店に行く時は大体、特に何か目的の本を求めて行くというわけではなかった。

ある特定のアルファベットが頭に浮かんだ午後には、苗字がその文字で始まる著者の本を、すべてのジャンルのコーナーで見て回るということをやる日もあったし、また、一つのコーナーに絞って書棚をじっくり見る日や、最近書棚から外されて、カートに乱雑に入れられ、アルファベット順に並んでいない本を漁る日もあった。あるいは、僕は単にグリーンカバーの本が並んでいるのを見たいだけなのかもしれない。というのも、僕はもう長らくグリーンカバーの本を読んでいないから。

友達と遊んでもいいのだろうが、彼らの多くは家族と過ごしたり、ゲーム機のWiiをやっていた。(そういえば、Wiiの複数形はWiisでいいのだろうか?それともWiiiかな?)僕はすたれた本や、すたれつつある本や、あるいは売れそうもない本と過ごす時間が好きだった。すなわち、使い古された人が書いた本がお気に入りだった。「使い古された」という言葉は人物を形容するにはふさわしくないようだけど、べつに悪い意味で使っているわけではないよ。(アガサ・クリスティーを見てごらん。彼女はまさに「使い古された」女性でしょ。)

僕はとてつもなく本好きだった。本好きと言うと堅物みたいで、なかなか周りに受け入れられないことは知っているけれど、それでも言ってしまうくらい好きだった。僕は「本好き」という形容詞が特に好きで、周りの人たちが「能無し」や「仲良し」や「禁酒を誓ったやつ」などの言葉と大体同じくらいの頻度で、「本好き」という形容詞を使っていることに気づいた。

この日、僕は何人かの好きな作家の本を見て回ろうと思っていた。最近亡くなった作家のコーナーに、好きな作家のあまり見かけない本でも入っていないか確認するつもりだった。僕はある作家の本を探していた。(その作家が有名になってしまったら、僕はその作家を嫌いになってしまうかもしれないので、できれば無名のままでいてほしい。)その時、赤色がちらっと目に入った。それはモレスキン社製の赤いノートだった。モレスキン製と言っても、そのノートがモーレ(ほくろ)やスキン(肌)でできているわけではない。それはともかくとして、僕の知り合いにも、電子機器よりも手書きで日記を書きたがる人がいて、そういう人たちには好まれる日記帳だった。それが男性でも女性でも、日記を書こうとする人がどういうノートを選んだのかを見れば、その人がどういう人かわかってくる。僕自身は大学ノートの罫(けい)線通りにきっちり文字を書くような男だし、絵心もなければ、罫線の間隔が広く感じるほどの細かい文字も書けない。通常、罫線の引かれていない真っ白なノートが一番人気だが、僕にはティボーという友達がいて、彼は方眼ノートを使っていた。そういうノートを愛用しているのは、僕の周りでは彼だけだった。あるいは、少なくとも彼がスクールカウンセラーにノートを没収されて、歴史の先生を殺そうとたくらんでいたことがわかるまでは、彼は方眼ノートを愛用していた。(これは本当の話だよ。)

その日記帳の背表紙には何も書かれていなかった。僕は書棚からそれを抜き取って、表紙を見た。そこにはマスキングテープが貼られていて、「あなたに勇気はある?」と、黒の〈シャーピー〉で書かれていた。表紙をめくると、最初のページに書かれたメッセージが目に飛び込んできた。


あなたにいくつか手掛かりを残しておきます。

もしその手掛かりが欲しければ、ページをめくってね。

欲しくないなら、このノートを書棚に戻してください。


筆跡は女の子のものだった。つまり、女の子がうっとりしながら書いたような、なめらかな筆記体で書かれていた。

どちらにしても、僕はページをめくっていただろう。


では、これが最初の手掛かりです。


1. 『フランスのピアノ奏法』から始めましょう。

私はその本の内容をよくわかっていませんが、

おそらく

誰もその本を書棚から引き抜いて手に取ることはないでしょう。

あなたが探すその本の著者はチャールズ・ティンブレルです。

88/7/2

88/4/8


空欄を埋めるまでは

次のページをめくらないでね。

(このノートに書き込みはしないでください。)


フランスのピアノ奏法なんて耳にしたことはなかったが、もし道で一人の男に、(その男は間違いなく山高帽を被っているはずで、)その本はピアニストに関するものだと思うかと聞かれれば、はいと即答するだろう。

僕にとってストランド書店の店内は、両親の(それぞれの)家よりも馴染みがあったので、僕はどこに向かうべきかを正確にわかっていた。音楽コーナーだ。彼女が著者の名前まで教えてくれたから、僕はずるをしているような気さえした。彼女は僕のことを馬鹿か、なまけ者か、まぬけだとでも思ったのだろうか?まだ何も成しえていないけれど、僕のことを少しは信用してほしかった。

その本は簡単に見つかった。余った14分を誰かにあげてもいいくらい簡単だった。そして、それはまさに僕が予想した通りの本で、何年も書棚に居座り続けるような本だった。その本の出版社は表紙にイラストを載せるような面倒なことはしなかったようだ。表紙には単に言葉で、「フランスのピアノ奏法、ある歴史的観点から、チャールズ・ティンブレル」とあり、それから(新たな行に)、ギャビー・カサドシュによるはしがきが書かれていた。

モレスキンのノートにあった数字は日付だと思った。1988年はフランスのピアノ奏法にとって、何か変化があった年に違いない。でも、1988年...も、1888年...も、1788年...も見当たらず、他の世紀の88年にも言及している箇所を見つけることができなかった。僕は困ってしまった...すると、僕に手掛かりをくれた人は、昔からあるお決まりの、本に関する表記法を使ったのではないか、と思い至った。つまり、「ページ数/行数/何番目の単語か」だ。僕は88ページを開いた。そして、7行目の2番目の単語を見て、それから、4行目の8番目の単語を見た。

「Are」と「you」だった。「Are you(あなたは~ですか?)」

僕は何なんだ?僕は何なのかを考え出さなければならなかった。僕は空欄を埋めた。(彼女に頼まれたように心の中で、その未開の空白を尊重するように埋めた。)そして、そのノートのページをめくった。


いいわね。ずるはなしよ。

その本の表紙に関して、何が問題だと思う?

(芸術性が欠けていること以外でね)


さあ、考えてみて、それからページをめくってね。


まあ、それは簡単だった。僕は「An Historical」という不定冠詞の使い方が気に入らなかった。明らかに、「A Historical」とすべきである。Historicalの「H」は子音の硬音「H」なのだから。

僕はページをめくった。


もしあなたが不自然だと指摘したフレーズが

「An Historical」なら、

どうぞ続けてください。


そうでなければ、どうかこのノートを

元の棚に戻してください。


もう1ページ、僕はめくった。


2. 『チャラくて太ったプロムクイーン』

64/4/9

119/3/8


今度は著者名もない。不親切だ。

僕は『フランスのピアノ奏法』を持ったまま(僕たちは一歩近づいてしまった。もう彼女を放ってはおけなかった)、受付に行った。そこに座っている男は、糖分ゼロのコーラに精神安定剤を溶かし込んで飲んでいるような、そんな感じのする男だった。

「『チャラくて太ったプロムクイーン』を探しているんですけど」と、僕は告げた。

彼は返事をしなかった。

「本なんです」と僕は言った。「人を探しているわけじゃありません」

いや、なんでもない。

「せめて著者名だけでもわかりませんか?」

彼はコンピューターの画面を見たまま言った。キーを叩いているわけでもなく、まるで画面に僕が映っていて、その僕に話しかけているみたいだった。

「僕には見えませんけど、あなたはヘッドフォンでもつけているのですか?」と僕は訊ねた。

彼は肘の内側をかいた。

「あなたは僕の知り合いですか?」と僕は言い寄った。「僕は幼稚園であなたをボコボコにいじめましたか?それで今になって、こんなちんけな復讐をして僕をいじめて喜んでいるんですか?あなたはステファン・リトルですか?そうなんですか?当時は僕も子供で、あんなことをして馬鹿でした。あの噴水にあなたを落として、あなたが溺れかけたこともありましたね。だからといって、僕に本を紹介しないというのは、完全に不当な侵害行為ですよ」

ついに反応があった。その受付係はくしゃくしゃの髪を振った。

「紹介できないんですか?」と僕は言った。

「『チャラくて太ったプロムクイーン』のありかは教えられません」と彼は説明した。「あんただからではなく、誰にも教えられないんですよ。それから、俺はステファン・リトルではないが、あんたは彼にしたことを恥ずかしく思うべきだ。恥ずべきだ」

なるほど、これは僕が考えていた以上に困難なことのようだ。僕は自分の携帯にAmazonを読み込んで、どんな本か見ようとしたが、その店内にはどこにもインターネット環境はなかった。『チャラくて太ったプロムクイーン』はノンフィクションではなさそうだと思い(ノンフィクションであってほしいとも思うが)、僕は小説のコーナーに行って書棚に目を走らせた。これは無駄足だったが、10代向けの小説のコーナーが上の階にあることを思い出し、直ちにそこに向かった。僕は少しもピンクの入っていない背表紙は飛ばして、棚を見ていった。直感で、『チャラくて太ったプロムクイーン』には少しはピンクが混じっている気がしたのだ。そして驚いたことに、「M」の一角にたどり着いた時、そこにその本はあった。

僕は64ページと119ページを開くと、二つの単語を見つけた。「going to」

そして、モレスキンのページをめくった。


とても機転が利くようですね。


10代向けのコーナーでその本を見つけたはずです。なので、聞きたいのですが、

あなたは10代の男の子ですか?


もしそうなら、ページをめくってください。

そうではないなら、このノートを元の場所に戻してください。


僕は16歳で、ちゃんとした性器を有している。よって僕は軽やかにこのハードルを飛び越えて、次のページをめくった。


3. ゲイのセックスの喜び(第三版)

66/12/5

181/18/7


まあ、この本がどのコーナーにあるのかについては疑問の余地はなかった。やはり、その本は下の階の「セックスと性」のコーナーにあった。そこでは、どうしても目つきがこそこそしたり、反抗的になったりを繰り返してしまった。個人的には、(どんな性別にせよ、)中古の性生活の手引書を買うのは、僕はちょっと遠慮したい。おそらくそういう理由からか、書棚には『ゲイのセックスの喜び』が4冊もあった。僕は66ページを開き、12行目に視線を合わせ、5番目の単語を見た。

「cock」だった。

僕は頭の中で今までの単語をつなげてみた。「Are you going to cock?(あなたはぴんと立ちますか?)」

たぶん「cock」は動詞として使われているのだと思った。(たとえば、「玄関から出て行く前に、私のためにその銃の打ち金を起こしてから行ってちょうだい。」みたいな使い方だ。)

僕は次に181ページを開いたのだが、おののいて、少し手が震えてしまった。

「声を出さないで愛し合うことは、音の出ないピアノを弾くようなものだ。練習にはいいが、それは自分自身の輝かしい成果が耳に入ってくる機会を奪ってしまう。」

僕は一つの文を読んだだけでこんなにもはっきりと気分が滅入るとは思いもしなかった。愛し合うこととピアノを弾くことを絡めた一文に、僕の気持ちはすっかり萎(な)えてしまった。

幸いにも、そのページにイラストは載っていなかった。

そして、7番目の単語は「playing」だった。

ということは、今までの単語をつなげると、

「Are you going to cock playing(あなたはぴんと立って遊ぼうとしていますか?)」となる。

これは正しくないように思えた。根本的に、文法の問題として、正しくないと思った。

僕はノートのそのページをもう一度見返した。次のページに進みたいという欲求を抑えていた。女の子らしい丸い筆跡をよく見ると、僕は「5」を「6」と見間違えていたことに気づいた。僕が開いたページは、66(悪魔の数字の縮小版)だった。

正しくは「be」だった。

この方がだいぶ意味を成している。

「Are you going to be playing—(あなたは遊ぼうとしていますか?)」

「ダッシュ?」

振り向くと、プリヤがいた。彼女は同じ学校の女の子で、僕とは知り合い以上友達未満のような間柄、言ってみれば、〈知り友〉みたいな女の子だった。彼女は僕の元カノの友達だった。元カノはソフィアといって、今はスペインにいる。(僕のせいでスペインに行ってしまったわけではないよ。)プリヤは、これと言って性格に特徴のない子だった。と言っても、そんなに彼女をじっくり観察したこともなかったけれど。

「やあ、プリヤ」と僕は言った。

彼女は僕が抱えている本を見た。すなわち、赤いモレスキンのノートと、『フランスのピアノ奏法』と、『チャラくて太ったプロムクイーン』を見た。そして、今までそんな本が存在することさえ知らなかったが、二人の男が何かをしているイラストが満載の『ゲイのセックスの喜び』(第三版)を僕は手にして、開いていた。

この状況を説明するためには、何らかの筋の通った言い訳が必要だと思った。

「これは今取り組んでいるレポートのための資料なんだよ」と僕は言った。あえて知的な確信に満ちているような声を出した。「フランスのピアノ奏法とその効果についてなんだけど、フランスのピアノ奏法がどれだけ広範囲に影響を及ぼしているかを知ったら君も驚くよ」

どうやらプリヤは僕に声をかけたことを後悔しているようだ。

「冬休み中はこの辺りにいるの?」と彼女は聞いてきた。

もしいると答えれば、エッグノッグを飲んだりするパーティーに招待されるかもしれないし、みんなでクリスマス映画『おばあちゃんがトナカイにひかれちゃった』でも見に行こうと誘われるかもしれない。それは黒人のコメディアンが一人ですべての役を演じている映画だった。ただ、恋の相手だと思われるメスのトナカイだけは別の人が演じていた。僕はギラギラと照りつける日差しのような招待にはめっぽう弱く、常に予防線を張ってごまかすようにしている。言い換えると、のちの自由を確保するために、早めに嘘をつくのだ。

「明日スウェーデンに行くんだ」と僕は答えた。

「スウェーデン?」

僕には少しもスウェーデン的な要素はなかったし(今もないし)、家族とスウェーデンに旅行に行くなんて論外だった。その説明として、僕は単に、「12月のスウェーデンが好きなんだ。昼間は短いし...夜は長いし...それに余計な飾り付けは何もないんだ」と言った。

プリヤは頷いた。「楽しそうね」

僕たちはそこに突っ立っていた。会話のルールに従えば、僕の番だというのはわかっていた。でも、僕は自分の順番の時に何も話さなければ、プリヤがそこから立ち去ってくれるかもしれないとも思っていた。それこそが僕の望んでいることだった。

30秒後、彼女は沈黙に耐えられなくなって、「じゃあ、私行かなくちゃ」と言った。

「ハッピーハヌカー」と僕は言った。僕はただ他の人がどう反応するのかを見たくて、間違った祝いの言葉を言ってみるが好きだった。

プリヤはその言葉に何の反応も示さずに、「スウェーデンで楽しんできてね」と言って、立ち去った。

僕は手に持っている本の順番を変えて、赤い日記帳を一番上に戻した。そして次のページをめくった。


あなたがストランド書店の店内で『ゲイのセックスの喜び』を手にしているということは、私たちの未来にとって良い兆しです。

しかし、もしあなたがすでにこの本を所有していたり、あるいは、あなたの人生にこの本が役立つと思うようなら、残念ながら、私たちの時間はここで終わらせなければなりません。

この女の子は男と女の関係だけに興味があるのです。なので、もしあなたが男と男の関係にのめり込んでいるようなら、そういう関係に異を唱えるつもりは全くありませんが、私にはその世界に入り込む余地はないのです。

では、最後の本です。

4. 『生きている者がすること』 by マリエ・ハウ

23/1/8

24/5/9, 11, 12, 13, 14, 15


僕はすぐに詩のコーナーに向かった。完全に興味を引かれたのだ。僕をここまで連れて来た人はマリエ・ハウの読者らしい。この不思議な女の子は一体誰なんだ?僕たち二人が同じ詩人を知っているというのは、ちょっと都合が良すぎる気もした。実際、僕の周りには詩人について知っている人なんてほとんどいなかった。僕は誰かとマリエ・ハウについて話したことがあったか思い出そうとした。相手は誰でもよかったのだが、思い出せなかった。ソフィアとだけはマリエ・ハウについて話したことがあった。でもこれはソフィアの筆跡ではない。(それに、彼女はスペインにいる。)

僕は「H」の一角を探したが、その本はなかった。詩のコーナーをくまなく探してみたけれど、なかった。その本を見つけた時、僕はもどかしさで思わず叫びそうになった。それは書棚の一番上にあったのだ。少なくとも床から12フィートはある。本の角がちょっと見えていただけだったが、その本の細さと暗めの紫色から、それが探している本だとわかった。僕は書棚用のはしごを手繰り寄せ、危険を顧みずにのぼっていった。書棚の上段はほこりっぽく、手の届かない高根には興味を失わせる雲がかかっているようで、呼吸をするのが困難になった。ついに、僕はその本を手に取ることができた。居ても立っても居られず、すぐに23ページと24ページを開いて、必要な7個の単語を見つけた。

「for the pure thrill of unreluctant desire」(自発的な欲望の純粋なスリルのために)

僕ははしごから落ちそうになった。

「Are you going to be playing for the pure thrill of unreluctant desire?」(あなたは自分の内側から湧き出てくる欲望の混じり気のないスリルを賭けて勝負する気はありますか?)

控えめに言って、僕はその言い回しに打たれ、駆り立てられてしまった。

慎重に、僕ははしごを下りた。再び床に下り立つと、僕は赤いモレスキンのノートを手に取り、ページをめくった。


さあ、ここまで来ました。

さて、私たちがこれからどうなるのか(どうにもならないのか)、それはあなた次第です。

もしこのやり取りを続けることに興味があるようでしたら、どんな本でもいいので、一冊本を選んでください。そして、メモ用紙にあなたのメールアドレスを書いて、その本に挟んで、それを受付係のマークに渡してください。

もしあなたが私についてマークに何か質問したら、彼はあなたの本を引き受けないでしょう。なので、何も聞かないでね。

そして、選んだ本をマークに渡したら、このノートはあなたがこれを見つけた書棚に戻してください。

もしこれらのことをすべてしてくれれば、私からかなりの確率でまた連絡します。

ありがとう。

リリー。


突然、そんな気持ちになったのは初めてだったと思うが、冬休みが楽しみになった。そして、明日の朝スウェーデンに旅立つわけではないことに、ほっと胸をなでおろした。

どの本にするかについて考えすぎるのは嫌だった。もし迷い出したら、3冊、4冊と候補の本が増えていくだけだろうし、そんなことをしていたら、ストランド書店から帰れなくなる。それで僕はふとした思いつきで、ある本を選んだ。それから、僕は自分のメールアドレスを書き残しておくことの代わりに、他のものを残しておくことにした。マーク(僕の新しい友達の受付係)がリリーにその本を渡すまでには少し時間がかかるだろうから、僕はちょっと先回りできるだろうと思った。僕は何も言わずに彼にその本を手渡した。彼は頷くと、引き出しにそれを仕舞った。

僕が次にすべきことは赤いノートを元の棚に戻すことだというのはわかっていた。そうすれば、誰か他の人がまたこのノートを見つけるかもしれない。僕はその本を戻さずに、自分でそれを持っていることにした。そしてさらに、僕は手に持っている『フランスのピアノ奏法』と『チャラくて太ったプロムクイーン』を購入しようと、レジに持っていった。

このゲームは二人用で、対戦相手は僕だ。



2

(リリー)

12月21日


私はクリスマスが大好き。

この時期のすべてが好き。街はライトアップされているし、ごちそうを食べられるし、親戚がいっぱい集まるし、みんなでクッキーを食べたり、プレゼントがツリーの周りに高く積み上がったり、そういう〈すべてへの善意〉が大好き。厳密には、〈すべての人への善意〉と言うべきなのはわかっているわ。でも内心では、「人」を省略したいのよ。だって、「人」って限定すると、なんだか人種分離主義者やエリート主義者や性差別主義者や、そういう一般的に悪いと言われる「主義者」みたいでしょ。善意は「人」だけに限定すべきじゃないわ。それに「人(men)」って大人の男だけって感じもするから使いたくないのよ。善意は女性にも子供にも当てはまるはずだし、すべての動物にも、地下鉄のネズミみたいな不快な存在にさえ向けられるべきものだわ。私は善意を生き物だけではなく、惜しまれつつ亡くなった人たちにも広げたいのよ。そして死者を含めると、せっかくだからゾンビとか、神話的な存在だと考えられている吸血鬼とかも含めたくなるし、そうすると、小妖精とか、妖精とか、小鬼とかも仲間に入れてあげたいわ。まったく、私たちはすでにみんなで円陣を組んで思いやりを分かち合っているというのに、命が宿っていないとされている人形やぬいぐるみも、どうして仲間に入れてあげないのかしら。(私は人魚のアリエルに大声でエールを送りたいわ。アリエルは私のベッドの使い古された地味な花柄の堅めの枕の上に座っているの。アリエル、大好きよ。)サンタさんもきっと賛成してくれるわ。善意はすべてにってね。

私はクリスマスが好きすぎて、今年は自分で聖歌隊を集めたのよ。もちろん私も歌うわ。私はイースト・ヴィレッジの高級住宅地ボヘミア地区に住んでいるんだけど、でもだからといって、私自身が聖歌を歌うにはクールで洗練されすぎているなんて思わないわ。逆に、私は聖歌隊に思い入れがありすぎて、私の家族がみんな、「旅行に行く」とか、「忙しすぎる」とか、「生活で手一杯」だとか、「もう聖歌隊なんて卒業する歳でしょ、リリー」とか言って、今年の聖歌隊から脱退してしまっても、私は昔ながらの方法で問題を解決したのよ。私は自分でフライヤーを作って、この辺りのいくつかのカフェに頼んで、それを貼り出してもらったの。


募集!

そこの隠れ聖歌隊のみなさん! 聖歌を広めたいと思いませんか? 広めたいですよね? 私もよ! ぜひお話ししましょう。* 心を込めて、リリー。

*いじわるな人は対象外です。私のおじいちゃんはこの近隣に住んでいる人を全員知っています。なので、もし返答で誠意のないことを言ってきたら、あなたはみんなに嫌われることになります。** ありがとう。再び心を込めて、リリー。

**冷たい感じでごめんなさい。でもこれがニューヨークなのよ。


このフライヤーを使って、私は今年のクリスマスの聖歌隊を結成したのよ。メンバーは私と、メルヴィン(コンピューター好きの男性)と、ロベルタ(高校で合唱を教えていた元先生)と、シーナー(いつも女装している振付師兼ウェイターの男性)と、シーナーの恋人のアントワン(〈ホーム・デポ〉でアシスタントマネージャーをしている男性)と、怒れるアライン(ニューヨーク大学で映像を学んでいる菜食主義者でフェミニズムのパンクガール)と、それからマーク(私のいとこで、彼はおじいちゃんに頭が上がらないの。おじいちゃんが彼を聖歌隊に呼び入れたのよ)。聖歌隊のみんなは私のことを「3番のリリー」って呼ぶのよ。どんなクリスマスソングでも2番を過ぎても歌詞を覚えているのは私だけだからね。(アラインはそんなことを気にするような子ではないんだけど、)アラインと私だけがまだお酒を飲める年齢になっていないの。みんなでココアを飲む時なんて、ロベルタのフラスコ瓶を和気あいあいとみんなで回して、ペパーミントのお酒をココアに混ぜて飲んでいるのよ。純粋なホットココアを飲んでいるのは私だけなんだから、3番の歌詞を覚えているのが私だけっていうのも驚くことではないわね。


Truly He taught us to love one another.

His law is love and His gospel is peace.

Chains he shall break, for the slave is our brother.

And in His name all oppression shall cease.

Sweet hymns of joy in grateful chorus raise we,

With all our hearts we praise His holy name.

Christ is the Lord! Then ever, ever praise we,

His power and glory ever more proclaim!


これが『O Holy Night』の3番の歌詞よ!

正直に言うと、私は神様の存在を否定しているいろんな科学的証拠について調べてみたの。それでね、私はサンタクロースもいると思うけど、同じように神様もいるんだなって思えたの。でも私が彼(神様)の名前を、『O Holy Night』の聖歌に乗せて気がねなく、喜びに満ちて口にすることができるのは、感謝祭からクリスマス・イブまでの間だけなの。私も彼もそのことはお互いに理解しているわ。クリスマス・イブにプレゼントを開けたら、また来年、メイシーズ・パレードがよく見える場所を取るために、感謝祭の前日の夜からキャンプする日まで、私と彼の関係は一旦、中断するの。

私もクリスマス期間に可愛くて赤い服を着て、メイシーズの前に立って、ベルを鳴らしながら救世軍への寄付を呼びかけたいんだけど、ママがだめって言うのよ。ママが言うには、そういうベルを鳴らしている人たちは熱心な信仰心を持っているんだって。それにひきかえ、私たちはクリスマス限定の、同性愛も女性の選択権も支持する堕落したカトリック教徒なんだって。まあそうね、私の家族はメイシーズの前に立ってお金を恵んでもらおうとはしないわね。でもメイシーズでお買い物もしないのよ。

私は単に抗議の形として、何か変化をもたらすためにメイシーズの前に行くかもしれないわ。私の歴史上初めて、つまり、私が生きてきた16年間で初めて、今年のクリスマスは家族と離れて過ごすのよ。両親は私と兄を残して、フィジーに飛び立ってしまったわ。そこで、二人は25回目の結婚記念日を祝うみたい。両親が結婚した時、二人は貧しい大学院生だったらしいの。それで、ちゃんとした新婚旅行に行けなかったから、銀婚式の今年、思い切って奮発したのよ。私からすると、結婚記念日って子供と両親が一緒にお祝いするものだと思うんだけど、これに関しては、どうやら私の意見は少数派みたいね。私以外のみんなに言わせると、兄と私が両親の旅行についていったら、「ロマンチック」にならないそうよ。私には熱帯の楽園で一週間二人きりで過ごすことの何がそんなに「ロマンチック」なのかわからないわ。だって四半世紀もの間、ほとんど毎日のように顔を合わせてきた夫婦なのよ。私にはそんなに長い間、ずっと私と二人きりでいたい人が現れるなんて想像もつかないわ。

兄のラングストンが言うには、「リリー、君は一度も恋をしたことがないから理解できないんだよ。彼氏ができればわかるよ」ですって。ラングストンには新しい彼氏ができたのよ。でも私にわかるのは、ラングストンと彼氏がみじめな共依存の関係にあるってことだけね。

それと、私が一度も恋をしたことがないっていうのは、厳密には正しくないわ。小学校1年生の時、スパジーという名前のアレチネズミを飼っていたんだけど、私はスパジーに愛情を抱いていたわ。みんなに見せようと思って、スパジーを学校に連れていったのが間違いだったわ。私はこれからもずっとそのことを悔み続けるのよ。私が目を離したすきに、エドガー・ティボーがスパジーのカゴを開けちゃったのよ。そして、ジェシカ・ロドリゲスの猫の「タイガー」と鉢合わせしちゃって、あとはどうなったか言わなくてもわかるでしょ。善意がネズミの天国にいるスパジーまで届いてほしいわ。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。私はスパジーへの償いとして、その殺りくの日からお肉を食べないことにしたの。私はアレチネズミへの愛を抱いたまま、6歳からずっと菜食主義者なのよ。

それから、私は8歳の時に『ハリエットのスパイ大作戦』を読んだ時からずっと、今もその登場人物のスポートに恋をしているの。私はその主人公のハリエットみたいに、赤いモレスキンのノートに日記をつけることにしたの。一冊書き終わると、おじいちゃんがまたストランド書店で新しいモレスキンのノートを買ってくれるんだけど、あの本を初めて読んだ時から今までずっと日記をつけているのよ。ハリエットが時々書いているような周りの人たちの悪口は、私は書かないけどね。私は大体、そのノートに絵を描いたり、読んだ本の中の覚えておきたい台詞や一節を書き残したり、あるいは、思いついた料理のレシピを書いてみたり、退屈な時には、自分で短い小説を創作して書いてみることもあるわ。私は大人になったスポートに、どれだけ私が最大限の注意を払って、下品なゴシップ記事みたいなことは書かないようにしているか、このノートを見せてあげたいわ。

ラングストンは今恋愛中なの。これで二度目よ。彼の最初の大きな恋はとてもひどい終わり方をしたの。彼は大学1年が終了して、大学のあるボストンを離れると、それから彼の心が癒えるまで、ずっと実家に引きこもっていたのよ。それくらいひどい失恋だったの。私はそこまで誰かを好きになりたくないわ。ラングストンが傷を負ったみたいに私も傷つきたくはないのよ。彼はすごく傷心していて、泣くことか、家の中を歩き回ることくらいしかできなかったの。私は彼に頼まれて、パンの耳を切り落として、ピーナッツバターとバナナを挟んでサンドイッチを作ってあげたし、〈ボグル〉も一緒にやったわ。もちろんそれくらい、いくらでもしてあげるわ。私はラングストンがしてほしいことなら、なんでもしてあげるのよ。ラングストンはようやく回復して、今また恋をしているの。今度の新しい恋人は大丈夫だと思うわ。彼らの最初のデートは交響楽団のコンサートだったのよ。モーツァルトが好きな男でひどい人なんているかしら? 今度は大丈夫であってほしいわ。

残念なことに、ラングストンは新しい彼氏ができてからというもの、私のことなんかすっかり忘れてしまったの。彼は四六時中、ベニーのことばかり考えているのよ。ラングストンにとって、両親とおじいちゃんがクリスマスに出掛けてしまったのは、喜ばしいことなのよ。私にとっては腹立たしいことなんだけどね。私はラングストンに抗議したわ。だって彼は冬休み中、基本的にいつでも自由にベニーを私たちの家に出入りさせているのよ。私は彼に言ったのよ。ママとパパがクリスマス旅行に出掛けていて、おじいちゃんがフロリダの別荘に避寒のために行っていたら、私の相手をするのはラングストンのつとめでしょって。当然よね。彼が誰かにそばにいてほしい時、そばにいてあげたのは私なのよ。

でもラングストンはこう繰り返したわ。「リリー、君はわかっていないようだけど、君に必要なのは夢中になれる相手なんだよ。君には彼氏が必要なんだ」

ええそうね、彼氏が要らないなんて私はひと言も言ってないわ。でも現実的に考えて、あんな風変わりな生き物と付き合うのは難しいわね。少なくとも一つ、性質の問題があるの。私は女子高に通っているのよ。古代ギリシャの女性詩人のサッフォーみたいな面倒見のいいお姉さまたちを軽蔑しているわけではないけれど、でも学校でロマンチックな恋の相手を見つけようという気にはなれないわ。それに、知り合いでもない男の子と出会うこと自体そんなにないんだけど、たとえ出会ったとしても、そしてその男の子がゲイではなかったとしても、大抵Xboxに夢中で私には見向きもしないわ。彼らが思う、10代の女の子はどういうファッションをして、どういう振る舞いをすべきかっていう考えはね、〈マクシム〉とかの男性誌に直接影響を受けているのよ。あるいは、テレビゲームに出てくる着飾ったキャラクターから来ているの。

他におじいちゃんの問題もあるわね。ずっと昔のことだけど、おじいちゃんはイースト・ヴィレッジのアベニューAで、近所の人たちが利用するような食料雑貨店を経営していたの。その店の経営権は売ってしまったみたいだけど、通りの角にあるこの建物はそのまま所有していて、ここで家族を育てたのよ。私の家族は今でもこの建物に住んでいるわ。おじいちゃんは4階の「ペントハウス」に住んでいて、かつて屋根裏の大広間だった部屋を改修したって言っていたわ。かつて食料雑貨店があった1階には、今は寿司レストランが入っているのよ。おじいちゃんはこの近所をずっと見てきたんだけど、この辺りは昔は移民家族が住み着く低収入世帯の多い地区だったみたいなの。それが今では都会派の高収入世帯が多い地区なのよ。この辺りの人はみんな、おじいちゃんのことを知っているのよ。毎朝、おじいちゃんは近くのイタリアン・ベーカリーに行って、彼の仲間の輪に加わるの。そこでは、凄く体格のいいたくましい男たちが上品で小さなカップを手に持ち、エスプレッソを飲んでいるの。その光景はまるでテレビドラマの『ソプラノズ』とミュージカルの『レント』が合わさったような感じなの。つまりね、みんながおじいちゃんを愛情を持って見守っているから、おじいちゃんが可愛がっている私のことも大事にしてくれて、みんなで家族の赤ん坊を世話するみたいに、私の面倒を見てくれるの。彼には孫が10人いるんだけど、私が一番若いのよ。ラングストンが言うには、今までに何人かの地元の男の子が私に興味を示したらしいんだけど、付き合うには私はまだ若すぎるということで、みんなすぐに「納得させられた」みたい。私はこの辺りを歩いている時、可愛い男の子を寄せ付けない見えないマントを羽織っているみたいなのよ。これは問題ね。

それで、ラングストンが二つの計画を思いついたの。(1)私が夢中になって取り組める課題を出す。そうすれば、彼はクリスマス中ずっとベニーと一緒にいられるから。(2)その課題を1番街の西に設定する。そこはおじいちゃんの息のかかっていない地区だから。ラングストンはおじいちゃんが私に買ってくれた一番新しい赤いモレスキンのノートを持ち出して、ベニーと一緒に一連の手掛かりを考えて、計画を練り上げたのよ。私にぴったり合う恋人を見つけるためですって。彼らはそう言っていたわ。でも、その手掛かりは本当の私の性格からかけ離れすぎているわ。つまりね、フランスのピアノ奏法?ってなんだかあやしいし、ゲイのセックスの喜び?私はそんなことについて考えただけで赤面しちゃうわ。完全にいかがわしいわね。チャラくて太ったプロムクイーン?「チャラい」って善意の欠片もない汚い言葉よね。私はそんな言葉を口にしたことはないし、ましてタイトルにその言葉が入っている本なんて読まないわ。

そのノートは冗談抜きでラングストンのくだらない思いつきだって思っていたの。ラングストンがそのノートをどこに置いておくつもりなのかを聞くまではそう思っていたんだけど、そこがストランド書店だったのよ。そこは両親が日曜日によく私たちを連れていってくれた本屋さんなの。私たちは自分たちの遊び場みたいに店内の通路を歩き回っていたわ。その上、彼はそのノートを私のバイブル的な愛読書『フラニーとゾーイー』の横に置くって言うのよ。「もしどこかに君にぴったりの男がいるとしたら」ってラングストンは言ったわ。「きっとサリンジャーの古い版の本を探しているような男だよ。だから、そこから始めよう」

いつものクリスマスシーズンみたいに、今年も家族が私の周りにいて、王道のクリスマスを過ごしていたら、ラングストンが考えた赤いノートの計画には決して賛成しなかったでしょうね。でも今年はクリスマスの予定が全くの白紙で、プレゼントももらえそうにないし、プレゼントほど重要ではないけれど、みんなで楽しく騒ぐパーティーもなさそうなのよ。正直に言うと、私は学校では周りにみんなが集まってくるような人気者ではないから、この子がだめならあの子を誘おう、みたいにクリスマスに会ってくれる友達を選べるわけじゃないの。私にはその日が来るまで楽しみに過ごせる予定が必要なのよ。

でも実際に誰かがそのノートを見つけて、そこに書かれている挑戦に応えてくれるなんて思わなかったわ。ましてや、「読書好きでストランド書店に入りびたっている10代の男の子」なんているとは思わないじゃない。そんな男の子がいるとしたら、きっとみんなに凄く人気があって、それでいて、なるべく目立たないように暮らしているような人よ。まさかそんな人がいて、ラングストンの謎めいた手掛かりを解いて、返事をくれるなんて思ってもみなかったのよ。それってたとえば、私の新しく結成した聖歌隊のみんなが、たったの2回夜の通りで歌った後に、アベニューBにある飲み屋で陽気なアイリッシュ・ソングを歌ってほしいと頼まれて、私を残してそっちへ行ってしまうくらい考えられないことだったわ。

でもね、いとこのマークから私の携帯にメールが届いて、どうやらそういう人が現れたみたいなの。


リリー、ストランド書店に君の挑戦に応じる人がいたよ。彼から君に渡してほしいと頼まれた物があって、それを茶封筒に入れて、書店の受付に置いておいたから。


私は信じられなくて、すぐに返信したわ。「どんな感じの人だった?!?!?」

マークはこう返してきたの。「うざくて、ひねくれた気取り屋。」

私は自分がそのうざくて、ひねくれた気取り屋の男の子と友達になれるか想像してみたけれど、ちょっと無理そうだった。私は上品で、物静かな女の子なの(聖歌隊では物静かではないけどね)。学校の成績もいいし、女子サッカーのクラブではキャプテンをしているのよ。私は家族が大好きで、街では今どんな服装が「かっこいい」とされているのかなんて何も知らないわ。皮肉っぽく気取って言っているわけではなくて、実際、私は凄くつまらないオタクなのよ。たとえば、『ハリエットのスパイ大作戦』の主人公の女の子がいるでしょ。11歳のおてんば娘で頭のいい子供探偵よ。その数年後の彼女を想像してみたらわかるわ。学校がない日も学校のオックスフォード・スタイルの制服を着て、その下に胸のふくらみを隠しているの。兄のお下がりのジーンズをはいて、宝石の代わりに、服装に合った動物の形をあしらったネックレスをつけて、擦り切れたコンバースのシューズを履いて、それからオタクっぽい黒縁メガネをかけているの。それが私よ。「草原に咲くリリー」、たまにおじいちゃんは私をそう呼ぶわ。だって、みんなが私のことを百合の花みたいに可憐で繊細だと思っているんだから。

でも時々、私は白い百合の花を思い切って裏返したくなるの。もっと暗い裏側はどんな感じなんだろうって。気のせいかしらね。

私はノートの謎の受取人がいったい何を私に残していったのかを確かめるために、ストランド書店に大急ぎで向かったわ。受付にマークはもういなかったけれど、マークが私に残してくれた封筒にはメッセージが走り書きしてあった。「リリー、マジであの気取った男はうざいぞ」

私は封を切って中を見たわ。すると...どういうこと?!?!そのうざい男は『ゴッドファーザー』の本を私に残していったのよ。それから、〈トゥーブーツ・ピザ〉の宅配メニューも一緒に入っていたの。そのメニューは汚れていて足跡がくっきり付いていたから、おそらく、それはストランド書店の床に落ちていたんだと思うわ。不衛生という観点からついでに言うと、その『ゴッドファーザー』の本は新品ですらなくて、タバコ臭いぼろぼろの中古品で、紙はしわくちゃで、いつページがばらばらになってもおかしくない状態だったわ。

私はこのわけのわからない謎を解いてほしくてラングストンに電話したの。でも彼は電話に出なかった。両親からフィジーの楽園に無事着いたというメールが届いていたけれど、おそらく、ラングストンはベニーを部屋に招き入れて、部屋の鍵をかけて、携帯の電源をオフにしているんだわ。

私にできることといったら、ピザを食べに行って、一人で赤いノートについてあれこれ考えることくらいしかなかったわ。他に何かできることがあるかしら? 迷った時は、炭水化物を補給しなくちゃ。

私は宅配メニューに住所が載っていたから、その〈トゥーブーツ〉まで行ったの。ハウストン・ストリートのすぐ北のアベニューAにあるお店よ。

そこでカウンターにいた人に、「『ゴッドファーザー』を好きな口うるさい男の子を知っていますか?」と訊ねてみたの。

「そういう知り合いがいたらいいんだけど」と、その店員さんは言ったわ。「ピザにペパロニは入れますか?」

「カルツォーネをください」と私は言ったわ。〈トゥーブーツ〉のピザは変なケージャン料理みたいな味がするから私には合わないの。私の消化器官は神経質なのよ。

私は角のテーブル席に座って、その口うるさい男の子が私に残していった本をぺらぺらとめくってみたけれど、何も有望な手掛かりは見つからなかった。そして、「このゲームは始まったはいいけれど、すぐに終わるんだろうな」と思ったの。私は百合の花みたいに清らかだから、汚れたメニューに付いていたものに気づかなかったのね。

でもその時、本の間に挟まっていたメニューが床に落ちたの。そして、それまで気づかなかった付箋紙がチラッと見えたのよ。私はそれを拾い上げたわ。その付箋紙には明らかに男の子の筆跡で走り書きがされていたの。気分屋みたいな、外国語っぽい、かろうじて読み取れる字だったわ。

そして、自分でも怖かったんだけど、私はそのメッセージを解読できたのよ。書かれていたのはマリエ・ハウという、私の母が大好きな詩人の詩の一部だったの。ママは現代文の教授で、特に20世紀のアメリカ文学を専門にしているから、ラングストンと私は子供の頃、ベッドでおとぎ話の代わりに毎晩のように詩を聞かされたのよ。まるで拷問を受けているみたいだったわ。それで兄と私は恐ろしいくらい現代アメリカの詩に精通しているの。

それはマリエ・ハウの詩の中でも母のお気に入りの一節で、私もいつもいいなって思っていた詩なの。だってね、その中に、街角のレンタルビデオ店の窓ガラスに映る自分の姿を見ているっていう一節があるのよ。私はその詩人の姿を想像して、おかしくて笑っちゃったわ。変わり者の詩人が通りをふらふら歩いていて、ふとビデオ店の前で立ち止まると、窓に反射して映る自分の姿をあやしむようにじっくり観察するの。自分の顔の横にはたぶん、ジャッキー・チェンとかサンドラ・ブロックとかの超有名人のポスターが貼られていたはずよ。そこには詩の一節も詩人のポスターもおそらく一切貼られてはいなかったでしょうね。

私はその気分屋の男の子が私の大好きな箇所を引用しているのを見た時に、彼のことがより一層気に入ったの。

「私は生きている。私はあなたを覚えている。」

それでも私はマリエ・ハウと〈トゥーブーツ・ピザ〉と『ゴッドファーザー』がどのようにつながっているのかさっぱりわからなかったから、もう一度ラングストンに電話してみたんだけど、やっぱり出なかったわ。

それで私は繰り返し何度もその一節を読んでみたの。「私は生きている。私はあなたを覚えている。」私に詩の心得はないけれど、それでもその女流詩人に称賛の言葉を送りたくなったわ。素敵。

すると、二人の人が私の隣のテーブル席に座って、レンタルしてきたビデオを何本かテーブルに置いたの。その時、私はそのつながりに気づいたのよ。角のビデオ店の窓と言えば、この〈トゥーブーツ〉のすぐ隣にもビデオ店があったわ。

私はまるでカルツォーネの上にかかったルイジアナ・ホットソースを間違えて口に入れてしまった時にトイレに駆け込むみたいに、大急ぎでビデオ店に走ったわ。そして、すぐに『ゴッドファーザー』が置いてあるはずの棚の前に行ったの。でも、そのビデオはそこにはなかった。それで店員さんにどこにありますかって聞いてみたら、「貸し出し中です」と彼女は言ったわ。

とにかく私は「G」の一角に戻ってみたの。そしたら、本来あるべき場所ではないところに『ゴッドファーザーⅢ』を見つけたのよ。そのケースを開けてみたら、当たり! もう一枚、別の付箋紙が入っていて、あのこじらせ男子の筆跡でこう書かれていたの。

「誰も『ゴッドファーザーⅢ』は借りないはず。間違ったところに置いてあったらなおさら誰も借りないね。もう一つ手掛かりが欲しい? もし欲しければ、『クルーレス』を見つけてね。それは悲しみと哀れみが出会う場所に間違えて置いてあるよ。」

私は再びカウンターに戻って店員さんに、「どこで悲しみと哀れみは出会いますか?」って聞いたわ。実存哲学みたいな回答が返ってくるものと凄く期待しながらね。

その店員さんはカウンターの下で読んでいる漫画本から顔を上げることなく言ったわ。「外国ドキュメンタリーのコーナーよ」

そう。

私は外国ドキュメンタリーのコーナーに行ってみたわ。そしたら、そうよ、『悲しみと哀れみ』というタイトルのビデオの横に、『クルーレス』があったのよ。そして、『クルーレス』のケースの中には別の紙切れが入っていたの。

「君がここまでたどり着くとは思わなかったよ。君も大量虐殺についての重苦しいフランス映画が好きなのかい? もしそうなら、僕はすでに君のことが気に入っている。もしそうではないなら、一度この映画を見てごらんよ。もしかして君はウディ・アレンの映画も軽蔑しているのかい? 君の赤いモレスキンのノートを返してほしかったら、君の好きな映画を選んで、その中に僕への指示を書いた紙を入れて、カウンターにいるアマンダに渡してね。クリスマス映画以外で頼むよ。」

私はもう一度カウンターに戻って、「あなたはアマンダですか?」って店員の女の子に聞いたわ。

彼女は今度は顔を上げて、片眉をつり上げると、「そうよ」って言ったの。

「あなたの知り合いに渡してほしい物があるんですけど、いいですか?」と私は聞いてみた。もっとあれこれ具体的に説明しかけたんだけど、そんなにあからさまに話す気にはなれなかったの。

「ええ、いいわよ」と彼女は言ったわ。

「『34丁目の奇跡』はありますか?」と私は彼女に訊ねたのよ。



3

-ダッシュ-

12月22日


「これって冗談だろ?」と僕はアマンダに聞いた。でも僕を見るアマンダの表情から、冗談を言っているのは僕の方だなとわかった。

まったく、なんて気の強い子なんだ!クリスマス映画のことなんかに触れるんじゃなかった。どうやら、どんな些細なことにもリリーは反応して、当てつけてくるらしい。そしてメモが入っていた。


5. トナカイ柄の暖かい毛糸のミトンの手袋を探してね、お願い。


となると、僕が次に向かうべき場所は考えるまでもなく自ずと決まってくる。

メイシーズ・デパートだ。

クリスマスイブの二日前だった。

どうせだったら、彼女は僕の顔をギフト用に包装して、僕の中に二酸化炭素を吹き込むくらいのことをしてもいいんじゃないか。あるいは、クレジットカードの領収書をひも代わりにして、僕の首を吊るせばいいのだ。クリスマス二日前のデパートは大勢の買い物客に包囲された街みたいなものだ。店内はきっと、たとえば最後の一つになった〈ミニチュアのタツノオトシゴ入りの球体のガラスの置物〉をわれ先に手に入れようと目をぎらつかせた人たちでごった返しているに違いない。みんながそれをそれぞれの大叔母さんへのプレゼントにぴったりだと考えているわけだ。

そんな中に入っていくなんて僕には無理そうだったし、そんなことしたくもなかったけれど、そうせざるを得なかった。


僕は気を紛らわせようと、「wool(毛糸)」と「woolen(毛糸の)」の違いについて頭の中で議論を始めた。それから、「wood(木)」と「wooden(木製の)」の違いや、「gold(金)」と「golden(黄金の)」の違いについても思考を広げていった。でもそんなことを考えていられるのも、地下鉄を降りて階段を上っている間までだった。地下からヘラルド・スクエアに出ると、一気に買い物袋を抱えた人たちの波にのまれ、僕は転びそうになった。〈救世軍〉への寄付を呼び掛ける鐘の音が不吉な前兆のように耳についた。さっさとここから抜け出さなければ、すぐに子供たちの聖歌隊が目の前に現れ、死ぬほど聖歌を聞かされるに違いない。

僕はメイシーズの中に入っていった。やはりデパートの店内は買い物客で溢れ、目を覆いたくなる光景が目の前に広がった。誰もが誰かのために買い物していた。自分の物を買う時のように、つかの間の満足感にひたる暇もなく、誰もがせわしなく歩き回っている。出費がかさむことは意識的に頭から消しているようだ。クリスマスが差し迫る中で、あらゆる代替案が採用されていた。その結果、好むと好まざるとに関わらず、父親はネクタイを、母親はスカーフを、子供たちはセーターを貰うことになるわけだ。僕のクリスマスの買い物は、12月3日の午前2時から午前4時の間にすでにオンラインで済ましてあった。購入したプレゼントはもう両親のそれぞれの家に置いてあって、両親は新年に旅行から帰宅したら、それを開けることになる。母親も僕へのプレゼントを自宅に待機させてある。一方、父親は僕にこっそり100ドル札を手渡すと、街へ行って好きに使えと言った。実際に父親が言った言葉は正確には、「この金を全部、酒と女に使うなよ」というものだった。もちろんこの言葉の裏には、この金の少なくとも「一部」は酒と女に使えよ、という意味が込められているのだ。もし酒と女にだけ使えるギフト券があって、それを手に入れる方法があれば、父親は彼の秘書がお昼休憩で外出している間に、僕にお金ではなく、そのギフト券を手渡しただろう。

この時期のデパートの店員はいろんな質問を砲弾のように浴びせられて頭がどうかしているのか、「トナカイ柄の暖かい毛糸のミトンはどこにありますか?」というような質問を少しも変だと思っていないようだった。やがて僕は〈上着〉売り場に連れて行かれた。ミトンが上着だとすると、何が〈下着〉の部類に入るのだろう、さすがに耳栓は下着ではないな、などと考えていた。

前から思っていたんだけど、ミトンの手袋って進化の過程を何段階か逆戻りしていると思う。どうしてわざわざあんなのを手にはめて、ロブスターみたいに不便な状態になりたがるのか僕には不思議だった。その時、メイシーズの(メイシーの?)クリスマスギフト用のミトンが目に入り、僕のミトンを軽蔑する思いに新たな深みが生まれた。〈ジンジャーブレッドマン〉みたいな人の形をしたミトンや、キラキラ光る装飾の付いたミトンが売られていたのだ。一対のミトンがヒッチハイカーのごとく親指を突き上げて置かれていた。きっとヒッチハイクの目的地は北極なのだろう。

すると僕の目の前で、中年の女性が一対のミトンを棚から引き抜き、すでに腕いっぱいに抱えていたミトンの山の上に置いた。

「ほんとに?」と僕は無意識に声に出していた。

「なにか?」と彼女はいらついたように言った。

「デザインと実用性は抜きにしても、」と僕は言った。「そういうミトンを買って得することなんて何もないですよ。どうしてわざわざヒッチハイクして北極まで行きたいのかな? 買った物を家まで届けてくれるっていうのも全部クリスマスの商品戦略じゃないですか? 家に帰ってふと目が覚めたら、きっと目の前に、疲れ切って不機嫌な小人の妖精がいっぱいいるはずですよ。もちろん、北極に極を示す柱なんてないことを誰もが知っている時代に、あなたが神話に出てくるような小人の工房があるという考えを受け入れればの話ですけどね。そして、もし温暖化が続けば、柱どころか氷もなくなってしまいますよ」

「ちょっとあなた、あっちへ行ってくださらない?」と、その女性は言い返してきた。それから彼女はミトンを抱えて、どこかへ行ってしまった。

これはクリスマスシーズンだけの奇跡だ。たまったうっぷんを心の中で大声で吐き出す良い機会なのだ。見知らぬ人にも遠慮なくものが言えるし、自分に近しい人たちにも当たり散らすことができる。ちょっとした理由で、むかつくことってあるよね。たとえば、「勝手に俺の駐車スペースを使ってんじゃねーよ」とか、「私がせっかく選んだミトンにケチをつけないでよ」とか、「俺はお前が欲しがっていたゴルフクラブを16時間もかけてやっと見つけたっていうのに、お返しがマクドナルドのギフト券かよ」とかね。あるいは、長年いつ言おうかと機会を伺っていたうっぷんも、この時期に吐き出すことができる。「私が何時間もかけて七面鳥を料理したっていうのに、なんでいつも最後に七面鳥を切る役はあなたなのよ」とか、「もう次のクリスマスをあなたと過ごす気はないわ。あなたを好きなふりをするのはもうこりごりなのよ」とか、「あんたは僕に酒と女が好きな性格を受け継いでほしいようだけど、そうすると、あんたは父親というより反面教師じゃないか」とかね。

こんなだから、僕はメイシーズに出入り禁止にされるべきなんだ。ほんの短い期間が「シーズン」と呼ばれて特別視されるこの時期になると、クリスマス関連の連想が連想を呼び、頭の中に〈言葉が反響する部屋〉をつくり上げてしまうのだから。一旦その部屋に足を踏み入れたら、そこから抜け出すことは難しい。

僕はリリーがその中の一つに何かを隠していると確信し、すべてのトナカイ柄のミトンと握手し始めた。案の定、5回目の握手で何かがクシャッとなった。僕はその手袋の中から紙を引き出した。


6. 私はあなたへのメッセージを枕の下に隠してきたわ。


次に向かうべき場所は、寝具売り場だ。個人的に僕は「bedding」という言葉が好きで、それが「寝具」という名詞としてではなく、「寝る」という動詞として使われる時の響きを好んでいる。「Can you show me the bedding section?(寝具売り場を案内してもらえますか?)」という台詞と、「Are you bedding me? Seriously, are we going to bed each other?(僕と一緒に寝ない?マジで一緒にベッドに入らない?」という台詞には、どちらにも「bedding」が使われているが、後者の方が断然良い響きだ。実を言うと、こういう台詞は実際に声に出すよりも、僕の頭の中でより心地良く響く。ということをソフィアに言ってみたことがある。でも彼女にはその意味が伝わらなかった。そういう時にはいつも僕は彼女が英語を母語としていないからだと考えていた。逆に僕は彼女に、何かスペイン語の曖昧な言い回しを僕に向かって言ってみて、と頼んだこともあるが、僕がそう頼んでいる時も、彼女は僕の言わんとしていることをわかってくれなかった。

それでも彼女は一輪の花のように綺麗だったから、僕はそういうやりとりさえも懐かしい。

僕は寝具売り場に着いた時、あまりのベッドの多さに、リリーはいったいどれだけの枕の下を僕に探させるつもりなんだとあきれた。これだけの広さがあれば、孤児院が丸々一つ入りそうだったし、修道女がふざけ合って遊べるくらいの大きなベッドもいくつかあった。(「私のベールを取って!私のベールを取ってちょうだい!」)

僕が思いついた唯一の効率的な方法は、寝具売り場を四分割して、北側から時計回りに見ていくことだった。

最初のベッドはペイズリー柄で、ベッドの上には4つの枕が立て掛けるように置かれていた。僕は次のメモを探そうと、すぐに枕の下に手を入れた。

「お客様?どうかなさいましたか?」

振り向くと、ベッド売り場の店員がいた。彼の表情は面白がっているようでもあり、警戒しているようでもあった。彼は原始時代を描いたアニメに出てくるバーニー・ラブルにそっくりだった。ただ、原始時代にはなかったはずの日焼けスプレーで肌を褐色にしているようだった。僕は彼に親しみを覚えた。と言ってもスプレーで日焼けしているからではない。僕はそんな馬鹿な真似はしない。そうではなく、寝具売り場の店員が聖書に出てくるような矛盾をはらんだ仕事だと思ったからだ。つまり、彼はここで1日8時間とか9時間立っていることを強いられ、しかもその間ずっとベッドに囲まれているのだ。そしてそれだけではなく、彼はベッドを見に来る買い物客に囲まれながら、「お客さん、実は私はさっきから、一瞬でもいいからこのベッドに横になりたい気持ちでいっぱいなんですよ」とか頭では思っているはずだ。それに、彼は自分自身の横になりたいという欲求を抑えるだけでなく、お客さんが寝転がるのも止めなければならない。もし僕が彼なら、きっと人恋しくなって、誰かと話したくてたまらないだろう。そんなわけで僕は彼を信頼して、当てにすることにした。

「探している物があるんです」と僕は言った。彼が指輪をしているのがチラッと見えた。当たりだ。「結婚しているんですね?」

彼はうなずいた。

「えっと、ここにあるはずなんです」と僕は言った。「僕の母親ですか? 母親はさっきここでベッドを見ていて、その時にどれかの枕の下に買い物リストを落としてしまったみたいなんです。それで今、母親は上の階で食器を見ているんですけど、誰に何を買えばいいのか思い出せなくて困っていて、そしたら父親もカンカンに怒ってしまってキレそうなんです。父親はテロリズムとか相続税とかと同じくらい買い物が好きなんですよ。それでぼくに下の階に行って、買い物リストを探してこいって言うんです。だから、すぐに見つけないと、彼の怒りで5階の床が溶け出して大きな穴が開いちゃいますよ」

日焼けしすぎのバーニー・ラブルはこめかみに指を当てて、頭を働かせていた。

「そういえば彼女のことを覚えているかもしれません」と彼は言った。「枕の下を探したいのでしたら、私も一緒に探しましょう。ただ、枕をちゃんと元通りに戻してください。それとシーツにしわをつけないように気をつけてくださいね」

「あ、わかりました!」と僕は彼に請け合った。

僕がいつか酒と女に夢中になったら、「ちょっといいですか、お嬢さん、僕は君とベッドに入って、一緒にシーツをしわくちゃにしたい。ひょっとして今夜空いてる?」という決め台詞を言おうと決めた。

ここで、法的に訴えられそうなことを言うリスクは承知の上で、メルシーズの寝具売り場の枕の下でいろんな驚くべき物を見つけた、と述べておかなければならない。食べかけのチョコレートバー。赤ちゃん用のグミ。名刺。それから、死んだクラゲともコンドームとも思える何かがあった。でも僕はそれがなんなのか、はっきりとわかる前に指を引き抜いた。バーニーは運悪く腐乱したネズミの死体を見つけて、小さく声を上げた。彼はすぐにそれを埋葬して、完全に殺菌消毒するためにどこかへ走っていった。その直後、僕は探していた紙切れを見つけたのだ。


7. 次のメッセージがどこにあるのかサンタさんに聞いてみてね。あなたにできるかしら。


無理、無理。なんてことを言い出すんだ。そんなこと絶対に無理だ。

彼女の勝気な性格に魅力を感じなければ、僕はさっさと逃げ出していただろう。

でも僕は逃げることなく、一目散にサンタに向かっていた。

しかしサンタにたどり着くのは、そう簡単なことではなかった。一階に下り、〈サンタのワンダーランド〉に行ってみると、少なくとも10クラス分はある長蛇の列ができていた。列を成す子供たちはだらだらしている子もいれば、そわそわしている子もいた。そのそばにいる両親たちは携帯電話で話したり、ベビーカーの赤ちゃんをあやしたり、あるいは、ゾンビみたいにふらふらしていた。

幸いにも僕には本があった。サンタの列に並んで待たなければならないような手持ち無沙汰になる時のために、外出時にはいつも本を携帯しているのだ。少なからざる親たちが、特に父親たちが僕にけげんな視線を向けてきた。僕についてあれこれ頭で算段しているのがわかった。僕はサンタを信じているような年齢ではないし、かといって子供の世話をするほど大人でもない。もし僕をあやしんでいるようなら、僕は無害だと言いたかった。

最前列にたどり着くのに45分もかかった。子供たちは〈欲しいものリスト〉や、クッキーや、デジタルカメラを手早く取り出していたが、僕の手には『卑しい肉体』しかなかった。ついに僕の番が来た。僕の前の女の子がサンタとの話を切り上げたので、僕は前に進もうとした。

「ちょっと待ちなさい!」と、独裁者のような命令口調のガラガラ声が横から聞こえた。

僕は頭の中で毒づいてやろうと、一瞬下を向いて言葉を探したが、今まで経験したクリスマスの中で一番陳腐な台詞しか思いつかなかった。権力狂の妖精め。

「君は何歳?」と彼はどなった。

「13」と僕は噓をついた。

彼の目が、頭にかぶっている馬鹿みたいな緑の帽子の先と同じくらい細くなった。

「申し訳ないが、」と彼は言ったのだが、彼の声は全然申し訳なさそうではなかった。「12歳までという決まりなんだ」

「そんなに時間はかかりませんから」と僕は言った。

「12歳までなんだよ!」

前の女の子がサンタと話す割り当てられた時間を終え、僕の番が来たのだ。正真正銘、僕の番だった。

「一つだけサンタに聞かなければならないことがあるんです」と僕は言った。「それだけなんです」

その妖精は体を張って僕の行く手をさえぎり、「今すぐ列から出て行きなさい」と迫ってきた。

「やれるものならやってみろ」と僕は言い返した。

列を作る人たちがみんなこちらを見ていた。子供たちが恐怖で目を丸くしている。父親たちのほとんどが、一部の母親たちも、僕が何かしようものなら僕を取り押さえようと身構えていた。

「警備員を呼んでくれ」と、その妖精は言ったが、僕には彼が誰に話しかけているのかわからなかった。

僕は太ももで彼の肩を押しのけるようにして前に進んだ。もう少しでサンタまでたどり着くというところで、お尻を引っ張られた。妖精が僕のジーンズの後ろのポケットをつかんで引き戻そうとしたのだ。

「おい、離せ、僕から手を離せ」と僕は言って、蹴り返した。

「お前は始末に負えないやつだな!」その妖精は叫んだ。「なんてたちが悪いんだ!」

僕たちはサンタの注意を引きつけた。サンタは視界の中心に僕をとらえると、笑い出した。「ほっほっほー!どうしたというのじゃ?」

「リリーに頼まれて」と僕は言った。

彼はあごひげを触って考えていたが、心当たりがあるようだった。その間にも妖精は僕のジーンズを下ろしかけていた。

「ほっほっほー!彼を離してあげなさい、デズモンド!」

妖精は手を離した。

「警備員を呼びますよ」と彼は言い張った。

「もし警備員を呼ぶようなら、」とサンタはぶつぶつ言った。「あなたは今すぐハンドタオルを折りたたむ仕事に戻ることになりますよ。鈴のついたブーツをぬぐ時間も、妖精のボクサーパンツをぬぐ時間もないくらい今すぐにです」

あの時、妖精が小型の彫刻道具か何かを隠し持っていなくて本当に良かった。もし彼がそんなものを持っていたら、あの日はメイシーズにとって特別な日になっていたかもしれない。

「よし、よし、よし」とサンタは妖精が退いたのを見て言った。「こっちに来て、私のひざの上に座りなさい、坊や」

このサンタのあごひげは本物だったし、髪の毛も本物だった。彼は即席でサンタの格好をしているだけのふざけたやつではなかった。

「僕は坊やじゃない」と僕は指摘した。

「それでは、大きな少年、私のひざに乗りなさい」

僕は彼のひざの上に乗ろうとしたのだが、彼のお腹の下にはあまりスペースがなかった。なんとか僕が彼の上に乗った時、間違いなく彼は、さりげなくではあったが、股間の位置を調節した。

「ほっほっほー!」と彼は高笑いした。

僕は彼のひざの上に用心深く座った。なんだかガムが吐き捨てられている地下鉄の座席みたいな感触だった。

「君は今年良い子にしていましたか?」と彼は聞いてきた。

僕は自分の素行の良さや悪さを自分で評価できるほどちゃんとした人間ではない、と思ったが、話に乗って先を急ぐために、はい、と答えた。

すると彼は喜んで体をゆさゆさと揺らした。

「よし!よし!それでは今年のクリスマスには何が欲しいのかな?」

それは考えるまでもなかった。

「リリーからのメッセージです」と僕は言った。「それがクリスマスに欲しいものです。でも今すぐに欲しいんです」

「まあ、そう焦るな!」サンタは声を低くして、僕の耳元で囁いた。「サンタから君へちょっとしたプレゼントがあるんだ」彼はコートの下で腰をずらした。「もしそれが欲しければ、サンタのお腹をこすりなさい」

「どういうことですか?」と僕は聞いた。

彼は視線を落として、お腹をなでる仕草をした。「さあ、なでなさい」

よく見ると、彼の赤いベルベットコートの下にうっすらと封筒の輪郭が浮かんで見えた。

「君が欲しいものはこれだね」と彼は囁いた。

この状況を切り抜けるには、僕は試されているのだと思い込むしかなかった。

調子に乗るなよ、リリー。君は僕をおじけづかせることなんてできない。

僕はサンタのコートの下に手を入れた。恐ろしいことに彼はコートの下に何も着ていなかった。熱くて、汗まみれで、脂肪がたぷたぷしていて、毛深いお腹だった...そのお腹が大きな障壁となって、封筒を取ろうとする僕の行く手をはばんだ。なんとか封筒をつかもうと、僕は前かがみになり、腕を曲げなければならなかった。その間ずっとサンタは「あっほほー、ほほっおっほー!」と、僕の耳元で笑っていた。その時、妖精が叫ぶのが聞こえた。「いったい何をやっているんだ!」そして周りの親たちが悲鳴を上げた。

そう、僕はサンタの体をまさぐっていたのだ。そして、やっと封筒の角をつかむことができた。彼はお腹を揺すって僕の手から封筒を引き離そうとしたが、僕はしっかりとつかんだまま、勢いよく手を引き抜いた。封筒と一緒に、彼のお腹に生えていた白い毛も何本か抜いてしまった。

「うおっほっほー!」と彼は叫んだ。僕は彼のひざの上から飛び降りた。「警備員が来たぞ!」と妖精が言い放った。手紙は僕の手の中にあって、湿っぽくはなっていたが無傷だった。「あの人、サンタに触ったよ!」と、小さな子供が甲高い声を上げた。

僕は走った。階段を上ったり下りたりして、通路をくねくねと曲がり、買い物客たちの間をくぐり抜けるように走った。そうしてメンズウェアの売り場にたどり着いた僕は試着室に逃げ込むと、やっとひと息つくことができた。

誰かがそこに置いていった紫色のベロア生地のトレーニングウェアがあったので、それで手と封筒を拭いた。それから、リリーの次のメッセージを見ようと封を開けた。


8. そう来なくっちゃ!

