Saturday, September 11, 2021

『ダッシュとリリーの12日間(The Twelve Days of Dash and Lily)』

『ダッシュとリリーの12日間(The Twelve Days of Dash and Lily)』 by レイチェル・コーン、デイヴィッド・レヴィサン 訳 藍(2018年09月02日~2019年06月30日)



1

ダッシュ

ヤマウズラ鳥のツリーになる洋ナシの実


12月13日(土曜日)

僕とリリーが付き合い始めてもうすぐ一年になる。これまで僕はなんとか彼女の兄に気に入られようと、あれこれ試みたつもりだけど、どうしても彼は僕を信頼してくれないというか、僕とリリーは不釣り合いで、僕と付き合うことは彼女にとって良くないと思っているのだ。だから彼女の兄から僕と二人きりでランチを食べたいと誘われたのは、ちょっとした衝撃だった。

送る相手間違ってませんか? と僕は彼に返信した。

そんなにつんつんしないで。じゃあ話はその時に。と彼からメールが返ってきた。

なぜ彼が僕と会いたがっているのか、何について話したいのか、実はなんとなくわかっていた。僕の邪推だと頭から振り払おうとしても、それに拮抗する力でまとわりついてくる嫌な予感があった。

彼は僕を誤解している。でも彼の誤解ではないこともあって、たしかに一つ問題があったのだ。


この一年は結構大変だった。

最初の頃はまだ順調だった。順調すぎて、最高!とか超嬉しい!とか、そういう庶民が口にする言葉を僕も多用してしまったほどだった。というのも、去年のクリスマスから今年の初めにかけての期間が、毎年恒例の大量消費からの停滞期という流れから外れ、特別なものを僕にもたらしてくれたからだ。新年の幕開けとともに、僕の目の前にはリリーが、―キラキラ輝く、信頼に値するリリーがいた。彼女という存在は、あの慈悲深い太った男(赤い衣装に身を包み、ターボエンジンを装着したそりに乗ってプレゼントを配って回る男)の存在に信憑性を与えてくれたし、〈時の神〉が新しい年を告げ、さあ、今年もしっかり生きろ!と頭ごなしに言ってきたときも、彼女のおかげで〈時の神〉に感謝したい気持ちだった。僕が元々持っている皮肉なものの見方に対してさえ、僕自身が少し懐疑的になるくらい、彼女は僕を変えてくれたのだ。僕たちの大好きな書店、ストランド書店の地下にある貴重な本の保管室で、僕たちはイチャイチャしながら新年を迎えた。今年は良いことがたくさん起こりそうだという予感があった。

そしてその予感は、一定期間は正しかった。

彼女は僕の仲間たちと会い、良い関係を築いていた。

僕も彼女の、次から次へととめどなく登場する親戚のみなさんとまずまずうまくやっていた。

彼女は僕の両親(とそれぞれのパートナー)とも会った。暗い雲に覆われたような息子が太陽のような女の子を家に連れてきたことに、両親ともに驚き困惑していた。とはいえ彼らがケチをつけるはずもなく、むしろ神の思し召しでも感じたかのように、まるでニューヨークきっての人気店で特上のベーグルを買えたみたいに、あるいは、50ブロックもの区間を赤信号に引っかかることなくタクシーが進んだみたいに、もしくは、ウディ・アレンが監督した多くの映画の中から、5本に1本しかない〈当たり〉の作品を引き当てたみたいに、ちょっと興奮ぎみに彼女をもてなしていた。

僕は彼女の大好きなおじいちゃんにも会った。彼は握手したときの僕の手の感触を気に入ったようで、握手すれば大体どんな男なのかわかる、と言っていた。初対面で気に入られたとはいえ、油断はできなかった。なにしろ彼女のおじいちゃんは、両目を爛々と光らせながら50年前に観戦した野球の試合を、まるで昨日のことのように事細かに話す人だったから。

リリーの兄のラングストンはさらに手ごわい存在だった。たいてい彼は僕たちを放っておいたし、僕も彼のことは気にしなかった。べつに僕は彼女の兄と一緒にいるためにリリーと付き合っているわけではない。僕がリリーと付き合っているのは、リリーと一緒にいるためなのだから。

そして僕とリリーはいつも一緒にいた。僕たちは同じ学校に通っているわけではないし、それほど近所に暮らしているわけでもない。それで僕たちはマンハッタンで待ち合わせて、そこで遊んでいた。霜が降りたセントラル・パークではしゃぎ回り、シンク・コーヒーでひと休みしてから、IFCに行って、そこで上映していたあらゆる映画を見まくった。僕はニューヨーク公共図書館の大好きなコーナーに彼女を連れて行き、逆に彼女は僕の手を引き、〈ルヴァン〉に連れて行ってくれた。そこで彼女のお気に入りのデザートを一緒に食べた...とはいえ、店内のすべてのデザートが彼女のお気に入りみたいだったけれど。

マンハッタンの街はそうやってはしゃぎ回る僕たちのことなど全く気にしていない様子だった。

1月から2月になり、寒さが街の骨の髄まで浸透し始め、笑顔を作ることさえ容易ではなくなった。空から降ってくるときは魅惑的だった雪も、道端に積もり凍り付き、長くそこに留まり続けるうちにありがたくない存在になっていった。僕たちは重ね着をして街を歩くようになり、街の肌触りをじかに感じられなくなった。

それでもリリーは、―リリーにはそんなことはお構いなしだった。リリー自身が手袋であり、ホットチョコレートであり、地上から浮かび宙を舞う雪の天使だったのだ。彼女は自分で冬が大好きだと言っていたけれど、僕には彼女に嫌いな季節があるとも思えなかった。僕は彼女のそんな熱意を真摯に受け止めようとした。けれど心の受け皿を変えるのはなかなか困難だった。僕の内側にある暖炉のようなものは、元々自身の懺悔のために、いわば身を焼くために心の中に築き上げたものであって、暖を取るためではない。だからリリーがそうやって彼女自身の内側から発する熱で幸せになれることが、僕には不思議で仕方なかった。しかしそういう彼女こそ、僕が恋に落ちた人なのだ。僕は疑問に思うのはやめて、むしろ彼女の暖炉に取り込まれて過ごそうと思った。

それから季節が変わり、5月になった。

僕はリリーへの誕生日プレゼントとして赤いセーターを編んでいたんだけど、彼女の誕生日の2日前になっても完成するめどが立たず、親友のブーマーを呼び出して手伝ってもらうことにした。いくらYouTubeを見ても半日で赤いセーターを編み上げる方法など教えてくれなかったから、ブーマーと二人でひたすら編み続けていた。携帯電話が何度も鳴ったみたいだけど、僕は編み物に集中していて聞こえなかったし、かすかに鳴っている気配がしても、僕の両手は塞がっていて出られなかった。2時間ほど経ってから携帯を見たら、大量のメッセージが届いていた。

そうして僕は彼女の大好きなおじいちゃんが軽い心臓発作で倒れたことを知ったのだ。聞いたところによると、心臓発作を起こしたタイミングが悪く、彼はアパートメントの上の階の自室に戻る途中に、つまり階段を上っているときに発作に襲われたらしい。彼は倒れ、階段を転がり落ちた。かろうじて意識はあったものの、リリーが帰宅して発見するまで、彼は少なくとも30分間そこに倒れていた。彼女はすぐに救急車を呼び、10分程度で救急車は到着したけれど、彼女には果てしなく長い10分間だった。彼女が見守る中、救急隊によっておじいちゃんは階段を下ろされた。救急車の中、彼女が見守っている横で救急隊はおじいちゃんに蘇生術を施した。そして病院の待合室で彼女が待っている間(そこでは見守ることはかなわなかった)、おじいちゃんは生死の境をさまよい、なんとか持ちこたえて、こちら側に生還した。

その時、彼女の両親は外国にいた。ラングストンは大学で授業を受けていて、授業中携帯を見ることは禁止されていた。僕は彼女を驚かせようと編み物に励んでいたので、彼女からの電話に気付かなかった。結果、彼女は〈ニューヨーク長老派教会病院〉の待合室で一人ぼっちだった。彼女にとってかげないのない存在であるおじいちゃんを失いかけながら、彼女は自分の中の生命力の輝きまでも失いかけていた。いつか失うことになるとは夢にも思っていなかったはずの輝きを。

おじいちゃんはなんとか生き延びたけれど、回復するにはかなりの時間が必要だった。彼は助かったけれど、回復までの道のりはかなりの苦痛を伴うものだった。彼が回復したのは、リリーが彼を支えたからに他ならない。しかし同時に彼女の心身に大きな負担がのしかかった。もちろん彼を死なせてしまうことは辛いことだろうけど、彼が苦しみ続けるのを、彼の心が折れそうになるのを、そばで見続けることもまた、ほとんど同程度に辛いことだった。

彼女の両親が帰国した。ラングストンは大学を休学してもいいと申し出た。僕も付き添ってもいいと言った。でもそれは彼女のやるべきことだった。おじいちゃんは彼女が責任をもって面倒を見ると彼女は言い張った。彼女には他の選択肢は考えられなかった。そしておじいちゃんも苦痛に喘いでいて、彼女にものが言える状態ではなかった。なにも僕はおじいちゃんのせいだと言っているわけではなくて、―というか誰のせいでもないんだけど、リリーは僕がもう一度人生にしっかり足をつけて歩けるようにしてくれた人だから、彼女は僕を生命力の溢れる世界に連れ戻してくれた人だから、また前みたいにそういう人になってほしかった。彼女の内側からほとばしる命の輝きを感じられなくなってさえも、そう願った。

事態が悪くなっていくとき、一番傷つくのはいつも、信念を持って行動している人なんだ。そういう状況にあっても彼女は何も話そうとしなかったし、僕も彼女にその状況を違う角度から見せてあげるだけの言葉を持ち合わせていなかった。彼女が僕に心の拠り所になってほしいと言ったから、僕は気を良くして彼女を支えようとした。でも僕は椅子や柱のような、ただそこにあって受動的に支えるタイプの人間だから、自分以外の人が立ち上がるのを積極的にサポートすることなどできなかった。そうこうしているうちに彼女のおじいちゃんは手術したり、手術したことによる合併症を患ったり、理学療法を試したりして入退院を繰り返した。彼女と僕が一緒に過ごす時間は少なくなっていった。二人で街をあてもなく歩いて過ごすことも少なくなり、お互いの考えていることにあれこれ思いをはせることも少なくなった。

試験期間は瞬く間に過ぎ去り、―夏休みに入った。リリーはおじいちゃんがリハビリのために通っている病院でボランティアの仕事を始めた。それはおじいちゃんともっと多くの時間を過ごすためでもあったけれど、おじいちゃんのように手助けを必要としている他の患者さんたちにも手を差し伸べたいという気持ちからだった。僕は後ろめたい気持ちになった。というのも彼女が病院でボランティアをしている間、僕は母親と母親のパートナーと一緒にモントリオールへ旅行に行き、その旅行から帰ってくると、今度は父親と父親のパートナーと一緒にパリまで小旅行に行っていたのだから。父親は「母親とモントリオールに行ったのなら俺はパリに連れて行く」という、単なる母親への対抗意識で僕をパリまで連れて行ったのだ。僕は「なんでパリになんか連れてきたんだよ」と父親に怒鳴りながら、なんて僕は子供なのだろうと実感し呆れた。その旅行中ずっと僕は父親の元を離れ、リリーの待つ国に帰りたいと思っていた。

夏休みが終わり新しい学年が始まると、状況はだいぶ良くなった。彼女のおじいちゃんは再び歩けるようになり、「わしのことはもういいから、お前はお前のために生きろ」と言ってリリーを追い払うようになった。僕はそれでリリーは安心しただろうと思ったし、彼女もほっとした素振りを見せてはいた。でも彼女はまだ心のどこかで怖がっているようだった。それでも僕は彼女のそんな気持ちを問い詰めることはせずに、僕も彼女と一緒になって、すべては順調だというふりをした。そう思っていれば、水路が切り替わって水の流れが変わるように、そのうち〈半分嘘〉が〈半分以上真実〉になり、そして最後にはすべてが本当にうまくいく気がした。

僕たちはまた元に戻ったんだと思い込むことはたやすかった。実際学校生活は絶好調で仲間たちに囲まれ楽しく過ごしていた。僕たちは有り余るほどの時間を手にし、再びぶらぶらと街を練り歩いたり、逆に街の喧騒から離れて静かに過ごしたりした。彼女の内面には僕の手の届かない領域があったけれど、僕が触れることのできる部分もたくさんあった。たとえば、彼女は犬を連れている人を見ると、「ほら、飼い主って飼い犬に似てるでしょ」と言って笑ったし、一緒に見ていたテレビ番組で、レストランが有罪判決を受けるぎりぎりのところで持ちこたえて名誉を回復したときには涙を流した。彼女の内側にはそういう部分があるのだ。それから彼女はいつ僕が訪ねてきてもいいように、彼女の部屋に純植物性のマシュマロを一袋常備してくれていた。僕が一度彼女に、それが凄く好きだと言ったからだ。

僕たちの間に亀裂が見え始めたのは、クリスマスが近づいてきた頃だった。


以前の僕はクリスマスシーズンになると気持ちがしぼんでしまい、なんだか自分が手のひらサイズのギフトカードと同じくらいちっぽけに、あるいはギフトカードに書かれた言葉くらい無味乾燥な存在になった気がした。この時期になると、通りが観光客でごった返して血流が鈍った血管のようになることにうんざりしていたし、普段の小気味よく脈打つような街の音が、観光客の薄っぺらな会話、お決まりの常套句でかき消されるのも耳障りだった。大概の人はクリスマスまでになんとか買い物を済ませようとクリスマスまでの日にちをカウントダウンしているけれど、僕の場合はさっさとクリスマスを終わらせたくてカウントダウンしていた。クリスマスが終われば、殺風景にはなるけれど真の意味での冬がやっと始まるから。

僕の心にはおもちゃの兵隊の内部みたいな空きスペースはなく、リリーの入り込む余地はないはずだった。それなのにリリーが強引に入り込んできて、しかもクリスマスまでも僕の心の中に運び入れてしまった。

とはいえ、誤解しないでほしいんだけど、―毎年年末になると口先だけ慈悲深くなって、年が明けるとそんな慈悲の心も、めくられた12月のカレンダーとともにすっかり忘れてしまうような人たちを、今でも僕はかなりうさんくさいと思っている。リリーの場合はそうではなくて、彼女は一年中優しさを身にまとっているからこそ、それが彼女の一部になって、しっくり似合っているのだ。そして僕もようやく、周りの人たちがまとう優しさのようなものが見えるようになってきた。―僕は〈ル・パン・コティディアン〉でラングストンを待ちながら、周りの人たちをぼんやり観察している。お互いを見つめ合っているカップルが何組かいて、その中には、彼らのまなざしから末永く続きそうな寛容さが溢れているカップルもいる。子供を見つめる親のまなざしは(たとえ子供をしかっているときでも)、ほとんどが思いやりに満ちている。そう、僕はリリーがまとっている優しさの一片一片をそこかしこに見ているのだ。最近リリー自身はそれをどこかに置き忘れてしまった様子だけど。

そう感じているのは僕だけではないことが判明した。ラングストンが僕の向かいの席に座り、開口一番こう言ったからだ。「わかるだろ、本当は君とランチなんか食べたくないんだ、でもなんとかしないといけないんだよ。今すぐに何か手を打たなきゃならない」

「何かあったんですか?」と僕は聞いた。

「クリスマスまであと12日しかない、そうだろ?」

僕は頷いた。今日は12月13日だから、たしかにそうなる。

「12日後にはクリスマスが来てしまうっていうのに、なんていうか、我が家にはぽっかり大きな穴が開いている。どうしてだと思う?」

「シロアリ?」

「冗談を言いに来たわけじゃないんだ。僕たちのアパートメントにぽっかりできた空白のスペース、そこにあるべきはずのクリスマスツリーがないんだよ。普段のリリーなら、11月の感謝祭で食べきれなかったごちそうがまだ残ってるうちから、焦ってツリーを買いに走るんだ。―それが彼女のモットーだから。つまり、この街では良い物はすぐに誰かに取られてしまう。ぐずぐずしてると、クリスマスを祝うには物足りないようなツリーしか残ってないんだ。だから毎年我が家には12月に入る前からツリーが立っていて、それからリリーはたっぷり2週間かけて飾り付けをする。そして14日には毎年恒例の点灯式を家族みんなで執り行うしきたりになっている。―リリーは7歳の頃から毎年やってるから手慣れたものだし、彼女がさぞ当たり前のように準備してるから誰も疑問に思わない。今では当然やるべき我が家の伝統行事として定着してるんだ。なのに今年は何もない。ツリーがないんだよ。飾り付けの道具はまだ箱にしまったままだっていうのに、点灯式は明日に迫っている。ミセス・バジルは明日のための料理をすでに発注してしまった。―そして僕はミセス・バジルに、実は点灯式で点灯するツリーがないんですよ、とは言えない」

ミセス・バジルに言えないと怖がっている彼の気持ちが僕には理解できた。彼らの大叔母さんのことをみんなはミセス・バジルと呼んでいるんだけど、その大叔母さんが彼らのアパートメントのドアを開けた瞬間に、鼻を利かせてツリーがないことを察知し、あからさまに嫌な顔をする姿が目に浮かんだ。ミセス・バジルはやるべきことをやらないと目くじらを立てる人だから。

「じゃあ、ツリーを買ってくればいいんじゃない?」と僕は聞いた。

ラングストンは僕の愚かさに呆れたという様子で、彼のおでこをピシャリと叩いた。「わかってないな、それはリリーの仕事なんだよ!リリーが毎年楽しみにしてることだから、もしリリー以外の誰かがツリーを買ってくれば、リリーはツリーを準備しないんだねって彼女に言ってるみたいなものだし、そんなことしたら彼女はもっと気分を悪くするよ」

「ああ、なるほど、そういうことね」と僕は言った。

ウエイトレスがやって来て、僕たちは二人ともパン類の軽食を注文した。―お互いにしっかりとした食事を頼んでも、食べ終わるまでの時間をもたせるだけの話題がないことに思い当たったのだろう。

注文が済むと、僕は話を続けた。「彼女にはツリーのことを聞いたんですか? つまり、今年はツリーを買わないの?って」

「聞いたよ」とラングストンが言った。「単刀直入に聞いた。―『おい、ツリーは買ってこないのか?』って、そしたら彼女はなんて答えたと思う? 『今はそういう気分じゃないの』だって」

「なんか全然リリーらしくないな」

「そうなんだよ!だからまずい状況だと思った。早急に何か手を打たなきゃまずいって。それで君にメールしたんだ」

「でも僕にどうしろと?」

「彼女は君に何か言ってなかったか?」

ラングストンとの会話がなんとなく打ち解けてきたとはいえ、僕は彼にありのままを話すつもりはなかった。つまり、リリーと僕は感謝祭から数週間たいした話をしていないなどとは口が滑っても言いたくなかった。僕たちは時々美術館に行ったり、一緒に食事したりしていた。時にはキスしたり、軽くイチャイチャすることもあった。―といっても、CBS(お堅いテレビ局)で流せないようなことまではしなかった。まだ一応付き合ってはいたけれど、僕たちの関係はかなり表面的なものになってしまったと感じていた。

それは僕のせいだと思っていたので、そんなことを言い出すのは自分の恥をさらすようで嫌だったし、それに、ラングストンに言っても彼の不安をあおるだけだと思った。僕自身がもっと早く危機を察して、何か手を打つべきだったのだ。

それで踏み込んだ話はやめて、僕は「いえ、ツリーのことは何も聞いてないです」とだけ答えた。

「ってことは、彼女は君をツリーの点灯式に招待してないってことか?」

僕は首を振った。「今初めて聞きました」

「そんなことだろうと思った。たぶん明日の点灯式に参加するのは、毎年参加してる親戚のみんなだけだろうな。普通ならリリーが招待状を配って回るんだけど、今年はそんな気分じゃないみたいだし」

「やっぱり何か手を打たないとまずいですね」

「まあな、でもいったいどうすればいいんだ? 勝手にツリーを買ってくるのは彼女に対する裏切り行為っぽくなるし」

僕は少し考えて、ひらめいた。

「裏技があるって言ったらどうします?」と僕は言った。

ラングストンが首をかしげて、僕をじっと見つめてきた。「裏技?」

僕が彼女にツリーをあげるんです。プレゼントとして。僕から彼女へのクリスマスプレゼントの一つとして。彼女は僕がその伝統行事のことを知ってるとは思ってないでしょ。僕が何も知らずにしゃしゃり出てきた感じにすれば、うまくごまかせます」

ラングストンはそのアイデアに賛同したくないようだった。それは僕を認めることにもなるからだろう。しかし少し考えて、迷いを吹っ切ったように、一瞬彼の目がキラリと光った。

「それでいこう。彼女にはクリスマスを12日間毎日祝おうって提案するんだ」と彼が言った。「明日はその始まりを祝して」

「クリスマスのあとの12日間じゃないですよね?」

ラングストンは「厳密に言えばな」と言って、僕のつっこみを軽くあしらった。

僕はそう簡単にうまくいくか不安だったけれど、やってみる価値はあると思った。

「よし」と僕は言った。「じゃあ、僕がツリーを持っていくから、驚いたふりをしてください。ここでの会話はなかったことにしましょう、それでいいですね?」

「わかった」注文した二人分のパンが到着し、僕たちはそれにかぶりついた。そして70秒ほどで、二人とも食べ終えてしまった。ラングストンが財布を取り出そうとした。―ここは僕が払いますと言おうとしたら、彼が20ドル札を数枚テーブルに置いて、僕の方へ滑らせてきた。

「そんな出どころもわからないような金はいりません!」と僕は大声を張り上げた。どうやらレストランでよく見る光景にしては、ちょっとばかり声が大きすぎたみたいだ。

「急にどうした?」

「僕が払いますよ」と僕は言い直して、目の前の彼のお金を押し戻した。

「いや、わかってくれよ。立派なツリーにしてほしいんだ。一番立派なツリーを選んでくれ」

「大丈夫」と僕は彼に請け合った。そして僕はニューヨークで昔からまかり通っている、お金に負けないくらい信頼のおける言葉を口にした。「知り合いにその筋の人間がいるから」


ニューヨークの住人が自分で森に行ってツリーを手に入れるのは不可能に近い。よって毎年12月になると、大量のツリーがどっとニューヨークに押し寄せてくる。それまで雑貨店の店先に飾ってあった鉢植えの花が、首をもたげたモミの木の襲撃を受け、一気に街が様変わりする。あらゆる空き地に根のないツリーが運び込まれ、即席の販売所があちこちに出来上がる。中には夜明け近くまでやっている販売所もある。誰かが午前2時に急に居ても立っても居られなくなり、自分の部屋に飾るツリーを買いに来るかもしれないからだ。

そういうぽっと現れたモミの木屋の中には、いかつい男たちが取り仕切っている店もある。普段は薬物の注射器(needle)を裏取引している連中が、この時期だけ針葉樹(needle)を売っているような感じだ。フランネル生地のチェックの服を着た男が切り盛りしている販売所もある。ニューヨーク北部の自然豊かな地域から初めて都会に出てきたように見える。やれやれ、大都会で一発当てよう!って勇んでやって来たのだろう。多くの店で見かけるのが学生のアルバイトである。短期のバイトの中でも特に短期集中のこのバイトは、すぐにお金が欲しい学生にはうってつけである。今年は、僕の親友のブーマーも、そういうモミの木屋で働いていた。

たしかに、ブーマーがこの仕事を始めてから、彼の考え方にもいくらか変化は見て取れた。それまで彼は『スヌーピーのメリークリスマス』の見過ぎで、クリスマスツリーにする低木を選ぶときは、なよなよした、どうしようもない感じの木が最も望ましいと信じ込んでいた。しっかり自立した、毒気のありそうな木を持ち帰って家に入れるより、貧弱な木を世話する方がクリスマス精神にのっとっているからだという。さらに彼はクリスマスが終わったら、クリスマスツリーは植え直すものだとも考えていた。そういう考えなのだから、なかなか話してもらちが明かなかった。

幸いにも、ブーマーは明瞭さに欠けているとはいえ、それを補っても有り余るほどの誠実さがあるので、彼が働いている22丁目の販売所は口コミで人が集まるようになった。彼が木の妖精の格好をして、お客さんを招き入れているのだ。彼は卒業まであと1年というところで全寮制の高校を辞めたんだけど、マンハッタンに帰ってきて、こうして認められたことで今は幸せを感じているのではないかと思う。ブーマーはすでに僕の母と父の、それぞれのアパートメントに飾るツリーの選定を手伝ってくれた。(母がかなり立派な方を取った。)リリーのために最高のツリーを選ぶという僕に課せられた任務も、彼は大喜びで手伝ってくれるだろうと思った。にもかかわらず、僕は彼の店に近づくにつれ、なんだか気が重くなった。気がかりなのはブーマーというより...むしろソフィアだった。

ブーマーが思い切って全寮制の高校を辞めたことも驚きだったけれど、夏休みが明けて新学年が始まってから、他にもいくつかサプライズがあった。僕の元カノのソフィアが家族と一緒にニューヨークに戻ってきたことも、それなりに驚きだった。彼女がもうバルセロナを離れることはないと断言していたから面食らっただけで、べつに「元カノが戻ってきたら、ややこしいことになる」とか心配したわけではない。―ソフィアと最後に会ったとき、僕たちはほぼ問題なく、すっきりした仲になれたから、彼女とまた会えることが純粋に嬉しかった。しかし、超びっくりしたのはその後の展開だった。ソフィアがブーマーと親しく遊ぶようになり...二人でデートを重ねるうちに仲を深めていき...さらに仲良くなった二人は、なんと付き合っているのだ。そんなことってある? と僕が頭を抱えて必死で理解しようとしているうちに、二人はラブラブになっていた。それって、僕の中では、世界一高価で高級なチーズを溶かして、ただのハンバーガーに挟んで食べるみたいなことだった。僕はどちらも大好きだけれど、それぞれに対する好きの種類が違うので、その二人が一緒にいるのを見ると、頭が痛くなった。

最も避けたかったのは、ブーマーの働く店にひょっこり顔を出してみたら、ちょうどソフィアも彼の店に立ち寄っていたという事態だ。あの二人はここぞとばかりに仲睦まじい様子を見せつけてきて、幸せオーラを大都会の隅々にまで届くくらい全開にするのが目に見えていた。あの二人は蜜月期の真っ只中なのだ。けど僕はと言えば、そんな幸福な時期は過ぎて、月が満ち欠けするような不安定な時期に突入してしまったので、それをはたから見るのは避けたかった。気持ちのやり場に困るのだ。

だからブーマーがソフィアと一緒にいなかったことに、いくぶんほっとした。彼は家族連れの相手をしていた。その家族は両親と子供が、5人か、6人か、7人くらいいた。―子供たちが元気に走り回っていたから、ぱっと見には正確な人数はわからなかった。

これこそお客さんのような家族のためにあるようなツリーですよ」と彼は両親に話していた。まるでツリー自身がかねてからその家族の食卓を飾りたいと思っていて、それをこっそりブーマーにささやき、彼がそのツリーの熱い思いを代弁しているかのようだった。

「ちょっと大きすぎないかしら」と母親が、おそらく針のように細いモミの木の葉っぱが部屋の床一面に散らばるのを思い浮かべながら言った。

「はい、心が広いツリーですから」とブーマーが答えた。「だからこそ、心の広いお客さんには、ぐっと惹きつけられるものがあるんですよ」

「たしかに」と父親が言った。「不思議と惹かれるものがあるな」

売買は成立した。父親がクレジットカードをカードリーダーに通している最中、ブーマーは僕が見ているのに気づいて、こちらに手を振ってきた。僕はその家族が行ってしまうまで待った。子供たちの一人を踏んづけてしまいそうで怖かったからだ。

「凄いじゃないか、彼らをあんなに夢中にさせる(pine)なんて」と、僕は彼に近寄ってから言った。

ブーマーは混乱しているようだった。「俳優のクリス・パインのこと言ってるの? 彼はハンサムだけど、でも彼らをあの俳優みたいにした覚えはないけど」

「あのツリーを好きにさせたってことだよ」

「ああ!クリス・パインがツリー役するとか? それってなんか合ってる!そういえば彼って、木でできてるみたいな顔つきしてるし!べつに悪い意味じゃなくて」

こういう回りくどい話って、ブーマーの思考回路では自然な流れだし、べつに彼は話が脱線しているとは思っていない。だからソフィアがあれだけ長い時間彼と一緒にいて、ずっとまっすぐ彼と向き合っていられることに感心する。彼女以外にはたぶん無理だろう。

「リリーのためにツリーが欲しいんだ。とびっきり特別なやつ」

「リリーにツリーを買ってあげるの?」

「そう。プレゼントとして」

「そういうの好き!どこで買うつもり?」

「ここかな?」

「おお!そうこなくっちゃ!」

彼は周りを見回した。そしてあちこち見回しながら、あやしげにぶつぶつ何かつぶやいていた。オスカー、オスカー、オスカーみたいなことを。

「オスカーって君の同僚?」と僕は聞いた。

「ツリーって同僚のうちに入るのかな? つまり、ここのツリーはみんな、一日中ボクと一緒にいるから...それにボクたちはとっても楽しい会話をしてるからさ...」

「オスカーってツリー?」

「彼は完璧なツリーだよ」

「ここのツリーって、みんな名前があるの?」

「それは仲間うちだけの秘密っていうか、そこまでは言えない。そんなこと聞いて、ボクたちの世界にずかずか踏み込んでこないで」

彼は少なくとも1ダースのツリーを脇にどかしながら奥へ進み、オスカーを引っ張り出してきた。彼(というかそれ)は、僕には他のツリーと同じように見えた。

「これがそう?」と僕は聞いた。

「待って、待って...」

ブーマーはツリー置き場からそのツリーを引きずって、道端の縁石のところまで運んでいった。そのツリーは彼より1メートル近くも大きかったけれど、彼はまるで魔法のつえでも持っているかのように、すいすいと運んでいった。僕にはなじみのない気遣いでそのツリーを扱いながら、彼はツリー台にその根元を入れ、そっと立たせた。すると、不思議なことが起こった。―オスカーが腕を広げ、街灯の下にいた僕を手招きして呼び寄せたのだ。

ブーマーは正しかった。求めていたのはこのツリーだった。

「これにするよ」と僕は言った。

「でしょ」とブーマーが答えた。「贈り物だから包装する?」

僕は彼にリボンだけ巻いてもらうことにした。


10代の少年が一人でタクシーをつかまえるだけでも結構大変なのに、クリスマスツリーを牽引して運んでくれるタクシーをつかまえるとなると、ほとんど不可能である。それで僕はブーマーのシフトが終わるまでにいくつか買い物を済ませ、それから彼と二人で台車を押して、イースト・ビレッジにあるリリーのアパートメントへ向かった。

この一年、僕はリリーの家にそんなに足しげく通ったというわけではない。リリーは、おじいちゃんのことは気にしないで来ていいのよ、と言ってくれたけれど、でも僕という余計な分子が入り込むことで、彼女の家の中をさらに混乱させてしまうと思ったから、なるべく遠慮した。彼女の両親は近年まれに見るほど家にいて、彼女と過ごしているようだった。―ただ、両親が近くにいればリリーの負担はかなり軽減されるはずなんだけど、かえって彼女が世話しなければならない身内が二人増えたという印象を受けた。

ドアを開けたのはラングストンだった。そしてツリーを運んできた僕とブーマーを見た瞬間、彼が「ワオ!ワオ!ワオー!」と大声を上げた。僕はてっきりリリーが家にいるから、彼女の耳に届くように大げさに声を張り上げているのだろうと思った。けれどそれから、彼女とおじいちゃんは定期検診で病院に行っていると彼が告げた。両親も今日は土曜日だから外出中だという。どうして社交的な人たちはこうも土曜日に家にいないのだろう? というわけで、そこには3人しかいなかった...あとオスカー。

僕たちはリビングルームの一段高くなっている場所にオスカーを立てた。僕はあえて気づかないふりをしていたけれど、室内の雰囲気は覇気がなく、まるでアパートメント自体がこの一ヶ月くらいずっと咳き込んでいて、埃と色あせた空気を吐き出し続けていたような感じだった。その空気感を通して、ここの家族が最近どんな様子で過ごしていたかが伝わってきた。おじいちゃんが倒れて使いものにならなくなり、リリーもおじいちゃんにつきっきりで家のことまで手が回らなかったのだろう。この家をずっと見守り、しっかり管理してきたのは、おじいちゃんとリリーだったのだから。

オスカーが誇らしげに立っている横で、僕は背負っていたリュックからとっておきの物を取り出した。反対されなきゃいいけど、と思いながら。

「何やってる?」と、ラングストンがオスカーの枝の周りにひもを巻き付けながら聞いた。

「それって小さな七面鳥?」とブーマーが割って入った。「それを飾ると、プリマス・ロックにあるツリーみたいになるかな?」

「ヤマウズラ鳥だよ」と僕は、鳥の形をした木彫りの像を掲げながら説明した。真ん中に大きな穴が開いていて、巻いたナプキンを挟んでおける。「厳密に言えば、ヤマウズラ鳥の形をしたナプキンリング。あの店にはヤマウズラ鳥の装飾品は、このナプキンリングしかなかったんだ。店の名前はちょっと僕の口からは言えないんだけど」(その店の名前は〈クリスマスの思い出-Memory-〉っていうんだけど、その名前を発音すると、メントスを口に入れたままコーラを飲みたくなっちゃう。あの店に入ると、どうしても〈クリスマスのおっぱい-Mammary-〉が頭に浮かんできちゃうのだ。)「クリスマスを12日間祝うのなら、ちゃんと『クリスマスの12日間』の歌詞にあるようにしなきゃって思ってさ。リリーは何を飾り付けても自由だけど、ヤマウズラ鳥が止まってるツリーにはしたい。そしてツリーのてっぺんには...洋ナシを飾るんだ!」

僕はリュックから、その果物を引っ張り出した。歓迎されると思ったけれど、二人の表情は取り出した洋ナシの形以上に、ゆがんでいた。

「そんなもの、ツリーのてっぺんに飾れないだろ」とラングストンが言った。「おかしな見栄えになるし、それに1日か2日で腐っちゃうよ」

「でも洋ナシじゃないとだめだよ!だってヤマウズラ鳥が止まってるツリーなんだから!」と僕は言い張った。

「そういうことね」とラングストンが言った。一方、ブーマーはその歌を知らないようで、ウケる!とでも言わんばかりに爆笑した。

「もっといいアイデアでもあるのかよ?」と僕は挑戦的に言った。

ラングストンが一瞬考えてから、「ある」と答えた。彼は壁の近くまで歩いていくと、壁に飾ってあった小さな写真を取り外した。「これがある」

彼が僕にその写真を見せてきた。それは半世紀以上前に撮られた写真だったけれど、すぐにおじいちゃんだとわかった。

「おじいちゃんと一緒に写ってるのは、君のおばあちゃん?」

「そう。おじいちゃんの最愛の人、人生の伴侶だよ。二人は洋ナシ(pear)じゃないけど、発音は同じ、二人で一組(pair)

ヤマウズラ鳥のツリーになる一組の恋人。うん、素晴らしい。

それをいざ取り付けるとなると、結構手間取った。―僕とラングストンが色々な枝に写真を取り付けてみて、しっくりくる枝を探している間、ブーマーはオスカーに「じっとしてて」と言い聞かせていた。やっと僕たちはツリーの頂上近くの枝に、一組のカップルが写る写真を落ち着かせた。その下では鳥たちが静かにこちらを眺めている。

それから5分ほどして、玄関のドアが開いた。リリーとおじいちゃんが帰ってきたようだ。僕が知り合いになったのは、彼女のおじいちゃんが倒れる数ヶ月前のことで、それほど長い付き合いではないんだけど、それでもおじいちゃんがどんどん小さくなっていくのがわかったし、まだ関係の浅い僕でも、その姿を見るのはつらかった。―もしかして病院やリハビリ・センターに行ってるんじゃなくて、どこかの洗濯機に放り込まれて不必要なほど長時間洗われてるから、毎回戻ってくるたびに縮んでいってるんじゃないか?

それでも彼の握手は健在だった。彼は僕を見ると、手を差し出してきた。「元気か? ダッシュ」そして彼は僕の手を握りしめたまま、激しく腕を振った。

リリーは僕に、いったいここで何やってるの? とは聞いてこなかったけれど、明らかにその質問が、彼女の疲れの色が見える目に浮かんでいた。

「医者はなんて?」とラングストンが聞いた。

「葬儀屋よりはずっとましだったな!」とおじいちゃんが答えた。僕は前にも彼がそのジョークを口にするのを聞いたことがあった。ということは、リリーはそれをもう200回くらい聞いているのだろう。聞くたびにつらいに違いない。

「葬儀屋よりましってことは、その葬儀屋って口臭いとか?」と、ブーマーが廊下に乱入してきて聞いた。

「ブーマー!」とリリーが言った。今度は、彼女はあからさまに混乱していた。「いったいここで何やってるの?」

それをさえぎったのはラングストンだった。「僕もびっくりしたんだけどさ、君のロミオっていうか彼氏が、だいぶ早いんだけどクリスマスプレゼントを持ってきてくれたんだ」

「こっち」と僕は言って、リリーの手を取った。「目を閉じて。見せてあげるから」

僕の手を握り返すリリーの手の感触は、おじいちゃんのものとはだいぶ違った。以前は僕たちが手をつなぐと、電気が走ったようにお互いの手が脈打つのを感じたけれど、今はもっと落ち着いた、そっと触れているだけの、それでいて心地よい感触だった。

僕が彼女を導いて廊下を歩いている間、彼女はずっと目を閉じていた。そして僕たちがリビングルームに入ったところで、僕は彼女に「開けていいよ」と言い、彼女は目を開いた。

「紹介するよ。オスカーっていうんだ」と僕は言った。「彼が君へのクリスマス初日のプレゼントだよ」

「ヤマウズラ鳥のツリーになる一組のカップル!」とブーマーが叫んだ。

リリーは状況を理解し、驚いた表情を見せた。あるいは彼女のリアクションが薄かったのは、疲れのせいかもしれない。でも少しすると、彼女の中で何かがはじけたように、彼女がぱっと笑顔になった。

「こんなことしてくれなくても....」と彼女が話し始めた。

「したかったんだよ!」と僕はすかさず言った。「ほんとに、どうしてもしたかったんだ!」

「それで、その一組のカップルはどこだ?」とおじいちゃんが聞いた。それから彼は写真を見ると、目に涙を浮かべた。「ああ、これは、わしらじゃないか」

リリーもその写真を見た。彼女も目をうるませたけれど、その表情は内省的なものだった。正直言って、彼女が胸中で何を思っているのか見当もつかなかった。ちらっとラングストンに目をやると、彼もまたリリーの心を読むようにじっと彼女を見つめていた。そして彼も僕と同様に、すぐには答えが見つからないようだった。

「楽しいクリスマスの初日を!」と僕は言った。

彼女が首を横に振って、「今日はまだクリスマスじゃないわ」とつぶやいた。

「今年は特別だよ」と僕は言った。「僕たちにとっては、今日からクリスマス」

ラングストンが「さあ、飾り付けよう」と言うと、ブーマーが手を挙げて名乗り出た。同時におじいちゃんも装飾品の入った箱を取りに行こうとしたけれど、それに気づいたリリーがパチンと目を覚ましたように、おじいちゃんのところに駆け寄った。―そしておじいちゃんをリビングのソファまで腕を引いて連れていくと、「おじいちゃんは、今年は監督として見ててちょうだい」と言った。おじいちゃんは納得いかない様子だったけれど、あまり逆らってもリリーの気持ちを傷つけるだけだと思ったのだろう。彼はおとなしくソファに座った。彼女のために。

装飾品の箱が次々とリビングに運び込まれ、僕はそろそろ帰る頃合いだなと思った。これは家族の伝統行事であって、僕も家族の一員だ、みたいなふりをしてここに居続けても、自分の演技をしらじらしく感じるだけだろうし、それに、リリーも同じように楽しそうな演技をしているところを見たくなかった。おそらく彼女は周りの期待に応えようと無理して楽しそうに振る舞うだろう。彼女はラングストンやおじいちゃんや、いつ帰ってきてもいいように両親のためにも、幸せそうにツリーの飾り付けをするだろう。そこに僕もいれば、彼女は、僕のためにも、と思うかもしれない。しかし僕は彼女に、彼女自身のために、楽しんでほしかった。去年のこの時期に彼女が感じたクリスマスの神秘を、また存分に感じてほしかった。でもそれは完璧なツリーだけでは無理だろう。奇跡でも起きない限り叶わないかもしれない。

12日。

僕たちには12日ある。

僕はこれまでずっとクリスマスを避けるように生きてきた。でも今年は違う。今年のクリスマスに僕が一番望んでいるのは、リリーをもう一度心の底からハッピーにすることだ。



2

リリー

二羽のキジバト(別の人にプレゼントしたセーター)


12月13日(土曜日)

私は地球温暖化に怒ってる。原因はわかりきってるのにみんな何もしようとしないからっていうのもあるけど、私が何より頭にくるのは、温暖化のせいでクリスマスが台無しになること。一年の中でこの時期は、歯がガタガタするほど寒くなって、コートとかマフラーとか手袋が手放せなくなる季節のはずでしょ。外では、吐く息が白く見えるほど冷えきった空気が雪を降らせ、降ってきた雪が歩道を白く包むはずだし、家の中では、家族みんなが燃え盛る暖炉のそばでホットチョコレートを飲んだり、ペットに体をぴったりくっつけてぽかぽか暖まるのが定番のはず。鳥肌が立つほどのピリッとした寒さこそ、先頭を切ってクリスマスの到来を告げる最高の旗振り役なのよ。そういう寒さを肌で感じたら、クリスマスソングやごちそうの季節が来たなって思うし、私はクッキーを大量に作り始めるし、大好きな人たちと集まろうっていう気にもなるわ。そういうのって全部、この季節の寒さがもたらしてくれる大切な贈り物なの。なのに今年はどうしたっていうの? もうすぐクリスマスだっていうのに、気温は20度くらいの穏やかな気候だし、クリスマスの買い物をする人たちの中には半袖を着てる人がいるし、アイス・ペパーミントラテ(私は吐き気がするから無理だけど)を飲んでる人もいるし、トンプキンス・スクエア公園にはタンクトップを着てフリスビーで遊んでる人までいるのよ。しかもどこを狙って投げたのか、フリスビーが犬の散歩をしてる人の頭にあやうくぶつかりそうだったし、きっと投げた人も、気候が春の日みたいにのどかだから、気もそぞろなのね。今年は寒さもクリスマスを招き入れたくないみたいだし、私も寒さがやる気を出すまでは、一年のうちで最高の時期だけど、あまり浮かれないようにする。

外が思うように寒くなってくれないから、代わりに私が家の中に寒さをもたらすことにした。ダッシュのせいではないけれど、彼に冷たく当たっちゃった。

「帰らなきゃいけないなら、さっさと帰って」と私はそっけなく言った。そっけなく。それってダッシュっぽい言葉ね。―あいまいで、よそよそしくて、知らん顔してる感じ。私がそんな言葉を知ってること自体、なんか変ね。私にはやらなきゃいけないことが山ほどあって、目先のことだけであたふたしてるっていうのに、SAT(大学入試)の勉強もしなきゃいけないのよ。私の口の中は、まさにamaroidal(苦虫を嚙みつぶしたよう)だわ。(というか、SATの受験者って、amaroidalなんて言葉まで覚えて、大学に入る準備をしなくちゃいけないの? いや、そんなはずないわ。そんな言葉覚えるだけ無駄。完全に時間の無駄。絶対に私は両親の期待になんか応えてやらない。志望校に合格する確率を上げるためとかいって、そんな言葉まで私の語彙に加えるのは絶対に嫌。)