さて、私がクリスマス(か12月22日)に欲しいものは、

あなたの最高のクリスマスの思い出です。

私の赤いノートも返してほしいから、

あのノートにあなたの思い出を書いて、

2階にある私の靴下の中に入れておいてね。


僕はモレスキンのノートをめくっていって、最初に出てきた白紙のページにクリスマスの思い出を書き始めた。


僕の最高のクリスマスは8歳の時のクリスマスだね。両親が離婚したばかりだったんだけど、二人とも僕は運がいいって言っていた。だって、それまでは年に一回だったクリスマスを二回も楽しめるんだからね。両親はオーストラリア式のクリスマスだと言っていた。夜に母親の家でプレゼントをもらって、翌朝には父親の家でもらうんだ。オーストラリアではクリスマスが二日あるからいいんだって。それは僕にとって嬉しいことで、正直言ってラッキーだと思ったよ。2回もクリスマスを楽しめるんだからね!二人ともなんだか張り切っていて、豪華な食事が出て、それぞれの家にそれぞれの親戚が集まっていた。両親は僕の〈欲しいものリスト〉の中央に線を引いて二人で割ったんだと思う。僕は重複なしに欲しかったものをすべてもらったからね。

そして二日目の夜、父親が大きな失敗をしたんだ。僕は遅くまで起きていて、とっくに寝るべき時間は過ぎていた。親戚たちはもう帰宅していた。彼は何か茶色っぽい金色の、おそらくブランデーを飲んでいた。彼は僕を横に座らせると、二回もクリスマスをやるのは気に入ったか?と聞いてきた。僕は、うん、と答えた。そして彼はもう一度、なんて運がいい子なんだ、と言った。それから父親は僕に、何か他に欲しいものはあるか?って聞いたんだ。

だから僕は言ったんだよ。ママも一緒にいてほしいって。そしたら彼はまばたき一つせずに、わかった、きっと叶えてみせるって言ったんだ。僕は彼を信じたよ。僕は運がいいってことも信じたし、二回のクリスマスは一回より楽しいって思い込んだし、たとえサンタは実在しないとしても、僕の両親はまだ魔法を使えるんだって信じたんだ。だから、あの時のクリスマスが僕の最高のクリスマスなんだよ。僕が本気でそういうことを信じていた最後のクリスマスだからね。


メッセージを投げかけて、それに対する返事をもらう。もしリリーが僕のメッセージを理解できなかったら、このやりとりを続ける理由はないな、と思った。

あのサンタがいる場所には近づかないようにして、警備員たちからも距離を取りながら二階に行ってみると、名前入りのクリスマスの靴下を売っているコーナーがあった。確かに「リナス」と「リビニア」の間に、「リリー」と名前の入った靴下がかかっていた。僕はその靴下の中に赤いノートを入れた...

...でも僕はその前にAMCシアターに行って、リリーに映画のチケットを買った。翌日の午前10時からの『おばあちゃんがトナカイにひかれちゃった』のチケットを買って、ノートに挟んでおいたのだ。



4

(リリー)

12月23日


私はまだ一人で映画を見に行ったことがない。映画館に行く時はいつもおじいちゃんと一緒か、お兄ちゃんと両親と一緒か、いとこたちと大勢で行くかだからね。ポップコーン好きのゾンビの集団みたいに親戚同士で見るのが一番いい。笑うツボも、息をのむシーンも同じだから気を使わなくて済むし、細菌を気にして特大サイズのコーラを一本のストローで回し飲みできないなんてこともないし、親戚ってそういう意味で気楽なのよ。

私は午前10時から上映の『おばあちゃんがトナカイにひかれちゃった』には、ラングストンとベニーも一緒に来てもらうつもりだったの。だって、このノートの計画自体、彼らの発案なんだから、彼らには私を連れていく責任があるでしょ。私は午前8時ちょうどに二人を起こしたわ。家を出る前に彼らに事情を説明する時間も必要だったし、それだけ時間があれば、彼らは皮肉な台詞がプリントされたTシャツを選んでから、〈髪型なんか気にしていませんよと見せかけて実は気にしすぎ〉の無造作ヘアーに髪を乱すこともできるでしょ。

そしたらラングストンは彼を起こそうとする私に向かって枕を投げつけてきたのよ。彼はベッドから一歩も出ようとしなかった。

「僕の部屋から出て行け、リリー!」と彼は不機嫌そうに言った。「一人で映画に行ってこい!」

ベニーは寝返りを打って、ラングストンのベッドの横の時計を見た。「あら、かわいこちゃん、朝の何時? 8時? まったくどうしたの、クリスマス休暇中なんだから、お昼まで寝るのが決まりみたいなものでしょ、ね、かわいこちゃん...さあ、自分の部屋に戻って寝なさい!」ベニーはうつ伏せに寝転がると、頭の上に枕を載せた。そして、すぐに眠りの世界に入っていったようだった。おそらくスペイン語まじりの英語で夢を見ているのだろう。

実は私自身もすごく疲れていた。午前4時に起きて、新しくできた友達というか、謎のこじらせ男子くんに特製のプレゼントを作っていたからね。一瞬、子供の時みたいにラングストンの隣にごろんと寝転がってうたた寝するのも悪くないなと思った。でも、もし私が今日みたいな特別な朝に、このような特別な関係の人が彼の横で寝ている時に、そんなことをしようものなら、ラングストンは待ち構えていたと言わんばかりに、さっきの台詞を繰り返すことは目に見えていた。

「聞こえないのか?リリー、この部屋からさっさと出て行け!」

彼がそう言うところを想像していたら、実際に彼はそう言ってきた。

「でも、私は一人で映画を見に行ってはいけない決まりでしょ」と私はラングストンに思い出させた。少なくとも私が8歳の時はそういう決まりだったし、ママとパパは私が年を重ねるごとにそのルールも改変されていくなんて一言も言っていない。

「もちろん君は一人で映画を見に行ってもいい。たとえそれがルール違反だとしても、ママとパパがいない時の責任は僕にあるんだ。というわけで僕が許可する。それから今すぐ僕の部屋から出ていけば、君の門限を午後11時から12時に延ばしてあげる」

「私の門限は午後10時よ。それに私は夜遅くに一人で外出することは許されていないわ」

「いいかい?考えてごらん、君の新しい門限は門限を取っ払うことなんだ。君は好きなだけ遅くまで外出できるし、誰と一緒にいてもいいし、一人だっていいんだ。ただ携帯の電源だけは入れておくこと。僕が電話して君の生存を確認することができるからね。自由に酔っぱらってもいいし、男の子と遊び回ってもいいんだよ。そして...」

「ラーラーラーラーラー」と私は言いながら、両手で耳を塞いでラングストンの下品な話が入ってこないようにした。私は振り向いて彼の部屋から出て行こうとしたんだけど、もう一度部屋の中を振り返って聞いた。「クリスマスイブの前日には何を作ったらいいかしら?私が考えているのは栗を焼いて、」

「出て行け!」と、ラングストンとベニーが同時に叫んだ。

クリスマスイブの前日の祝賀ムードも台無しね。私たちが小さかった頃は、クリスマスまでのカウントダウンを一週間前からやっていたのよ。ラングストンと私は朝食の時に、「おはよう!ハッピークリスマスの前の前の前の前の日!」とか言い合って、クリスマスの日まで毎日楽しく過ごしていたのに。

私はどんなモンスターが映画館にひそんでいるのか不安になった。きっと兄がベッドから出ようとしなかったばかりに一人で映画館に行くはめになった多くの女の子たちが、モンスターのえじきになっているんだわ。私はぐずぐずしていても仕方がないし、心もとなくても現実を直視して、危険なシナリオに備えたほうが良さそうだと思った。私は着替えて、特製のプレゼントを包んでから、洗面所の鏡の前に立って、いかくするような表情の練習をした。映画館で一人で座っている人を狙うモンスターを寄せつけないためにね。

私が鏡に向かって、舌を出して振り動かしてみたり、鼻にしわを寄せてみたり、憎しみに満ちた目でにらんでみたりして、自分にできる最大限のひどい顔を練習していると、ベニーが洗面所の入口のところに立っているのが鏡越しに見えた。「なぜ君は鏡に向かって子猫みたいな可愛い表情を作っているんだい?」と彼はあくびしながら聞いてきた。

「ひどい顔を作っているのよ!」と私は言った。

ベニーはこう言ってきた。「ほら見てごらん、ひどい子猫顔より、今君が着ているその服装のほうがよっぽど男の子をおじけづかせるよ。そんな格好をして、15歳のお祝いをしたばかりのお嬢ちゃんはどうかしちゃったのかい?」

私は視線を下げて自分の服装を見た。オックスフォード・スタイルの制服のシャツをひざ丈の深緑のフェルト生地のスカートの中にたくし込んでいる。そのスカートにはトナカイの刺しゅうが入っている。キャンディー棒みたいに赤と白がくるくる渦を巻く柄のストッキングに、擦り切れたコンバースのスニーカーを履いている。

「これのどこがおかしいって言うの?」と、私は笑顔を反転させるようにまゆをひそめて訊ねた。「クリスマスの前の前の日にふさわしい、とても華やかな格好だと思うし、それにトナカイの映画にはぴったりだわ。というか、てっきりあなたは眠りの世界に戻ったのかと思ったわ」

「トイレ休憩だよ」と、ベニーは私の頭からつま先までをファッションチェックするように見ながら言った。「全然だめ。そのスニーカーはなってない。クリスマスっぽい服装で行くつもりなら、もっと本気で身支度したほうがいい。おいで」

彼は私の手を取ると、私を引きずるように私の部屋に連れ込んだ。そしてクローゼットの前に立つと、彼はコンバースのスニーカーの山を眺めて、何かいい靴はないかと探した。「他の靴は持っていないのかい?」と彼は言った。

「古いドレスとかが入ったトランクの中になら、」と私は冗談めかして言った。

「いいね」と彼は言った。

ベニーはすかさず部屋の隅にあった古いトランクに近寄ると、バレエ用のチュールスカートを引っ張り出し、それから丈の長いハワイアン・ドレスや、「#1 FAN」という文字の入った野球帽や、子供用の消防士のヘルメットや、プリンセスの絵柄のスリッパや、厚底靴や、びっくりするほどの数のクロックス・サンダルを次々に取り出した。ついには大叔母さんのアイダが昔バトンガールをやっていた時に履いていた房の付いたブーツまでつかんで引っ張り出した。そのブーツのつま先とかかとには、歩くとコツコツ音がする金具が付いていた。「君はこれ履ける?」とベニーは聞いてきた。

私は試しに履いてみた。「ちょっと大きいけど、大丈夫かな」そのブーツは私のキャンディー柄のストッキングを素敵に引き立てていたから、私はそのブーツが気に入った。

「すごくいいよ。それに冬用のニット帽をかぶれば、ばっちりだよ」

冬の寒さから頭を守る私の必須アイテムは、貴重なビンテージものの赤いニット帽で、耳のところから毛糸のポンポンがぶら下がっている。その帽子がなぜ「ビンテージ」なのかと言うと、私が小学4年生の時、自分で編んだそのニット帽をかぶってクリスマス発表会のステージに立ったからなの。『A Christmas Carol(ing) A-go-go』という、ディケンズの小説『クリスマス・キャロル』をベースにしたディスコ風のミュージカルを演じたのよ。その出し物の許可を取るのに校長先生を説得するのがとても大変だったわ。かたくなにキリスト教的なものを嫌う人っているのよね。

服装をばっちり決めて、私は家を出ると地下鉄の駅に向かって歩き出した。よっぽど家に戻ってバトンガールのブーツから履き慣れたコンバースのスニーカーに履き替えようとも思ったんだけど、ブーツが舗道に当たるたびにコツコツと金属音が鳴って、なんだかウキウキしてきたから、そのままブーツで歩き続けていたら、そのブーツはちょっと大きくて、足がすぽっと抜けてそのまま歩いて行きそうになった。(「このブーツって...するりと脱げる用にできているのかしら...ラララ...ハハハ」)

謎のこじらせ男子くんの跡を追うのはワクワクするけれど、『おばあちゃんがトナカイにひかれちゃった』という映画のチケットをノートに挟んでくるような少年が、付き合いたくなるような男の子である可能性は低いだろうな、と私は認めざるを得なかった。まず単純に、私はそのタイトルが気に入らなかった。ラングストンが言うには、私はこういうことに関してユーモアのセンスをもっと磨くべきみたいだけど、私たちにとって大切な存在である年配の人をトナカイが追い回すことの、どこがそんなに面白いのか私にはわからない。トナカイは草食動物で植物をエサとし、肉は食べないというのはよく知られている事実なので、私はトナカイが誰かのおばあちゃんを襲うなんて有り得ないと思う。おばあちゃんに危害を加えてしまったトナカイのことを考えるだけで私はやるせない気持ちになる。だって、もしそんなことが映画ではなく現実世界で起こったら、野生生物局がそのトナカイを捕まえて、そのかわいそうな角の生えたトナカイくんを処分してしまうわ。きっとおばあちゃんが誤ってトナカイの前に飛び出しちゃったとか、そういうことがきっかけなのよ!そのおばあちゃんはメガネをかけるのをいつも忘れるの。骨粗しょう症を患っていて、猫背でゆっくり歩いていたんだわ。そしたら大人のバンビちゃんにぶつかっちゃったのよ!

私がわざわざ映画館まで行くのは、謎の少年をひと目見ることができるかもしれないという理由が大きかった。彼が私の靴下の中に入れたモレスキンのノートには映画のチケットが挟んであったんだけど、そのチケットには付箋紙が貼られていて、こう書かれていた。


映画館に行くまでは、僕がこのノートに書いたことを読まないように。

そして、このノートに君の最悪なクリスマスの思い出を書いて。

どのように最悪だったのかを省略せずに詳しくね。

そしたら、このノートをママのお尻の後ろに置いておいて。

ありがとう。


私は誠実でありたい。だから前もってノートは読まなかった。それって両親がクローゼットに隠してあるクリスマス・プレゼントをこっそりのぞき見るみたいなものだし、私はその映画が終わるまではノートを読まないでおこうと心に決めた。

『おばあちゃんがトナカイにひかれちゃった』が私の嫌いな映画だというのは覚悟していたけれど、その映画館で目にしたものは全く予想していなかった。その映画を上映している映画館の外には、壁沿いにずらっとベビーカーがきちんと列を成して置かれていた。館内は大混雑だった。どうやら午前10時からの上映回は子供を連れたママたちのためにあるらしい。連れてきた赤ん坊やよちよち歩きの子供が館内で心ゆくまでわめいたり、げっぷをしたり、泣いたりしている横で、ママたちは本当に子供に不適切な映画を見ることができる。館内は「ワーワー」、「ママー、...したい」、「やだ!」、「あたしのだよ!」といった騒がしい子供たちの声で溢れていた。ゴールドフィッシュクラッカーやチェリオなどのお菓子が後ろの列から飛んできて私の髪に当たったりして、私はほとんど映画に集中することができなかった。レゴのおもちゃが空中を飛ぶのも見たし、大叔母さんのアイダのタップ付きブーツの下は、子供用のマグカップから床にこぼれたジュースでベタベタするし、映画どころじゃなかったわ。

私は子供が怖いのよ。まあ、見た目は可愛くて鑑賞するには良い存在だと思うけど、子供って要求ばっかりしてるし、わけのわからない行動をするし、時々変な匂いもするからね。私もかつてはそんな赤ん坊だったなんて信じられないし、さらに信じられないのは、その映画の内容よりも、そういう館内の状況にうんざりさせられたことだった。スクリーン上で太ったママを演じる黒人のコメディアンを見ていられたのは最初の20分だけだった。その間ずっとママたちがあちこちの席で子供となにやら交渉している声が上がっていて、私はもうそれ以上は耐えられなかった。

私は席を立つと、スクリーンのある劇場から出てロビーに出た。そこはある程度平和で静かだったので、私はようやくノートを読むことができると思った。ところが集中して読もうと思った矢先、子供をトイレに連れていって戻ってきた二人の母親が私に近づいてきて、声をかけられた。

「あなたの履いてるブーツいいわね。素敵!」

「その帽子はどこで買ったの?素敵ね!」

「私は素敵じゃない!」と私は金切り声を上げた。「私はただのリリーよ!」

二人の母親は後ずさり、そのうちの一人が言った。「リリー、ママに言って、ADHDを治す薬を処方してもらいなさい」そして、もう一人がチェッと舌打ちした。二人の母親は〈金切り声を上げるリリー〉から遠ざかると、子供をせかすようにスクリーンのある劇場へそそくさと入っていった。

その時、『おばあちゃんがトナカイにひかれちゃった』の宣伝用のボール紙を切り抜いた巨大パネルが立っているのが目に入り、その後ろに隠れるスペースがあるのに気づいた。私はそのパネルの後ろに回り込み、あぐらをかいて座ると、ノートを開いた。やっと読める。

彼の文章を読んで、私はとても悲しくなった。

と同時に読みながら私はかなり嬉しい気持ちにもなった。朝4時に起きて彼のためにクッキーを作ったかいがあったと思った。と言っても、練り粉はママと私で一ヶ月くらいもつように前もって作って冷凍庫に入れてあったから、私はいろんな味の練り粉を解凍して、クッキーの型に入れて焼くだけだったんだけどね。じゃーん!この缶いっぱいにスプリッツ・クッキーを作ってきたのよ。使えるものはすべて使って味付けしたの。(こじらせ男子くんはそんな私の努力に見合う人に違いないと確信しているわ。)味付けに使ったのはチョコレート・フレーク、エッグノッグ、ジンジャーブレッド、レープクーヘン・スパイス、ミント味のキャンディー、それとカボチャ。それから、それぞれのスプリッツ・クッキーの味に合った色の粉砂糖を振りかけて飾り付けして、最後にクッキーの缶にリボンを付けて包装したってわけ。

私はヘッドフォンを取り出して、iPodでヘンデル作曲のクラシック音楽『メサイア』を聴き始めた。それで私は書くことに集中できた。手に持ったペンを掲げて音楽に合わせて指揮者の真似をしたい欲求を抑えながらではあったけれど、私は謎の少年の質問に答えた。


私の唯一の嫌なクリスマスの思い出は6歳の時のクリスマスね。

あと一週間くらいでクリスマス休暇に入る頃だった。学校で自慢のものを持ち寄ってみんなの前で発表する授業があったんだけど、その時に恐ろしい事故が起こって、私の飼っていたアレチネズミが死んじゃったの。

わかるわ、そうね、おかしな話よね。でもちっともおかしくなんかなかった。それどころか、ぞっとするような虐殺だったわ。

ごめんなさい。でもあなたの「省略するな」というリクエストには応えられない。あの恐ろしい瞬間の詳細は省略させてもらう。記憶がまだ鮮烈すぎて、気が動転して書けそうもないのよ。

私が本当に傷ついたのは、(もちろん罪の意識やペットを失った悲しみもあったけれど、それとは別に、)その出来事によって私にあだ名がついたことなの。その光景を見た瞬間、私は絶叫したわ。怒りや悲しみの感情が一気にふくれ上がって、まだ小さかった私の体には収まりきらなかった。どうしても泣きわめく自分を抑えられなかったのよ。クラスのみんなが私の背中を触ったりして、話しかけてくれたけれど、私はただ泣き叫んでいたわ。なんだか私の根底にあった衝動があふれ出したみたいだった。もう抑えがきかなくなっていたの。

その週から私は学校で〈金切り声のリリー〉として知られるようになった。そのあだ名は小学校と中学校を卒業するまでずっと私につきまとったわ。仕方なく両親は私を私立の高校に入れたのよ。

あの年のクリスマスは私が〈金切り声のリリー〉になって最初の週にやって来た。そんな特別な祝日に、私はアレチネズミを失った喪失感を抱きながらも、子供がみんな持っている残酷な無邪気さを嘆いていた。きっとみんなはうまく折り合いをつけていくのよね。

そのクリスマスの日、家族が私を心配してこそこそ言い合っているのが聞こえて、私はついに理解したのよ。私は感受性が強すぎるし、繊細すぎるし、他の人とは違っているんだって。

そのクリスマスの日、私が誕生日会に誘われないのも、いつも最後に仲間に加えられるのも、私が元々〈金切り声のリリー〉だったからだって気づいたの。

そのクリスマスの日に私は自分が変な女の子なんだって気づいたのよ。


私はそれを書き終えると、立ち上がった。ただ、「ママのお尻の後ろにノートを置いておいて」と書いてきた謎の少年の意図がさっぱりわからなかった。もしかしてお尻の後ろってことは逆に「前」って意味で、映画の上映中にママたちの前に出ていって、スクリーンの前にノートを置いてくるってことかしら?

ロビーの向こう側に売店が見えて、店員さんが何かヒントを知っているかもしれないと思った。ポップコーンが特に美味しそうだったので、とりあえずポップコーンを食べようと思った私は急激な空腹感に見舞われ、急いで売店に向かおうとして、あやうくそのボール紙のパネルをひっくり返しそうになった。

その時、「ママのお尻」の意味がわかったのよ。私はすでにママのお尻の後ろにいたんだわ。そのボール紙を切り抜いた巨大パネルの表側には、太ったママを演じる黒人が写っていて、そのママのお尻はとっても大きかった。

私はノートに新たな指示をいくつか書き込むと、それをママのお尻の後ろに隠すように置いた。このノートを探して取りに来る人以外は、誰の目にも触れそうもない場所だった。赤いモレスキンのノートの横にクッキーが入った箱と、それから劇場の床に落ちていた(べっとりとガムがくっついている)観光地の写真入りのハガキも一緒に置いて、私はそこから立ち去った。そのハガキはマダム・タッソー館で売られているものだった。マダム・タッソー館は私のお気に入りの場所で、タイムズ・スクエアにあって観光客に人気のスポットになっている。

私はそのハガキにメッセージを書いた。


あなたがクリスマスに欲しいものは何?

といっても、ひねくれてずる賢いことを考えないでね。あなたが本当に本当に本当に心の底から浮かんでくる超絶欲しいものは何?

それをこのノートに書いたら、正直者のリンカーン大統領を警護している警備員の女性に渡してね。*

ありがとう。

心を込めて、

リリー


*追伸、心配しないで。その警備員はあなたの体をまさぐろうなんてことはしないはずよ。メイシーズでサルおじさんとあなたが繰り広げたみたいにね。でも彼は根っからのハグ好きなだけで、あれは性的な行為ではないのよ。


追追伸、あなたの名前は何ですか?



5

-ダッシュ-

12月23日


正午あたりに玄関のベルが鳴った。『おばあちゃんがひかれちゃった』の上映時間がちょうど終わった頃だった。だから僕は最初、(自分でも非現実的な考えだと認めざるを得ないが、)リリーがどうにかして僕の家を突き止めたのだと思った。たとえば彼女の叔父がCIAにいて、僕の指紋からここを突き止め、僕がリリーと付き合うに値する立派な人物になりすましたとして、僕を逮捕しにやって来たのかもしれない、と。

僕は自分が連行される姿を思い描きながら玄関に向かい、のぞき穴からそっと外をうかがった。すると、女の子でもCIAでもなく、ブーマーが左右に行ったり来たりしているのが見えた。

「ブーマー」と僕は言った。

「来たよ!」と彼の声が返ってきた。

ブーマーというのはブーメランの短縮形で、彼のあだ名である。その由来は自分の行いがブーメランのように自分に跳ね返ってくるという彼の性質から来ているのではなく、投げられたブーメランを言われた通りに何度も繰り返し追いかける犬に彼の気性が似ているから、彼はそう呼ばれている。彼とはもう長い付き合いになるが、ただ単に昔からお互いを知っているというだけで、長い年月を経て深い仲になったというわけでは決してない。僕たちは7歳の頃から必ず23日にはクリスマス前の決まり事として、一緒に映画を見に行くことにしている。ブーマーの好みはあの頃からあまり変わっていないので、彼がどの映画を見たがるのか僕にはわかる。

予想通り、玄関を開けると飛び込んできた彼は声を張り上げて、こう言った。「さあ!『コレイション』を見に行くよ」

もちろん『コレイション』というのはピクサーの新しいアニメ映画である。主人公の〈ホッチキス〉が、ある一枚の紙を好きになって、抑えきれないほどに恋心が膨らんでいき、友達の事務用品たちがみんなで協力して、二人の仲を取りまとめようとする話である。オプラ・ウィンフリーが〈セロテープカッター〉の声を、そしてウィル・フェレルがその若いカップルの恋路を邪魔し続ける用務員の声を演じている。

「見て」と、ブーマーはポケットからアニメキャラクターのフィギュアを取り出して言った。「ボクは1週間マクドナルドのハッピーセットを食べ続けたんだよ。それで、可愛らしい〈穴あけパンチャー〉のローナ以外はすべて集めたんだ」

彼が僕にそのプラスチックのフィギュアを手渡してきたから、僕はじっくりとそれを眺めた。

「これがその〈穴あけパンチャー〉じゃないのかい?」と僕は聞いた。

彼は自分の額を叩いた。「あちゃ、それは〈広がるファイルフォルダー〉のフレデリコかと思ってた」

運命の思し召しか、『コレイション』はリリーが行っているはずの映画館で上映していた。それで僕はブーマーと一緒に映画を見に行きつつ、その映画館でリリーからの次のメッセージを、どこかの不良少年やいたずらっ子が見つけてしまう前に回収することができると思った。

「君のママはどこにいるの?」とブーマーが聞いてきた。

「ダンス教室に行っている」と僕は嘘をついた。もし彼が僕の両親はこの街にはいないということを察してしまったら、彼はいち早く自分の母親に電話して、その結果、僕は〈ブーマーと仲良く一緒のクリスマス〉を余儀なくされてしまう。

「ママに映画代はもらった?もしなければ、ボクがたぶん払えるよ」

「心配いらないよ、君はいいやつだな」と僕は言いながら、彼がまだコートも脱いでいないというのに、彼の体に僕の腕を回した。「今日の映画代は僕が出すよ」


映画館に行くもう一つの目的をブーマーに言うつもりはなかったのだが、例の物が置いてあるか確かめるために、おばあちゃんのパネルのお尻の後ろにもぐり込む際、彼を追い払うわけにもいかなかった。

「どうかした?」と彼は聞いた。「コンタクトレンズでも落としたの?」

「いや、ある人から僕宛てに、ある物がここに置いてあるはずなんだ」

「おお!」

ブーマーは大柄な男ではないのだが、いつも落ち着きなくそわそわ動き回っているので、見た目以上に場所を取って目立つのだ。ボール紙でできたおばあちゃんの肩越しから、彼が裏側をのぞき込んでいる。となれば、最低賃金で働いているポップコーン売り場の店員が僕らを追い払うのは時間の問題だろうなと思った。

赤いモレスキンのノートは僕がそれを置いた場所にあった。さらにその横には缶が一つ置かれていた。

「これが僕の探していたものだよ」と僕はブーマーに言って、日記帳を掲げて見せた。彼は缶のほうに手を伸ばして、それをつかんだ。

「わお」と、彼は缶のふたを開けて中を見ると声を上げた。「ここは特別な隠し場所になっているんだね。君の友達がそのノートを置いていったところに、他の誰かもクッキーを置いていったなんて、おもしろいことがあるものだね」

「そのクッキーを置いたのもきっと彼女だよ」(その証拠にノートの表には付箋紙が貼られていて、こう書かれていた。『クッキーはあなたへのプレゼントよ。メリークリスマス!リリーより』)

「ほんとに?」と彼は缶からクッキーを一つつまむと言った。「どうしてわかるの?」

「なんとなくそうかなって」

ブーマーはクッキーを食べるのをためらって、「そこに君の名前は書いてないの?」と聞いた。「つまり、もし君へのプレゼントなら」

「彼女は僕の名前を知らないんだ」

ブーマーはすかさずクッキーを缶に戻すと、ふたを閉めた。

「君の名前も知らない人が置いていったクッキーなんか食べられないよ!」と彼は言った。「中にかみそりの刃でも入っていたらどうするの?」

親子連れが続々とスクリーンのある劇場の中へと入っていくのを見て、僕らもさっさと入らなければ、前のほうの席で『コレイション』を見ることになってしまうと思った。

僕は彼にその付箋紙を見せた。「ほら、ここにリリーよりって書いてある」

「リリーって誰?」

「女の子だけど」

「おお...女の子!」

「ブーマー、僕らはもう小学3年じゃないんだから、『おお...女の子!』なんて言うなよ」

「どういうこと?その子とやったの?」

「わかったよ、ブーマー、僕の発言を撤回するよ。実は僕も『おお...女の子!』って言いたくて仕方なかったんだ。どんどん『おお...女の子!』って言っていこう!」

「その子は君と同じ学校に行ってるの?」

「違うと思う」

「違う学校?」

「ほら、僕らも早く行って席を取らないと、座る席がなくなっちゃうよ」

「その子のことが好きなの?」

「さては今朝しつこくなる薬でも飲んできたんだな。もちろん、彼女のことは好きだけど、まだどんな子なのかよく知らないんだ」

「ボクは薬なんかやらないよ、ダッシュ」

「わかってるよ、ブーマー。ただの比喩表現だよ。ほら、『考える帽子をかぶる』みたいな言い方をするだろ。実際には〈考える帽子〉なんてなくてもさ」

「実際に〈考える帽子〉はあるじゃないか」とブーマーは言った。「覚えてないの?」

たしかにあった。突然、小学1年の頃の記憶がよみがえってきた。僕らは二つの古いスキー帽を〈考える帽子〉としてかぶっていたのだ。彼の帽子が青で、僕のは緑だった。これはブーマーの不思議なところなんだけど、彼に全寮制の学校で今学期に習った先生について聞いても、先生の名前すらすでに忘れているくせに、僕らが昔遊んでいたミニカーのことなら、彼はすべての車種や色を正確に覚えているんだ。

「たとえが悪かったね」と僕は言った。「たしかに考える帽子みたいなものはあるね。僕が間違っていたよ」


僕らは空いている席を見つけて座ると(前寄りの席でちょっとスクリーンが見ずらいと思ったが、僕の左隣に座っていた鼻たれ小僧と僕の間にコートが置かれていて良い壁になっていた)、さっそくクッキーの缶に手を突っ込んだ。

「わお」と、僕は雪のように砂糖の粉がふりかかったチョコレート・クッキーを口に入れて言った。「このクッキーに〈甘さの王様〉の称号を与えたいな」

ブーマーは全6種類のクッキーをひと口ずつかじると、それぞれの味を吟味してから食べる順番を決めた。「ボクはこの茶色のクッキーと、この薄茶色のやつと、あと、この茶色っぽいのが好き。このミント味のやつは微妙。でもやっぱり、このレープクーヘン・スパイスの効いたクッキーが一番美味しい」

「なんて言った?」

「レープクーヘン・スパイスが効いてるやつだよ」彼は僕に見せるようにそれをつまみ上げた。「これだよ」

「君は言葉をでっち上げてるだろ。レープクーヘン・スパイスって何?なんだかキーブラー食品のマスコットの妖精とストリッパーを足して2で割ったみたいな響きだな。『ごきげんよう、あたしの名前はレープクーヘン・スパイスよ。あなたにあたしのクーーーッキーを見せてあげる』」

「ちょっと失礼だよ!」と、ブーマーが抗議してきた。まるで手に持っているクッキーがけなされて腹を立てたかのようだった。

「ごめん、ごめん」

映画の本編前のコマーシャルが始まった。80年代に全盛だった俳優たち(といっても超人気だったわけではない)が出演している犯罪映画を特集して放送するケーブルテレビ局のCMが流れ、ブーマーがその「掘り出しもの的な予告編」にうっとり見入っているすきに、僕はリリーが日記帳に書いた文章を読むことができた。ブーマーもこの金切り声のリリーの話を気に入るだろうなと思った。ただ、ブーマーは本気で彼女を気の毒に思うだろうなとも思った。実はこういう変な女の子というのはむしろ格好いいのだ、と僕はそのとき気がついた。段々と僕はリリーの感性もつかめてきた。「心の底から浮かんでくる超絶欲しいもの」という表現が僕のつぼにはまり、彼女のひねくれた、あまのじゃくなユーモアのセンスがわかってきたのだ。僕の中では、彼女はレープクーヘン・スパイスだった。つまり、皮肉屋で、ドイツ系で、セクシーで、風変わりな女の子だった。そして、なんと、その女の子はめちゃくちゃ美味しいクッキーを作ることができる。彼女の「あなたがクリスマスに欲しいものは何?」という問いに、単純に「このクッキーがもっと欲しい!」と答えたいほどだった。

でもそれはだめだ。彼女は僕にこざかしい答え方はしないでと注文をつけてきたのだから、僕が心の底から正直にそう答えたとしても、彼女はきっと僕が冗談を言っているか、あるいはもっと僕をいぶかって、こびを売っていると思うだろう。

皮肉な答えを封印しなければならないとなると、それは手ごわい問いだった。いわば、頭には「世界平和(world peace)」という綺麗な答えがあるにもかかわらず、僕は「世界のエンドウ豆(world peas)」と綺麗にスペルを変換しなければならないわけだ。僕はひとりぼっちだと涙を誘う切り札を出して、家族みんながまた一緒に過ごせるようになればいいな、と答えることもできたけれど、それは僕が最も望んでいないことだった。特に最近はもうそんなことは望まなくなっていた。

ほどなくして『コレイション』が僕らの目の前で始まった。面白いシーンがいくつもあったし、ディズニーが最近のディズニーの社内体質を嘆きつつも、社内一丸となって一つの映画を世に送り出したという皮肉はたしかに評価したいと思った。ただ、このラブストーリーの内容は物足りなかった。90年代の前半から中頃までのディズニー映画に登場する、はみ出るくらいに男勝りのヒロインたちと比べると、このヒロインは文字通りペラペラの真っ白な紙だった。たしかに、彼女は自分の体を折りたたんで自ら紙飛行機になり、恋人になったホッチキスを乗せて魔法の会議室を飛び回ったり、不運な用務員との最後のじゃんけん対決では、ある種の勇敢さも見せていた。それでも、ブーマーやホッチキスや観客の親子連れのほとんどが彼女にぞっこんになったようには、僕は彼女を好きになれなかった。

僕がクリスマスに本当に望んでいることは、僕のホッチキスにぴったり合う一枚の紙のような誰かを見つけることかもしれないと思った。ちょっと待てよ。逆にこの僕が紙のほうでもいいのではないか? ひょっとすると僕が追い求めているのはホッチキスなのかもしれない。すなわち、僕はあのかわいそうなマウスパッドなのかもしれない。あのマウスパッドは明らかにホッチキスに恋をしていたが、彼を振り向かせることはできなかった。今までに僕がデートまでこぎつけた女の子はみんな、〈鉛筆削り〉みたいな存在で僕は精神的に削られ続けた。ただソフィアだけは例外で、彼女は消し心地の良い〈消しゴム〉のようだった。

僕が個人的にクリスマスに望んでいるものは何なのか、そこに隠された意味を知るためにはマダム・タッソー館に足を運んでみるしかないと思った。有名人の蝋人形の写真を撮りまくる大勢の観光客を見れば、彼らが僕の願望を推し量る絶好の〈ものさし〉となって、その答えが見つかるかもしれないと思ったわけだ。

校外学習に行こうと言えばブーマーが乗り気になることはわかっていたので、スクリーンにホッチキスと紙の女の子が仲良くはしゃぎ回るエンドロールが(耳に快く響くセリーヌ・ディオンの『You Supply My Love』とともに)流れたあと、僕は劇場のロビーから42番街へとブーマーをなかば騙す形で連れ出した。

「なんでこんなに大勢の人がいるんだろう?」とブーマーが聞いてきた。僕らは人混みの中をかき分けながら縫うようになんとか前に進んでいた。

「クリスマスの買い物だよ」と僕は説明した。

「もう? プレゼントのお返しを買うには早すぎない?」

僕には彼の思考回路がどこをどう回っているのかさっぱりわからなかった。

僕はそれまでに一度だけマダム・タッソー館に行ったことがあった。去年、3人の友達と僕で行ったのだが、僕らはそれなりの有名人や歴史上の人物の蝋人形と一緒に、世界で一番みだらできわどい写真を撮ろうと試みたのだ。正直言って、あんなに多くの蝋人形の前にひざまずいて、エロいことをしている風の写真を撮るのはひやひやものだった。特にニコラス・ケイジの前にひざまずいた時には肝を冷やした。僕は元々、現実のニコラス・ケイジを目にするたびにビクついていたからね。そんな中で僕の友達のモナは、マダム・タッソー館で見学したことを学校に提出する自由研究に組み込もうとしていた。警備員たちは、僕らが蝋人形に物理的に触れない限りは僕らのことを気にしていないようだった。それで僕は前から思っていた仮説の一つを披露した。マダム・タッソーは実在した婦人で、彼女はテキサス州のパリという町の近くで蝋人形を相手にする売春宿を始めたんだ、と。モナはこの説をとても気に入ってくれたが、僕らはその根拠を見つけることができなかったので、その仮説が実際に学術的な研究対象へと変貌を遂げることはなかった。


モーガン・フリーマンの蝋人形が入り口を警備していた。これは因果応報というか、壮大なしっぺ返しではないかと思った。すなわち、大して才能のない俳優が自身の魂を売り渡して、出演しても何の社会的見返りもないハリウッドのアクション大作に出始めるたびに、その魂を売り渡した俳優の、いわば売却済みの表情が蝋で固められて、マダム・タッソー館の外に置かれるというわけだ。あるいはマダム・タッソー館の職員の思惑としては、モーガン・フリーマンはみんなに愛されているから、彼の蝋人形を外に置いておけば、館内に足を踏み入れる前に誰もがとりあえず一枚、彼と一緒に写真を撮りたくなるだろうと考えたのかもしれない。

奇妙なことに、その次に置かれていた二体の蝋人形はサミュエル・L・ジャクソンと、「ザ・ロック」としても知られるドウェイン・ジョンだった。僕はそれを見て、僕の〈売却済み〉理論に確信を持ったと同時に、マダム・タッソー館の人は意図的に三人の黒人の像をロビーに並べているのだろうかと思った。僕にはそれが不思議で仕方なかったのだが、ブーマーは気にも留めていないようだった。彼はまるで現実の有名人を目の当たりにしたかのようにはしゃぎ回り、誰かの像を見るたびに大喜びで歓声を上げていた。「わお、ハル・ベリーだよ!」

僕は入場料金のあまりの高さに悲鳴を上げたかった。これはノートに書いてリリーに言わなくちゃな、と思った。「僕に25ドルも払わせてリンカーン大統領の蝋人形に会わせたいのなら、この次はちゃんと日記帳にその費用を挟んでおいてくれないかな」と。

館内は完全におぞましい見世物小屋だった。前にここを訪れたときはがらがらで閑散としていたが、今はクリスマス休暇中ということで多くの家族連れでにぎわい、縁もゆかりもないだろう人物の蝋人形の周りにいろんな層の人々が集まっていた。僕が言いたいのは、ユマ・サーマンに人が群がるほどの価値があるかってこと。ジョン・ボン・ジョヴィにもそんな価値あるか?

正直言って、そこにいる間ずっと僕の気分は陰鬱だった。確かに蝋人形は生きているかのように精工だった。でも、まあ「蝋」と聞けば、「溶ける」と頭に浮かぶよね。ある種の永続性がある像も現実には存在するが、ここの像に永続性はない。それは単に蝋でできているから溶けるということではない。この建物の一角にはクローゼットがあって、その中には用なしになった人形がいっぱい詰まっているという事実を知っておかなければならない。一時期スポットライトが当たり、やがて当たらなくなった人たちだ。たとえば、イン・シンクのジャスティン・ティンバーレイク以外のメンバーのように。あるいはバックストリート・ボーイズとスパイス・ガールズの全メンバーのようにね。今さら『となりのサインフェルド』の出演者の彫像に人々は本気で喜んで群がっているのだろうか? キアヌ・リーブスが彼自身の蝋人形を見ようとここに立ち寄ったことがあったけれど、あれは人々が自分に関心を寄せていた良き時代を思い出すためだったのだろうか?

「見て、マイリー・サイラスだよ!」とブーマーが声を上げると、少なくとも10人ほどの10代前半の子供たちが彼について行った。そして、(たとえ実入りの良い時期だとしても)生きにくい思春期に蝋人形にされてしまったかわいそうな女の子をみんなでポカンと見つめていた。ただ、それはマイリー・サイラスには見えなかった。ちょっと何かがずれていて、マイリー・サイラスのいとこの落ち目のライリーが、着飾ってマイリーになりすましているみたいだった。彼女の後ろでは、ジョナス・ブラザーズがジャム・セッション中に凍り付いていた。〈忘れられた蝋人形たちのクローゼット〉が早くおいでと彼らに手招きしていることを教えてあげたほうがいいんじゃないかな?

もちろん僕はリンカーン大統領を見つける前に、僕がクリスマスに欲しいものは何なのかを考え、答えを見つける必要があった。

小さな馬。

無制限で使えるメトロカード。

リリーのサルおじさんに今後二度と子供たちと触れ合うような仕事はさせない、という約束。

おしゃれなライムグリーンのソファー。

新しい考える帽子。

真面目な答えが浮かんでくる気はしなかった。僕がクリスマスに本当に望んでいることは、クリスマス自体が消えてなくなることなのだ。たぶんリリーなら僕のそんな思いをわかってくれるだろう...いや、そんなこともないのかな。普段は挑戦的でとんがった女の子が、サンタのこととなると目を丸くするのを何度も見てきたから。べつに彼女を責めているわけでも、信じるのがいけないって言っているわけでもない。あの幻想を無傷のまま抱き続けるのは良いことだって思い込む必要があるからね。その幻想というのはサンタの存在を信じることではなくて、たった一日の祝日が人間を善意に導くっていう幻想だよ。

「ダッシュ?」

視線を上げると、プリヤがいた。彼女は少なくとも2人の弟を連れていた。

「やあ、プリヤ」

「例の彼女?」と、ブーマーがジャッキー・チェンの蝋人形に後ろ髪を引かれつつも彼女に目を向けて、僕に聞いてきた。僕はなんだか気まずくなった。

「いや、プリヤだよ」と僕は言った。「プリヤ、彼は僕の友達のブーマーだよ」

「あなたスウェーデンに行ってるんじゃなかったの?」とプリヤは言った。彼女は僕に対してイライラしているのか、それとも弟の一人が袖を引っ張っていることにイライラしているのか僕には判断がつきかねた。

「君はスウェーデンに行ってたの?」とブーマーが聞いた。

「いや」と僕は言った。「旅行に行く予定だったんだけど、土壇場で中止になったんだ。政情不安のためにね」

「スウェーデンの政情不安?」プリヤはあやしんでいる様子だった。

「そうだよ。まあ、どうして『ニューヨーク・タイムズ』が取り上げていないのか不思議だよね? 今スウェーデンでは国民の半数がストライキをしているんだ。皇太子が『長くつ下のピッピ』について言った、あの発言が原因だよ。つまり、クリスマスにミートボールとまぬけは出しちゃだめってことだね。ピンとこないかもしれないけど」

「それは悲しすぎる!」とブーマーは言った。

「それじゃ、この街にいるのなら」とプリヤが言った。「クリスマスの次の日に私の家でパーティーがあるんだけど来る? ソフィアも来るわよ」

「ソフィアも?」

「彼女がこの街に戻ってきてること知ってるでしょ? クリスマス休暇中はいるそうよ」

断言してもいいくらいだが、プリヤはこの状況を面白がっている様子だった。彼女の弟のちびたちも面白がっているようだった。

「もちろん知ってるよ」と僕は嘘をついた。「ただ、まあ僕はスウェーデンに行く予定だったからね。わかるよね、そういうことだよ」

「パーティーは6時からよ。気軽にお友達も連れていらっしゃい」弟たちがまた彼女の袖をグイッと引っ張りだした。「その時にまた会いましょう、待ってるわ」

「わかった」と僕は言った。「もちろん行くよ。ソフィア」

最後に思わず口をついて出てしまった名前が、プリヤの耳に届いたかどうかは微妙だった。彼女は走り出す弟たちに洋服を引っ張られながら、さっさとどこかへ行ってしまった。

「ボクはソフィアが好きだった」とブーマーが言った。

「わかるよ」と僕は彼に伝えた。「僕も同じ気持ちだったから」

リリーとの追跡ゲームの最中に、2回もプリヤと出くわすというのはちょっと妙な気もしたが、きっと単なる偶然だろうと自分に言い聞かせて、僕はその疑念を振り払った。プリヤまたはソフィアがリリーのしていることにどれくらい関わっているのかわからなかった。もちろん大がかりな悪ふざけという可能性もあるが、ソフィアと彼女の友達に関して言えば、常に現実的なものの見方をしていて、決しておどけていたずらをするような子たちではなかったはずだ。

自然な流れで次に頭に浮かんだのは、「僕はクリスマスにソフィアに会いたいのか?」という疑問だった。リボンのついた箱に入ったソフィアが、クリスマスツリーの下で僕を待っていて、僕がどれだけ素敵かを言い聞かせてくれる。なんてことを望んでいるのか?

いや、そうでもないな。

たしかに僕は彼女のことが好きだった。僕たちはお似合いの2人だったし、周りの友達(まあ、僕の友達というよりは彼女の友達)の間で理想のカップルだと噂になるほど、僕たちは一緒にいてしっくりくる仲だった。男4人女4人で一緒にデートすることになって、僕とソフィアは最後に加わった2人だった。僕らは2人でよく一緒にボードゲームをしたし、夜には寝る前にメールを送り合った。彼女がニューヨークに3年間しかいないというので、僕は彼女にありとあらゆるポップカルチャーについて説明してあげたし、逆に彼女は僕にスペインのことを色々話してくれた。ただ、野球にたとえると僕らは三塁までは行ったんだけど、そこで動けずに、ついに得点することはなかった。僕らはホームベースに向かって突っ込んでいけば、待ち構えているキャッチャーにタッチアウトにされてしまうと思い込み、まさに尻込みしていたのだ。

スペインに戻らなければならないという彼女の言葉を聞いたとき、(少し)ほっとした自分がいた。これからも連絡を取り合おうねと誓い合って、その誓いは1ヶ月くらい効力を発揮した。今の僕と彼女の関係は、お互いのSNSで近況を読み合うという、いわばオンライン上の友達である。

僕はクリスマスにソフィアよりも、もっと違った何かが欲しいと望んでいた。

それはリリーだろうか? そうとも言い切れなかった。間違っても、「僕がクリスマスに欲しいものは君だ」とだけは書くつもりはなかった。

「僕はクリスマスに何を望んでいるのですか?」と僕はアンジェリーナ・ジョリーに聞いてみた。彼女の厚い唇は閉じたままで答えてはくれなかった。

「僕がクリスマスに欲しいものは何ですか?」と、今度はシャーリーズ・セロンに聞いた。「ねえ、素敵なドレスだね」とも付け加えたのだが、彼女は黙ったまま返事をしてくれない。僕は彼女の胸の谷間をのぞき込み、「この胸は本物?」と聞いてみた。彼女はぴくりとも動かず、僕の頬をひっぱたいてもくれなかった。

とうとう僕は振り返ってブーマーに聞いた。

「僕はクリスマスに何を望んでいるんだろう?」

彼は一瞬考え込むような表情をしてから、言った。「世界平和?」

「役立たず!」

「じゃあ、君のAmazonの望むものチェストには何が入ってるの?」とブーマーが聞いた。

「僕の何?」

「ほら、ネット通販のAmazonだよ。君の望むものチェストだよ」

「欲しいものリストのこと?」

「そう、それ」

そして次の瞬間、ふいに僕は自分の欲しいものがわかった。前からずっと欲しかったものだ。でもそれはあまりにも非現実的だったので、欲しいものリストに入れることもなかったのだ。

僕はベンチに座りたかったのだが、近くにあった唯一のベンチにはすでにエリザベス・テイラーと、ヒュー・ジャックマンと、クラーク・ゲーブルが並んで腰を下ろしていて、バスを待っていた。

「ちょっと待っててくれないか」と僕はブーマーに言ってから、(2003年頃の)オジー・オズボーンと彼の家族たちの背後に潜り込んだ。モレスキンのノートに書き込むためだ。


このノートに気の利いた馬鹿げたこと(馬鹿げたこざかしいこと?)を書くのは禁止だよね。

真実を書けばいいんだよね?

僕がクリスマスに欲しいものは、OEDの完全版だよ。

君は僕みたいな言語オタクではないかもしれないので念のため:

O = Oxford

E = English

D = Dictionary

つまり、オックスフォード英語大辞典が欲しいんだ。

簡略版ではなく、CDに入っているやつでもなく(どうしてもCD版は嫌なんだ)、

全20巻あって、

22,000ページに、

600,000語が掲載されている辞書だよ。

まさに英語という言語が到達した最も偉大な本だと言えるね。

安くはないよ。千ドル近くすると思うから。まあ、本の値段にしては高すぎるよね。でも、なんともまあ、本当に素晴らしい本なんだよ。僕たちが使っているあらゆる言葉の完全な系譜なんだ。思いも寄らないほど崇高な言葉なんてないし、微細すぎて取るに足らない言葉もない。言葉はすべて等価なんだ。

心の底ではね、うすうす伝わっていると思うけど、僕は多くの人には理解しがたい謎めいた存在でありたいんだ。僕は誰もが使っている言葉で人々をまごつかせるのが大好きなんだよ。

では、君になぞなぞを出すね。

僕の名前は言葉と言葉をつなぐものだよ。

こんな風にもったいぶるなんて子供じみているのはわかってる。でも本心を言えば、謎は少しでも長く謎のままにしておきたいという気持ちもあるし、一つ強調しておきたいことがあって名前に関するなぞなぞを出したんだ。僕の両親は意図して僕の名前をつけたわけではないと思うけど(そして僕の父親はむしろ名前が指し示す方向とは逆方向に僕を行かせようとしているんだけど)、僕はまさに僕の名前によって気づかされたんだ。世の中にはスポーツをして肉体的な喜びを得る人もいれば、薬に頼る人もいて、異性を口説き落として性的な喜びを得る人もいる。そんな中で僕は「言葉」から人間としての喜びを得るように運命づけられているんだって気づいたんだ。言葉を読んだり書いたりすることによってね。

勘違いしないでほしいんだけど、仮に君がお金持ちの家のお嬢さんで、謎の孤独な少年(やけに「言葉」を推してくるやつ)にOEDをクリスマスプレゼントとして贈りたくなったとしても、僕はOEDを贈り物として手に入れたいとは思っていないんだ。欲しくてたまらない気持ちと同じくらい、ただでもらいたくはないんだよ。僕はそれを自分の力で手に入れたいんだ。少なくともそれを買えるだけのお金を(どうにかして、言葉を通して)稼ぎたい。その頃には僕は今よりもずっと特別な存在になってるはず。

以上が皮肉めいたことを忍び込ませないで書ける限界だね。それと、先に書くべきだったかもしれないけど、どうしても言わなければならないことがあって、君の作ったクッキーは嘘偽りなく美味しくて、ここにある蝋人形に食べさせたら何体か生き返るのではないかと思うくらいだよ。美味しいクッキーをありがとう。僕も以前ウィリアムズバーグにいた頃、4年生の調理実習でコーン・マフィンを作ったことがあるんだけど、野球ボールみたいなできあがりだった。まだどういう形でクッキーのお返しをしたらいいか決めてないけど、必ずお返しするから。


ちょっと言語オタクっぷりをアピールしすぎたかと不安になった...でもすぐに、ストランド書店の本の山の中に赤いモレスキンのノートを忍ばせておくような女の子なら理解してくれるだろうと思い直した。

それから試練が待っていた。例の任務である。

オズボーンの家族たちの肩越しに様子をうかがってみたところ(彼の家族は、少なくとも蝋人形の彼らは、驚くほど背が低かった)、ブーマーがオバマ大統領の拳に向かって自分の拳を突き出しているのが見えた。

リンカーン大統領は他の政治家たちの前に立ちはだかり、身をていして銃弾みたいな写真のフラッシュを浴びていた。彼の写真を撮りまくるヨーロッパから来たらしい観光客の一団が、彼を暗殺したジョン・ウィルクス・ブースよりも悪党であるかのようだった。リンカーン大統領の横には彼の妻のメアリー・トッドだと思われる人物が立っていた...と思ったら彼女が動いたので、僕はやっと彼女が例の警備員だと気づいた。探すように指示されていた女性である。彼女はあの愛撫好きのサルおじさんから髭をとった感じの女性で、彼女のほうが年上のように見えた。次々と出てくるリリーの親戚に、いったい彼女の言うことを聞く親戚は何人いるんだよ、と僕はいぶかった。

「ねえ、ブーマー」と僕は言った。「僕の代わりに〈FAOシュヴァルツ〉でやってほしいことがあるんだけど、頼んでもいい?」

「おもちゃ屋?」と彼は聞いた。

「いや、薬局」

彼はぽかんと僕を見ていた。

「冗談、おもちゃ屋だよ」

「やった!」

きっと彼のクリスマス・イブの予定はがら空きだろうなと思わずにはいられなかった...。



6

(リリー)

12月24日


クリスマス・イブの朝、目覚めた私が最初に感じたのは混じり気のないわくわく感だった。「やった!とうとうクリスマス・イブだわ。1年のうちで最高の日の前日ね!」しかし次の瞬間、私はみじめな現状を思い出してしまった。「なんてこと、せっかくの日を一緒に祝う人が誰もいないなんて!」どうして私は両親の25年遅れの新婚旅行に、行っておいで、と賛成してしまったんだろう? そんな見栄を張った思いやりはクリスマスの時期にはふさわしくなかったわ。

おじいちゃんが飼っているブチ猫のグラントは、おめでたい気分で目覚めたと思ったら出ばなをくじかれた私の気持ちをわかってくれているみたいだった。グラントは、寝ている私の首元に体を激しくこすりつけると、私の肩に頭をもたせかけた。それから彼独特のうなり声をのどの奥から出して、私の耳の中に直接訴えかけた。「さっさとベッドから出て、吾輩のエサを用意しろ、人間!」と。

ラングストンはベニーに取られてしまったので、私はおじいちゃんの部屋に置いてある「リリーの葉っぱ」と呼んでいる私用のソファーベッドで夜を過ごしていた。「リリーの葉っぱ」は背もたれの付いた長いソファーで、古代風の幾何学模様をあしらったアフガン織の布をかぶせてあって、天窓から日光が差し込む最上階の部屋に置いてあった。元々おじいちゃんが1階で食料雑貨店をしていたんだけど、老後の生活のためにお店は売ってしまって、その後、私の家族が3階に引っ越してきて、おじいちゃんとおばあちゃんはそこで私のママとおじさんたちを育てたってわけ。

おばあちゃんは私が生まれる直前に死んじゃったの。たぶんそれで私はおじいちゃんにとって特別な女の子なのよ。私の名前はおばあちゃんからもらったもので、ちょうどおじいちゃんが最上階の部屋に移った頃、私が下の階に届けられる形で生まれたの。つまり彼は一人のリリーを失いつつも、別のリリーを手に入れたってわけね。彼が言うには、毎日階段をのぼっていれば若さを保てるから、上の階の部屋を改装して、そこで独り身に戻った人生の晩年を過ごすことにしたんですって。

おじいちゃんがフロリダの別荘に行っている時は、私が猫のグラントの世話をすることになってるの。グラントはむっつりしていて気難しい猫だけど、でも近頃はラングストンよりは好きね。餌をあげるのを忘れたり、柔らかい毛で覆われた頭を必要以上に撫でたり、嫌がってるのにキスしたりしない限り、誰かさんと違ってグラントは私に冷たくしないから。グラントは私の生活空間の中で飼うことを許された私のペットとも言える存在なのよ。

私が小さかったとき、ホリーとホビーという名の拾ってきた猫を2匹飼っていたんだけど、突然いなくなっちゃったの。2匹とも猫の白血病で死んだのよ。当時は私だけ理解してなかったけどね。ホリーとホビーは「大学」に進学するから家を出たって言われたわ。だからもう会えないって。ホリーとホビーが「大学」に進学したのは、アレチネズミの事件があってからまだ2年しか経っていない頃だったから、たぶん本当の理由は私には言わないほうがいいって判断したんだと思う。でも、もしあのとき正直に話してくれていたら、周りのみんなにつらい思いをさせずに済んだとも思う。

8歳の私はおじいちゃんと一緒に、いとこのマークに会いに行ったの。彼はウィリアムズ大学の1年生で寮生活をしていたわ。私はその週末を丸々使って、「大学」の周りの路地を駆けずり回ったり、図書館の本棚の隙間という隙間をのぞき込んだりして、私の猫を探したのよ。それで結局マークが私に本当のことを打ち明けたわ。大学の広い食堂でね。それにしてもどうしてマークの大学の施設って、どこの大学もそうかもしれないけど、立派な建物ばかりなの? 空にそびえる大きな食堂だったわ。そこで〈金切り声のリリー事件〉の第2幕が始まったのよ。来年、私がウィリアムズ大学に出願しなかったことに大学側は胸をなでおろすでしょうね。

それ以来、何年もの間、私は事あるごとに子猫や、カメや、犬や、オウムや、トカゲを飼いたいってお願いしたけれど、すべて却下されたわ。それなのに私は両親がクリスマスに旅行に行くのを止めなかったのよ。罪悪感にさいなまれるのも嫌だしね。まったくもう、不当な扱いを受けているのは誰なのよ? と私は天窓の向こうに問いかけた。

特に祝日には私は自分のことを楽天家だと思いたいのに、今年のクリスマスにおちいった、この冷たくて悲惨な状況は否定したくてもできなかった。両親はフィジーに旅行に行ってしまって、ラングストンはベニーにぞっこんでべったりだし、おじいちゃんはフロリダで、いとこたちはマンハッタンから遠く離れた場所に散らばって暮らしている。12月24日といえば、1年で最もわくわくする日の最もわくわくする前日のはずなのに、ぽっかり穴の開いたつまらない日になりそうだった。

もし私に一緒に出かける女の子の友達でもいれば、こういう時に助かるんでしょうね。でも学校では無名の人物としてひっそり過ごすのが居心地いいの。サッカー場だけは別ね。あそこでは私はスーパースターなのよ。ただ、どうしてなのか不思議なんだけど、何試合も窮地を救ってきた私のゴールキーパーとしての腕は全然、私の人気につながらないの。そうね、みんな尊敬はしてくれているみたい。でも映画に誘われたり、放課後一緒に出かけたりすることは全くないわ。(私のパパは私の学校の副校長なのよ。私にとっては役に立つどころか迷惑なくらい。だって、たぶん私と仲良くするのはなにかとリスクがあるって思われてるのよ。)私の運動神経の良さと相まって、私が人付き合いに全く無関心なことが後押しして、私はサッカーチームのキャプテンに選ばれたんだわ。私は誰とも仲良くないってみんな知ってるから、誰とでもうまくやっていけるただ一人の人だったのよ。

クリスマス・イブの朝、私は来年の誓いとして、この心の空白を埋めることに取り組もうと決心した。金切り声は引っ込めて、フリルで愛想よく飾ったリリーになる計画よ。もっとフレンドリーな女の子になれば、またいつか特別な祝日に私の家族が私を見捨ててひとりぼっちになってしまっても、誰かしら支えになってくれるはずだわ。

私は今までクリスマスを一緒に過ごす特別な人のことなんて気にかけたこともなかった。

でも気づいたら、私のそばには赤いモレスキンのノートしかなかった。

そして、この〈ノートブック・ゲーム〉の「名無しくん」は私の興味を凄く刺激する存在で、「律儀に名前を伝えた私」の元にノートが返ってきたことをメールで知らされるたびに、体中に電気が走ったような胸の高まりを感じた。でも同時に彼は悩みの種でもあった。一人ではなく、二人でもなく、三人の親戚(ストランド書店のいとこのマーク、メイシーズ・デパートのサルおじさん、そしてマダム・タッソー館の大叔母さんのアイダ)がみんな一様に、ノートの謎の少年を「やかましい」とか「ひねくれている」という意味の「snarl」という言葉を使って言い表した。三人とも彼を「謎めいていて」、「不可解」だと思っているみたいで、名前のような簡単なことも言えない彼を怪しんでいた。それなのにどうして私はこのおかしなゲームのことで思い悩んでいるのか自分でも不思議だった。しかも誰も彼が格好いいかどうかについては何も言ってくれなかった。

あのアニメ映画『コレイション』に出てきたような理想的で純粋な愛の形に憧れるのはいけないことなのかしら? ああ、私はホッチキスを乗せて会議室を飛び回る、あの一枚の紙になりたくてしかたないわ。会議室の窓から摩天楼の素晴らしい景色を背中の彼に見せてあげるのよ。ついでにバラ色の年間売り上げの見通し表も見せてあげるわ。役員室の机には悪党のヒトデみたいな内線電話が置いてあって、それを避けて飛ぶのよ。クリストファー・ウォーケンが声を担当しているダンテという名の内線電話は、その会社の敵対的買収を密かにもくろんでいてね。ダンテに捕らえられて捕虜となった私を、あのホッチキスの英雄〈スウィングライン〉が救ってくれるの。内緒の妄想だけどね。なんだか私、ホッチキスでパチンって...とめられたいの。(私って下品かしら? 男に媚びすぎ? そんなつもりはないんだけどね。)

ひねくれ男子くんは私の妄想に出てくるようなホッチキスではないでしょうけど、私はひねくれ男子くんが好きかもしれない。たとえ彼が自分の名前も言えないほどのうぬぼれ屋だとしてもね。

彼がクリスマスにOEDを欲しがっているというのも好感が持てるわ。それってはたから見たら気持ち悪いことよね。実は私、その彼が欲しいものを彼に与える方法を知ってるのよ。彼に言ったらどんな反応をするかしらね。しかも無料でよ。でも、まず彼はそれを受けるにふさわしい男だって証明する必要があるわ。名前も明かせないような人なら、どうかしらね。

「僕の名前は言葉と言葉をつなぐものだよ。」

これっていったいどういう意味なの?!?!? 私はアインシュタインじゃないのよ、ひねくれ男子くん。もしかして、あなたって電車男?(アムトラック鉄道と地下鉄メトロノースをつなぐ人?)つまり車掌さん? それがあなたの名前なの?


「OED以外で僕がクリスマスに望んでいることがもう一つあって、君がクリスマスに心から望んでいることを僕に教えてほしいんだ。ただし物ではなくて、もっと感覚的なもので、お店では買えないような、可愛らしい箱に入れてギフト包装できないような何か。それをこのノートに書いてほしい。そしたらクリスマス・イブの正午に〈FAOシュヴァルツ〉に行って、『オリジナル人形を作ろう』のコーナーにいる働きバチに預けてほしい。幸運を祈るよ。(そうだね、天才小悪魔ちゃん、君をクリスマス・イブに〈FAOシュヴァルツ〉に行かせるのは、〈メイシーズ・デパート〉の仕返しだと思って構わないよ。)」


逆にひねくれ車掌くんは自分を運がいいと思うべきね。今年のクリスマスがこんなに最悪じゃなかったら、君なんか相手にしてないでしょうから。というのも、通常ならこの日の私は、(1) クリスマス・ソングを流して、それに合わせて歌いながら、翌日のクリスマス・ディナーのためにママと一緒に食材を切ったり、皮をむいたりしているか、(2) パパと一緒にいろんな人にあげるプレゼントを包装して、ツリーの周りに形よく積み上げているか、(3) ラングストンが明日の朝5時にちゃんと起きて私と一緒にプレゼントを開けられるように、彼の水筒に睡眠導入剤を入れて早めに寝かせるべきかどうかを考えているか、(4) おじいちゃんが私の編んだセーターを気に入ってくれるかどうか気にしているか(下手なりに毎年上達してきてるのよ。それにラングストンと違って、おじいちゃんは私の編んだセーターを着てくれるしね)、そして、(5) 明日の朝、私は新品の自転車をもらえるのかしら、それとも自転車と同じくらい豪華で素晴らしいプレゼントが私を待っているのかしらって、祈るような気持ちで期待に胸を膨らませているはずなのよ。

ひねくれ男子くんが私のことを「天才小悪魔ちゃん」と呼んでいる箇所を読み返して、私は身震いした。私は天才小悪魔なんかではないけれど、その呼び方はひっそりと私の心を打った。彼は私のことを考えているようだったから。ノートの中の私ではなく、ここに存在する「私」を。

私はグラントに餌をあげた後、植物に水をあげようと思い、おじいちゃんの部屋を歩いて、ガラス張りの扉の方へ向かった。その扉を開けると外は屋上庭園になっている。私はガラス扉の暖かい内側から、外の冷えた街を眺めた。北の方に、夜になるとクリスマス・カラーの赤と緑にライトアップされるはずのエンパイア・ステート・ビルディングが見える。そこから東へ目を向けると、ミッドタウンにあるクライスラー・ビルディングが見えた。その近くには、もし彼の挑戦を受けて立つとしたら行くことになる〈FAOシュヴァルツ〉がある。(もちろん私は行くつもりだった。いったい私は誰とゲームをしているのかしら? 金切り声のリリーともあろう者がどうしてこんなに躍起になって、マダム・タッソー館から私の元へ返ってきた、この赤いモレスキンのノートに書かれた指令を実行しようとしているのかしら? ありえないわね。)

私の古い寝袋が外の庭園に置いてあるのに気づいた。ラングストンと私がまだ凄く小さかった頃、一緒に入ってクリスマス・イブに体を寄せ合っていた寝袋だ。パパが独特の言い回しで、こう言ったのを覚えている。「しっかり寝袋のチャックをして、クリスマスの朝が来るまで、はやる気持ちを中に閉じ込めておきなさい。」ラングストンとベニーが寝袋の中で丸まっているのが見えた。その上にラングストンのベッドから持ってきたらしい青い掛け布団がかかっていた。

私は外へ出た。ちょうど彼らが目覚めたところだった。

「ハッピー・クリスマス・イブ!」と私は甲高い声で言った。「あなたたち二人は昨夜からここで寝てるの? あなたたちが部屋に入ってくる音はしなかったから、きっと外で凍えていたんでしょうね!さあ、今朝はたくさん朝食を作りましょうよ。そうね、卵を焼いて、トーストとパンケーキと...」

「オレンジ・ジュース」ラングストンが咳をした。「頼む、リリー、角の店まで行って僕らのために新鮮なオレンジ・ジュースを買ってきてくれないか」

ベニーも咳をした。「風邪に効くエキナセアもお願い!」

「真冬に外で寝るなんて、あんまり賢いとは言えないわね、でしょ?」と私は言った。

「昨夜は星空の下で寝るのもロマンチックだと思ったんだ」と、ラングストンはため息まじりに言って、くしゃみをした。そしてもう一度くしゃみをしてから、今度は痰の絡んだ大きな咳をした。「僕らにスープを作ってくれ、頼む、頼む、頼むよ、リリーベアちゃん」

どうやら私の兄が風邪を引いたことが最後の決め手となって、完全に今年のクリスマスは台無しになったようだ。クリスマスらしいクリスマスを過ごすという望みはもう全く残っていなかった。昨夜、彼はこのリリーベアの特別な誘いを断って、私とボグルをして過ごす代わりに、ボーイフレンドと一緒に外で寝ることを選んだんだから自業自得だと思った。まったく、彼が私を必要としていた時期には特別にボグルをしてあげたっていうのに。ラングストンの馬鹿、この危機は自分でなんとかしなさい。

「スープは自分で作りなさい」と私は二人に言った。「オレンジ・ジュースも自分で買ってきてね。私はミッドタウンまで行く用事があるのよ」私は振り向くと室内に戻ろうとした。たちの悪い風邪でも引けばいいのよ。まったくもう、馬鹿な二人。外出してクラブに行ったりせずに、家で私とボグルをやるのが一番だってことを彼らは思い知るべきよ。

「君は来年フィジーに行って苦労するだろうね。僕はマンハッタンに残って、角の食料雑貨店に何でも注文できるんだ。食べ物も飲み物も好きな時に宅配してもらえるんだよ!」とラングストンは声高に言った。

私はクルッと振り返った。「ちょっと、あなた今なんて言った?」

ラングストンは掛け布団を引っ張って頭にかぶせた。「なんでもない。気にしないで」と、彼は布団の下で言った。

彼のそんな態度から判断して、大事なことに違いなかった。

「いったい何の話なのよ、ラングストン?」と私は言った。もうすぐ〈金切り声のリリー〉になってパニックに陥りそうだった。

ベニーも掛け布団の下から頭を出した。そしてラングストンに話しかけた。「もう彼女に話してあげなよ。そこまで口を滑らせたのなら、中途半端にしないで全部言っちゃいな」

「何について口を滑らせたのよ、ラングストン?」私はほとんど泣き出しそうだった。でも私は新年の誓いとして金切り声は引っ込めると決めたのだ。新年まではまだ1週間あるけれど、いつかは始めなければならないし、まさに今が絶好の時だと感じた。だから私は震えながらも気持ちを強く保って立っていた―泣くもんか。

ラングストンが掛け布団の下から再び顔を出した。「ママとパパは新婚旅行をやり直すってことでフィジーに行ってるけど、目的はそれだけじゃないんだ。フィジーの全寮制の学校を訪問してるんだよ。その学校からパパに校長の依頼があったんだ。来年から2年間ね」

「ママとパパはフィジーなんかに住みたがらないわ!」私は息巻いた。「休暇を利用して旅行に行くなら楽園でしょうね。でも人の住むところじゃないわ」

「フィジーにはたくさんの人が住んでるよ、リリー。それにその学校は親が外交官みたいな仕事をしている子供たちのための学校なんだ。親の勤務地がインドネシアとかミクロネシアとか...」

「ネシア、ネシア言わないで!」と私は言った。「どうして外交官の親が子供をフィジーの馬鹿な学校に通わせたりするわけ?」

「聞くところによると、かなり立派な学校らしいよ。勤務地の地元の学校には子供を通わせたくないけれど、かと言ってアメリカとかイギリスの遠く離れた学校に通わせて単身赴任するのも嫌という親には、絶好の選択肢になってるらしい」

「私は行かないから」と私は宣言した。

ラングストンは言った。「ママにとっても良い機会なんだよ。長期有給休暇を取って、フィジーで自分の研究と本の執筆に打ち込むことができるからね」

「私は行かないから」と私は繰り返した。「私はマンハッタンでの暮らしが好きなのよ。ここでずっとおじいちゃんと暮らすわ」

ラングストンはまた掛け布団を頭までかぶってしまった。

その様子からすると、その話にはまだ続きがあるってことだ。

「なんなのよ?!?!?」と私は迫った。今度は何を言われるのかと内心怯えていた。

「おじいちゃんは新しいおばあちゃんになる人にプロポーズするんだよ。フロリダで」

彼女はみんなに紹介されたがっているみたいだから言うけど、その女性はフロリダに住んでいるおじいちゃんの恋人で、彼女のせいでおじいちゃんはクリスマスに私たちを見捨ててフロリダに行ってしまったのよ。私は言った。「彼女の名前はメイベルよ!私が彼女を新しいおばあちゃんと呼ぶことはこれからもないわ!」

「好きに呼べばいいさ。でももうすぐ彼女はおじいちゃんの妻になるだろうね。そしてそうなったら、僕の予想では、おじいちゃんはずっと向こうに住むよ」

「あなたの言うことなんか信じない」

ラングストンが体を起こしたので、彼の顔が見えた。生気のない顔をしていたが、彼は痛々しいほど誠実だった。「きっとそうなるよ」

「なんで誰も私に教えてくれなかったの?」

「みんな君を守ろうとしてるんだ。はっきりと物事が決まるまでは君に心配をかけたくないんだよ」

こんな風に〈金切り声のリリー〉は生まれたんだわ。必死になって私を「守ろう」とする人たちが生んだのよ。

「ちゃんと守れよ!」と、私はラングストンに向かって中指を突き立てて叫んだ。

「ほら、金切り声のリリーだ!」と彼は注意した。「君らしくないよ」

「私らしいって何?」と私は問いかけた。

私は屋上庭園から嵐のように室内に戻ると、年老いたグラントをどなりつけた。とばっちりを受けたグラントは朝食を食べ終えて、自分の手を舐めているところだった。それでも私の嵐は収まらず、階段を駆け下りて、「私」のアパートの「私」の部屋に駆け込んだ。マンハッタンは「私」の街なのよ。「誰も私をフィジーに行かせることはできないわ」と、私は出かけるために着替えながらつぶやいた。

こんなにも悲惨なクリスマスになってしまって私の思考は停止していた。何も考えられなかった。もうたくさんだった。

私の手元に赤いモレスキンのノートがあることに救われるような思いだった。このノートには秘密を打ち明けて何でも書けるから。そして、このノートは逆側からひねくれ男子くんが読んでくれている―ひょっとしたら私のことを気にかけている―そう思うと、今すぐにでもペンを走らせて彼の質問に答えたかった。ひねくれ男子くんが指示してきたミッドタウンへ向かうために、私はアスター・プレイス駅のベンチに座って地下鉄を待ちながら、時間を持て余していた。なかなか来ないことで有名な6番ホームの電車は、いつものように全く姿を現す気配はない。

そこで私は書き始めた:


私がクリスマスに望んでいるのは信じることよ。

希望なんて持っても無駄だという証拠なら溢れているけれど、それでも私は希望を持つことには意味があると信じたい。私は今アスター・プレイス駅のホームのベンチでこれを書いているんだけど、私が座っているベンチから1メートルも離れていないところで、ホームレスの男性が汚い毛布をかぶって寝ているの。アップタウン寄りのホームよ。線路の向こうのダウンタウン寄りにはKマートの前に出る入口が見えるわ。それがどうした?って聞かれても困るんだけど、私があなたに向けてこれを書き始めたら彼が視界に入ってね、そしたら書き進められなくなっちゃったの。それで私はKマートまで走って行って、スニッカーズがたくさん入った「お徳用パック」をひと袋買ってきて、彼の毛布の下にそっと滑り込ませたのよ。でも余計に悲しくなっちゃった。だって彼の靴はボロボロで、汚い体から臭いもするし、きっとスニッカーズをひと袋あげたところで、この人の人生は大して変わらないだろうなって思っちゃったの、つきつめて考えるとね。彼を取り巻くいろんな問題はひと袋のスニッカーズでは太刀打ちできないほど膨大なのよ。時々私は頭に浮かぶこういう考えをどう処理したらいいかわからなくなるの。たとえば、ここニューヨークでは、特にこのクリスマスの時期は、ビシッとスーツを着た男性や派手な洋服を身にまとった女性をたくさん見かけるけれど、でもそれと同じくらい多くの苦しんでいる人たちも目にするわ。このホームを歩く人たちは、まるでこの男性が存在していないかのように彼を無視しているし、私はどうしてこんな事が起きているのかわからない。おかしいのは私じゃないって信じたいし、私は期待しているのよ。もうすぐ彼は目覚めて、そこに社会福祉士がやって来て、彼を避難施設に連れて行くの。そして彼は温かいシャワーを浴びて、食事をして、ベッドで寝て、それから社会福祉士の助けを借りて仕事とアパートを見つけて...わかる? 乗り越えなければならないことがありすぎね。こういうことが起こること―または誰かが現れること―を期待するのは、たぶん無駄なのよね。

私は頭の中で自分の信じていることについて、あるいはただの思い込みかもしれないけれど、そういうことをごちゃごちゃ考えているとね、自分では処理しきれなくなっちゃうの。頭の中がいろんな情報でいっぱいになるの、しかも嫌な情報ばっかり。

でもね、あらゆる科学的証拠があり得ないと示していても、私は希望を持ちたいんだって心から感じるの。私は地球温暖化がなくなることを望んでいるし、誰もホームレスにならないことを望んでいるし、苦しみがこの世からなくなることを望んでいるのよ。私の希望は無駄ではないって信じたいわ。

それから私は自分が悪い人ではないと信じたい。というのも、このような徳量寛大(OED的な言葉でしょ?)なことを望みながらも、内心では完全に自己中心的なことを期待していたりするからね。

つまり私は、ただ私のためだけに存在している人がどこかにいるって信じたいし、私もその誰かのためだけに存在しているんだって信じたい。

『フラニーとゾーイー』を思い出して。(おそらくあなたはこの本を読んだことがあって、しかもあなたがストランド書店でこのモレスキンのノートを見つけた場所から判断すると、あなたの愛読書なんじゃないかしら?)あれは1950年代の話だけど、フラニーがどうしてあのような、ちょっと常軌を逸したみたいな女の子になったのかを思い出してほしいのよ。彼女は誰かに教え込まれた宗教的な祈りの中に、人生の意味が隠されているんだって考えた。そして、あれこれ考えているうちに少し錯乱しちゃったのよ。そうでしょ? 兄のゾーイーも彼女の母親も、フラニーの頭の中で何が進行していたのか理解できなかったけれど、私には手に取るようにわかるわ。私も彼女と同じように、祈りの中で人生の意味が提示されるという考えに惹かれるでしょうし、祈り続ければいつかは人生の意味にたどり着けるかしらとか、あれこれ考えて、それは私の理解の及ばない、手の届かない境地だと思ってしまったら、おそらく私も取り乱すでしょうね。(それから、もし私がフラニーならね、私も素敵なビンテージものの洋服を着ようとするでしょうけど、でも私もああいうレーンみたいなボーイフレンドを欲しがるかっていうことに関しては疑わしいわ。彼はエール大学の学生で、ちょっと嫌味な男だけど、彼と一緒に街を歩くとみんなが羨ましがるような人よね。私はもっと...なんていうか...不可解な人と付き合いたいわ。)本の最後の方で、ゾーイーがフラニーに電話をかけて、彼らの兄であるバディのふりをしながら彼女を励まそうとする場面があるけれど、そこにこういう一節があるわ。「フラニーは鳴っている電話の方へ歩きながら、『一歩ずつ若返っていた。』なぜなら彼女はあちら側の世界にたどり着こうとしていたからだ。」彼女は元気になっていくんでしょうね。少なくとも私はそういう意味だと解釈したわ。

私が望んでいるのはそういうことよ。希望と信念を持って、先を見据えて歩きながら、一歩ずつ若返っていきたいの。

お祈りはしてもしなくても、あらゆる反証の材料が揃っていたとしても、私は誰でもそういうたった一人の特別な人を見つけることが可能だって信じたい。一緒にクリスマスを過ごしたり、一緒に歳を取ったり、セントラル・パークを歩きながら馬鹿話ができる人よ。他の人を判断するときに、前置きが長い人や、なかなかピリオドを打たない長い台詞を延々とまくし立てる人は嫌ね。つまり、相手が口にした言葉の語源とかを持ち出すような気取り屋ではない人がいいわ。(私の言葉の選び方から私がどんな人かわかったでしょ? そうね、時々私も自分の言葉に驚くことがあるわ。)

信念よ。それが私のクリスマスの望み。「Belief(信念)」って辞書で調べてみて。たぶんこの言葉には私が知っている以上の意味があるんでしょうね。あなたならそれを私に説明することができそうね?


私は地下鉄がホームに入ってきたときもまだノートを書き続けていた。車内に乗り込んでからも書き続け、ちょうど電車がレキシントン・アベニュー/59丁目駅に到着したとき、書き終えた。私と一緒に大勢の人が電車を降りて、ブルーミングデール百貨店に入っていくか、そうでなければ外の通りへと出て行った。私は考えないと決めたことについては考えまいと意識を集中していた。

私は歩きながら、一歩ずつ変化していた。

ただ、私はもうそのことについて考えていなかったけれど。


私はブルーミングデールズ百貨店を横目に〈FAOシュヴァルツ〉の方へまっすぐに歩いて行き、そこで、ひねくれ男子くんが「仕返し」と書いていた意味に気づかされた。〈FAOシュヴァルツ〉の前の通りで私を出迎えてくれたのは「行列」だった。―店内に入ろうとする人たちが並んでいるのだ!私は入口にたどり着くまでに20分も待たなければならなかった。

でもなんといっても、私はクリスマスが大好きなのよ。ほんとにほんとに、本当に大好きで、クリスマスの買い物に来た200万人もの人々がごった返すの中に押し込まれたとしても平気よ、全然何ともなかったわ。店内に入った瞬間から店を出るまでずっと、あらゆるものが愛おしかった。スピーカーから流れるジングルベルや、店内に大々的に並べられた色とりどりのおもちゃに私の胸は高鳴ったわ。通路から通路へと歩きながら、目の前に次々と色々なフロアが現れる様は楽しくて、胸が躍り出すようだった。きっとひねくれ男子くんはすでに私のことをよくわかっているんだわ。彼がクリスマスの時期に、こんなに素晴らしい綺麗な物で溢れている唯一の場所ともいえる〈FAOシュヴァルツ〉に私を送り込んだということは、彼はおそらく精神的なレベルまで私を理解しているのよ。ひねくれ男子くんも私と同じくらいクリスマスが大好きなんだわ。

私は案内係のいるカウンターに行って、「オリジナル人形を作ろうのコーナーはどこですか?」と聞いた。

「申し訳ございません」と、その案内係は言った。「人形のコーナーはクリスマス期間は休ませてもらっていまして、実は『コレイション』のフィギュアを飾るために、そのスペースが必要になりまして」

「あの紙とホッチキスのフィギュアもあるんですか?」と私は聞いた。どうして私はサンタにお願いする〈欲しいものリスト〉の中に『コレイション』のフィギュアを入れなかったのかしら?

「それがですね、ここだけの話ですよ。運が良ければ、3番街の〈オフィス・マックス〉に行けば、フレデリコとダンテのフィギュアがまだ残っているかもしれません。その二つはこの店では発売初日に売り切れてしまったんです。私から聞いたって言わないでくださいね」

「あの、聞きたいんですけど」と私は言った。「今日この店に人形作りのコーナーがあるはずなんです。モレスキンにそう書いてあるから」

「何とおっしゃったのですか?」

「なんでもないわ」私はため息をついた。

私はキャンディー売り場とアイスクリームの売店とバービー人形のコーナーを通り過ぎて、2階に上がり、モデルガンやレゴブロックで作った戦場のジオラマが並んだ男子向けのおもちゃ売り場を通って、買い物客と商品が織りなす迷宮をくぐり抜けて、ついに『コレイション』のグッズコーナーにたどり着いた。「すみません」と私はそこにいた店員に言った。「ここに人形作りのコーナーはありますか?」

「あるわけないじゃない」と彼女は吐き捨てるように言った。「あれは4月のイベントよ」何当たり前のこと言ってるの? そんなことも知らないの? と軽蔑しているような口ぶりだった。

「それは失礼!」と私は言った。誰か彼女を来年フィジーに島流しにして、と私は願っていた。

私は諦めて店を出ようとした。モレスキンのノートに書かれていたことを信じた私がいけなかったのだ。その時、肩をポンと叩かれた。振り向くと、大学生くらいの歳の女の子が立っていた。『ハリー・ポッター』に出てくるハーマイオニーみたいな服装をしている。きっとお店の従業員だろうと思った。

「あなたが人形作りのコーナーを探してる子?」と彼女が聞いてきた。

「私ですか?」と私は言った。こういう風に疑問形で答えたのは、ハーマイオニーが私の任務を知っていることを、私は期待しているのか疑問だったからだと思う。それしか理由が思いつかないわ。私は前からハーマイオニーに憤りを感じていたの。というのも、私は彼女になりたくてたまらないというのに、彼女は自分の価値に気づいてなくて、どれほど恵まれた存在なのかをわかっていないみたいだったから。羨ましいことに彼女はホグワーツ魔法魔術学校で暮らすことになって、ハリーの友達になって、ロンとキスをするのよ。私がロンとキスするはずだったのに。

「私と一緒に来て」と、ハーマイオニーがやや命令口調で言った。ハーマイオニーみたいなおしゃれな女の子を無視して立ち去るのはおろかな行為に思え、私は彼女についていった。店の奥へ奥へと進み、店内で一番暗い一角にたどり着くと、そこには〈シリーパティー〉や〈ボグル〉のような、もう誰にも見向きもされなくなったおもちゃが置かれていた。彼女はキリンのぬいぐるみがいくつも並べられた巨大な棚の前で立ち止まると、その棚の後ろの壁を軽く叩いた。すると突然、その壁が開いたのだ。それは人目に付かないようにキリンでカモフラージュされたドアだったというわけね。(OED的に言うと、「キリンフラージュ」かしら?)

私はハーマイオニーの後に続いて中に入った。そこは物置部屋みたいな小さな部屋で、作業台が一つあり、その上にマペット人形の頭やパーツ(目、鼻、メガネ、シャツ、髪など)がきちんと整理されて載っていた。そのトランプ用テーブルみたいな作業台の向こう側には、チワワが人間になったみたいな10代の少年が座っていた。―小柄なのにやけに堂々としている印象だった。―彼はどうやら私を待っていたらしい。

「君が例の彼女か!」と、彼は私を指差しながら言った。「思ってた感じと全然違うじゃん!まあ、君がどんな子なのか想像しようとはしなかったけど」彼は声もチワワみたいで、ブルブル震えてはいたが、同時に快活さもひしひしと伝わってきて、どことなく愛嬌もあった。

私は母に常日頃から、人を指差すのは失礼に当たると教え込まれてきた。

でも今、母は彼女自身の気持ちを改める旅に出ていてフィジーにいる。よって怒られる心配はないと思い、私はその少年を指差し返して、「私がその私よ!」と言い返した。

ハーマイオニーが私たちに向かって、シッと静かにするようにうながした。「目立たないように小声で話してちょうだい!あなたたちにこの部屋を貸せるのは15分だけよ」彼女は私を怪しむようにじっと見てきた。「あなたタバコは吸わないわよね?」

「もちろん吸わないわ!」と私は言った。

「何かしようと思わないで。この物置部屋は飛行機のトイレと同じだと思ってね。さあ話を始めなさい。でも煙探知器とか他の機器が見張っていることは忘れないで」

その少年が言った。「テロ対策だ!厳戒態勢だ!」

「黙って、ブーマー」とハーマイオニーは言った。「彼女を怖がらせないで」

「君はボクをブーマーと呼ぶほどボクのことを知らないじゃないか」と、ブーマー(というらしい少年)は言った。「ボクの名前はジョンだよ」

「私は『ブーマー』だって聞いたからそう呼んだのよ、ブーマー」とハーマイオニーは言った。

「ブーマー」と私はさえぎった。「どうして私はここに連れてこられたの?」

「君は誰かに渡したいノートを持ってるんじゃない?」と彼が聞いてきた。

「かもしれないわね。その人の名前はなんていうの?」と私は聞いた。

「それは機密情報なんだ!」とブーマーは言った。

「ほんとに?」私はため息をついた。

「本当だよ!」と彼は言った。

私はハーマイオニーの顔を見た。女同士の連帯感が生まれるのを期待したのだが、彼女は私に向かって首を振った。「だめよ」と彼女は言った。「私から聞き出そうとしても無駄よ」

「じゃあ、この状況はいったい何なの?」と私は聞いた。

「君のオリジナルのマペット人形を作ろうのコーナーだよ!」とブーマーが言った。「君のために用意したんだ。君の特別な友達が、君のために準備したんだよ」

今のところ、本当に最悪な一日だった。一時は何か良いことが起こりそうな予感もあったけれど、私はこんな遊びを続けたいのかわからなくなった。今までの人生で一度もタバコを吸いたいなんて思ったことはないけれど、突然タバコに火をつけたくなった。そうすれば火災報知器が作動して、この状況から抜け出せるかもしれないから。

考えたくないことが多すぎるのよ。そういうことをすべて考えないようにしていたら疲れてしまった。私は家に帰りたくなった。帰ったら兄のことは無視して、『若草の頃』を見るのよ。そして、可愛らしいマーガレット・オブライエンが雪だるまを叩き壊すシーンで泣くの(あそこが一番好き)。私はフィジーのこともフロリダのことも、他のどんなことも―誰のことも―考えたくなかった。「ブーマー」がひねくれ男子くんの名前を明かさないのなら、あるいは彼について名前以外のことも一切言わないつもりなら、私はここにいていったい何になるの?

私が何かここにいる理由になるようなものを求めているのを察したかのように、ブーマーが〈スノーキャップス〉をひと箱渡してきた。私は映画を見ながらこれを食べるのが大好きだった。「君の友達が」とブーマーは言った。「彼が君に渡してほしいって。とりあえずのプレゼントだって。他のプレゼントも用意してるみたいだけど、もしかしたらね」

いいわ、いいわ、いいわよ、私はこのゲームを続けるわ。(ひねくれ男子くんが私にチョコをくれたのよ!あー、私は彼が大好きかもしれない!)

私は作業台の前に座った。私はひねくれ男子くんがどんな顔をしているのか思い浮かべ、それに似せてパペット人形を作ることに決めた。私は青の頭と胴体を選んで、その上に黒の髪の毛をかぶせて初期のビートルズの髪型っぽく整えてから、バディ・ホリーみたいな黒のメガネ(私のメガネに似てないこともないけど)をつけて、紫のボウリングシャツを着させた。それからピンクの毛で覆われたゴルフボールみたいな鼻をくっつけた。『セサミストリート』のグローバーみたいにね。最後に赤のフェルトを、ひねくれている感じの唇の形に切って、口の位置に貼り付けた。

私は10歳の頃を思い出していた。―といってもそんなに前のことでもないんだけど、―当時の私は〈アメリカンガール〉の店内にある美容院に行くのが大好きで、人形の髪をアレンジしてもらいによく行っていた。そしてある時、私は店長に自分でアメリカンガール人形をデザインしてもいいですか?と訊ねたの。私の頭にはすでにイメージができていたわ。―ラションダ・ジョーンズっていう名前の12歳の女の子で、1978年頃にイリノイ州のスコーキーで生まれて、ローラースケートダンスの大会で優勝経験があるのよ。私は彼女の経歴も、どんな洋服を好んで着るかも、すでに何もかもイメージできていた。でも私が店長に、〈アメリカンガール〉宮殿の中でラションダを作りたいから手伝ってくれますか?って聞いたら、私が何かとてもいけないことを言ったみたいな目で私を見てきたの。そうね、まるで私が小さな革命家で、〈マテル〉、〈ハズブロ〉、〈ディズニー〉、〈ミルトン・ブラッドリー〉といった大きなおもちゃ屋のそれぞれの本店を同時に爆破してもいいですか?って丁寧に訊ねたみたいな表情だったわ。

たとえ彼の名前が機密情報だとしても、私はひねくれ男子くんに抱きつきたかった。だって彼は無意識だろうけど、私の秘密の夢を叶えてくれたんですもの。―おもちゃのメッカともいえる場所で私のオリジナル人形を作るという夢を叶えてくれたのよ。

「あなたはサッカーをやってるの?」とハーマイオニーが私に聞いてきた。彼女は私が人形作りに使わなかった洋服をたたんでしまっていた。彼女のたたみ方がその道の達人みたいに手慣れていたので、彼女は〈GAP〉の店員で、一時的にこの店に借り出されているのではないかと思ったりした。

「やってるわ」と私は言った。

「だと思った」と彼女は言った。「私は今大学1年だけど、昨年私が高3だったとき、私の高校があなたの高校と試合をしたことがあったと思う。あなたのこと覚えてるわ。あなたのチームはそんなに強くなかったけど、あなたはかなり力強いキーパーだった。他の選手がプレーよりもリップグロスの光り具合を気にしているというのに、あなたは他の選手のことなんかお構いなしって感じで、必死でシュートを止めていたわ。あなたはキャプテンでしょ? 私もキャプテンだったのよ」

ハーマイオニーにどこの高校でサッカーをしていたのか聞こうとしたら、先に彼女がこんなことを言ってきた。「あなたはソフィアとは違うタイプの子ね。でも、あなたのほうが見た目は面白いわ。そのトナカイ柄のカーディガンの下に着てるのは、あなたの学校の制服のシャツ? 変な格好ね。ソフィアはもっとずっと華やかな洋服を着ているわ。スペイン出身の子よ。あなたもカタルーニャ語を話せるの?」

No(いいえ)」

私はカタルーニャ語で「No」と言ったのだが、その言葉は英語でも同じように聞こえるので、ハーマイオニーは気づかなかった。

私はフィジーでは何語が話されているんだろうと思ったりもした。

「時間よ、おしまい!」とハーマイオニーが言った。

私はそのマペット人形を目の前に掲げると、「そなたに〈ひねくれ君〉という洗礼名をさずけるわ」と人形に向かって言った。私は〈ひねくれ君〉をブーマーという名の少年に手渡した。「これを〈名無しの彼〉に渡してちょうだい」それから赤いモレスキンのノートも渡した。「これもお願い。でも、このノートは読まないでね、ブーマー。個人的なことが書いてあるから」

「読まないよ!」とブーマーは約束した。

「彼は読むと思うけどな」とハーマイオニーがつぶやいた。

私には聞きたいことがいくつもあった。

どうして彼は私に名前を教えないのか?

彼はどんな外見をしているのか?

いったいソフィアって誰なのか、そしてなぜ彼女はカタルーニャ語を話すのか?

私はここで何をやっているのか? とも聞きたかった。

もしひねくれ男子くんがこの〈二人のゲーム〉を続けようとするなら、きっとノートにそれらの答えを書いてくれるだろうと思った。

今年はおじいちゃんがいないから、私の大好きなクリスマス・スポットに連れて行ってもらえない。―ブルックリンにあるダイカー・ハイツという住宅街なんだけど、そこに並ぶ家々が毎年この時期になると、ものすごーーーく度が過ぎるくらいに、ど派手にライトアップされるのよ。きっと宇宙からも見えるんじゃないかしら。―仕方ないから今年はせめて、ひねくれ男子くんにそこに行ってもらって、彼から今年のダイカー・ハイツはどんなだったかを聞こうと思ってね、もうノートに彼をけしかけて、そこに行かせるようなことを書いたわ。ちゃんと通りの名前と、ヒントも書いたわ、「くるみ割り人形の家」ってね。

私はノートに書いた指示に付け足したいことを思いついて、ブーマーからノートを取り戻そうとした。

「ちょっと!」と彼は言って、私のモレスキンのノートなのに、体を張って邪魔してきた。

「それは私のよ」

「あなたのじゃないでしょ」とハーマイオニーも言った。「あなたはただそれを届けるだけでしょ、ブーマー」

サッカーのキャプテン同士お互いに目配せした。

「ちょっと書き足したいだけよ」と私はブーマーに言って、そっとブーマーの手からノートを引き抜こうとしたのだが、彼は放そうとしなかった。「ちゃんと返すから、約束する」

「約束する?」と彼は言った。

「『約束する』って言ったでしょ!」と私は言った。

ハーマイオニーも「ほら、『約束する』って言ってるんだから」と言った。

「約束する?」とブーマーが繰り返した。

どうして彼の名前がジョンからブーマーになったのか、なんとなくわかり始めていた。

ハーマイオニーがブーマーからノートを奪い取って、私に渡してくれた。「さあ急いで。彼が騒ぎ出す前にちゃんと返してあげて。彼と約束したんだから」

私はすばやく「くるみ割り人形の家」という言葉の後に、一行指示を付け足した。


必ず〈ひねくれ君人形〉も連れて行ってね。じゃなかったら行かなくていいわ。



7

-ダッシュ-

12月24日/12月25日


ブーマーは僕に何も話してくれなかった。

「彼女は背が高かった?」

彼は首を振った。

「じゃあ低かった?」

「言わないよ。―君には何も言わない」

「可愛い?」

「だから言わないって」

「とてつもなく地味?」

「どういう意味かわかるけど、言わないよ」

「ブロンドの前髪が顔にかかっていて彼女の目が見えなかったとか?」

「いや―ちょっと待って、ボクを引っ掛けて聞き出そうとしてるよね? ボクに言えるのは、彼女が君にこれを渡してほしいって言ってたってことだけ」

ノートに添えられて渡されたのは...マペット人形?

「なんかミス・ピギーが仲良しの動物とセックスして、」と僕は言った。「生まれた子供みたいだな」

「ちょっと!」とブーマーが叫んだ。「君がそんなこと言うから、ボクの目にはそういう風にしか見えなくなっちゃったよ!」

僕は時計を見た。

「君はもう帰ったほうがいいんじゃないか、もうそろそろクリスマス・イブのディナーが出来上がる頃だろ」と僕は言った。

「君のママとジョバンニも、もうすぐ帰ってきちゃう?」と彼は聞いた。

僕は頷いた。

「クリスマス・ハグ!」と彼が大声で叫ぶと、僕の体はすぐに〈クリスマス・ハグ〉としか呼びようのない抱擁に包まれた。

こうされていると僕の心がざわついて、体がほてった感じになることはわかっていた。でも僕はクリスマスだから特別に胸が騒いでいるわけではない。べつに変な意味ではなく、―僕は最後のひとしぼりまでしぼり出そうとするかのようにギュッとブーマーを抱きしめた。僕がまたこのアパートで一人きりになる心の準備ができるまで、そうしていた。

「じゃあ、次に君に会うのはクリスマスの翌日のパーティーだね?」とブーマーが聞いてきた。「パーティーは27日?」

「26日だよ」

「書いとかなくちゃ」

彼は玄関脇にあったペンをつかむと、自分の腕に「26日」と書いた。

「26日に何があるのか書いておかなくていいの?」と僕は聞いた。

「それは大丈夫。忘れない。君のガールフレンドのパーティーだからね!」

ガールフレンドではないと訂正することもできたけれど、どうせまた訂正することになるだけだとわかっていたのでやめた。

ブーマーがアパートから出て行くのを見送ったあと、しばらく僕は静けさにひたっていた。クリスマス・イブだというのに、僕にはどこにも行く場所がなかった。僕は靴を脱ぎ捨て、それからズボンも脱ぎ捨てた。なんだか脱ぐのが楽しくなってきて、僕はシャツも脱いで、そして下着も脱いでしまった。僕は裸で部屋から部屋へと歩き回った。血液や羊水には包まれていなかったけれど、生まれた日のように素っ裸だった。妙な気分だった。―前から一人きりで過ごす時間はたっぷりあったというのに、裸で歩き回ったのはこれが初めてだった。少し肌寒かったけれど、どこからか楽しい気持ちも湧いてきた。窓からご近所さんたちに手を振った。裸でヨーグルトも食べた。母親のCDの中から『マンマ・ミーア』のサウンドトラックを引き抜いて再生ボタンを押すと、ちょっとくるくる回ってみた。そのままの勢いで軽くモップがけもした。

その時、僕はノートのことを思い出した。裸でモレスキンを開くのはいけないことのような気がして、僕は下着に足を通し、シャツを羽織って(ボタンは外したままだったけど)、ズボンもはいた。

どうやらリリーは尊敬に値する子みたいだった。

彼女が書いた文章に僕はガツンとやられてしまったのだ。特に彼女がフラニーについて書いている部分にグッときた。僕は前からフラニーにめっぽう弱かったから。サリンジャーの作品に出てくる登場人物は大体そうだけど、あのようなろくでもないことが次々とフラニーに降りかかってこなければ、彼女もあんなにハチャメチャな子にはならなかったと思う。つまり、彼女がレーンとうまくいくなんてことは誰も望んでいないんだよ。彼はガツガツしてないってだけで、嫌なやつには違いないんだから。それでも彼女がレーンと同じエール大学に進学するというのなら、あんな大学燃やしてしまえばいいのにって思う。

僕はリリーとフラニーを混同し始めていることに気づいた。ただ、リリーはレーンみたいな人を好きにはならないようで、だとすると、彼女が好きになるのはどんな人だろうか...イメージが湧かなかった。レーンと僕が似ているのかどうかもさっぱりわからなかった。

「僕らはみんな間違ったことばかり信じているんだ。」と僕は、ブーマーが腕に日付を書いたペンを使って、ノートに書いた。「僕はそのことに凄く苛立ちを覚えるんだよ。信念が欠けていることにではなく、間違ったことを信じてしまうことに苛立つんだ。君は〈意味〉を知りたがっているみたいだね? まあ、意味なんてそこらじゅうに転がっているよね。ただ僕らはみんな、それらの意味を取り違えるのがとんでもなく得意なんだよ。」

そこで書くのをやめたかったのが、どうにもペンが止まらなかった。

「〈意味〉は祈りの中で君に降りかかってくるように説明されるものでもないし、僕も君にそれを説明することはできない。でも説明できないのは、僕がそこら辺にいる人のように無教養で、希望的にものごとを見ていて、そういうわずらわしいことはわざと見ないようにしているからではないよ。そもそも〈意味〉っていうのは説明できないものなんだと思う。それは自分の力で理解しなければならないんだ。それはきっと読み書きを覚えるのと同じで、まず文字を覚えて、次にその文字がどんな音を発するのかを知り、そしてそれを実際に声に出してみる。わかりきったことだけど、『c-a-t』の三つの文字を合わせると、cat(猫)になり、『d-o-g』は、dog(犬)になる。そのあと、さらなる飛躍をしなければならない。つまり、その言葉、その音、その『cat』を、頭の中で現実の猫と結び付ける必要がある。『dog』は現実の犬と結び付けるんだ。その飛躍、その理解こそが〈意味〉へと導いてくれる。そして、人生の大半の時間を僕らはみんな、ただものごとを発音しながら、その〈意味〉を探っているだけなんだ。僕たちは文章をたくさん知っているし、それを声に出して言うこともできる。僕たちは色々な考えを知っているし、それを言葉で表明することもできる。僕たちは様々な祈り方を知っているし、祈る時に口にする言葉も、その語順も心得ている。でも、それは単なる字面(じづら)に過ぎないんだよ。

僕が悲観的なことを書いているように感じたとしたら、それは本意ではないよ。子供が『c-a-t』の意味にある時ふと気づくように、僕らもそれぞれの言葉の背後に息づいている真の意味を見つけられるはずだと僕は思っている。子供の頃に言葉を覚えた時の、あの瞬間の記憶があればどんなにいいだろうと思う。つまり、僕の頭の中で文字と単語がつながった瞬間、それから単語が実際のものごとと結び付いた瞬間を思い出せればいいのになって思う。きっとそれは、とほうもない啓示がもたらされた瞬間だったはずなんだ。でも僕らはその瞬間を言い表す言葉を持ち合わせていない。僕らはまだ、その未知なる言葉を見つけていないからね。見つけた瞬間に驚くべきことが起こるはずで、たとえば、王国へとつながる鍵を見つけて、その鍵を差し込んでみると、いとも簡単に扉が開く、みたいなことが起こるんだと思う。」

僕の手がちょっと震え出した。というのも、僕は自分の内側からこんな考えが湧き上がってくるなんて思ってもみなかったから。そうなのだ、僕の手にはノートがあり、そしてノートに書いたことを伝える相手がいる。だからこそ、こういう考えが表面に浮かび上がってきたのだ。

手が震えた理由は他にもあった。―「私はただ私のためだけに存在している人がどこかにいるって信じたいし、私もその誰かのためだけに存在しているんだって信じたい。」最初僕はこの言葉にそれほど関心を持たなかった、ということを認めなければならない。それ以外の部分が圧倒的に大きなことに思えたから。でも、彼女のこの考えを頭から完全に消し去ってしまいたくはないと、どこかで惹かれている自分もいた。要するに、僕らはみんなプラトンにだまされていて運命の人がいると思い込まされているんだ、という僕が前から思っていたことを、僕はリリーには言いたくなかったのだ。もしかしたら彼女が僕の運命の人かもしれない、という思いが頭の片隅でちらついていた。

書くことが多すぎて、考えもまとまらないし、僕は急ぎすぎているんだと思った。僕はノートを置いて、アパートの中を歩き回った。この世には無益な人たちや浮浪児たちが溢れている。ごまをする者も回し者もたくさんいる。―そういう人たちのせいで言葉が間違った使い方をされ、話し言葉も書き言葉もすべてうさんくさく思えてしまう。それで僕はこの時、リリーについて得体の知れない不穏なイメージを抱いたのかもしれない。―僕たちがやっているゲームで必要なことはお互いを信頼することなのに。

誰かに面と向かって噓をつくのはかなり難しい。

しかし、

面と向かって本当のことを話すのはもっと難しい。

言葉が僕をすり抜けていった。何を書けば彼女の心をつかむことができるのかわからなかった。それで僕は日記帳を下に置いて、彼女が僕に指示してきた場所について考えを巡らせた(ダイカー・ハイツがどこにあるのか見当もつかなかったけれど)。それから日記帳と一緒に渡された不気味な人形のことも考えてみた。「必ず〈ひねくれ君人形〉も連れて行ってね。」と彼女は書いてきた。僕は「連れて行ってね(do bring)」という言葉の響きが気に入った。なんだか喜劇の台詞みたいだったから。

「彼女はどんな子か教えてくれる?」と僕は〈ひねくれ君〉に聞いてみた。

彼はただ口を曲げて見返してくるだけだった。使えないやつだ。

僕の携帯電話が鳴った。―母親からで、パパと一緒に過ごすクリスマス・イブはどう?と聞かれた。僕は快適だよと答えてから母親に、ジョバンニと楽しくクリスマス・イブらしいディナーを食べてる?と聞いた。彼女はくすくす笑って、七面鳥は作らなかったのよ、でも楽しく過ごしてるわ、と言った。僕は母親のこの笑い方が好きだった。―僕に言わせれば、子供はもっと注意深く親の笑い声に耳を傾けたほうがいい。―そろそろ母親が、ジョバンニに受話器を渡すから形だけあいさつして、とか言い出しそうな予感がしたので、そうなる前に電話を切ってもらった。僕の父親はクリスマスの当日にならないと電話してこないことはわかっていた。―彼はゴリラでもそうする必要性を知覚できるくらい明らかに必要だと思わない限り、電話してこないのだ。

母親についた嘘が、もしも本当のことだとしたら今頃どうなっているだろうと想像してみた。―すなわち、僕がカリフォルニアのどこかの「ヨガ静養所」で父親とリーザと一緒にいるとしたら。個人的には、ヨガは距離を置きたいものであって、進んでやりたいものではない。よって僕のヨガに対するイメージは、僕が足を組んで膝の上に本を広げて読んでいる横で、他のみんなは〈翼を広げたダチョウ〉のポーズをしている、というものだ。父親とリーザが付き合い始めてから2年かそこらになるけれど、その間にたった一度だけ父親とリーザと僕の三人で休暇旅行に出掛けたことがある。重複した意味の言葉を二つ並べた「スパ・リゾート」なる場所に行ったのだが、僕はたまたま、泥パックをした二人がキスしているところを目撃してしまった。そういうことはこれまでの人生でうんざりするほどあった。3回か4回はあったと思う。

母がジョバンニと一緒に出掛けてしまうまで、母と僕はクリスマスツリーの飾り付けをしていた。クリスマス自体は好きではないけれど、僕はツリーからはかなりの満足感を得ていた。―毎年、母と僕はお互いの子供の頃の思い出の品を次々とツリーの枝に飾り付けていった。僕は何も言わなかったけれど、ジョバンニにはツリーの飾り付けをする資格が少しもないことを母はわかってくれていた。―それは母と僕だけの作業だった。母が子供の頃、僕のひいおばあちゃんが母のために、人形の家用の手のひらサイズのロッキングチェアを作ってくれたらしく、母はそれにリボンを付けてツリーの枝にぶら下げた。それから、僕が赤ん坊の頃から使っている古いタオルも、ツリーの上に落ちないように飾り付けた。そのタオルに描かれたライオンは相変わらず森の木陰からこちらをじっと見つめていた。毎年僕らは何かを付け加えていき、そして今年、僕は幼少期のとっておきの思い出の品を飾り付けて、母を笑わせた。―それは僕の父方のおじいちゃんに会いに行く途中の飛行機の中で、母親がぐびぐび飲み干してしまったカナディアンクラブ・ウィスキーの小さなボトルだった。僕はそのボトルを旅の間、(自分でもあきれてしまうが)ずっと握りしめていた。

このおかしな話をノートに書いて、リリーという名の知り合ったばかりの女の子に伝えたい気分になった。

でも僕はノートをそのまま放っておいた。シャツのボタンをして、靴を履いて、謎のダイカー・ハイツに足を向けることも、しようと思えばできたけれど、今年のクリスマス・イブの自分へのプレゼントは、世の中から完全に距離を置くことなのだ。僕はテレビもつけず、友達に電話をかけることもなく、メールをチェックすることもなく、窓の外さえ見なかった。僕はただ孤独にふけっていた。リリーが彼女のためだけに存在する人がいると信じたいのなら、僕も僕のためだけに存在する人がいると信じたいと思った。僕は自分で夕食を作り、ゆっくりと時間をかけて味をかみしめるように食べた。僕は『フラニーとゾーイー』を本棚から引き抜くと、登場人物たちとの再会を楽しんだ。それから僕は本棚とタンゴを踊るかのように、本を引き抜き、本の中へ沈み込み、再び浮かび上がる、ということを繰り返した。―マリエ・ハウの詩を読み、ジョン・チーヴァーの短編小説を読んだ。E・B・ホワイトの古いエッセイを読み、『白鳥のトランペット』を開いて、その中の一節を読んだ。僕は母の部屋に行き、本を手に取ると、母が犬の耳みたいに隅を折っているページを開いた。―母はいつも気に入った一文を見つけると折り目をつけるのだ。僕は本を開くたびに、そのページのどの一文が母の胸を打ったのか見つけ出さなければならなかった。J.R.モーリンガーの『テンダー・バー』の202ページに折り目がついていた。母が感銘を受けたのは、そのページに載っていたローガン・パーソール・スミスの名言、「決して達成できないとわかっていても、不屈の精神で完璧さを追い求めることは、たとえそれが古いピアノを連打するような無駄な試みにすぎないとしても、この無益な惑星に住む我々の人生に意味を与えてくれる唯一の行為なのだ。」という言葉だろうか? それとも、その数行下にあるもっとシンプルな言葉、「周りにどれだけの人がいるかに関係なく孤独は訪れる。」だろうか? リチャード・イェーツの『レボリューショナリー・ロード』の折ってあるページを開いた。母が惹かれた一節は、「彼は立ち並ぶ古風な建物の優美なたたずまいに目を奪われ、夜の街灯に照らされた木々の柔らかい緑色が優しく辺りに広がっていく様に見惚れていた。」だろうか? それとも、「その場所に立っていると、彼は手を伸ばせば届きそうなところに英知が舞っているような感覚に包まれた。神の恵みが通りの角で待ち伏せしているような言うに言われぬ感覚だった。だが彼は果てしなく続く憂鬱な街路を歩き続け、くたくたになってしまった。生き方を知っている人はみな、他の人が知りたがる生きる秘訣をこっそり心の中にしまい込み、教えてはくれないのだ。」だろうか? アン・エンライトの『一族の集まり』の82ページにも折り目がついていた。母が気に入ったのは、「あれから17年も経ってしまった今となってはもう遅いけれど、私がブルックリンにいた頃から今でもマイケル・ワイスを愛していると思わせるのは、セックスではなく、セックスの記憶でもない。あの頃、私が彼に恋人として認められようとどれだけ迫っても、彼は私を恋人として認めてくれなかった。そのことが彼を忘れられなくしている。彼は私をちゃんと抱いてくれなかったから。ただ会うだけで、いつも途中までしかしてくれなかったから。」という箇所か、あるいは、「今の私なら心づもりができていると思う。私の心は満たさせる準備ができていると思う。」かな?

僕は何時間もこんなことをし続けた。僕は一言も発しなかったが、自分が黙り込んでいるという意識はなかった。僕自身の内側から発せられる声が、その響きこそが、僕の必要としたすべてだった。

気分は祝日ムードだったけれど、それはキリストとか、暦の上での日付だとか、世界中で他の誰もが祝っていることとは無関係の感情だった。

僕は寝る前にいつもの決まり事をやろうと思い、―ベッドの横に置いてある(悲しいことに簡略版の)辞書を開くと、自分の好みに合う言葉を探し始めた。


『液化性の』、形容詞。 1. 液体になる; 溶ける。

2. 液化しやすい。


「液化性の」と、僕は声に出さずにつぶやいて、その言葉とともに眠ろうとした。

うとうとし始めた頃、やっと僕は自分がしていたことに気づいた。

適当に本を開きながらも、僕は結局「リリー」が書いた数ページに立ち戻っていたのだ。


僕はサンタをもてなすためのミルクもクッキーも用意していなかった。ここには煙突もないし、暖炉さえない。僕はサンタに欲しいものリストを渡してないし、僕がいい子だったことを示す証明書も受け取っていない。それでも翌日のお昼ごろ目覚めると、母からのプレゼントがじっと僕を待っていてくれた。

僕はツリーの下でプレゼントを一つずつ開封していった。そうやって僕がツリーの下で開封していく姿を毎年母は嬉しそうに見ていたから。母に見られながらプレゼントを開けている時間は、なんだか後ろめたいようなひと時だった。―その10分程度のそわそわした気分を振り払うように、僕も母にプレゼントを渡したことを思い出す。包装紙の下には特に驚くようなものは入っていなかった。―僕が欲しかった本がたくさんと、一つか二つ気を利かせたんだろうなと思われる小物があって、あとは、そんなに悪くない青いセーターが入っていた。

「ありがとう、ママ」と、僕は誰もいない空間につぶやいた。電話をしようにも、彼女のいるところはまだ朝早い時間なのだ。

プレゼントの中にあった本を読み始めると、僕はすぐに我を忘れ、電話が鳴るまで本の中に没頭していた。

「ダシール?」と、父はかしこまった調子で言った。まるで母の部屋にいた他の誰かが、僕の声を真似て電話に出たとでも思ったかのようだった。

「そうだよ、父さん?」

「リーザと私からメリークリスマスの言葉を贈るよ」

「ありがとう、父さん。僕からも二人に贈るよ」

[気まずい沈黙]

[さらに気まずい空気]

「ママがお前に迷惑をかけてなければいいんだが」

ああ、父さん、僕は父さんが〈仲良し家族〉を演じ始めるときが大好きなんだ。

「ママにこう言われたんだ。暖炉の灰を掃除してから、お姉ちゃんを手伝ってクリスマスパーティーの準備をしなさいって」

「ダシール、クリスマスくらいはそういう態度は引っ込めたらどうだ?」

「メリークリスマス、父さん。プレゼントもありがとう」

「プレゼントってなんだ?」

「あ、ごめん。―あれは全部ママからのプレゼントだったね?」

「ダシール...」

「そろそろ切らなくちゃ。ジンジャーブレッドマン・クッキーを焼いてるから」

「待ってくれ。―リーザが君にメリークリスマスを言いたいそうだ」

「煙がもくもく上がってるから、本当に行かなくちゃ」

「そうか、メリークリスマス」

「うん、父さん。メリークリスマス」

会話がぎくしゃくしてしまった責任は、僕にあるとしても 8分の1くらいだろうなと思った。そもそも電話に出たことがいけなかったのだ。でも電話に出てしまえば、それで済むと思ったんだ。そして今まさに、―それで済んでしまった。僕は赤いノートに引き寄せられ、むしゃくしゃした気分をノートに書いて発散しようとした。―でもそうしなかったのは、リリーに僕の気持ちをぶつけたくないと思ったからだ。まだそうする時期ではない、と。そんなことをノートに書いても、みっともないだけだろうし、それにもう起こってしまったことで、僕だってどうにもできないのに、リリーが何かできるとも思えなかった。

まだ5時だったけれど、外はすでに暗くなっていた。僕はダイカー・ハイツへ向かうべき時が来たと思った。

どうやらDラインの地下鉄に乗る必要があるみたいで、Dラインは短い距離しか乗ったことがなかったので、今までで最長距離を乗ることになりそうだった。この前まで殺気立った群衆で溢れかえっていたというのに、クリスマス当日の街は閑散としていた。開いているのはATMと、教会と、中華料理店と、映画館くらいだった。それ以外の建物はすべて真っ暗で、休眠しながらクリスマスをやり過ごそうとしているようだった。地下鉄も空洞化してしまったみたいで、―ホームにも人々はまばらで、車内に乗り込んでみても、座席に座っている乗客が若干いる程度だった。まあ、クリスマスならではという情景も見ることができた。―小さな女の子たちがドレスを着て嬉しそうにしていたし、小さなスーツに無理やり押し込まれたかのような小さな男の子たちもいた。いつもなら敵意に満ちた眼差しと目が合うこともあるけれど、今日はなんだか、にこやかな瞳とよく目が合った。観光客で賑わう場所を別にすれば、ガイドブックを開いている人は見当たらなかったし、聞こえてくる会話もすべて小声で交わされていた。僕はマンハッタンからブルックリンに入るまで本を読んでいた。その時、Dラインの地下鉄が地上に出た。僕はとっさに振り向いて窓の外を見た。エンジン音を響かせながら走る電車の窓から、しばらく外を眺めていた。家族が住んでいるはずの家々の窓が現れては消えていった。

僕はまだどうやって〈くるみ割り人形の家〉を見つけたらいいのかわかっていなかったけれど、地下鉄が目的の駅に着いたとき、ある考えが頭に浮かんだ。その駅だけ不自然なくらい多くの乗客が僕と一緒に地下鉄を降りたのだ。みんな同じ方向に向かっているようだった。―家族連れが多く、手をつなぐカップルもいたし、巡礼に来たらしいお年寄りの人たちもいた。僕はその群衆に付いて行ったというわけだ。

最初に空中に異変を感じた。タイムズ・スクエアにいるような感じで、電光の輪が辺りに漂っている。ただ、ここはタイムズ・スクエアから遠く離れた場所なので、そんなことは有り得ないと思っていると...電気で光る家々が見えてきた。一軒通り過ぎるごとに、家を照らし出す電球の数が多くなっていくようだった。どの家も素人がクリスマスの飾り付けをしたというようなレベルではない。それはもう、芝生と住宅を取り巻く素晴らしい、目を見張る超大作だった。見渡す限り、すべての家が電球に取り囲まれていた。あらゆる色の電球が、あらゆる形に光っていた。トナカイとサンタとそりの輪郭を形作り、リボンの付いた箱や、おもちゃのテディベアや、人間よりも大きな人形、―それらすべてがクリスマス用の電球で数珠(じゅず)つなぎに形作られていた。もし聖母マリアとヨセフが飼い葉桶にこんな感じで火を灯したのなら、ローマのどこにいてもその光を見ることができたはずだ。

僕はその光を眺めながら、矛盾した感情を抱いていた。一方では、電気の驚くべき乱用だと思った。アメリカ的クリスマスが奨励している独創的な無駄使いの証である、と。ただ、もう一方では、地区全体がこんな風にライトアップされているのを見るのは爽快だった。光がコミュニティーを一つにまとめている感じがしたからだ。たとえば、同じ地区に住む全員が同じ日に懐中電灯を手に持って外に出て、懐中電灯を上にかざしながら地区のパーティーをしている、といったイメージに近い。子供たちが歩き回っては立ち止まり、光る家を眺めていた。まるで近所の人たちが突然、巧妙な魔法の使い手にでもなってしまったかのように、子供たちは目を丸くしていた。光る家を取り囲むようにして、光の数と同じくらいの会話が巻き起こっていた。―僕はどの会話にも参加していなかったけれど、話し声に囲まれているだけで嬉しかった。

〈くるみ割り人形の家〉は簡単に見つかった。―少なくとも5メートル近くはある2体の「くるみ割り人形」が、空に向かって仁王立ちして門扉を見張っていたのだ。その横では、「ねずみの王様」が祝賀ムードをぶち壊そうとし、「クララ」は夜通し踊っていた。僕はクララの手の中に巻物がないかと探し、無数の電球が垂れ下がるプレゼントの箱の天辺にカードがないかと探した。その時、地面に置いてあった、ある物が目に入った。―それは光がまだら模様に当たったバスケットボールほどの大きさのクルミだった。表面はひび割れていて、ちょうど手を入れられる割れ目があった。

その中にメモが入っていて、簡潔でわかりやすいメッセージが書かれていた。

あなたが見たものを私に教えて。

それで僕は道の縁石に座り、先ほど感じた矛盾について、つまり無駄と喜びについてノートに書いた。それから僕は、この特別な通りの熱狂よりも、品揃え豊富な本棚が静かに陳列されている方が好きだ、と彼女に向けて書いた。一方が間違っていて、もう一方が正しいというわけではなく、―これは単なる好みの問題なんだ、と。僕はクリスマスが終わってくれて嬉しいとも書いたし、その理由も彼女に伝えた。他に何か書くことはないかと周りを見回して、あらゆるものを見ようとした。そうやって僕が見たものを彼女に教えた。3才くらいの子供が楽しみすぎて疲れたのか、あくびをしていた。地下鉄から一緒だったお年寄りの夫婦がついに目的の地にたどり着いたようだった。―あの夫婦は長年ここに通っているのだろうと想像した。そして、今彼らの目の前に立ち並ぶ家々と、過去に見た家々を同時に見ているに違いないと思った。きっと二人の会話は、どちらから話し始めるにしても、「あの時を思い出して」という言葉から始まるのだろう。

それから僕は彼女に「僕が見なかったこと」も伝えた。すなわち、僕は君に会えなかった、と。


君が1メートル先に立っていてもおかしくないと思ったよ。―クララのダンスパートナーとして君がクララの横に立っているとか、通りの向こうから君が、飛び立とうとしているトナカイのルドルフの写真を撮っているとか、そういうことを期待したんだ。もしかしたら僕は地下鉄で君の隣に座ったのかもしれないし、駅の回転式改札口を通り抜けた際に君とすれ違ったのかもしれない。でも、実際には君がここにいてもいなくても、君はちゃんとここにいるんだと思う。―だって、今書いている言葉は君に向けたものであって、もし君がここにいないのであれば、これらの言葉も存在していないことになる、とも言えるからね。このノートって奇妙な再生機器だね。―音楽が再生されるまで、どんな曲が鳴り響くのか、書いている本人にもわからないんだから。

君が僕の名前を知りたがっている、ということはわかってるよ。でも、もし君に僕の名前を、ファーストネームだけでも教えるとね、君はネットでその名前を検索できるし、そうすると不正確で不完全な僕に関する情報を色々見つけてしまいかねないからね。(もし僕の名前がジョンとかマイケルなら、何の問題もないんだけど。)そして、たとえ君が絶対に検索しないって言い張ったとしても、誘惑は常に君のそばを付きまとうことになるからね。だから僕は君と微妙な距離を保ちたいと思っている。そうすれば、君は他の人の雑音に惑わされることなく、僕を知っていくことができるから。君も同意してくれるといいんだけどな。

次に君にしてほしいこと(あるいは、してほしくないこと)をリストにして書いたけれど、それには時間的制約があるんだ。―つまり、まさに今夜、君にそれを実行してもらいたいと思っている。というのも、毎月のように名前を変えるクラブ(僕は彼女にそのクラブの住所を教えた)で、これから朝まで続くイベントが開催されるんだ。そのイベントは、(この時期にぴったりの)〈ハヌカー祭の第7夜〉がテーマになっていて、まず前座で演奏するのは、たしか「ユダヤの炎」というバンドで、(あるいはエゼキアルか、アリエルというバンドだったかもしれないけど、)その後、大体午前2時から、ゲイのユダヤ人のダンスポップ/インディーズ/パンク・バンドが演奏することになっている。バンド名は〈お馬鹿な先生、ユダヤ人をからかっているのかい〉というんだ。前座のバンドとメインのバンドの演奏の合間に、トイレに行って僕が書いたメッセージを探してほしい。


クラブで朝まで過ごすことは僕には似つかわしくないので、僕は1回か2回電話をかけて、この計画がちゃんと進んでいるか確認しなければならないな、と思った。僕は素早くモレスキンのノートをクルミの中に滑り込ませると、背負っていたリュックから〈ひねくれ君人形〉を取り出した。

「ほら見てごらん、見える?」と、僕はひねくれ君に聞いた。

そして僕は2体のクルミ割り人形の間に、ひねくれ君を小さな守衛として置いてから、そこを立ち去った。



8

(リリー)

12月25日


今年のクリスマスは自分に対して心地良いルールを課すことにした。つまり今日は1日中、動物(生きている動物とぬいぐるみの動物)たちとだけ話すことに決めた。まあ必要に応じて、厳選した人間とも話してもいいけれど、両親とラングストンは選考から除外する。それから赤いモレスキンのノートの中でひねくれ男子くんとも話そうと思う。―彼が私にノートを返してくれればね。

私がやっと文字の読み書きを覚えた頃、両親が私にホワイトボードを買ってくれたんだけど、私は今もそれを部屋にしまってあるのよ。両親としては、私がイライラしたとき、性悪女の彼女が、つまり〈金切り声のリリー〉が金切り声を上げることでうっぷんを晴らすのではなくて、私が、つまり〈リリー〉がそのホワイトボードに思ったことを書くことで、感情を発散させてほしいって思ったみたいね。要するにホワイトボードが私の心を癒す治療的ツールになってくれるだろうって。

それでクリスマスの朝、両親がビデオ通話をかけてきたから、私はそのホワイトボードを引っ張り出してきたのよ。コンピューターの画面に映った二人が一瞬、誰だかわからなかったわ。裏切り者のお二人さんはとても健康そうで、肌も黄金色(こがねいろ)に焼けて、くつろいでいて、クリスマスらしさの欠片(かけら)も見当たらなかった。

「メリークリスマス、愛(いと)しいリリー!」とママが言った。ママは「小別荘」というのかなんというのか、とにかくそのバルコニーに座っていた。彼女の輪郭を包むように後ろには海が広がっていて、ママは1週間前にマンハッタンを出発した時より、10歳も若返ったように見えた。

するとパパのテカった顔がスクリーンの外からのっそりとママの横に現れて、海の眺めをさえぎられた。

「メリークリスマス、愛しのリリー!」と彼は言った。

私はホワイトボードに文字を書きなぐり、二人が見えるようにそれを掲(かか)げて、スクリーンに映し出した。「メリークリスマス、お二人さん」と。

ママもパパもホワイトボードを見て、眉をひそめた。

「あらまあ」とママが言った。

「おいおい」とパパも言った。「今日のリリーベアちゃんはちょっとご機嫌斜めかな? パパたちは去年のクリスマスから、ちゃんと君にこの記念旅行について話してきたじゃないか、パパたちがいなくても今年のクリスマスは大丈夫よって言ってなかったかい?」

私はホワイトボードに書いた文字を消して、今度はこう書いた:「ラングストンが全寮制の学校の仕事のことを教えてくれたわ。」

二人の表情に影が差した。

「ラングストンに代わってちょうだい!」と、ママが声を張り上げた。

「彼は今風邪で寝込んでるわ。」と私は書いた。

パパが「彼の体温は何度?」と聞いてきたから、

「101」と書いた。

ママの苛立った顔が心配そうな表情に変わった。「かわいそうな子ね、今日はクリスマスだっていうのに。私たちが家に帰る元日までプレゼントは開けないように言っておいてよかったわ。病気で寝込んでるときに開けても全然楽しくないものね?」

私は首を振った。「お二人さんはフィジーに行くわけ?」

パパは言った。「まだ何も決めてないんだ。パパたちが帰ったら家族みんなで話し合おう」

すかさず私は文字を消して、再び書きなぐった。

「私が怒ってるのは何も話してくれなかったからよ。」

ママは言った。「ごめんね、リリーベアちゃん。あなたが怒るようなことが実際に起こるまでは、あなたを動揺させたくなかったのよ」

「どうせ私は怒るってこと?」

書いたり消したりしていたら、手が疲れてしまった。意固地にならずに声を出してしまおうか、とも思いかけた。

パパは言った。「クリスマスなんだし、もちろん君を怒らせようなんて思ってないよ。家族みんなで話し合って決めよう―」

ママがパパの話をさえぎった。「冷凍庫にいくらかチキンスープが入ってるわ!電子レンジで解凍してラングストンに食べさせてあげて」

「ラングストンは風邪引いて当然なのよ」と書きかけたけれど、私は途中で消して書き直した。「わかったわ。彼にスープを作ってあげる」

ママは言った。「もし彼の体温がまだ上がるようなら、ラングストンを病院に連れて行ってあげて。リリー、できる?」

ついに私の声が解き放たれ、「もちろんそれくらいできるわよ!」と、私はピシャリと言い放った。まったくもう、私を何歳だと思ってるの? まだ11歳だとでも思ってるのかしら?