「君は僕にここにいてほしくないってことだね?」とダッシュが聞いてきた。彼の目は、これ以上ここに引き止めないでくれと訴えかけているようだった。やつれたおじいちゃんや兄のラングストンと一緒にいたくないのかもしれない。私の兄がダッシュを歓迎することはなくて、せいぜい無視してるか、最悪の場合はあからさまに彼に向かって失礼なことを言い出すから。私はラングストンとダッシュがいがみ合っているのを残念に思っている。ただ、どこかしら二人はそんな関係を楽しんでる気がしないこともない。もしクイズ番組『ジェパディ!』で〈リリー〉がテーマになったとしたら、答えが「リリーはそれについて何もわかってない」となり、それに対応する質問は「人間のオスはどんな種族?」となるでしょうね。

「私はあなたがしたいことをしてほしいだけよ」と私は答えた。けれど内心ではこう思っていた。ここにいて、ダッシュ。お願い。こんな素敵なクリスマスツリーをプレゼントしてくれてありがとう。自分でも気づかなかったけど、まさに私が必要としていたものだわ。―もうすぐクリスマスだものね。それをあなたから贈られるなんて感激しちゃう。今の私にはやらなくちゃいけないことが山積みだけど、だからといって、あなたが私と一緒にツリーの飾り付けをすること以上に望んでることなんてないわ。飾り付けが嫌ならソファに座っててもいいのよ。私がツリーを幻惑するくらいキラキラに飾り立てるのを見ててちょうだい。「ツリーを飾ったりするのって、キリスト教が他の宗教のしきたりからかすめ取ったものなんだよな」とか、ひねくれたこと言ってていいから。お願い、私のそばにいて。

「このツリー気に入ってくれた?」とダッシュは聞いてきたけれど、すでにピーコートを羽織ってボタンをかけ始めていた。こんなに暖かい日にピーコートって暑すぎない? と言おうとしたら、ダッシュがポケットから携帯電話を取り出して画面を見つめた。その目は、私と一緒にいるここより、もっと素敵な場所へといざなうメールが届いていて、それを見つめているようでもあった。

「気に入らないわけないでしょ?」と私は言った。惜しみない感謝の言葉が出かかったけれど、それは胸のうちにしまっておいた。ダッシュが「じゃ帰るね」と言うのを、私はツリーに飾る装飾品を仕分けようと、装飾品の入った箱を開けながら聞いていた。ダッシュがそう言った時にちょうど私が開けたその箱は、彼が今年の初めに私にくれた贈り物の箱だった。あれは1月19日のことで、小説家のパトリシア・ハイスミスの誕生日を祝うと言って、ダッシュがストランド書店で買ってきて、私にくれたものだ。箱の中には、赤と金色のプレート型のオーナメントが一枚入っていて、そのプレートには俳優のマット・デイモンの白黒写真がプリントされている。パトリシア・ハイスミスの小説が原作の映画『リプリー』で、主役の殺人鬼を演じたのがマット・デイモンなんだけど、ダッシュはストランド書店で、その文学史に名をはせた連続殺人鬼の顔が描かれたプレートを見かけて、気に入ったんでしょう。ただ、それをガールフレンドにプレゼントして反応を見て楽しもうなんて、ダッシュ以外の誰も思わないでしょうけどね。まあ、それをもらった私は、ダッシュがもっと愛おしくなっちゃったわけだけど。(そこに描かれていたのが文学史上の有名人だったからよ。連続殺人鬼だったからじゃないわ。)

2月になって、私はその贈り物の箱をクリスマスの装飾品を保管しておく大きめの箱の中に入れておいた。―ダッシュと私がクリスマスツリーにそのオーナメントを飾る頃になっても、まだ付き合っていてほしいという願いを込めて、幸せの吐息を吹きかけてしまっておいたのだ。そして私たちはまだ付き合ってるわけだけど、私たちの関係は、もしかしたらephemeral(うたかたの)夢だったのかもしれない。(ついにSAT用に覚えた言葉を実際に使っちゃった。)付き合ってるっていう実感が湧かなくなって、義務感っていうか、どうにかここまで付き合ってきたんだし、私たちの関係が始まったのも去年のこの時期だったから、とりあえずクリスマスの時期が終わるまでは様子を見てみようっていう感じ。付き合い始めた頃は、正しいことをしてるっていう実感もあって、しっくりくる相手だなって感じていたんだけど、最近は...お互いにそういうふりをしてるだけみたいで、最初の判断は間違っていたのかもしれない。

「オスカーに優しくしてやってね」とブーマーが言った。そして彼はツリーに向かって軍隊式の敬礼をした。

「オスカーって誰?」と私は聞いた。

「このツリーだよ!」とブーマーは、わかりきったこと聞くなよという顔をして答えた。私がその名前を知らなかったことでオスカーが気を悪くしたとでも言いたげだった。「さあ行こう、ダッシュ、予告編に間に合わなくなっちゃうよ」

「お前たち、どこへ行くんだ? そこは歩いて行けるところか?」と、おじいちゃんがやや投げやりな口調で聞いた。おじいちゃんは心臓発作で倒れて以来、家の中に引きこもりがちでほとんど外出していなかった。彼はせいぜい1ブロックを歩くのが精一杯で、2ブロック以上歩くスタミナはもう残っていなかった。それで誰かが家に来るたびに、外でどんなことをしたのか根掘り葉掘り聞くようになった。おじいちゃんは翼を広げて飛び回っていた人だから、行動を制限されることに慣れてないのよ。

おじいちゃんはブーマーとダッシュにこう言うべきだったわ。お前たち、こんなに見事なツリーを持ってきておいてだな、ツリー(というかオスカー)の飾り付けを手伝わずにさっさと退散するなんて、礼儀がなってないだろ? まったく最近の若いもんはどうなってんだ? 気も利かんし、どうしようもないな。って言ってほしかった。

「僕たちはこれから映画を見に行くんですよ。あと20分で始まっちゃうんです」とダッシュが答えた。彼の表情にはこれっぽっちも罪悪感は見受けられなかった。私を誘わなかったという事実があるにもかかわらずよ。

「なんていう映画?」と私は聞いた。もし私が死ぬほど見たがっていた映画を、ダッシュが私抜きで見ようとしているのなら、彼と私はもう結び付いていないという最終的な判断材料になりそうだし、そしたら正式に別れた方がよさそうね。私はクリスマス休暇までの日にちを指折り数えていたの。そしたら『コーギーとベス』を見に行けるから。私は休暇中、時間を見つけては映画館に通うつもりよ。時間が許せば、少なくとも5回は見たいわ。ヘレン・ミレンが100歳近いエリザベス女王を演じていて、彼女のそばにはいつでもコーギー犬がいるの。その犬はCGらしいけど、素晴らしく自然な動きをするのよ。でも、一緒に花火を見てる時に花火の打ち上げが失敗しちゃって、びっくりしたコーギーが逃げちゃうの。そして体の弱いエリザベス女王が補助歩行器を使って、あのうっとりするほど気高いバルモラル城の敷地のどこかにいるコーギーを探すんだけど、その過程でいくつもの冒険が繰り広げられるってわけ。きっと女王とコーギーの両方にとっての冒険よ。もう、わくわくしちゃう!お願いだから、私もその冒険に参加させてって感じ。絶対何度も見るわ。アイマックスの巨大スクリーンでも見るし、3Dでも見なくちゃね!なんでこんなに詳しく内容を知ってるかって? 予告編を繰り返し見たからよ。あの数分間の予告編だけで、私にとって今年一番の大好きな映画になるって確信したわ。でもね、最初の一回目はダッシュが誘ってくれるんじゃないかって期待してたの。夜の映画館でのデートが私へのクリスマスプレゼントじゃないかって。単にその映画を見るだけじゃなくて、―彼と一緒に過ごす時間が素敵なプレゼントだって。

「ボクたちは『いたずら猫とネズミ』を見るんだ!」と、ブーマーがいつもの調子でおじいちゃんに言った。ブーマーってごく普通のありふれた情報でも、びっくりマーク付きで話すのよね。

私に向かってダッシュが言った。「君は見たくないんじゃないかと思って、君の分のチケットも買おうかって聞かなかったんだ」ダッシュは正しかった。私はすでにその映画を見ていたし、もう一度見たいとも思わなかった。『いたずら猫とネズミ』は、屋根裏に住んでるスピード狂のネズミが、その家の住人が寝静まった夜中に、マッチ箱ほどの大きさのミニカーに乗ってドラッグレースを繰り広げるっていうピクサー映画なんだけど、私には目新しさはなく、何かの焼き直しにしか思えなかった。でも、エドガー・ティボーはその映画が大好きみたいだったけど。

私はダッシュに『いたずら猫とネズミ』はもう見てしまったとは言わなかった。一緒に見に行ったのがエドガー・ティボーだったから言いづらかった。私がエドガーと仲良くしてることは、べつに大きな秘密ってわけでもないんだけど。―ダッシュはエドガーが私のおじいちゃんの通ってるリハビリ・センターで私と一緒にボランティアで働いてることを知ってるから。(彼の場合は純粋なボランティアではなく、裁判所からの命令なんだけど。)ただ、勤務時間が終わったあと、たまに彼と二人で出かけてることは、なんだか言いそびれていた。大体はコーヒーを飲むだけなんだけど、この前初めてカフェ以外の場所に行ってしまった。自分でもどうして、映画を見に行こうという彼の誘いに乗ったのかわからない。私はエドガー・ティボーがそんなに好きってわけでもない。まあ、子供の時に私のペットのアレチネズミが死んだのは彼の責任だし、あんな不良は嫌いになっても不思議じゃないんだけど、そのわりにはそこそこ好きかもしれない。ただ彼は信頼の置けない人だから、なんとかならないかなって思ってる。たぶんエドガーは、私が密かに計画してるリハビリの対象者なの。もちろんおじいちゃんが私にとって最優先で、たった一人の大切な人なんだけど、隙間時間を使って、エドガーもなんとか良い人間に変えてあげたいなって思う。蝋人形を作るみたいには簡単にいかないことはわかってるけど、彼に対して恋愛感情を抱いていない女の子と、(彼も友達以上には見られていないことを承知の上で、)一緒に映画を見ることが彼の心に良い影響をもたらすかもしれないのなら、私も手助けしてあげたいなって思った。それに私はこの数ヶ月忙しすぎたから、ちょっと息抜きも必要だって自分に言い聞かせたの。暗い映画館でぼんやり過ごすのも悪くないなって。たとえそれが興味のない映画で、ほんのわずかしか興味の湧かない人と一緒でもね。もしダッシュと映画を見ていたら、私は上映中、もうそろそろキスしてくるかな? どうしたの? 早くって、そんなことばかり考えて、ずっとそわそわしていたと思うけど、隣にいたのはエドガーだったから、彼が食べてるポップコーン代まで私に払えって言ってこないでしょうね?って、ずっと気が気じゃなかったわ。

「映画楽しんでね」と、私はなるべく陽気に、一緒に行けなくても悔しくなんかないという潔さを醸し出しつつ言った。ダッシュに対して冷たい態度を取ろうと思っても、いつも長くは続かない。そしてダッシュが私を置いて行ってしまうと思うと、なんだか、おとぎ話みたいに素敵な贈り物をくれたと思ったら、喜びが沸点に達する前に取り上げられちゃったって感じで、胸がちくちく痛んだ。

「わかった、楽しむ!」とブーマーは言いながら、はやる気持ちを抑えられないといった様子で、後ろ向きのままドアに向かって勢いよく進んだ。その拍子に彼の体がサイドテーブルに激しくぶつかり、テーブルの上に置いてあった電気スタンドが床に落ちた。大事には至らず、電球が割れただけだったけれど、―パリンという音が私の部屋でうたた寝していた野獣(私のペットの犬)の耳にまで届いてしまったようで、ボリスがリビングルームに駆けつけてきた。そしてすかさずブーマーに飛びかかると、彼を床に押さえつけた。

「こっち来なさい!」と私はボリスに命じた。ボリスはブルマスティフという種類の犬なんだけど、犬種的にも活発な犬ではないし、巨体のわりには意外にも室内暮らしに適していた。ブルマスティフは基本的に番犬だし、―とりわけボリスは思いやりのある犬だから、見知らぬ侵入者を押さえつけはするけれど、傷つけようとはしないのよ。でもブーマーはそのことを知らないから、かなり怯えていた。まあ私でも、60キロもある犬にのしかかられたら、ブーマーと同じような顔をするでしょうけどね。「こっちおいで!」と私はもう一度言った。

ボリスはブーマーの上から降りると、私の足元にやって来て座り込んだ。私が無事だとわかって安心したようだった。しかしこの騒ぎによって、家族の中で最も小さな、毛で覆われたメンバーが眠りから目覚めたようで、彼(典型的な怠け者の猫)が遅れてリビングルームにやって来た。ドアのところで中の様子をうかがって、この場所は安全なのか見定めている。おじいちゃんが一人で生活できなくなって、最上階から私たちの住む3階に移ってきたんだけど、そのときに彼の飼い猫のグラントも一緒についてきたってわけ。グラントは自分の名前に恥じぬよう、ボリスに向かってグラントした(うなり声を上げた)。仮にボリスが二本足でまっすぐに立ったら、大人の女性に匹敵するほどの大きさになるんだけど、みじめにもボリスは、たったの5キロしかない、おじいちゃんの飼い猫を怖がっていた。かわいそうにボリスは立ち上がると、前足を私の肩にもたれさせるようにじゃれついてきて、クンクン鳴いて甘えてきた。しわくちゃの顔を私の顔に近づけて、「ボクを守って、ママ!」とでも言い出しそうな表情で私を見つめている。私はボリスの濡れた鼻にチュッと軽く口づけて言った。「よしよし、坊や。大丈夫よ」

私たちの住むアパートメントは、これだけの人間と動物が一緒に暮らすには本当に狭くて、我が家はまるで血なまぐさい動物園みたいなんだけど、この状態を受け入れる以外に選択肢はないの。つまり、おじいちゃんにとってもそれがいいと思うのよ。かつてはたくましい体にものをいわせ、街を遊び回っていたおじいちゃんだけど、今では一日に一度階段を上り下りするのがやっとという感じで、日によっては全く動けない日もあるし、この3階のフロアから外に出られない状態なの。でも家族みんなで協力し合えばなんとかなると思う。親戚の人たちや介護士の人たちが次から次へと家に出入りして、おじいちゃんと一緒に過ごす時間を作ってくれるし、そうすることでおじいちゃんが一番恐れているシナリオを避けられるのなら、―つまり介護施設に移らなくて済むのなら、私はこの動物園状態に大賛成よ。そういうところってなんか温かみが感じられないし。おじいちゃんはよく冗談めかして言うのよ。わしが家の外に出る唯一の方法は、あの箱(介護施設)に移ることだなって、そして四六時中ベッドで途方に暮れてるしかないなって。

ラングストンがキッチンからリビングルームに入ってきて、「ここで何があったんだ?」と聞いた。それを合図として、ダッシュがとうとうここから出て行く決意をしたようだった。

ダッシュがラングストンに言った。「お茶とクッキーありがとう。これから持ってきてくれるんだと思うけど」

ラングストンが返した。「どういたしまして。もう帰っちゃうんだ? それは好都合だ!」ラングストンはわざわざ玄関まで出て行って、ドアを開けた。ブーマーは戸惑いつつも立ち上がって玄関へ向かったけれど、ダッシュは少しの間ためらっていた。彼は私に「じゃあね」のキスをしたそうだったけれど、思い直したみたいで、代わりにボリスの頭をなでた。ボリスは私を裏切って、ダッシュの手を舐めた。

私は少し心が痛んだけれど、ピーコートを着た、ありえないほどかっこいい彼氏が、私の犬に優しくしているのを見ていたら、逆に私の心はとろけそうになった。「明日の夜、うちでツリーの点灯式があるんだけど」と私はダッシュに言った。「来る?」明日は12月14日だった!点灯式の日だ!ダッシュが我が家のリビングルームに文字通りドスンとツリーを置くまで、どうして私はこんな重要な日をすっかり無視していたのかしら? 今年の点灯式は祝い事というより、仕方なくやる決まり事のように感じていたのかもしれない。

「絶対行くよ」とダッシュが言った。グラントはダッシュが私の誘いを受け入れたことなど全く意に介していない様子で、再びボリスにちょっかいを出そうとした。寄ってくるグラントから逃げるようにボリスが駆け出し、―そのまま、壁に沿って高く積み上げてあった本の山につっこんだ。

それを見て、おじいちゃんが叫んだ。「グラント、こっちに戻って来なさい!」それからボリスがほえ始め、ラングストンがダッシュをせかした。「さあ、早く行け!」

ブーマーとダッシュは出て行った。

ダッシュはここを立ち去ることができてほっとしただろうな、と思った。

我が家はいつもせわしない。うるさくて、にぎやかで、毛むくじゃらのペットもいて、たくさんの人間がごった返している。

ダッシュは静かな、きちっと整った場所が好きで、一人で本を読んでいたいタイプなの。彼自身の家族と一緒に過ごすのもあんまり好きじゃないみたい。それに彼は猫アレルギーなんだけど、たまに私に対してもアレルギー体質なんじゃないかって疑ってしまう。


12月14日(日曜日)

一年前、私の生活は今とはまるで違っていた。おじいちゃんもフロリダまで車で行ったり来たりできるくらい元気だった。フロリダにはおじいちゃんが所有している高齢者向けの複合型住宅があるんだけど、その一室におじいちゃんのガールフレンドが住んでいたの。その頃の私はペットもいなければ、まだボーイフレンドもいなかった。それに私は悲しみというものがどんなものなのか、本当の意味では理解していなかった。

おじいちゃんのガールフレンドが今年の春にがんで亡くなったの。そしてそのすぐ後、彼の心臓は限界に近づき、音を上げた。おじいちゃんが倒れているのを見たとき、深刻な事態だっていうのはわかったけれど、私はパニックですべてを把握することはできなかった。とにかく必死で救急車を呼んで、果てしなく長い時間救急車を待って、私も救急車に乗り込んで病院に行った。それから家族全員に電話して、起きたことを知らせたの。次の日になって、おじいちゃんの容体が安定してきて、やっと私は事の重大さに気づいたわ。私は少しでも何か食べなくちゃと思って、病院の食堂に行ってランチをつまむ程度に食べてから、おじいちゃんの病室の前まで戻って来たところで、窓越しに私の大好きなミセス・バジル(おじいちゃんの妹)が中にいるのが見えた。彼女は背の高いレディーで、いつもは威風堂々とした存在感を放っていて、オーダーメイドのスーツを完璧に着こなし、高価な宝石を身につけ、顔のメイクもばっちりきまってるのよ。それが普段の彼女なんだけど、おじいちゃんが寝ているベッドの横に座り、彼の手を握りしめている彼女は、大粒の涙をこぼしていたの。病室に入った私を見つめる彼女の目から、滝のように流れ落ちたマスカラが、唇まで達していた。

ミセス・バジルが泣いている姿を見るのは初めてだった。彼女が凄く小さく見えた。私は胃の中に鋭い痛みを感じ、胸が締め付けられた。私はコップに飲み物が半分しか入っていなくても、半分も入ってるって思うタイプだし、―要するにいつでも物事の明るい面だけを見る女の子だから、その鋭い痛みが私の体と心をむしばむように膨れ上がっていくのを否定しようとしたんだけど、彼女が悲嘆に暮れる姿を目の当たりにしたら、私の中にも一気に悲しみの頂(いただき)がそびえ立った。突然、おじいちゃんの死がリアルすぎるくらい現実味を帯び、彼がいつか死んでしまった時に感じる気持ちが、まだ起こっていないこととは思えないほど、ありありと胸中に湧き上がった。

ミセス・バジルがおじいちゃんの手を彼女の顔に当てて、いっそう激しく泣いたから、私は一瞬おじいちゃんが死んでしまったのではないかと恐れた。それから彼の手が息を吹き返したように彼女の頬を軽く叩いて、彼女の顔から笑みがこぼれた。私はその様子を見て、しばらくは大丈夫そうね、と安堵した。―変わらないものなんてないから、この先どうなるかなんてわからないけれど。

それが私が初めて入り込んだ悲しみの領域、その第一ステージだった。

第二ステージは次の日にやって来たんだけど、それはさらに上を行くものだった。

単純に親切心から発したことが、あらゆるものを一変させてしまうこともあるなんて、それまで思いも寄らなかったわ。

ダッシュが病院にいた私を訪ねてきた。そのとき私は食堂にいて、支払いを済ませ席にはついていたんだけど、ほとんど食べることができずにいた。―私の頭の中ではいろんなことがばらばらにはね回っていて、目の前のちょっと固くなったチーズサンドイッチとサラダ揚げを見ても食欲がわかなかった。病院ではフライドポテトの代わりにサラダ揚げが出されるらしく、健康志向って意地悪なのね、とか思っていた。きっとダッシュは電話越しの私の声から、私が疲れている、―あるいは私がお腹を空かせていると感じ取ったんでしょう。私に近づいてくる彼は、私のお気に入りのお店〈ジョンズ〉のピザを手に持っていた。(ミッドタウンにある〈ジョンズ〉じゃなくて、グリニッチ・ヴィレッジのお店よ!)あそこのピザは私にとって究極の食べ物で、心まで穏やかにしてくれるの。たとえ病院まで持ってくる間にパイ生地が冷たくなっていたとしても、それを見た瞬間に、私の心はこれ以上ないってくらい温かくなったわ。―しかもそれを持ってきてくれたのがダッシュだったからなおさらね。

それで気持ちが高まって、つい「私はあなたがとっても好きよ」って言っちゃった。私は彼の背中に腕を回し、彼の首元に顔をうずめながら、キスマークで首を埋め尽くす勢いで何度もキスをした。彼は笑って言った。「たった一枚のピザでこれだけのご褒美がもらえるって知ってたら、もっと早く買ってきたのに」

彼は「僕も君が好きだよ」とは言ってくれなかった。

「好き」という言葉が私の口から出るまでは自分でも気づかなかったんだけど、私は単に彼がピザを買ってきてくれたから「好き」って言ったわけじゃないの。

私がダッシュに「とっても好き」って言ったのは、こういう意味なのよ:あなたの優しいところと、ちょっとひねくれてるところが好き。それから、あなたがお店のレジでお父さん名義のクレジットカードを差し出しながら、「恩は人から人へと巡るものだから」と言って、ちょっと多すぎなんじゃない?って思うくらいのチップを店員さんにあげるところも好き。私はあなたが本を読んでいる時の表情が好きだし、―なんだか夢見心地で満ち足りていて、別世界に旅行中っていう顔をしてるから、―それに、あなたが私にニコラス・スパークスの小説なんか読むなって、さりげなくほのめかすのも好きよ。私は興味本位でニコラス・スパークスの小説を一冊読んでみたんだけど、そしたら気に入っちゃって、さらに何冊か彼の本を読んじゃったわ。そんな私の行動にあなたはすっかり混乱しちゃって、あからさまに頭にきたっていう顔をしてたわね。そういう直情型のところも好きよ。何冊か読んでしまった今となっては、私はすっかりニコラス・スパークスの小説のとりこよ。私はあなたと文学について、上流気取りであれこれ言い合うのが好きだし、たとえあなた自身は「大衆に迎合した、うわべだけ取り繕ったような、使い捨てのロマンス小説」を好きじゃなくても、少なくとも、そういう小説が好きな人は(あなたの恋人も含めて)大勢いるってことを、あなたはちゃんと理解しているのも好き。私は大好きな大叔母さんとほとんど変わらないか、それ以上にあなたのことが好きなの。あなたが私の人生に入り込んできてから、私の人生はいっそう明るく、素敵に、面白くなったんだからね。昔々のおとぎ話の出来事みたいに思えるけれど、あなたが赤いノートの呼びかけに応えてくれたから、私はあなたがとっても好きなのよ。

おじいちゃんは一命をとりとめたけれど、私の一部分はあの日死んでしまったような気がした。本当の意味で誰かを好きになることの喜びを知っても、ひとたび孤独を経験すると、たちまち喜びの炎ってしぼんでいくものなのね。

ダッシュは「好き」という言葉をいまだに言い返してこない。

私もそれ以上その言葉を口にはしなかった。

べつにダッシュを責めてるわけじゃないの、―本当よ。彼は素敵だし、魅力的よ。私の目にはそう映ってるわ。彼も私のことが好きだってわかってる。凄く実感あるの。時々、そんな私の溢れる想いに触れて、彼が驚いた表情をするから、そんなにびっくりしないでって思うけど。

私はあなたがとっても好きよ」その言葉はまぎれもなく、私の体の全細胞で感じた本物の気持ちが溢れ出たものだった。しかし何の返答もなく時間が経過すると、私はダッシュから少し距離を置こうとしていた。私には彼が感じていない気持ちを無理に実感させることはできないし、そうしようとして私自身が傷つくのも嫌だったから、私の彼への愛情はとりあえず、コンロの奥のバーナーに移して弱火でコトコト煮込んでおくことにした。そしたら彼に対してもっと気楽に接することができて、彼に多くを期待しなくなるかなって思ったから。

実際問題として、私が忙しすぎるというのもあった。ダッシュと過ごす時間がほとんど取れなくなって、次第に会えないつらさも薄れていった。積極的に恋愛から撤退しようとしたわけではなくて、自然消滅へと向かっていったという感じ。学校がない日は、家で受験勉強をしているか、SATのための予備校に行っているか、サッカーの練習か試合に行っていた。もちろん、おじいちゃんをリハビリセンターや医者との面談に連れて行ったり、彼の仲間たちの元へ雑談をしに連れて行ったりしながらよ。食料品の買い出しに行って、料理も私がするの。最近ママとパパは新しい学校の仕事があって忙しいから。二人とも今はもう海外で働いてるわけではないんだけど、海外にいるのとさほど変わらないわね。ママは急に欠員ができたからと頼まれて、ロングアイランドのへき地にある公立大学で、社会人向けの現代文の講座を受け持ってるの。非常勤なんだけど、演奏会に向かうミュージシャンみたいに張り切ってるわ。パパはコネチカット州のどこだか、神のみぞ知る場所にある全寮制の学校で校長をやっていて、ニューヨークからそこまで通ってるわ。ラングストンは一応、おじいちゃんがやっていた仕事を手分けしてやってくれるけど、家事に関して言えば、いかにも都会で育った男って感じで無能っぷりを発揮してる。(見てるとじれったくなって、ののしりたくなっちゃう。)それから、私がやってる犬の散歩代行業もあるわ。私が提供してるサービスは凄く需要があってね、今ではミセス・バジルが私のことをリリーベアと呼ぶのをやめて、実業家のリリーって呼ぶほどになったのよ。他にもやらなくちゃいけない細々としたことがあって、その隙間にダッシュと会う時間を見つけようとしてると、なんだか喜びよりも義務感の方が強い気がしてきちゃう。

私は押しつぶされそうなの。

お子様のリリーベアちゃんはもう遠い思い出ね。この一年で、とても若い16歳から、とても年老いた17歳へと、一気に年を取った気分だわ。


とにかく私は大忙しだったわけ。それで、今日の点灯式でダッシュにセーターをプレゼントしようと思って大急ぎで刺しゅうしたんだけど、とんでもなく下手な出来栄えになっちゃったの。そのセーターに取り掛かったのは今年の初めだったんだけど、おじいちゃんが倒れちゃって、それからは手つかずの状態だった。半年以上もほったらかしてあったセーターを取り出して、急いで仕上げてみたはいいけれど、その見栄えの悪さに、私はため息をついた。兄が横で笑っていた。

そんなには悪くないでしょ? ラングストン」と私は聞いた。

「まあ...」と彼は長すぎるくらいのためを作ってから言った。「いいんじゃない?」彼はそのエメラルドグリーンのセーターを頭からかぶって着ると、だぶだぶの袖を引っ張って見せた。「でもさ、ダッシュは僕と同じくらいのサイズだろうから、このセーターはかなり大きいんじゃないかな。君が毎年クリスマスに大量のクッキーをダッシュに食べさせて、どんどん太らせるつもりならわかるけど」

そのセーターは数年前のクリスマスに、パパにプレゼントしたものだった。大きい人用のお店〈ビッグ&トール〉で買ったものなんだけど、パパは一度も着てくれず、箱にしまったままだったの。私はそのセーターをダッシュへのプレゼントに再利用したわけだけど、ワッペンは私のオリジナルなのよ。雪の結晶の模様が入った赤い布に、私がカラフルな糸を針で縫い込んでいって、「一本の枝に止まっている二羽のキジバト」を刺しゅうしたんだから。左のキジバトのお腹には「DASH」の文字を入れて、右のキジバトには「LILY」って入れたの。

実際に兄が着てみると、そのビジュアルは私の目にもおそまつに映った。私はキジバトのワッペンを取り外して、帽子かマフラーか、何か他のものにそのワッペンを縫い付けなくちゃと思った。私の縫い方のせいじゃなくて、キジバトがセーターみたいなメインの洋服には似つかわしくないのよ。たとえキジバトの名称が、turtledove(亀みたいなハト)っていう可愛らしいペットもどきの名前でもね。私はキジバトが優しげな、猫が喉を鳴らしてるみたいな声で鳴くハトだと知って、とてもがっかりしたわ。私はすべての動物を愛する主義だからキジバトも可愛いと思いたいけれど、私はニューヨークの住人でもあるから知ってるの:ハトは可愛くない。ただ迷惑なだけ。

こんな風に私がクリスマスを象徴する鳥をけなして、日頃のうっぷんを晴らしてるのは、まだクリスマスの季節が来たという実感がないからよ。私はラングストンに言った。「そうね、ちょっとひどいわね。これじゃあ、ダッシュに渡せないわ」

「いや、むしろこれをダッシュにあげてくれよ」と、ラングストンがにやけながら頼んできた。

玄関のベルが鳴った。私は言った。「早くセーターを脱いで、ラングストン。お客さんが来ちゃったわ」

私は玄関の鏡で身だしなみをチェックして、私自身がプレゼントみたいに見えるといいけど、と思いながら髪をなでつけた。私はお気に入りのクリスマス用の服装をしていた。前面にトナカイが刺しゅうされている緑のフェルト生地のスカートをはいて、サンタクロースの絵の周りにアルファベットでDON’T STOP BELIEVIN’ (信じることをやめないで)と書かれた赤のトレーナーを着ていた。ごちそうはすでに準備され、オスカーの豊かな枝々の周りにはコードでつながったライトが巻かれ、動物たちは、お客さんに気を遣って、私の寝室に閉じ込めておいた。クリスマスが始まろうとしている。魔法みたいなことが起きる予感。

玄関を開けたらダッシュの父親はいるだろうか、と私は思った。ダッシュと彼のパパがもっと一緒に過ごせば、お互いのことをもっと好きになるはずだし、クリスマスの始まりを祝して、小規模なパーティーだけど、この点灯式に一緒に参加すれば、二人の仲を深める良い機会になるんじゃないかと思ったの。昨夜、私はまず彼のママに招待状をメールで送ったんだけど、ちょうど同じ時間帯にクライアントとの面談が入ってるからって断られた。それで今朝になって、代わりにダッシュのパパを招待しようと思い付いたってわけ。

けれど思いもかけないことに、実際に玄関のドアを開けてみると、ダッシュが彼のママとパパに挟まれて立っていた。「ばったり誰に会ったと思う?」とダッシュが聞いてきた。

ダッシュは子供の頃、両親の離婚調停中に裁判所まで出向いて証言したんだけど、それ以来、彼の両親は一緒に暮らしていないはず。

ダッシュはパーティーにふさわしい浮かれた顔をしていなかった。彼の両親も冷たい表情をしていた。

ついに、クリスマスにぴったりの寒さがやって来たみたい。



3

ダッシュ

尻に敷かれて


12月14日(日曜日)

もしリリーの体を最新にして最高精度のレントゲン装置で撮影したとしても、そしてそのレントゲン写真を、全世界からかき集めた顕微鏡の中で最強のものを使って解析したとしても、彼女の体のどこにも、骨の髄まで探しても、悪意の欠片も見つからないだろう。それはわかってるし、この問題の本質は無知から生じたちょっとした間違いであって、意図的な暴挙ではないし、悪ふざけでもない。そして、彼女に宇宙的なスケールの過ちを犯したことを自覚させる術もない。

とはいえ、マジかよ、と無性に腹が立って仕方ない。

僕が母親の家からリリーの家に向かおうとしたところ、ママが大声で聞いてきた。「どこへ行くの? 私も一緒に行くわ!」

僕は一瞬まずいなと思ったけれど、そうだな、と思い直した。ママとリリーは普段から仲がいいし、それは僕も嬉しい。リリーが幅広くいろんな人をツリーの点灯式に呼ぼうとしてることは素晴らしいし、そうだな、ママも連れて行こう。

母親が「そんな服装で行く気なの?」と言ってきた時も、僕は気をわずらわせるのをやめ、母の指示通りにネクタイを締めた。僕が思春期に入り、母とのお出掛けを〈すべきことリスト〉から除外して以来、母と並んで外を歩くのは、おそらくこれが初めてだった。それでも僕は母との会話を上手くこなそうとした。僕たちは地下鉄に揺られながら、母がやっている読書会で今月読んでいる本について喋ったりした。僕がアン・パチェットの小説は全く読んだことがないからわからないと言うと、僕たちは他の話題へと移っていった。たとえば、母親が恋人(僕の義理の父)とニューヨークから抜け出して新年を過ごす予定だと言ったから、僕はここに残るよ、と返したり、まずまず楽しいひと時だった。

しかし、僕たちがリリーの家のある駅で地下鉄を降り、階段を上り切ったところで、ママが僕の腕をギュッとつかんで言った。「無理。ありえないわ。―無理よ」

僕は最初こう思った。なんて偶然なんだ。今日の午後パパはあちこち歩いただろうけど、たまたま彼がここを歩いてる時に、ちょうど僕たちが通りかかるなんて。

それから彼がプレゼントらしき物を手に持っているのに気づいた。―これから始まる午後の時間が、完膚なきまでにめちゃくちゃにされるのではないかという考えがよぎった。

同じ考えが母の脳裏にも駆け巡ったようだった。

「ひょっとしてリリーが...そんなことするなんて、ね?」と彼女が聞いた。

困ったことに、僕には何とも言えなかった。僕も母もそれはあり得ることだと思ったのだ。

「ああ、ダメよ」ママは深い息継ぎを挟みながら、ひと言ひと言をしぼり出すように言った。「ダメ、絶対、無理

世の中には両親の離婚を経験し、それを機に家族ががれき同然となって、悲しんでいる子供たちがたくさんいることはわかっている。でも僕はそういう子供たちと同じ気持ちになったことは一度もない。ぼんやり物事のうわべだけを見ている人でさえ、僕の両親を見れば、二人の関係はお互いの最悪な面を引き出すだけのものだとわかっただろう。―僕はむしろ物事の裏側まで見ようとする人だから、そんなことは一目瞭然だった。物事がばらばらに崩れたとき、僕は9歳だった。僕は両親がお互いの前でどのように振る舞っているのか、二人の一挙手一投足を、フルタイムの仕事のように朝から晩まで観察していた。二人とも力を振りしぼって武装している気でいたけれど、実際はただ自分の弱さが拡張されたものにしがみついているだけだった。母からはパニックと怒りがシーソーのように代わりばんこに発せられた。父からは傲慢さともっともらしい憤りが渦巻くように噴出した。僕はどちらにも肩入れしなかったけれど、結局いつも父のはちゃめちゃな意地の悪さが目に余り、気持ち的には母寄りにならざるを得なかった。離婚してからは、父の竜巻が母の生活をかき乱すことはほとんどなかったのだけれど。

リリーは僕の両親に対する気持ちを知っていたし、僕が二人の間に広く非武装地帯を作っていることも知っていた。そうすることで父の側から絶え間なく繰り出される攻撃が、母の側まで届かないようにしていたのだ。それが母を傷つけない唯一の方法だったから。

しかし今、母は攻撃をくらったような顔をしていた。ただ前方に彼の姿が目に入っただけで、彼女は負傷してしまった。

「どういうことなのか、ちょっと僕にはわからないな」と僕は彼女に言った。

「わかったわ」と彼女は言い、一瞬動きを止めてから、覚悟を決めたかのように、前に向かって歩き出した。そして父を追うように進んでいった。

「無理について行くことないよ」と僕は彼女に言った。「ほんとに。僕がリリーに説明するからさ。リリーもわかってくれるよ」

ママが僕にほほえみかけた。「私たちはね、テロリストに屈するわけにはいかないのよ、ダッシュ。あなたの父親が同じ場所に行こうとしているのだとしても、私はツリーの点灯式に行くわ」

彼女は気持ちに勢いがついたのか、歩くペースを上げ、リリーの家があるブロックに着く頃には、僕たちは父のほんの1メートル後ろを歩いていた。彼らしいといえば彼らしいが、それでも父は振り返らなかった。

「パパ」と僕はついに声をかけた。リリーのアパートメントの正面玄関の踏み段に、彼が足をかけたところだった。

彼は振り向いて、まず僕を見た。そして「父親の顔」を意識的に作った。(その表情が彼に似合ったためしはない。)それから彼は僕の隣に目を移し、正真正銘のサプライズの光線ともいうべき視線を発した。

「おお」と彼が言った。

「そうね」とママが返した。「おおってなるわね」

僕たちは顔を突き合わせた鶏のように、しばらく立ち話をした。全く気持ちのこもっていない社交辞令のあと、ママはパパの新しい(年齢的には新しいとはいえない)妻の様子を尋ね、逆にパパはママの新しい(年齢的には新しいとはいえない)夫の様子を尋ねた。なんだか異次元にでも迷い込んだ気がした。―というのも、二人とも普段新しいパートナーを呼んでいる感じとはまるで違う声色で、それぞれの名前を口にしていたからだ。僕は途方に暮れてしまった。―子供の頃から何度も味わった感覚だった。こんな気持ちにはもう二度と触れたくないと思っていたのに。

パパが手に持っているプレゼントは包装紙に包まれていた。―たぶん新しい妻がくるんで持たせたものだろう。あるいはお店の人か。いずれにしても、僕がパパから毎年もらっているプレゼントよりは手が込んでいた。ここ数年、僕はパパから小切手を渡されて、何でも好きなものを買っていた。小切手には、パパの代わりに新しい妻が書いたとわかる誕生日カードも添えられていた。

まだリリーが玄関に出てきていないうちから、ママとパパはお互いにちくちく嫌味を言い出した。―パパが「お前がここに来るなんて聞いてないぞ」と言うと、ママが「あら、どうして来ちゃいけないの?」と返した。放っておくと、いつまでもいがみ合っていそうだったので、僕が「黙って」と促した。家の中にはリリーの親戚が一堂に会しているはずだった。そして、僕の遺伝子の供給源がこんなに問題だらけだと、リリー家の人たちに悟られることだけは、なんとしても避けたかった。

リリーがドアを開けて顔を出した。僕は「彼女は何も知らなかったんだ。彼女は何も知らなかったんだ。彼女は何も知らなかったんだ。」と内心でつぶやきながら、大声を張り上げたい気持ちを抑え、ただ「ばったり誰に会ったと思う?」と聞いてみた。

もし僕の彼女がリリー以外だったら、僕の皮肉を利かした攻撃に対して、ひねった答えで応戦してきたかもしれない。悪魔的な精霊クランプスにでも出くわしたの? とか。あるいはリリーっぽい答えだと、『クリスマス・キャロル』のスクルージにばったり会った? とか。もしくはユダヤの英雄マカバイか? まあ、リリーがそんなへんてこなことを言うはずもなかった。彼女は「コートを預かりましょうか?」と聞いてきた。ただ、僕たちは誰もコートを着ていなかったのだけれど。

父はそれには答えず、リリーにプレゼントを差し出して、「君へのプレゼントだよ。可愛いお嬢ちゃん」と言った。

「私だって、何か持ってきたでしょうね」と母がすかさず口を挟んだ。「ダッシュがそういうパーティーだって教えてくれればね」

父が笑って、「こいつってそういうところあるよな!」とリリーに向かって言った。まるで僕がパーティーの種類を見分けることにいかに疎いかを、彼女まで熟知していると父は思っているみたいな口ぶりだった。

全然そういうパーティーじゃないのよ」とリリーは言った。「でも、どうもありがとう」

そして父は、例によって、「じゃあ、そういうパーティーじゃないのなら、返してもらっても構わないよ」と言って、腕を突き出すと、彼女からプレゼントを奪い取ろうとした。それから手を引っ込めて、再び笑った。「おいおい、単なるジョークだよ。みんな揃ってそんな顔しちゃって」と彼は言った。笑っているのは彼だけだと、やっと気づいたらしい。

「私はちょっとこれを部屋に置いてくるわ」とリリーが言った。彼女の口ぶりから、僕も彼女の部屋までついて来い、という意味だとわかったけれど、ママをここに放っておくわけにはいかなかった。

「家に上がらせてもらって、とりあえず僕は両親をリビングルームにいるみんなに紹介するよ」と僕は言った。

「ああ、そうね。私もすぐリビングに行くわ」

ピンと張りつめた一触即発の状況にいるとき、元カノだけはその込み入った状況に巻き込みたくないと思うものだろうけど、この場合は違った。リビングルームに入って、ソフィアの姿が目に入ったとき、僕は感謝の念に包まれたのだ。助かった。彼女と僕の母は以前から気の合う仲だったから、母のことは彼女に任せよう。

「ほら、ソフィアに挨拶して」僕は母を連れて彼女のいる方へ歩いていった。「ソフィアがバルセロナから戻ってきたって言ったよね? せっかくだからさ、バルセロナにある100年以上前から建設中の、あの大聖堂はもう完成したのかって、彼女に聞いてみたらどう?」

「お久しぶりです!」ソフィアが僕と母を見て満面の笑みを浮かべた。そして彼女の目が僕からのSOSのサインを受け取ってくれた。「ちょうどよかった。私、知らない人ばかりで困ってたの。―ブーマーはまだ来てないし、リリーは飾り付けとかで走り回ってるし。知ってる顔が来てくれてほっとしたわ」

母が笑顔を返した。「そりゃ私が来るなんて思わないわね」

「すぐ戻るから」と僕は言った。僕にはまだ不発弾の処理が残っていた。父をなんとかなだめすかさなければならない。

父はラングストンに話しかけていた。父が何を話しているのか聞くまでもなく、父から発せられるひと言ひと言によって、ラングストンが僕の家系をどん底まで低く評価していくことは目に見えていた。

「...そんなつもりはないんだけどな、そんなにきざに見えるか。ちょっと場違いな気もしたんだけどさ、呼ばれちゃって、まったく俺はサンタかってな」

「リリーがお父さんを招待したんですよね」とラングストンが父に返した。「彼女もお父さんがサンタだとは思ってないと思いますよ」

父はその返答に一瞬とまどい、そのすきをついて、ラングストンが「そういえばトナカイのことで、ある人に相談しに行かなくちゃ」と言って、そそくさとリビングルームから逃げ出した。父はすぐに次の話し相手という名の人質を探し求めて、うろうろし出した。

「パパ」と僕は言った。「こっち来て」

この部屋に野生のロバ並みの父をうまく手なずけられる人がいるとすれば、それはミセス・バジルだろう。彼女はリビングのソファのいつもの定位置に陣取って、この戦況を見守っていた。―ということは僕がひと言も説明しなくても、彼女はすべてを見通す勢いで、すでにこの状況を把握しているだろう。彼女がばか者どもには容赦しないことは前から知っていた。むしろ嬉々としてお仕置きしてくれるはずだ。

「パパに紹介したい人がいるんだ」と僕は父に言った。「こちらがリリーの叔母さん」

父の視線が彼女に向いた。でも大して気にも留めずに視線をそらして、今にも立ち去ろうという構えだ。外の道を歩いていて、年配の婦人とすれ違った時とさほど変わらない。

「それじゃあ」と、ミセス・バジルが父を見つめながら言った。好奇の目と、どう始末しようかしら?という邪険な目が混在していた。「あなたがこの放蕩息子のお父様?」

父はその言葉を耳にして少し背筋を伸ばした。「いかにも、こいつはだめなやつで。まあ、こいつの母親に聞いた話を総合すると、だめなやつなんでしょうね」

「なるほど。―あなたもそうとう道楽が過ぎるようですね!あなたがたが熊手で雪かきしてるのを見るたびにね、シャベルを使えばいいのにって思っていたのよ」

「ちょっとおっしゃってる意味がよく...」

「あなたのような紳士にはわからないでしょうね。まあいいわ。私の隣に座ったらいかが? あなたを遠目に見てるのも、隣に座ってお喋りするのも、どちらも大して嬉しくはないけど、隣にどうぞ。リリーはこのお祝いをすごく大事にしてるのよ。私が見るところ、今この部屋でこのお祝いの席を台無しにする可能性が高い人はあなたよ。私の隣に座っていれば、その心配はないわ」