ホワイトボードと、それから私の決心の両方が、裏切り者の「声」に怒り狂っていた。

パパは言った。「ごめんな、クリスマスが甘く素敵な日にならなくてごめん。新年にはこの埋め合わせをちゃんとするから。今日はラングストンのことを頼むよ。それから今夜は大叔母さんのアイダの家に行って、美味しいクリスマス・ディナーをごちそうになりなさい。そうすれば君の気分も良くなるから、わかった?」

「沈黙」が返り咲いて、私は頭を上下させ、うなずいた。

ママが言った。「一人の時間は何してたの? リリーちゃん」

ノートのことをママに話す気は全くなかった。それはフィジーのことで怒っているからではなくて、今年のクリスマスを振り返ってみて今のところ、ノートのことが、そして彼のことが、一番ましな出来事に思えたからだった。私はノートにまつわることをすべて自分の中にしまっておきたかった。

兄の部屋からうめき声が聞こえた。「リリィィィィィィィー…」

私はホワイトボードに書くよりもタイプしたほうが手っ取り早いと思い、画面上で両親にメッセージを打ち込んだ。


「ラングストンが病床から私を呼んでるから行ってあげるわ。メリークリスマス、ママもパパも大好きよ。フィジーには行かないことにしましょうね」


「私たちもリリーが大好きよ!」と、二人は画面の向こう側の世界で甲高い声を上げた。

私は通話を切って、兄の部屋へ向かった。途中で洗面所に立ち寄って、非常用の道具が一式入っている箱から使い捨てのマスクと手袋を引き抜いて、口と手を覆った。私まで風邪を引くわけにはいかないわ。赤いノートが私の元へ返ってくるかもしれないっていうのに、風邪なんか引くもんですか。


私はラングストンの部屋に入って、彼のベッドの横に座った。ベニーは自分のアパートで休むことにしたみたいで昨日帰宅した。帰ってくれた彼に私は感謝していた。クリスマスに1人ではなく2人の病人の世話をすることになったらと思うと、取り乱している自分の姿が浮かんだ。ラングストンは私が数時間前にベッドの脇に置いておいたオレンジ・ジュースにも塩振りクラッカーにも手を付けていなかった。さっき彼がこの部屋から私を「リリィィィィィィィー…」と呼んだ時間は大体、いつものクリスマスの朝なら、二人で一緒にプレゼントの包装紙を破いて開けている時間だった。

「僕に本を読んでくれないか?」とラングストンが言った。「頼むよ」

今日はラングストンと話すつもりはなかったけれど、読み聞かせてあげるくらいならいいかなと思い、私は昨夜、彼に途中まで読み聞かせていた『クリスマス・キャロル』を手に取って、昨日の続きから声に出して読み始めた。「『病気や悲しみが感染することはよく知られているが、笑いやユーモアこそ、この世で一番避けがたく感染するものであり、それはこの世界をつかさどる公正で公平な、尊き摂理なのだ。』」

「そこ凄くいいね」とラングストンが言った。「そこに下線を引いて、そのページを折っておいてくれる?」私は言われた通りにした。兄の本にはあちこちに下線が引いてあるけれど、彼がそれらの何に惹かれたのか私には知るよしもない。家にある本を開くと、必ずと言っていいほど、ラングストンが何やら書き込んだページに行き当たるので、たまにうんざりする。ラングストンの書き込みは素晴らしいものも、思い上がったたわごともあったけれど、私は彼のそういったコメントを目に入れることなく、私自身が自発的にその文章について何を思うのかが知りたかった。でもその一方で、時々彼のメモを見つけては読み返し、その箇所がなぜ彼の興味をそそり、彼にインスピレーションを与えたのかを解読しようと試みて面白がっていた。それは兄の脳内に入り込む素敵な通路だったのだ。

ラングストンの携帯にメールが届いたらしく着信音が鳴った。「ベニー!」と彼は言って、携帯をつかんだ。ラングストンは親指を高速で動かし、返信していた。『クリスマス・キャロル』を書いたディケンズさんとそれを読む私の出番は、とりあえず終わったらしい。

私は彼の部屋を出た。

ラングストンは私にプレゼント交換をしようとは話を持ち掛けてこなかった。両親にプレゼント交換は新年まで待つように言われていたけれど、もし兄に頼まれれば、ズルして今日交換してもよかったのに。

自分の部屋に戻ってみると、私の携帯に着信があったようで、5件も音声が録音されていた。おじいちゃんから2件と、いとこのマークから1件、サルおじさんから1件、それから大叔母さんのアイダからも1件入っていた。携帯電話がクリスマスのメリーゴーランドのように、ひっきりなしに鳴っていたようだ。

私はどのメッセージも聞かずに、携帯の電源をオフにした。今日はストライキを決行すると決めたのだ。

去年、私は両親に、今年のクリスマスは年が明けてからお祝いしても構わないって言ったけれど、本気で言ったわけではないし、あんな見え見えの強がりをどうして両親はわかってくれなかったのかしら?

今朝は家族と一緒にプレゼントを開けて、豪華な朝食を食べながら笑ったり歌ったりする、そういう本式のクリスマスの朝じゃないといけないのよ。

けれど、私にはもう一つ、それ以上に望んでいることがあると気づき、自分でも驚いてしまった。

私は赤いノートが戻ってくることを待ち望んでいた。

特にすることもなく、一緒に出掛ける相手もいなかったので、私はベッドに横になって、ひねくれ男子くんは今どんなクリスマスを過ごしているのかと思いを巡らせた。きっと彼はチェルシー辺りにある、おしゃれな芸術家が住むようなロフト付きの部屋に住んでいて、とってもイケてるママと、ママの新しいイケメンの恋人と一緒に暮らしているんだわ。そうね、彼らは左右非対称な髪型をしていて、たぶんドイツ語で会話しているんじゃないかしら? 七面鳥をオーブンで焼いている間、ホットアップルサイダーを飲んだり、私があげたレープクーヘン・スパイス・クッキーを食べたりしながら、クリスマスの団らんを楽しんでいるのよね。私の想像はどんどん広がっていった。ひねくれ男子くんはママとママの新しい恋人にトランペットを吹いて聴かせるのよ。ベレー帽なんかをかぶっちゃってね。突然、彼が帽子をかぶった音楽の神童であってほしいという願望が私の中に生まれた。その曲は彼が二人へのクリスマス・プレゼントとして作曲したもので、演奏が終わると二人はドイツ語で、「ダンケ(ありがとう)!ダンケ(ありがとう)!」って泣きながら言うの。その曲は完璧で美しく、彼の演奏は絶妙だったから、近くで座って聴き入っていたひねくれ君人形も、布でできた手を叩いてしまったくらい。ピノキオが甘いトランペットの調べに命を吹き返したってわけね。

私はひねくれ男子くんと直接話すことも、彼のクリスマスがどんな風に進行中なのかを聞くこともできないので、外出用の洋服に着替えてトンプキンス・スクエア・パークまで散歩に出掛けることにした。その公園で見かける犬は大体、私の顔なじみなのよ。アレチネズミの件と猫の件があって、私はペットに愛着を持ちすぎちゃうからって、両親がペットは何も飼わない方がいいってずいぶん前に決めたの。でも近所の家の犬を、飼い主にお小遣いをもらって私が代わりに散歩に連れていくっていう仕事なら、してもいいことになっているのよ。両親かおじいちゃんの知り合いの家に限るけどね。この妥協案はこの2年くらいうまく機能していて、私はいろんな犬と有意義な時間を過ごせているし、もし私が自分の犬を一匹飼っていたとしたら得られるはずの充実感よりも、今の充実感の方がきっと大きいわ。それに私の財布も充実してるしね。

天気はクリスマスのわりには異様なくらい晴れていて暖かかった。なんだか12月というより、6月のような空気だった。でも天候以外にも、クリスマスには似つかわしくない気配をどこかしら感じていた。私はベンチに座って、人々が犬を連れて歩くのを眺めていた。そして、私の知らない犬にも「ハイ、わんちゃん!」と甘い声をかけ、私の知っている犬にも「ハイ、わんちゃん!」と、子犬のような声を出して話しかけた。私は顔なじみの犬の頭を撫でると、骨の形をした犬用のビスケットを与えた。それは私が昨夜、クリスマスらしく焼き上げるために赤と緑の着色料を使って焼いたビスケットだった。私は必要以上に人間には話しかけなかったけれど、彼らの会話に耳を澄ましていたら、今年のクリスマスは近所の人たちにとっては、私のクリスマスみたいに最悪ではないことがわかった。彼らが着ている真新しいセーターや帽子や、新しい腕時計や指輪が目につき、新型テレビやノートパソコンについて話す会話が耳に入ってきた。

しかし、私の頭はひねくれ男子くんのことでいっぱいだった。私は彼が両親に囲まれている姿を想像した。彼がクリスマスに望む理想の両親、子供に愛情を注ぐ両親に挟まれながら、想像上の彼はプレゼントを開けていた。中には雰囲気のある黒のタートルネックのセーターや、怒(いか)れる若者が書いた怒れる小説や、スキー用品が入っていた。というのも、いつか私と彼が一緒にスキーに行く日が来るかもしれないからね。私はスキーの滑り方も知らないんだけど、そう思いたくなっちゃったんだから仕方ないじゃない。ただ、彼がもらったプレゼントの中にはカタロニア語の辞書だけはないわ。

ひねくれ男子くんはもうダイカー・ハイツに行ったかしら? 私は携帯電話の電源を切って、そのまま家に置いてきてしまったので、それを確かめるには大叔母さんのアイダの家に行くしかなかった。彼女は今日私が話してもいい人のリストに入っていた。

大叔母さんのアイダはグラマシー・パークの近くの東22番街にある高級な〈タウンハウス〉に住んでいる。4人いる私の家族は小さな狭苦しいイースト・ヴィレッジのアパートに(ペットなしで、うぅー…)住んでいる。両親は二人とも学術関係の仕事をしているから、彼らの給料ではこの程度のところにしか住めないの。というか、ここだっておじいちゃんがこの建物を所有しているから住めているわけだけどね。しかも、私たち家族が4人で住んでいるアパートと大叔母さんのアイダの家の1階が大体同じくらいの広さで、彼女はそこを独り占めしているのよ。彼女は一度も結婚したことがないし、子供もいないわ。彼女は若い頃、信じられないほど成功したアート・ギャラリーのオーナーだったの。自分の力でマンハッタンに自分の家を買えるくらい裕福になったのよ。(ただ、おじいちゃんがいつも言っていることによると、彼女はニューヨークが経済的混乱のさなかにあった時にその家を買ったんですって。前の入居者がどうしてもその家を手放したくて、大叔母さんのアイダは実質ただ同然でその家を手に入れたらしいわ。ラッキーレディーね!)彼女は高級住宅地にある豪邸に住んでいるからといって、お高くとまったレディーというわけでもないんだけどね。実際、彼女はお金持ちなのに、まだ週に1日マダム・タッソー館で働いているし、彼女には全く気取った感じはないわ。彼女は何かやることが必要なのよって言っていた。有名人たちとの近所付き合いも好きみたいね。彼女は誰も見ていないときに華やかな人たちの間で起こっていることについての暴露本を書いているんじゃないかと、私は密かに思っているの。

ラングストンと私は大叔母さんのアイダを「ミセス・バジル」と呼んでいる。私たちが子供だった頃に大好きだった本、『ミセス・バジル・フランクヴァイラーのおかしな事件簿』から取ったのよ。あの本に出てくるミセス・バジルはお金持ちの老婦人で、主人公の姉と弟をニューヨークのメトロポリタン美術館での宝探しに引きずり込むんだけど、大叔母さんのミセス・バジルは、私たちが子供だった頃、学校が休みで両親が働いている日には、ラングストンと私を美術館での冒険に連れ出してくれたわ。そういう日の旅の締めくくりは決まって巨大なアイスクリーム・サンデーだった。姪と甥に夕食の代わりにアイスクリームを食べさせてくれる大叔母さんなんて、素晴らしいと思わない? 私的には最高の大叔母さんよ。


ミセス・バジルこと大叔母さんのアイダは、彼女の〈タウンハウス〉に着いた私を大きなクリスマス・ハグで包み込んだ。私は彼女の体からいつも漂っている口紅と高級そうな香水の香りがたまらなく好きだった。パジャマのような部屋着でのんびり過ごすべきクリスマス当日でさえ、彼女は常に上品な婦人服を着ているのだ。

「いらっしゃい、リリーベアちゃん」とミセス・バジルは言った。「あら、私がワシントン・アーヴィング高校でバトンガールをしていた時の懐かしいブーツじゃない」

彼女がもう一度ハグしてきたので私は彼女に身を預けた。私は彼女のハグがとっても好き。「そうなの」と、私は顔をうずめている彼女の肩に愛着を感じながら頷いた。「このブーツは古いドレスとかが入っているトランクの中で見つけたの。最初は私には大きいかなと思ったんだけど、厚手のタイツをはいてみたら、今は履き心地いいわ。新たに私のお気に入りのブーツになったわ」

「ブーツの房飾りにあなたが付け加えた金のティンセルが素敵ね」と彼女は言った。「新年になる前に私を放してくれるかしら?」

しぶしぶながら私は彼女の体に回していた腕を放した。

「ここではそのブーツは脱いでちょうだい」と彼女が言った。「そのブーツの底には金具が付いてるでしょ、板張りの床を傷つけたくないのよ」

「ディナーの食材は何?」と私は訊ねた。

ミセス・バジルはクリスマス・ディナーに大勢のお客さんを招いて、大量の料理でもてなすことをしきたりにしているのだ。

「いつものよ」と彼女は言った。

「手伝うことある?」と私は訊ねた。

「じゃあ、こっちに来てくれる?」と彼女は言って、キッチンの方へ向かった。

でも私は彼女に付いて行かなかった。

彼女は振り返って、「どうしたの? リリー」と聞いてきた。

「彼からノートは返ってきた?」

「まだよ、リリーちゃん。でもきっと返ってくるわ」

「彼の外見はどんな感じだった?」と、私は再び彼女に聞いてみた。

「自分の目で確かめなさい」と彼女は言った。ひねくれていることを除けば、ひねくれ男子くんは総じて怪物みたいな感じではないはず。だって、もし彼が怪物なら、私が書いた最新の彼へのメッセージに関連してミセス・バジルが協力してくれるなんて有り得ないから。

キッチンへと私たちは向かった。

ミセス・バジルと私は6時までお手伝いさんたちと一緒に、歌いながら大邸宅に見合うだけの豪勢な料理の支度をしていたんだけど、私はずっと「彼がノートを返してくれなかったらどうするのよ?」と金切り声を上げたくて仕方なかった。でもそうしなかったのは、大叔母さんがあまり心配しているようには見えなかったからで、むしろ彼女は彼を信頼しきっているようだったから、なんだか私まで信頼するべきだと思えてきた。

ついに夜の7時になって、(ひょっとしたら今までの人生で一番ながーーーく待ったかもしれないけれど、)親戚の〈ダイカー・ハイツ派遣団〉が帰ってきた。カーミンおじさんと彼の妻と賑(にぎ)やかな子供たちがプレゼントを抱えて入ってきたのだ。

私はもらったプレゼントを開けようとはしなかった。カーミンおじさんはまだ私のことを8歳だと思っていて、〈アメリカンガール人形〉に付けるアクセサリー類を毎年くれるのだ。たしかに私はまだ〈アメリカンガール人形〉が大好きには違いないけれど、ギフト用の包装紙に包まれた箱の中身が謎に満ちていてわくわくするという感じではない。それで私は彼に訊ねた。「あれ持ってる?」

カーミンおじさんは「高くつくぞ」と言って、私に彼の頬を近づけてきた。私は彼の頬にクリスマスのキスをした。キスという料金を支払ったことで、彼はプレゼントが入った〈お楽しみ袋〉から赤いノートを引っ張り出して、私に手渡してくれた。

突然、私は今すぐノートに書かれている最新の内容を吸い込んで体内に取り込まないことには、これ以上1秒たりとも生きていける気がしなくなった。どうしても一人になる必要があったのだ。

「みんな、バイバイ!」と、私は陽気な声を上げた。

「リリー!」と、ミセス・バジルが声を荒げた。「あなた、まさか帰ろうなんて思ってるんじゃないでしょうね?」

「言うの忘れてたけど、今日は誰とも話さないつもりなのよ!私は一応ストライキ中なの!だから今日はみんなと仲良くできないわ!それにラングストンが風邪で寝込んでるから彼の面倒も見ないと」私は彼女に投げキッスを送って、「ムチュッ!」と大袈裟に言った。

彼女は首を振った。「この子ったら」と、彼女はカーミンおじさんの方を向いて言った。「おかしな子なのよ」彼女は手をふわりと宙に上げると、私に投げキッスを返してきた。「あなたがここに招待した聖歌隊の友達がもうすぐ来るんでしょ? 彼らになんて言ったらいいの?」

「メリークリスマスって言っといて!」と、私は叫びながら彼女の家を出た。


帰宅してみると、ラングストンはまた眠っていた。私は彼のコップに水をつぎ足して、解熱剤の〈タイレノール〉を何錠かベッド脇に置くと、自分の部屋にそそくさと入り、ひっそりとノートを読んだ。

やっと私はこれを手に入れた。―私がずっと欲しくて、でもなかなか手に入らなかったクリスマス・プレゼント、彼の言葉を。

私は今まで生きてきた中で誰かをこんなにも待ち焦(こ)がれた経験はなかった。ペットにもこれに匹敵する感情を抱いたことはなかった。

彼が一人きりでクリスマスを過ごしているというのは、なんだか不思議に思えた…そればかりか、彼は一人のクリスマスが好きみたいで、誰にもそんな彼をかわいそうだとは思われたくないようだった。

私も生まれて初めて、ほぼ一人きりでクリスマスを過ごしていた。

私には自分をあわれむような感情はあった。

でもそれほど嫌な気持ちではないなと実感していた。

これからはもっと熱心に孤独というものに向き合ってみようと思った。また公園を一人で散歩して、犬の頭を撫でて、犬におやつをあげることができるのであれば、孤独もそんなに悪くない。

「クリスマスには何をもらった?」と、彼はノートの中で私に聞いてきた。

私は答えを書き込んだ。

今年のクリスマスはプレゼント交換をしなかったのよ。私たちは年明けに交換することになってるの。(話せば長い話になるから、ひょっとしたらあなたも私に直接会って聞きたいんじゃないかしら?)

でも私はノートにメッセージを書くことに集中できなかった。私はノートの中に入り込んで生きてみたいのであって、ノートに何かを書きたいわけじゃないのだ。

ひねくれ男子くんは私のことをどんな女の子だと思ってるのかしら? 私を真夜中のミュージック・クラブに送り込もうとするなんて。

私の両親はそんなところに私を行かせたりはしない。

けれど今、行っちゃだめと言う両親はここにはいない。

私は再びノートに書き始めた。私はあなたが書いていること好きよ。あなたにはまだ名前がないけれど、あなたは私の新しい友達? 私たちの関係は何なのかしら? 友達であってほしいわ。というか友達ではなかったら、クリスマスの夜の午前2時に、―クリスマスではなくても夜中の2時に誰かのために外出しようか、なんて思い悩んでいないでしょうね。暗闇が怖いとか、そういうことではなくて…私はそんなに外出自体しないの。そういうタイプの10代なのよ。わかってくれる?

10代の子がどういう行動をすることになっているのか、私にはわからないの。10代の過ごし方っていう取扱説明書はあるのかしら? 私にもすでに気まぐれな肉体が備わっているとは思うけど、私はそんなに自分の体を見せつけたいとは思わない。そういうことよりも、私の体は知り合いの人たちへの「愛」で満たされていると感じることが多いの。―私がトンプキンス・スクエア・パークで一緒に散歩している犬たちに対しても、「愛」が私の中で膨れ上がっていくのよ。まるで私自身が巨大な風船みたいに膨れ上がって、どこかへ飛んで行けるような気分ね。そう、私の胸は愛情でいっぱいなのよ。

でも同年代の子たちとは、昔からそんなに心を通わせることはなかったの。中学1年生のとき、両親が私を学校のサッカーチームに入れたのは無理やりにでも同い年の女の子たちと交流させるためだったんだけど、でも結果として、私はサッカーがかなり得意なんだということがわかっただけで、社交性に関しては才能がなかったわ。心配しないで。―私は誰からも話しかけられないような根っからの変人ってわけじゃないのよ。一応他の女の子たちは話しかけてくるわ。ただ、しばらく話してるとね、なんていうか、「は? この子何言ってるの?」みたいな顔して、みんな私から離れて別のグループに移っていくの。社交性のある子たちのグループって、きっと私にはわからない隠語というか、秘密の言葉で会話しているんだわ。そして私はまた一人でサッカーボールを蹴ったり、大好きな犬たちや小説の中の登場人物たちと架空の会話を繰り広げることになるのよ。私はそれで満足だからいいんだけどね。みんなそれぞれってことね。

私は変わった女の子だって思われても気にしないわ。むしろその方がほっとするかもしれない。でもね、サッカーの「言語」に関しては、とても流暢に喋れるのよ。そこがスポーツの良いところね。たとえ一緒に試合をしている全員がそれぞれ全く違う言葉を話しているとしても、フィールド上では、あるいはコート上では、それがどんなスポーツであっても、動きやパスや得点といった「言語」はすべて同じなのよ。万国共通ってことね。

あなたはスポーツは好き? あなたがスポーツ好きなタイプだとは思えないけどね。わかったわ!あなたの名前はベッカムじゃないかしら?

今夜あなたにこのノートを返すかどうか、まだわからないわ。あなたの指令を受け入れられるか、はっきりしないの。今両親がいないから外出できなくもないんだけど、私は一度も夜中のミュージック・クラブなんて行ったことはないし、真夜中に一人で外出したこともないのよ。しかもマンハッタンの中心地でしょ? びっくりだわ。あなたは私をかなり信頼してるのね。それはありがたいけど、私がその信頼に応えられるかはわからないわ。

私は書くのをやめて仮眠を取った。ひねくれ男子くんの指示を受け入れるだけの気力が残っているのか不確かだったけれど、もし行くのなら、まず休む必要があった。

私はひねくれ男子くんの夢を見た。夢の中で、ラッパーのエミネムそっくりな顔をしたひねくれ男子くんが、「My name is…(僕の名前は…)」と繰り返し、ラップのリズムに乗せて歌いながら、赤いノートをこちらに向けて掲(かか)げ、様々な名前が書かれたページをめくっていた。

僕の名前は…イプシランティ。

僕の名前は…エゼキエル。

僕の名前は…マンデラ。

僕の名前は…ヤオ・ミン。

午前1時にアラームが鳴り出した。

ひねくれ男子くんが私の潜在意識にも浸入してきたのだ。その夢は明らかな兆しとして、もう抗(あらが)えないほどに私が彼に惹きつけられていることを示唆していた。

私はラングストンの様子をちらっと見てから(彼は気を失ったように寝ていた)、私が持っている洋服の中で一番クリスマス・パーティーにぴったりの、金色にきらめくベルベット生地のミニのワンピースに着替えた。去年のクリスマスにこのドレスを着た時よりも、私の胸とお尻が大きくなっていることに気づいて、私は驚いてしまった。でもどのくらい体の線が浮き上がっているのかは気にしないことにした。おそらくクラブは暗いだろうし、誰も私なんか気にも留めないだろう。私は仕上げに赤のタイツを履き、その上にミセス・バジルのバトンガール時代の、金色のティンセルが光る房飾り付きのブーツを履いた。そして、両耳のところからポンポンが垂れ下がっている赤いニット帽をかぶり、ブロンドの前髪をニット帽から引っ張り出して斜めに垂れ流し、片目を覆い隠して今夜は少しミステリアスに見えるようにした。家を出た私は口笛を吹いてタクシーを呼び止めた。

ひねくれ男子くんは私にある種の魔法をかけたに違いないわ。だって、この私が真夜中にこっそり家を抜け出して、ほかならぬクリスマスの夜に、ロウアー・イースト・サイドにあるはずの、いかがわしいクラブに向かっているんですもの。ノートのやり取りを始める前の〈リリー〉なら、こんな挑戦を受けて立つはずないわ。けれど、どういうわけか、モレスキンのノートが私のバッグの中にあって、そこには私たち二人の考えとか手掛かりとか、私たちが刻み込んできたお互いへのメッセージが書かれていると思うと、なんだか不思議と安心した。私はこの冒険を、道に迷って途方に暮れることもなく、兄に電話して助けを呼ぶこともなく、自分の力だけで実行しているのだ。今夜、真夜中の向こう側で何が私を待っているのかさっぱりわからなかったけれど、私はちっとも怖くなかった。


「メリークリスマス。あたしになにか悩み事を言ってちょうだい」

クラブの中に入ろうとしたとき、扉の前に立っていたクラブの用心棒らしきオカマがそう要求してきた。感謝祭より前の私なら戸惑っていただろうけど、数週間前に私が結成した聖歌隊にシーナーという女装している男性が入ってきたので、私はそのシステムを心得ていた。

シーナーは、今ダウンタウンのクラブシーンで「ニューハーフの次に来る波」として注目されているらしい〈ドラゴン・レディー〉(drag-on lady)の誇り高き一員なんだけど、そのシーナーの説明によると、〈ドラゴン・レディー〉というのは、単に女装している男性ではなく、発音が似ているからといってdragon(竜)でもなく、「あなたの悩みを引き受けるオカマ」のことらしい。

それで私は、とても大きな体の上に金糸のドレスを羽織り、顔には竜のマスクをしている用心棒に向かって、悩みを打ち明けた。「クリスマスなのに私はプレゼントを一つももらってないの」

「シスター、ここでやってるのはハヌーカーの祭りだよ。あんたのクリスマス・プレゼントのことなんてどうでもいいわよ。ほら、もっとちょうだい。あんたが引きずってる悩み事は何?」

「このクラブの中に私を探している人がいるかもしれないし、いないかもしれない。私はその人の名前も顔も知らないんだけど」

「つまんないわね」

扉はぴくりとも動かず、閉まったままだった。

私は〈ドラゴン・レディー〉に近寄ると、耳打ちするように囁いた。「私はまだ一度もキスをされたことがないの。挨拶のキスじゃなくて、恋愛のキスはないの」

〈ドラゴン・レディー〉が目を見開いた。「あんた真面目に言ってるの? そんなおっぱいしてるのに?」

ちょっと!私の神経を逆なでするつもり?

私は両手で胸を隠すと、逃げ出す体勢に入った。

あんた真面目なのね!」と、〈ドラゴン・レディー〉が言って、ついに私のために扉を開けてくれた。「さあ、早くお入りなさい!成功を祈ってるわよ!」

私は両腕で胸を覆い隠しながらクラブの中に入っていった。中は踊り狂う人たちで溢れていた。誰もが叫び声を上げ、激しくぶつかり合いながら踊っていた。ビールみたいな、嘔吐物みたいな臭いが漂っていて、そこは私が想像できる地獄に限りなく近い場所だった。すぐに私は店の外に戻りたくなった。店の前で〈ドラゴン・レディー〉とお喋りしながら、店にやって来る人たちの悩みを聞いて夜を明かしたくなった。

ひねくれ男子くんはどういうつもりなの? 私をこんなゴミ溜めみたいなところに送り込むなんて。これって途方もなく大掛かりないたずらかしら?

率直に言って、私は怖くなった。

私が学校で、唇にグロスを塗った16歳の女の子たちの輪の中に入ってお喋りすることに怖気づいていたのはなんだったのかしら? このクラブの手に負えそうもない恐ろしい集団に比べたら、彼女たちのグループなんて子供の遊びだったわ。

さあ、ごらんになって。[劇的なドラムロール、ドルルルルルルル、ジャン!]パンク好きのいかれた人たちよ。

私がだんとつで一番年下のようだった。ざっと見た感じだと、一人でいるのも私だけだった。そしてハヌーカーのお祭りだというのに、誰もそれらしい服装をしていなかった。お祭りにふさわしいドレスを着ているのは私だけで、みんなスキニージーンズに安っぽいTシャツといった格好だった。10代の女の子たちと同様に、クラブに集まったいかれた人たちも、顔に退屈そうな表情を浮かべながら「隣の人より自分の方がイケてるだろ」と主張しているようだった。ただ、私が知っている10代の子たちとは違って、彼らの中には私に数学の宿題を写させてと頼んできたり、サッカーの試合に助っ人として入ってと頼んできたりする人は一人もいないだろうなと思った。いかれた人たちは私を見ると、すぐに冷笑を浮かべ、鼻であしらうように「仲間ではないな」と私を切り捨てた。それは私にとってありがたいことだと言えなくもなかったけれど。

私は家に帰りたくなった。安心できるベッドの上に戻りたかった。ぬいぐるみの動物たちの元へ、これまでの人生で出会ってきた私の知っている人たちの元へ帰りたかった。私はここにいる誰にも言いたいことはなかったし、誰も私に話しかけてこないで、と切(せつ)に祈りつつ、こんなライオンの巣穴みたいな危険な場所に私を放り込んだひねくれ男子くんを恨み始めていた。私が彼に振り下ろしたパンチで一番強烈だったのはマダム・タッソー館だったけれど、でも蝋人形は私が横を通り過ぎても、「あの子の格好は何? タップ用のブーツなんてあるんだ?」とか、隣の蝋人形と言い合って、私を評価したりはしないと思うわ。

ああ、とはいえ...この音楽は...。ユダヤ教のハシド派を名乗る若者たちのパンクバンドがステージに上がって(ギターが一人、ベースも一人、トランペットが数人と、バイオリンも数人いて、不思議なことにドラマーがいなかった)、彼らが爆音を鳴らし始めた。そのとき、私はひねくれ男子くんの計画の中心的なねらいを理解した。

そのバンドの演奏スタイルは私が以前聴いたことのあるものだった。私のいとこの一人がユダヤ人のミュージシャンと結婚した際の結婚披露宴で、バンドが演奏していたユダヤ伝統のクレズマー音楽と同じ感じだった。ラングストンの言葉を借りると、パンクとジャズをユダヤ教的に融合した音楽らしい。

今クラブで演奏されている音楽を私がたとえるなら、ユダヤ教のホーラー・ダンスを踊りながら、マルディグラ・パレードでパンクバンドの〈グリーン・デイ〉が演奏している、といった感じかしら? ギターとベースが音の基盤を作り、その上にバイオリンのリフ演奏とトランペットが乗っかって、バンドのメンバーたちが笑い声を上げたと思ったら、次の瞬間には嘆き悲しむような歌声に変わる、といった音楽だった。

私はそんなおどけた気狂いピエロたちの演奏が凄く気に入った。胸を守っていたはずの私の両腕は自然と解き放たれていた。もうを動かさずにはいられなかった!私はを振って踊り出した。誰に何を思われても構わないと思った。周りでみんなが激しく踊っている中で、私も髪を振り乱してグルグル回っていた。〈ホッピング〉の遊具に乗っている時みたいに、ピョンピョン飛び跳ねていた。ブーツの金具を床に打ちつけて、私も音楽の一部と化していた。もう人の目なんか全然気にならなかった。

明らかに、荒々しく踊るいかれた人たちと私は音楽について同じ気持ちを共有していた。私たちはみんなで一緒になって、〈パンク・ホーラー・ダンス〉の渦の中にいた。たぶんクレズマー音楽は、サッカーのように世界共通語なのだ。私は自分でも信じられないほど、おもいっきり楽しんでいた。

ひねくれ男子くんは私に、私がクリスマス・プレゼントとしてお願いしたものをくれたんだと気づいた。希望と信念をくれたんだ。こんな冒険を私が一人で実現できるなんて思ってもみなかった。私がずっと望んできたものが今、私の手の中にあって、私はそれを凄く気に入っている。もうだいぶ前から始まっていたんだわ。ノートが叶えてくれたんだわ。


そのバンドの演奏が終わると、私は寂しくなった。けれど、私は次のメッセージを探さなければならなかったから、心拍数が下がっていくのを感じて、演奏が終わってくれてよかったという気持ちにもなった。

出番を終えたそのバンドがステージを降りたあと、私は指示通りにトイレに向かった。

ちょっと言わせてもらうけど、もし今後の人生でまたいつかあのトイレに入らなければならない事態になったら、今度は漂白剤の〈クロロックス〉を持っていくわ。

私は洗面台からペーパータオルを取ると、それを便座の上に敷いてから座った。こんなトイレを使うなんてあり得ないと思いながら横に目をやると、間仕切りの壁が書き込みで埋め尽くされていた。―落書きとか引用句とか、恋人や友達や元恋人や嫌いな人へのメッセージが一面に書きなぐられていたのだ。それは嘆きの壁を彷彿とさせた。―心にわだかまったものをみんなにぶちまけられて嘆いている壁。こんなに不潔で臭くなければ、美術館の一角を占める空間芸術をも兼ねることができそうな壁だった。―そう思えるほど多くの言葉や感情が、芸術的にも見えるくらい多様な字体で、マジックペンや、色々な色のペンや、アイライナーや、マニキュア液や、ジェルペンや、〈シャーピー〉で書かれていた。

私が一番親しみを感じたのはこの走り書きだった。


「だって私は全然イケてないから勇気が出ないのよ」


それを見て私は思った。「よかったわね、イケてなくて勇気が出ない人。とにかくあなたはこのクラブにたどり着いたんだから。それだけでもう半分人生勝ったも同然じゃないかしら?」

私はその人に何が起こったのだろうと思いを巡らせ、その人が赤いノートを見つけられる場所にノートを置いて行けないかと考えてみた。

それから私は黒のマジックペンで書かれたこの落書きにも惹かれた。


「癒しだったわ。もう取り返しがつかないわね。ごめんね、ニック。私にもう一度キスしてくれる?」


なぜこの落書きに惹かれたのかというと、私はこのクリスマスの悪夢のような〈ホーラー・ナイト〉に踊り狂って、汗をしたたり落としながら臭いトイレの汚い便座に座っていたら、突然〈誰かさん〉とキスしたくてたまらなくなったの。こんな風に誰かを求めたことは今まで一度もなかった。それはもう空想の話ではなくなっていて、求めれば実現するという「希望と信念」に私の中で変換されていた。

(実際、私はまだロマンチックなキスをしたことがなかった。〈ドラゴン・レディー〉に嘘をついたわけではないし、背伸びしても仕方ない。そのことをノートに書いてひねくれ男子くんに告白すべきだろうか? 包み隠さず打ち明けて公平な機会を与えれば、彼は立候補してくれるかしら? そんなことないのかなぁ)

トイレの壁には彼のメッセージを見つけるのは不可能だと思えるくらいたくさんのメッセージが書かれていた。けれど、私は見覚えのある筆跡を見つけた。それは「癒しのキス」を求めるメッセージの数行下に書かれていた。彼はまず下地として白の線を引き、その上に青と黒のペンで、一語ずつ青と黒の文字が交互に並ぶようにメッセージを書いていた。―きっとそれはハヌーカーの色使いなのだろう。そんな書き方をするひねくれ男子くんは密かにロマンチックな人なのかもしれない。あるいはユダヤ教徒なのかな?

そこにはこう書かれていた。

「中折れ帽をかぶったかっこいい探偵風の人にノートを渡してね」


そのメッセージに圧倒され、私は感極まってしまった。

ひねくれ男子くんはここにいるの?

それとも、またブーマーという子に会うことになるの?

私はトイレを出て、再びクラブの中に足を踏み入れた。照明が乏しく薄暗い上に、みんな黒のジーンズに黒のTシャツという格好だったため見つけにくかったけれど、私はついに、お酒を飲むカウンターの片隅に中折れ帽をかぶった二人の男性を見つけた。一人は中折れ帽の上に、ユダヤ教徒がかぶるヤムルカという小さな帽子を載せてピンで留めていた。そして二人ともサングラスをかけていた。ヤムルカをかぶっていない方の男が前かがみになって、靴底に貼り付いたガムをクリップで削り落としていた。(クリップを使っていたんだと思う。お願いだから、指の爪でガムを削り落としていたなんて言わないでね。―汚らしい。)

薄暗いクラブの中で、彼らの顔を見分けるのは不可能だった。

私はノートを引っ張り出してから思い直して、人違いの可能性を考えて念のためにノートをハンドバッグにしまった。彼らで合っているのであれば、彼らの方から「やあ、ノートを受け取りに来たよ」とか私に言ってくるはずじゃないかしら?

そんなことは一切言わずに、彼らはパンク好き特有のギラギラした鋭い視線を私に刺してきた。

私はパニックで立ちすくんでしまった。

そこにいることが苦痛に感じ、私はクラブから出ようと全速力で駆け出した。

そのとき、腹立たしいことにブーツが片方脱げてしまった。本当よ。タイツの上に靴下を履くのを怠ったから大きすぎるブーツがしっくりきてなかったの。インディーズバンドとゲイとユダヤ教徒の舞踏会で、私は金切り声を上げるシンデレラのように、脱げてしまったブーツを片方残したまま、そこを出た。

ブーツを取りに戻るなんて考えられなかった。

タクシーが自宅の前で停まり、運転手にお金を払おうと財布を取り出したとき、私はあることに気づいた。

私は探偵風の人に、ブーツの片一方は置いてきたけれど、肝心のノートを渡さなかったのよ。

ノートはまだハンドバッグの中にあった。

私はひねくれ男子くんが私を探し出す手掛かりを一つも残してこなかったの。



9

-ダッシュ-

12月26日


朝の8時に僕は叩き起こされた。誰かが玄関のドアをドンドン叩いていたのだ。僕はよろめきながら玄関に行き、目を細めてのぞき穴をのぞいた。すると、中折れ帽を斜めにかぶったダヴとヨーニーがこちらをじっと見つめていた。

「やあ、おはよう」と僕はドアを開けて言った。「君たちにしては少し早くない?」

「昨夜からまだ寝てないんだよ!」とダヴが言った。「俺たちはレッドブルとダイエットコーラで気分アゲアゲなんだよ、言ってる意味わかる? つまりそういうこと」

「ちょっとここで寝かせてくれないかな?」とヨーニーが聞いてきた。「今すぐ横になりたいんだ。もう2分も立っていられそうもない」

「もちろん追い払ったりなんてしないよ」と僕は言った。「ライブはどうだった?」

「お前も来ればよかったのに」とダヴが言った。「〈お馬鹿な先生〉は最高だったよ。『キミに逢えたら』に出てきたゲイ・バンドには及ばないにしても、〈オズラエル〉の18倍は良かったな。それとお前に言わなくちゃならないことがあって、お前の彼女が踊りまくってたぞ、この色男」

僕はほほえんだ。「ほんとに?」

「ああ、ホーラーダンスホーって!」と、ダヴが雄たけびを上げた。

ヨーニーが首を振った。「いや、もっとフレーフレーって感じだったよ。彼女はチアリーダーみたいに両手を上げて踊ってた」

ダヴが手に持っていたブーツらしき物でヨーニーの肩を叩いた。

「このあま、こっち向いて言えよ!」と、ダヴが声を張り上げた。

「今夜は誰も物騒なことは望んでないよ」と、ヨーニーがつぶやいた。

僕は二人の間に割って入った。「ちょっと二人とも落ち着いて!それより僕に何か渡すものはない?」

「あるよ」とダヴは言って、ブーツを上に掲げた。「これ」

「それは何?」と僕は聞いた。

ダヴは気が抜けたような顔で僕を見た。「何って、うーん、そうだな…」

ヨーニーが言った。「ノートはなかったよ。というか、彼女はダヴにノートを渡そうとしたんだけど、結局ノートを持ったまま逃げ出しちゃったんだ。で、そのときにブーツが脱げちゃって。どうしてそんなことが起きたんだろうね―足がブーツから抜けるなんて物理の法則に反してる気もするから、ひょっとしたら彼女はわざとブーツを置いていったのかもしれない。君に渡してほしいってことかも」

「シンデレラだな!」とダヴが叫んだ。「休もうぜ!」

「そうしよう」とヨーニーが続いた。「もうそろそろ寝ないと。ねぐらに潜り込んでもいいかい?」

「母親の部屋を使っていいよ」と僕は言って、ダヴからブーツを受け取ると、中を見た。

「ノートは入ってないよ」とヨーニーが言った。「オレも同じことを思ってね。クラブの床も探してみたけどなかった。床を見て回るのはあんまり楽しい作業じゃなかったね。真面目なことを言うと、もしブーツからノートが抜け落ちたのだとしたら、そんなに遠くまで飛んでないだろうし、―ブーツが落ちた辺りにあったはずだよ」

「うわ、床まで探してくれたんだ、ごめん。というか、ありがとう」僕は彼らを母の部屋に案内した。母のベッドを貸すのはちょっと気がとがめたけれど、そのベッドはジョバンニのベッドでもあったから、僕はジョバンニにさりげなく、こう言おうと思いついて得意な気分になった。「このベッドでクラブ帰りのいかれたユダヤ人のゲイのカップルが洞窟(どうくつ)探検したんだよ」ってね。

ヨーニーがダヴを支えているすきに僕はベッドカバーを外した。というのも前に一度、ダヴの体内から、飲んだレッドブルがすべて寝床に流れ出るのを目撃したことがあったから。

「何時に起こせばいい?」と僕は聞いた。

「君は今夜プリヤのパーティーに行くんだろ?」とヨーニーが言った。

僕は頷いた。

「じゃあ、その少し前に起こして」

大事な物を扱うように、ヨーニーは自分の帽子をそっと脱ぐと、ダヴの帽子も取った。僕は二人に、もう朝が始まってはいたけれど、「おやすみ」と言って部屋を出た。


僕はそのブーツをじっくり調べながら、あれこれ考えてみた。表面の革に秘密のメッセージが刻み込まれているのではないかと探し、中敷きを外して靴底にメモがないかと確かめた。僕はブーツに向かって質問を投げかけながら、ブーツに付いたティンセルを指でいじっていた。そして、リリーにまんまと一杯食わされたな、と思った。

もし彼女が何もメッセージを残していないのであれば、お手上げだ。僕は「マジかよ。もうおしまいだ」と思うしかない。しかし、ブーツが一つの手掛かりであることには違いなかった。そして、まだ手掛かりがあるのなら、ミステリーはまだ手つかずのまま残されているということになる。

僕は今まで歩んできた道筋をたどってみることにした。メイシーズ・デパートはクリスマスの翌日の〈ボクシング・デー〉には早い時間から営業していることを知っていたので、僕はすぐに電話した…そして受話器を持ったまま、15分も待たされた。

やっと、ちょっといら立った声の女性店員が電話口に出た。「メイシーズです。―どういったご用件でしょうか?」

「もしもし」と僕は言った。「そちらにまだサンタはいるかなと思いまして」

「お客様、本日はクリスマスの翌日でございます」

「それはわかってるんですけど、―なんとかしてサンタに連絡取れないですか?」

「お客様、只今たいへん混雑しておりまして、そういったことはお受けできかねます」

「いや、そういうことではないんです。―4日前にサンタをやっていた男性にちょっと聞きたいことがあるんです」

「お客様のサンタと話したいという願いはわかります。それは素晴らしいことですが、本日は一年で一番忙しい日でして、私は他の電話に出なければなりませんので。―サンタにお手紙を書くというのはどうでしょう? 住所を教えましょうか?」

「北極のどこかですか?」と、僕は予想して言った。

「おっしゃる通りでございます。それでは良い一日をお過ごしください。失礼いたします」

そして彼女は電話を切った。

もちろん、ストランド書店はクリスマスの翌日とはいえ、そんな早い時間には開いてなくて、僕は9時30分まで待って、ようやく書店員と話すことができた。

「もしもし」と僕は言った。「そちらにマークはいるかなと思いまして」

「マーク?」と、男性店員が面倒くさそうな声で聞き返してきた。

「はい。受付で働いてる人です」

「マークという名前の従業員は20人くらいいるんですよ。もっと詳しい特徴を言ってくれませんか?」

「黒髪で、メガネをかけていて、皮肉っぽくて無関心を気取っていて、だらしない感じ」

「それでは絞り込めませんね」

「彼は他の店員よりちょっと体重が重い感じです」

「ああ、わかったかもしれません。そのマークなら今日は休みです。えーと、あ、彼は明日ならいますよ」

「彼の苗字を教えてもらえますか?」

「すみませんね」と、その男は愉快そうに言った。「個人情報は教えられないんですよ。ストーカーとかいますからね。もし彼に伝えたいことがあるようでしたら、私の方から明日伝えておきますが」

「いや、いいです」

「だと思いました」

家にいても、それ以上進展は見込めなかった。一応、明日になれば彼に連絡を取れそうだということだけはわかったけれど。

最後の手段として、僕はダヴとヨーニーを母の部屋に残したまま、払いたくはなかったけれど25ドルの入場料を支払って、蝋でできている有名人たちに会いに行った。しかし、あの女性警備員はどこにも見当たらなかった。まるで『ベイウォッチ』の出演者たちの蝋人形と一緒に、彼女も裏の物置部屋に運ばれてしまったかのように跡形もなく消えていた。

仕方なく家に戻った僕は、とにかくリリーに向けてメッセージを書いてみた。

「残念だけど、君の方が一枚上手なのかもしれない。今書いているこの言葉もどこにも届かないからね。聞かれてもいないのに質問に答えるのは難しいし、結局中途半端なところで終わってしまうのなら、今までの積み重ねも水の泡だね」

僕は書くのをやめた。ノートがないと今までのようには書けなかった。会話をしているという感じではなくなって、しんと静まり返った空間に向かって一人で喋っているみたいだった。

彼女が踊っている姿を見に行けばよかったなと後悔した。クラブで踊る彼女が目に浮かんだ。そうやって彼女と出会うことになったはずの夜を想った。

僕はマンハッタン中のすべての「リリー」を調べることもできるだろうし、ブルックリン中のすべての「リリー」の家の玄関まで押し掛けることもできるかもしれない。ニューヨークのスタテン島の「リリー」を探しまくって、ブロンクス区の「リリー」を片っ端から当たってみて、とうとうクイーンズ区で、王妃を見つけ出すみたいに、「リリー」を探し当てることができるかもしれない。でも、そういう見つけ方は何か違うような気がした。干し草の山の中から一本の針を見つけ出すのとはわけが違う。彼女は針ではない。僕たちは人間なのだから、人間にふさわしい出会い方があるはずだ。

母親の寝室からダヴとヨーニーが寝ている音(ダヴのいびきとヨーニーの寝言)が聞こえてきた。僕はブーマーが今日のパーティーのことを忘れているだろうと思って、彼に電話した。そのとき、僕はパーティーに誰が来るのかを思い出した。

ソフィアが来る。彼女がニューヨークに戻って来ることを僕に言わなかったのは不思議だった。いや、それほど不思議でもないのかもしれない。僕たちは想像しうる限り最も簡単な別れ方をした。―というか、別れたという感じでもなく、ただ離れただけだ。彼女がスペインに帰ることになって、それでも僕たちが付き合い続けるとは誰も思わなかった。僕たちの愛はただ単に好きという感情だったのだ。ごくありふれた好みの問題であって、シェイクスピアの作品に出てくるような愛ではない。ただ、それでも僕は彼女に対して愛着を抱いていた。―「愛着」、それは僕の中で賞賛や感傷や感謝や懐かしさといった感情がほどよく混ざり合った、心地良い気持ちだった。

僕はソフィアとの会話は避けられないだろうなと思い、心の準備をした。きっとぎこちなく言葉を交わし、お互いにほほえみ合うことになるだろうと思った。それは言い換えれば、あの頃の僕らへの回帰だった。僕らの間に化学反応みたいな激しい感情のぶつかり合いはなかった。あの頃の穏やかな空気がゆるやかに蘇ってきた。プリヤの家でもソフィアの送別会をしたことを今でも覚えている。そのときにはもう、二人の間では離れ離れになることについての話は済んでいた。けれど、僕はまだソフィアのボーイフレンドとしてみんなに認識されていて、彼女に隣に立って、たくさんのさよならの言葉を聞いた。その結果、僕はみんなより少しだけ深く、その「さよなら」を心に刻み込むことになった。ほとんどの人が帰っていなくなった頃、僕の中で彼女への愛着が溢れるくらい大きくなった。―それは単に彼女が好きということではなくて、彼女を含めたみんなと過ごした時間への愛着だった。そして僕は、僕自身が必ずしも望まなかった彼女との未来を愛おしく思った。

「あなた悲しそうね」とソフィアが僕に言った。僕たちはプリヤの寝室で二人きりだった。ベッドの上にはコートが2、3着しか残っていなかったので、リビングルームにいるのは数人だけになったのだろう。

「君は凄く疲れてるみたいだね」と僕は彼女に言った。「あれだけの人にさよならを言えば疲れるよね」

彼女は頷いてから、そうね、と言った。―それが彼女のいつもの答え方で、僕はそれについて一度も指摘したことはないけれど、前から気づいてはいた。彼女は頷いてから、少し間をおいて、そうね、と繰り返すように言うのだ。断るときも一度首を振ってから改めて、いいえ、と言う人だった。

そのとき、もしかしたら僕は彼女を抱き締めることができたかもしれないし、彼女にキスすることもできたかもしれない。でも、もうすぐ彼女はいなくなると思うと、体が動かなかった。代わりに「君に会えなくなると寂しいよ」という言葉が口をついて出て、彼女を驚かし、僕自身も驚いてしまった。

その瞬間、現在という時間が希薄になるほど未来をリアルに感じたのだ。彼女はまだその部屋の僕の目の前にいるというのに、彼女の存在が消えつつあるのをひしひしと感じていた。

「私もあなたに会えなくなると寂しいわ」と彼女は言った。それから彼女は付け加えるように、「みんなに会えなくなると寂しいわ」と言って、その愛おしい瞬間から、二人だけの空間から、一人でするりと抜け出ていった。

僕たちは(少なくとも僕の知る限りでは)お互いに嘘をついたことはなかったけれど、心の内をさらけ出して何でも話すという間柄でもなかった。むしろ事実に語らせるというか、気持ちよりも事実を優先させるのだ。「私も中華料理を食べたい気分なんだけど、家に帰って宿題をしなくちゃだから帰るわ。映画は凄く楽しかった。それと私の家族がスペインに帰ることになったから、私たちもたぶん離れ離れになるんじゃないかしら」

僕たちは毎日メールを送り合おうなんて誓わなかったし、実際毎日メールを送り合うこともなかった。僕たちは忠誠を誓い合うほどの関係ではなかったし、お互いに新しい恋人は作らないことにしようとは約束しなかった。時々、僕は写真でしか見ることのできない異国の地で暮らす彼女の姿を思い浮かべた。愛着以上の理由はなかったけれど、僕は彼女の人生に留まり続けようと、時々メールを送り、彼女からの返信を読んで彼女の近況を知った。僕はメールに彼女との共通の友達について書いたけれど、それはすでに彼女も知っていることだった。逆に彼女はスペインでの友人について教えてくれたけれど、それは僕にとって知る必要のないことだった。まず僕は彼女に、いつニューヨークに戻ってくるのか聞いた。それに対して彼女は、長期休暇には行けるかもしれない、と答えた気もするけれど、僕はそのことを忘れてしまった。僕たちが海をへだてて暮らしているから忘れたのではなく、僕たちの間には前から壁のようなものがあったのだ。おそらく、僕たちが付き合っていた4ヶ月の間に彼女が僕について知った以上のことを、たったの5日間しか続かなかったメールでの不毛なやり取りを通して、彼女は知ることになったんだと思う。

たぶん問題は距離ではなく、その距離をどうとらえるかが問題なんだと僕は思った。

ダヴとヨーニーと僕は6時30分過ぎにブーマーの家に着いた。するとブーマーがプロボクサーみたいな格好で出てきた。

「これが〈ボクシング・デー〉にぴったりの服装だと思ってね!」と彼は言った。

「仮装パーティーじゃないんだよ、ブーマー」と僕は指摘した。「〈ボクシング・デー〉だからって、箱(ボックス)にプレゼントを入れて持っていく必要もないんだ」

「たまにダッシュって、せっかく楽しんでる人から楽しみを奪うようなことを言うよね」と、ブーマーはため息交じりに言った。「そんなつまらないこと言ってなんになるのさ? なんにもならないよ」彼は家の中に引っ込むと、大きな熱帯魚のマンタが描かれたTシャツとジーンズを持って再び出てきた。そしてボクサーパンツの上からジーンズを穿いた。

僕らは歩道を歩きながら、みんなでどん底から這い上がるロッキーの真似をして、ボクサーになった気分で空中にむやみにパンチを繰り出していた。そのとき、老婦人が食料品の入った手押し車を押しながら前からやって来て、その手押し車の端にブーマーの腕がぶつかり、老婦人がつんのめる形で手押し車もろとも倒れてしまった。

ダヴとヨーニーが老婦人と手押し車を起こしている一方で、ブーマーは「ごめんなさい!ボクの力がこんなに強いなんて知らなかったんです!」と繰り返し言っていた。

幸いにも、プリヤの家はそんなに遠くなかった。インターホンを押して、中からの返事を待っている間に、ダヴが「おい、あのブーツ持ってきたか?」と聞いてきた。

ブーツは持ってこなかった。でも、どんなブーツだったかは詳細に記憶していた。もしここに来る途中で、ブーツを片方しか履いていない女の子を見かけていたら、そのブーツを見て、すぐに同じ物かどうか判別できただろう。

「ブーツって?」とブーマーが聞いた。

「リリーのだよ」とダヴが説明した。

「リリーに会ったの!」と、ブーマーが興奮ではち切れんばかりの大声を出した。

「いや、僕は会ってない」と僕は返した。

「リリーって誰?」とプリヤが聞いた。いつの間にか玄関口に出てきていたのだ。

「女の子だよ!」とブーマーが答えた。

「いや、正確には女の子じゃないんだ」と僕は訂正した。

プリヤは眉をひそめた。「正確には女の子じゃない女の子?」

「彼女はドラァグ・クイーン、女装してる男」とダヴが言った。

「リリーはスイレンの葉っぱ」と、ヨーニーが割って入った。「彼女は環境にやさしく生きようとする緑の葉っぱなんだ。『環境にやさしく生きるのは難しい』からね、それを思うと、いつでも泣けてくるよ

「泣けるな」とダヴも言った。

「じゃあ、ダッシュは彼女のブーツを持ってるんだね!」とブーマーが言った。

「久しぶり、ダッシュ」

その声に振り向くと、プリヤの肩越しに、玄関のほのかな明かりに照らされた、彼女がいた。

「久しぶり、ソフィア」

今こそ、ブーマーが何か言って茶化してくれるのではないかと期待したけれど、彼は黙り込んでしまった。誰も口を開いてくれなかった。

「あなたと再会できて嬉しいわ」

「そうだね、僕もまた君に会えて嬉しいよ」

僕たち二人の離れ離れだった時間が、お互いのひと言ひと言の間に降り注いでくるようだった。玄関口の踏み段をへだてて見つめ合う僕たちの間に、数ヶ月分の空白が降り積もっていった。ソフィアの髪は前より長く、肌は前より少し焼けていた。そして、他にも何かが違っていた。僕はそれがなんなのか、はっきりとはわからなかった。彼女の瞳の中の何かが違っていたんだと思う。彼女の僕を見る目が、その視線が、以前とはどこか違っていた。

「入って」とプリヤが言った。「もう来てる人もいるのよ」

僕には違和感があった。―僕が期待していた遠慮がちなソフィアとは様子が違っていた。僕たちが付き合っていた頃の彼女は、僕を待ってから、僕の一歩後ろを歩く感じだったのだ。けれど今の彼女は僕を待つこともなく率先して家の中へと入っていった。ソフィア、プリヤ、ブーマー、ダヴ、ヨーニーの順で、一番最後に僕も家の中に入った。

中の様子は落ち着いていて、お酒を飲んで浮かれ騒ぐようなパーティーではなかった。プリヤの両親は、娘が家でパーティーを開くときに家を空けて出掛けるようなタイプではないし、娘が口にする一番刺激の強い飲み物は砂糖入りソーダにすべきだという考えの持ち主で、しかもソーダでさえ、ほどほどにしなさいと言うのである。

「あなたが今日来れることになって凄く嬉しいわ」と、プリヤが僕に向かって言った。「あなたがスウェーデンに行かなくてよかった。あなたが来れなかったら、きっとソフィアはがっかりしたわ」

プリヤがそんなことをわざわざ僕に言うのは不自然だったので、僕はすぐにその言葉の裏には何か他の意味があるんだろうなと察した。きっとソフィアはがっかりしたわ。それは彼女が凄く僕に会いたがっていたという意味だろうか? もしも僕が今日姿を見せなければ、彼女は打ちひしがれていたということだろうか? そもそもプリヤがパーティーを開こうと思い立った理由はソフィアと僕を会わせるためなのだろうか?

それはちょっと飛躍のしすぎだとは思うけれど、僕は再びソフィアを見たとき、彼女の別の顔を見た気がした。ソフィアは横にいるダヴの発言に笑っていたけれど、目だけは僕を見ていた。まるで彼が邪魔で、僕と話したがっているかのようだった。彼女は僕に目配せすると、キッチンのカウンターの方へと顔を動かして合図した。僕は彼女と話すためにキッチンへ移動した。

「ファンタにする? フレスカにする? それともダイエットコーラ?」と僕は聞いた。

「ファンタにするわ」と彼女が言った。

「ファンタ-スティック(素晴らしい)」と僕は返した。

僕が氷を入れてソーダを注いでいると、彼女は言った。「それで、元気してた?」

「うん」と僕は言った。「忙しくしてたよ。知ってるよね?」

「いいえ、知らないわ」と、彼女は僕の手からプラスチックのカップを受け取ると言った。「話して」

彼女の声には少し挑戦的な響きがあった。

「えーとね」と、僕は自分のカップにフレスカを注ぎながら言った。「スウェーデンに行くはずだったんだけど、土壇場で取りやめになっちゃって」

「そうみたいね、プリヤに聞いたわ」

「このソーダは炭酸が強すぎない?」僕は泡が溢れてこぼれそうなカップを指差した。「この泡が落ち着いた頃には、きっとデミタスコーヒー並みに少なくなってるよ。ってことは、僕は一晩中このソーダを注ぎ続けることになるね」

僕がカップに口をつけて、一口飲んだ瞬間にソフィアが言った。「あなたがゲイのセックスの喜びについて調べてるってプリヤが教えてくれたわ」

フレスカが、僕の、鼻から、ちょっと出た。

ひとしきり咳き込んだあと、僕は言った。「どうせフランスのピアニズムのことは彼女から聞いてないんだろ? 彼女はそれを完全に省いて君に話したんだよ」

「あなたはフランス人のペニスについて調べてるの?」

ピアニズムだよ。まったくもう、君はヨーロッパで何を教わってきたんだよ?」

これは冗談で言ったつもりだったんだけど、僕の口から出た言葉は冗談としてソフィアの耳に届かなかったようで、彼女はむっとしてしまった。アメリカ人の女の子なら腹を立てても、人生そういうこともあるよね、みたいにとらえて流すところを、ヨーロッパの女の子っていつもそこに内に秘めた殺意みたいな感情を付け足そうとするんだよね。少なくとも僕の限られた経験においてはだけど。

「誓って言えるんだけど」と僕は彼女に話した。「ゲイのセックスは美しいし、喜びにも満ちていると思うよ。だけど、僕自身はそれを特別楽しい行為だとは思ってないし、それに、その喜びについて調べたのは、もっと大きな視野に立った探究の一環なんだ」

ソフィアはいたずらっぽく僕を見て言った。「なるほどね」

「いつからそんないたずらっぽい表情をするようになったの?」と僕は聞いた。「声も小悪魔っぽいというか、前はそんな感じじゃなかったのに。そういうのって凄く魅力的だけど、僕が知ってるソフィアじゃない」

「ベッドルームに行きましょ」と彼女が返した。

なに?