ミセス・バジルはソファの彼女の隣を手で叩いて、座るように促したけれど、その手つきはソファに魔法をかけているようでもあった。そうすることで彼が座ってもソファが汚染されなくなるのかもしれない。

「べつに俺は好きでここに来たわけじゃないんですよ」と彼はぼそぼそとつぶやいた。僕はあやうく彼を気の毒に思いそうになったけれど、なんとか気持ちを持ち直した。

「このパーティーに参加していれば、あなたの評判も高まるわ」とミセス・バジルが父の気持ちに寄り添うように言った。「あなたは喋れば喋るほど評判が落ちるみたいだから、おとなしくここに座って、みんなを見ていましょう」

力なく、父はうなだれるように従った。

「あなたのお父様にリンゴジュースを持って来てちょうだい」とミセス・バジルが僕に指示した。

「ダブルで頼む」とパパが言った。

「リンゴ酒じゃないわ。ノンアルコールのリンゴジュースよ」とミセス・バジルが父の要望を却下した。

「じゃあ、―そのノンアルコールをダブルで」と父が返した。それでようやく彼はわずかながらも彼女の信頼を得たようだった。

僕は急いで飲み物を取りに行くと、―〈WORLD’S GREATEST FATHER〉(世界一偉大なお父さん)とは書かれていないマグカップを二つ選び、父に手渡した。それから僕は、まだ戻って来ていないリリーを探しに行った。

まずキッチンをチェックしたが、そこには彼女のお父さんがいるだけだった。彼はなんだか、どの電気器具が電子レンジだったかを思い出そうとしているかのようだった。それから僕は廊下を走って、トイレのドアに鍵がかかっていないかどうか確かめたけれど、鍵はかかっていなかった。

僕が彼女の部屋に近づいて行っても、静かだった。―とても静かだったから、彼女は部屋にいないのだろうと思った。しかし中を覗き込んでみると、彼女はそこにいた。一人きりで座っていた。何かを探している様子でもない。携帯電話をチェックしているわけでもない。音楽プレーヤーの休日のプレイリストを今の気分に合わせて変更しているとかでもなかった。彼女はベッドの端にちょこんと座って、世界の片隅をじっと見つめ、物思いにふけっていた。もし僕が彼女の名前を呼べば、その瞬間にハッとして、消えてなくなるようなことを彼女は考えているようだった。彼女はどこか異次元の世界に逃げ込んだ放浪者のような顔をしていた。そんな彼女を見ると僕の心はざわついたけれど、僕は彼女の一人の時間を邪魔していいものかどうか迷った。誰かの助けを心の内で叫び求めるような孤独もあるけれど、今の彼女はそっと一人にしておいてほしいように見えた。

僕はそっとみんなのいるリビングルームに戻ろうとした。しかし僕が後ずさった瞬間、彼女は異次元空間から抜け出したようにこちらを向いて、ドアに手をかけている僕を見た。おそらく僕がここにいることを、彼女は僕がドアを開けた時から知っていたのだろう。でも僕には彼女が何を考えていたのかまでは、たぶん思い及ばなかった。

「ダッシュ」と彼女が言った。まるで僕たちが二人とも名前を忘れてしまって、お互いが誰なのかを確認し合う必要があるみたいに。

「パーティーだよね?」と僕は返した。「何か手伝うことある?」

リリーは首を横に振った。「もう全部準備できてるわ。それにパーティーじゃなくて、ただのツリーの点灯式よ」

僕の父があげたプレゼントが彼女の机の上にあったけれど、まだ包装紙にくるまれたままだった。僕はそれを手に取ると、振ってみた。中で何かが転がった。

「うーん、少なくとも小切手じゃないみたいだね」と僕は言った。「まあ少なくともちょっと考える必要があるね。パパか、誰か中身を知ってる人に聞かないとわからないかな」もっと激しく振ってみた。「壊れないものだといいけど」

「やめて」とリリーが言った。

僕は手を止めた。

「私もあなたにプレゼントがあるの」と彼女が言った。「今すぐ開けなくてもいいのよ。それに、もし気に入らなければ着なくてもいいのよ。ずっとしまったままでいいわ。私はただ、―なんていうか、あなたにあげたいなって思っただけなの。でもあなたには着なきゃいけない義務はないわ」

「革のミニスカートでもくれるの?」と僕は聞いた。「僕のために牛を一頭殺して、その牛革でミニスカートを作ってくれたんだね!」

彼女の表情がホラー映画の登場人物のようになったので、僕の予想が当たってしまったのかと思い、僕もきっとホラー映画の登場人物のような表情を浮かべた。それで少しリリーの心がなごんだようだった。

「このセーターの製作中、いかなる牛も傷つけておりません」と彼女が僕に断言した。

そして僕は、あー、セーターなのかと思った。

リリーがセーターを編めるはずない、と思ったわけではない。むしろリリーなら、心に思い描いたものをなんでも形にすることができると思う。それが5段重ねの巨大なケーキでも、マクラメ編みで聖母マリアを形作った編み物であっても。でもセーターは...ニューヨークで暮らす僕は、セーターと複雑な関係にあるのだ。外にいる時は極寒から身を守ってくれるセーターはありがたいけれど、室内では? 気温が急上昇して30度を超えたら? 汗が噴き出して、セーター地獄だ。

リリーは上が本棚になっている棚のところまで行くと、下の台に置いてあったティッシュペーパーのような紙でくるまれた包みを手に取った。そして「どうぞ」と言って、僕にそれを差し出してきた。

僕はそれを手に持ったまま、クリネックス・ティッシュと普通のA4紙の間に、どんな激しい夜の交わりがあって、このような包装紙として使われる薄葉紙が誕生したのだろう?と思いを巡らせた。それからその紙をびりびりと破くと、中からセーターが顔をのぞかせた。

まず気づいたのは、その大きさだった。―XLを通り越して、少なくともXが二つ付きそうな大きさだ。もし大きなトナカイが何かの拍子に身を隠す必要に迫られたとしても、このセーターの下に十分隠れられそうである。それから僕はセーターを広げ、そのセーターがクリスマス感丸出しであることに気づいた。―リリーがそのセーターをクリスマス・プレゼントとしてくれたのはわかっていたけれど、まさか前面にでかでかとクリスマスっぽくデコレーションをほどこしたセーターだとは思ってもみなかった。雪の結晶の模様はなんだか、前の晩にちょっと飲み過ぎたクモが、酔っぱらったままフラフラと糸を張ったみたいだった。その上に二羽の鳥がいた。ハトだ、と僕は思った。ハトのお腹には僕たちの名前が入っていた。リリーのハトは口にオリーブの小枝を一本くわえている。僕のハトはコソコソとリリーのハトの後ろに隠れようとしているみたいだ。

「おー、リリー」と僕は言った。「つまり、ワオーってことだけど」

彼女はこれを作るのに多大な時間を費やしたに違いないと思った。それで僕は言った。「これってすごく時間がかかったよね!」

今彼女が着ているサンタ感を前面に押し出した服装と凄くマッチしていると思ったから、僕は言った。「僕たちってお似合いだね!」

この一年が彼女にとって大変な一年だったことを知っているから、僕は自分の中にあるありったけの陽気さをかき集めて言った。「今すぐ着るよ!」

彼女は、今すぐ着なくていいよ、と謙遜する言葉を並べ始めた。それでも僕はセーターに首を突っ込んで、どこまで本気かわからない彼女の話をセーター越しに聞き流しながら、なんとか首を通す穴を見つけ、顔を出した。そして水面に浮上したように息をした。遠目に見たら、僕は気狂いミトンに見えたに違いない。

「気に入った!」と僕は袖をまくりながら言った。それでやっと素手で空気をつかむことができた。

「気に入ったなんて、そんなはずないわ」とリリーが言った。「着なくていいって言ったでしょ。それに、それって誰にでも言うお世辞でしょ」

「違うよ」と僕は言った。「お世辞なんかじゃないよ。僕は誰かにセーターを編んでもらったことなんて、ただの一度もないんだから。両親にもないし、おばあちゃんにもおじいちゃんにも、フロリダで時間を持て余している大叔母さんたちにだって、あんなに暇そうなのにセーターなんて編んでもらったことない。友達にもそんなことしてくれる人は一人もいないから、このセーターは僕にとって特別だよ」

「私が編んだわけじゃないの。私はただ...既製品にそれを縫い付けただけ」

「なら、なおさら良かった!その方が毛糸がほつれてるところが少ないだろうし!まぶしいくらい素敵だよ!」

僕は感嘆符(エクスクラメーション)付きの台詞を吐きすぎて、(エクス)クラマト・ジュースの広告塔にでもなった気がした。―口当たりがいいとは言い難いトマトジュースだ。―それで僕はテンションを下げた。

「本当だよ」と僕は言って手を伸ばすと、彼女の手を取った。そして瞳の中の誠意を見てほしくて、彼女をまっすぐに見つめた。「これは僕が今までにもらったプレゼントの中でも最高レベルだよ。これを着ていれば誇らしい気分になれる。〈ダッシュとリリーの誇り〉だね」

昔々のことだけど、この言葉を口にすると彼女が笑顔になったんだけどな。以前だったら、こう言うだけで彼女を幸せにできたのに。

あの頃の二人に戻りたい。

「本当に着なくてもいいのよ」と彼女が再び言った。

「わかったよ」

彼女がもう一度同じ台詞を言う前に、今はまだ僕のひたいに留まっている汗が、ひたいの下まで流れ落ちてくる前に、僕はドアに向かって歩き出した。それから振り返って、「君も来る?」と聞いてみた。「きっと僕のママも君と話したがってると思うから。それに君のお父さんがキッチンでちょっと、なんか迷ってた」と付け加えた。

リリーがこちらを向いて、やっと僕に焦点を合わせてくれた。「パパが? キッチンで? あり得ないわ。―つまり、彼はおつまみが欲しい時にしかキッチンには入らないのよ」彼女は立ち上がって、前に一歩踏み出した。「彼が何か手伝おうとしてるのなら、彼を止めなくちゃ。キッチンにママもいた? ママはもっと最悪よ」

「いや、君のママは見てない」と僕は彼女に断言した。

僕たちは廊下を歩いてキッチンへ向かった。しかし行ってみると、もう誰もいなかった。

「パパは何も壊したりしてないみたいね」と、リリーがざっとキッチンを見て回ってから結論づけた。「そういえば、―あなたの両親のことだけど、関係を悪くしちゃったとしたらごめんなさい。なんだか私、いろんな人を呼ばなくちゃって、それはいいことなんだって思い込んでたみたい。正直に言うと、自分が何を考えていたのかわからないの。混乱してたっていうか、こうなったらいいなってことばかり考えていて、当然こうなるだろうなっていう視点が抜けていたのかも。最近私はそんなことばかりやってるのよ。余計なことしちゃったわね」

「大丈夫だよ」と僕は彼女に請け合った。―けれど、どうにも本当っぽく聞こえなかった。僕たちは二人とも全然大丈夫じゃないことに気づいていたから。それで僕は言い直した。「きっと今はもう大丈夫だと思う。最初のショックも徐々にやわらいでいるだろうし、二人はリビングルームの別サイドにいるはずだから。ミセス・バジルが僕のパパを食い止めてくれているんだ。それができる人がいるとすれば、彼女しかいないからね」

僕たちがリビングルームに行ってみると、僕が言った通りの様子だった。ブーマーがすでに来ていて、ソフィアと僕のママと三人でにぎやかに喋っている。ブーマーの手は彼女の(僕のママのではなく、ソフィアの)背中に置かれていた。付き合いたてのカップルがよくやる、〈俺たちは深いところで結び付いているんだ〉とみんなに見せつけるポーズだ。僕がソフィアと付き合っていた頃、僕がああやって彼女の背中に手を当てていたら、おそらく彼女は「私を下に見てるでしょ」とか言いながら、僕の手を払いのけたと思う。でも彼女はブーマーにそうされることは気に入っているようだった。あるいは、なんとも思っていないようだった。それほどまでに、彼が触ってくることは、彼女にとってごく自然なことになっているらしい。

僕のママがそれに気づいた。ママがソフィアの背中に置かれたブーマーの手を見ている。ママの視線を見て、僕はママの気持ちが手に取るようにわかった。彼女は夫(僕の義理の父)を出張から連れ戻し、この場に連れてきて、同じように自分の背中に手を置いてもらいたがっているのだ。

一方、ミセス・バジルはチッという舌打ちを挟んだ言い回しで僕の父をねじ伏せていた。にもかかわらず、父が彼女との会話を楽しんでいるように見えて、僕はなんだかむしずが走った。

部屋の雰囲気が僕のセーターを受け入れる方向へガラッと変わるのに気づいた。僕を見て、にやけた人が確実に何人かいたんだけど、笑いに転じる瞬間、彼らの目にリリーが映り、別の考えが顔に浮かんだ笑みをかき消したのだ。―つまり、僕の隣にリリーが立っているという大きな文脈で考えてみると、このセーターは彼女が作ったものに違いないと気づいたのだろう。それゆえに、―唯一それだけの理由で、―笑い声はリリーの耳に届く前に、かき消された。誰も彼女に不穏な空気を感じさせたくないようだった。彼女にはみんなに愛されていることだけを感じてほしいのだ。もっとも、俯瞰して見れば、彼女のおじいちゃんの目には、その状況全体が滑稽に映っているようだったけれど。

リリーはそんなことには全く気づいていなかったと思う。リリーの関心事はツリーに移っていて、ツリーの真ん中辺りの枝につるしてあったろうそく立ての位置を直していた。「そろそろ時間ね」と彼女が、僕に言ったというよりは、むしろ彼女自身に向かって言った。彼女はごった返す人たちの中からラングストンを見つけると、二人で目配せし合って、何やら無言の会話をしていた。そしてラングストンのボーイフレンドのベニーが彼を軽く抱き締めてから、ラングストンがみんなの前に歩み出た。

「みなさん、こちらに注目してください」と彼が大声で言った。そこは疑似的な聖なる場所となり、その場にいたすべての生き物が沈黙した。少なくとも20人はいたと思う。―彼女のいとこたち、遠い親戚たち、家族の友達なのに親戚と同等の地位を得た人たち(なんだか中流階級なのにナイトの称号を得た人たちみたいだ)、そういう人たちに交じって、僕がリリーの人生の中に連れ込んだ4人もいた。―僕の両親とブーマーとソフィアだ。この儀式に初めて参加するのは僕たちだけらしい。他の人たちはみんな彼女の親族で、僕たちはお客さんだった。

ラングストンが続けた。「みなさんご存知でしょうが、今年は少しばかり大変な一年でした」

「勝手なこと言うんじゃない!」とおじいちゃんが怒鳴った。

ラングストンが苦笑いした。「でもみんなここに揃いました。それが一番重要なことなんです。毎年こうやってみんなが集まることができれば、それ以上の望みはありません。じゃあ、僕が長く話してもあれなんで、リリーに代わります」

僕はリリーがこの部屋の人たちのぬくもりを感じ取っていることを期待した。一堂に会した彼女の親族がみんなでいっせいに温かい眼差しを彼女に向けていたから。しかし彼女はまだ心ここにあらずといった様子で、「そういうことは言わないでほしかったわ、ラングストン」と話し始めた。「つまり、今年一年がどうとか、そういうことで私たちは集まったわけじゃないのよ」

気まずい沈黙があとに続いた。それからブーマーが叫んだ。「ボクたちはツリーに火をつけるために集まったんだよ。炎で燃え上がらせるために!

何人かがクスクス笑って、ソフィアが彼に耳打ちするように、点灯式の意味を教えた。

「それではみなさん、ツリーの周りをぐるりと囲んでください。そしたら始めます」とリリーが言った。「今年初めて参加する人もいるので一応説明します。まず一人一人キャンドルを持ちます。それから順番に隣の人のキャンドルに火をともしていきます。おじいちゃんまで火が回ったら、おじいちゃんがツリーのキャンドルに火をともします。そして私が電球のスイッチを入れて、ツリーをライトアップします。あ、このツリーはダッシュとブーマーからのプレゼントです。二人ともどうもありがとう」

「頼んだよ、オスカー!」と、僕たち二人のどちらかが声援を送った。

みんながオスカーって誰だろう?みたいな顔で部屋を見回した。もちろん彼は名前を呼ばれても、お辞儀をしたりはしない。

僕のママの様子を見てみると、彼女は渾身の愛想笑いを浮かべていた。

首を回してパパの方を見ると、彼は若干戸惑っているように見えた。

「さあ、みなさん」とラングストンが大声で言った。「ツリーが寂しがっています。輪を作って囲んであげましょう」

みんながツリーの周りにゆがんだ円を作った。ごちゃごちゃした輪の中に僕も入っていったら、結局僕はソフィアと僕のママの間に収まり、ママを挟んでブーマーが並んだ。それから、やかましく喋りまくっているリリーのいとこらしき人を避けるように、僕の父がブーマーの隣に歩み寄った。リリーはみんなに赤や緑や白のキャンドルを配ってから、部屋の隅に行って電気を消すと、音響機器を操作して、『ホワイトクリスマス』を流した。ビング・クロスビーが才能をいかんなく発揮して歌い上げる中、リリーはキャンドルに火をともし、彼女の母親のキャンドルに自分のキャンドルをくっつけて、炎が移って安定するまで動きを止めた。炎を受け取った母親はリリーの父親に向かって同様のことをした。炎のリレーが始まった。誰もひと言も喋らなかった。僕たちは炎の行方を目で追いながら、自分たちのところまで順番が回ってくるのを待ち構えていた。おじいちゃんが椅子から立ち上がって輪に加わるのに、ちょっとばかり手間取っていたけれど、おじいちゃんの番が来てラングストンに炎を移す時は、しっかりとした手つきだった。ラングストンが自分の芯とベニーの芯をくっつけ合って、なまめかしく炎を移したあと、ベニーがくるりとつま先で旋回して、ソフィアと対面した。ソフィアはにっこりほほえんで、両手ですくうように炎を譲り受け、振り返ってそれを僕に引き継ごうとした。

ブーマーは今まで一度もガールフレンドがいたことはなかったんだけど、だからなのか、ソフィアから炎を受け取るのはボーイフレンドである自分の使命だという、はっきりとした啓示を受けたのだろう。彼が僕の背後から飛び込むように、僕とソフィアの間に割り込んできた。ソフィアは儀式の流れを中断させたくないという気持ちから、彼の望み通りに彼のキャンドルに彼女のキャンドルをくっつけた。僕はそれを見届けて、ブーマーが小躍りするようにこちらを振り向き、体をゆすりながら僕に炎を移すのをじっと見守った。僕の手元に届くまで生き延びてくれ、と消え入りそうにゆらめく炎に僕は小声で声援を送っていた。ブーマーが僕のキャンドルに炎を移し終わり、振り返ってママの顔を見ると、彼女はひどく打ちひしがれた表情をしていた。ブーマーがママと僕を飛び越えたことで、ママをパパの隣に押しやったのだ。そして誰かがさりげなく順番を入れ替えるには、もう手遅れだった。

大丈夫、と僕は自分自身に言い聞かせた。両親は二人とも大人だ。きっと大人の振る舞いをしてくれる。

母親の手がぶるぶると震えていたから、キャンドルが彼女の手から落ちるのではないかと心配になった。彼女の手が落ち着くまで僕は三回挑戦して、やっと炎を移すことができた。

「大丈夫だよ」と僕はママにささやいた。「ママは立派にやってる」

彼女がかすかにうなずいた。きっと僕にしか認識できないくらいのささやかなうなずきだった。それから彼女は振り返ると、彼女の元夫に向かってキャンドルを差し出した。

一瞬、僕は何事もなく済むと思った。次の瞬間、二人のキャンドルが触れ合い、他のみんなと同じように炎が移された。その間、母親は手元のキャンドルに視線を落としていたけれど、父親は母親の顔を見ていた。

それから、父が口を開いた。

母は父を見ていなかったから、その台詞が彼の口から放たれたとき、全くの無防備だった。父が言った。「まいったな、お前がまた俺の恋心に火をつけちまった」その言葉はすさまじい衝撃で彼女のむき出しの心を直撃した。彼女がたじろぐように後ずさり、彼女の手からキャンドルがするりと落ちた。そして彼女が彼をろくでなし呼ばわりした瞬間、ツリーの下に置きっぱなしにされていた日曜版の新聞の紙面に炎が落下したのだ。彼が部屋中のみんなに向かって、こいつ昔から冗談が通じないやつだったんだよ、とか言っている間に、床で炎がボッと燃え上がった。

みんなが反応するものだと思った。というか、たぶん反応したんだろうけど、口論中の元夫婦以外で一番近くにいたのは僕だったから、僕が真っ先に炎に近寄った。消さなきゃ、と僕は思った。とにかく消さなきゃ。僕はこの混乱のまさに火元である新聞とキャンドルの上に、お腹から飛び込んだ。お腹で炎をもみ消そうとしたんだけど、お腹から床に滑り込みながら、これっておろかな反応だったな、という考えが浮かんだ。自分自身に炎が燃え移る嫌な予感がしたのだ。しかしこの消化方法は功を奏してくれた。お腹をこすりつけることで酸素が抜けたらしく、僕はなんとか父親が引き起こした火事を鎮火した。

僕は意識のどこかでリリーが金切り声を上げるのを聞いていた。ラングストンの叫び声も聞こえた。それから、炎を窒息させた僕の息の根を止める勢いでブーマーが空中から乗っかってきた。「目を閉じて!」と誰かが叫んだ。慌てて僕が目を閉じると、僕の上のブーマーもろとも泡状の化学物質を浴びせかけられた。

誰もがしばし黙り込んだ。それから:

「もう目を開けても大丈夫よ」

目を開けてみると、ミセス・バジルがかなり大きな消火器を抱えて、僕とブーマーの真上に立っていた。僕たちは泡まみれだった。

僕の母が僕の横にひざまずいた。「大丈夫?」

僕はうなずいて、あごをカーペットにめり込ませた。

「ブーマー」と僕の母が優しく言った。「あなたはこの子が大好きなのね。でもこの子つぶれちゃいそうよ」

まさに僕はつぶれちゃいそうだった!

ベニーとラングストンが二人でブーマーを抱え上げ、ラングストンが僕に手を伸ばした。僕は彼の手をつかみ、立ち上がると、彼が言った。「ああ、これはひどいな」

僕は怪我でもしたのか? 自分では気づかなかったけど、そんなにひどい火傷でも負った?

違った。僕自身は無事だった。

けれど、僕はセーターを台無しにしてしまったのだ。

視線を落とすと、溶けたろうそくの染みと、大きな焦げ跡が見えた。僕のハトは焼け焦げたマシュマロみたいだった。リリーのハトは快調に大空を飛んでいたら太陽に近づきすぎてしまったみたいだ。そして雪の結晶はなんだか、急激な溶解を起こしたみたいにぐしゃっとなっていた。

僕は視線を上げて、リリーを見た。彼女の瞳の中に凝縮された感情がひしひしと伝わってきた。彼女は泣きたいけれど、涙を必死でこらえているのだ。いっそ泣いてしまった方が楽だろうに。

「ごめんなさい」と僕は彼女に言った。

「いいのよ」と彼女は言った。「大したことじゃないわ」

急にみんなが話し出した。暗くしてあった部屋の明かりがつけられた。僕の母が深呼吸をしながら気持ちを落ち着けていた。そして僕の父は...

父の姿はすでになかった。

ミセス・バジルが、〈勇者の証〉としての不慮の火傷がどこかにないか、体をちゃんと調べるように迫ってきた。ベニーがリンゴジュースをカップに注いで、みんなに配り出した。みんなは手に持っていたキャンドルの炎を吹き消すと、床の新聞が置かれていた場所にそれを置いた。リリーがカチッとスイッチを入れて、ツリーの電球を点灯させた。けれど、「オー」とも「アー」とも歓声を上げる者は誰一人いなかった。

その場の雰囲気をどう立て直せばいいのか、僕にはさっぱりわからなかった。


僕たちはみんなで寄り添って場を盛り上げ、リリーのアパートメントを陽気なざわめきで再び満たそうとした。けれど、その試みはどこかしら、別種の不穏なざわめきを必死でかき消そうとしているようでもあった。―僕たちのパーティーにひっそりと忍び込んでいた怪しげな空気があって、僕たちがどんなに笑い飛ばすように追い出そうとしても、その招かれざる空気はかたくなに居座り続けた。

僕はもうしばらくここに残って、リリーの片付けを手伝うつもりだった。―手伝いながら今日の出来事について面白おかしく話して、それを喜劇に変えてしまいたかった。これから先いつまでも悲劇として引きずらないように。しかし、リリーのいとこたちが自宅のあるそれぞれの地区へと帰っていき、ソフィアとブーマーが夕方のデートへと繰り出していくと、すかさずリリーが近寄ってきて、「あなたもそろそろ、ママを連れて帰った方がいいわ」と僕に引導を渡した。それはもっともだと思ったけれど、でも同時に、僕が一緒にいてあげるべきなのは、ママよりもむしろリリーの方ではないかと心配になった。

その想いは、ママと一緒にリリーの家を離れるとますます大きくなった。そして間もなくママから、今日の事は何も話したくないから、それには触れないでという無言のメッセージをはっきりと感受した。僕たちが地下鉄の駅を出て、家に向かって歩いていると、僕の携帯がブンブン振動した。画面を見ると、父親からのメールだった。

わるかったな、先に帰っちゃって。それが一番いいと思ったんだ。

返信するのはやめておいた。

それが一番いいと思ったんだ。


12月15日(月曜日)

僕はそのパーティーのあと夜遅く、リリーの状態が気になってメールを送った。

返信はなかった。

翌日も、僕は学校生活を送りながら何度か彼女にメールを送った。最初は状況を聞く感じのメールだったけれど、しだいに、彼女が早まった真似をしていないかという気持ちに駆られ、文面も変わっていった。

何の返信もないなんて、彼女らしくないからだ。

僕は「放課後どこかで待ち合わせして話せないかな?」というメールを送り、電話もして、同様の台詞をメッセージとして残した。

何もない。

その夜の終わりまで、すべての鳥たちは静かにたたずんでいた。



4

リリー

群れからはぐれた甘えん坊の鳥


12月16日(火曜日)

クリスマスまでまだ一週間以上あるというのに、すでにめちゃくちゃ。普段の私はこんな乱暴な言葉は大嫌いで使わないようにしてるんだけど、でも何もかも嫌気がして、もうむかつく。

私は両親が言い争っている声で目を覚ました。しかも、かなりの大声で怒鳴り合っている。ボリスが私のベッドの下でうずくまり、前足で目を隠しながら、隣の部屋から聞こえてくる怒声にクンクン怯えていた。

ママ:「私はコネチカットには引っ越しません!」

パパ:「俺に失業してほしいってことだな? 俺はお前の父親のために、あんなにいい仕事を辞めて、フィジーから戻って来たっていうのに」

ママ:「あなた、あの仕事にうんざりしてたじゃない!フィジーも嫌いだったくせに!」

パパ:「フィジーを嫌ってたのはお前だろお前があんなに帰りたいって言わなかったら、俺はあんなに早く辞めたりしなかった」

ママ:「私の父親が心臓発作を起こしたのよ!あんなに遠くにいられるわけないじゃない!」

パパ:「お前の父親には4人も兄弟がいるし、お前の兄貴だっている。孫も姪も甥もいて、彼の世話をする人ならザクザク出てくるお宝並みに、いくらでもいるだろ。まあ、お前の兄貴は、助けが必要なら手を貸すとか言っておきながら、メイン州の、あの快適な山小屋から一向に出てこないけどな」

ママ:「あなたは私の家族が嫌いなのね!」

パパ:「嫌いなわけないだろ。よくもまあ、そんなことが言えるな? 俺はお前と結婚してから26年間、ずっとお前の家族のそばにいたんだ。何の疑問も持たずに、半径8キロ以内から出たことなかったんだ。やっとフィジーに行って、夢のような数ヶ月を―」私はそれ以上聞きたくなくて、耳を塞いだ。パパの台詞がラップ調になってきたのもあって、聞く気が失せた。

ママ(の金切り声):「私はコネチカットなんか行かないわ!

(汚らしい罵声もその金切り声には混じっていたけれど、私の耳はそれをマイルドな表現に修正した。)

ちょうどその時、私の携帯の画面がうざい光を放った。見るとダッシュからのメールだった。ほんとにごめんなさい。せっかくのセーターだったのに!君は大丈夫?

大丈夫なわけないじゃない。コネチカット?!?!あんな遠くの地で暮らすってこと? そんなの考えられない。もちろん校長先生は、その寄宿学校の敷地内で暮らすのが望ましいのはわかってるわ。でもパパを雇った学校がそれでもいいって言ったんでしょ、ニューヨークに住みながら毎日通勤できるのなら、それでも構わないって。それで彼は片道2時間も電車に揺られてるわけだけどね。けど彼は電車の中でも仕事ができるみたい。(といっても、おじいちゃんと私がパパからそう聞かされたのは、両親がフィジーから帰ってきた直後だったから、もしかしたらありのままの真実ではなかったのかも。つまり、おじいちゃんが回復するめどが立つまで、なんとか乗り切ろうという意図で言った、ささやかな嘘だったのかもしれない。)

前から両親の争いは何度も目にしてきたけれど、それは「争い」といっても、よくある老人のいがみ合いみたいなもので、近くにラングストンや私の気配を察すれば、両親はお互いにシーッと言い合って、私たちに聞こえないように声をひそめる程度のものだった。なのに今回はどうしたっていうの? あからさまに大声を張り上げて、家族史に残りそうなスケールで、ちょっと怖い。

この間の夜の出来事がなければ、こんな言い争いは起きなかったでしょうね。ダッシュの両親が私の両親に機能不全を感染させて、私の両親までお互いの存在を軽くあしらうようになっちゃったんだわ。それもこれも、ダッシュの両親を二人そろって招待した私のせいだって言う人もいるかもしれないわね。けど実際悪いのは彼らでしょ。私は彼のママを招待したわ。そしたら彼女が断ってきたから、代わりに彼のパパを呼んでも何の問題もないって思ったのよ。善意の一環としてね。このバカバカしいクリスマスシーズンはそういう善意を示す時期のはずでしょ。ってことは、一旦行けないって言ったのに、結局やって来たダッシュのママのせいね。ママを連れてきたダッシュのせいでもあるし、誘いに乗ってのこのこやって来たダッシュのパパのせいでもあるわ。たまにはダッシュに対して父親らしいところを示そうとしたんでしょう、普段は全然ダッシュに協力的じゃないみたいだから。それからダッシュの過ちとしては、ママを連れてツリーの点灯式に来る途中、街中でばったりパパに会ったとき、何もせずにそのままうちに向かったことね。混ぜ合わせたら何も良いことは起こらないって、ダッシュは気づくべきだったのよ。あの人たちは毒薬なんだから。どうりで息子のダッシュがあんなにひねくれてるわけね。

でも今は、ひねくれてるのは私の方みたいだけど。「うるさい!」と私は叫んだ。私は壁の向こう側でバカバカしい喧嘩を繰り広げているママとパパに向かって、携帯電話を投げつけた。壁にぶつかった携帯は、せっかくのセーターがどうとか、バカバカしい謝罪メールを映したまま、転がった。

あの焼け焦げてめちゃくちゃになったセーターは、愚かな猫でも上に乗って寝ようとはしないでしょうね。きっとあのセーターは、私とダッシュの間に生じたあらゆる間違った物事の象徴なんだわ。どんなに善意を前面に押し出して、一生懸命頑張っても、必ずしもおとぎ話みたいなハッピーエンドにはつながらないってことね。

それにおとぎ話なんて現実じゃないし。あらゆることがバカバカしくなって、ついにおとぎ話さえもくだらなく思えるわ。まさにたわごとね。何もかもがうざい!

携帯が壁にぶつかった鈍い音とともに、両親は声のボリュームを低く落としたけれど、口論はまだ続いていた。時折、抑えきれずに高まった感情とともに、部分的に音量も上がり、「あなたのせいよ!」とか、「いったいどれだけの人間が、この結婚に関わってると思ってるんだ?」という台詞が聞こえてきた。

私はベッドから出たくなかったけれど、このまま家にいて、このくだらないののしり合いを聞いているのも嫌だった。コネチカット?!? そこって、ニューヘイブン・スタイルのピザ以外に何か取りえあるの?

私の寝室のドアが開いた。「入ってもいい?」とラングストンがささやいた。

「まずノックしてくれる?」と、私はイライラして言った。私の兄は私がノックしないで彼の部屋に入ったら、もしも彼のボーイフレンドがそこにいて、彼らが秘め事の最中だったらどうするんだって心配して怒り狂うくせに、私の部屋にはノックして入ってきたためしはない。それは私の寝室で秘め事が繰り広げられているなんてあり得ないって彼が思ってるからで、それってなんだかむかつく憶測だけど、当たってるから余計にむかつく。私の家族は私にボーイフレンドがいることを一応認めてはいるけれど、それはただ、ダッシュが内向きな性格で、本好きだし危険はないだろうって思われてるだけで、最近私たちはそんなに会ってないし、たまに彼が私の部屋に来るときも、ドアは開けておかないといけない決まりだし、それに私は今もまだ、夜は外出禁止なの。

ラングストンはなんだかにやけていた。「ハハッ」と彼は言って、後ろ手で私の寝室のドアを閉めると、私のベッドに飛び乗ってきた。彼はもう早朝の授業に出かけたものだと思っていたのに、彼はまだパジャマを着ていた。なんか子供の頃のクリスマスの朝みたいだ。私たち二人はパジャマを着たまま私のベッドで身を寄せ合って、両親が部屋に入って来るのを待っていた。それから両親に導かれて、プレゼントの置いてある部屋の外へと出て行くのだ。私のベッドでラングストンと私は聞き耳を立てて、隣の部屋から聞こえてくる両親のささいな口喧嘩を盗み聞きしていた。それがクリスマスの朝の恒例行事だった。でも当時の「口喧嘩」は、カラッと乾いたじゃれ合いみたいなもので、二人のうちのどちらかがプレゼントの包装はすべて終わったと言ったのに、まだ終わってなかったとか、二人のうちのどちらかがコーヒーは前日に買ったと言ったのに、実は買ってなかったとか。ああ、あの頃は古き良き時代だった。「コネチカット」という、未来に暗い影をもたらしそうな、いまいましい言葉が登場する前の、人生がまだ屈託のない輝きに満ちていた時代。

ああ神様、私はプレゼントが大好き。赤と白の霜みたいな砂糖が降りかかった、焼き立てのクリスマス・スコーンも一緒に出てきたら最高。コーヒーはなくても全然構わない。時々、私ってこんなにもクリスマスが大好きなんだなっていう実感がじんわり心に降ってきて、胸がはじけそうに高鳴り、それから何もかもがむかつく今年の状況に、胸が締め付けられそうに苦しくなる。どんなにみんなが私をなだめすかして背中を押してくれても、どうしても私はクリスマスムードに入り込めないの。

もしかしたら、そうやってみんなが優しく私の背中を押すから、私はそこに入って行けないのかもしれない。こういう感情って自然発生的じゃないとだめなの。無理して陽気なふりをしても、あとには最悪な気分が待ってるだけだから。私がクリスマスを実感するには、自身の内側から湧き出るような、裏表のない感情が必要なのよ。

「何が起きてるの?」と私はラングストンに聞いた。

「何が起きてるかは、かなり明らかじゃないか!」と彼は答えたけれど、冗談めかした感じはなく、真剣すぎるくらいの表情だった。

「離婚するってこと?」と私は言った。あれだけ大声でののしり合っていたことから推測すると、そういうことかなと思った。それから、ダッシュに聴力検査を受けた方がいいよって勧めようかな、とも考えた。あのハチャメチャな両親の口喧嘩を彼は幼い頃からうんざりするほど聞いてきたのだろうから、何か耳に損傷があっても不思議じゃない。でもすぐに、それはないわね、と思い直した。ダッシュのことだから、彼らが言い争っている間、おそらくヘッドフォンをして、本の世界にのめり込んでいたんでしょう。少年時代からあんな感じだったはずだから。

「それはないな」とラングストンが言った。「ちょっとしたいざこざだろ」

「あなたとベニーがいつもしてるようなこと?」私の兄と彼のボーイフレンドは、大体二ヶ月に一度のペースで関係をこじらせている。そのたびに携帯のボタンを猛烈な勢いで押して、泣き顔の絵文字やハートマークを散りばめた5千通ものメールを送り合い、ロビンが歌う甘いラブソングを流し、そうしてまた、お互いの存在なしでは生きられない状態に戻るのだ。

「君に言っておかなきゃいけないことがあるんだ」とラングストンが言い出した。

やっぱり離婚するのね!」と私は大声を上げた。

「うるさい、もっと声を落として。もちろん彼らは離婚なんてしないよ。彼らは僕のことでもめてたんだ。君には今から話すけど、両親には昨夜話したから。そしたら彼らの導火線に火がついちゃったみたいで、いつの間にか他の問題とごっちゃになって、あんな言い争いに発展してたんだ」

私はあえぎながら言った。「あなた、ガンなの? それで、コネチカットじゃないと治療できないのね!」天の神様、どうしてそんなに残酷なの? なぜ? なぜ私の兄が? まだ大学も卒業してないっていうのに。こんなに早く彼を天に召さないで。

「ちょっと黙っててもらえないかな? 最後まで話を聞け。僕はガンじゃない。それにもしそうだったとしても、なんで治療のためにコネチカットに行くんだ? 都会の方が医療も充実してるだろ」

「たしかに!」

「とりあえず聞いてくれ、リリー...君にはママやパパからじゃなくて、僕の口から話したいんだ。僕はこの家を出るつもりだ。ベニーと一緒に暮らす。もうアパートメントも見つけた」

私は笑った。「今は冗談を話す時じゃないわ、ラングストン」

「冗談なんかじゃない」と私の兄は言った。裏切り者、ダッシュみたいだ。すべては順調だってふりしちゃって、現状はどう見てもめちゃくちゃじゃないか。


世界ではもっとずっとひどいことが起こっているのは百も承知だけれど、私は生まれてからずっとこのイースト・ビレッジのアパートメントで暮らしてきたわけだし、この建物とここの人たちこそが私の世界のすべてなのよ。それなのに、私の世界が終わりに近づくのをひしひしと感じる。兄が出て行こうとしている。それから、私にはまだ話してこないけど、ミセス・バジルがおじいちゃんを彼女のところに呼び寄せて、一緒に暮らそうと提案しているみたい。そうなれば、私の両親は安心してこの街を離れられる。ただ、そのためには私を説得する必要がある。―まだ上手い口実を思いついていないから、言ってこないんだわ。下手なことを言えば、私の心が壊れて、どうにかなっちゃうかもしれないって心配してるのね。(おかしいわね、みんなしてそんなジレンマを抱え込んじゃって、私にひと言も相談しないで。おかしくて、頭にくる。)

私の愛してやまない世界が壊れかけている。私の馴染みの世界が色あせていき、たぶん、ダッシュと私の関係も崩れかけている。ダッシュは私の気持ちに寄り添おうとしてくれる。その熱意は伝わってくるけれど、彼が必死になればなるほど、私は彼から遠ざかっていく気がする。彼にはもっと肩の力を抜いてほしい。でもどっちが正解かなんて、私にもわからない。ふと見ると、ボリスが「終わったよ」みたいな顔をして私を見ていた。ボリスは私の気持ちがわかるのか、ダッシュに贈った焼け焦げたセーターをびりびりに引き裂いてくれたようだ。ボリスの足元の、ダメになったセーターを見ても何とも思わなかった。むしろ嬉しいくらいだった。きっぱりとけじめをつけて、そのセーターを葬り去るには絶好の機会に思えた。

両親は口論のあと、遅刻を承知で仕事に出かけた。私の部屋に立ち寄ることなく、いってきますのひと言もない。朝から両親のせいで私の一日が台無しになったっていうのに、謝罪の言葉もない。ラングストンも、新しいアパートメントに入れる新しい家具を探しに、リサイクルショップ巡りに出かけてしまった。彼が私よりボーイフレンドを選んで、私を見捨てると告げられ、私はこんなにも胸が痛むほど傷ついたっていうのに、慰めの言葉もない。おじいちゃんはまだ寝ている。おそらく、お昼近くになってから訪問看護師が彼の様子を診に来るまで目覚めないでしょう。

気が進まなかったけれど、私は制服に着替えて学校に出かける支度をした。もう学校は始まっている時間だったけれど、ママに遅刻の理由を書いてもらってもいない。 私はボリスにキスをして、「私が帰ってくるまでずっと昼寝しててちょうだい」と言い聞かせた。それから、「おじいちゃんを診に来る看護師さんを床に押さえつけちゃダメよ」と念を押した。たしか彼女はバッグに痴漢撃退用の催涙スプレーを入れていたから、急に押さえつけられるのは嫌いってことでしょう。私が家を出ようとしたとき、携帯の画面が光り、エドガー・ティボーの番号が表示された。FaceTimeを使って電話してきたようだ。

「どうしたの?」と私は電話に出て、ベッドに座り込んだ。エドガーの顔が携帯の画面に映し出された。彼の顔は汗ばんでいるように見えた。髪の毛も乱れている。おそらく彼が昨年から入っているクラブのチームメイトと一晩中遊び回っていたんでしょう。彼にとっては、はしゃぎ回った夜の終わりかもしれないけれど、私にとってはもう一日が始まっているのよ。寝起きから最悪の一日になっちゃったわけだけど。

「やあ!リリー!ラーメンを至急頼む」

「どういうこと?」彼の背後には、道端でたむろしているクラブの少年たちが見えた。楽しそうに笑い合っているけれど、通行人の邪魔でしょう。

「俺たちは今すぐラーメンにありつきたいんだ。胃にたまったアルコールをラーメンに吸い取ってもらわなきゃならない。カラオケのあとコリア・タウンに行ってみたんだけど、どのラーメン屋もこんな朝っぱらから開いてないんだよ」

彼は私が手を差し伸べる価値もない男だけれど、まだ学校に行く気がしなかったから、彼をはねつけて、一方的に電話を切るようなことはしなかった。「今どこにいるの?」

「さあね、俺がそんなこと知ってると思うか?」

「ちょっとカメラをあなたの顔から離して、周囲に向けてみて。通りの名前が書かれた標識があるでしょ」

彼がよくする表情を見せた。無精ひげの生えた顔で、琥珀色のオオカミみたいな目を誘惑するように細め、歯並びのいい口を横いっぱいに広げてニヤリとした。いつもの、あの間抜けな顔だ。

携帯の画面がぐらつき、まず彼の足元が映った。黒と白のサドルシューズを履いている。ピンクと黒のタータンチェックのズボンもチラッと見えた。(そのスタイルをエドガー・ティボーは気に入っているようで、映画『ボールズ・ボールズ』の都会版だと解説していた。)それからカメラが地面に落ち、再び持ち上げられると、ついさっきおしっこをかけられたばかりのようにテカった消火栓をとらえた。映像はさらに上昇し、ついに街路標識に行き当たった。バワリー通りとカナル・ストリートの交差点だ。

私はとっさに脳内フードマップを作動させて、頭の中で食べ物屋さんを巡った。そして言った。「バワリー通りとペル・ストリートの交差点辺りに、ニューヨークきってのラーメン街があるわ。あそこならこの時間からでもやってるはずよ」この酒飲み通の情報は、そこが兄とベニーの行きつけのスポットだから知っていた。一晩中踊り明かした後にぴったりのお店らしい。―彼らの関係が良好な時に限るわけだけど。