彼女は僕の背後を指差した。振り向くと、5、6人がソーダを飲もうと並んでいた。

「私たち邪魔になってるから」と彼女が言った。「それと、あなたにプレゼントもあるのよ」

寝室までの道のりはすんなりとはいかなかった。僕たちが一歩進むごとに、誰かがソフィアを呼び止めて、ニューヨークに戻って来てくれて嬉しいと伝えたり、スペインはどう?と聞いたり、その髪型素敵ね、と言ったりした。僕は彼女のボーイフレンドの位置に返り咲いていいものかどうか、ためらいながら横に立っていた。そうしているのは気まずくて、僕がかつて彼女のボーイフレンドだった時と同じくらい居心地が悪かった。

しばらくみんなと談笑していたソフィアは、寝室へ行こうという計画を断念したように見えた。それで僕はもう一杯フレスカを飲もうと再びカウンターへ向かおうとしたのだが、その時、彼女が僕の袖を引っ張ってキッチンから僕を連れ出したのだ。

プリヤの寝室のドアは閉まっていた。そっとドアを開けて中を見ると、ダヴとヨーニーがイチャイチャしていた。

「お前ら!」と僕は叫んだ。

ダヴとヨーニーはすばやく上着のボタンを留め直すと、頭に載せていたヤムルカの上から中折れ帽をさっとかぶった。

「ごめん」とヨーニーが言った。

「俺たちは…する時間がなかったんだよ」とダヴが続けた。

「君たちは一日中一緒にベッドにいたじゃないか!」

「ああ、ただ俺たちはへばってたからな」とダヴが言った。

「完全にヘトヘトだったよ」とヨーニーも同調した。

「それに―」

「―君のママのベッドだったし」

二人は僕たちをかき分けるように、ドアから出て行った。

「スペインで色々あったの?」と僕はソフィアに聞いた。

「まあ、スペイン人はカトリックだからね」

彼女は、たぶん彼女自身のバッグだと思うけど、寝室に置いてあったバッグに近寄ると、中から本を取り出した。

「これ」と彼女は言った。「あなたに渡そうと思って」

「僕は君にプレゼントをもってこなかったんだ」と僕は早口で喋った。「なんていうか、君がニューヨークに戻って来るって知らなかったし、それに―」

「いいのよ。そんなに慌てなくても、そう思ってくれるだけで嬉しいわ」

そう言ってくれて、僕はすっかり安心した。

ソフィアはほほえんで、本を手渡してきた。表紙には「ロルカ!」とでかでかと書かれていた。一目瞭然、それが本のタイトルだった。『ロルカ!』さりげなさの欠片もない!僕は親指でパラパラとその本をめくってみた。

「ああ、これは」と僕は言った。「詩集だね!しかも僕にはわからない言語だ!」

「どうせあなたは本屋さんに行って翻訳版を買って、それを私に見せて読んだよって言うのよね」

「あちゃ、一本取られた。まさにそうしようと思ったところだよ」

「でもそれは本当に、私の心にすごく響く本なの。彼は素敵な作家だし、あなたも彼を気に入ると思うわ」

「君にスペイン語のレッスンをしてもらわなくちゃだね」

彼女は笑った。「あなたが英語のレッスンをしてくれたみたいに?」

「なんで笑うの?」

彼女は首を振った。「ううん、あなたが英語を教えてくれた時間は甘くて楽しい時間だったわ。ただし、上から目線だったけどね」

「上から目線だった?」

彼女は僕の話し方を真似し始めた。―大して似てはいなかったけれど、僕の声を真似しているんだなということはわかった。「『なに、君はピザ・ベーグルがどういうものか知らないの? 語源という言葉の語源を説明してあげようか? すべて玲瓏(れいろう)?―つまり、わかった?』」

「そんなこと言ってないよ。僕はそんな言い方してない」

「そうかもしれないけど、そういう風に感じたの、私にはね」

「だったら」と僕は言った。「その時に言ってくれればよかったのに」

「そうね。でも『何か言う』のは私のすることではないと思ってたし、あなたが進んで色々説明してくれるのを聞いてるのが好きだったのよ。それに、私にはまだまだたくさん教えてもらわなくちゃならないことがあるって思ってたし」

「それで今は?」

「もうそんなにないわね」

「どうして?」

「ほんとに知りたいの?」

「うん」

ソフィアはため息をついて、ベッドに座った。

「恋をしたの。でも、うまくいかなかったわ」

僕は彼女の隣に座った。

「この数ヶ月の間に?」

彼女は頷いた。「そうよ、数ヶ月の間に始まって終わっちゃったわ」

「君は何も言ってくれなかったじゃないか…」

「メールで? そうね、書かなかったわね。私があなたとメールしてることも彼は嫌がっていたから、あなたに彼のことを話すなんて到底できなかったわ」

「僕ってそんなに脅威だったの?」

彼女は肩をすくめた。「私は最初、あなたのことをちょっと誇張して話しちゃったの。彼に嫉妬させようと思ってね。嫉妬させることはできたんだけど、その分私のことをもっと深く愛してほしかったのに、そうはならなかったみたい」

「だからニューヨークに戻って来ることを僕に言わなかったってこと?」

彼女は首を振った。「違うわ。先週になって来ることになったからよ。すごくニューヨークが恋しいって両親を説得して、やっとクリスマス休暇に連れてきてもらったの」

「でも本当は、君は彼から離れたかったのかい?」

「そういうことじゃないわ。私は久しぶりにみんなに会いたいなって思っただけよ。ところで、あなたはどうなの? 誰かに恋してないの?」

「それがわからないんだ」

「ああ。じゃあ誰かいるのねゲイのセックスの喜び?」

「まあ」と僕は言った。「そうなんだけど、君が思ってるようなことじゃない」

それで僕は彼女に話した。ノートについて、そしてリリーについて話した。話しながら僕は時々彼女の表情をうかがった。僕は部屋を見回したり、自分の手を見たり、彼女から視線を外したりしながら話した。それは一度に話すにはあまりにも多くの情報を含んでいたため、ソフィアの気持ちは途中で離れてしまった。それでも僕はリリーへの親近感をなんとかソフィアの中に生み出そうとしていた。

「ああ、なるほどね」と、ソフィアは僕が話し終えると言った。「あなたはついに頭の中にその女の子を生み出したってわけね」

「どういう意味?」

「つまりね、だいたい男って頭の中にそういう女の子を連れて歩いてるのよ。そうであってほしいと望む理想の彼女をね。あなたが世界で一番好きになるような人よ。そして実際、目の前にいる女の子を常に頭の中の彼女と比べて、物差しで測ってるのよ。だから、その赤いノートの彼女も、―納得がいくわ。あなたが一度も彼女に会ったことがないのなら、彼女は物差しで測られることもないし、彼女はあなたの頭の中で理想の彼女になれるわね」

「なんだか僕が実際に彼女と知り合いになることを望んでいない、みたいな言い方だね」

「もちろん、あなたは彼女と知り合いになりたいんでしょう。でも同時に、あなたはすでに彼女のことを知ってると思いたいのよ。自分は一瞬にして彼女のことがわかるんだって。そういうおとぎ話なのよ」

「おとぎ話?」

ソフィアは僕に向かってほほえんだ。「おとぎ話って女の子のためだけにあると思ってるでしょ? ヒントをあげるわ。―おとぎ話の作者を思い浮かべてみて。女性ばかりではないでしょ。おとぎ話って男性の誇大妄想でもあるのよ。彼女が理想の女性であるかを知るためには、一度一緒に踊ってみればいいの。塔から聴こえる彼女の歌声だけでわかるのよ。あるいは彼女の寝顔を見るだけでね。だからあなたもすぐにわかったのよ。あなたの頭の中で、―ああ、僕の目の前で眠り、踊り、歌う彼女こそ求めていた人だって。そうね、もちろん女の子も王子様を求めてるわ。でも男の子だって同じようにお姫様を求めてるのよ。そして男の子って、そんなにじっくり求愛期間をとることなく、すぐに付き合いたいって思うのよね」

彼女は僕のふとももの上に彼女の手を置いて、ぎゅっと握ってきた。「わかる? ダッシュ、―私はあなたの頭の中の理想の彼女ではないし、あなたも私の頭の中の理想の彼氏ではないのよ。そのことはお互いにわかってると思うけど、彼女でも彼氏でも、そういう架空の存在を現実に求め出したら、かなりやっかいなことになるわ。私はカルロスとそれをしちゃったのよ。ひどい失敗だったわ。自分が何をしているのかよく考えてみて。あなたがそうであってほしいと望むような人なんて現実にはいないのよ。そして、あなたがその人のことを知らなければ知らないほど、その相手が女の子であれ男の子であれ、ますます頭の中でその人を理想の恋人と混同していくのよ」

「都合が良すぎる考えってことだね」と僕は言った。

ソフィアは頷いた。「そう。そんな夢みたいな考えにすがってちゃだめ」



10

(リリー)

12月26日


「お前は外出禁止だ」

おじいちゃんが真剣な眼差しで私を見つめてきたから、私は我慢しきれずに吹き出してしまった。

おじいちゃんってお小遣いや自転車をくれたり、ハグをしてくれたりする存在であって、孫にお仕置きなんてするはずないわ!そんなのみんな知ってる常識よね。

予期せぬことに、おじいちゃんがフロリダからはるばる丸一日車を運転して、ニューヨークに帰ってきたのよ!そして帰宅するとすぐに私と兄の様子を確認したらしい。ところが、兄がベッドで毛布にくるまり、鼻をかんだティッシュの海に埋もれて、気を失ったように寝ているだけだった。兄のことは心配だったけれど、それよりも、おじいちゃんの大切なリリーベアが見当たらない。最上階の〈リリーパッド〉で寝ているかもしれないと探してみたけれど、私の家族が住んでいる建物のどの階にもいなかった。

幸いにも、おじいちゃんが私の不在を認識してから数分しか経っていない午前3時30分頃、私は家に着いた。そのわずかな時間にも、彼は建物内のあらゆるクローゼットや戸棚を探し回り、心臓発作を起こす寸前だったみたい。おじいちゃんが警察や私の両親に電話したり、自分のパニックを世界的なパニックまで押し広げようと親戚中に電話しまくる、といった行動に出る前に、夜のクラブシーンを経験してまだ息もつけないほど興奮冷めやらぬ赤ら顔の私が、軽やかな足どりで玄関に入ってきた、というわけ。

おじいちゃんがそんな私を見て言った最初の言葉は、「どこに行ってたんだ?」ではなかった。それは二番目に聞かれたことで、最初の言葉は、「なんでお前はブーツを片一方しか履いてないんだ? おや、その片足だけ履いてるブーツは、わしの妹が高校時代にバトンガールをしてた時のブーツじゃないか?」だった。彼はキッチンから顔を出して、そう言った。彼が四つんばいになっていたところを見ると、どうやら私が流し台の下に隠れているに違いないと思い付いたところらしかった。

「おじいちゃん!」と私は大声を上げた。私は彼の元に走り寄ると、クリスマス翌日のキスを浴びせかけた。私はおじいちゃんに会えた喜びと、夜遊びしたことによる高揚感にひたっていた。探偵風の二人に大叔母さんのブーツを片方ささげただけで、ひねくれ男子くんにノートを返さずにその夜を終えてしまったというのに、私は浮足立っていた。

でも、おじいちゃんは私の愛情のこもったキスを受け入れようとはせずに、頬を私からそらすと、「お前は外出禁止だ」というお決まりのお説教を始めた。ただ、私が彼の発言に怖がる素振りを見せなかったため、彼は顔をしかめて詰め寄ってきた。「どこに行ってたんだ? もう朝の4時だぞ!」

「3時30分」と私は彼の誤りを指摘した。「まだ朝の3時30分だよ」

「おやおや、君は今大変な状況なんですよ、お嬢さん」と彼は言った。

私はくすくす笑った。

「真面目に言ってるんだ!」と彼が言った。「ちゃんと説明しなさい」

えっと、私は全く見ず知らずの人とノートでやり取りしていて、私が心の奥で感じてることや考えてることを彼に伝えて、それから、彼が私に行くようにけしかけてきた色々な謎の場所にのこのこ行っていたら…。

だめ、そんなこと言えるわけない。

生まれて初めて、私はおじいちゃんに嘘をついた。

「サッカーのチームメイトの友達がパーティーを開いたの。ハヌカーを祝うパーティーだったんだけど、そこで彼女のバンドが演奏するって言うから、聴きに行ってたの」

「その音楽は朝の4時に家に帰れとでも歌ってるのか?」

「3時30分」と私は再び言った。「なんていうか、宗教的なことなのよ。そのバンドはクリスマスの夜中の12時を過ぎないと演奏できないことになってるの」

「そうか」と、おじいちゃんは疑いの目で私を見てきた。「君には夜間外出禁止令が出ていなかったかな? お嬢さん」

その呪いの言葉が一度ならず二度も彼の口から発せられた。お嬢さんという愛情を示すかのような恐ろしい呼称は、私を恐怖でおののかせるはずだった。しかし、私は夜の冒険の余韻で頭がくらくらしていたから、そこまで気が回らなかった。

「夜間外出禁止はクリスマス休暇中は一旦解除されるんでしょ」と私は言った。「道路の片側駐車禁止みたいなものじゃない」

「ラングストン!」と、おじいちゃんが叫んだ。「こっちへ来なさい!」

2、3分後に、やっと兄がうなだれて掛け布団を引きずりながらキッチンに入ってきた。昏睡状態から目覚めたばかりという顔だった。

「おじいちゃん!」と、ラングストンはゼーゼー息をしながらも、驚いていた。「どうして家に帰ってきてるの?」ラングストンはきっと病気になってほっとしているんだろうなと思った。もし彼が病気ではなかったら、ベニーはこの家に泊まっただろうし、まだそういうロマンチックなことで仲良く夜を明かすことは、権威ある大人からちゃんと了承を得ていないから、ラングストンも私みたいに窮地に陥ることになったはずよ。

「わしのことはどうでもいい」と、おじいちゃんは言った。「お前はリリーがクリスマスの夜に友達の音楽を聴きに行ってもいいと言ったのか?」

ラングストンと私は、あうんの呼吸で目配せし合った:二人だけの秘密は内緒のままにしておいてね、秘密よ。私はまぶたを上下に動かして、そう彼に合図した。それは子供の頃からの私たちの間のひそかな暗号だった。それでラングストンはどう言ってほしいのか察してくれた。

「そうなんだ」と、ラングストンは咳をした。「僕は具合が悪かったから、せっかくのクリスマスだし、リリーに一人で外に行って楽しんでこいって言ったんだよ。アッパー・ウエスト・サイドにある赤レンガ造りの建物の地下だったかな、そこでそのバンドがライブするって言うから、僕が配車サービスを手配して彼女を一人で行かせたんだ。帰りも配車サービスに頼んでおいたから、安心安全だったんだよ、おじいちゃん」

病人のくせに頭が回るじゃない。たまに私は兄のことが愛おしくなる。

おじいちゃんは疑わしげに私たち二人を交互に見た。兄妹の仕掛けたわなにハマって、けむに巻かれているのか、はっきりしない様子だった。

「寝なさい」と、おじいちゃんがうなるように言った。「二人とも、朝起きたらまた改めて話すからな」

というか、なんでおじいちゃんは帰ってきたの?」と私は聞いた。

「気にするな。早く寝なさい」


私はクレズマー音楽に酔いしれた後でなかなか寝付けなかったので、寝るのは諦めてノートを書くことにした。

私たちのノートをあなたに返せなくてごめんなさい。あんな簡単な任務だったのにね、しくじっちゃった。どうして私は今あなたに向けてこれを書いているんでしょうね、どうやってあなたにこれを返せばいいかさっぱりわからないというのに、不思議ね。きっとあなたには信頼できる何かがあるから、―というか、このノートが私の中に信念を植え付けてくれるからだと思う。

今夜あなたもあのクラブにいたの? 最初、あの探偵風の二人の男の子のどちらかがあなたかもしれないと思ったわ。でもすぐにそれはありえないと思い直したの。一つには、あの二人はノリノリすぎる気がしたから。といっても、あなたが惨めな人だって想像してるわけじゃないのよ。だけど、あなたがあんな風にニヤニヤしながら見てくるタイプだとも思えないの。それに、もしあなたが私の近くにいたのなら、肌感覚というか、気配を感じ取ってわかった気がするのよね。それともう一つ、私はまだあなたのイメージをつかめていないけれど(私があなたの顔を思い描こうとすると、いつもあなたは赤いモレスキンのノートを掲げて顔を隠してしまうのよ)、それでも、あなたがこめかみのところから髪を巻いて垂れ下げているとはどうしても思えないわ。ただの直感よ。(だけど、もしあなたがそういう髪型をしているのなら、私もたまには髪を編み込んでみようかしら?)

それで、私はあなたの友達にノートではなく、ブーツを片方だけ置いてきちゃったの。もしかしたら、あの二人は全然関係のない赤の他人だったのかもしれないけれど。

あなたはもう他人のような気がしないわ。

あなたが私を探してくれているかもしれないから、いつでも私だとわかるように、これからはブーツのもう片方を履いて過ごすことにするね。

シンデレラもまぬけな子だったのよね。彼女は舞踏会の会場に脱げたガラスの靴を片方残したまま、いじわるな継母の家に急いで帰ったのよ。私が思うには、彼女はもう片方のガラスの靴を履いて過ごした方がよかったんじゃないかな。いつもそれを履いていれば、王子様はもっと簡単に彼女を見つけられたんじゃないかしら。それから私が前から思っていた希望なんだけど、王子様がシンデレラを探し当てて、二人で豪華な馬車に乗り込んで走り去ったあと、何マイルか進んだところで彼女は彼の方を向いて、こう言うのよ。「この通りの先で私を降ろしてちょうだい、お願い。私はついにひどいいじめが続く生活から抜け出せたのよ。私は世界がどんなものなのか見てみたいの。わかってもらえる? リュックサックを背負って、ヨーロッパやアジアを渡り歩いてみようと思ってるの。私自身の生き方を見つけたら、王子、あなたのところにきっと戻ってくるから。とにかく、私を見つけてくれてありがとう!あなたは最高に素敵よ。それと、このガラスの靴はあなたが持っていてちょうだい。私がこれを履き続けていたら、そのうち足の指にまめができちゃうわ」

私もシンデレラみたいにあなたと踊りたかったのかもしれない。大胆なことを言わせてもらえばね。


午後になって、おじいちゃんがコーヒー仲間に会いに出掛けると言い出した。外は雨もみぞれも降っていなかったし、クリスマス翌日の憂鬱な気分もおじいちゃんを引き留めることはできなかった。

おじいちゃんが心の支えを必要としている気がしたので、私も付き添うことにした。

おじいちゃんは毎年冬になると暖かいフロリダの別荘に行くんだけど、おじいちゃんが所有している雑居ビルの一室で暮らしているメイベルに、クリスマス当日、つまり昨日、彼はプロポーズしたらしい。私は前からメイベルが気に入らなかった。彼女はいつも私と兄に、「おばあちゃんと呼んで」と言ってくるし、それ以外にも、義理の祖母になろうとする彼女の愚行は挙げればきりがない。ここに書き出してみると、(1) 彼女の部屋のリビングルームに置いてあるお菓子はいつもしけっている。(2) 私は化粧が好きじゃないのに、彼女は私に口紅や頬紅を塗ろうとしてくる。 (3) 彼女は料理が下手くそ。(4) 彼女が作ったベジタリアン向けのラザニアは、すりおろしたズッキーニのせいで接着剤みたいな味がする。しかも彼女は必ず、「あなたのために作ったのよ、肉を食べないなんて困った子ね」と言ってくる。その台詞は耳にたこ。(5) 彼女といると、なんだか吐き気がする。(6) 彼女の作ったラザニアもそう。(7) そしてリビングルームのお菓子も同じ。

びっくりしたんだけど、メイベルはおじいちゃんのプロポーズを断ったのよ!私のクリスマスも午前中は最悪だったけれど、おじいちゃんのクリスマスに比べれば、まだましだったってことね。おじいちゃんがメイベルに指輪をプレゼントしたら、彼女は独身生活が好きだから、おじいちゃんとは冬を一緒に過ごす関係のままでいたいって言ったみたい。でも彼女は一年の残りの季節には他の男と会ってるのよ!まあ、おじいちゃんも冬以外は他の女と会ってるけどね。彼女は指輪のお金を払い戻してもらうように言ったらしい。そのお金でどこか豪華なリゾートにでも連れて行って、と。

おじいちゃんは彼女がプロポーズを断るなんて夢にも思わなかったから、彼女の返答について論理的に考える余裕はなく、失恋した人にはありがちな行動だけど、そそくさと逃げるように数時間後にはニューヨークへ向けて車を走らせていた。失意のどん底にいた彼に追い打ちをかけるように、帰宅してみると、彼の大切なリリーベアが夜の街に繰り出して浮かれ騒いでいた。彼にとっては、24時間のうちに全世界がひっくり返ったような衝撃を受けたことでしょう。

まあ、年寄りには良い刺激になったと思うけどね。

けれど、おじいちゃんが心底落ち込んでいるようだったから、私は彼を放っておけなくて、午後になっておじいちゃんがコーヒーを飲みに出掛ける際、私も彼のそばに付き添って出掛けることにした。彼のコーヒー仲間はみんな近所に住んでいて、すでに現役の年齢は過ぎているけれど、かつて何らかのお店を経営していた人たちだった。私のママが赤ん坊だった頃から、おじいちゃんとよく一緒にコーヒーを飲む仲だったみたい。彼らはおじいちゃんのクリスマスの災難について聞くと、あれこれ意見を言って彼を慰めた。おじいちゃんの仲間って大体、音節の多い長ったらしい言いにくい名前をしているから、ラングストンと私は彼らを本名ではなく、彼らがやっていたお店で区別して呼んでいた。

円卓を囲んで繰り広げられた、メイベルをめぐる討論会はこんな感じで進んだ:

カノーリ屋さんがおじいちゃんに言った。「アーサー、しばらく彼女に考える時間を作ってやったほうがいい。そのうち彼女も考え直して会いに来る」

餃子屋さんは言った。「あんたは男らしいよ、アーサー!その女性とは縁がなかったんだ、もっといい人が現れるさ!」

ボルシチ屋さんはため息まじりに言った。「昨日はあんたみたいなキリスト教徒にとっては聖なる日だろ、そんな日に結婚のプロポーズを断るような女があんたの心を満たしてくれるとでも言うのか? アーサー。俺はそうは思わんな」

カレー屋さんが声を大にして言った。「俺がお前にいい女を見つけてやるって!」

「彼にはここニューヨークに他にもたくさん女友達がいるのよ」と私は言って、みんなにその事実を思い出してもらった。そして、ためらいながらも「ただ、彼は本気でメイベルと結婚したいみたいだけど」と言った。本当はそんなこと口にするのも嫌だったんだけどね。

私はその嫌な台詞を〈リリーチーノ〉を飲みながら言った。でも不思議と、むせて咳き込むこともなく美味しく飲めた。〈リリーチーノ〉というのは、カノーリ屋さんの義理の息子さんが好意で私のために特別に淹れてくれるカプチーノのことで、泡立てたミルクの上に細かく刻まれたチョコレートが載ってるの。カノーリ屋さんはもう引退して、今は息子さんがこのベーカリーを経営してるのよ。

いつもは快活でやる気に満ちているおじいちゃんが、がらにもなく意気消沈しているように見えて、私はなんだかやるせない気持ちだった。

「この子!」と、おじいちゃんが隣に座っている私を指差しながら周りのみんなに言った。「この子が何をしたかわかるか? 昨晩パーティーに行ったんだ!門限を破って朝までだぞ!わしが帰ってみると、リリーベアがどこにも見当たらないから、うろたえたよ。ふられて最低だったわしのクリスマスがなんてことないって思えたくらいだ。そしたら数分後にひょっこり帰ってきたんだ。―朝の4時だぞ!―この世には何の悩みもないって顔してたよ」

3時30分」と、私は再び明言した。

餃子屋さんが言った。「そのパーティーには男もいたのか?」

ボルシチ屋さんは言った。「アーサー、こんな子供をそんな夜中に外出させてもいいと思ってるのか? そこには男がいるかもしれないっていうのに」

カノーリ屋さんが言った。「俺がそいつをぶっ殺してやるからな、もしも...」

カレー屋さんが私の方に向き直って言った。「若いお嬢ちゃんはそんなことしちゃ...」

「私、犬の散歩に行く時間だ!」と私は言った。これ以上、コーヒーを飲みながら身の上話に明け暮れるおじさま方に囲まれていたら、彼らはみんなで共謀して、私が30歳になるまで男の子を遠ざけようと、私を部屋に閉じ込めかねないわ。

くどくどけちをつけてくる立派なみなさんをよそに、私はそのお店を出ると、大好きな犬の散歩をするために依頼主の家へ向かった。


私は大好きな二匹の犬を連れて公園に行った。―〈ローラ〉というパグとチワワを親に持つ小型犬と、〈デュード〉というチョコレート色をした大きなラブラドール・レトリバーよ。この二匹は本気で愛し合ってるの。お互いのお尻の匂いをしきりにクンクン嗅いでるんだから、きっと本物の愛ね。

私は携帯電話を取り出すと、おじいちゃんに電話した。

「おじいちゃんは妥協するってことを覚えたほうがいいわね」と私は言った。

「どういうことだ?」と彼は言った。

「最初デュードはローラが大嫌いだったのよ。彼女は小さくて可愛いし、みんなの注目の的だからね。でも彼は彼女と仲良く遊ぶことを覚えたの。そしたら彼も注目を集めるようになったわ。デュードは妥協したの。だからおじいちゃんもそうすべきよ。メイベルにプロポーズを断られたからって、それくらいのことで彼女と別れるべきじゃないわ!」

私はそういう風に誰かに歩み寄った経験もないし、余計なお世話だったわね。

「わしは16歳の女の子から恋愛指南をされなければいかんのか?」と、おじいちゃんが言った。

「そうよ」と言って、私はすかさず電話を切った。私にはそのようなアドバイスをする資格が全くないことを指摘されそうだったから。

私はそろそろ〈優しいリリーちゃん〉でいることをおしまいにして、かけひき上手な戦略家にならないといけないわ。

たとえば、

もし来年の9月に(ラングストンが言うには、パパが新しい仕事を引き受けると、来年の9月からその仕事は始まるらしい)、私がどうしてもフィジーに行かなければならないのなら、私は子犬を飼いたいと要求するつもり。私はこの状況から親としての罪悪感を掘り起こせそうだと気づいたの。そして、それを私の動物王国の利益になるように利用する計画よ。

犬のための広場でローラがデュードを追いかけ回している間、私はベンチに座っていた。すると、隣のベンチから10代の少年がこちらを見ているのに気づいた。アーガイル柄のベレー帽を後ろに傾けてかぶっている彼は、私のことを知っているかのように、目を細めて私を見ている。「リリー?」と彼が聞いてきた。

私はもっとよく彼の顔を見た。

「エドガー・ティボー!」と、私はうなるように声を上げた。

彼がこちらのベンチに向かって歩いてくる。なんでエドガー・ティボーが私のことを覚えてるのよ? そして、よくもまあ、私に近寄ってこれるわね。41番小学校での私の小学生ライフをあんな生き地獄みたいな日々にしてくれたっていうのに。

というか、

なんであのエドガー・ティボーがここ数年でこんなに…背が高くなってるの? そして…かっこよくなってるのよ?

エドガー・ティボーが言った。「最初君だってわからなかったけど、その変なブーツを片足だけ履いてるし、もう片方にはぼろぼろのコンバースを履いてるし、それに、その赤いポンポンが付いた帽子に見覚えがあったから、これはもう君しかいないって思ったんだ。最近どう?」

最近どう? そんなになれなれしく聞いてくるわけ? 彼は私のことを知りたいの? 彼は私の人生をめちゃくちゃにしなかったとでも言うつもり? 私のアレチネズミを殺さなかったとでも?

エドガー・ティボーが私の隣に座った。彼の目は(深緑色で、どちらかと言えば綺麗な目だったけれど)少しかすみがかっていた。ひょっとしたら〈ピース〉のタバコでも吸っているのかもしれない。あるいは私と仲直りしたいのかも。

「私はサッカーチームのキャプテンをしてるのよ」と私は告げた。

私は男の子とどうやって話したらいいのかわからない。面と向かってだと無理。たぶんそんなだから、潜在的に私の中にあるロマンチックな表現欲を、依存的にノートにぶつけるようになったんだと思う。

エドガーは私のおかしな返答を笑った。でも、いじわるな笑い方ではなく、感心しているような響きを伴う笑いだった。「そりゃ君はそうだよね。昔のまんまのリリーだ。君がかけてるその黒縁メガネも小学校の時と同じみたいだし」

「あなたは高校を退学になったって聞いたけど、なんか共謀して悪いことをたくらんだとかで」

「停学になっただけだよ。実際、休暇をもらったみたいだったな。それより、さっきからずっと俺のことをじろじろ見てるけど、今度は俺が君をチェックする番だ」エドガー・ティボーが私にもたれかかるように前のめりになって、私の耳元でささやいた。「君は可愛くなったね、って誰かに言われたことない? まあ、標準的な可愛い子とはちょっと違うけど」

褒められているのか、けなされているのか私はわからなかった。

ただ、私の耳の中に入ってくる彼の吐息にゾクッとした。体中がしびれるような初めて味わう感覚だった。

「あなた、ここで何してるのよ?」と私は彼に訊ねた。くだらない会話をして気持ちを紛らわせる必要があった。何か話さないと、どんどんふしだらな考えが浮かんできそうだった。頭の中で私はエドガー・ティボーの周りをぐるぐる回っていた…彼のシャツを脱がそうとしていた。私の顔が熱くなって赤くなるのがわかった。それでもなんとか下品なことは言わずに済んだ。「他のみんなみたいにクリスマス旅行には出掛けなかったの?」

「両親は俺を置いてコロラドにスキーしに行っちゃったよ。両親は俺のことでカンカンなんだ」

「あら、それは大変ね」

「いや、わざと怒らせたんだよ。中産階級の偽善者ぶった親がいない一週間はパラダイスだからな」

エドガー・ティボーが話してるの? 私は彼の顔をじっと見つめたまま目をそらすことができなくなった。ほんの数年の間に、こんなにがらっとかっこよく変わるなんて、いったいどうやったらありえるの?

私は言った。「あなたがかぶってるベレー帽って女物じゃない?」

「そう?」とエドガーは言った。「いい帽子だろ」彼が嬉しそうに首をかしげた。「俺は女の子が好きなんだよ。女物の帽子もな」彼が手を伸ばして私の帽子を取ろうとした。「かぶってもいい?」

エドガー・ティボーは明らかにこの数年で内面も成長していた。私の帽子をかぶってもいいか聞くだけの礼儀を身につけていた。小学生の彼がこの場にいたら、許可など求めずに私の頭から帽子をひったくって、ふざけて犬たちに向かって投げるくらいのことはしていたでしょう。

私は彼が帽子を取れるように頭を差し出した。彼は私のポンポンの付いた赤い帽子をかぶり、それから彼のベレー帽を私の頭にかぶせた。

私の頭を覆う彼のベレー帽は温かくて、なんだか...いけないことをしているみたいだった。でも好きな感触だった。

「今夜俺と一緒にパーティーに行かないかい?」と、エドガーが聞いてきた。

「たぶんおじいちゃんがだめって言うわ!」と、私は思わず言ってしまった。

「だから?」とエドガーは言った。

そうなのよ!

明らかに、今こそ男の子と恋の冒険をする時だった。将来、誰かに恋愛のアドバイスをする時に、実体験を伴った重みのあるアドバイスができるような、そういう恋をするチャンスだった。

私がこのトンプキンス・スクエア・パークに着いた時は、ひねくれ男子くんのことで頭がいっぱいだった。それなのにいつしか私の目の前には、ノートの中の人物ではない、生身のエドガー・ティボーがいた。

かけひき上手な戦略家の秘訣は、妥協するタイミングを心得ておくことよね。

たとえば、

もし私がどうしてもフィジーに引っ越さなければならないのなら、私は子犬を要求するけれど、

まあ、妥協してウサギでもよしとしましょう。



11

-ダッシュ-

12月27日


それで僕は再びストランド書店に足を踏み入れていた。

昨夜のパーティーはそんなに遅い時間にならずにお開きになった。―プリヤの家で開かれるパーティーはいつもそうだけど、今回もシンデレラが帰らなければならない時間よりもだいぶ前に立ち消えになった。ソフィアと僕はその晩ほとんどの時間を同じ空間で過ごしたけれど、一旦寝室から出ると、僕たちは談笑の輪に加わり、二人きりで話すのはやめて、みんなの中の二人としてお喋りしていた。ヨーニーとダヴは彼らの友達のマシューが詩を朗読するのを見に行くと言って、プリヤの家を出て行った。そしてティボーは一度も姿を見せなかった。僕はそのうちまたソフィアと二人きりに近い状態になれるかもしれないと、ぐずぐず居残っていたんだけど、ブーマーがマウンテンデューを13杯くらい飲んでしまって、今にも彼の頭で天井に穴を開けそうな勢いで騒ぎ出してしまったから、そろそろお開きだね、ということになって、ソフィアが年明けまではニューヨークにいると言うので、僕は「じゃあ、それまでにまた会おう」と提案し、彼女が「そうね、そうしましょう」と返して、僕たちはプリヤの家を後にした。

そして翌日の午前11時、僕はこの本屋に舞い戻ってきたというわけだ。興味をそそる本の山が無言の叫び声を上げて僕を呼んでいる気がしたけれど、僕はマークを見つけて、必要ならば色々問いたださなければならないから、書棚を見ないように歩いた。脇の下に女物のブーツを抱えて歩く僕の姿は、なんだか『オズの魔法使い』に出てくる西の悪い魔女が溶けたあと、残ったブーツだけを運んでいる人みたいだ。

受付に座っていた男はやせていて金髪で、メガネをかけていてツイードの服を着ていた。要するに、僕が探している男ではなかった。

「こんにちは」と僕は言った。「マークはいますか?」

その男は膝の上に置いて読んでいたサラマーゴの小説からかろうじて顔を上げた。

「ああ」と彼は言った。「君が例のストーカーか?」

「僕は彼に聞きたいことがあるだけです。それでストーカーとは言わないでしょう」

その男はようやく僕を真正面から見据えて言った。「聞きたいことによるんじゃないですか? つまり、ストーカーにも聞きたいことはあるでしょうから」

「そうですね」と僕は認めた。「でもストーカーが聞きたいことって、『どうして僕を愛してくれないの?』とか、『なぜ僕は君のそばで死ねないの?』とか、そんな感じですよね? 僕が聞きたいのはそういうことじゃなくて、『このブーツについて知ってることを教えてほしい』みたいなことなんです」

「私にはお役に立てるかどうか」

「ここは受付ですよね? あなたにはお客の僕に知ってることを伝える義務があるんじゃないんですか?」

その男はため息をついた。「わかりました。彼は棚入れをしてますよ。案内しますからちょっと待ってください、もうすぐこの章を読み終えますから、いいですか?」

僕はあまり心を込めずに、彼に礼を言った。

ストランド書店は「18マイルにもなる本」を取り揃えていることを売り文句にしている。ただ、僕にはどうやって計算したのかさっぱりわからない。すべての本を一冊ずつ積み重ねていくと18マイルの高さになるのだろうか? それとも本を横に並べていくと、マンハッタンから始まって、18マイル離れた場所、たとえばニュージャージー州のショートヒルズまで架かる本の橋ができあがるということだろうか? あるいは店内の書棚の長さが18マイルもあるというのだろうか? まったくもってミステリーだけど、僕らは本屋のその言葉をそのまま受け入れるしかない。もし本屋でさえ信頼できないとしたら、何も信頼できなくなってしまうから。

測定方法がなんであれ、はっきりしていることはストランド書店にはたくさんの通路があって、それぞれの通路に書棚が立ち並んでいるということだ。というわけで、僕は細い通路を出たり入ったりしながら、くねくねと書棚の間を歩いていくことになった。—文句を言っているお客や、文句を言いたげなお客を避けながら、はしごや、あちこちに積み上げられた〈本塚〉をよけながら進んでいくと、やっと軍事史のコーナーでマークを見つけた。彼は南北戦争に関する写真入りの重そうな歴史書を一冊抱えていて、少し前かがみになっていた。そのような作業をしていること以外は、彼の外見も物腰も最初に会った時とさほど変わらなかった。

「マーク!」と、僕は休日にばったり会った友達同士みたいな口調で言った。まるで遊廓の待合室で、同じサークルに所属していていつも食事を共にしている友人と出くわしてしまったみたいに。

彼は一瞬僕を見ると、すぐに棚に目を戻した。

「クリスマスは楽しんだ?」と僕は続けた。「クリスマス期間を楽しんでる?」

彼はウィンストン・チャーチルの回想録を振り上げると、非難するように僕に向けてきた。その本の表紙に写る二重顎の首相が、突然始まった口論の審判のように平然とこちらを見ていた。

「何が望みなの?」とマークが聞いてきた。「あんたに何も話すつもりはないよ」

僕は脇の下に挟んでいたブーツを、チャーチルの顔の上に載せた。

「これが誰のブーツか教えてほしい」

彼(チャーチルではなく、マーク)が、その靴を見た瞬間に驚くのが見て取れた。―そればかりか、その所有者の身元を知っているのに隠そうとしていることも、彼の表情から読み取れた。

それでも彼は頑固に意地を張った。本当にみじめな人間にしかできないような意地の張り方だった。

「なんであんたに教えなきゃならないの?」と、彼はあからさまに不機嫌な口調で言った。

「もし教えてくれるなら、もう君につきまとったりしない」と僕は言った。「でも教えてくれないのなら、その辺にあるはずのゴーストライターが書いたジェイムズ・パタースンのロマンス小説を棚から引き抜いて、君が折れるまでその本を音読しながら、君がこの店内のどこに行こうとつきまとうよ。『ダフニーとハロルドの甘い三ヶ月』を読んでほしい? それとも『シンディーとジョンの永遠に続く愛の家』がいい? まあ、どちらにしても君の正気は第1章を読み終えるまでもたないよ。そしたら君の街の評判もがた落ちだね。といっても、それらの本は各章がとても、とっても短いんだけどね」

彼はまだ挑戦的な表情をしていたが、その下におびえも見えた。

「あんたは卑劣(ひれつ)だな」と彼は言った。「自覚はあるのか?」

僕は頷いた。もっとも僕自身は、「卑劣」という言葉は民族大虐殺とかに使う言葉だと思っているけれど。

彼は続けた。「教えてもいいけど、もし彼女に会ってみて、あんたが気に入らなかったとしても、もう俺に電話してきたり、こうして会いにきたりしないか?」

それはリリーに対して失礼な言い方だと思ったけれど、僕は胸の内で湧き起こる憤りを抑えた。

「もう電話しないよ」と、僕は平静を装って言った。「ストランド書店から出入り禁止をくらうのだけは絶対に嫌だし、約束する、君があの受付に座っている時は本の照会とかを頼まない。それからもし君がレジに立っていたとしても、レジに行くタイミングをうまく見計らって、君が僕の相手をしなくても済むようにするから。それで満足かい?」

「そんなにごちゃごちゃわめく必要ないだろ」とマークが言った。

「わめいてはいない」と僕は指摘した。「似ても似つかない。もし君が本を売る業界で成功しようと思ってるのなら教えておいてあげるけど、『わめき声』と『的を射た軽妙な言葉』を区別できるようにならないとだめだよ。その二つは全然違うんだから」

僕はペンを取り出すと、腕の内側を彼に向けて差し出した。

「住所をここに書いてくれ、それで僕たちの関係は終わりにしよう」

彼はペンを受け取ると、僕の肌にちょっと強めにペンを押しつけながら、僕の腕に東22番街の住所を書いた。

「どうもありがとう」と、僕はブーツを取り戻して言った。「ストランド社長に君は立派な店員だって口添えしておくよ!」

その通路から抜け出ようとした時、アメリカ海軍の災難に関する学術書が砲丸投げの球みたいに飛んできて、僕の頭をかすめた。ドスンと床に落ちたその本を横目に僕は立ち去った。投げた人が棚に戻すべきだ。

認めるけど、僕の心のどこかに腕を洗いたい気持ちがあった。でもそれはマークの手書きだから洗って消したいんじゃなくて、(それは鶏が引っかいたみたいな下手くそな字で、本屋の店員というよりも死刑囚が書いたんじゃないかと思うくらいだったけれど、)僕が消したい気持ちに駆られたのは、彼の筆跡ではなく、それが伝えている中身だった。それはまさにリリーに会うための「鍵」だったから...僕はその鍵を鍵穴に差し込んでいいものかどうか判断がつかなかった。

ソフィアの言葉が消えることなく僕の頭にこびりついていた:リリーはあなたの頭の中の理想の女の子でしょ? だとしたら、当然あなたをがっかりさせることはないわね。

そうじゃない。僕は自信を奮い起こすように自分に言い聞かせた。赤いモレスキンに書かれた言葉は頭の中の理想の彼女が書いたものじゃない。そのまま信頼できる言葉なんだ。書かれていること以上の何かを生み出してるわけじゃない。


玄関に立っていた僕は呼び鈴を鳴らした。そのチャイムがブラウンストーン(赤茶色のレンガ造り)の壁の向こうで鳴り響くのが聞こえた。その響きは、きっと使用人が玄関に出てくるんだろうなと予感させる裕福そうな音色だった。少なくとも1分間、何の応答もなかった。僕は抱えていたブーツを逆の腕に移し替えて、もう一度呼び鈴を鳴らそうかと頭の中で会議を繰り広げた。そして僕には珍しいことだけど、せっかちに物事を進めたがる気持ちよりも礼儀正しさが勝(まさ)った。地団駄を踏みつつも心の施錠をうまく管理していたら、僕の自制心は報われて、中から応答があったのだ。


玄関に出てきたのは執事でもメイドでもなく、マダム・タッソー館で会った警備員の女性だった。

「あなたはあの時の!」と、僕は思わずつばを飛ばしながら言った。

その老婦人は僕の顔を時間をかけてじっくりと見てきた。

「そのブーツは私の」と、彼女が言い返した。

「そうなんです」と僕は言った。「これのことで」

彼女があの博物館で僕と会ったことを覚えているのかは不明だったけれど、彼女はドアをもうちょっと広く開けて、身振りで僕を中へ招き入れた。

僕はジャッキー・チェンの蝋人形に迎えられるのではないかと半分期待した。(言い換えると、僕は彼女が家でその手の仕事をしているのではないかと期待した。)しかし実際は蝋人形はなく、玄関から広がるロビーには骨董品がいくつも並んでいて、なんだか突然100年以上前の空間に足を踏み入れたみたいだった。そこには1940年代以後に作られた新しい物は一つもなかった。玄関扉の横には傘立てが置いてあって、たくさんの傘が収まっていた。―少なくとも1ダース以上はあったけれど、どの傘も木製の取っ手が高級そうにカーブを描いていた。

老婦人は傘立てをじろじろ見ている僕に目を止めた。

「あなたは一度も傘立てを見たことがないのかしら?」と、彼女がお高くとまった言い方で聞いた。

「僕はただ、一人で12本の傘が必要になる状況を想像していただけです。一本も傘を持っていない人がたくさんいる時に、こんなにも多くの傘を独占しているのは、まともだとはいえない気がします」

彼女は僕の発言に頷いてから、聞いてきた。「あなたの名前はなんていうの?」

「ダッシュです」と僕は彼女に名乗った。

「ダッシュ?」

「ダシールを短くしてダッシュです」と僕は説明した。

「じゃないかと思ったわ」と彼女はきっぱりと言った。

彼女は「客間」としか呼びようのない部屋に僕を案内した。カーテンの生地はとても厚く、家具はやたらと布で覆われ、なんだか部屋の片隅でシャーロック・ホームズと小説家のジェーン・オースティンが指相撲でもしているんじゃないかと期待してしまいそうな雰囲気だった。客間とはいっても、一般的な客間のイメージほど埃っぽくも煙たくもなく、すべての木製家具は図書館にあるカード目録の棚みたいな重みを感じるし、壁はワインに漬けたような色をしていた。膝丈ほどの彫刻が何体か部屋の隅や暖炉のそばに置いてあり、本棚にはカバーのかかっていない本がひしめき合い、こちらを見下ろしていた。それらの本のたたずまいは、口も利けないほど疲れ切っている老教授を思わせた。

僕はとても居心地が良い部屋だと感じた。

老婦人の手振りに促されて、僕は長椅子に腰を下ろした。息を吸い込むと、空気から資産家特有の匂いがした。

「リリーは家にいますか?」と僕は聞いた。

その女性は僕の向かい側に座ると、笑った。

「私がリリーじゃないって誰が言ったのかしら?」と彼女が聞き返した。

「えーと」と僕は言った。「僕の友達の何人かが実際にリリーに会ったんですけど、彼女が80歳だったら何か言ったんじゃないかと思うんです」

「80!」と、老婦人がショックを受けたふりをした。「言っておくけど、私は43歳から1歳たりとも年を取っていないのよ」

「お言葉ですが」と僕は言った。「あなたが43歳だとしたら、僕は胎児になってしまいます」

彼女は椅子にもたれかかると、購入を検討して品定めでもしているような目で僕を見てきた。彼女は髪を、後ろにお団子を作ってきつく束ねていた。彼女にじろじろ検査されるように見られて、僕もまさに彼女の髪みたいにピシッと身が引き締まる思いだった。

「まじめに聞いてるんです」と僕は言った。「リリーはどこですか?」

「まずあなたの目的を見定めないことには」と彼女は言った。「私の姪っ子とふらふら勝手気ままに付き合わせるわけにはいかないわね」

「ふらふらしたいとか、いちゃいちゃしたいとかそういうことは思っていません」と僕は答えた。「僕はただ彼女に会ってみたいだけなんです。顔を合わせてみたいんです。知ってると思いますが、僕たちは今まで—」

彼女は手を挙げて僕の発言をさえぎった。「あなたたちが書簡のやりとりをして楽しんでるのは承知してるわ。それはけっこうなことよ。―書簡の中身が健全である限りわね。いくつか質問したいんだけど、その前にお茶でも飲む?」

「どんなお茶を出してくれるのかによりますね」

「まあ遠慮深いこと! アールグレイがあったと思うわ」

僕は首を振った。「あれは鉛筆の削りくずみたいな味がします」

「レディグレイはどうかしら?」

「打ち首にされた国王から名前を取った飲み物は飲まないことにしてるんです。悪趣味な気がして」

「カモミールはどう?」

「チョウの羽を吸った方がましですね」

「緑茶は?」

「本気で言ってますか?」

彼女は頷いて同意を示した。「冗談よ」

「牛がいつ草を食(は)むのかご存知ですよね? オスの牛もスメの牛も何度も噛むんですよ。噛んで、噛んで、噛み尽くしたあとの葉っぱですからね、緑茶は牛とフレンチ・キスしてるみたいな味がするんです」

「じゃあ、ミントティーはいかが?」

「それしかないのなら」

「英国式の朝食よ」

僕は手を叩いた。「いいですね!」

老婦人は一向にお茶を取りに行く素振りを見せなかった。

「やっぱりお茶はやめとくわ」と彼女が言った。

「どうぞお構いなく」と僕は答えた。「ところで、このブーツはあなたに返しましょうか?」

僕が彼女にブーツを手渡すと、彼女はしばしそれを眺めてから、僕に返してきた。

「これは私がバトンガール時代に履いていたものなのよ」と彼女は言った。

「軍隊に入っていたんですか?」

「応援隊よ、ダッシュ。私は応援隊にいたの」

彼女の背後の本棚には、つぼがずらっと並んでいた。それらは装飾品だろうか? それとも彼女の親戚の遺骨が納められているのだろうか?

「それでお願いがあるんですけど」と僕は訊ねた。「つまり、リリーに会わせてもらえないかと」

彼女はあごに二本の指を当てて三角形を作った。「どうしましょうかね。あなたはおねしょする?」

「僕はお...?」

「おねしょよ。あなたはおねしょするのかって聞いてるの」

彼女がウインクしてきた。僕にもウインクを返してほしいのはわかったけれど、僕は返さなかった。

「いいえ、マダム。僕はベッドを濡らしません」

「ほんの少しも? たまにもしないの?」

「それが何の関係があるのかよくわかりませんね」

「あなたの正直さを測ってるのよ。あなたが最近ちゃんと読んだ定期刊行物は何かしら?」

『ヴォーグ』ですね。といっても、すべてを打ち明けると、母の家のトイレを使っていて、そこに置いてあったんです。かなり長い便通に耐えなければならなくて、わかりますよね、あれは一種のラマーズ法を必要としますよね?」

「あなたが一番好きな、魅力的な形容詞はどんな言葉?」

それは簡単な質問だった。「実は僕はfanciful(空想に満ちた)という言葉が大好きなんです」

「じゃあたとえば、私が1億ドルを持っているとして、あなたにそれを差し上げるとします。ただし、もしあなたがそれを受け取ると、中国で一人の男が自転車から落ちて死ぬとします。さてあなたはどうする?」

「中国にいるとかそういうことがなぜ重要なのか僕にはわかりませんね。その人がどこにいようと、もちろん、お金は受け取りません」

老婦人は頷いた。

「あなたはエイブラハム・リンカーンが同性愛者だったと思う?」

「はっきり言えるのは、僕は彼に言い寄られたことも口説かれたこともありません」

「あなたは美術館によく出掛ける人?」

「ローマ法王は教会によく出掛ける人ですか?」

「ジョージア・オキーフが描いた花を見た時、あなたの心に何が浮かんだ?」

「それって僕に女性の(ちつ)って言わせようとしてますよね? あ、今言ってしまいましたね。膣です」

「あなたは公共のバスから降りる時、何か特別なことをする?」

「運転手さんにお礼を言います」

「よろしい、良い心掛けね」と彼女は言った。「さて、―リリーとどうなりたいのか、あなたの目的を聞かせてちょうだい」

言葉に詰まってしまった。長すぎる沈黙が生まれてしまったかもしれない。率直に言って、僕は目的についてほとんど何も考えていなかった。彼女の質問に答えながら考えておかなければならなかったのだ。

「えーと」と僕は言った。「彼女をダンスパーティーに連れて行きたいわけでもないですし、一つのタピオカジュースに二人でスプーンを入れたいわけでも、あなたがそういうことを聞きたいのなら言いますが、重ね合わさったスプーンみたいにベッドに二人で入りたいわけでもありません。そういうイチャイチャすることに関しては、清廉潔白でありたいと決めています。僕の胸の内に根強く湧き起こる欲望が彼女に向けられることは今のところありません。僕たちが実際に会ってみて、どれくらい心を通わせるかにもよりますが。それに、僕にはびっくりするくらい信頼のおける助言者がいまして、僕が勝手に思い描く彼女のイメージで彼女を塗りつぶしてはいけないってアドバイスされたんです。そして僕の目的は、そのアドバイスに従うことです。しかし本当にそうでしょうか? ここに完全に未知の領域があります。神秘の大地です。それは一つの未来にもなりえます。愚かな行為にしかならないかもしれません。彼女があなたと似ているなら、僕たちはうまくやっていける予感がします」

「彼女は今、自分の色を見つけているところだと思うわ」と、その女性は僕に話した。「だから私に似ているかどうかについては何とも言えないわね。私にとって彼女は喜びをくれる子よ。時にはあきれてうんざりすることもあるけれど、大体は...」

「陽気な子ですか?」と僕は先回りして言った。

純粋な子ね。自分の希望で磨かれて光ってるわ」

僕はため息をついた。

「なんでため息なんかつくの?」と老婦人が聞いてきた。

「僕は細かいことにこだわり過ぎるんです」と僕は打ち明けた。「ついでなので言うと、ひねくれてはいないと思いますが、ちょっとやっかいなので、僕みたいな扱いにくい男と、そういう喜びをくれる純粋な子がうまく溶け合うとは思えません」

「私がどうして一度も結婚したことがないか知りたい?」

「それは僕がどうしても知りたいリストには入ってないです」と僕は正直に言った。

老婦人は僕をじっと見て目を合わせてきた。「聞いてちょうだい。私が一度も結婚しなかったのは、簡単に飽きちゃうからなの。それは私が持ってるダメな、自滅的な性格なのよ。簡単に興味を持っちゃう方がよっぽど良い性格ね」

「わかります」と僕は言った。でも僕はわかっていなかった。その時もわかっていなかったし、今もまだわかっていない。

僕はそれ以上何も言わずに部屋を見回して、こう考えた:僕が今までに行ったすべての場所の中で、ここが一番赤いノートにふさわしい気がする。この家こそ、赤いノートが僕を連れてきたかった場所なのではないか。

「ダッシュ」と老婦人が言った。シンプルな呼びかけだった。さっき僕が彼女のブーツを差し出したみたいに、彼女が手に持っていた僕の名前をポンと差し出してきた、そんな感じだった。

「はい?」と僕は言った。

「はい?」と彼女が繰り返した。

「時間は大丈夫ですか?」と僕は訊ねた。

彼女は椅子から立ち上がると、言った。「ちょっと電話をかけさせて」



12

(リリー)

12月26日


「あなたは今もアレチネズミを殺してるの?」と、私はエドガー・ティボーに訊ねた。

私たちはブラウンストーンの邸宅の前に立っていた。そこに住んでいる女の子とエドガーは一緒に学校に通っているらしく、今夜は中でパーティーが開かれていた。

外の通りから、リビングルームの窓越しにパーティーの様子をうかがうことができた。とても行儀の良いパーティーに見えた。10代のパーティーと聞いて思い浮かべるような野蛮な声も外の道まで聞こえてこない。二人の親らしき大人がリビングルームを歩き回っているのが見える。二人は銀のお盆を手に持ち、その上にはパック入りのジュースやマウンテンデューが載っていて、なるほど誰も奇声を上げないわけだと納得した。カーテンが開いているのも納得。

「このパーティーはつまらないから」とエドガー・ティボーが言った。「どこか違うところに行こう」

「私の質問に答えてないじゃない」と私は言った。「あなたは今もまだアレチネズミを殺してるの? エドガー・ティボー」

もし彼が私を馬鹿にしたような返答をしていたら、私たちの間で芽生えた和解への兆しは、その始まりと同じくらい唐突に終わりを告げていたでしょう。

「リリー」と、エドガー・ティボーが誠実さをにじませて言った。彼は私の手を取ると、彼の両手で私の手を包んだ。私の手は彼ににぎられて震え出し、手の平から汗がにじみ出てきた。「君のアレチネズミのことは本当にごめん。正直なところ、感覚を持った生き物を意識的に傷つけるなんて、俺は絶対にしないよ」彼は懺悔の印として、私の指の関節に彼の唇をそっとつけた。

私は偶然見かけたことがあって、エドガー・ティボーは小学1年でアレチネズミを殺すことからは卒業したみたいだけど、4年生になると路地裏で他の男の子たちと一緒に虫眼鏡を使って、手当たり次第ミミズや昆虫に太陽光を当てていたのを思い出した。

おじいちゃんの仲間が繰り返し私に言っていたことは本当みたいね:10代の男は信用できない。彼らの目的は純粋じゃない。

これは母なる自然の大いなる計画の一部に違いないわ。―男の子たちをたまらなく魅力的にしているのも自然の力だし、いじわるな言い方をすれば、彼らの目的が純粋かどうかはどうでもよくなってしまうくらい彼らは魅力的なのよ。

「それであなたはどこへ行きたいの?」と私はエドガーに訊ねた。「私は9時までに家に帰らなきゃいけないの。遅くなるとおじいちゃんがパニックになっちゃうから」

私はおじいちゃんに二度目の嘘をついた。私のサッカーチームがどうしようもなく連敗続きで、急きょ休日練習が招集された、と私は彼に話した。彼はあのメイベルという女性のことでふさぎ込んでいたから、だまされてくれた。そうじゃなかったら信じなかったと思う。

エドガー・ティボーが赤ちゃんみたいな甘えた声で答えた。「おじーちゃんが悪い子ちゃんに夜更かしさせちゃうんでちゅか?」

「あなた意地悪で言ってるの?」

「いや」と彼は言うと、真剣な顔になった。「君に敬意を表してるんだよ、リリー、君の門限にもね。不必要に赤ちゃん言葉になったりして驚かせちゃったね。そのお詫びと言ってはなんだけど、君が9時までに帰らなきゃなら映画館くらいしか行けないけど、映画なら十分見る時間はあるね。『おばあちゃんがトナカイにひかれちゃった』はもう見ちゃった?」

「まだ見てない」と私は言った。

私はこういう嘘をつくのが上手くなりつつある。


私は危険を受け入れようとしている。

私は再びトイレに入って、ひねくれ男子くんと心の交流をすることになった。映画館のトイレは前夜のミュージック・クラブのトイレよりは清潔だったし、夕方の上映時間ということで、映画館はよちよち歩きの幼児で溢れかえっていることもなかった。でもまた、いろんな感情が溢れ、居ても立っても居られなくなってしまった。私は赤いノートを書かずにはいられなかった。


危険は色々な形で迫りくる、と私は思う。ある人にとっては橋から飛び降りることや、険しい山に登ることがそれにあたるのかもしれない。また別の人にとってはドロドロの不倫や、バスに乗っている時にうるさい10代の若者がいて、それでもお構いなしの意地悪そうなバスの運転手に苦情を言うことが、危険につながることもあり得るでしょう。トランプゲームでいんちきをするとか、アレルギー持ちなのにピーナッツを食べるとか、危険は色々ね。

私にとって危険を冒すというのは、私の家族がかけてくれている保護マントを脱ぎ捨てて、自分の足で世界に踏み出すことなのよ。たとえ何が―あるいは誰が―待ち構えているのかわからなくてもね。あなたがこの計画に一役買ってくれたらいいのにな。でもあなたって危険な人なのかしら? なぜかそうは思えないわ。私はあなたが私の想像の産物にすぎないことを思い知らされるのが怖いの。

私はそろそろノートの外側で人生を経験しなくちゃいけない頃かな。


私が席に戻ると、エドガー・ティボーはスクリーン上の太ったおばあちゃんに大笑いしていた。私にはその映画は馬鹿馬鹿しくて見ていられず、スクリーンから視線をそらしたところ、私の目は彼の上腕二頭筋に釘付けになった。彼の腕にはある種の魔力を放つ筋肉がついていて、―分厚すぎず、貧弱すぎず、ちょうど良い太さの腕に、私はすっかり魅了されてしまった。

するとエドガーの腕の末端についている手がいたずらをし始めた。彼の視線は決してスクリーンからそれることはなかったけれど、彼の手がそっと私の太ももの上に降りてきたのだ。スクリーンでは、またトナカイが角を突き出しておばあちゃんをひいたところで、エドガーの口は、おばあちゃんに降りかかるおぞましい殺戮にばか笑いしていた。

私はその作戦の大胆さが信じられなかった。(トナカイとエドガー両方の作戦の大胆さがね。)私は危険を冒してもいいけれど、私たちはまだキスもしたことないのよ。(つまり、私とエドガーはまだキスしたことないの。私とトナカイっていう意味じゃないわ。動物は大好きだけど、そこまでじゃないわね。)

私はこれまでの人生でずっとファーストキスを待ち望んできたのよ。物事には順番ってものがあるじゃない。そういうのを全部すっ飛ばして台無しにしたくはないわ。

ちょっ、ちょっと」と、私はエドガー・ティボーに向かってうなるように言った。彼の手が私のスカートに刺繍されたプードルの上で円を描き始めたから、私は彼の手を取って肘掛けに戻したわ。その位置にあった方が、彼の上腕二頭筋を愛(め)でるのにちょうどいいのよ。


帰りのタクシーの後部座席で、エドガーが私のカーディガンのボタンを外してきたから、そのまま彼にカーディガンを脱がせてもらい、私は自分でスカートを下ろした。

私が家に着いた時、おじいちゃんが私を待ち構えている場合に備えて、私はカーディガンとスカートの下にサッカーのユニフォームを着ていたの。私はハンドバッグから水筒を取り出すと、汗をかいたように見せるために顔と髪を水で濡らした。

タクシーのメーターには6ドル50セントと午後8時55分という数字が表示されていた。タクシーが私の家の前の縁石に寄って停まった。

エドガーが私に向かって体を折り曲げてきた。私は何が起ころうとしているのかわかった。

私が経験する最初の本物のキスは末永く続く幸せな未来につながるものじゃないとだめ、なんていう思い込みはもうなかったし、素敵な王子様が現れるという幻想も信じていなかったけれど、ただ、それが臭いタクシーの後部座席で起こってほしいとも思わなかった。

エドガーが私の耳元でささやいた。「タクシーの料金なんだけど、君の分だけでいいから出せる? なんていうか今、金欠でさ、君に出してもらわないと、君が降りたあと俺が帰るタクシー代が足りなくなっちゃうんだ」彼の人差し指が私の首にさっと触れた。

私は彼を押しのけた。もっと彼に触ってほしかったけれど、お願いだから、タクシーの中じゃない場所でして!

私はエドガー・ティボーに5ドルを渡しながら、100万もの無言の呪いの言葉を彼に浴びせかけた。

エドガーの口が私の口の間近で動いていた。「次は俺が払うから」と彼はつぶやいた。私は顔をそむけて、頬を彼の方に向けた。

「君は俺に対してガードがかたいんだね、リリー?」と、エドガー・ティボーが言った。

彼のぴっちりしたセーターの下からつやつやした上腕二頭筋がチラッと見えたけれど、私は無視した。

「あなたは私のアレチネズミを殺したのよ」と、私は彼に思い出させた。

「俺は狩りが大好きなんだ、リリー」

「あっそ」

私はタクシーから出てドアを閉めた。

「あの狩り好きのトナカイみたいにね!」と、次の目的地に向かって動き出したタクシーの窓から、エドガーが私に向かって叫んだ。



12月27日


あなたはどこにいるの?

私ってトイレにこもると大体、ひねくれ男子くんとノートを通じて交流したくなるのよね。そういう運命みたい。

今日はアルファベット・シティの東11番街にあるアイリッシュ・パブのトイレにこもっていた。そこは昼間は家族連れでも気軽に入れるカフェで、夜になると飲み屋になるという形態のお店で、今はまだ昼間なので、おじいちゃんは安心して家でくつろぐことができる。

私はまたおじいちゃんに嘘をつくのは嫌だったので、本当のことを話した。―私がクリスマスに結成した聖歌隊のメンバーが再び集まることになって、12月27日は怒りっぽいアラインの20歳の誕生日だから、(アラインは菜食主義者のパンクガールなんだけどね、)みんなで『ハッピーバースデー』を歌ってあげるのよ、と。

ただ、一部を省いて話したの。私はエドガー・ティボーにもそのカフェで会いましょう、とメールしたんだけど、おじいちゃんはエドガー・ティボーもその誕生日会に来るのか?とは聞いてこなかったから話さなかった。嘘をついたわけじゃない。

アラインの20歳の誕生日ということで、聖歌隊のみんなは伝統的なクリスマスの讃美歌の代わりに、彼女が合法的にお酒を飲めることを祝して、いろんな〈酒宴の歌〉を歌うことにした。私がカフェに着いた時には、みんなはもうビールの4杯目を飲んでいるところで、『Mary McGregor / Well, she was a pretty whore(メアリー・マクレガー / そう、彼女は麗しの娼婦)』と合唱していた。エドガーはまだ来てなかった。卑猥な言葉がメロディーに乗って歌われているのを耳にして、私はすぐに、ちょっとトイレに行ってくる、と言って席を立った。そして、おなじみの赤いノートを開いて新たなメッセージを書こうとした。

けれど、何か書き残したことあったかしら?

私はひねくれ男子くんがすぐに私を認識できるように、今もまだ片足にはブーツ、もう片方の足にはスニーカーを履いていた。でも、もし〈危険〉が目の前に迫ってきたら、おそらく私は「赤いノートを渡しそこねた時にひねくれ男子くんとのことはすべて終わったんだ」と自分に言い聞かせて、エドガー・ティボーが私に敢闘賞として差し出してきた〈危険〉を受け入れることになるでしょう。それが一番起こりそうね。

私の携帯が鳴った。画面に表示された写真はダイカー・ハイツの一軒の家だった。クリスマスのために飾り付けられたおびただしい数の電球が神々しく連なり、綺麗な軌道を描いている。私は電話に出た。「ハッピークリスマス、の二日後だけどね、カーミンおじさん」私はクリスマスの日に彼から、このノートを受け取ったことを思い出した。そういえば、ひねくれ男子くんについてまだ何も聞いてなかったわ。「おじさんの家でノートを返してくれた男の子のことなんだけど、おじさんはその子をちょっとでも見た?」

「かもしれんな、リリーベア」と、カーミンおじさんは言った。「だがそのことでお前に電話したんじゃないんだ。おじいちゃんがフロリダから早々に帰ってきたそうじゃないか。フロリダで残念なことになったって聞いたが本当か?」

「本当よ。それで、その男の子のことなんだけど...」

「おじさんは彼のことは何も知らないよ、リリーちゃん。ただ、その子はおかしなことをしていったけどな。芝生の上に大きなくるみ割り人形を置いてるだろ、5メートル近くある巨大な兵隊だよ、わかるか?」

「犬のクリフォード大尉でしょ? わかるわ」

「そこに、お前の謎の友達が赤いノートを置いていったんだがな、もう一つ別の物も飾り付けるみたいに置いていったんだ。あんな目もあてられない不細工な人形は初めて見たな」

え? ひねくれ男子くんが人形を作ったの?

「それって初期のビートルズがマペット人形の映画用にイメチェンした感じ?」

カーミンおじさんは言った。「まあ、そうだな。イメージを悪くチェンジした感じだ」

別の人から着信があって私の携帯が鳴った。今度は画面にブラウンストーンの素敵な書斎で机に向かって座っているミセス・バジルの写真が表示された。私の大好きな写真よ。彼女が足を組んで、ティーカップを口に運んでいる写真。大叔母さんのアイダが電話をかけてくるなんて、何の用かしら? たぶん彼女もおじいちゃんのことを聞きたいのね。私は今、もっとずっと大事なことを考えなくちゃいけないの。―せっかく私がひねくれ男子くんのために腕を振るって作ってあげた、あの可愛らしい〈ひねくれ君人形〉を、彼は後先考えずにくるみ割り人形の下に置き去りにしていったのよ!

私はミセス・バジルからの電話を無視して、カーミンおじさんに言った。「そうなの、おじいちゃん落ち込んじゃってるのよ。だから彼に会いにきてあげて。ついでにおじいちゃんに、私がどこに行こうとしてるのか四六時中聞いてくるのはやめてって言っておいてくれる? それから今度この街に来た時に、その素敵なパペット人形を返してくれるかな?」

「『I love you, yeah yeah yeah(大好きだよ、もちろん、いいとも)』」と、カーミンおじさんはビートルズの曲に乗せて答えた。

「私は今忙しいのよ」と、私はカーミンおじさんに言った。

「『She’s got a ticket to ride(彼女は乗車券を手に持って行ってしまう)』」と、カーミンおじさんはビートルズの別の曲を歌い出した。「『But she don’t care!(だが彼女はお構いなしだ!)』」

「おじいちゃんに電話してあげて。おじいちゃんきっと喜ぶから。じゃあね、チュッ」私も、ひと言つけ加えずにはいられなかった。「『Good day, sunshine(いい日ね、こんなに晴れて)』」と、私もカーミンおじさんに歌い返した。

「『I feel good in a special way(特別な日みたいでいい気分だ)』」と、カーミンおじさんが続きを歌った。

そして、私たちの電話は幕を閉じた。ミセス・バジルが音声メッセージを残しているのがわかったけれど、なんだか聞く気にならなかった。ノートを介したやりとりが終わってしまった今となっては、悲しくてそれどころじゃなかった。ひねくれ男子くんを理想化して考えるのもやめなくちゃ。だって彼は私の〈ひねくれ君人形〉をポイっと手放したんだもの。ふん切りをつけて前に進む時ね。

私は最後のメッセージを書いて、ノートを閉じた。おそらくもう二度と開くことはないでしょう。

私はこんなにも深く、大切に可愛がられることを待ち望んでいる。


聖歌隊のみんなはお店の裏庭に出て、ガーデンテーブルを囲んでいた。12月も終わりに近づいてようやく冬らしくなった凍(こご)えるような冷たい空気の中で、みんなは寄り添うように身を寄せて、お酒にお湯を入れたホット・トディーを飲んでいた。

『I’m dreaming of a white Christmas(ホワイトクリスマスを夢見ている)』と、彼らは歌っていた。その歌は今の状況にしっくりきていた。―柔らかくて甘いメロディーが、今にも雪が降り出しそうな空気に溶け込み、世界がより静かに、より素敵に感じられた。私は満ち足りた気分になった。

私がトイレに行っている間に、エドガー・ティボーは到着したらしく、みんなの輪に加わっていた。みんなが『ホワイトクリスマス』を歌っている最中、エドガーは口を手で覆って、歌に合わせてビートボックスを奏でながら、ラップ調で『Go … snow … snow that Mary MacGregor ho(雪よ、降れ、降れ、マクレガー、ホー)』と、聖歌隊の歌にかぶせて歌っていた。私がテーブルに近づいてくるのを見ると、エドガーは転調するように即興で歌詞を変えて、歌の中に私の名前を入れ込んだ。『Just like the Lily-white one I used to know …(俺が知ってる昔のリリー・ホワイトに戻ったみたいだ...)』

その歌が終わると、怒(いか)れるアラインが言った。「ねえ、リリー。彼があなたの友達の、愛国主義者で帝国主義者のエドガー・ティボー?」

「はい?」と、私は聞き返した。アラインの口からエドガー・ティボーについて、汚い軽蔑の言葉が発せられる予感がして、私は帽子に付いているポンポンで耳を塞ぎたくなった。

「彼はちゃんとした男になったのよ。ほら声も低くなって、立派なバリトン歌手にもなったでしょ」

シーナー、アントワン、ロベルタ、そしてメルヴィンはグラスを上に掲げると、「エドガーに!」と言って、グラスをカチンと合わせた。

アラインがグラスを掲げながら言った。「私の誕生日よ!」

みんなはもう一度、乾杯し直した。「アラインに!」

エドガー・ティボーが『ハッピーバースデー』をスティーヴィー・ワンダー風に歌い出した。「ハッピーバースデー! ハッピーーーバーースデーィィィーー」と歌い上げながら、彼はテーブルをピアノに見立てて指を動かし、目を閉じ、ゆらゆらと首を上下させて歌う盲目の男を演じた。

アラインはこの時点ですっかり酔っぱらっていた。普段ならそういう差別的ともとれるパフォーマンスは彼女を怒り狂わせただろうけど、彼女は怒ることなく、声を張り上げた。「私の誕生日を国民の祝日にしてほしいわ」彼女は椅子から立ち上がると、みんなにとどろかせるようにこう宣言した。「みなさん、私があなたがたに今日一日お休みを差し上げるわ!」

クリスマスと新年に挟まれた今日はほとんどの人にとってすでに休日だということを、わざわざ指摘するのは思慮に欠ける気がして、やめた。

「何を飲んでるの?」と私はアラインに聞いた。

「キャンディーみたいに甘いのよ!」と彼女は言った。「ちょっと飲んでみて!」

私は面白半分に〈危険〉に手を出したくて、彼女の飲み物を一口飲んでみた。すると、本当にキャンディーみたいな味がした…というか、キャンディーより美味しかった! どうして聖歌隊のみんながクリスマス前の定期練習の時に、いつもフラスコ瓶に入ったペパーミントのお酒を回し飲みしているのか、やっとわかった。

美味しい。

エドガーの方に目をやると、彼は携帯電話を使って私の足の写真を撮っていた。つまり片足はバトンガールのブーツで、もう片方はスニーカーを履いている足の写真を。「君のもう片方のブーツを見つけるために、この写真を拡散してあげるよ」とエドガーは言って、『ゴシップガール』の登場人物みたいに画面の〈送信〉ボタンを押した。

聖歌隊のみんなが笑った。「リリーのブーツに!」再びグラスがカチン、カチンと鳴った。

私はもっと味わいたかった。もっと〈危険な香り〉に包まれたかった。

「私も乾杯して温まりたいわ」と私は言った。「誰かホット・トディーを一口飲ませてくれる人?」

私はメルヴィンのグラスに手を伸ばした。その拍子に私の肩にかかっていたバッグから赤いノートが落ちた。けれど、私は床に落ちたノートをそのまま放っておいた。

なんでわざわざ拾わなくちゃいけないの?


「リリィィー! リリィィー!」と、みんな(その時にはもう、その店にいた全員)が歓声を上げていた。

私はテーブルの上に乗って踊った。「『It’s! Been! A! Long! Cold!Lonely! Winter!(長く!寒い!寂しい!冬!だった!)』」と、ビートルズの曲をよりパンクっぽく、反抗的にこぶしを突き上げて歌った。

「『Here comes the sun(今ここに太陽が昇る)』」と、その店にいた数十人が歌い返してきた。

私が口にしたのは、ペパーミント・シュナップスを3口と、ホット・トディーを4口、シーナーの飲んでいた物を5口だった。シーナーが飲んでいたのはシャーリー・テンプル(ノンアルコールカクテル)だと思ったけど、違ったみたい!それらの飲み物は私をまぎれもなくパーティーガールに変えてしまった。私はすでにその変化を感じていた。

クリスマス以来、あまりにも多くのことが起きた。私がお店の床に放っておいたノートからすべては始まり、そして今、私は女の子から、〈女〉に変身したのだ。

私は嘘をつくようになった。アレチネズミを殺した男とイチャイチャするリリーベアになった。数種類のお酒をたったの6口ほど飲んだだけで、カーディガンの真珠のボタンを上から二つ外して、胸元を見せつけるメアリー・マクレガーになったのよ。

でも実際は、ただ酔っぱらって眠気と吐き気がする16歳のリリーが、(いつの間にかどんちゃん騒ぎになっていた)誕生日パーティーで羽目を外し、パーティーガールのリリーになって輪の中心で浮かれていただけだった。

冬の早い暗闇が訪れた。まだ6時だったけれど、辺りはもう暗かった。すぐに家に帰らなければ、おじいちゃんが私を探しに来るわ。でも、もしこの状態で家に帰れば、おじいちゃんは私がほのかに…ほんのちょっと…ほろ酔い気味だと気づいてしまう。私が注文したわけでもないし、それがお酒だとは知らずに飲んでしまっただけだけど、―ただ他の人が飲んでいた物を何口か飲ませてもらっただけなんだけど、まずいことになりそうだし、おじいちゃんはエドガー・ティボーのことも追及してくるかもしれない。どうしよう?

新たなグループがお店に入ってきた。彼らがこちらのテーブルに近づいてくるのを見て、私は歌うのも、テーブルの上で踊るのもやめなければいけないと思った。私はすでに頭が回らない状態だった。

時間は刻一刻と過ぎていく。私は椅子から飛び降りると、エドガーを引っ張って、ガーデンテラスの人目に付かない片隅に連れて行った。事情を説明して、私を家まで送ってほしいと頼むつもりだった。そうすれば問題ないはず。

私は彼にキスして欲しい気分になった。

このタイミングで雪が降り出せばいいのに、とも願った。ピリッとした夜の空気と灰色の空は、いつ雪が落ちてきてもおかしくない、そんな予感を醸し出していた。

スニーカーを履いている方の足が凄く、凄く冷たくて、私はブーツの片割れが返ってくることを望んだ。

「エドガー・ティボー」と、私はセクシーに響くようにささやいた。彼の温かくて、石のように固い体に私の体を押しつけた。私はわずかに口を開いて、近づいてくる彼の唇を待ち受けた。

これよ。

ついに。

待ち望んできたそれが私の目の前に迫っていた。目を閉じようとしたその時、視界の片隅に10代の男の子が立っているのに気づいた。私が欲しかった物を手に持っている。

私のブーツの片割れを。

エドガー・ティボーがその男の子の方を向いた。エドガーは困惑気味に、「ダッシュ?」と聞いた。

その少年は、―ダッシュというらしい少年は―、私を不思議そうに見ていた。

「あそこの床に赤いノートが落ちてたんだけど、あれって僕たちのノートだよね?」と、彼が私に聞いてきた。

この子が

「あなたの名前はダッシュ?」と私は言って、思わずげっぷが出た。私の口からもう一つ、珠玉の名言も飛び出した。「そうすると、もし私たちが結婚したら、私はミセス・ダッシュ!」

私は自ら発した台詞にお腹を抱えて笑ってしまった。

それから私は気を失って、よく覚えてないけど、きっとエドガー・ティボーの腕の中へ倒れ込んだ。



13

-ダッシュ-

12月27日


「どうやってリリーと知り合ったんだ?」と、ティボーが僕に聞いてきた。

「自分でもよくわからないんだけど」と僕は言った。「だけど、いったい僕は何を期待していたんだろう?」

ティボーは首を振った。「なんでもいいけどさ、この気取り屋。ここは飲み屋だし、何かお酒飲むだろ? それにしてもアラインはセクシーだよな、20歳になったばかりだし、みんなの注目の的だよ」

「僕はお酒は飲まないことにしてるんだ、今夜はね」と僕は言った。

「たしかこの店で出してるお茶は〈ロングアイランド〉だけじゃなかったかな、自分で確かめてくれ、友よ」

そうすると、おそらくリリーもお酒を飲んだのだろう。ティボーが眠り込んでしまった彼女の体を近くのベンチに横たえた。

「あなた私にキスしてるの?」と彼女がつぶやいた。

「そんなにはしてないよ」と彼はつぶやき返した。

僕は夜空をじっと見つめた。wasted(無駄な)という言葉を創った天才が夜空のどこかにいる気がして探した。女か男か知らないけど、その人は大絶賛に値する偉業をなしたのだ。―こんなに核心を突く言葉を発明してくれた。なんて無駄な女の子なんだ。なんて無駄な期待だったんだ。なんて無駄な夜なんだ。

この状況にふさわしい行動はさっさとこの場から逃げ出すことだろう。臆病者ならそうするだろうけど、僕は臆病者を克服したかったからね、邪念を断ち切り、その場にとどまったんだ。気づくと僕はリリーのスニーカーを脱がしていた。そして彼女の足を彼女のおばさんのブーツの中に滑り込ませた。

「やっと戻ってきたわ!」と彼女がつぶやいた。

「ほら大丈夫?」と僕はあえて気さくに言った。押しつぶされそうな落胆の気持ちを隠そうとしていた。彼女はちゃんと話を聞ける状態でもなかったけれど。

「大丈夫」と彼女は言った。だが、一向に動こうとしなかった。

「僕が家まで送っていくよ」と僕は彼女に言った。

彼女はしばらく手足をばたばたさせていたが、ようやく僕は、彼女が首を振って断っているのだとわかった。

「家はだめ。私、家には帰れない。帰ったらおじいちゃんに殺される」

「なるほど。殺人をおぜん立てするつもりはないから」と僕は言った。「君のおばさんの家に連れて行くよ」

「それいい考え、いい、凄くいいじゃない」

彼らの名誉のために言っておくと、その店にいたリリーの友人たちは彼女を心配していたし、二人だけで大丈夫か?とも聞いてくれた。ただ、ティボーに関しては逆で、彼はその日が誕生日の女の子を生まれたての姿にしようと必死で、僕たち二人が店を出るのも気づいていなかった。

「ショウジョウバエ」と、僕はふとその言葉を思い出して言った。

「なに?」とリリーが聞いた。

「どうして女の子って、ショウジョウバエの集中力が続く時間と同じくらい早いサイクルで、次の男を好きになるのかな?」

「なに?」

「その辺に飛んでるハエみたいに、男から男へ飛び移っていくじゃん」

「欲情してるんじゃない?」

「今は」と僕は彼女に言った。「そんな正直になる時じゃないよ」

それより、今はなんとかタクシーを拾わなければならない時だった。何台ものタクシーが停まりかけては、リリーが僕にもたれかかっているのを見ると、―たぶんリリーの姿は車がぶつかった後の道路標識のように曲がって見えたのだろう、―そのまま停まらずに通り過ぎて行った。やっと良心的な運転手がタクシーを停め、僕らを乗せてくれた。車内ではカントリーソングがラジオから流れていた。

「東22番街の、グラマシー・パークの近くまで」と僕は彼に言った。

リリーは僕の横で寝てしまうんだろうなと思った。しかし、毎度のことだけど、事態は予想よりひどいことになった。

「ごめんね」と彼女は言った。蛇口をひねって感情がどっと溢れ出ないようにしていたが、ぽろっと一つこぼれ落ちてしまった、そんな感じだった。「ほんとにごめんなさい。あー、私はなんてことをしてしまったの。わざとあれを落としたわけじゃないのよ、ダッシュ。そんなつもりじゃなかったの。―つまり、悪いのは私なの。あなたがあの店に来るなんて思わなかったし、私はあの時、あそこで、あー、なんてこと、ごめんなさい。ほんとに、ほんとにごめんね。もし今すぐにタクシーから降りたければそうしていいのよ、あなたの気持ちが痛いほどわかるわ。すべて私がしたことの報いだわ。全部私のせいよ。ごめんね。あなたは私を信頼してたのよね? 私も真剣だったのよ。ほんとに、ほんとに、ほんとうにごめんなさい」

「いいよ」と僕は彼女に言った。「べつにどうってことない」

そして不思議なことに、実際どうってことなかった。責めるべきは、淡い期待を抱いた僕の方だ。

「全然よくないわ。ほんと、ごめんなさい」彼女は前かがみになって、言った。「運転手さん、彼にごめんなさいって伝えてくれる? 私はこんなつもりじゃなかったのよ。誓って言えるわ」

「彼女がごめんなさいだってさ」と、運転手が僕に言った。バックミラー越しではあったけれど、彼の表情から十分同情の色がうかがえた。

リリーはシートに座り直した。「わかってくれた? 私はただ、ほんとに―」

それから僕は彼女の言葉を無視することにした。通りを歩く人々や過ぎ去る車を見つめていた。僕はタクシーの運転手にどこで曲がればいいか指示を始めた。もっとも、どこで曲がるかなんて彼は百も承知だとはわかっていたけれど、タクシーが目的地にたどり着くまで、僕はずっと彼女の言葉に耳を貸さずに指示を続けた。僕はタクシー代を払っている時も(彼女はさらに申し訳なさそうに謝っていたが)、リリーを慎重にタクシーから降ろす時も、家の前の何段かある踏み段を上がらせる時も、聞く耳を持たなかった。それはなかなか骨の折れる作業だった。―彼女の頭が降り口の上にぶつからないように彼女を外に出し、僕は彼女のスニーカーを片手で持ちながら、そのスニーカーを落とすことなく彼女を抱えるように玄関口の踏み段を上がった。

僕が玄関のベルを鳴らすよりも先に施錠が外れる音がして、僕はのけぞってしまった。リリーのおばさんは僕たちを一瞥すると、ひと言「あらまあ」と言った。どっとせきを切ったように、僕の口から謝罪やら弁明やらが飛び出した。リリーを抱えていなければ、今が立ち去り時だと捉えて逃げ出していたかもしれない。

「入りなさい」とおばさんは言って、僕たちを家の奥の寝室まで案内してくれた。おばさんと僕でリリーをベッドに座らせた。間近でリリーを見ると、彼女の目から涙が今にもこぼれ落ちそうだった。

「こんなことになるはずじゃなかったのよ」と彼女は僕に話した。「こんなつもりじゃ」

「わかってるよ」と僕は彼女に返した。「大丈夫だから」

「リリー」と彼女のおばさんが言った。「二段目の引き出しにパジャマがあるから着なさい。あなたが着替えてる間、ダッシュを部屋の外に連れ出しておくから。それから、おじいちゃんには電話して、あなたは私と一緒にいるから安全だって、何かあったわけじゃないって言っておくから。明日の朝、あなたがもっとよく考えられるようになったら、おじいちゃんに話す口実をちゃんと練りましょうね」

僕は部屋を出る前に最後にもう一度彼女を見たくなって振り返ってしまった。見なければよかった。ぼう然とベッドに座り込む彼女の姿は痛々しくて、息をのむほど―。彼女はどこか見知らぬ場所で目覚めたかのように座っていた。それでも自分が眠っているわけではなく、これは実際に起こっている現実なんだとわかっているようだった。

「本当に」と僕は言った。「大丈夫だから」

僕はポケットから赤いノートを取り出すと、洋服ダンスの上に置いた。

「私にはそれを開く資格はないわ!」と、彼女が抗議するように言った。

「そんなことないよ」と僕は彼女に優しく語りかけた。「君がいなかったら、ここに書かれている言葉は存在しないんだから、僕が書いた言葉もね」

廊下から僕らの様子をうかがっていたおばさんが、僕に手招きして部屋を出るようにうながした。彼女の部屋から十分離れた後に、おばさんは言った。「まあ、心配いらないわよ」

「すべてが馬鹿げてるんですよ」と僕は言った。「謝る必要なんかないって彼女に言っておいてくれますか。僕たち二人が勝手にまいた種なんです。僕は彼女の頭の中の男にはなれなかったし、彼女も僕の頭の中の彼女にはなれなかった。でもそれでいいんです。真面目にそう思います」

「自分でそう言ったらいいじゃない?」

「言いたくないんです」と僕は言った。「彼女が今ああいう状態だからじゃなくて、―普段はあんな感じじゃないんだろうなっていうのはわかります。でもノートに書くみたいに簡単じゃないんですよ。今それがわかりました」

僕は玄関に向かった。

「あなたに会えて良かったです」と僕は言った。「お茶ありがとうございました。一杯も出してくれなかったけど」

「どういたしまして」とおばさんは答えた。「また近いうちにいらっしゃい」

それに対してどう答えればいいのかわからなかった。僕はもうここに来るつもりはないことを、おばさんも知っている気がした。


通りに出ると、僕は誰かと話したくなった。でも誰と? こういう時、たまらなく誰かと話したくなる時、いつになく自分の世界が狭く感じる。ブーマーは100万年経っても僕が体感しているこの気持ちを理解してくれないだろうし、ヨーニーとダヴならわかってくれるかもしれないけど、彼らは恋愛モードの最中(さなか)でせっせとちちくりあっていて、お互いの木はよく見えても森全体を見渡せるかは疑わしい。プリヤはおかしなものでも見るように僕を見つめてくるだろう、たとえ電話でもそんな冷たい視線を感じる気がする。ソフィアは携帯電話を持っていない、アメリカにいる時は持たないことにしたらしい。

両親のどちらかに電話するっていうのは?

それは笑っちゃう考えだ。

僕は家に向かって歩き始めた。すると携帯電話が鳴った。

画面を見ると:

ティボーだった。

なんだか嫌な予感がして出たくなかったけれど、電話に出た。

「ダッシュ!」と彼は叫んだ。「お前たちどこにいるんだ?」

「リリーは家まで送ったよ、ティボー」

「彼女は大丈夫なのか?」

「君が心配してたって聞けば、きっと彼女は喜ぶだろうね」

「顔を上げたら、いつの間にかお前たちがいなくなってるからさ」

「僕だって、あの時どうしたらいいかわからなかったんだ」

「どういう意味だ?」

僕はため息をついた。「つまり、―要するに僕が理解できないのは、よくもまあ、あんなろくでもない真似をしておいて、涼しい顔をしていられるなってことだよ」

「そんな言い方はないじゃないか、ダッシュ」と、ティボーは実際傷ついたように言った。「俺は凄く心配してるんだ。だからこうして電話してるんだ。心配してるんだよ」

「まったく、そういうのをろくでもない態度っていうんだよ。―心配したい時に心配して、したくない時にはしない。君の心配がさっと引いていった後には、残された僕たちはてんてこまいだ」

「おい、お前は考えすぎだって」

「おい、君こそ何をわかってるって言うんだ? まあ、そうだね、君の言う通りかもしれない。君はあまり考えずに行動に移すからね。だから、いつでも君が主導権を握ることになる。そして僕は万年、君に振り回されるんだ」

「それで彼女は大丈夫なのか? 気が動転してるとか?」

「っていうか、それは君にとって重要なことなのかい?」

「そりゃそうさ! 彼女はうんと成長してたよ、ダッシュ。彼女はいかしてる、と思ったよ。少なくとも彼女が酔っぱらうまではね。彼女は一旦酔っぱらったら手をつけられない。彼女が近寄ってきただけで逃げ出したくなるね」

「ずいぶん騎士道精神にあふれることを言うね」

「おお、むかついてるみたいだね! お前ら二人は付き合ってるのか? 彼女は一度もお前のことは言わなかったけどな。もし知ってたら、誓って彼女に手を出そうとはしなかったね」

「もう一度言うよ、それだけ騎士道精神にあふれてたら、君はもうすぐナイトの爵位(しゃくい)に手が届く」

彼はため息をついた。「俺はただ、彼女が大丈夫かどうか確認したかっただけなんだ。それだけだよ。彼女に後で連絡するって言っておいてくれ。明日の朝、彼女がひどい気分じゃなければいいんだけどな。水をたくさん飲むように言ってくれ」

「自分で言えばいいじゃないか、ティボー」と僕は言った。

「彼女は電話に出ないんだ」

「なるほど。僕はもう彼女と一緒じゃないよ、ティボー。彼女を送って、一人で帰ってる途中なんだ」

「声が悲しそうだな、ダッシュ」

「携帯電話で嫌な会話をするとね、疲れがどっと押し寄せてくるんだよ、悲しみに匹敵するくらいにね。でもまあ、君が心配してることは評価する」

「俺たちはまだ店にいるから、お前が戻ってきたいなら」

「戻るという選択肢はないって僕は言われてきたから。不退転の決意で前に進むよ」

そして僕は電話を切った。生きることの疲れがどっと僕に覆いかぶさり、もう誰とも話したくなくなっていた。少なくともティボーとは話したくなかった。彼が言うように悲しみもあった。そして怒りも、それから混乱も、さらに失望...全部疲れる。

僕は歩き続けた。12月27日にしてはあまり寒くなく、年末の連休を利用してこの街にやって来た人々が大挙して屋外に出ていた。ソフィアが家族と一緒に滞在していると言っていた場所を思い出した。―48番街にあるベルヴェデーレ・ホテルに泊まっているらしい。僕はその方向に歩いていた。まだ数ブロック先のタイムズ・スクエアが夜空に輝きを放っていた。その光の中に僕は重い足取りで入っていった。クリスマスはもう終わったというのに、まだ大勢の観光客がたむろしている。でも僕はクリスマス前に感じたほどは嫌悪感を抱かなかった。特にタイムズ・スクエアでは、誰もがただここに立っているだけでうっとりしていた。その中に、僕みたいに疲れ切った魂を抱えた人が、少なくとも3人いた。その3人はネオンの圧倒的な明るさに驚いて、馬鹿みたいに顔を上げていた。僕は懸命に気持ちを強く保とうとしたけれど、そのような悲しげな喜びの表情を見ていたら、人間ってもろい存在だな、いとも簡単に涙が溢れ出すものなんだな、と思わずにはいられなかった。

僕はベルヴェデーレ・ホテルまでたどり着くと、館内に内線電話があるのに気づき、ソフィアの部屋にかけてみた。呼び出し音が6回鳴って、自動音声が流れ出したので受話器を置いた。僕はロビーに並べられたソファーの一つに腰を下ろした。べつに待っていたわけではない。―ただ他に行くところもなかっただけだ。ロビーは宿泊客でごった返し、外の街を歩き回ってきた人たちがせわしなくカウンターに向かい、何やら交渉して、中には踵(きびす)を返す者もいた。両親が観光で疲れ切った子供を引きずるようにして部屋に向かう。カップルがお互いのしたこと、あるいはしてくれなかったことについて文句を言い合っている。10代のように手をつないでいるカップルもいたけれど、彼らが10代だった頃から50年は経っているように見えた。クリスマスの音楽はもうロビーに流れていなかった。それがかえって、その空間に本物の安らぎを開花させていた。あるいは僕の心の中の空間に。もしかしたら目に映るすべてのものは、僕の心の中にあるのかもしれない。

僕はそれを書きとめたいと思った。リリーと共有したかった。たとえリリーが僕のつくった虚像にすぎないとしても、リリーという概念とそれを共有したかった。僕はロビーにあった小さなお土産屋に足を運ぶと、6枚のポストカードとペンを買った。それから再びソファーに座り、思考のおもむくままにまかせて書いた。今回は彼女に向けて書いたわけではない。誰に向けてもいない。それは水の流れに、あるいは血液が流れていくままに指をまかせただけである。


ポストカード1:ニューヨークからこんにちは!

ここで育った僕は、この街が観光客の目にどのように映っているのだろうといつも思う。がっかりしているんじゃないかな? 僕はこの街の住人として、ニューヨークはその名に恥じない街であると信じたい。建物は高くそびえ立っているし、摩天楼の輝きは眩しいくらいだ。どの街角にも、どの通りにもそれぞれの物語がある。でも実際に歩いてみると、ショックを受けるかもしれない。自分はその通りを流れる何百万もの物語の、たった一つに過ぎないと気づくからだ。頭上から煌々(こうこう)と降り注ぐネオンが自分に向けられているとは感じられずに、高い建物を見上げながら、心の深いところで、見えない星を渇望(かつぼう)するだけだ。


ポストカード2:ブロードウェイは僕の庭!

なぜ見知らぬ人に話しかけるのは、知ってる人に話しかけるよりもずっと簡単なのだろう? どうして僕たちは人とつながるために、人と距離を置くことが必要だと感じるのだろう? もし僕が「愛(いと)しのソフィアへ」とか、「親愛なるブーマーへ」とか、あるいは「リリーの大叔母さんへ」と、ポストカードの一番上に書けば、その下に続く言葉は自ずと変わるのではないか? もちろん変わるだろう。しかし問題は、「愛しのリリーへ」と書いた場合だ。それは「親愛なる自分へ」と書いた場合と何かが変わるのだろうか? ほんの少しの改編がなされるだけなのではないだろうか? それ以上でもそれ以下でもない、自分への手紙の改訂版だ。


ポストカード3:自由の女神

あなたを見上げ、僕は歌うよ。なんて心躍るワンフレーズなんだろう。


「ダッシュ?」

顔を上げると、そこにソフィアが立っていた。手に『ヘッダ・ガブラー』の演劇のプログラムを持っている。

「やあ、ソフィア。世間は狭いね!」

「ダッシュ...」

「つまり、狭いっていうのは、この瞬間に、この空間に二人が居合わせたことが嬉しいっていう意味だよ。厳密に会話的な決まり文句として言ったんだ」

「私は前からあなたのそういう厳密さっていいなって思ってたわ」

僕はロビーを見回して、彼女の両親の姿を探した。「ママとパパは一緒じゃないの?」と僕は聞いた。

「両親は飲みに行っちゃった。私だけ先に戻ってきたの」

「そうなんだ」

「そうよ」

僕は立ち上がらなかった。彼女も僕の隣に座ろうとはしなかった。僕たちはただ見つめ合っていた。しばらく見つめ合ってから、一瞬ためらって、また見つめ合った。これから二人の間に何が起ころうとしているのか、疑問の余地はなかった。どこへ向かおうとしているのか、迷うこともなかった。僕たちはそれをあえて言う必要さえなかった。



14

(リリー)

12月28日


Fan•ci•ful(空想に満ちた)形容詞(1627年頃発祥)1. 理屈や経験よりもむしろ空想や気ままな想像にゆだねられている状態。


ミセス・バジルによると、fancifulという言葉がひねくれ男子くん―つまりダッシュ―のお気に入りの形容詞みたい。たしかに、どうして彼が最初にストランド書店で赤いノートの誘いに乗ったのか、それで説明がつく。空想好きだから今までノートのやり取りを続けてくれたんでしょう。でも、それからしばらく経って、本当のリリーは彼の想像とは真逆の女の子だと知って、彼のfancifulな状態は薄れ、逆に彼をdour(気難しくて、不機嫌で、陰気な)状態にしてしまったんだわ。

私は彼になんて無駄な時間を...

私はひねくれ男子くん(つまりダッシュ!)とのつながりを自ら断ち切ってしまったんだけど、それでもfancifulが私のお気に入りの言葉になったし、その言葉の起源が1627年頃だっていうのもいいわね。その時の情景がはっきりと目に浮かぶわ。メアリー・ポッペンコック夫人が家に帰るのよ。古き良き時代のイギリス、テムズ川沿いののどかな村にあるわらぶき屋根の石造りの家に帰ると、彼女は夫にこう言うの。「ただいま、ブルース。私たちが住んでいるイングランド中部地方の、この緑豊かな村に雨が降った時に、雨漏りしないような屋根って素敵だと思わない?」ブルース・ポッペンコックはたぶんこんな感じで答えたのよ。「おお、メアリー。今日の君はなんてfancifulな考えを思い付くんだ」それに対してポッペンコック夫人はこう返したの。「あら、ブルース。あなた今、新しい言葉を作ったわ!今年は何年だったかしら? 1627年頃だったわね!そうだわ、その言葉を思い付いた年を、―正確に今年が1627年なのかはわからないけど、―その言葉と一緒に家の壁の石に彫って刻み込んでおきましょうよ!そうすれば誰も忘れないわ。fanciful!あなたってほんとに天才ね。私の父が私を無理やりあなたと結婚させてくれてよかったわ。あなたが毎年私を妊娠させるのも嬉しいわ」

私は辞書を本棚に戻した。戻した辞書の隣には『現代の詩人たち』のハードカバー版があった。ミセス・バジルはこういう辞典形式の参考図書が好きなのよ。彼女が銀のお盆を持って客間に戻ってきた。お盆の上にはとても濃いコーヒーが入っていることが匂いでわかるコーヒーポットが載っている。

「今回のことから何を学んだのかしら? リリー」と、ミセス・バジルがコーヒーをカップに注ぎながら聞いてきた。

「他の人たちが飲んでいるものを何口も飲ませてもらうと、ひどい目に遭うことがある」

「その通りよ」と、彼女は上から諭すように言った。「でももっと大事なことがあるんじゃない?」

「飲み物は混ぜるなってことね。もしペパーミント・シュナップスを飲むとしたら、ペパーミント・シュナップスだけを少しずつ飲むこと」

「もういいわ。ありがとう」

彼女の穏やかなものの言い方は、私の両親や祖父とはちょっと違って、私が一番尊敬している点なの。大叔母さんは状況に対して理性的に、現実的に反応するんだけど、両親や祖父ときたら、むやみやたらに、不必要きわまりないヒステリーを起こすのよ。

「おじいちゃんになんて話したの?」と私は訊ねた。

「あなたが昨夜、私のところに夕食を食べにやって来て、それで私が明日の朝、つまり今朝ね、家の前の歩道の雪かきをしてもらおうと思って、あなたに泊まるように言ったことにしたわ。まあ、実際そうしてもらおうと思ったから本当のことね。あなたは夕食も食べずに寝ていたけれど」

「雪?」私は厚いブロケード生地のカーテンを引っ張って、窓から家の前の道を見た。

雪だ!!!!!!!!!!

私は昨夜の、今にも雪が降り出しそうな空を忘れていた。ああ、私は情けないことに眠り込んでしまったのだ。いろんなお酒を何口も飲んで意識を失い、―ついでに、(言うなれば)いろんな希望まで失ってしまった。全部私のせいだ。

〈タウンハウス〉が建ち並ぶグラマシー通りの朝の風景は一面、雪で覆われていた。少なくとも5センチは積もっている。―大雪というほどではないけれど、いい感じの雪だるまを作るには十分だ。雪はまだ光り輝いていて降り積もって間もないように見えた。通りは白のブランケットをかぶり、停めてある車や歩道の手すりは綿帽子をかぶっていた。雪はまだ光沢を失ってはいなかったけれど、そのうち人々の足跡や、犬の黄色いマーキングや、車の排気ガスによって輝きを失うことになる。

あちこちに散らばっていた私の思考が、ぼんやりと一つのアイデアを浮かび上がらせた。

「裏庭で雪だるまを作ってもいい?」と、私はミセス・バジルに聞いた。

「いいわよ。まず玄関前の歩道から雪かきしてちょうだい。私のブーツの片一方が戻ってきてちょうどよかったじゃない、ね?」

私は大叔母さんの向かい側に座り、コーヒーをひと口すすった。

「コーヒーと一緒に、ホットケーキも出てくるの?」と私は訊ねた。

「あなたがどのくらいお腹空いてるのかわからなかったのよ」

「ペコペコよ!」

「あなたは起きたら頭痛いって言うと思ったわ」

「頭は痛いわ!でもお腹は別よ!」実際、頭はガンガンしていた。こめかみの辺りを軽くコンコン叩かれている気がして、そのノックが頭全体に大きな怒号となって響き渡っていた。でもきっと、ホットケーキにメープルシロップをたっぷりかけて食べれば、お腹も満たされて、頭痛も和らぐはず。昨夜夕食を抜いたから、その分を補うためにも食べなくちゃ。

軽い頭痛と空腹を感じながらも、私は内心かすかな満足感を抱(いだ)いていた。

私はやってのけた。私はとうとう〈危険〉を抱(かか)え込んだのだ。

その経験はひどい災難だったのかもしれないけど、それでも...一つの体験には違いないわ。

思い返すと、うっとりする。


「ダッシュ」と、私は積み重なったホットケーキにふりかけるようにつぶやいた。「ダッシュ、ダッシュ、ダッシュ」ホットケーキがバターとシロップを吸収している間に、私は彼の名前を自分の内側に取り込もうとした。実際のところ、彼がどんな感じの子だったのか、ぼんやりとしか覚えていない。私の記憶の中の彼はシャンパン色の霧(きり)に包まれ、甘く、ひらひらと、ぼやけていた。私が覚えているのは、彼はどちらかと言うと背の高い方だったこと、髪はきちんとしていて、クシでとかしたばかりに見えたこと、それから彼はジーンズを履き、ピーコートを着ていた。もしかしたら年代物の古着かもしれない。彼から男の子の匂いがしたけれど、ムカムカするような匂いではなく、いい匂いだった。

彼は私が今までに見たことのある目の中で一番青い目をしていた。長く黒いまつげが女の子みたいだった。

「ダシールを短縮してダッシュっていうらしいわね」と、ミセス・バジルが私にオレンジジュースの入ったコップを渡しながら言った。

「でしょうね」と私は言った。

「ええそうよ」

「彼と私の間には、本物の愛は生まれないだろうな」と、私は気づいたことを言った。

「本物の愛? ふんって感じ、鼻で笑っちゃうわ、そんなものハリウッド映画がねつ造した、ただの概念よ」

「あはは。おばさんがふんって言った」

「そんなもの、ふん、へんって笑い飛ばしちゃうわ」と彼女が付け加えた。

「ちょっとふざけるのはやめてよ」

「そうね、リリー」

私はため息まじりに言った。「結局、私は彼との関係を台無しにしちゃったのよ、そうでしょ?」

ミセス・バジルは言った。「まあ、あなたが彼に与えた最初の印象を払拭(ふっしょく)するのは難しいでしょうね。でもまだチャンスはあるわ。そのチャンスを引き寄せるのはあなたしかいないのよ」

「でも、どうやって引き寄せるの?」

「あなたなら何か思い付くはずよ。私はあなたを信頼してるわ」

「おばさんは彼が好きなのね」と、私はからかった。

ミセス・バジルが宣言するように言った。「あのダシールっていう子は軽蔑するような子じゃないわ。まあ、10代の男の子の典型って感じね。ちょっと細かいことにこだわりすぎる性格だから、周りの人が期待するほどの明るさはないけれど、でも彼にも魅力はあるわ。魅力と欠点ってどれも数珠つなぎのものなのよ。それに彼の欠点は、―許せる範囲の、あえて言えば、感心しちゃう欠点ね」

私には彼女が言ったことの意味がわからなかった。

「ってことは、彼にはもう一度狙うだけの価値があるってこと?」

「おやまあ、その質問は自分に向けるべきね。あなたにはその価値があるの?」

彼女に痛いところを突かれた。

ダッシュは、映画『コレイション』におけるホッチキスの活躍は超えないにしても、そのホッチキスと同等レベルの英雄っぷりを発揮してくれた。彼は私の片足のつま先が凍り付きそうだった時にブーツの片方を返してくれただけではなく、私の意識がもうろうとしている時にそのブーツを履かせてくれたし、私を家まで安全に送り届けてくれた。それにひきかえ私が彼にしたのは、彼の望みを打ち砕いたこと、だけ?

私は彼に謝りたいと心から望んだ。


私はアレチネズミを殺した問題児、エドガー・ティボーにメールした。


 どこに行けばダッシュに会えるの?


 ストーカーにでもなるつもりか?


 かもね。


 おそるべし。彼の母親がいる場所なら知ってるよ、東9丁目の大学界隈。


 どの建物?


 腕のいいストーカーなら聞くまでもないだろ。


私はエドガーにどうしても聞きたかった:昨夜、私たちはキスしたの?

私は自分の朝の唇を舐めてみた。私の口の中はホットケーキとシロップの味で満たされていて、ホットケーキとシロップ以外の甘美(かんび)なものが私の唇に触れたとは思えなかった。


 今夜も酔っぱらって我を忘れたいのかな?


エドガー・ティボーのそのメッセージを見て、私は突然思い出した。

ダッシュが酔っぱらって我を忘れた私を抱えて、救出するみたいに店から連れ出してくれた時、エドガーはアラインにしつこく言い寄っていた。


 1. いいえ、私はもう酔っぱらう遊びからは引退します。

 2. 特にあなたとは飲みません。それではごきげんよう。リリーより。


午後になって、私はミセス・バジルの家を出た。雪の上を歩いていると、ブーツの下で雪がザクザク音を立てた。グラマシー・パークの近くにあるミセス・バジルの家から、イースト・ヴィレッジにある私の家に帰る途中で、東9丁目にある大学に寄ろうとすると、少しは遠回りになるけれど、全くの逆方向というわけではない。それで私は大学の方向へ歩みを進めながら、冬の散歩を楽しんだ。私はクリスマスが好きなのと同じ理由で雪が好き。どちらも時間が止まったみたいにみんなを一つにまとめてくれるから。カップルたちが仲睦まじく通りをぶらぶら歩いている。子供たちがそりを引きながら、てくてく歩いている。犬たちが雪玉を追いかけている。みんなが今日という日の輝きに身をゆだね、それ以外に急ぐ用事なんてない様子で、その輝きをみんなと分かち合っている。いついかなる時に雪が降ってきても、みんなをそんな感じにしてくれるから好き。

東9丁目の大学のある敷地には、4つの角にそれぞれ異なる建物が立っている。まず私は一番手前の建物に近づいて行き、そして門番に訊ねた。「ダッシュはここにいますか?」

「なんで? 誰がそんなこと知りたがってる?」

「私が知りたいんです、どうしても」

「ダッシュっていう名前の人はここにはいないよ、俺の知ってる限りではな」

「じゃあ、どうしてあなたは、誰がそんなこと知りたがってるって聞いたの?」

「あんたがそのダッシュっていう彼の住所を知らないとして、どうしてあんたは彼を探してるのかな?」

私はバッグから保存用の小さなビニール袋に入った〈レープクーヘン・スパイス・クッキー〉を取り出すと、その門番に手渡した。「どうぞ召し上がってください」と私は言った。「メリー・12月28日」

私は次の建物に向かって、その敷地を歩いていった。次の建物には制服を着た門番はいなかった。中に入ると、ロビーの受付に男性が座っていた。彼の背後の廊下では、何人かの老人が歩行補助器を使ってゆっくり歩いている。「こんにちは!」と私は彼にあいさつした。「ダッシュはここにいるかなと思いまして」

「ダッシュって80歳の昔ナイトクラブで歌ってた歌手ですか?」

「絶対違います」

「それではここにはダッシュという人はいませんね、お嬢さん。ここは老人ホームなんですよ」

「目の見えない人もここで暮らしているんですか?」と私は訊ねた。

「どうして?」

私は彼に私の名刺を渡した。「私は盲目の人たちに読み聞かせをしたいと思っているんです。大学に願書を提出する時に書けるし、それに私はお年寄りが好きなんです」

「それは良い心がけですね。ではこの名刺は預かっておきましょう。何か機会があったら連絡しますよ」彼は私の名刺に目を落とすと、言った。「はじめまして。〈リリー・犬の散歩屋〉さん」

「こちらこそ!」

私はその建物を出ると、横の道路を歩いて3つめの建物に向かった。そこの門番は外に出て雪かきをしていた。「こんにちは!手伝いましょうか?」と私は彼に聞いた。

「結構」と彼は言って、あやしむような目で私を見た。「組合の決まりでね。助けは無用」

私はその門番にスターバックスのギフト券を1枚差し出した。犬の散歩のお客さんからクリスマス前に数枚もらったもので、そのうちの1枚をあげたのよ。「これで休憩時間にコーヒーを飲んでください」

「こりゃどうも! で、何の用だい?」

「ここにダッシュっていう子はいますか?」

「ダッシュ? 苗字は?」

「苗字はわからないんです。10代の男の子で、背は高い方で、夢見がちな青い目をしています。それからピーコートを着ています。この近くのストランド書店によく行くみたいだから、ストランド書店の手提げ袋を下げてるかもしれません」

「ちょっとわからんな」

「なんていうか...ひねくれてる感じの子です」

「ああ、その子なら、ほら、あの建物にいるよ」

その門番は4つめの角にある建物を指差した。

私はその建物に向かって歩いた。

「こんにちは」と、私はそこの門番に言った。その人は文芸誌『ニューヨーカー』を読んでいた。「ダッシュっていう子はここにいます、よね?」

その門番は読んでいた雑誌から目を上げると、「16Eの? 母親が精神科医の?」と言った。

「そうです」と私は言った。きっとそうなんだわ。

その門番は雑誌を閉じると、机の引き出しに押し込んだ。「そういえば彼は1時間ばかり前にここを通って出て行ったな。彼に伝言があるのなら伝えておきますよ」

私はバッグから小包を取り出した。「これを彼に渡してくれますか?」

「いいですよ」

「どうもありがとう」と私は言った。

ついでに私はその門番にも私の名刺を渡した。彼はそれをちらっと見ると、「この建物内はペット持ち込み禁止なんですよ」と言った。

「それは悲劇だわ」と私は言った。

だからダッシュはみんなに知れ渡るくらいひねくれちゃったんだわ。


ダッシュに渡してほしいと頼んだ小包はギフト・ボックスを包装紙で包んだもので、中には〈英国式朝食用ティー〉と、それから赤いノートも入れた。


親愛なるダッシュ:

このノートを通じてあなたと出会ったことは、私にとってとても意味のある出来事でした。特に今年のクリスマスは、お陰で有意義なものになりました。

でも私はその魔法を解いて、いつになく楽しい時間を台無しにしてしまいましたね。

本当にごめんなさい。

私が謝りたいのは、あなたが私と初めて会った時に私の酔っぱらった残念な姿をさらしてしまったことではありません。私が謝りたいのは、明らかにそのことよりも責任を感じているのは、私の愚かさのせいで、私たちの大きなチャンスをふいにしてしまったことです。あなたが私に実際に会ってみて、私に夢中になるほど恋に落ちるとは思っていないけど、でももっと違った状況で会っていたら、きっと何か素敵なことが起こったんじゃないかって思いたいのです。

私たちは友達になれたかもしれないって。

でももうゲームはおしまいね。それはわかってる。

けど、もしあなたが、(しらふの)リリーという友達が欲しいと今も思ってくれるのなら、私はあなたのガールフレンドになります。

あなたは特別で親切な人だって思えるから。私はそういう特別で親切な人たちと知り合いになることを目的として生きていきたいから。特に私と同い年くらいの男の子でそういう人がいたらいいわね。

〈ホッチキス〉みたいに現実の英雄になってくれてありがとう。

私の大叔母さんの家の庭にある雪だるまがあなたに会いたがっているわ。もしあなたにその気があるのならね。

                                      敬具

                                      リリー


追伸:あなたがエドガー・ティボーと知り合いだったからといって、私はあなたを責めるつもりはありません。そして、あなたも私に対して同様に思ってくれると嬉しいです。


勇気を振り絞って書いたその文章の下に、私は〈リリー・犬の散歩屋〉と書かれた名刺をホッチキスで留めた。ダッシュが私の申し出に応じて雪だるまに会いに来たり、私の名刺を見て電話をかけてくるという期待は抱いていなかったけど、もし彼がもう一度私に会いたいと思ってくれた時のために、せめて私の親戚たちを介することなく直接私に通じる手段を彼に示しておきたかった。

私はノートの次のページに、ミセス・バジルの書庫みたいな客間の本棚にあった『現代の詩人たち』の、あるページをコピーして、一部を切り抜いて、のりで貼り付けた。

マーク・ストランド

(詩人...名前の下にあれこれ書かれていた経歴はペンで線を引いて消した。)

我々は自分の人生の物語を読んでいる

まるで物語の中に自分がいるかのように、

あたかも自分がその物語を書いたかのように。



15

-ダッシュ-

12月28日


僕はソフィアの隣で目を覚ました。時間はわからないがまだ夜のようだった。彼女は僕に背を向けて寝ていたが、彼女の片手はなごり惜しそうに僕の方へ伸び、僕の片手の上に乗っていた。窓の方を見ると、ホテルのカーテンを取り囲むように光が室内に入り込み、朝の到来を告げていた。僕は彼女の手の感触と自分の呼吸を感じながら、自分は幸運だと思い、感謝の念がこみ上げてきた。窓の下の通りから壁をのぼってくるように車の走る音が聞こえ、それに混じって、きれぎれに人々の会話も聞こえてきた。僕は彼女の首筋に目をやると、彼女の髪の毛を片手で後ろに流して、そこにキスをした。彼女の体がわずかに動いて、僕はちょっとびくっとした。

僕たちは二人とも一晩中、服を着たままだった。寄り添って寝ていたわけだけど、それはセックスのためではなく、安らぎを得るための行為だった。初めて誰かと一緒に寝るという行為に足を踏み入れたわけだけど、それは僕がこれまでずっと想像してきたよりも、たやすい一歩だった。

コンコンコン。

ドンドンドン。

ノックの音がした。3回ずつドアが叩かれている。

男の声がした。「ソフィア? ¿Estás lista?(支度はできたか?)」

彼女は片手で僕の手をつかむと、ぎゅっと握りしめてきた。

「Un minuto(ちょっと待って)、パパ!」と彼女が声を張り上げた。

僕はとっさにベッドの下に隠れた。怒り狂った父親がホテルの部屋に怒鳴り込んでくるという、ありがちな展開に一応備えたのだ。ベッドの下で目を見張ったのは、ベルヴェデーレ・ホテルの従業員の掃除機のかけ方だった。ベッドの下にもかかわらず隅々まで綺麗に掃除機がかけられていた。お陰で僕はネズミにもダニにも襲われずに済んだ。

さらにドアがノックされて、ソフィアが入口に向かった。

遅かった。気づいた時には僕の靴が意気揚々と床の上にたたずんでいるのが見えた。ベッドの下から、めいっぱい手を伸ばせば届くかもしれない。その時、ソフィアの父親がドシドシと室内に入ってきてしまった。―彼はかなり大柄な男で、ざっくり言うとスクールバスの形をしていた。―僕はなんとか手を伸ばして靴をつかもうとした。するとソフィアの素足に蹴られ、僕の手はベッドの下に戻された。彼女は素早い身のこなしで続けて僕の靴も蹴った。―その靴が、狙いすましたみたいに僕の顔面を直撃した。急激な痛みに条件反射で声が出てしまったのだが、ソフィアが機転を利かせて、もうすぐ支度できるから!と大声を出して僕の声をかき消した。

彼女が昨日と同じ服を着ていることに気づけば、父親は何か言ったかもしれないが、彼は何も言わずにベッドに近づいてきた。そして僕が体の位置をずらす間もなく、彼は全体重を預けるようにベッドの上に、つまり僕の上に座ってきた。彼のどっしりとしたお尻がマットレスをへこませ、僕の頬にぴったりくっついた。

「¿Dónde está Mamá?(ママはどこにいるの?)」とソフィアが聞いた。彼女は靴を履こうとかがみ込んだ際に、鋭い目つきで僕をにらんだ。そこでじっとしてろという目だ。まるで僕が出ようと思えば今すぐ出られるとでも思っているみたいな目だ。僕はただ床にはりつけられていた。自分の靴に襲われて、おでこからは血が流れていた。

「En ell vestíbulo, esperando.(ママはロビーで待ってるよ)」

「¿Por qué no vas a esperar con ell a? Bajo en un segundo.(じゃあパパも先に下に行って、ちょっと待っててくれる?)」

二人がどういうやり取りをしているのかわからなかった。この状態で僕にできるのは、ただ祈ることだけだった。すると僕の顔の上の重みがどいてくれた。ソフィアの父親が立ち上がったのだ。彼の体重がベッドから床に移動して、突然ベッドの下の空間が、ダウンタウン辺りにあるアパートメントのロフトみたいなサイズ感になり、僕は動けるという理由だけで転げ回りたくなった。

父親が行ってしまうと、ソフィアもベッドの下に潜り込んできて、僕の横に寝そべった。

「楽しいモーニングコールだったよね、そう思わない?」と彼女が聞いた。それから彼女は僕の前髪を押しのけると、おでこをじっと見てきた。「あらやだ、怪我してるじゃない。どうしてこんなことになっちゃったの?」

「おでこをぶつけたんだよ」と僕は答えた。「職務上やむを得ない災害だったんだ、元カノとひと晩過ごすっていう職務だけどね」

「その職務って見返り大きいの?」

「そりゃ大きいよ」僕は彼女にキスしようとして、―またおでこをぶつけた。

「さあ出ましょう」とソフィアは言って、体を横にずらして僕から離れていった。「あなたはどこか安全な場所から外に出ないとね」

僕も彼女のあとに続いてベッドの下から這(は)い出た。それから洗面所に行って顔を洗い、身なりを整えた。その間、彼女は隣の部屋で着替えていた。僕は彼女の着替えている姿を鏡越しにこっそり見ていた。

「あなたから私が見えるってことは、私もあなたが見えるってことよ」と、ソフィアに指摘された。

「それが何か問題でも?」と僕は聞いた。

「そうね」彼女は着ていたシャツを頭の上に引っ張り上げながら言った。「問題ないわ」

僕は彼女の父親が下で彼女を待っていることを一瞬忘れかけた。彼女を抱きしめている時間はない。いくら彼女の姿にそそられ、抱きつきたい衝動に駆られていても、そんなことをしている場合ではなかった。

新しいシャツに着替えたソフィアが僕の方へ歩いて来て、洗面所の鏡を見ながら、彼女の顔を僕の顔の横に並べた。

「おはよう」と彼女は言った。

「おはよう」と僕も言った。

「前に私たちが付き合っていた時は、こんなに楽しいことなんてなかったよね?」と彼女が聞いた。

「そうだね」と僕は返した。「こんなに楽しいことなんてなかった」

彼女はまた自分の国に帰ってしまう。僕たちが遠距離恋愛なんてできるとは思えない。それに前に付き合っていた時、今みたいに振る舞えたとも思えない。だから過去を振り返って後悔しても仕方ない。そしてホテルの部屋で生じた関係は、ホテルから一歩出たとたんに終わるのが常なのだろう。何かが始まると同時に終わるということは、それは現在にしか存在していないことを意味するのだろう、と僕はなんとなく気づいてしまった。

それでもなお、僕はそれ以上の関係を望んだのだ。

「これからの計画を一緒に立てよう」と、僕は思い切って言った。

するとソフィアはほほえんで、「いいえ、成り行きに任せましょう」と言った。


外に出ると雪が降っていた。空気が静かな驚きに満ちていて、すべての通行人がその驚きを共有していた。僕は母親のアパートメントに向かって歩きながら、ゾクゾクするような幸福感や、自分でもよくわからない入り乱れた感情を抱いていた。―ソフィアとの関係を成り行きになんて任せたくはなかったけれど、でも同時に、彼女との関係から一歩ずつ離れて行く今のこの歩みを楽しんでもいた。母親の部屋に着くと、僕は鼻歌を歌いながら洗面所に行き、靴にやられたおでこの傷を確認してから、キッチンへ向かった。冷蔵庫を開けると、食べたかったヨーグルトを切らしていた。すぐに僕は暖かい服を着込み、縞(しま)模様のニット帽をかぶり、縞模様のマフラーを巻いて、縞模様の手袋をはめた。―雪が降るとできるこういう格好は、なんだか幼稚園児に戻ったみたいでワクワクする。しかも誰も変な格好だと思わないから気兼ねない。―僕は大学の敷地をぶらぶら歩き、ワシントン・スクエア公園を抜け、スーパーマーケット〈モートン・ウィリアムズ〉へ向かった。

行きは気分良かったのだが、スーパーからの帰り道、悪ガキたちにからまれた。僕が何か彼らを刺激するようなことをしたとは思えなかった。実際彼らを挑発するようなことは何一つしていないはずなんだけど、―彼らは気の向くままに悪さをしでかすし、そのターゲットも同様に気分次第で決めるのだ。

「敵だ!」と彼らの一人が叫び、次の瞬間には雪玉がいくつも飛んできて、僕はヨーグルトの入った袋をかばう間もなく、その攻撃をくらった。

犬やライオンのように、子供というのは危険に対して敏感なのだ。少しでも恐怖を感じたり、ちょっとでもむかついたりすると、標的に襲いかかってきて、息の根を止めるまで手をゆるめない。雪玉が僕の上半身や足や、手に持っていた買い物袋にどんどん投げつけられた。彼らは全員見知らぬ子供たちだった。―人数は9人か10人で、年齢は9歳か10歳くらいに見えた。「やっつけろ!」と彼らが叫んだ。「あそこのあいつだ!」と大声を上げている。僕は逃げも隠れもしなかったけれど、「逃がすな!」と叫んでいる。

望むところだと僕は思い、自分も雪玉を作ろうと前かがみになった。すると僕のお尻が彼らのかっこうの的となり、雪玉をお尻に浴びせられてしまった。

食料品が入ったビニール袋を片手で持ちながら雪玉を投げるのは至難の業だった。最初の何投かは誰にも命中することなく地面に落ちた。それを見て、9人か10人の、9歳か10歳くらいの悪ガキたちが僕を馬鹿にするように笑った。僕が1人に狙いを定めようとしたところ、4人に前後左右から取り囲まれて、再び雪玉の集中砲火を浴びた。「災難を求めて巡航する」という古代から伝わる言い回しがあるけれど、僕はまさにそんな状態だった。そうこうしている間に、年長らしい傲慢な態度の少年が一人でどこかに歩き去っていった。すると入れ替わるように別の攻撃的な、みんなより少し年上の少年がやって来て、鞄を落とすように置くと、リーダーっぽい少年のお尻を蹴った。僕はその様子を見ながらも、雪合戦を続けていた。まるでブーマーと一緒に校庭で雪を投げ合って遊んでいるみたいに笑いながら、僕は雪玉を投げ返していた。全部冬のせいにして、無我夢中で雪の球体を投げ続けた。ソフィアが横で見ていて、僕の応援をしてくれている、そんな妄想をしながら...

僕の投げた雪玉が、一人の少年の目に当たってしまった。

べつに目を狙ったわけではなかった。僕は彼をめがけて雪玉を投げただけなんだけど、―バシッ!と命中してしまい、彼が倒れた。他の子供たちは手に持っていた雪玉をとりあえずこちらに投げてから、彼に駆け寄って何が起こったのかを確かめた。

僕も彼に歩み寄って、顔を覗き込んで安否を確認した。脳震とうは起こしていないように見えた。目つきもしっかりしている。しかし周りの〈9か10の悪ガキたち〉の顔に復讐の色が広がっていった。それは可愛げのある表情ではなかった。中には携帯電話を取り出して写真を撮ったり、電話で母親に話している子供もいた。何人かは雪玉作りを再開していて、今度はわざわざ雪と砂利を一緒くたにして雪玉を作っている。

僕は駆け出した。5番街を走り抜け、8丁目通り沿いを走り、ベーカリーカフェ〈オー・ボン・パン〉に逃げ込んだ。中から様子をうかがっていると、小学生のギャングたちが店の前を通り過ぎていった。

母親の住む建物にたどり着くと、門番が僕に小包を渡してきた。僕は彼にお礼を言った。けれど彼の目の前で小包を開けるのはやめて、部屋に持ち帰った。というのも、この門番は住人に届いた雑誌の、10冊中1冊をかすめ取る、いわば「10分の1泥棒」として有名なのだ。だから、何か良い物が入っているかもしれない中身を彼には見せたくなかった。

ようやく部屋の中まで戻ったところで、携帯電話が鳴った。ブーマーからだった。

「やあ」と電話の向こうで彼は言った。「今日ってボクたち何か予定あったっけ?」

「ないと思うけど」

「じゃあ、予定立てようよ!」

「いいよ。何かしたいことある?」

「キミはちょっとした有名人になってるよ!今リンクを送るから見て!」

僕はブーツを脱いで、手袋を取って、マフラーを外して、帽子を横に置くと、僕のノートパソコンの前に直行した。そしてブーマーからのEメールを開いた。

「〈ワシントン・スクエアのママたち〉?」と、僕は再び携帯電話を耳に当てて聞いた。

「そう、それをクリックして!」

そのサイトは「ママさんブログ」のようで、トップページに大きな見出しが躍っていた:


深紅色レベルの非常事態発生!

公園に襲撃者現る

12月28日、午前11時28分投稿

by エリザベスベネット通信


深紅色レベルの非常事態宣言を発動します。若い男―10代後半から20代前半―が10分ほど前、一人の子供を襲撃しました。これらの写真をじっくり見てください。もしこの人物を見かけたら、すぐに警察に通報してください。この人物は(手に持っている袋から)モートン・ウィリアムズを利用していると思われます。最後の目撃情報は8丁目通りです。この人物は何の躊躇もなくあなたのお子さんに危害を加えます。警戒してください!!!


〈マクラーレンのベビーカー押し〉さんのコメント:

この種の人たちは射殺すべきよ。


〈ザックエフロン〉さんのコメント:

変質者


〈アルマーニを着るキリスト〉さんのコメント:

警戒レベルの色分けなんだけど、深紅色レベルと赤紫色レベルの違いを教えてくれない? 前からどう違うのか疑問だったのよ!


その投稿には写真も掲載されていて、どこからどう見ても僕の帽子とマフラーを身につけている人物が写っていた。

「なんでこれが僕だってわかったんだ?」と、僕はブーマーに聞いた。

「着てる服と、ヨーグルトの銘柄、あと、からっきしダメな雪投げの腕前を掛け合わせるとキミしかいないよ。―やっと最後に、あのガキンチョに命中したけどね」

「それで、なんで〈ワシントン・スクエアのママたち〉なんていうサイトなんか見てるんだ?」

「ママたちが悪口を言い合ってるのが面白くてね」とブーマーは言った。「前からブックマークしてたんだよ」

「じゃあ、深紅色の非常事態宣言を投稿した人を突き止めよう。今から来れる?」

「いいよ。なんか面白そうで、ちょっとワクワクする!」

僕は電話を切るとすぐに、小包(茶色の包装紙にくるまれ、ひもが巻かれていた)を開けた。中には赤いノートが入っていた。赤いモレスキンが僕の元に戻ってきたのだ。

ブーマーがここにやって来るのにそれほど時間はかからないことはわかっていた。それで僕は大急ぎでノートに取り掛かった。


私たちのノートをあなたに返せなくてごめんなさい。

 その記述を見て、なんだかずいぶん前のことのように感じた。


あなたはもう他人のような気がしないわ。

 逆に、他人のように感じる人ってどんな人?と彼女に聞きたかった。べつに意地悪とか当てつけで聞きたいんじゃなくて、僕はそこに何か違いがあるのか、その違いを本当の意味で知る方法はあるのかどうか知りたかったのだ。たとえば、他人だとは全く思っていない人に対しても、たまには他人のように感じてしまうこともあるんじゃないかな。


私が前から思っていた希望なんだけど、王子様がシンデレラを探し当てて、二人で豪華な馬車に乗り込んで走り去ったあと、何マイルか進んだところで彼女は彼の方を向いて、こう言うのよ。「この通りの先で私を降ろしてちょうだい、お願い。私はついにひどいいじめが続く生活から抜け出せたのよ。私は世界がどんなものなのか見てみたいの。わかってもらえる?