「俺には絶対たどり着けないよ」とエドガー・ティボーが泣きついてきた。「頼む、来てくれ」

「お店の地図が載ったリンクを送るから。私は学校に行かなくちゃなのよ」私はため息をついた。「行きたくなくてもね」

「じゃあ無理か」とエドガーは言い捨てると、私に有無も言わせず電話を切った。

今回に限っては、エドガーの言う通りだった。私はいつだってそういう良い子ちゃんなのだ。良い成績を取って、みんなの世話を焼こうとして、授業もサッカーの練習もさぼったことないし、予約が入ってる犬の散歩もすっぽかしたことない。SATの受験に向けて予備校だって通ってるし、ボランティア活動もやっている。ピザやベーグルのような炭水化物もたくさん食べるけど、チーズの量が多いと思えば、なるべくその上に野菜をのせて食べるようにしてるし。タバコは吸わないし、お酒も飲まないし、もちろんドラッグもやらないし、ダッシュとの付き合いだって、羽目を外すようなことまではやってないし。「F」で始まる言葉だって言ったことないし。

ファック!」と私は叫んだ。ワオ、気持ちいい。気持ちよくて繰り返した。「ファック、ファック、ファーック!」ボリスが再び前足で耳を塞いで、私から目を背けた。

私はすかさず携帯を操作して、午後に犬の散歩の予約が入っているお客さん数人に、体調が悪いので今日の散歩はお休みさせてもらいます、とメッセージを送った。私の代わりに犬の散歩に行ってくれそうな人たちのコンタクト情報も添えた。それから私は携帯電話をベッドの上に投げつけた。これでもう誰も私に、メッセージも、メールも、電話も、FaceTimeもしてこない。私につきまとってくる人はいなくなる。これでもう私は今日、なりたい自分になれる。誰にも邪魔されることなく、電子機器の介入もなく、どんな自分にだってなれる。この強気な気持ちが引いていってしまう前に、私は急いでアパートメントを出た。携帯なしで街をぶらぶらするのは勇気がいるけれど、なんだか昔に戻ったみたいだ。


特にどこへ行こうというあてもなく、私はただ歩いていた。マンハッタンのストリートを自分の足でひたすら歩き回っていると、不思議とやる気や発想が湧いてくるので、私は以前から好んでそうしている。そこかしこに視覚に訴えるものがあり、街は臭覚を刺激する匂いで満ち溢れていた。(それらは心地よいものばかりではないけれど、この時期は特別で、澄んだ空気も吸い込めるし、ロースト・カシューナッツや、ジンジャーブレッド・ラテの美味しそうな香りも漂ってくる。)今日のような晴れて暖かい日には、自分が浮かれた気分にじんわりと包まれていくのを食い止めるのは不可能だった。12月にこんなに暖かいのは腹立たしいことのはずなのに、不思議と腹も立たない。そんな気分に拍車をかけるような、華やかなクリスマスの装飾に囲まれて街を歩いていると、周りの見知らぬ通行人たちがみんな仲間に思えてきて、私は高揚感にすっかり包まれてしまった。

正確を期すなら、高揚感にすっかり包まれたというのは言いすぎで、私はそう思うことに決めたと言うべきね。そう思い込めばきっと、私のすさんだ心にもクリスマスの陽気な気分が吹き込んでくるはずだから。

「そんな甘えん坊の鳥みたいにめそめそするなよ」と、今朝ラングストンが私に言った。彼が引っ越しちゃうって言って、そんなの、心の準備ができてないわって言いながら、私が泣き出した時だ。もし両親が年長の雛鳥の巣立ちを口実に、年少の雛鳥をコネチカットに連れ去るつもりなら、なおさら心の準備なんてできてないわ。まったく!甘えん坊の鳥だなんて。ラングストンは私をからかう時、たまにそう呼んでくる。きっかけはリビングルームの炉棚の上に飾ってある額に入った写真で、そこにはクリスマスツリーの前で5歳の私を抱えたおじいちゃんが写っている。おじいちゃんの隣には彼の妹のミセス・バジルがいて、反対側には彼の弟で双子の大叔父さんたち(サルおじさんとカーミンおじさん)が立っている。その写真の中で兄弟たちはビールを手に持ち、口を開けている。でも彼らが大きく口を開けているのは、ビールを飲もうとしているからではなくて、彼らの大切な雛鳥にクリスマスの聖歌を歌って聞かせているからだ。ラングストンは親戚の人たちがまた私を甘やかしてると感じていらつくと、(私は親戚の中で一番年下だし、彼らに一番元気を与える存在だって言われるから甘やかされるのも仕方ないんだけど、)そういう時はいつだって、その4人の兄弟が小さな女の子を囲んでセレナーデを奏でている写真に目をやってから、ラングストンは『クリスマスの12日間』を歌い出す。そして歌詞の「4羽の甘く歌う鳥が」のところを、「4羽の甘やかし鳥が」に変えて声を張って歌い上げるのだ。まったく、それってどんな鳥よ。馬鹿馬鹿しいっていうか、ファック!

私は過保護に育てられた甘えん坊の鳥だってことくらい自覚してるけど、そんな過去の自分を乗り越えて、進化したいのよ。誕生日にみんなからお金をもらえなくなるほどは成長しなくてもいいんだけど、とにかく、ある程度は自立した方が健全でしょ。

私はイースト・ビレッジから西へ向かって歩いていた。気づくとかなり遠くまで来ていて、7番街と14番ストリートの交差点で、ふと1番ラインの地下鉄の駅が目に入った。天からの何らかの意図を持った啓示のように感じ、私は自分がどこへ行きたいのかはっきりとわかった。私は1番ラインの地下鉄のダウンタウン方面行きに軽い足取りで飛び乗った。終点のサウス・フェリー駅まで行って、そこで〈スタテン島フェリー〉に乗るのよ。

おじいちゃんたち「甘やかし鳥」は4人兄弟というわけではなくて、もう一人、はみ出し者の大叔父さんがいて、ロッコおじさんっていうんだけど、彼はあまり愛想が良くないから、どうしても必要な場合を除いては、誰も彼に連絡を取ろうとしないの。彼はすごく遠くの、マンハッタン島の外側にある、スタテン島として知られている地区に住んでいる。どっちも大差ないくらい遠いんだから、どうせだったらスタテン島じゃなくて、彼もコネチカットに住めばいいのに。ロッコおじさんのことを好きな人は誰もいない。そしてその気持ちはお互い様らしい。私は前から、彼を好きになることは自分の使命だと思うようにしてきた。誰も好きじゃないなら、誰かが好きになってあげなきゃいけないから。そうじゃなかったら、世界には希望なんてなくなっちゃう。そして私は気づいたんだけど、クリスマスの陽気な気分を自分の内側から引き出す最良の方法は、知り合いの中で一番気難しい人と会って、ちょっとでも一緒に過ごすことなのよ。そうすれば、いつも不機嫌そうなおじさんも必然的に浮かれた気分になるはず。だってそういうのって、二人の間でバランスを取る方向へ影響し合うものなんじゃないかな。たぶん同じような理由で、私はダッシュを愛してる、―というか、ダッシュのことがすごく好きなんだと思う。

この「リリーの一日限りの逃避行」にダッシュも連れてくればよかったかな。でも最近の私たちって、何かを一緒にすると、ことごとく災難に見舞われるのよね。こうしてたった1羽で群れからはぐれるみたいに、スタテン島へ行く方がおそらく無難ね。

私のママはスタテン島フェリーに乗ることを「女の傷心クルーズ」と呼んでいるんだけど、その理由が私にもやっとわかったわ。メトロカードを機械にかざすだけで、低料金で壮大な船旅を堪能できるのよ。船が先に進むと、私は二つの川が一つに収束して広がっていく光景に目を奪われ、青空を背景にした高層ビル群に圧倒された。太陽とともに私の気分もどんどん上がっていくのを感じた。私は自由の女神に向かって、ハローと大きく手を振った。そしていつものように、その自由を掲げたレディーのことを心配した。彼女の片腕はへとへとに疲れているはずだから、たまには腕を変えて、たいまつを持っている手を休ませてあげればいいのに。というか、きっと彼女のあの腕は筋肉隆々なのね。彼女には手を出さない方が身のためよ。たいていの男は返り討ちにされちゃうから。

私は一人きりで一日を過ごすことを存分に楽しんでいる自分に驚いた。自分でも驚くほど私はめったに一人で行動しないから、こういう時間が欲しかったのかもしれない。「甘やかし鳥たち」が私を甘やかしてきたのは、おそらく正しい行為だったんでしょう。私はこんなにも光り輝く存在なんですもの。少なくとも今日のような日には、心がすっきり晴れ晴れするわ。私に罠をかけようと電話してくる人はいないし、何の責任もない。ただ自分の考えと、目の前で水が織り成す神秘的な光景に没頭していられる。これってほとんどクリスマスじゃない!私は自分の内側から自然と湧き出てくるような興奮を感じていた。そして、かつてママがクリスマスの時期になると、よく私たちに読んで聞かせてくれた、ヘンリー・ワーズワース・ロングフェローの詩の一節を思い出した。


 すべての祝日の中で最も神聖なのがこの時期

 我々一人ひとりが俗世から遠く離れて沈黙に沈み

 心の内でひそやかに祝おうではないか

 感情の大波が押し寄せて心の川が決壊しても

 雲一つない幸せな日々が終わりを告げようとしても

 暗闇から突如として喜びが湧き出すだろう

 灰から炎が噴き出すように、煌めく欲望がほとばしるだろう

 吹きすさぶ風に乗ってツバメの歌声が降りてくるように

 遠ざかる船の帆の輝きのように白く

 空中を浮遊しながら消えていく雲のように白く

 小川に浮かぶ最も白いユリの花(リリー)のように白い

 心の内にある優しい記憶たちは、―おとぎ話だ

 我々はどこにあるのか知らない、魔法をかけられた土地の

 夢の中の風景のように素敵な


フェリーがスタテン島に到着すると、私はS62のバスに乗って、この島で最も重要な目的地である〈ジョー&パット〉に立ち寄った。おじいちゃんが教えてくれたピザ屋さんで、そこで完璧なスライス・ピザを食べてから、私は歩いてガソリンスタンドのある交差点に向かった。そこには自動車の修理場もあって、それがロッコおじさんが経営しているお店だ。私はおじいちゃんとミセス・バジルが〈Yelp〉に書き込まれたロッコおじさんのお店の評判を読みながら笑っているところを、後ろから覗き込んで見たことがある。「またぼったくられた」という言葉は店の評価を書き込む時によく使う表現なんだけど、それは同時に「他のお店には行かない」というお客さんの宣言でもある。ロッコおじさんほど腕のいい仕事をしてくれるお店は他にはないからだ。たとえ彼が修理費をかなり盛って請求するとしてもね。

ロッコおじさんは自動車修理場の外に置かれた椅子に座っていた。整備士の作業服を着て葉巻を吸っている。ただ、彼のそばにあるガスポンプに貼られた「この敷地内での喫煙は厳禁」という表示が不釣り合いに目に入ってきたけれど。

「こんにちは、ロッコおじさん!」と私は声をかけた。彼は顔をくしゃっとしかめて、私が誰かを認識しようとした。

暖かい日だったけれど、私はどうしてもかぶらずにはいられなくて、両耳から赤いポンポンが垂れたお気に入りのニット帽をかぶっていた。彼はたぶんその帽子を見て、ようやく私だとわかったんだと思う。私は毎年11月29日にはその帽子をかぶっていたから。その日はおじいちゃんと彼の兄弟が揃ってスタテン島にある彼らの母親のお墓参りをする日、つまり命日で、ロッコおじさんもその日はみんなと顔を合わせるのだ。感謝祭に続く毎年恒例のスタテン島への小旅行は、私にとってクリスマスシーズンの到来を告げる大事な行事だったのに、今年はお墓参りに行かなかった。覚えてさえいないのか、誰も言い出さなかった。

ロッコおじさんが眉をひそめて、「誰か死んだか?」と私に聞いた。

「死んでないけど、おじいちゃんが大変な年だった」と私は答えた。

「ふっ、そうか」とロッコおじさんは苦笑交じりに言った。「じゃあ何しに来た?」

「べつに」

「道すがらガソリンが切れたか、満タンにはしてやるが、安くはせんぞ」

「そうじゃない!」と言いながら、私はすっかり浮かれた気分になっていた。「メリークリスマス!」

やっとクリスマスシーズンが始まってくれた。

私はスタテン島フェリーのターミナルに戻ろうと、S62のバス停に向かって歩いていた。すると通りの角のお店から、ジンジャーや、シナモンや、砂糖の甘い香りが漂ってきて、私はうっとり引き寄せられた。そのお店の窓は紙で覆われていて、ドアには「テナント募集」という貼り紙があった。今はパン屋さんは営業していないようだったけれど、ドアは開いているし、私はたまらず入ってしまった。その匂いにやられたのだ。

中には、シルバーに光った長テーブルがたぶん1ダースくらい置かれていて、それぞれのテーブルにはいくつものジンジャーブレッド・ハウスが、様々な制作段階の状態で並べられていた。半分完成した教会や、まだ屋根のないお城、壁をつければ完成の小さな妖精の家もある。材料置き場になっているテーブルの上には、ガムドロップ・グミや、M&Mや、キャンディー・ケインや、ペパーミント・キャンディーといった、よりどりみどりのキャンディーが何袋も重なるように置かれていて、ボトル入りの食品用着色料もあるし、グラハム・クラッカーも数箱用意されている。ボウルにはアイシングのクリームも入ってるし、ペンチや絵筆や型取り紙といった工具も一式揃っていて、私の手が使いたくてうずうずした。そこは天国だった。私はまだ人生をかけてやりたいことが見つかっていないけれど、はっきりわかっているのは、ジンジャーブレッド・ハウス作りという競技の世界に一生をささげるのも悪くないかなってこと。(私の高校の進路指導の先生は、そんな選択肢は現実的じゃないって夢をぶち壊すようなことを言っていたけれど、彼が間違っていることを証明してやる!)

パン職人の白いエプロンを着た若い女性が、尖った先からクリームが出てくるペストリーバッグを手に持って、ジンジャーブレッド・クッキーが並べられたテーブルの向こう側に立っていた。彼女は私を見て、ほっとしたように大きなため息をついた。「神様に感謝だわ!大学の就職課の人が昨日学生をよこすって言ってたけど、結局誰も来なかったのよ。今日は必ず誰かを派遣しますって約束してくれたけど、あなたがプラット大学の学生さんね?」

「そうです」と私は言った。そういうことにしておこう、来年入るかもしれないし。

彼女は私にエプロンを手渡した。「あなたの名前は?」

なぜかわからないけど、私はとっさの思いつきで「ヤナ(Jana)」と名乗った。そしてそう言った瞬間、それをちょっと変えるだけで、私の新たな偽のアイデンティティーは見違えるように良くなることに気づき、真ん中に「h」を入れて、「ヤーナ(Jahna)」と言い直した。

「オッケー、ヤーナって伸ばすのね」と彼女は言った。「私はミスーラ。みんなはミスって呼んでるわ」

「はい、奥様」と私は言った。

独身のミスよ」彼女はすべてのテーブルをざっと見渡した。「あなたは、そうね、何からやってもらおうかしら。私は明日までここを借りてるだけなのよ。明日までの注文だから、これ全部それまでに仕上げないといけないの。この一週間ずっと働きづめで、24時間ここでこれを作ってるんだけどね。寝るのもここよ」彼女は部屋の隅に置かれた布団を指差した。ジンジャーブレッド・ハウス職人って、こんなに取りつかれたみたいに働かなきゃならないなんて、今まで思いもしなかったわ。私は将来の職業について考え直し、お菓子作りは生涯をかけて追及する対象からは外して、人生の側道をゆっくり走る趣味にしておくことにした。

「私は何をしたらいいですか?」この職業体験って、大学に願書を出す時に書いてもいいのかしら?

「あなたの専攻は何?」

「フード・アートです」と私は言った。ヤーナはかっこいい女の子なのよ。

「素晴らしいわ」とミスが言った。「じゃあ教会の窓をやってもらってもいい? あそこのテーブルにステンドグラスの窓があるから、色を塗ってほしいの。もう輪郭は描いたから、その線に沿って塗るだけよ」

「はい、わかりました!」と私は声を張り上げた。そう言った瞬間、ヤーナはクールだからこんな大声出さないわ、と気づいた。「つまり、なんていうか、了解しました」

「明日の朝まで徹夜になるかもしれないわよ」とミスが言った。

「問題ありません」と私は言った。ヤーナはアートに貪欲な学生だから、クリスマス休暇に電車でバーモント州の実家に帰るのは遅らせて、作品作りに精を出すのよ。彼女はバーモント出身だけど、大学3年生の時にフランスに留学した可能性もあるわね。ってことは、さりげなくクールに洗練された女の子って感じにしなくちゃ。ディズニーランドに初めて行って、馬鹿みたいにキャーキャーはしゃぐ10歳くらいの女の子とはかけ離れた存在ってことね。(実際のリリーはそんな感じで、初めてマジック・キングダムに入った時のビデオを見返すたびに、画面の中の自分と一緒に今もキャーキャーわめいているのだけれど。)ヤーナは深夜に及ぶ仕事を快く承諾しちゃったけれど、リリーは心配していなかった。きっと本物のプラット大学の学生がそのうちやって来るだろうし、そしたら、ヤーナはこの仕事から解放されるだろうから。ミスも「何かの手違いね」とか言って笑ってくれるだろうし、私は「あらやだ、あなたもこの仕事に申し込んでいたなんて」とか言って、「じゃあ、仕方ないわね、どうぞ」ってその学生にこの場をゆずって、私はさっさと家に帰ればいいのよ。

ミスが言った。「あなたのその洋服、素敵ね。ビーティ―ダブルユー」一瞬何を言っているのかわからなかったけれど、彼女は略語が好きらしい。「btw」は「by the way(ところで)」だと気づいた。「それってヴィンテージ?」

これは私の趣味じゃなくて、学校のダサい制服なんだけどな、と思いながら自分の姿を見下ろしてから、ヤーナになりきって、「ティーワイ」と言った。「ty」は、Thank you(ありがとう)という意味だ。「ワイイーエス(Yes)、ヴィンテージです!」

その後、ミスはあまり話し好きではないことがわかった。彼女は行動で示すタイプらしい。彼女はいわば、ジンジャーブレッド・ハウス製造マシーンで、可憐な手つきで砂糖衣をまき散らし、ガムドロップをポンポンと置いていくのだ。それでもなんとか聞き出した話によると、彼女はフリーランスのパン職人で、今年はカスタムメイドのジンジャーブレッド・ハウスの注文に追われて、大忙しで手が回らなくなっているという。でも、忙しいっていいものなんだな。私は黙々と作業をしながら、ダッシュが本を読んでいる間ってこんな感じなんだろうな、と思った。大好きなことをしながら、「独立して生きているんだ」という感覚に酔いしれて、その日の午後、私はずっとジンジャーブレッド・ハウスの飾り付けをしていた。それは私が想像しうる、ほぼパーフェクトな一日の過ごし方だった。

夕食の時間になっても本物のプラットの学生さんは現れなかった。私はすっかりお腹が空いてしまい、休憩をもらって再び〈ジョー&パット〉に行ってピザを食べた。食べながら、このまま残りの仕事をほったらかして、帰ってしまおうかとも考えた。私の家族もそろそろ、私がどこへ行っちゃったのかと心配し始める頃だろうし、私はミスにひと言言ってから帰ろうと思い、ピザを食べ終えると、ミスの分のスライス・ピザを数枚買い足した。ピザがあれば、ヤーナがミスに「夜は働けません」と告げるとき、ミスが受ける衝撃を、ピザがクッション代わりになって和らげてくれるはず。

戻ってみると、ミスが床にペタンと座り込んでいた。疲れ切った様子だった。私は彼女にピザの箱を手渡した。「あなたってほんとに天使ね、ヤーナ」と彼女が言った。「あなたは今日、文字通り私を救ってくれたわ」彼女は受け取ったピザをがつがつと食べ、ぺろりと平らげると、こう言った。「奥の部屋見たい? ほんとに手伝ってほしいのはそこにあるの。金のなる木っていうのかな、ヒット商品よ」

「Oui!(はい!)」とヤーナはフランス語で言った。「J'adore les moneymakers.(私も金のなる木は大好きよ)」リリーは家に帰らなきゃと内心焦っていたけれど、好奇心旺盛なヤーナは奥にあるものが何なのかを知りたくて仕方がなかった。ヤーナはフランス語も副専攻科目として学んでいるはずだし、フランス語を学べば、プラット大学を卒業した後の選択肢も広がって、いろんな職業に就くことができるわ。〈ル・コルドン・ブルー〉でお菓子作りを専門的に学ぶことだってできるし。Oui!(いいね!)素晴らしい未来設計だわ!

ミスが言った。「あなたはいい腕してるわ。あんなに綺麗に教会を仕上げてくれたしね。あなたって信心深い宗教家とか、そういうんじゃないでしょ? 裏にあるものを見て、あなたが気を悪くしないか心配なのよ。裏にもジンジャーブレッド・クッキーがあるんだけど、成人向けっていうか、わかるかな、すっぽんぽんの、あなたが見るとショックを受けちゃうかな」

「問題ありません」と私は言った。「私は処女ってわけじゃないし、ハハハ!」リリーは処女だった。しかしヤーナは大学3年生の時に留学先で18世紀フランス文学の教授と狂おしいほどの情事を繰り広げた経験があった。それは誰にも言えない秘密の関係だった。ヤーナは今では、20歳も年が離れた彼との不倫を後悔していたけれど、思い出すだけで声が出ちゃうほど、セックスは素晴らしかった。l'amour(愛し合った)あとのシャンパンと、チョコレートに浸した苺の美味しさが忘れられない。

ヤーナなら奥の部屋で見たものについて、それがどうしたの?って感じで平然としていたかもしれない。でもリリーはショックのあまり、目を大きく見開いてしまった。「成人向け」という言葉は誇張でもなんでもなく、この目でこんな姿のジンジャーブレッド・クッキーを見たのは、どんなに記憶をたどっても、正真正銘初めてだった。裸の男と女が、色々な形の...