 たぶん王子はほっとしたんじゃないかな。彼は「誰と結婚するつもりなの?」って聞かれることにうんざりしていただろうからね。僕の予想だと、彼がしたいことっていうのは、自分の書庫に戻って、何百冊っていう本を読みふけることだろうから、やっとそれが可能になったわけだ。今まではみんながそれを邪魔し続けていただけなんだよ、「一人きりになろうなんて都合のいいこと考えてるんじゃないでしょうね」とか言われてね。


私もシンデレラみたいにあなたと踊りたかったのかもしれない。大胆なことを言わせてもらえばね。

 僕は思うんだけど:

 このやりとり自体がダンスじゃないかな? いろんな要素がダンスっぽくない? 僕たちは言葉を使って、すでに一緒に踊ってるんじゃない? 僕たちが話したり、口論したり、計画を立てたり、あるいは成り行きに任せたり、それってみんな、どこかしら創作ダンスっぽいよね。ずっとステップを踏んでる感もあるし。そして創作してない部分は、―つまり大部分は自然発生的でもあるね。フロアーに立ってから、その場で振り付けを考えながら、踊り続けるんだよ、音楽が終わるまでずっとね。


私は危険を受け入れようとしている。

 僕は危険じゃないよ。物語が危険なだけなんだ。僕たちが頭で作り上げるフィクションがね、特にそれが期待に変わる時が危険なんだ。


私はそろそろノートの外側で人生を経験しなくちゃいけない頃かな。

 でもわからない?―それってもう僕たちがしていることなんだって。


本当にごめんなさい。

 謝る必要なんてないし、もうゲームはおしまいねなんて言う必要もない。君ががっかりすると僕も悲しくなるよ。


それからマーク・ストランドについて:

我々は自分の人生の物語を読んでいる

まるで物語の中に自分がいるかのように、

あたかも自分がその物語を書いたかのように。


マーク・ストランドには特に有名な詩が三つあるけど、そのうちの一つがこれ:

草原の中で

僕は草原の中に欠落を生む存在だ


そして僕は4枚目のポストカードを取り出して書いた:


ポストカード4:大晦日のタイムズ・スクエア

草原の中で、僕は草原の中に欠落を生む存在だ。群衆の中で、僕は群衆の中に欠落を生む存在だ。夢の中で、僕は夢の中に欠落を生む存在だ。けれど僕はそんな欠落を生む存在として生きたくはない。そういうものが一切損なわれない状態のまま、僕は移ろいゆきたい。時々僕は肯定感に酔いしれるから。時々僕は言葉と存在の〈もつれ〉に驚愕するから。そして僕はその〈もつれ〉の一部でありたいと思う。「もうゲームはおしまいね」と君は言う。そこには、つっこみどころが二つあって、僕はどちらに異議を唱えたいのかわからない。―「もうおしまい」と君が言ったという事実に対してなのか、あるいは、「これはゲームだ」と君が言ったという事実に対してなのか、わからなくなる。僕たち二人の一方がノートを永久に抱え込んでしまえば、それはおしまいということだろうし、もしこのノートに意味が欠落しているのなら、これはゲームにすぎないのだろう。でも僕たちはもうすでに、ゲームなんて呼べないところまで来てしまった。


ポストカードは残り2枚になった。


ポストカード5:夜明けのエンパイア・ステート・ビルディング

僕たちは自分の人生の物語そのものだ。そして赤いノートは僕たちが物語を語るためにある。自分の人生の物語を、ありのままの真実を、あるいは可能な限り真実に近づけて語るためのものなんだ。僕はそんなノートをおしまいにしたくないし、君との関係も終わらせたくはない。だって、あんな浅はかな出会い方をして、ここまで親しくなったんだから。ささいな出来事にはけりをつけて、次の段階に進もう。でも今はまだ直接会わない方がいいと思う。会わないっていう自由もあるはずだから。代わりに言葉の逢瀬は続けよう。(次のポストカードを見て。)


最後のポストカードに〈次にノートを置いてほしい場所〉を書こうとした時、玄関のベルが鳴った。―ブーマーだ。僕は大慌てでいくつかの指示を書きなぐった。

「中にいる?」とブーマーが叫んだ。

「いないよ!」と僕は叫び返した。ノートのそれぞれのページにポストカードを1枚ずつセロハンテープで貼っていった。

「ほんとに?―中にいないの?」と、ブーマーがもう一度ノックしながら言った。

彼を電話で呼び寄せた時にはまだそのつもりはなかったのだが、今はブーマーに別の用事を頼もうと思っていた。リリーが作った雪だるまを見てみたいという気持ちも負けないくらいあったけれど、でも僕がまた彼女の大叔母さんと話し始めたら、あの家に再び足を踏み入れたら、僕はなんだかんだで結局長居することになるだろうし、それに直接会いに行くのでは、ノートの必要性がなくなってしまう。

「ブーマー、親友としてお願いがあるんだけど」と僕は言った。「僕のアポロになってくれないか?」

「でも、アポロ・シアターって黒人しか歌えないんじゃなかったっけ?」というのがブーマーの返答だった。

「宇宙船のアポロだよ。伝言係というか、使者になって、僕の代わりに行ってもらいたいところがあるんだ」

「べつに伝言係は嫌じゃないよ。リリーに関係すること?」

「そう、そのとおり」

ブーマーがほほえんだ。「やった。ボクは彼女が好き」

昨夜のティボーとの後味の悪いいざこざの後では、こんなに気持ちのいい笑顔を浮かべる男友達がいることに心が洗われる気分だった。

「なんていうか、ブーマー」

「何? ダッシュ」

「君のお陰で僕はまた人間を信頼できるようになったよ。最近思ってることがあって、人間は信頼できるって思わせてくれる人たちが周りにいること、それが何よりも、最高なんだって」

「ボクのこと?」

「そうだよ。それからソフィアや、ヨーニーや、ダヴや、そしてリリーもね」

「リリーも!」

「そう、リリーも」

僕は自分の人生の物語を書こうとしていた。大事なのは物語の筋書きじゃない。もっとずっと大事なのは登場人物の人間性なんだ。



16

(リリー)

12月29日


男っていう種属は全くわけがわからない。

ダッシュっていう子は彼のために作った雪だるまを一向に見に来ようとしない。だったら、もし誰かが私のために雪だるまを作ってくれたら見に行くけどな。は女性だからね。論理的なのよ。

ミセス・バジルが電話してきて、雪だるまが溶けちゃったって教えてくれた。何やってんのよ、ダッシュ。意味がわからないわ。女の子があなたのためだけに雪だるまを作ったっていうのに。〈レープクーヘン・スパイス・クッキー〉を雪だるまの目と鼻と口の形にしてまで作ったっていうのに。あなたは見逃した雪だるまがどんなに素敵なものだったのかさえ知らないのよ。でもミセス・バジルは、雪だるまは溶けるものなんだからそんなことを気にしても仕方ないって言った。「雪だるまが溶けちゃったら、また作ればいいのよ」だって。さすがレディーだわ。論理的。

支離滅裂なラングストンはインフルエンザから回復するとすぐに、ベニーと別れた。それには理由があって、ベニーが2週間プエルトリコにいるおばあちゃんに会いに行っちゃったから、だって。ラングストンとベニーの関係はまだ始まったばかりで、2週間の空白に耐えられるほどの固い絆はできあがっていない、というわけで話し合った結果、一旦完全に別れるということでお互いに納得したみたい。それでまたベニーが戻ってきたら、もう一度付き合おう、という約束を交わしたそうだけど、でも、もしどちらかが2週間の猶予期間に誰か素敵な人と出会ってしまったら、その人を追い求めてもお互いに口出ししないんだって。まったく私にはなにがなんだか意味不明。それって一見論理的に見えるけど、どうなのかしらね?―彼らってお互いに相応しい相手なのかしら? この件を見てもわかるように、男って馬鹿で、それでいて芝居がかってるのよね。

最もおかしな男といえば、おじいちゃんね。彼はクリスマスにフロリダまで行って、メイベルに結婚を申し込んで、断られちゃったわけ。それで、もう関係は終わったと思い込んで、ぷいっとニューヨークまでひたすら車を走らせてクリスマス当日に帰ってきたんだけど、そしたら、それからまだ4日しか経っていない12月29日、すっかり気持ちが変わったとか言って、またフロリダへ車を走らせて行っちゃった。

「メイベルとはなんとか仲直りできそうなんだ」と、おじいちゃんは朝食の席で私とラングストンに打ち明けた。「このあと数時間後にはここを発つ」まあ、おじいちゃんがメイベルとこれからも末永く内縁関係を続けていきたいというのなら、もちろん私はそういう関係を好ましく思ってないけれど、でもそれで年老いた男が幸せになるのなら、私もそういう関係に慣れていかないといけないかな。それに現実的な利点もあって、おじいちゃんが私たちの住む街から出て行ってくれれば、私は四六時中どこに行くのか聞かれなくて済む。特に今は私の周りの世界が色づき始め、〈リリーの詩〉にしたいことで溢れているから。

「どうやって仲直りするつもり?」とラングストンが聞いた。彼の顔はまだ青白く、声もかすれ、鼻もすすっていたけれど、スクランブル・エッグを二皿食べていたし、積み重なったトーストもジャムをつけてガツガツ食べていたから、具合は良くなったみたい。

「結婚しなければいかん、という風潮について、わしがどう考えるかってことだな」とおじいちゃんは言った。「その考えは時代遅れだな。メイベルとわしはお互いに専属の相手になろうって提案するつもりだ。指輪もなし、結婚式もなし、ただの...パートナーだな。わしは彼女の唯一のボーイフレンドってわけだ」

「ボーイフレンドっていえば、最近ボーイフレンドができた人がいるんだけど、おじいちゃん誰だと思う?」とラングストンが意地悪く聞いた。「リリーだよ!」

「できてない!」と私は言った、けど静かに言ったのよ、〈金切り声のリリー〉の口調ではなくね。

おじいちゃんが私の方を向いた。「お前はあと20年デートしてはいかん、リリーベア。だいいちお前の母親だって、わしはいまだにデートを許した覚えはないぞ。あいつはわしの目を盗んで、こそこそしてたみたいだがな」

ママの話題が出たことで、なんだかママに会いたくなった。痛切な気持ちだった。私はこの1週間もの凄く忙しくて、ノートのことや他にもいろんな災難に遭って、両親がいなくて寂しい気持ちを忘れていた。でも急に、今すぐ彼らに帰ってきてほしいと思った。帰ってきたら、どうしてフィジーに引っ越すことがそんなに良い考えなのか聞きたかったし、彼らの残念に日焼けした顔も見たかったし、いろんな話をして、一緒に笑って、両親とのんびり過ごしたかった。それに、もうそろそろいい加減クリスマス・プレゼントを開けたかった。

きっと彼らも、もうそろそろ私に会いたくなってる頃だろうな。きっと私に会いたくて会いたくて、寂しい想いをしてるんだろうな。でもそれは、私をクリスマスに置いてけぼりにした報いね。そして、私を世界の最果ての片隅にどうにかして連れて行こうなんてたくらむから、そんな想いをするのよ。私は満ち足りた気分でこの街に住んでるんだから。マンハッタン島という世界の中心地に相応しい、この街にね。

(でもひょっとしたら、新しい場所に住んでみるのも面白いかも。)

私の中ではっきりしていることがあって:この状況で子犬を要求することだけはゆずれない。親としての罪悪感も十分感じてるだろうし、私はこんなにも子犬を飼いたがってるって示せば、きっと飼える。そして私は単なる散歩屋から犬の所有者になって、人間としても成長するのよ。今度こそ、ペットの所有者としてうまく立ち振る舞ってみせるわ。

 メリークリスマス、リリー。

実際問題として、ウサギで妥協なんてありえない。


いとこのマークからメールを受け取った時、私はフィジーにある犬の保護施設のサイトを検索して、譲り受けるわんこちゃんを探そうとしていた。

 リリーベア:俺の同僚のマルクがさ、ニューヨーク北部の郊外の実家に帰らないといけなくなったんだ。彼の母親がエッグノッグの飲み過ぎで倒れたとかでね。それで犬の散歩屋の君に相談なんだけど、今って新規のお客はとってる? ボリスっていう彼の犬の世話をお願いしたいんだ。1日に2度、エサをあげて散歩に行ってほしいんだよ。ほんの1日か2日なんだけど。


いいわよ、と私は返信した。たしかに私は心のどこかで、マークのメールにダッシュの目撃情報とかが書かれていることを期待していた。でも、新しい犬を散歩させるのも十分気晴らしになるわね。


 本屋に寄れる? 彼の鍵を取りに来てほしいんだ。

 すぐ行くわ。


ストランド書店はいつも通りで、忙しなく動き回る人と立ち読みしている人が混在していた。私が店に着いた時にはマークは受付にいなかった。それで私は少し店内を見て回ることにした。まず最初に動物関連のコーナーに行った。でも私はすでにそこの本はほとんど読み尽くしていた。まあ、そんなに何度も子犬の写真を繰り返し見ていたら、写真を見ながら可愛いって言ってるだけじゃ物足りなくなって、実際に飼いたくなるわね。それから店内をあてもなくぶらぶら歩いていたら、いつの間にか地下のフロアに来ていた。店内で最も深い洞窟の底に潜り込んでしまったようで、壁に掲げられたプレートには、「セックスと性関連の本は左の棚から」と書いてある。その表示を見て、『ゲイのセックスの喜び(第三版)』のことを思い出した。そしたら恥ずかしくなって、顔が赤くなるのを感じ、それを断ち切るように、J.D.サリンジャーのことを思い浮かべた。私は階段を駆け上がり地上階に戻ると、小説のコーナーへ向かった。そこにいた男の子を見て、私は目を丸くしてしまった。彼は『フラニーとゾーイー』『大工よ、屋根の梁を高く上げよ シーモア-序章-』の間に、なじみのある赤いノートを差し込んでいたのだ。

「ブーマー?」と私は聞いた。

彼は驚いた表情を浮かべ、なんだか万引きでも見つかったかのような気まずい顔をした。ブーマーは差し込んだばかりの赤いノートを無造作に棚から引っ張り出した。その反動で『ナイン・ストーリーズ』のハードカバー版が何冊か床に音を立てて転がり落ちた。ブーマーは赤いノートを、まるで聖書でも守るように両腕でしっかりと胸に抱えた。

「リリー!ここでキミに会えるなんて思わなかった。つまり、なんていうか、キミに会いたかったけど、でも会えなくて、会えないことに慣れてきたと思ったら、こうしてキミが現れて、会えるなんて思ってなかったから、―」

私は両手を広げて差し出した。「そのノートって私宛てだよね?」と私は聞いた。私はブーマーからノートをひったくって、今すぐにでもそれを読みたかったけれど、なるべく冷静に、と心掛けながら話した。ああ、そうだわ、今思い出した、そんなものもあったわね。まあ、気が向いたら読みましょうかね、いつになるかわからないけど。私今すごーく忙しいから、ダッシュのことなんて考えてる暇ないし、ノートとかそんなものに構ってられないのよ。

「そっか!」とブーマーは言ったきり、一向にノートを渡す素振りを見せない。

「それもらってもいい?」と私は聞いた。

「だめ!」

「どうしてだめなの?」

「だって!キミは本棚に挟まってるノートを見つけなくちゃいけないんだ!ボクがここにいない時に!」

このノートのやりとりにそんなルールがあったなんて知らなかった。「じゃあ、こうしましょう。私は一旦ここから立ち去るから、あなたはその棚にもう一度ノートを差し込んでちょうだい。それであなたがここからいなくなったら、今度は私が戻ってきて、そのノートを見つけるから。それならいい?」

「オッケー!」


私は振り向いて、それを実行に移そうとした。するとブーマーが私の背中に呼びかけた。

「リリー!」

「はい?」

「〈マックスブレナー〉のこと言い忘れた!そこの道の向こうにあるでしょ!」

ブーマーはストランド書店から1ブロックばかり歩いたところにあるレストランの名前を口にした。『チャーリーとチョコレート工場』を彷彿とさせる店内で、メニューもチョコレートを中心に据えた奇抜で華やかなお店である。人気の観光スポットなのはわかるけど、良くも悪くも、マダム・タッソー館と大差ない感じがする。

「チョコレート・ピザを一緒に食べたいの?」と私はブーマーに聞いた。

「うん!」

「じゃあ、10分後にそこで会いましょう」と私は言いながら離れていった。

「ボクが見てない時を見計らってノートを取りに来てね!」とブーマーが言った。ダッシュみたいな一見すると根暗な人と、ブーマーみたいな熱しやすい極めて刺激的な人が親友だというのが、私には謎であり、同時に興味深かった。ダッシュがブーマーの人柄の独特な価値をわかっている証拠かもしれないな、とも思った。

「見てない時ね」と私は叫び返した。


私はいとこのマークも誘って、〈マックスブレナー〉に行った。もう成人しているマークを連れて行けば、お勘定は彼が払ってくれるだろうと思ったから。もっと言えば、後日彼がおじいちゃんにレシートを見せて代金を請求するだろうことも計算済み。

ブーマーと私はチョコレート・ピザを注文した。―温かくて薄いピザの形をしたスイーツで、「ソース」として、とろとろに溶かしたチョコレートに包まれている。その上に溶かしたマシュマロと、ヘーゼルナッツのキャンディーチップがふりかかっていて、それが普通のピザみたいに三角形に切り分けてある。マークは〈チョコレート注射器〉を注文した。それは名前から受ける印象通りのスイーツで、―プラスチックの注射器にチョコレートが詰まっていて、口の中に直接注入して食べることもできる。

「ボクたちのピザを分けてあげたのに!」と、ブーマーが〈チョコレート注射器〉を注文したマークに言った。「みんなで一つのスイーツを分かち合ったほうが、一緒に糖分を摂取したなっていう楽しい思い出になるのに」

「ありがとう。でも今炭水化物を控えてるんだ」とマークは言った。「俺は一人でチョコレートを口に撃ち込んでるよ。ピザ生地は要らない。これ以上腰回りに脂肪がつくのはごめんだね」ウエイトレスが行ってしまうと、マークはブーマーの方に向き直って、真剣な表情で言った。「さて、俺たちに全部話してもらおうか、お前のいかれた友達のダッシュについて」

「ダッシュはいかれてないよ!凄くまともだよ、ほんとに!」

「何か悪さしたことない?」とマークが聞いた。

「ないよ!深紅色の非常事態を除けば」

「深紅色の何?」と、マークと私は同時に言った。

ブーマーは携帯電話を取り出すと、画面に〈ワシントン・スクエアのママたち〉というウェブサイトを表示させた。

マークと私はそこに投稿されていた「深紅色レベルの非常事態発生!」という記事をざっと読んでから、載っていた写真をじっくりと見た。

「彼はヨーグルトなんか食べるのか?」とマークが聞いた。「10代の男のくせに?」

「ダッシュは乳製品には目がないよ!」とブーマーは言った。「ヨーグルトも大好きだし、クリーム入りの食べ物なら何でも好き。特にチーズ入りスパニッシュオムレツなんて彼の大好物だよ」

マークは私の方を向いて、慰めるように言った。「リリー、君はかわいそうだけど、これでダッシュはまともじゃないってわかっただろ?」

「ダッシュは絶対まともだよ!」とブーマーが宣言した。「彼にはソフィアっていう凄く綺麗な彼女がいたし、たぶん今もまだソフィアへの気持ちがくすぶってるんじゃないかな。それに中1の時のことなんだけど、〈ボトル回しゲーム〉をやって、ボクの番になって、ボクがボトルを回したらダッシュを指しちゃったんだけど、でもダッシュはボクに絶対キスさせなかったよ」

「何の証明にもなってない」とマークがつぶやいた。

ソフィア? ソフィア?

私は「ちょっとトイレ」と言って席を立った。


今はまだ直接会わない方がいいと思う。会わないっていう自由もあるはずだから。


そして最後のポストカードを見たんだけど、ダッシュは私をからかっているとしか思えなかった。


ポストカード6:メトロポリタン美術館

そこで過去と出会った(met)。そしてMEET(会う)の過去形/mēt/ 1 a:何かの存在と出くわす:FIND(見つける)b:特定の時間、特定の場所に集合する。c:何かと遭遇する、誰かとばったり会う:JOIN(結び付く)d:目の前の何かを認識するに至る...


「あなた大丈夫? リリー?」と、トイレの隣の洗面台から声がした。ちょうどダッシュが書いた不可解なメッセージ(ほらね、って全く意味不明でしょ)を読み終えたところだった。

赤いノートを閉じて顔を上げると、鏡にアリス・ギャンブルが映っていた。同じ学校の女の子で、サッカークラブのチームメイトでもある。

「あら、アリス、こんにちは」と私は言った。「こんなところで何やってるの?」そう聞きながらも、どうせ彼女はすぐにぷいっと振り向いて、鏡の前に突っ立っている私を残したまま行ってしまうのだろうと思っていた。学校で私は彼女が属している「いけてるグループ」には入っていないから、彼女が私と立ち話するとは思えなかった。しかし今は休暇中でここは学校ではないからなのか、彼女は立ち去らなかった。

「私、そこの角を曲がったところに住んでるのよ」とアリスが言った。「私には二人の妹がいて、彼女たちは双子なんだけどね、彼女たちがこの店を凄く気に入ってるの。それで、おじいちゃんとおばあちゃんがこの街に来るとね、いつもみんなでここに来るのよ。仕方ないから私もついてきたの」

「男子って意味わかんないよね」と私は彼女に言ってみた。

「たしかに!」とアリスは言った。妹や祖父母の話より興味のある話題なのか、顔をほころばせている。彼女は赤いノートをちらっと見ると、目を輝かせて聞いてきた。「誰か気になる男子でもいるの?」

「もうわからなくなっちゃった!」私は本当にわからなかった。最後のポストカードに書かれたメッセージは「また会おう」という意味なのか、それとも「ノートを通してやりとりしよう」と言っているのか理解できなかったし、私は自分がどうしてこんなに気にしているのかもわからなくなっていた。特に私以外の女の子、ソフィアっていう子が彼の頭の中にいるのかどうかが気がかりだった。

「じゃあさ、明日コーヒーでも飲みながらゆっくり話そうよ。どういう状況なのか聞かせて、そして一緒に対策を考えよ、ね?」とアリスが提案した。

「そんなにおじいちゃんたちと一緒にいたくないの?」アリスが私とカフェで男子について長々と続くガールズトークをしたがっているのはなんだか不思議だったので、彼女は家にいたくない切実な問題を抱えているのだろうと思った。

アリスは言った。「うちのおじいちゃんたちはとってもいい人たちなんだけどね、うちのアパートメントって狭くてさ、休日にたくさん人が来ると息が詰まるのよ。それで外に出掛けたくなるの。でもよかったわ、こうして、あなたと仲良くなれて」

「それ本気で言ってる?」と私は聞いた。ひょっとしたら、今までも私にこういう誘いって来ていたのかもしれない。私が〈金切り声のリリー〉のマントをまとって、そういうのを寄せ付けないオーラを放っていて、ただ気づかなかっただけかも。

「本気よ、よろしくね!」とアリスは言った。

「こちらこそ、よろしくね!」と私も言った。

私たちは明日カフェで会う約束をしたのよ。

誰がダッシュなんか必要とするっていうの?

私にはもうダッシュなんて、要らない。


テーブルに戻ると、いとこのマークが大きなプラスチックの注射器から直接自分の口にチョコレートを注入しているところだった。「美味い!」と、彼は口の中でクチャクチャ音を立てながら叫んだ。

「でもこの店のチョコレートって、たぶんフェアトレードのカカオを使ってないよ!」と、ブーマーが講釈した。「外国で子供が安い賃金で働かせられてるんだよ」

「お前の意見なんか聞いたか?」とマークが言った。

「ボクは思ったこと言うよ!」とブーマーは言い返した。「キミに聞かれなくてもね!」

私にはブーマーに意見を聞きたいことがあった。「私が作った〈ひねくれ君人形〉のことなんだけど、あれダッシュは気に入った?」

「あんまりかな!なんかミス・ピギーが仲良しの動物とセックスして生まれた子供みたいだって言ってた」

「おい!俺のまぶたの」とマークが言った。けれど間違って目にチョコレートを撃ち込んだわけではなかった。「まぶたの裏で思い浮かべるだけで気持ち悪いよ。10代の考えることじゃないだろ、そんな変態みたいなこと」マークはチョコレートの注射器をテーブルに置いた。「お前の発言で食欲が失せたよ、ブーマー」

「ママも同じこといっつも言うよ!」とブーマーは言って、私の方を向いた。「キミの親戚もボクの家族と同じなんだね!」

「それはどうかな」とマークが言った。

かわいそうな私の〈ひねくれ君〉。私はフェルトでできた小さな恋人を取り戻そうと心に誓った。ダッシュがしてくれなかったのなら、私が〈ひねくれ君〉に居心地の良いおうちを用意してあげるわ。

「そのダッシュってやつ」とマークは続けた。「悪いけど、リリー、俺はあいつが好きじゃない」

「彼のこと知ってるの?」とブーマーが聞いた。

「知ってるよ、好き嫌いを判断するには十分なくらいね」とマークは答えた。

「ダッシュはいいやつだよ、ほんとに」とブーマーが語り出した。「ダッシュのママは彼のことを凝り性だって言うけど、まあそういう面もあることはあるけど、でもほんとに、彼はいい人だよ。いい例がある!彼の両親は離婚しちゃったんだ。絶交して、もうお互いに口も利かない関係になってさ。考えてみて、それって普通のことじゃないよね? たぶん彼は話しちゃだめって言うと思うけど、彼は子供の時、両親の親権争いに巻き込まれて大変だったんだ。父親が母親に嫌がらせをするためだけに独占的な親権を主張してさ、ダッシュは何度も弁護士とか裁判官とか社会福祉士とかと話をするために、あちこちに行かなくちゃならなかったんだ。それってだよね。もしそんなごたごたに巻き込まれたら、普通あんなにいい人間にはなれない。でも彼は必死で友好的な性格になろうとした。それって凄くかっこいいことだよね? ダッシュはなんでも自分で解決するのが当たり前っていう少年になって、ずっと一人でやってきたんだよ!彼は友達に対して忠誠心があるんだ。彼くらい忠誠心のある友達は普通持てない。彼の信頼を得るのは結構大変だけど、でも一旦彼の信頼を勝ち取ったら、彼は友達のために何でもしてくれる。どんなことでも彼に頼ることができる。時々彼は一匹狼っぽく振る舞うこともあるけど、でもそれは彼が虎視眈々と獲物を狙っている悪党ってわけじゃなくて、彼は一人の世界にこもって自分と対話するのが好きなんだ。そういう居心地の良い時間が彼には必要なんだよ。それって何も悪いことじゃないと思うけどね」

私はさっきまで〈ひねくれ君〉のことで頭にきていたというのに、ダッシュをかばうブーマーの熱のこもった弁護を聞いていたら、ほろっと心を動かされてしまった。でもマークは肩をすくめて、「ちぇっ」と言った。

私はマークに聞いた。「あなたが彼を嫌ってるのって、最初からいけ好かないやつだって決めつけてるか、あるいはおじいちゃんと同じで、あなたも私に新しい友達を作ってほしくないのよ、男の子の友達を、そうでしょ?」

「ボクもリリーの新しい友達だよ、男子だし」とブーマーが冷静に言った。「でもマークはボクのこと好きだよね?」

「ちぇっ」とマークはもう一度言った。答えは明らかだった。つまり、ダッシュにしろブーマーにしろ基準は同じで、マークは私が興味を持ちそうな人は嫌いで、私が好きにならなそうな人ならべつに構わないのだ。


頻繫に散歩が必要な〈ボリス〉という犬は、頻繫に全力疾走せずにはいられない馬のポニーのように大きな犬だった。ボリスは頭の位置が私の腰よりも上に来る「ブルマスティフ」という大型犬の若いオスで、もの凄い力で文字通り私を引っ張りながら、ワシントン・スクエア公園を歩いていた。私はボリスに引っ張られながらも、なんとか公園に生えている木に私が作ったポスターを貼った。そのポスターの真ん中には「深紅色レベルの非常事態宣言」の写真を載せて、このようなメッセージも書いた:WANTED(お尋ね者)―この10代の少年は、変質者ではなく、不良少年でもなく、ただのヨーグルト好きの少年です。WANTED(探してください)―彼に会えばそれがわかります。

しかし、そのポスターを貼るまでもなかった。

それを貼ってから5分もしないうちに、ボリスが吠え出したからそちらを見たら、10代の少年が私に近づいてくるではないか。私はちょうど、今までに見た中で一番大きな犬の糞(ふん)をスコップで掬っているところだった。

「リリー?」

私は特大の糞をビニール袋に詰めてから顔を上げた。

もちろん、

その少年はダッシュだった。

こんなに絶妙なタイミングで私の前に現れる人が他にいるかしら? 初めて会った時は私が酔っぱらってるところだったし、今度は、今にも戦闘モードで飛びかかってきそうなポニーみたいな大型犬の糞を片付けてるところ。

まったく、

これだから私はボーイフレンドができないのよね。

「こんにちは」と私は言った。なるべくさりげなく、と声の出し方に気を遣ったつもりだったんだけど、実際に飛び出した私の声はうわずってかなり甲高く響き、〈金切り声のリリー〉っぽくなってしまった。

「ここで何やってるの?」とダッシュが聞いてきた。彼は私とボリスから1メートル近く距離を取っている。「なんでそんなにたくさん鍵を持ってるの?」彼は私のハンドバッグに留めてあった鍵用の大きなリングを指差した。そのリングに犬の散歩のお客さんから預かった鍵をかけてぶら下げてるってわけ。「集合住宅の管理人さんでもやってるの?」

代行で犬の散歩をしてるのよ!」と、私はボリスの吠える声に負けじと叫んだ。

なるほど!」と、ダッシュも叫び返した。「でも犬が君の散歩をしてるみたいだけど!」

ボリスが急に後ろに向かって走り出し、彼から遠ざかるように私を引っ張っていった。ダッシュは私たちに駆け寄ってきたものの、―すぐそばまでは近寄ってこなかった。この余興の一座には加わりたくないみたいだった。

「あなたはここで何やってるの?」と私はダッシュに聞いた。

「ヨーグルトを切らしちゃって」とダッシュは言った。「もっと買ってこようと思って」

「ついでにあなたの名誉も取り戻そうってわけ?」

「まいったな、君も深紅色の非常事態のこと知ってるんだ?」

「知らないわけないじゃない」と私は言った。

彼はさっき私が貼ったポスターをまだ見ていないようだった。あれが彼の目に触れる前に、なんとかはがせないものかしら?

私はボリスのリードをグイッと引っ張って進行方向を変えた。ワシントン・スクエアのアーチを離れ、公園の中をダウンタウン方向へ進もうと思った。不思議なことに進行方向を変えた瞬間に、進路に何か原因があるのか、ボリスはおとなしくなった。全速力で走り出そうとする荒々しい態度を一変させ、ゆるやかな足取りに切り替えてくれた。

こういう時、一般的な男子ならどういう行動をとるか私なりに考えてみた。そして、逃げるだろうなと思った。ダッシュに特化して考えてみても、どうせ彼は私とは逆方向に駆け出し、そのままいなくなってしまうのだろう、と。

予想に反して、彼は私のあとについてきた。「どこ行くの?」と彼が聞いてきた。

「知らないわよ」

「一緒に行ってもいい?」

それ本気?

私は言った。「べつに構わないけど、どこに行ったらいいと思う?」

「とりあえずぶらぶらして、成り行きに任せよう」とダッシュは言った。



17

-ダッシュ-

12月29日


かなり気まずい雰囲気だった。これから何かが起こりそうな予感と、どうせ何も起こらないだろうという気持ちの間で二人とも揺らいでいた。

「で、どっちに行ったらいいかな?」とリリーが聞いてきた。

「さあ、―君はどっちに行きたいの?」

「どっちでも」

「僕が決めていいの?」

大概の人がそうだと思うけど、彼女もしらふの方が格段に魅力的だった。今の彼女からは愛嬌が感じられた。―愛嬌といっても間の抜けた感じではなく、賢そうな愛嬌があった。

「〈ハイライン〉でも行こうか」と僕は言った。

「ボリスがいるからだめよ」

ああ、ボリスがいたんだ。ボリスは僕らの散歩に付き合いながら、しびれを切らしているようだった。

「犬の散歩をする時の決まったルートってあるの?」と僕は聞いてみた。

「あるけど、そのルートをたどる必要ないわ」

行き詰まり。完全に手詰まりの状態にはまり込んでしまった。彼女はちらっと僕の顔色をうかがった。僕もちらちらと彼女を見ていた。ちらちら、ちらちら、お互いに視線を投げ掛け合っていた。

ついに、決断を下した者がいた。

でもそれは僕でもリリーでもなかった。

突然、人間には聴こえないオーケストラがチャイコフスキーの序曲『1812年』を演奏し始めたのか、そしてそれを合図にワシントン・スクエア公園のリスたちが一斉に行進を始め、さらにリスたちが体に香水でも塗ってそれをボリスが嗅ぎ付けのか、挑発の発信元は不明だが、とにかく突然ボリスが弾丸のように駆け出したのだ。リリーはバランスを崩して、雪がシャーベット状に解けている路面に足を取られ、ひっくり返ってしまった。糞の入ったビニール袋が宙を飛び、リリーは転びながら、「くそったれ!」と、けたたましい声を上げた。―その汚い言葉を実際この耳で聞くのは初めてだったから、なんだか可笑しみがこみ上げてきた。

彼女は優雅さの欠片もなく転んだのだが、怪我はしなかった。糞の入った袋が上から降ってきて、あやうく彼女のこめかみに当たり跳ね上がるところを、彼女はすんでのところで身をひるがえしてかわした。その拍子に彼女はボリスのリードを手放さなければならず、とっさに僕がそのリードに手を伸ばし、つかんだ。それが運の尽きだった。僕は体ごと持っていかれる衝撃を感じ、ウォータースキーさながらに舗道を滑っていった。

「犬を止めて!」とリリーが叫んだ。まるでどこかにボタンが付いていて、僕がそれを押せば犬の電源が落ちて止まるみたいな言い方だった。ボタンを押す代わりに、僕は自分の体を重しにして突進する犬を止めようとしたが、無駄だった。

ボリスの視線の先を見ると、ターゲットがいた。それはママたちの一団で、ベビーカーを押す母親や子連れの母親がたむろしていた。ボリスはそこを目掛けて突っ走っていった。その一団の中でも最も無防備な少年にボリスが照準を絞ったのがわかり、僕はぞっとした。―その少年は片目に眼帯をしていて、オート麦の細長いパンをムシャムシャと食べていた。

「よせ、ボリス。やめろ!」と僕は叫んだ。

だがボリスは僕の体重も指図もお構いなしに我が道を進んだ。その少年は犬が迫ってくるのを見て、キャーと悲鳴を上げた。僕の耳を貫いたその悲鳴は、はっきり言って少年には似つかわしくない、彼の半分くらいの歳の女の子が出すような金切り声だった。彼の母親が彼を危険地帯から避難させようとしたが間に合わず、ボリスは猛スピードで彼にぶつかり、彼は跳ね飛ばされた。僕は無様に引きずられていた。

「ほんとごめん」と、僕はボリスを静止させようとリードを引っ張りながら言った。公衆の面前でアメリカンフットボールのラインバッカーと綱引きをしているような感覚だった。

「こいつだよ!」と、その少年がキンキン声で叫んだ。「こいつに目をやられたんだ!

「間違いない?」と母親と思しき女性が聞いた。

その少年は眼帯を取って僕を見てきたのだが、露わになったのは痛めているとは到底思えない、ぱっちりした目だった。

「こいつだよ。絶対」と彼は言った。

別の女性が近寄ってきた。手には「WANTED」と書かれ、僕の顔写真が載っているポスターらしき紙を持っている。

深紅色レベルの非常事態よ!」と、その女性が辺りにとどろかせるように叫んだ。「黄色レベルから格上げよ!

近くで赤ん坊をベビーカーから降ろそうとしていた別の母親が、一旦降ろすのをやめ、口に指をあてて口笛を吹き鳴らした。―短く4回、口笛の音が鳴り響いた。想像するに「深紅色レベルは4回」とママたちの間で決まっているのだろう。

しかし口笛を吹き鳴らしたのは賢明な判断ではなかった。ボリスがその音に反応し、そちらに振り向き、突撃したのだ。

その女性はすばやく横にジャンプしてよけたが、ベビーカーはそこに置かれたままだった。僕は自分の体を地面になげうって、全体重をかけた。が、ボリスは混乱したまま、ベビーカーに突っ込んでいって、中にいた赤ん坊が弾け飛んだ。スローモーションだった。赤ん坊が空中を飛んでいた。あどけない顔に不穏な表情が浮かび上がった。

目を閉じてしまいたかった。今さら手を伸ばしても赤ん坊には届かない。僕にできることは何もなかった。そこにいた全員が金縛りにあったかのように静止していた。ボリスさえも動きを止めて、赤ん坊の行方を見ていた。

視界の片隅に、動く者があった。一筋の叫び声も聞こえた。それから、とびっきり華麗な光景が繰り広げられた。リリーが空中を飛んでいた。髪をなびかせ、両手を伸ばし、なりふり構わず、ただ自分のすべきことに集中していた。助走をつけた跳躍。これこそまさに、正真正銘の跳躍だった。彼女の表情に動揺の色はない。やり遂げようという意志しかなかった。彼女は赤ん坊の下に体を滑り込ませ、その子をキャッチしたのだ。彼女の腕の中に吸い込まれた赤ん坊は、うめき声を上げて泣き出した。

「ああ、神様」と僕はつぶやいた。こんなに呆然と何かを見守ったのは初めての経験だった。

周りから割れんばかりの拍手喝采が沸き起こるのを待った。けれど、リリーが起き上がり、赤ん坊を抱えたまま数歩進んだところで、僕の後ろにいた母親が叫んだ。「赤ちゃん泥棒よ!彼女を捕まえて!」

ママたちも通りすがりの人たちも一斉に携帯電話を取り出した。輪になって、深紅色の非常事態をメールで拡散する人や、警察に電話する人の役割分担を話し合っているママたちもいた。一方、リリーに目を向けると、彼女はまだ自分の成し遂げた偉業の余韻に浸っていて、周りの騒ぎには気づいていないようだった。彼女は赤ん坊をしっかり抱え、トラウマになりそうな飛行を経験した赤ん坊を落ち着かせようと、あやしていた。

僕は地面から起き上がろうとしたのだが、突然背中にもの凄い重力が加わった。

「あなたは逃がさないわよ」と、一人の母親が僕の上にまたがって、お尻で僕を押さえつけながら言った。「これは市民による現行犯逮捕だからね」

さらに二人の母親と眼帯をした少年が乗っかってきた。僕はボリスのリードを手放しそうになったけれど、幸いにも、ボリスはもう今日は十分楽しんだのか、すでに興奮は収まっていて、今は誰にともなく何かを命令するように、ただ吠えていた。

「警察が来たぞ!」と誰かが叫んだ。

赤ん坊の母親がリリーに駆け寄ったが、リリーはその人が赤ん坊の母親だとは思っていないのか、「ちょっと待って」と言って、赤ん坊を泣き止ませようとあやし続けた。その母親はリリーにお礼を言っているように僕には思えたのだが、―次の瞬間には、何人かのママたちが飛びつくようにリリーを取り囲み、彼女の動きを封じ込めてしまった。

「ニュース番組の『デイトライン』で見たことあるわ」と、威勢のいいママたちの一人が言っていた。「相手の注意をそらしておいて、赤ちゃんを盗むのよ。白昼堂々とね!」

「そんなばかな!」と僕は叫んだ。眼帯少年が僕の尾てい骨の上で飛び跳ね出した。

二人の警官が到着した。警官はすぐにママたちに取り囲まれ、あることないこと、いろんな話を聞かされていた。真相は遥か彼方に追いやられてしまった。リリーは赤ん坊を引き渡しながら混乱しているように見えた。―彼女は正しいことをしなかったっけ? 警官が彼女に僕は知り合いなのかと聞いた。彼女はもちろん知ってると答えた。

「ほら、やっぱり!」と、ママたちの一人が得意そうに言った。「共犯者よ!」

地面は冷たく、解けた雪でぬかるんでいた。僕のどこも悪くない内臓のいくつかが、ママたちの重みに耐えきれず破裂しそうだった。この状態から抜け出すために、やってもいない罪を白状しそうだった。

僕たちは逮捕されるのか、されないのか、はっきりしなかった。

「とりあえず一緒に来て」と警官の一人が言った。嫌です、断りますと言うのは適切な答えだとは思えなかった。

手錠はかけられなかったけれど、パトカーまで連行され、僕たちはボリスと一緒に後部座席に押し込まれた。パトカーの中でやっと、(外ではママたちが復讐をけしかけ、その中心で、宙を舞った赤ん坊の母親が懸命にその子の無事を確かめていたから、)やっと僕は彼女と言葉を交わす機会を与えられた。

「ナイスキャッチ」と僕は彼女に言った。

「ありがとう」と彼女は言ったけれど、ショックを抱え込んだ表情で窓の外を見つめていた。

「華麗だった。本当に。今までに見た中で最も華麗なものの一つだったよ」

彼女が僕の顔をまじまじと見た。見つめ合うのは初めてのような気がした。息が止まったかのように僕たちはしばし見つめ合っていた。胸の鼓動が高鳴った。パトカーが公園から走り出しサイレンを鳴らしたが、胸の高鳴りはサイレンのせいではなかった。

「私たちがどこへ向かってるのかわかるよね」と彼女が言った。

「運命って奇妙な筋書きを考えるものだね」と僕は頷きながら言った。


リリーにはニューヨーク市の五つの区すべてに親戚がいたけれど、残念ながら警察関係者は一人もいなかった。

彼女は僕に聞こえる声で親戚の名前を一人ずつ挙げていって、この窮地から僕らを救い出してくれそうな人を割り出そうとした。

「マレイおじさんは捕まって起訴されちゃったから、私たちが必要としてる人とは真逆ね。大叔母さんのミセス・バジルは一時期ニューヨークの地区検察局の誰かと付き合ってたみたいだけど...でも、いい別れ方をしたとは思えないわ。私のいとこの中に一人、CIAに入った人がいるんだけど、具体的に誰なのかは言っちゃいけないことになってるのよ。言えないのってほんとイライラする!」

ありがたいことに、僕たちは独房に閉じ込められることはなく、取調室みたいな部屋に連れて行かれた。ただ、誰も僕らを取り調べようとはしなかった。もしかしたら鏡の向こうから僕らを観察していて、僕ら二人が何か自供めいた会話をするのを待っているのかもしれない。

窮地に陥っているにもかかわらず、リリーがこの状況を好意的に受け止めていることに僕は驚いた。彼女はちっちゃなことにこだわる臆病な小動物とはかけ離れた女の子だった。―逆に僕の方が身柄を拘束されたことで、ざわざわと胸騒ぎがして落ち着かなかった。僕らは二人とも身柄を引き取りに来てくれる両親が現在この街にいなかったのだが、その事実に対して警察官は誰一人として驚いていないようだった。結局リリーは彼女の兄に電話し、僕はブーマーに電話した。その時たまたまヨーニーとダヴもブーマーと一緒にいた。

「どのニュースにも出てるよ!」とブーマーが教えてくれた。「キミたちのことをヒーローだって言う人もいるし、犯罪者呼ばわりする人もいる。動画もネットに出回ってるし、6時のニュースでもキミたちのことが取り上げられるんじゃないかな」

僕は自分の目で事の成り行きを見たわけではなかったので、そんなことを言われても実感が湧かなかった。

リリーと僕は黙秘権があるとか弁護士を付けられるとか、そういうことを何も読み聞かせられてはいなかったから、たぶんまだ何かの罪で起訴されたわけではないのだろうと思っていた。

一方、ボリスはお腹を空かせていた。

「わかった、わかった」とリリーは、愚痴をこぼすようにうなっているボリスをなだめた。「あなたの飼い主が今インターネットを使える環境にいないといいんだけどね」

僕は何か気持ちが楽になるような話題はないものかとあれこれ考えた。もしかして君の名前って花の名前から取ったの? 犬の散歩の代行ってどのくらいやってるの? 警官の誰も僕たちに向かって警棒を振りかざさなかったから、ほっとしなかった?

「あなたって意外と無口なのね」と彼女は言った。僕たちは取調室のテーブルを挟んで向き合って座っていた。彼女は上着のポケットから赤いノートを取り出した。「ノートにだったら思ってること書ける? 書き終わったら見せて」

「ペン持ってる?」と僕は聞いた。

彼女は首を振った。「バッグの中だわ。バッグは警察官に取られちゃった」

「じゃあ、口頭で話すしかないね」と僕は言った。

「黙秘権を行使するっていう手もあるわ」

「こういうところに来たのって初めてだよね?」と僕は聞いた。

リリーは頷いた。「あなたも?」

「一度母親が父親を引き取りに行かなくちゃならなくて、家には僕の面倒をみる人が誰もいなかったから僕もついていったことがある。7歳か8歳だった。最初母親がちょっとした事故だって言ってたから、父親はどこかトイレがない場所でおしっこをもらしちゃったんだろうって僕は思ってた。あとで『風紀を乱す迷惑行為をした』って聞かされた。―起訴はされなかったから過去の新聞を見ても載ってないし、詳細はわからない」

「大変だったのね」とリリーは言った。

「まあね。でも当時はそういうことが当たり前に思えてた。両親はそのすぐ後に離婚しちゃったし」

ボリスが吠え出した。

「ボリスも離婚なんて嫌いだってさ」と僕は代弁した。

「ボリスのおやつもバッグの中なのよ」とリリーがため息をついた。

1分か2分くらい、彼女は目を閉じていた。ただそこに座って、一切合切を沖に流して頭を空っぽにして、存在を消そうとしているようだった。僕の存在も消えてしまっても構わないと思った。彼女が休息を必要としているのなら、僕はこころよくそれを彼女に差し出そう、と。

「ほら、ボリス」と僕は言って、野獣のような犬と仲良くなろうとした。ボリスはおずおずと僕を見ると、そっぽを向いて床を舐め始めた。

「私はあなたに会うのが不安だったんだと思う」と、リリーが長い沈黙を破って口を開いた。目はまだ閉じたままだった。

「僕も同じようなものだよ」僕は彼女を安心させようとした。「僕は自分が書いた言葉に見合うような生き方をしていないって気づいたんだ。もともと君は僕の言葉を通して僕のことを知ったからね、君をがっかりさせちゃうことが、すごーくたくさんある」

彼女は目を開いた。「そんなことないわ。初めて会った時だって―」

「―君は本当の君じゃなかったからね。君はあんな感じの子だって僕に思われたと思った?」

「思ったわ。でもあの時の私は我を忘れていて、たぶん誰か別の人間が私の体に乗り移っていて、なかなか彼女を追い出せなかった」

「あの時の彼女より今の君、つまり犬の散歩屋で、赤ちゃんキャッチャーで、正直者のリリーのほうが僕は好きだよ」と僕は言った。「あくまでも僕の価値判断によるとね」

そう言って、この表現は新たな疑問を呼び起こすことに気が付いた。いったい価値判断って何だろう?

「あの時のもう一人のリリーが私たちを刑務所行きにしたってことになるのかな」とリリーが指摘した。

「そういえば、君は危険を望んでたんだよね? そして実際こうして、ボリスが僕らを刑務所という危険地帯に連れてきた。あるいは僕らを刑務所に送り込んだのは赤いノートかもしれない。っていうか、赤いノートで誰かと出会おうなんて凄いアイデアだね」

「あれは兄が考えたのよ」とリリーはあっさり言った。「ごめんね」

「でも、ずっとノートを書いてたのは君だろ?」

リリーは頷いた。「それがどれだけ価値のあることなのかわからないけど」

僕は彼女の真横まで自分の椅子を引っ張っていって、取調室のテーブルに向かって二人並ぶ形で座り直した。

「それは間違いなく価値があるよ」と僕は言った。「大ありだよ。僕たちはお互いのことをまだよくわかってないからね、そうでしょ? 実を言うと、―僕たちはずっとノートをやり取りする関係でいたほうがいいって思ってたんだ。90歳になるまでずっとページを埋めていくわけだよ。でもそれって明らかに、最初のノートの趣旨と違ってきちゃうよね。あまのじゃくみたいなことを考えて、僕はいったい何がしたいんだろう?」

リリーが顔を赤らめて、一人二役を演じ始めた。「『それで君は最初のデートで何をしたのかな? リリー』『えーとね、警察署まで行って、プラスチックのカップで水を2杯飲んだわ』『なんてロマンチックなデートなんだ』『そうね、たしかにロマンチックだったわ』」

「『じゃあ、2回目のデートは何したの?』」と僕もあとに続いた。「『えっとね、銀行強盗でもしようかって話してたんだけど、結局普通の銀行はやめて、精子バンクを襲うことにしたんだ。でも待合室にいたママになる予定の人たちに絡まれちゃってさ、なんかガミガミ怒られちゃって、それで僕らは警察署に逆戻りだよ』『ワクワクしちゃう展開ね』『まあ、たしかにワクワクしたね。こういうことって続くからさ、僕がデートを思い出そうとする時は逮捕記録を調べればいいってわけ』」

「『彼女のどんなところに惹かれたの?』」と彼女が聞いた。

「『えっとね』」と、僕は架空の質問者に向かって答えた。「『まず挙げなければならないのは、彼女の赤ん坊のキャッチの仕方だね。あれは見事だったよ、本当に。で、君はどうなんだい? どうしてこの男は釣り上げる価値があるわって思ったのかな?』」

「『私はリードを絶対に手放さない男が大好きなの、たとえそれで破滅へと引きずり込まれてもね』」

「うまい!」と僕は言った。「お見事!」

僕はリリーを喜ばせようと思って褒めたんだけど、彼女はため息をついて、うなだれるように背中を椅子にもたせかけた。

「どうしたの?」と僕は聞いた。

「ソフィアのことは?」と彼女が言った。

「ソフィア?」

「そう、ブーマーが言ってた」

「ああ、ブーマー」

「彼女が好きなの?」

僕は首を振った。「好きも何も、彼女はスペインに住んでるんだ」

リリーは笑った。「あなたって噓をつかずに話をはぐらかすのがうまいのね」

「そういうわけじゃないよ」と僕は言った。「ソフィアは素晴らしい女の子だと思う。正直に言って、彼女と付き合ってた時と比べて今のほうが20倍くらい彼女が好きだよ。でも恋愛となると、未来につながっていかなくちゃだめ。そしてソフィアと僕には未来がない。僕たちは現在を一緒に楽しく過ごしたってだけ、それがすべて」

「本当に恋愛には未来がないとだめって思ってるの?」

「絶対なくちゃだめ」

「そうね」とリリーは言った。「賛成」

「だよね」と僕も椅子にもたれながら、彼女の調子に合わせて言った。「賛成」

「私が言ったこと真似しないでよ」と彼女は言いながら、僕の腕をピシャリと叩いた。

「私が言ったこと真似しないでよ」と僕は笑顔でつぶやいた。

「あなたってバカみたい」と彼女は言ったけれど、むしろ彼女のその言い方からバカさが溢れ出ていた。

君こそバカみたい」と僕は断定口調で言った。

「リリーは誰よりも素晴らしい女の子です」

僕は彼女に身を寄せた。「リリーは誰よりも素晴らしい女の子だよ

しばしの間、僕たちはどこにいるのか忘れていたんだと思う。

それから警察官が戻ってきて、僕たちは現状を思い出した。


「さて」と、黒人のホワイト巡査は言った。「君たちに喜ばしい知らせがある。昼過ぎの君たちの行動を映した動画がYouTubeにいくつも上がってるんだが、なんとすでに20万回も再生されてる。それから、君たちは360度ありとあらゆる角度から写真も撮られた。―あの広場に立ってるジョージ・ワシントンの彫像さえもポケットからiPhoneを取り出して、君たちの写真を撮って友人たちにメールで送ったとか、送ってないとかいう話だ」

「私たちがすべての映像を詳しく検証したところ」と、今度は白人女性のブラック巡査が言った。「一つの結論に達しました。あなたたちの中でやましいところがあったのは」

「わかってます、お巡りさん」と僕は話に割って入った。「全部僕が悪いんです。本当に、彼女は何も関係ありません」

「いいえ、違います」とリリーが異議を唱えた。「あのポスターを貼ったのは私なんです。冗談のつもりだったんです。でもママさんたちがあれを見て、ちょっと燃え上がっちゃったみたいで」

「真剣に言ってるんだ」と僕はリリーの方を向いて言った。「君は成り行き上、仕方なくそうしただけであって、お巡りさんが捕まえたいのは僕なんだよ」

「いいえ、ママさんたちが赤ちゃん泥棒だって思ってるのは私よ。でも信じて、私には赤ちゃんが欲しいなんて気持ちはないの」

「君たち二人には何ら非はない」とホワイト巡査が割り込んだ。

ブラック巡査がボリスを指差した。「もし過ちを犯した者がいるとすれば、それは四つんばいで座ってるあなたよ」

ボリスは気がとがめたのか、背中をもぞもぞ動かした。

ホワイト巡査が僕を見た。「〈片目のジョニー〉に関して言えば、我々が見たところ彼はどこも怪我してなかった。まあ、雪合戦をしていて君が投げた雪玉が彼に当たってしまったんだろうが、―当たった雪玉を投げたのが君だったのかどうかは証明のしようもないし、―被害もなければ、違法行為でもない」

「じゃあ、私たちはもう自由の身ってこと?」とリリーが聞いた。

ブラック巡査が頷いた。「あなたたちの仲間が部屋の外で待ってるわ」


ブラック巡査は冗談を言ったわけではなく、部屋を出るとそこにはブーマーが立っていた。一緒にヨーニーとダヴもいて、さらにソフィアとプリヤまで僕を待っていてくれた。そしてロビーの片隅にはリリーの親族が一堂に会していて、その輪の中心にミセス・バジルがいた。

「ほら見て!」とブーマーが言って、プリントアウトしてきたらしい二枚の紙を掲げた。一枚は『ニューヨーク・ポスト』のウェブサイトの記事で、もう一枚は『デイリー・ニュース』のものだった。

二枚とも、リリーの腕の中に赤ん坊が落下する、まばゆいばかりの瞬間をとらえた写真が載っていて、

〈私たちのヒーロー!〉『デイリー・ニュース』は大見出しを打ち、

〈赤ちゃん泥棒!〉『ニューヨーク・ポスト』は声高らかに宣言していた。

「外にはたくさん記者が来てるわ」とミセス・バジルが教えてくれた。「ああいう人たちって大体いかがわしいのよね」

ブラック巡査が僕たち二人の顔を交互に見た。

「それで、―あなたたちは有名人になりたいの?」

リリーと僕はお互いの顔を見やった。

答えは至極はっきりしていた。

「いいえ」と僕は言った。

「絶対に嫌です」とリリーが付け加えた。

「じゃ裏口ね!」とブラック巡査が言った。「ついて来て」

迎えに来てくれた人たちの輪の中に吸い込まれるように、リリーと僕はお互いを見失って離れ離れになった。ソフィアが「大丈夫?」と僕を気遣ってくれた。ブーマーはリリーと僕がついに会えたことに熱狂していた。他のみんなはすべてを理解しようと、ただ静観していた。

リリーと僕はさよならを言い合う間もなく、ドアが開くと、ブラック巡査に急ぐよう促された。記者たちはすぐに察して裏口に回って来るらしい。

彼女は彼女の身内と一緒に家路につき、僕は僕の仲間とともに別方向に歩いていった。

歩きながら、僕はポケットが少し重いことに気づいた。

いつの間に? リリーがノートを滑り込ませたのだ。



18

(リリー)

12月30日


そのニュースは瞬く間に世界を駆け巡り、フィジーにも届いてしまった。

私は両親に気づかれないように、パソコンのスピーカーを断続的にミュートにしていた。ビデオ通話の画面に、表情からガミガミわめいているのがわかる両親が映っている。時折り、私は音声をオンにして彼らの長い説教を断片的に聞いていた。

「何やってるのよ、リリー、いったいいつになったら、あなたはちゃんと一人で―」

ミュート。

彼らの両手は地球儀を必死で回しているみたいに目まぐるしく回転している。一方、私の両手は新しく始めた編み物に集中していた。

「このダッシュって子は誰なんだ? おじいちゃんは知ってるのか?―」

ミュート。

画面の向こう側でママとパパは怒鳴り散らしながら、同時に大急ぎで荷造りもしていた。

「飛行機に遅れちゃうわ!間に合うようにあなたも祈ってちょうだい。いったい何回あなたに電話したと思ってるの?―」

ミュート。

パパは自分の携帯電話に電話がかかってきたらしく、それに出ると何やら叫んでいた。ママはコンピューター画面をのぞき込んできた。

「こんな時にラングストンはいったいどこにいるの?―」

ミュート。

私は編み物を黙々と続けていた:ボリスのために囚人服をあしらった縞模様のセーターを編んであげるのよ。視線を上げると、ママが人差し指で私を呼ぶ仕草をしていた。

ミュート解除。

「もう一つ、リリー!」こちらをのぞき込むママの顔はスクリーンぎりぎりまで接近している。今まで気づかなかったけれど、ママはとてもきめ細やかな肌をしていて、素敵に年を取りそうな予感を醸し出していた。

「何? ママ」ママの背後にはホテルのベッドに腰を下ろして、携帯電話を耳に当てているパパが見える。パパはまた電話をかけてきた誰かに、また手をぐるぐる回しながら、また状況を説明しているようだった。

「あれは素晴らしいキャッチだったわ、リリーちゃん」


その時、おじいちゃんは高速道路をひた走り、デラウェア州の料金所に差し掛かったところだった。(彼によると、デラウェア州には高速道路業界で一番お金を集める料金所があるという。)そこに、私のニュース記事を見たボルシチ屋さんから電話がかかってきて、次いでカレー屋さんとカノーリ屋さんからも電話があり、「あきれて物も言えない」とか言われたおじいちゃんは、車の中であやうく心臓発作を起こしそうになった。彼は一旦気持ちを落ち着かせるためにマクドナルドに行ってビッグマックを食べ、それからラングストンに電話をかけた。おじいちゃんがラングストンに私の面倒を見るように頼んでフロリダへ向けて家を出てから、まだ数時間しか経っていないというのに、私を囚人に、しかも世界的な有名人にしてしまったことに対して、ラングストンを叱りつけた。そして彼は来た道を引き返してマンハッタンに戻り、家に着くと、ちょうどラングストンやミセス・バジルが警察署から私を連れて帰ってきたところだった。

「お前は両親が帰ってきて、この騒ぎが収まるまで外出禁止だ!」と、おじいちゃんが甲高い声で私を怒鳴りつけた。それから、かわいそうなボリスを指差して言った。「その厄介な犬は上の階に上げるな、わしの猫に近づけるな!」ボリスは大声で吠え、おじいちゃんにも飛びかかる構えを見せた。

「お座り、ボリス」と私はその野獣に言って聞かせた。

ボリスは床にドスンと座り込むと、私の足の甲に頭を載せてきた。そして低いうなり声をおじいちゃんに向けて発した。

「ボリスと私は外出禁止に従うつもりはないわ」と私はおじいちゃんに言った。

「それはちょっとひどいわ、アーサー」とミセス・バジルも同調してくれた。「リリーは何も悪いことしてないのよ。大きな誤解が生まれただけなの。彼女は赤ちゃんを救ったのよ!車を盗んで面白半分に乗り回したとか、そういうんじゃないの」

「常識的に考えてだな、若い娘が『ニューヨーク・ポスト』みたいなタブロイド紙の表紙に載ったら、ろくなことにならない!」とおじいちゃんは大声でまくし立てて、私を指差した。「外出禁止!」

「自分の部屋に行ってなさい、リリーベア」とミセス・バジルが私の耳元でささやいた。「あとは私に任せなさい。そのポニーは連れて行ってちょうだい」

「お願い、ダッシュのことはおじいちゃんに言わないで」と私はささやき返した。

「それは無理な相談ね」と彼女は大きな声で言った。


両親とおじいちゃんからさんざん小言を聞かされた結果、私は厳密には外出禁止にならずに済んだんだけど、元旦にはママとパパがフィジーから帰ってくるからそれまではおとなしくしていなさいと言われ、快く従うことにした。しばらく家でくつろぎながら、頭を冷やすのが望ましいみたい。

べつに私がそうしたいって望んでるわけではなくて、記者の人たちとは話しちゃだめって言われてるし、くだらないことは全部シュレッダーにかけて忘れるのが一番だから。雑誌『ピープル』の表紙に私がどんな感じで載るのかなんて考えても仕方ないけれど、雑誌に独占的に売り込めば、私の大学の学費だっていっぺんに払えちゃうくらいのお金が入ってくるかもしれない。そしてトーク番組の『オプラ・ウィンフリー・ショー』にも呼ばれるかしら。でもオプラが最初に話しかけるのはどうせ私のママで、私には話を振ってくれないのよね。はっきり言って家族のみんなが望んでるのは、〈有名になった私〉に消えてほしいってこと。あるいは一刻も早くいかがわしい雑誌にスキャンダルを暴かれればいいのよ。そしたらいろんなタブロイド紙に載って、〈リリー・犬の散歩屋〉からは卒業ね。

私は精神衛生上よくない気がして、自分の名前をグーグルで検索するのはやめておいた。

親族の年配の人たちによく言われるんだけど、この世の中には信頼できる人はそう多くないし、特に自分と関わりのない人を信用してはいけないって。今回のことがすっかり忘れ去られてしまうまで、家族の温かい愛情に包まれて、じっとしているのがよさそうね。

一つだけ確かなことがあって:犬はいつでも信頼できるってこと。

ボリスはダッシュを気に入ったみたい。

動物の扱い方を見れば、その人の人柄がわかるのよね。ダッシュは危機に直面しても、躊躇なくボリスのリードをつかんだ。彼は確かに正々堂々とした男だったわ。(まあ、深紅色レベルの警戒をしたママさんたちには押さえつけられて這いつくばっていたけれど。)

ブーマーもダッシュが好きなのよね、ブーマーってなんとなく犬っぽいし、

犬の直観っていつも正しいから、

ダッシュは好きになっても間違いない人ってことね。

私の前にはありとあらゆる可能性が広がっているんだわ。ダッシュでしょ、ボリスでしょ。いつ何が起こってもいいように心をオープンにしておかないとね。たとえ私が起こってほしいと望むことが現実にならなくても、世界には望みがないってことにはならないんだわ。だって、ふとした瞬間に何か思いがけない凄いことが起こるかもしれないじゃない。

よって、ボリスに対する私の判決は疑いの余地なく:ボリスも釣り上げる価値あり。

ボリスの飼い主はマルクといって、ストランド書店で働いてる私のいとこのマークの同僚なんだけど、マルクはペット禁止のワンルームマンションでボリスを飼っていたみたい。そのマンションの管理会社は遠隔地にあり、しかも住み込みの管理人さんも大家さんもいないということで、今まではボリスを規則に反してかくまっていても見つかることはなかったんだけど、今やボリスはネットで論争の的になるくらい有名になってしまった。(『ニューヨーク・ポスト』のオンラインアンケートによると、64%の人がボリスは社会にとって脅威であると回答し、31%の人がボリスは自分の力の強さに気づいていないだけでボリスも被害者であると回答し、5%の人が口には出して言えないような方法で殺すべきだと回答した。)というわけで、マルクはボリスを「家」に連れて帰ることができない。

でもいいの。私の会社が預かった犬だし、社長として私はボリスに私の家を提供するって決めたから。ボリスは私が世話を始めてから24時間もしないうちにいろんなことを覚えたわ。「お座り」とか、「ついて来なさい」とか、食卓では食べ物をねだらないで「待て」とか、あと「それを落とせ」も覚えたのよ。(それっていうのはおじいちゃんの靴のことで、すぐ咥えて嚙もうとするの。)きっとそもそもの原因はボリスの飼い主にあって、ちゃんと面倒を見てあげなかったのね。社会の立派な一員として心身ともに健康に暮らすためのしつけをしていなかったのよ。それにインターネットによると、マルクは犬の糞をスコップで掬うような信頼のおける飼い主ではなく、単に女の子と出会うための手駒としてボリスを連れていたみたい。もっと神経に障ったのは、マルクとメールでやり取りしていたら、「好きなだけボリスを飼ってていいよ」とか言ってきたこと。手のかかるやっかいな犬なんだって。明らかにマルクは最初から、ボリスを飼う資格が全くなかったのよ。

ボリスと私は刑務所で夜をともに過ごした仲だから、末永く連れ添う絆が生まれたの。まあ、警察署の取調室で数時間過ごしただけなんだけど(それに、とっても素敵な男の子も一緒だったんだけど)、似たようなものよね。ボリスの家は今はここだから、ママやパパや他の家族にはボリスと一緒に暮らすことに慣れてもらわないとね。家族は家族の面倒を見るものだし、ボリスはもう家族の一員なんだから。

私の会社の危機管理チームというか、私の相談に乗ってくれるメンバーは、蓋を開けてみるとアリス・ギャンブルだけでなく、彼女が連れて来たヘザー・ウォンとナイキシャ・ジョンソンも加わることになった。みんな同じサッカークラブのチームメイトよ。

私たちは私の部屋に集まってお喋りしていた。アリスが言った。「それでね、リリー。私たちは前からあなたのことを知ってはいたんだけど、本当の意味であなたを知っていたとはいえないわね、そうでしょ? それで、あなたのおじいちゃんがこうして私たちをパジャマパーティーに招いてくれて、あなたを外出させないっていう理由らしいけど―」

「パジャマパーティーは私のアイデアなのよ」と私は口を挟んだ。「ただ、タイミングよくおじいちゃんが私の携帯を隠しちゃったから、私からあなたに連絡できなかったの」

「あなたの携帯はどこに行っちゃったの?」とアリスが聞いた。

「クッキーの瓶の中よ。バレバレなの。隠そうとさえしてないみたい」

アリスは笑った。「私と他の女の子たち、みんなであなたのために素敵なものを作ったのよ」彼女は私のノートパソコンの前に座って、YouTubeを開くと、ある動画を呼び出した。「あなたは一部の中傷攻撃から身を守るためにもネットにはアクセスしないほうがいいでしょ、それであなたのためにと思って私たちがアップしたの、あなたがサッカーをしてる姿をね」

「どういうこと?」と私は言った。

ナイキシャが言った。「あなたはめっちゃ凄いゴールキーパーだからね!じゃなかったら、あんな風に赤ちゃんをキャッチできないでしょ? 生まれ持ったゴールキーパーの本能が赤ちゃんをキャッチさせたのよ。ゴールキーパーは赤ちゃんを盗もうなんてしない!守ろうとしちゃうのよ」

ヘザーが「見て」と言って、そのYouTubeの動画を再生した。

それは私のチームメイトが編集して作ってくれた動画だった。スパイス・ガールズの『Stop』が流れ、次々に私の写真が映し出された。短く切り取られた動画も次々と流れた。ゴールキーパーをしている私だった。―走り、喉の奥から大声を上げ、ボールを蹴り、飛び跳ね、ジャンプし、空中に舞い上がる私が映っていた。

知らなかった、私ってこんなに上手い選手だったんだ。

私のチームメイトがそれに気づいて私を撮っていたことも全然知らなかった。私のことなんて気にもしていないと思っていた。

もしかしたら、みんなをチームメイトだと思っていなかったのは私のほうだったのかもしれない。ひょっとしたら、友達関係が停滞していた最大の原因は私だったのかも。

よく言われることだけど、「team」(チーム)のスペルに「i」(私)はないのね。

その動画が終わると、まるで試合後にみんなで勝利を分かち合うみたいに、3人の女の子が私を取り囲んだ。それはピッチ上では一度もやったことのない行為だった。そこは私の寝室だったけれど、初めて味わった一体感に思わず熱いものがこみ上げてきて、私は泣いていた。―みんなを困惑させるような号泣ではなく、心の深いところからじんわり湧き出てくる喜びと感謝の涙だった。

「びっくりしちゃった。みんな、ありがとう」と、私は泣きじゃくりながらもなんとか言葉にした。

「私たちがBGMに『Stop』を選んだのはね、あなたがいつもやってることだからよ。―あなたは相手チームが得点するのをいつもストップしてるでしょ」とヘザーが言った。「それに赤ちゃんが路面にぶつかるのもストップしたしね」

ナイキシャが言った。「それと、スパイス・ガールズのメンバーと結婚したベッカムへの祝福にもなるわ」

「たしかに」と、アリスと私は同時に言った。

ヘザーは言った。「この動画にはもうたくさんのコメントも来てるのよ。―今のところ、845人からコメントが来てる、こんなにあったら全部は読めないわね。あなたの名誉を守ろうと思ってこの動画を上げたんだけど、アップしてすぐに私がざっと読んだ限りでは、あなたに結婚の申し込みが5人から来てたわ。今はもっと増えてるんじゃない。だってほら、再生回数だって95,223回に跳ね上がってるし、―と思ったら今、95,225回にまた上がったわ。ほら、プロポーズもあるし、いかがわしい下品な誘いもあるわよ。あと、複数の大学のサッカーチームからオファーも来てる、スカウトの人がうちのチームの入団テストを受けてみないかって」

ボリスが部屋の隅に置いた新しい犬用のベッドの上から吠えた。ボリスも「いいね」って言ったみたいだった。



12月31日


「ベニーと僕はまた元の鞘に戻ったよ」とラングストンがランチを食べながら報告した。一緒にパジャマパーティーをした女の子たちはそれぞれの家に帰宅した後だった。大晦日だから、みんな家に帰って家族とパーティーの準備をするのよ。おじいちゃんは上の階でメイベルと電話で話し込んでいる。なんとかして―1月中に!―メイベルをフロリダのマイアミからニューヨークに呼び寄せようと必死で説得してるみたい。そうすればおじいちゃんは、ほんの数日のうちに、車を走らせてフロリダに行ったと思ったら、とんぼ返りしてニューヨークに帰って来て、それからまたフロリダへ向かったと思ったら、Uターンしてニューヨークに引き返す、なんてことをしなくて済むから。

男って優柔不断で、自分でも何がしたいのかよくわかってないのよね。

「ほんの何日か離れただけで、あなたとベニーはもう耐えられないんでしょ?」と私は兄に聞いた。

「それはたしかにそうだけど、でもさ、わかってると思うけど、君のために赤いノートを仕掛けてあげたのは、僕とベニーなんだからな。僕とベニーは運命の赤い糸で結ばれてるんだ」

「そしてあなたたちはお互いに距離を置いてみて、寂しいって思い知ったのよね!もう他の人に目移りすることなく、お互いの特別な存在になろうって決めたんでしょ?」

「僕はまだそこまでは決めてない」とラングストンは言った。「けど大晦日の今夜、プエルトリコにいる彼と秘密のスカイプ・デートをするんだ。部屋に入ってくるなよ。君の面倒は見れないし、君のバカ騒ぎにも構ってられない」

「キモい。っていうか、私の面倒なんて見たことないじゃん」

「わかってるよ。けど僕を信頼してくれ、何が起きても、僕が残りの一生をかけて償うっていうか、文句を言われ続けてあげるから」

「大変な役回りを担ってくれてありがとう、お兄ちゃん。楽しいお喋りだったわ」と言ったものの、まだ赤いノートのことで、その始まりをめぐって何かが引っかかっていた。「ラングストン?」と私は言った。

「何? 有名人のリリーベア。あ、セレブ・ベア!これからはそう呼ぶことにするよ」

そのくだらないあだ名は無視して、私は聞いた。「彼が本当に好きなのはあなただったら、どうする?」

「彼って? どういう意味?」

「ダッシュのことよ。赤いノートを見つけてくれた彼。あれはあなたの考えだったでしょ。最初のメッセージは、私が手書きで書いたものだけど、その言葉とアイデアはあなたのものでしょ。ダッシュが大晦日にデートに誘ってる人は、彼の想像上の私で、それはあなたが創り出した人物が基になってるんじゃないかな?」

「だから何? そうだとしてもいいじゃないか。ずっとノートを書き続けてきたのは君なんだし、ずっと冒険してきたのも君だろ。それが何に化けるのか、ちゃんと自分の目で確かめな!僕は寝室でゴホゴホ寝込んでいて、ボーイフレンドとも間違って別れちゃったけど、その間、君は外の世界で、あのノートを片手に君自身の運命を切り拓いてきたんだから!」

彼は肝心なところがわかっていなかった。

「でも、ラングストン。もしもだよ...ダッシュが私を好きにならなかったらどうする? よ、この私。彼の頭の中の私じゃなくて」

「好きにならなかったら、ならなかったでべつにいいんじゃない?」

私は兄が私の援護に回り、「絶対彼は君のことを好きになるから大丈夫だよ」とか宣言してくれるものと期待していた。「なに?」と、私は不愉快な気分で言った。

「要するに、ダッシュが君のことを知って、それで君を好きにならなかったらってことだろ。それが何か問題でも?」

「私はそのリスクを負いたいのかどうかわからないの」振られ、傷つくリスクがあった。かつてラングストンが心に傷を負ったように。

「恩恵はリスクの中にあるんだよ。君はいつまでもおじいちゃんの厳重すぎるほど分厚いマントの中に隠れてはいられない。少しの間でいいから、そのマントから出て、成長した自分を試してみるんだ。ちょうどママとパパは旅行中だし、今は赤いノートだけが頼りだ。君の気持ち次第ってことだよ。ダッシュがどんな空想をしてるのか自分で確かめるんだ。そして君がその空想に入り込んでいくんだよ。リスクを負うんだ」

兄の言うことを信じたい気持ちは大きかった。でもその気持ちと同じくらい大きくて、押しつぶされそうな怖さも同時に感じていた。「今までの全部が夢みたいな絵空事だったらどうしよう? 私とダッシュはお互いの時間を無駄につぶし合っていたってこと?」

「確かめもしないでわかるわけないだろ?」そう言うと、ラングストンは彼の名前の由来である詩人の言葉を引用した。「ラングストン・ヒューズが『夢は先延ばしにしたら諦めたのと同じだ』って言ってる」

「あなたはもう彼を乗り越えたの?」と私は聞いた。

ラングストンは私の言った「彼」がベニーのことではないとわかったみたいだった。私が言及したのは、ラングストンの心を打ち砕いて、見るも無残な姿にした初恋相手のことだった。

「まあ、どうやっても僕が彼を乗り越えることは今後もないね」とラングストンは言った。

「そんな答えじゃ納得できない」

「納得できないのは君が間違って解釈してるからだよ。僕はお涙ちょうだいみたいな芝居がかったことを言ってるんじゃない。つまり、僕は彼を本当に愛していたんだと思う。その気持ちはとても大きかったからね。胸が張り裂けそうで、苦しさもあった。彼に対する気持ちが僕という人間を変えたんだ。もうそれ以前の僕に戻ることはない。君の兄であることが僕の人間としての成長に影響するのと同じだよ。人は影響し合って変わっていく。僕たちの人生っていうのはね、重要な意味を持つ人と関わると、その人が心に刻み込まれていくんだ、後々までずっと残る印とともにね。この目に見える物理的な世界では、彼らはそばに居続けることもあるし、どこか遠くへ行ってしまうこともある。でも心の中にはずっと居座り続けるんだよ。だって彼らが心の一部になって人格を形成していくんだから。乗り越えるなんて無理」

私の心はダッシュをまるごと受け入れたかった。あるいはダッシュに踏みにじられたかった。もしくは、ダッシュをそっくり受容してから、ないがしろにされたかった。疑いようもなく、そんなことまで望む気持ちが胸の内に湧いていた。リスクを負わなければ、恩恵が何なのかもわからないってことね。

テーブルの下ではボリスが私の足首を舐めていた。私は言った。「ボリスも居座り続けてるわ、だってもう私の心に印を残したからね。ママとパパの心にも印を刻み込んでくれるといいんだけど」

「元旦まで君には内緒ってことだったんだけどさ、セレブ・ベア。なんとママとパパからのクリスマスプレゼントは、ずっと君が待ち望んでたペットの許可だよ。またペットを飼ってもいいってさ」

「ほんとに? でもフィジーに引っ越したらどうするの?」

「ママとパパが何かいい方法を考えるよ。それに彼らが本当に引っ越すって決めてもね、このアパートメントはそのままにしておくみたいだからさ、僕はここに住み続けて、ニューヨーク大学に通うんだ。たぶん彼らも一年じゅうフィジーに住むつもりじゃないと思うよ。―学校が開いてる期間だけじゃないかな。もし君も彼らと一緒に行くことになって、ボリスがフィジーの税関を抜けられないなんてことになったら、君の留守中は僕がボリスの世話をするよ。それが僕から君へのクリスマスプレゼントってことでどう?」

「あなたはベニーとイチャイチャするのに忙しくて、今年は私に何も用意してないんでしょ?」

「まあね、今年は年明けにクリスマスプレゼントを渡すっていう変則的な事情もあったからさ。じゃあ、こういうのはどう? 君が僕のためにセーターを編んでくれてるのは知ってるけど、それから大量のクッキーも焼いてくれてるみたいだけど、セーターもクッキーも要らないからさ、おじいちゃんに話をつけてくれないかな? 君の最近のごたごたのことでおじいちゃんが僕に説教してくるのが目に見えてるんだよ、ついでに僕のことまであれこれ口出ししてくるに決まってる。だから僕を責めないように君からおじいちゃんに言ってくれたら、お返しにボリスの面倒を見るよ」

「いいわ」と私は同意した。「私はちゃんとルールを守る女の子なのよ」

「ルールと言えばさ...リリー、たしか君の外出禁止令は解かれるんだろ? じゃあ、君は新年に向けて何をするつもり? 今夜はダシールくんが君をエスコートして街のお祭りにでも繰り出すのかな?」

私はため息をついて首を振った。もう認めざるを得なかった。「彼から何の連絡もないの。電話もメールもないし、ノートも警察署で彼に渡したっきり返ってこないのよ」

私は勢いよく椅子から立ち上がった。自分の部屋に戻って、かわいそうな自分を慰めながら、こっそり大量のチョコレートをバクバク食べるつもりだった。


しようと思えば、ダッシュにパソコンからメールを送ることも、携帯電話でメッセージを打つことも、(電話することさえ、―それはちょっとあれだけど、)できることはわかっていた。でもそういうことをするのは、私たちの関係の成り立ちを考えると、やりすぎのような気がした。なにしろ私たちは赤いノートで出会ったのだ。ノートからも、ダッシュはプライバシーを重視して孤独を楽しんでる男の子っていう印象を受けたから、それは尊重してあげないとな、と思った。

彼の方から私に連絡してくるべきだわ。

そうでしょ?

それとも彼から連絡がないということ自体が、私に関する何かしらのメッセージになっているってこと?

もしかしたら彼は私を好きじゃないのかもしれない。少なくとも彼を好きになり始めている私ほどは好きじゃないのかも。私はあのソフィアっていう女の子みたいに綺麗じゃないし、あんなに周りの興味を引きつける感じでもない。一方でダッシュのかっこいい顔は、昼間でも私が目を閉じればすぐに、蜃気楼のように浮かび上がってくる。

報われない片思いね。

恋しいっていうのかしら、私だけこんな思いをしてるのは不公平よね。でも彼がそばにいないのが寂しいっていうよりも(まだどんな人なのかあんまり知らないし)、彼とのつながりである赤いノートが私の手元にないのが寂しいんだわ。彼は彼で今頃、びっくりするような方法で私にコンタクトを取ろうと、何か方法を考えてるとか、もうそれを実行中かもしれないし、うん、きっとそうよ。

ダッシュについて夢想しながら、私はベッドに横になっていた。またボリスに力強く舐めてもらって元気をもらおうと、ベッドから足を降ろしてみたけれど、ボリスはそこにいなかった。ボリスもどこかへ行っちゃった。

玄関のベルが大きな音を立てて、アパートメントの中に鳴り響いた。私は飛び起きると、廊下に駆け出て玄関へ向かった。「はーい、どなた?」と、私はドアの向こう側に言った。

「あなたの大好きな大叔母さんよ。ボリスを散歩させようと思って連れ出したんだけど、鍵を中に忘れちゃったの」

ボリス!

ボリスがいなくなってから20分、私の心はもう少しで壊れそうだった。やっぱりボリスはダッシュっていう男の子みたいに私を無視したりしない。

私はドアを開けて、ミセス・バジルとボリスを中へ入れた。

足元を見ると、ボリスが私の注意を引きたいのか、前足を不器用に動かして私の足首をさすっている。

ボリスが口にくわえているのは、犬用の骨でも、郵便配達員の上着でもなかった。歯の間に挟まれ、よだれまみれになっているのは、赤いリボンを巻かれた赤いノートだった。ボリスが私にそれを差し出していた。



19

-ダッシュ-

12月30日


僕は釈放されたあと、迎えに来てくれたみんなと一緒に僕の母のアパートメントに戻った。僕たちはみんなアドレナリン全開といった感じで浮かれ、飛び跳ねていた。―僕が解放されたことでみんなに興奮がもたらされ、周りの世界が巨大なトランポリンに変貌を遂げたかのようだった。

玄関のドアを開けて部屋に入ると、すかさずヨーニーとダヴが冷蔵庫をあさりだした。そして中に入っている物を見て不満げな表情をした。

「ヌードル・プディング?」とヨーニーが聞いた。

「そう、ママが僕に作ってくれるんだ」と僕は彼らに説明した。「いつでも食べられるように常に入ってる」

プリヤはトイレに行き、ブーマーは携帯でメールをチェックしている。僕が自分の寝室に入ると、ソフィアも入ってきた。いやらしいことをしようという意図ではなく、単に寝室の様子が見たかったらしい。

「あんまり変わってないね」と彼女が部屋を見回して言った。そして壁に画鋲で留めてある、僕がお気に入りの名言を書いている紙をじっと見つめた。

「ちょっとは変わったよ」と僕は言った。「壁の名言もいくつか新しいものが増えたし、本棚には新しい本が何冊か増えた。何本かの鉛筆は付いてる消しゴムがなくなっちゃったし、ベッドのシーツは毎週替えてる」

「たとえ何も変わってないように見えても―」

「―物事は常に変わっている。往々にして少しずつだけど、そういう風に人生は進んでゆくんだと思う」

ソフィアは頷いた。「なんか私たちが人生を語ってるのって可笑しいわね。そういう風に人生は進んでゆく

そういう風に人生は進んでゆくってなんか青くさかったね」

「じゃあ、たまにはそういう風に進む先の未来が見えることもあるのかしら? そうね、たとえば、赤ちゃんをキャッチする未来とか」

僕は彼女の顔をじっと見て、そこに皮肉とか当てつけとか、あるいは悲しみの色が混じっていないか確かめた。―というより彼女の表情の中に悲しみや悔しさの影を探していた。しかし彼女は面白がっているようにしか見えなかった。

僕はベッドに腰を下ろすと、両手で頭を抱えた。それから、このポーズはあまりにも芝居がかっているな、と自分でも思いながら彼女を見上げた。

「自分でもほんとに、自分の気持ちがよくわからないんだ」と僕は打ち明けた。

彼女は僕の真正面に立ったまま、僕を見下ろしている。

「力になってあげたいけど」と彼女は言った。「でも私にできることはなさそうね」

そういえば、僕たちは以前もここで向き合っていた。なんだかずいぶん昔のことに思える。あの頃僕たちは付き合っていた。付き合っていたといっても、おとぎ話に出てくるような付き合い方だったし、僕の彼女への気持ちもさざ波程度だった。それでも僕は彼女を愛することが可能だという素振りを見せていた。おとぎ話の王子様にでもなろうとしていたのだろう。しかし今はもう、そんな素振りを見せようなんて気持ちはこれっぽっちもないし、僕たちは愛し合ってもいない。ただ、今の僕は彼女のことが、心に高波が立つほど好きだ。

「僕たちもさ、長い付き合いだし、この辺でお互いのことをちゃんと考えてみない?」と僕は彼女に提案した。

彼女は笑った。「それってつまり、私たちの失敗とか過ちを話し合って、何か教訓を引き出しましょうみたいなこと?」

「そう」と僕は言った。「きっと何かにつながるよ」

僕たちは何か新しい関係性に移る必要があると思った。キスはアウトだし、ハグも軽率な行為だという気がした。それで僕は彼女に片手を差し出し、彼女は僕の手を握った。それから僕たちは寝室を出て、仲間たちの輪に加わった。


僕はどうしてもリリーが今何をしているのか考えてしまった。彼女がどのようなことに思いをめぐらせ、何を感じているのかが気になった。もちろん気にしたところで、実際のことはわからないわけだし、頭が混乱するだけだったけれど、でもそれは悪い混乱ではなかった。僕はもう一度彼女に会いたかった。今までも会いたいという気持ちはあったけれど、その気持ちがこんなにも高まったのは初めてだった。

ノートブックは僕の手元にあった。それなのに僕は何を書いたらいいのか、適切な言葉が見つからなかった。

母親から電話があって、何か変わったことはないかと様子を聞かれた。彼女がくつろいでいるスパ・リゾートにはインターネット環境はないし、彼女は家以外でテレビをつけるようなタイプでもない。それで僕は何も説明しなくて済んだ。僕はただ、何人かの友達と一緒にいると言った。みんな行儀よくしてるよ、と。

父親のことも書いておくと、彼は携帯で5分置きにニュースをチェックするようなタイプだから、おそらく『ニューヨーク・ポスト』の見出しも見ているし、関連する写真も何枚か目には入っているだろうなと思った。ただ、そこに写っているのが自分の息子だとは気づいていないのだ。


夜遅くまでみんなでジョン・ヒューズの映画を何本か立て続けに見たあと、ブーマー、ソフィア、プリヤ、ヨーニー、ダヴの5人にその場に残ってもらって、僕は母親が仕事で使っている部屋からホワイトボードをリビングルームに運び入れた。

「みんなが帰る前にちょっとだけ時間をもらって」と僕は彼らに向かって話し始めた。「愛についてのシンポジウムを開きたいと思います」

僕は赤のマーカーを手に取って(愛は赤でしょ?)、ホワイトボードに「愛」と書いた。

「さあ始めましょう。愛についてです」と僕は言いながらペンを走らせ、その文字をハートマークで囲んだ。心臓の左心室とかの話ではなく、目には見えないものの話をしようとしていた。

「この愛は原始の状態で、その理想を掲げながら存在しています。しかしそれから...言葉が登場します」

僕は「言葉」という文字を何度も繰り返し書いた。ホワイトボードがその文字でいっぱいになるまで書き続け、「愛」という文字は埋もれてしまった。

「そして感情」

僕は「感情」という言葉を同様に、すでに書いた文字の上から縦横無尽に書きなぐった。

「さらに期待、歴史、思考。ブーマー、ちょっと手伝って」

僕たちはこれら三つの言葉を少なくとも20回ずつホワイトボードに書いた。

で、どうなったか?

まったくの判読不能。「愛」が見えなくなってしまったばかりか、何もかもが意味を持たないものになっていた。

「これだよ」と、僕はホワイトボードを持ち上げるような勢いで言った。「僕たちが今直面している状態はこれなんだよ」

プリヤは困った表情をしていた。―僕が言ったことに困っているというよりも、僕という人間に対して困っているようだった。ソフィアは依然として面白がっている様子だった。ヨーニーとダヴはくっついて丸まっていた。ブーマーはマーカーを手に持ったままホワイトボードを見つめ、そこから何かをはじき出そうとしていた。

彼が手を挙げた。

「何? ブーマー」と僕は聞いた。

「君の話を聞いてて思ったんだけど、君は愛の中にいるのか、いないのか、もしいるのなら、こんな感じになるってことだよね」

「まあ趣旨としては合ってる」

「でもだよ、もしそんなに簡単に割り切れる問題じゃなかったらどうなる?」

「君の話の趣旨が見えない」

「つまりだよ、愛がそんなに簡単な問題じゃなかったらどうなるのか? もし君が愛の中にも外にもいなかったらってこと。要するにさ、違う次元ってないのかな?  ここに書かれているようなものが、言葉とか期待とか何でもいいんだけど、その愛の上には来ない次元だよ。たとえば、地図を思い浮かべてみて。すべては重なり合うことなく並んでいて、空を飛んで上から見下ろしたら、―ほら凄い景色が広がった」

僕はホワイトボードに目をやった。「君の地図は僕のよりきれいなんだと思う」と僕は言った。「でも、しかるべき二人がしかるべき時に衝突すると、こんな感じにならない? つまり、めちゃくちゃに」

ソフィアが含み笑いをした。

「何?」と僕は彼女に聞いた。

しかるべき二人が、しかるべき時にっていうのは間違った考えよ、ダッシュ」と彼女は言った。

「たしかに」とブーマーが同意した。

「どういう意味で彼女は言ったんだい?」と僕は彼に聞いた。

「私が言いたいのは、」とソフィアが答えた。「しかるべき人とかそうじゃない人とかしかるべき時とかそうじゃない時とか、そういうことを言い出すのは責任逃れのずるい発言なのよ。そういうことを言う人って自分が運命にもてあそばれてると思ってるのよね。私たちはみんな現実という名のロマンチックな舞台の登場人物で、観客席では神が笑いながら観劇してるって思い込んでるのよ。でもね、この世界は簡単に二つで割り切れないことばかりなの。そう、あなたのことを言ってるのよ。あなたはそんなに顔が青ざめて疲労の色が浮き出るまで、別の時だったら、あるいは他の誰かとだったら、何か違うことが起きて、うまくことが運んだかもしれないって必死で考えたんでしょ。でもそうやって頭で考えてるだけだと、どうなるかわかるでしょ? あなたから離れていっちゃうのよ」

「顔が青ざめてる?」と僕は聞いた。

「うん」

「お前にはノートがあるだろ?」とダヴが割って入った。

「なくしてなければいいけど」とヨーニーが続けた。

「あるよ」と僕は言った。

「じゃあ、あなたは何を待ってるのかしら?」とソフィアが聞いてきた。

「君たちが帰るのを?」と僕は言った。

「よし」とソフィアは言った。「あなたにはノートを書くっていう宿題があるからね。書かないとどうなるかわかってる? あなた次第ってことよ、運命のせいにしない」


それでも僕はまだ何を書けばいいのかわからなかった。枕元にノートを開いたまま、いつしか眠りに落ちるまで天井を見つめていた。僕の横でノートも天井を見つめていた。もしかしたらリリーも。



12月31日


翌朝、朝食を食べながら壮大なアイデアを思い付いた。

僕はすぐにブーマーに電話した。

「頼みがあるんだけど」と僕は彼に言った。

「今度は誰?」と彼は聞いた。

「君の叔母さんはニューヨークにいる?」

「ボクの叔母さん?」

僕は彼にそのアイデアを話した。

「キミはボクの叔母さんとデートしたいの?」と彼が聞いてきた。

僕はもう一度、彼に僕のアイデアを伝えた。

ああ」と彼は言った。「それなら問題ないね」

前もってネタをばらしたくないので、まだ詳しくは書けないんだけど、待ち合わせの時間と場所は伝えた。午後になり、良い頃合いになってから僕はミセス・バジルの家へ向かった。すると彼女の家に着く前に、ボリスを連れて近所を散歩している彼女に出くわした。

「あなたの両親はあなたを自由に外出させてるの?」と、ミセス・バジルがあやしむような目で僕を見てきた。

「そんなところです」と僕は言葉をにごした。

そして僕は彼女にノートを差し出した。

「彼女が次の冒険に乗り気だといいんだけど」と僕は言った。

「あなたなら意味がわかると思うけど」と前置きして、ミセス・バジルは格言を口にした。「人生は味気ないものなのよ。だから私たちは常に色々なスパイスを使わなければならないの」

彼女はノートに手を伸ばしたが、ボリスが彼女よりも先にノートをくわえてしまった。

「バッド・ガール!」と、彼女がボリスをしかった。

「きっとボリスはオスですよ」と僕は言った。

「あら、知ってるわ」とミセス・バジルは僕に断言した。「私はただこの子を混乱させたいだけよ」

それから、僕の未来をくわえたボリスとともに彼女は歩き去っていった。


5時にやって来たリリーを見た瞬間、彼女が僕を見てほんのわずかにがっかりしたのがわかった。

「ほら、見て」と、彼女は目を輝かせてロックフェラーセンター・スケートリンクの方を指差した。「スケーターがあんなにいっぱい。みんなセーターを着て滑ってるわ。きっと50州すべてから集まった人々よ」

僕は彼女を目の前にして、体内で血液がぐるぐる循環するような高ぶりを覚えた。無理もない、これが僕たちが交わす初めての、犬やママさんたちが口を挟んでくる心配のない、ごく普通の会話なのだから。それに僕は文字を書いて交わす会話ならそれなりに得意なんだけど、あるいは現実離れした状況でアドレナリンがほとばしっていればうまく話せるかもしれないけれど、ごく普通の会話は不得手だった。僕は彼女を好きになりたいし、彼女にも僕を好きになってほしかった。この短い期間で立て続けに起こったことが僕の内側に大きな波をもたらしたのだ。僕がいくら必死でオールをこいでも、自分の力で舵を切れるとは思えないほどの感情の大波を。

あなた次第ってことよ、運命のせいにしない。

その通り。でもね、リリー次第でもあるんだよ。

それが最大の難関なんだ。

僕の言った決まり文句が陳腐だったせいもあるけれど、彼女の反応が素っ気ない感じだったので僕は傷ついたふりをした。「君はリンクの上を滑りたくないの?」と僕は口をとがらせて言った。「凄くロマンチックだと思うけどな。きっと映画の登場人物になった気分を味わえるよ。それにプロメテウスも僕たちを見守ってるし。ほら、火を掲げるプロメテウスが氷のリンクに舞い降りるなんて、最高のシチュエーションだと思わない? そもそもプロメテウスは僕たちのために火を天国から盗んでくれたわけだけど、―火を受け止めるために氷のリンクが必要になったんだよ、つまりスケートリンクがあるのはプロメテウスのおかげ。それじゃあ、まずはリンクの上の人混みにまみれて、つっかえつっかえ滑り終えたら、そのあとタイムズ・スクエアに行こう。あそこも200万人くらいの人でごった返してるからね、どのトイレも行列でこれから7時間はトイレに行けないよ。さあ、君もそうしたいでしょ」

彼女の服装はユーモアに満ちていた。彼女は目的に合ったドレスを着ようと、あれこれ家で試したのだろうなと思った。でも結局目的を見失って、自分の好きな格好をすることにしたのだろう。僕はその独自性に関心したし、それから彼女の口からぽろっとこぼれた彼女の考えにも共感した。彼女も、群衆に囲まれていれば孤独ではないという単純な思考について、それは違うと思っているらしい。

「それが嫌なら...」と僕は言った。「プランBにしてもいいよ」

「プランBにする」と彼女は即答した。

「君はびっくりしたい? それとも期待通りの展開がいい?」

「なら」と彼女は言った。「もちろんびっくりしたいわ」

僕たちはスケートをするのはやめて、黄金の指輪の上に浮かぶプロメテウスの彫像から遠ざかった。三歩ほど進んだところで、リリーが立ち止まった。

「わかってると思うけど」と彼女が言った。「今のは噓よ。私は期待通りの方がずっと好き」

それで僕は彼女に話した。

彼女が僕の腕をぴしゃりと叩いた。

「それなら、いいわ」と彼女が言った。

「それなら」と僕も言った。「いいよね」

「あなたが言ってること、ちょっと信じられない...もう一回言って」

そこで僕はもう一度同じことを言ってから、ポケットから鍵を取り出して、彼女の目の前でそれをぶらぶらと揺らした。


ブーマーの叔母さんは有名人である。ここに名前を書くわけにはいかないけれど、彼女の名前は誰もが知っている。彼女は自分の雑誌を持っているし、あるケーブルテレビ局も実質彼女が抱えている。家庭用品を扱う大手チェーン店も彼女の事業の一つだし、彼女が経営するキッチン・スタジオは世界的に有名である。それで、そこの鍵を僕が手に持っているというわけだ。

僕は室内のすべての明かりをつけた。僕たちはニューヨークで最も華やかなクッキング・パレスの中にいた。

「さあ、君は何を作りたい?」と僕はリリーに聞いた。

「何かの冗談でしょ」と彼女が言った。「ここにあるものって触ってもいいの?

「テレビ局の見学ツアーじゃないよ」と僕は彼女に断言した。「見てごらん、なんでも揃ってる。君は一流のクッキー職人だからね、一流の調理器具を使わなくっちゃ」

あらゆるサイズの鍋やフライパンが赤銅色に光っていた。アメリカの税関が輸入を許可したあらゆる調味料も並べられていた。甘いものからしょっぱいもの、辛いものから甘酸っぱいものまで、すべての味覚に応えるべく。

リリーは湧き上がる喜びを抑えきれず、笑みがこぼれていた。彼女はほんの少しの間黙って立っていたが、どんな選択肢があるのか確かめるように引き出しを開け始めた。

「そこに秘密のクローゼットがあるよ」と僕は言って、人目に付きづらい扉を指差した。

リリーはすぐにそこへ行き、その扉を開けた。

「わあ!」と彼女が叫び声を上げた。

子供の頃から僕とブーマーはたまにここに来ていた。僕たちにとってここは最も魔法を感じる場所だった。今僕は8歳に戻ったような気がした。リリーも8歳みたいな表情をしていた。子供に戻った僕たちは、福引で超豪華な景品を当ててしまい、目を丸くして立ち尽くしている、そんな気分だった。

「こんなにたくさん〈ライスクリスピー〉の箱が並んでるの初めて見たわ」とリリーが言った。

「ちゃんとマシュマロもいろんな種類揃ってるし、クリスピーに入れる食材も色々あるよ」

そう、見事なまでに手入れが行き届いている生け花が飾ってあるにもかかわらず、一応ワインも各種取り揃えてあるにもかかわらず、ブーマーの叔母さんのお気に入りは〈ライスクリスピー〉を使ったおやつで、彼女の人生の目標はそのレシピを完璧にすることなのだ。

僕はリリーにそう説明した。

「それじゃあ、これにしましょう」と彼女は言った。

〈ライスクリスピー〉はキッチンを汚さずに調理できるように工夫された食品で、小麦粉をまぶしたり、ふるいにかけたりする必要もなければ、焼く必要もない。

それなのにリリーと僕はやらかしてしまった。

まず僕たちはクリスピーに食材を入れ込む作業に手こずった。ピーナッツバターからドライチェリーに至るまであれこれ試し、ポテトチップスを入れるという荒技にも挑戦した。僕はリリーにイニシアチブを取らせ、彼女の指示に従うことにした。それによって彼女の中の料理人としての血が騒いだようだった。ただ、そうしてる間にあちこちでマシュマロが溶けてしまい、あたふたした僕たちは勢い余って、積み重ねてあった〈ライスクリスピー〉の箱をひっくり返してしまった。中のライスクリスピーが飛び散って、僕たちの髪の毛や靴の中に、―僕の下着の中にも(きっと彼女の下着の中にも)入り込んだ。

でもそんなことはどうでもよかった。

リリーは几帳面なのだろうと思っていた。―チェックリストを用意し、その項目を順番にクリアしていく、そういうタイプの調理人なのだろうと。しかし驚いたことに、―喜ばしいことでもあったけれど、―彼女は全然そんな感じではなかった。むしろ衝動的で、直観的で、気まぐれも混じっているような女の子だった。ただ、彼女のまなざしには真剣さがにじんでいて、このクッキングはちゃんと仕上げたいようだった。と同時に、どこか遊びを楽しんでいる感もあり、それは結局のところ、これは遊びだと彼女が思っているからなのだろう。

「あーん」とリリーが言って、〈オレオクリスピー〉を僕に食べさせてくれた。

「うまい!」と僕は顔をほころばせて、お返しに〈バナナクレームクリスピー〉を彼女に食べさせた。

「おいしい!」と彼女も言って、今度は〈プラムとブリーチーズのクリスピー〉を鍋から掬ってお互いに食べさせ合った。このプラムとブリーチーズの組み合わせは僕の口には合わなかったけれど。

彼女に見とれていたら彼女に気づかれてしまった。

「どうしたの?」と彼女が聞いてきた。

「君の明るさって」と、僕は自分でも何を言っているのかよくわからずに言った。「周りの人の心を平和にするよね」

「そう?」と彼女は言った。「私もあなたにおもてなしがあるわ」

僕たちが作った色々なクリスピーの入った鍋があちこちに置いてあった。

「君の親戚のみなさん全員に配っても余るんじゃないかな」と僕は彼女に言った。「ちょっと作りすぎたかな」

彼女は首を振った。「違う、おやつのおもてなしじゃなくて、秘密の計画を立てたのはあなただけじゃないってこと」

「どういうこと?」と僕は聞いた。

「それじゃあね、あなたはびっくりしたい? それとも期待通りがいい?」

「期待通り」と僕は言った。それから、彼女が何か言おうと口を開きかけたので、僕は大慌てで訂正した。「いや違う違う、―やっぱりびっくりしたい」

「わかったわ」と彼女は言って、悪だくみでもしているみたいにほほえんだ。「じゃあ片付けましょう。作ったクリスピーはパックに詰めて、キッチンをきれいにして、そしたらそこへ向かいましょう」

「どこか赤ん坊をキャッチできる場所へ?」と僕は言ってみた。

「言葉を見つけられるところ」と、彼女はいたずらっぽく付け加えただけで、それ以上は何も言おうとしなかった。

僕はどんなサプライズなのだろうと心の準備をした。



20

(リリー)

12月31日


こんな風に想像してみて。

あなたはブーマーという友達から、彼の有名な叔母さんのクッキング・スタジオの鍵を借りられなかったかもしれない。

でもあなたは大喜びでその鍵を使って宝箱を開けた。

あーん、うまいって、おいしいとこ取りのダッシュね。

では、もう一つ別の選択肢が与えられたとします。ミセス・バジルというニックネームの大叔母さんの家を訪ねて、「マークという名前のいとこから鍵を借りたいんだけど、おばさんから彼に電話して、なんとか熱弁を振るって頼んでほしい」って頼み込むの。その鍵はクッキング・スタジオとは全く違う種類の王国への鍵よ。

さて、あなたならどうする?

答えは明らかね。

あなたはその王国への鍵を手にするでしょう。


「卑怯だぞ、リリー」と私のいとこのマークが言った。私たちはストランド書店の正面玄関前に立っていた。「この次はお前が自分で俺に言ってこいよ」

「私が頼んだってどうせ嫌だって言うでしょ」

「まあな。まったく、俺が大叔母さんのアイダにめっぽう弱いことにつけ込みやがって」マークはダッシュをまじまじと見て警戒するように指差した。「それからお前!店の中でおかしなことするなよ、わかったか?」

ダッシュは言った。「いや、君の言うそのおかしなことが何を意味しているのかさっぱりわからないな、そもそも僕はなぜここにいるのかもわかってないんだからね」

マークは鼻で笑った。「学者ぶったキモいやつだ」

「褒めてくれてありがとう!」とダッシュは明るく言った。

マークは正面玄関の鍵を開け、店の中に私たちを入れてくれた。大晦日の午後11時だった。ブロードウェイに沿って浮かれた人々の流れができていた。数ブロック離れたユニオンスクエアから大声を上げる人々のお祭り騒ぎが聞こえてきた。

書店は数時間前に閉店していて、店内は静かだった。

私たちのために、私たち二人だけのために、大晦日の夜に店を開けてくれたのよ。

大事なのは人脈ね。

言い換えると、大事なのは、いとこに電話して「あなたが大学に入ったとき、学費を出してあげたのは誰かしら?」と恩着せがましく言いながら、「リリーベアのためにちょっとお願いがあるの」と頼んでくれる大叔母さんがいることね。

ダッシュと私がストランド書店の中に入ると、マークは私たちの背後でドアの閉め、鍵をかけた。それから彼は言った。「上の人に頼んだらこう言われたよ。お前たち二人にストランド書店のTシャツを着せて、ストランド・バッグを持たせて、広告用の写真を撮らせてくれれば、特別に中に入れてもいいって。タブロイド紙がお前らのことをすっかり忘れてしまう前に、お前らの名声に乗っかるつもりなんだよ」

「無理」と、ダッシュと私は同時に言った。

マークは目をくるりと回して、あきれた表情をした。「お前たちはまだ子供だな。考えてもみろ、すべては施しだろ」

それから彼は私たちが考えを変えるのを期待するように、間を開けた。

数秒待ってから、彼は両手を挙げて諦めてくれた。

マークは私の方を向いて、「リリー、ここを出るときはちゃんと鍵をかけろよ」と言い、次にダッシュに向かって言った。「お前、このかけがえのないベイビー・ガールに何かしようとしたら、―」

私を子供扱いしないで!」つい〈金切り声のリリー〉が出てしまった。

おっと失礼。

冷静に、私は付け加えた。「マーク、私たちは大丈夫よ。ありがとう。さあ行って。ハッピーニューイヤー」

「広告写真のことなんだけど、気持ちは変わらない?」

「無理」と、ダッシュと私はもう一度宣言した。

「お前ら赤ちゃん泥棒のくせに」とマークがつぶやいた。

「明日の夕食にはうちに来るんでしょ? 新年だけどクリスマスパーティーよ」と私はマークに聞いた。「ママとパパが午前中には帰ってくるわ」

「行くよ」とマークは言うと、前かがみになって私の頬にキスした。「じゃあな、リリー」

私も彼の頬にキスを返した。「それじゃあ、気をつけて。あなたもおじいちゃんみたいなガミガミ老人にならないように気をつけてね」

「ここまでやってあげたんだから、俺にもそろそろ運が向いてくるかな」とマークは言った。

それから彼はストランド書店の正面玄関の鍵を再び開けて、大晦日の夜の中へ戻っていった。

ダッシュと私は書店の中に残り、お互いに見つめ合った。

本好きにとってこの街で最も神聖な場所で、私たちは二人きりだった。大晦日の夜、この街で一番大きな期待を秘めながら。

「さて、どうする?」とダッシュがほほえみながら聞いてきた。「もう一度踊る?」


クッキング・スタジオからユニオンスクエアやストランド書店のある地区まで地下鉄に乗ったんだけど、私たちの乗った車両ではたまたまメキシコ人の音楽隊が〈マリアッチ〉という音楽を演奏していたの。すべての楽器が揃った5人組編成のバンドで、これぞメキシカンという伝統衣装を着ていたわ。ハンサムな髭を生やした歌い手が〈ソンブレロ〉という大きな麦わら帽子をかぶって、素敵なラブソングを歌っていた。というか私はラブソングだと思ったの。スペイン語で歌っていたから確証はないんだけどね(自分へのメモ:スペイン語を学ぶぞ!)。でもね、近くに座っていた二組のカップルがそれぞれ別々にイチャイチャし始めたんだけど、それがちょうど歌が美しく盛り上がったところだったから、きっと歌詞が凄くロマンチックだったんだと思う。そのとき、その音楽隊の寄付集めの帽子が乗客の間に回されていたんだけど、そこに小銭を入れたくなかったからじゃないと思うけどな。

ダッシュはその寄付集めの帽子に1ドルを投げ入れた。

私は思い切って賭け金を引き上げた。「私と一緒に踊ってくれたら、5ドルにするわ」ダッシュは私を大晦日のデートに誘ってくれた。だからせめて恩返しがしたいと思って、彼に一緒に踊ろうって言ったのよ。でもすでに怖じ気づいているようだった。

「ここで?」とダッシュが屈辱を受けたような顔で聞いてきた。

「ここでよ!」と私は言った。「さあ勇気を出して」

ダッシュは首を振った。彼の頬が明るい深紅色に変わった。

角の席で崩れるように座っていた飲んだくれが大声で叫んだ。「さっさとそのお嬢ちゃんと踊ってやれ、この役立たず!」

ダッシュは私を見て、肩をすくめた。「じゃあ5ドル払って、お嬢さん」と彼が言った。

私はその音楽隊の帽子に5ドル札を落とした。バンドは新たに活気づいたように演奏した。車内はお祭り騒ぎとなり、乗客の期待は最高潮に達した。誰かが隣の人に言った。「あれって赤ちゃん泥棒じゃない?」

「赤ちゃんキャッチャーだよ!」とダッシュがかばってくれた。そして彼は私に両手を差し出した。

私は彼を試すつもりで言ってみただけで、実際に応えてくれるとは思っていなかった。私はダッシュに体を寄せて耳元でささやいた。「私のダンスはひどいわよ」

「僕もだよ」と、彼も私の耳の中に注ぎ込むように言った。

「さっさと踊れ!」と、さっきの飲んだくれが要求してきた。

乗客たちは手を叩いて歓声を上げ、私たちを囃し立てた。バンドの演奏はより激しく勢いを増し、歌声もさらに大きくなった。

地下鉄が〈14丁目通りユニオンスクエア駅〉に到着し、

扉が開いた。

私はダッシュの肩に腕を回していた。彼も私の腰に手を当てていた。

私たちはそのまま〈ポルカ〉のステップで地下鉄を降りた。

扉が閉まり、

私たちはそれぞれの手を相手の体から離した。


私たちはストランド書店の地下にある特別な保管室のドアの前に立っていた。

「中に何があるか当てたい?」と私はダッシュに聞いた。

「たぶんもうわかったよ。この中には赤いノートが切れた時に補充する新しい赤いノートがたくさんあるんじゃないかな、そして君は僕たちがこれからもノートを埋めていくことを望んでいて、たとえば、ニコラス・スパークスの作品について書き合って、相手が書いた手掛かりを頼りにお互いの心を読み合いたいとか?」

「誰?」と私は聞いた。お願い、ふさぎ込むような暗い詩人の名前はもう出さないで。私にはついていけないわ。

「ニコラス・スパークスが誰か知らないの?」とダッシュが聞いた。

私は首を振った。

「ならニコラス・スパークスについて調べちゃだめだよ」と彼は言った。

私はドアの横のフックに掛かっていた保管室の鍵を手に取った。

「目を閉じて」と私は言った。

地下室は寒くて、ダッシュに目を閉じてもらう必要はないほど暗く、どこに何があるのかよく見えなかった。ただ、たくさんの本が保管されていることは、かびっぽくも、とてもいい匂いが充満していることでわかった。それでも何かサプライズ的な要素を醸し出した方がいいかなと思って目を閉じてもらったの。それと、彼が目を閉じているすきに、私は胸の谷間に挟まっているライスクリスピーの粒を取りたかったのよ。

ダッシュは目を閉じた。

私は鍵を回してドアを開けた。

「もうちょっとだけ目を閉じてて」と私は頼んだ。

私はマシュマロがブラにくっついてそこにとどまっていたライスクリスピーの残り一粒をすばやく取り除いた。そしてハンドバッグからろうそくを引き出すと、火を付けた。

寒くてかびの匂いがする室内に灯りがともった。

私はダッシュの手を取って、中に導いた。

彼の目はまだ閉じられていた。その間に私はメガネを外した。改めて考えてみると、―わかんないけど、―外した方がセクシーかな?と思ったの。

私たちの背後でドアがひとりでに閉まった。

「じゃ目を開けて。これはあなたにあげるプレゼントじゃないの。ただのご対面よ」

ダッシュは目を開けた。

彼は私がメガネを外したことに気付かなかった。(あるいは私の視力が低すぎて、彼の反応を見分けられなかったのかもしれない。)

「嘘だろ!」とダッシュが叫んだ。薄ら灯りの中でぼんやりとしか見えなくても、彼には説明は不要だった。セメントの壁を背に製本された何巻もの本が積み上げられていた。彼はそれに触れようと駆け寄った。「オックスフォード英語辞典の完全版だ!アー、ワオ、ウオー、オー、ワオー!」ダッシュは無我夢中だった。まるでドーナツに目がないアニメのホーマー・シンプソンがドーナツを目の前にした時のように、わかりやすい至福のひと時だった。「ウーン...ドーナッツ」

ハッピーニューイヤー。


こんなおかしなことを書くのは明らかにのろけてるみたいで気が引けるんだけど、若いダシールには、なんていうか...爽やかさというか、颯爽とダッシュして駆けていくような雰囲気があるのよ。彼がかぶっている中折れのフェドーラ帽のことを言っているわけじゃなくて、彼の着ている青いシャツが彼の藍色の目にとてもよく合っているって言いたいわけでもなくて、それよりも彼の顔の作りがね、かっこよさと甘さを掛け合わせたみたいで、若いけど賢そうな、抜け目ない感じもあるけど優しそうな、爽やかな顔つきなの。

私にはこういうことはよくあるからどうってことないわ、みたいなクールさを醸し出したかったんだけど、できなかった。「気に入った? ねぇ気に入った?」と、私は世界一美味しいカップケーキを味見している5歳児の熱意で聞いてしまった。

「くっそ気に入った」とダッシュは答えた。そして帽子を取り、感謝の意を示すように私に向かって頭を下げた。

おや。汚い言葉、―爽やかじゃないわ。

彼は「すっごく気に入った」と言ったのよ、そういうことにしよう。

私たちは床に座り込んで、手に取った辞書をめくってみた。

「私は言葉の語源が好きでね」と私はダッシュに話した。「どういうことが起こって、その言葉が発生したのかを想像するのが好きなの」

赤いノートが私のハンドバッグから顔をのぞかせていた。ダッシュはそのノートをつかむと、OEDの「R」の巻から言葉を一つ選び出して、赤いノートにそれを書き込んだ。

「この言葉の語源はどうかな?」と彼が聞いてきた。

彼が書いた言葉は「revel」だった。私はダッシュのひざの上に置かれた「R」の巻を手に取ると、その言葉の項目を読み上げた。「えーと」と私は言った。「Revel。1300年頃発生、『騒々しいお祭り騒ぎ』他の意味は? 動詞としては『浮かれ楽しむ、ごちそうを食べる』、1325年頃発生」

ダッシュが赤いノートに書いた「revel」の横に、私はその言葉が生まれた状況を想像して書いた。ほら、たくさんお食べ、子豚ちゃん。新年のお祝いよ!そうして私たちはかわいそうな罪のない豚を殺してベーコンにして、朝食の席で楽しみながら食べるのよ!それがR-E-V-E-Lね。

ダッシュはそれを読んでくすくす笑った。「じゃあ今度は君が言葉を選んで」

私は「E」の巻を開くと、目に入ってきた言葉を適当に選んで、「epigynous」と書いた。

私は意味もわからずにその言葉をノートに書き写したあと、その意味を読んでみた。Epigynous (i-pi-jә-nәs):リンゴやキュウリやスイセンなどの花の内側にある、胚珠をつつんでいる子房の先端、または先端近くの受粉するための部分。その形容詞形。

こんな思わせぶりな言葉を私は選んじゃったの?

私はみだらな尻軽女(trollop)だってダッシュに思われちゃったかも。

だったらいっそのこと、その言葉「trollop」を選べばよかったわ。

気まずさを吹き飛ばすようにダッシュの携帯電話が鳴ってくれた。

お互いにほっとしたんじゃないかしら。

「もしもし、父さん」とダッシュが電話に出た。彼が前かがみになって肩をすぼめた瞬間、彼の爽やかさもしおれてしまった気がした。彼の声が慎重で控えめになった。なんか...無理に心を開いているみたいな話し方、それが私の感じた彼が父親と話す時の印象だった。「まあ、新年を迎える時は毎年こんな感じだから。酒と女かな」それに対して父親が何か言ってから、「ああ、そう、あのこと聞いたんだ? おかしな話でしょ...」父親が何か言ってから、「いや、父さんの弁護士とは話したくない」父親が何か言ってから、「うん知ってる、明日の夜には家に戻るんでしょ」父親が何か言ってから、「楽しみだよ。父さんと人生について語り合うこと以上に楽しみなことなんてないよ」

私がこんなに大胆になるなんて自分でも不思議だったけれど、ダッシュの父親に対する一貫した重い物腰に私はしびれを切らしてしまった。私は小指を彼の小指に近づけ、安らぎを求めるように、そっとくっつけてみた。そしたら磁石のように、彼の小指が私の小指にしがみついてきて指と指が絡み合った。

私はその磁石みたいな密着感がすっごく好き。


「さて、その言葉についてだけど」とダッシュが父親との電話を終えた後に言った。「Epigynousだっけ?」

私は跳び上がって、気まずくならないような言葉が載ってそうな別の本を急いで探した。そして『都会人がこっそり使う用語辞典』なる本があったので、それを手に取り、適当にページをめくった。

「ランニング・ラテ」と私は大きめの声で言った。「意味は『コーヒーを飲むために寄り道して遅刻すること』」

ダッシュがまた赤いノートに何かを書き始めた。

ごめんなさい。僕はランニング・ラテのため(コーヒーを飲むために寄り道しているので)、あなたのバル・ミツバー(ユダヤ人の男子が13歳になる時に行われる儀式)に遅れます。

私もペンを取って書き加えた。あなたのタキシードにコーヒーをこぼしてしまったことも、ごめんなさい!

ダッシュが腕時計を見た。「もうすぐ12時だね」

私の胚珠をつつんでいる子房の辺りがうずいた。ダッシュは私が彼をこの保管室に連れ込んだのは、年が明けた瞬間にキスをするという、恐ろしい(あるいは素敵な?)儀式をするためだって思ってるのかな?

もし私たちがこの部屋にあんまり長くいたら、ダッシュは私が全く経験がないってことを知るかもしれない。私が彼としたくてたまらない色々なことに全然慣れてないってことを知られちゃう。

「あなたに言わなくちゃいけないことがあるの」と私は静かに言った。私は自分が何をしているのかわかってないけど、どうか私を笑わないで。迷惑かもしれないけど、お願い優しくして、そっと私を押し倒して。

「何?」


私は彼にそう言うつもりだった。本当にそう言おうとしたのに、私の口をついて出たのは全然違うことだった。「ひねくれ君人形のことなんだけど、カーミンおじさんから返してもらったわ。あの子ね、この保管室でいろんな参考図書に囲まれて暮らしたいって言うの。くるみの中で窒息するより古い書物のかびの匂いを嗅いでいたいんだって」

「ひねくれ君って賢いんだね」

「そしたらあの子に会いに来るって約束してくれる?」

「そんなおかしな約束はできないよ。人形に会いに来るなんて」

「あなたはあの子に対してそうする義務があるでしょ」

ダッシュはため息をついた。「じゃあ会いに来ようとはしてみるよ。ただ、あの意地の悪いマークっていう君のいとこが僕をストランド書店に入れてくれればね」

私はダッシュの頭の向こうに目をやって、壁に掛かっている時計を見た。

もう年は明けていた。

はぁ。



1月1日


「こんな機会はめったにないよ、リリー。ほら、今ストランド書店には僕たち二人しかいないんだからさ、この状況を最大限に活用すべきじゃないかな」

「どうやって?」私の心臓が両手と同じくらい激しく震えていた。そんなことってあり得る?

「上の階に行って通路で踊ろうよ。それからサーカス団の変わり者たちの本とか、沈没船に関する本とかをじっくり読もう。料理本のコーナーに行って、究極のライスクリスピーの作り方みたいなレシピ本をあさるっていう手もある。あ、そうだ、僕たちはあの本の第4版を探さなくちゃ、ほら、『ゲイの―」

「わかったわよ!」と私は金切り声を上げた。「上に行きましょ!私も変わり者に関する本は大好きよ」だって私がそうだから。あなたもそうかもしれないわね。変わり者同士仲良くすればいいんでしょ?

私たちは保管室のドアに向かって歩いていった。

ダッシュが意味ありげに私に体を寄せてきた。誘惑するように、彼は片方の眉をつり上げ、ロマンチックな言葉を待ち構える私の耳元で、こう宣言した。「夜はまだ始まったばかりだ。このずらっと全巻揃ったOEDを堪能する時間はまだたっぷりあるよ」

私はドアノブに手を伸ばし、それを回した。

しかしドアノブはぴくりとも動かなかった。

この部屋に入ったとき、私はろうそくに灯りをともして雰囲気を演出しようと、そればかり考えていて、明かりをつけようとは思わなかった。そのときは気付かなかったけれど、電灯のスイッチの横に手書きの貼り紙があった。それにはこう書かれていた:


注意!

ドアの外側の壁に貼ってある大きな注意喚起を見逃した場合、これを読んでください:

スタッフのみなさん!何度注意されればわかるんですか?

この保管室のドアは自動的にロックされます。

必ず鍵を持って中に入ってください。そうしないと外に出られなくなりますよ。


ちょっ、

ちょっとちょっとちょっと待って待って待って待って、

待ってよ!!!!!!!!!!!!!!!!!

私は振り返ってダッシュの顔を見た。

「あの、ダッシュ?」

「ん、どうかした?」

「なんか私たち、ここに閉じ込められちゃったみたい」


私は他に方法も思いつかず、いとこのマークに助けを求めて電話した。「なに起こしてくれちゃってんだよ、リリー・犬の散歩屋」と彼は受話器越しに怒鳴ってきた。「知ってるだろ、俺は毎年大晦日の夜は、あのタイムズスクエアのくだらないボールが落ちる前に寝るって決めてるんだよ」

私はこの窮地を説明した。

「やれやれ」とマークは言った。「今回の窮地も大叔母さんのアイダに頼めばどうにかしてくれるんじゃないか?」

あなたなら簡単でしょ、マーク!」

「俺は嫌だって言うかもよ」

「あなたは言わないわ」

「言うよ。そもそもお前が大叔母さんを使って俺を脅したりするから、そんなことになるんだ。精神的な脅迫の連鎖が、めぐりめぐってお前とあのくだらない男をそこに閉じ込めたんだよ」

それは一理あった。

私は言った。「あなたが助けに来てくれないのなら、警察に電話してここから出してもらうわ」

「もしそんなことすればな、『ポスト』やら『ニュース』やらの記者たちがすぐに聞きつけるぞ。報道機関は警察の無線通信を傍受してるからな。そしたらお前はまた新聞の見出しになる、二度目の表紙だな。ちょうどお前のママとパパがJFK空港に降り立って、朝の売店でお前が載ってる新聞を見るってわけだ。どうせ、お前の両親やおじいちゃんはお前が女友達の家で大晦日の夜を過ごしてるって思ってるんだろ、男と一緒だとは思ってないよな。お前の味方のラングストンやミセス・バジルはかばってくれるだろうが、今回のスキャンダルが公になれば、お前はもう二度と一人で外出させてもらえなくなる。まあ言うまでもなく、マスコミ沙汰になれば確実に俺も職を失うことになるが、それはさておき、リリー? 最悪のシナリオは何だと思う? 今後、世界中の10代の若者がストランド書店の地下にある秘密の倉庫に隠されたOEDを閲覧したいと思ってもだな、それが叶わなくなるってことだ。それもこれも、お前とあの学者ぶったキモいやつが大晦日にOEDを閲覧したいなんてむちゃなことを言い出したせいだ。世界中から恨みを買うんだよ。リリー、お前はそれに耐えられるか? おー怖っ、そんな人生ホラーだな!」

私は答える前にちょっと間を置いて、ダッシュの顔を見た。ダッシュは私の隣に立って会話を聞いていたんだけど、彼が笑っていたから、私もほっとした。

「あなたがそんなに意地悪だとは思わなかったわ、マーク」

「しょうがない、お前を助けてやる。でも今すぐじゃない。このマーク様はとりあえず寝る。最後まで寝ないと気が済まないたちなんだ。それから物分かりのいいマーク様は、7時に起きて、そのちんけな窮地からお前たち二人を救いに行く。だが太陽が昇る前はだめだ」

私は最終手段としてある作戦を試みた。「ここで私と二人きりになったらね、ダッシュがはしゃいじゃって、じゃれてくるのよ」私はマークに言うふりをしてダッシュにこう言いたかった。私と二人きりになったんだから、もっとはしゃいで、じゃれてきてよって。

ダッシュは私を見ると、再び片方の眉をつり上げた。

「いや、そうは思えないな」とマークが言った。

「どうして思えないの?」

「もしそいつがそんな感じなら、お前はこうして俺に助けを求めて電話なんかしてこないだろ、どうだ俺様の透視術は。さあ、カードは配られた。お前はそいつのことを知りたいんだろ、チャンスじゃないか。夜はお前たちのものだ、好きに使っていいんだよ。俺はぐっすり寝てからそこへ行く。トイレなら、保管室の奥の角にクローゼットがあって、その中にあるから我慢できなくなったら使えばいい。そんなにきれいじゃないかもな。たしかトイレットペーパーもなかったな」

「もうあなたなんか大っ嫌いよ、マーク」

「朝になったら俺に感謝するよ、リリーベア」


ダッシュと私は、10代の若者が二人きりで地下の倉庫に閉じ込められたら誰でもするだろうことをした。

私たちは冷たい床の上に肩を寄せ合って座ると、〈ハングマン〉(アルファベットの数だけを示して、一文字ずつ相手の考えた単語を当てるゲーム)をした。

S-N-A-R-L.(ひねくれている)

Q-U-I-E-S-C-E-N-T.(静止している)

私たちはいっぱいしゃべって、たくさん笑った。

彼は私にやらしいことは何もしてこなかった。

私は自分の人生について、いつになく大きな視野で考えた。―私が生涯を通じて出会うであろう人たち(特に男の子たち)について考えてみた。どうやったらその瞬間が訪れたってわかるのかしら? 事前に先読みした予感と現実が一致して...縁が結ばれる、その時が来たって。

「リリー?」とダッシュが午前2時に言った。「そろそろ寝ようか? それと、僕は君のいとこを恨むよ」

「私と一緒にここに閉じ込めたから?」

「いや、ヨーグルトのないここに閉じ込めたから」

食べ物!?

そういえば、私のハンドバッグの中にレープクーヘンスパイス・クッキーが入っていたんだった。度を超した量のライスクリスピーもあるけど、ライスクリスピーをこれ以上食べたら、私はきっと〈クリスピー人間〉になっちゃう。それで私はクッキーの入ったビニール袋を取り出すことにした。

ハンドバッグの中に手を入れてクッキーを探しながら、私はちらっと視線を上げた。そしたら、あの爽やかな顔がじっと私を見ていた。きっと何か性的なことを示唆しているはずの表情だった。

「君はほんとに美味しいクッキーを作るよね」とダッシュが言った。ウーン...ドーナッツの口調だった。

私は彼が何かしてくるのを待つべきなの? それとも思い切って私から行動に移すべき?

まるで彼も同じことを考えていたかのように、彼が私に覆いかぶさってきた。これよ、その時が来たわ。ついに私たちの唇と唇が重なり合った。―と思った瞬間、ゴツンとおでことおでこがぶつかってしまった。それはロマンチックなキスとは程遠いものだった。

私たちはその衝撃で体を離した。

「痛っ」と、私たちは同時に言った。

沈黙。

ダッシュが言った。「もう一回する?」

こういうことって、まず会話をしなくちゃいけないようなことだとは思ってもみなかったわ。唇をうまく操るって難しい作業なのね、やってみないとわからないものね。

「うん、どうぞ」

私は目を閉じて待った。それから私は彼を感じ、彼の口と私の口が結ばれた。彼の唇が私の唇にそっと乗っかり、いたずらっぽくこすり合わされた。私はどうすればいいのかわからなかったので、彼の動きを真似することにした。私もゆっくり彼の唇に私の唇をこすり合わせ、幸福感とともに彼の唇の中に入っていた。混じり気のないロマンチックなキスがたっぷりと数分間続いた。

この全身で感じる衝撃的な心地よさを表す言葉が辞書に載っているとすれば、「sensational」(素晴らしく刺激的な)しかないでしょう。

「もっと、お願い」と私は、呼吸をするために口を離した彼に頼んだ。私たちはおでこをくっつけあったまま、酸素を吸い込んだ。

「正直に言っていい? リリー」

え? ここに来て恐れていたことが? 私の希望を打ち砕く拒絶の言葉を投げつけられるの? 私のキスが下手だったってこと? まだ始まったばかりだと思ってたのに。

ダッシュは言った。「僕はかなり疲れてて気を失いそうなんだ。今夜はもう寝て、明日また続きをするっていうのはどう?」

「これから頻繁にしてくれる?」

「うん、もちろん」

私は彼にチュッと口づけしたあと、1分くらいセンセーショナルなキスをして、それでよしとした。今夜のところはね。

私は頭を彼の肩に乗せ、彼も私の肩に頭を乗せた。

そして一緒に眠りに落ちた。


電話で凄みを利かせて予告してきた通り、いとこのマークは元日の朝7時過ぎに私たちを救いにやって来た。階段を下りてくるマークの足音が聞こえたとき、私の頭はまだダッシュの肩の上に収まっていた。目を開くと、光がドアの下の隙間から溢れるように入り込んできた。

私はダッシュを起こす必要があった。それから、これが全部夢ではないと信じる必要もあった。

視線を下に向けると、赤いノートがダッシュのひざの上に載っているのが見えた。彼は夜中私が眠っている間に起きたに違いない。そして何かを書いたんだわ。ペンがまだ彼の手に握られている。ノートは開かれたままで、新しいページが彼の落書きで埋まっていた。

彼は「anticipate」(先読みする)という言葉とその意味を書き出していた。その横に、派生語:ANTICIPATOR(先読みする人)と、大きなゴシック体で書いてあった。

その下には、漫画のアクションヒーローのような二人の人物が描かれていた。二人のマントを羽織った十字軍の戦士っぽい人物のスケッチで、二人とも10代に見えた。一人はフェドーラ帽をかぶった男の子で、もう一人はサングラスをかけ、バトンガールのブーツを履いた女の子だった。一人がもう一人に赤いノートを手渡している。そして、The Anticipators(相手の心を先読みし合う二人)と、その絵のタイトルが書かれていた。

私はほほえんだ。そして笑顔を保ったまま、彼を起こすことにした。彼が目を開けたとき、彼の目に映る最初の人物になりたかった。彼のことがこんなに好きな私のとびっきりの笑顔で、目覚めた彼を出迎えたかった。新しい年の、新しい朝の、最初の人になりたかった。そして、この新しく私の人生に登場した人を、やっと名前を教えてくれた人を、私は全力で慈しみ、大切にしようと思った。

私は彼の腕をそっとつついた。

私は言った:

「起きて、ダッシュ」






〔訳者あとがき〕


「日本語版がないもので、恋愛系で、苦しくない小説」というぼくの事前の要望に十二分に応えてくれた小説でした。つまり、『ダッシュとリリーの冒険の書』は〈当たり〉の小説でした。

「苦しくない小説」というのは、随所に(笑)を補いながら読める小説のことで、まさにこの小説はぼくの好みにぴったりはまった感があって、楽しく訳せました。


「訳す」という行為は、インプットにとどまらず、自分の内側に取り込んだ情景なり感情なり概念を、アウトプットする行為までをも含むので、体感として、とても気持ちのいいエクササイズをした、というのが今の感想です。

ただ、毎日運動しようと決心しても気持ちが続かないのと同様に、たまには(あるいは頻繁に)さぼりたくなり、訳し終えるのに9ヶ月もかかってしまった。(べつに9年かかっても、悲しいことに何の問題もない。笑)

翻訳ペースについては、本当に(コントロール不能な)気分次第で、週に2日くらいしか訳さなかった月もあったけれど、8月(特に8月後半)は、かなりのハイスピードで訳せた。(35キロを過ぎたマラソンランナーがラストスパートするかのように、もちろんぼくには沿道からの声援は聞こえてこないけれど、グレン・グールドが弾くバッハやベートーベンをリピート再生させ若干ハイになりながら、オリンピックでは入賞できないとしてもアジア大会では表彰台に上がれるくらいの、高速のラップタイムを叩き出せたのではないかと思う。笑)


ペースは気持ち次第とはいえ、完走できた最大の理由は(ぼくの背中を押してくれた最大の風は)、この小説の(最初から最後まで揺るぎなくつらなっていた)多彩な魅力に他ならない。色とりどりの風がぼくをゴールまで運んでくれたというわけだ。

『ティファニーで朝食を』のオマージュというか、リスペクトも随所に見て取れて、ティファニー・フリークのぼくとしては何度も唸ってしまった。笑

それから、この小説にはニューヨークの観光スポットがいくつも登場する。この小説自体が〈観光ガイドブック〉として成り立つのではないか、と思えるほどの充実ぶりである。

しかし、輝きを放っているのは観光名所よりも登場人物たちの方で、彼らの心の動きに本物感(生きてる感)があるからこそ、彼らの目を通して観光名所の情景もはっきりと見えてくるのだと思う。つまり、「場所」を描写するよりも、その場所にいる「人物を生かす」ことができれば、自ずと「場所」は鮮明に浮かび上がる、ということをこの小説は教えてくれた。いつかぼくが小説を書くことがあれば、心がけたい指針になった。

ストーリーも同様に、登場人物がしっかり生きていると感じられたので、どんなに突飛な展開でも「本当らしさ」を保ったまま、ごく自然に受け入れることができ、感動させてもらった。

ぼくの翻訳というフィルターを取り抜けた後も、彼らが生きていることを願うばかりである。


この小説の日本語のタイトルは、9ヶ月間考え続けた末、『ダッシュとリリーの冒険の書』にしました。

原題『Dash and Lily's Book Of Dares』を直訳すると、『ダッシュとリリーの度胸試しの本』という感じになるんだけど、「度胸」や「挑戦」という言葉よりも、「冒険」がしっくりくるな、というぼくの好みです。ダッシュとリリーがいくつもの(お互いが投げかける)Daresを乗り越えて、レベルアップしていく過程の記録という意味も込めて、「冒険の書」にしました。

『ダッシュとリリーの交換日記』というタイトルはちょっと意訳すぎるなと思い直して、やめました。笑


この期間を思い返すと、訳しながら何度も笑い、何度も感動して涙をこぼし、そうやって登場人物たちと喜怒哀楽をともにできた、ぼくの一生の中でも貴重な、きらめく9ヶ月間(彼らにとっては11日間)の、心の冒険でした。


この小説の最初の訳者になれた幸運に感謝したい。(←「訳者あとがき」でよく見かけるこの種の台詞、ぼくも書いてみたかったーーー!!!笑)

願いが叶ったからもういつ死んでも悔いなしと思ったけれど、もう一つだけ夢が残っていた。笑

「出版社の〇〇さんにも深く感謝している」みたいなことも書いてみたいーーー!そして、それを読んだ〇〇さんと僕の冒険が始まる...







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