カーマスートラ・クッキーっていうのよ」とミスが言った。「主要な体位はすべて取り揃えてるわ」

「その名前知ってます。古代インドの性愛書ですよね」と、ヤーナは高鳴る鼓動に乗せて早口で言った。

「彼らにはちゃんと、乱交パーティーを執り行う館(やかた)もあるのよ!」とミスは笑いながら言って、完成品のジンジャーブレッド・ハウスを指差した。なんだか、いかがわしい紳士クラブみたいな飾り付けだった。屋根には〈ライブ・ヌード〉という白い文字がアイシングで綴られ、その両サイドにはレッド・ホット・キャンディーが赤い電球代わりに並べられていた。

リリーはごくりと唾を飲み込んだ。代わりにヤーナが言った。「凄いわ。見事な形に仕上がってますね」嘘をついたつもりはなかった。ジンジャーブレッドの恋人たちは心底愛し合っているように見えたし、絡み合う彼らの恍惚の表情を見ていたら、私もそんな情熱的な快楽を味わってみたくなった。いつかね。

私は居ても立っても居られなくなってしまった。今すぐ家に帰って、ベッドの上にあるはずの携帯電話を取り戻し、ダッシュに電話したい。そして最近のいざこざはすべてなかったことにして、彼に会って、彼に触れて、ジンジャーとシナモンと砂糖を彼にふりかけて、それから彼の匂いをかいで、彼にキスしたい。

「そう?」とミスが言った。「完成までに2、3週間かかったのよ。体位をね、ちょうどいい感じの絡み具合にするのが難しくてね」

「そんなに苦労したようには思えない自然な曲線ですね」とヤーナは言った。

サンキュー!あなたは今日一日あんなに一生懸命頑張ってくれたし、あなたになら、一番楽しい作業を任せられるわ」彼女は私に青いクリームが入ったペストリーバッグを手渡した。それから、まだ何も装飾を施していない裸の女性のジンジャーブレッドが並べられた、いくつかのトレイを指差した。

「この女の子たちって、その紳士クラブで働く子たちですか?」と、ヤーナは当然そういうことなんだろうな、と思いながらミスに聞いてみた。

「まさか!」とミスは言った。「この子たちは王室の姫たちよ」彼女は一枚の紙を持ち上げると、トレイの向こう側の壁にピンで留めた。その紙には、長い髪を編んで垂らした肉感的な二人の女の子が、口には出せないようなことをして快楽にふける絵が描かれていた。「こんな感じに仕上げてちょうだい。プリンセスたちよ」

「エルサとアナじゃないのよ!」とリリーは叫び声を上げた。もう限界だった。なんとしても今すぐ家に帰りたい。目の前の絵が記憶から跡形もなく消え去るまで、もう二度と『アナと雪の女王』は見られないと思った。

「そう?」とミスがまた言った。「なんとなく似てるかしらね、アナ雪は大人気よね!

リリーは逃げ出したくてたまらなかった。オービーヴィーエス、obvs(明らかに)、これ以上ここにはいられない。携帯が恋しい。そして家も。それからママも。そんな私の気持ちはお構いなしといった感じで、ミスが言った。「男性ストリッパーを味わいたい?」

「え、あ、はい」とヤーナは言った。

ミスが私にウインクした。「これは特別なクッキーよ」

私は裸の男性をひと口かじってみた。おー、この男の子、とても美味しい。口に入れる前に予想した味とは少し違ったけれど。

「何か特別な材料でも使ってるんですか?」と私は聞いた。

「そう?」とミスがもう一度言った。

ヤーナはその特別な材料が何なのか、なんとなくわかっていたけれど、リリーにはわからなかった。ヤーナは「わかるわ」みたいな顔をして頷きながら食べていた。そして「凄いわ」と再び言った。

そのクッキーが思いのほか美味しくて、もう1個食べたくなった。そしてそれを食べ終えると、さらにもう1個、と次から次へと食べてしまった。

すると私はとてもリラックスした気分になり、幸福感に包まれ、あれほど帰りたかった気持ちもすっかり消えてしまった。それから私は突発的な空腹感に襲われ、もっとピザが食べたくなった。チョコブラウニーでもいいから、何かを口に入れたかった。目の前にミスが描いたジンジャーブレッド・クッキーの図面があって、その絵の中でエルサとアナが内に秘めていた自身の芸術的可能性を開花させていた。クッキーに仕込まれたアルコールに酔っていたんでしょう。ヤーナが、性的な絵が芸術的なわけないじゃない、と否定してくれた。リリーはディズニー好きで処女のおしとやかな女の子だからね。

ヤーナは仕事に取り掛かった。


12月17日(水曜日)

パン屋さんの作業場の窓を覆う紙の、破れた穴から太陽光がなだれ込んできて、ヤーナは布団の上でゆったりと目覚めた。しかし壁にかかった時計を見て、パニックに陥ったのはリリーだった。午前11時15分、マジで? どうしよう? ファッ...(ク!)

ミスは床の上で眠っていた。

昨晩眠りに落ちた記憶がない。なぜ家に帰らなかったのかと記憶を掘り起こしている場合でもなかった。

私は勢いよくドアの外に飛び出して、フェリーのターミナルまでの道のりをひたすら走った。途中ベーグルの美味しそうな香りがしたけれど、立ち止まるわけにはいかなかった。危機を察知するメーターが最大値まで振り切れていて、嫌な予感が頭を駆け巡っていた。―帰ったら完全にまずい状況が待っている。あるいは『ホーム・アローン』みたいに家族が家を空けていて、私がいなくなったことに誰も気づいていなかった、なんてこともあり得るか。

その可能性への答えが、フェリーの待合室のテレビ画面に映っていた。そのテレビは地元の情報に特化したケーブルテレビ局〈ニューヨーク・ワン〉にチャンネルが合わされていて、音声はオフだったけれど、画面には私の写真が映っていた。写真の私も両耳から赤いポンポンが垂れたニット帽をかぶっている。それから昨年撮られた、ある出来事の映像が流された。街の人たちみんなに携帯で撮影された、あの事件の映像だ。画面にヘッドラインが流れる。「10代の赤ちゃんキャッチャーが行方不明」



5

ダッシュ

黄金の指輪をそこにはめて


12月17日(水曜日)

僕がラングストンからメールを受け取ったのは、火曜日の夜8時頃だった。

リリーは君と一緒か?

僕は「一緒じゃない」と返信した。

すると彼が聞いてきた。リリーがどこにいるか知ってるか?

僕は「知らない」と返信した。

それから僕はリリーにメールしてみた。「君は今どこにいるの?」

彼女の携帯から返ってきた返信には、こう書かれていた。リリーが携帯を家に置いていかなければ、僕がわざわざお前にメールすると思うか?

それでようやく僕は、リリーがいなくなってしまったとか、そういう事態なんだと気づいた。

通常、10代の若者が夜間外出禁止を破っても、取り立てて騒ぐことではない。そういうのは誰もが経験する単なる通過儀礼にすぎない。けれどリリーの場合、今まで一度も門限を破って大人ぶったことをしようという素振りさえ見せたことはないし、それにもし彼女が一晩家に帰らなければ、おじいちゃんがどれほど心配するか、彼女なら真っ先にそう考えるはずだ。

だから僕たちは心配だった。

僕は僕の友達や彼女の友達に電話をかけまくったけれど、彼女を見かけたという人はいなかった。ラングストンが定期的に状況を知らせてくれた。親戚の人たちには連絡網みたいに電話を回してもらっているという。

夜の11時になっても、彼女からの連絡はなかった。

真夜中を過ぎても、何の音沙汰もない。

エドガー・ティボーって誰だ? とラングストンからメールが来た。

「嫌味なやつだよ」と僕は返信して、「なんで?」と付け加えた。

そいつがリリーの居場所を知ってるんじゃないか?

「なんで?」

なんとなく、直感だよ。

僕にはなんだか、違和感があった。エドガー・ティボーとリリーは今もまだ連絡を取り合っているっていうのか? そうは思いたくなかったけれど、彼女の携帯を手に持つラングストンがそう聞いてくるってことは、そういうことになってしまう。

時系列順に整理してみる。

12:30:連絡なし。

1:00:連絡なし。

眠れそうになかった。僕はうとうと浅い眠りをさまよいながら、1時間置きに届くラングストンからのメールを気に掛けていた。

2:00:連絡なし。

3:00:警察に知らせた。

4:00:あちこちの病院に電話をかけた。

5:00:連絡なし。

6:00:目撃情報あり!スタテン島だ。

6:01:すぐラングストンにメールを返した。じゃあ今すぐ僕たちもスタテン島に行くんだね?

6:01:30:もちろん。


僕は急いで着替えると、寝ていた母親を起こして事情を説明し、今日は学校を休むと言って、アパートメントを飛び出し、ダウンタウン方面に走った。それから地下鉄に乗ってフェリー乗り場に向かいながら、僕はずっと、こんなことになったのは絶対僕のせいだと考えていた。僕がもっとましなボーイフレンドだったら、恋人が失踪するなんて、そんな事態は避けられただろう。僕がもっとましなボーイフレンドだったら、どこかへ消えたいなんて、恋人をそんな気持ちにはさせなかっただろう。彼女のクリスマスツリーの点灯式を台無しに燃やしたりしなかっただろうし、彼女が予測できない行動を取ったとしても、彼女の気持ちは予測できたはずだ。

どこにいるんだよ、リリー? 僕は考え続けていた。


「全部僕のせいなんだ」

僕に向かってそう言ったラングストンは、心底落ち込んでいる様子だった。彼もまた僕と同様に責任を感じているようだった。

「どういうことですか?」と僕は聞いた。僕たちは〈スタテン島フェリー〉のデッキの上に立っていた。とはいえ、時間も早すぎるから寒すぎて、デッキの上に立っているのは結構しんどかったけれど。フェリーが波止場から離れ、水面を突き進んでいく。遠ざかっていく〈バッテリー・パーク〉を尻目に、僕たちは自分自身にバッテリーを入れ直す気持ちだった。フェリー乗り場は、フェリーを降りてこれからマンハッタンの高層ビル群へと仕事に向かう人たちでごった返していたけれど、この時間にスタテン島へ向かう人はそれほど多くなかった。僕たちは周りの世界を巻き戻すみたいに、流れとは逆方向に進んでいた。

初めラングストンは僕の質問に答えるつもりはないのかと思った。―沈黙の時間が続いた。沈黙ではなく僕たちは何か会話を交わしていたのかもしれない、そう疑いたくなるほどの長い沈黙だった。あるいはそれは単に、リリーがいなくなったことによる錯乱状態の中で、僕が勝手に脳内会話を繰り広げていただけかもしれない。するとラングストンが右手を持ち上げ、小指にはめているゴールドの指輪を見せてきた。

「ベニーと僕はこれからのことを真剣に考えようって決めたんだ。つまり一緒に暮らすことにした。一緒に暮らすってことは、今まで人生のほとんどを過ごしてきたあの家を出るってことだ。昨日リリーにそう言ったんだよ。彼女はうまく飲み込めないようだった。まあ、それは予想していたことだけど...その予想が外れてほしいってどこかで期待してもいたんだ。彼女は理解してくれるかもって。でも、そりゃそうだよな、彼女が理解するわけないよな?」

「それって要するに、彼女は末永く続いていくような関係に身を置いたことがないから、理解できないって意味ですか? つまり、あなたとベニーの関係とは違って、僕とリリーの関係はそうじゃないから?」

ラングストンは首を横に振った。「べつに僕はいつもいつも君に嫌味を言ってるわけじゃない。なんでもかんでも自分に悪いように取るなよ」

「それは違う。なんでもかんでも自分に悪いように受け取ってるわけじゃない。20分以内に同じようなことを言ったら、そりゃ、なんでもかんでもって認めるけど」

ラングストンは僕から視線を逸らして、口笛で何かの曲を吹きながら、水に囲まれた世界を見渡した。なんだか自由の女神も彼に共感して、僕の発言のくだらなさにあきれているようだった。

「不思議なんだけどさ」と、彼はまだアッパー・ニューヨーク湾を見つめながら言った。「リリーも君と同じくらいあれこれ考えて、神経をピリピリとがらせてるんだよ。僕の周りでそういう人はリリーだけだよ。考えるって君の大好きなこと、だよな? 考えるって、そりゃ楽しい時もあるけどさ、でも疲れちゃうだろ、ずっと考えてたら」

リリーと僕には共通点がある、そうラングストンが認めるのは彼らしくないように思えたけれど、とりあえず僕に対する好意的な発言だと受け取ることにした。同時にそれ以上、その点を掘り下げて聞くのもやめておいた。

僕もラングストンの視線を追うように、朝の日差しを反射して水面がきらめく景色を眺めた。エリス島が見える。ダウンタウンの岸辺に腰かけている巨人のような高層ビルが遠ざかっていく。生まれてからずっとマンハッタンで暮らしていると、マンハッタン島から離れる時はいつでも、自身が引き裂かれるような気分になる。最初は自由を手に入れた解放感でいっぱいになるけれど、少し時間が経つと精神がバランスを取るかのように、自分の全人生を置いてきてしまった、という喪失感が重くのしかかってくるのだ。遠ざかる今までの人生を見つめるような気持ちで、そんなことを考えていた。

リリーに隣にいてほしかった。それは意味のない思考だということもわかっていた。もし彼女が今僕の隣にいたら、僕はこうして彼女を探していないことになる。―でも同時に、それは完璧な意味を含んでいる気もした。僕は彼女と人生の最高の瞬間を共有したい。彼女は僕にとってそういう存在なんだ。そう痛切に感じさせてくれた、気づきの瞬間だった。

ラングストンはいったい誰のことを考えているのだろう。ベニーのことだろうか、リリーのことだろうか、あるいは誰のことも考えていないのかもしれない。僕は今この時をリリーとは分かち合えていないけれど、彼と分かち合っているんだ。少なくともこうして二人で話していれば、この感情を彼と共有できるはずだと思った。この瞬間を経験している僕の心と、同じ瞬間を経験している彼の心に、もうすぐ橋が架かる予感がした。

「変なこと言ってもいいですか?」と僕は、吹き付ける風に声がかき消されないように、少し声を張って言った。「僕は今日初めて、この〈スタテン島フェリー〉に乗ったんですよ。前から乗りたいとは思っていたんですけど、なかなか機会がなくて、用もないのにわざわざ乗るのも気が引けて。小学5年生くらいのときに、一度遠足で別のフェリーに乗って、自由の女神を見たことはあるんですけど、―でもそれ以外では地上から離れたことがなくて、こうして水上にいるのは、なんか不思議な気持ちです」

「僕はスタテン島で、ある男の子と付き合ってたことがある」とラングストンが返した。「最初のデートで彼の両親に会った。そして2回目のデートも彼の両親が一緒だった。それから3回目も。だから僕はスタテン島って聞くと、家族から離れたがらない男の子を思い出す。スタテン島ってそういう、家族の絆が強い土地柄なんじゃないかとさえ思う。残念ながら、4回目のデートが回って来る頃には、僕が彼の家族から距離を置きたくなっていた」

「彼と別れるとき、何か思い切ったことをやっちゃった、とかですか? たとえば、そうだな、その家のクリスマスツリーを燃やしちゃったとか?」

ラングストンは笑ってくれなかった。「そんな馬鹿な真似するやつは、どこの狂人だ?」

「恋に狂った人ならやりかねませんよね?」

やっと彼が笑ってくれた...といってもほんのちょっと笑みを浮かべただけだったけれど。「それはあり得る。なかなか面白い観点だ」

「好きになっちゃうと、火をつけちゃうんですよね、恋心に―」

「―火をつけるべきじゃない人に、なぜかつけてしまう」

「たしかに」

それっきり沈黙が訪れた。風が強まり、フェリーが通った波の軌跡が増していく。今ではすっかり遠ざかった自由の女神は、もはや僕たちに愛想を振りまいてはいない。むしろ、一人で生きていく決意をした女性の表情に見える。彼女はインターネットで知り合った男を待っているかのようだ。生の彼女を初めて見た男の第一声は、こうだろう。「プロフィール写真ではもっと小さく見えた」

ラングストンはフェリーが近づきつつある島の方へと視線を投げかけた。「さっきの質問に答えると、ツリーを燃やしたりはしなかったし、彼の家にも火をつけてない。ただ、彼の恋心にも火をつけられなかった。僕は彼に連絡するのをやめて、そっと火を消すように、マンハッタンに戻ったんだ。きっと彼は近くに住む素敵な男の子を見つけたよ。僕の想像だけど、毎週日曜日の5時にはお互いの家族が集まって、みんなでディナーを食べてるよ」

僕はどうしても、―聞かずにはいられなかった。「それって家族の特徴ですか? どこかへ自ら失踪するっていうか」

ようやく彼が僕の顔を見返してきた。「そういう面はある。でもこれだけはわかってほしい。―家族の中でリリーだけは違うんだ。僕たちの中でリリーは一番出来がいいんだよ」

「その点は僕も同じ意見です、って言っても気を悪くしないでくださいね。まあ、実際彼女も自ら失踪しちゃったみたいだけど」

スタテン島がはっきりと僕たちの眼前に現れた。島に建つ家々や、なだらかな丘は、僕たちが後にしてきた土地の景色とは対照的だった。もっと長い船旅になると思っていたけれど、そういえばスタテン島も同じニューヨーク市内だったと思い出した。僕たちが得た情報が正しければ、リリーにぐっと近づいたことになる。でもまだ彼女の姿が見えたわけじゃない。

「全部僕のせいなんです」気づけば僕はラングストンにそう言っていた。

彼は手すりに寄り掛かって、両手をコートのポケットに突っ込んだ。「それはどういう意味だ?」

「僕はまだ彼女に近づけていないんです。彼女の心に近づいて、そっと寄り添えなかったら、どうしたって結局彼女はどこかへ行っちゃう」

汽笛が鳴り響いた。彼が何かを言いかけたけれど、どんな返答もかき消してしまうほどの爆音だった。フェリーのエンジンが止まりかけて、ガクンガクンと音を立てている。まるで二の足を踏んでいるみたいだ。それからフェリーが波止場に吸い込まれるように停止した。

「よし行こう」とラングストンが言った。

僕はラングストンの後を追って厚板の上に降り、ターミナルへと入っていった。そして外に出るドアのところで、僕は彼に聞いた。「ここを出たら、その道をどっち?」

「正直言って、わからない」

それは僕が望んでいた返答ではなかった。僕は彼がかなり綿密な計画を立てているものだと思っていた。地図を出して目星を付けた数か所を線で結んで、その線に沿って近隣を探し歩きながら、道行く善良な市民のみなさんに聞き込みをするとか、そう勝手に思い込んでいた」

「じゃあ、彼女を最後に見かけたのは?」と僕は聞いた。

「僕のおじだよ。はぐれ者のおじさんが彼の自動車修理場で見かけた。でもそれからかなり時間が経ってるし、それにスタテン島って君が思ってるよりずっと広いんだよ。ここではほとんどの人が車を持ってる」

「車?」

「真面目な話、みんな車で移動するんだ」

「じゃあ、僕たちはどうすれば? タクシーであちこち行って、彼女を探し回るってこと?」

「さあな。っていうか、僕たちにも探せる場所があることはある。探したい場所って言った方がいいかな。とにかく、彼女がこの島で何をやっているにせよ、そこを探すのが一番いいと思う。彼女がどこにいるのかわからないわけだし、僕たちが二人で手分けして闇雲にあちこち探し回っても、彼女が見つかるとは到底思えない。そんなことをしても、僕たちが道に迷うのが関の山だろう」

「じゃあ、どうするの?」

「まず僕たち自身の気分を良くするのが先決ってことだよ。それが男ってもんだろ」

僕はため息をついた。スタテン島をさまよい歩きながら、一人の女の子を探す自分を想像してみた。考えれば考えるほど、途方に暮れてしまう。それは干し草の山の中に落ちた一本の針を探すみたいなものだ、―と思ったけれど、僕たちはその干し草の山でさえ、まだ見つけられていなかった。

「彼女は戻ってくるよ」とラングストンが続けた。「きっと彼女は家に帰ろうとする。そしたらフェリーに乗ろうとするはずだから、彼女がフェリーに乗り込んでくるまで、僕たちはフェリーの上で待っているべきなんだ。そうすれば自ずと彼女が見つかる」

「でも彼女が誘拐されていたら? 彼女が今にも僕たちに助けを求めていたらどうする?」

「君の探偵ライセンスを最後に更新したのはいつだい? シャーロック・ホームズくん。僕たちはこの不慣れな地で手がかりを見つけて犯人を追跡できるほど、シャーロックでいえば、バスカヴィルの犬ほど、鼻が利くとは思えない。それに僕の体中の細胞が言ってるんだ、血を分けた兄弟の直感でわかるんだよ、リリーは10代を狙った誘拐事件に巻き込まれたわけじゃないって。彼女はこの島をぶらぶら歩き回っていて、どこかに迷い込んじゃったんだろう。僕たちに見つけてほしいって彼女が望んでいるのかはわからないけど、僕たちが彼女を見つけようとしていたってことを、彼女に知らせることにもなるんだ。だからもう一度フェリーに乗ろう」

アナウンスが流れた:フェリーが再びマンハッタン島へ出発いたします。

「よし乗ろう」と僕は言った。


僕たちは特に何も話すことなく、湾を3往復した。そして4往復目に入り、デッキの上で風を浴びることの新鮮さもすっかり失われ、気づくと僕たちは中のベンチに座っていた。初めのうち、僕は船内の乗客たちをキョロキョロと観察して過ごしていた。マンハッタンへ向かう便には、いつものルーティーンをこなしているといった感じの人々がどっと船内になだれ込んできた。彼らは新聞を広げると、毎日の船旅で刻み込まれた体内時計に従って、お決まりのコーナーを読み、ねじれたドーナツを口に運び、時間を計って食べていたかのようにドーナツの最後の一切れを口の中に放り込むと、さっと立ち上がってフェリーを降りていった。一方、スタテン島へ向かう便の乗客は、なんとなく僕とラングストンと似通った印象、つまり通勤客ではない人たちが多いようだった。―ふらっと日常から離れて小旅行に出かけるといった感じの人とか、ちょっとイライラしている様子の人もいた。その中に、さっきから僕たちと同じように湾を行ったり来たりしている50代くらいの一人の男性がいた。彼は氷河が溶けるスピードか、もしくは読書に無我夢中の子供並みの速いペースで、ジョナサン・フランゼンの小説のページをめくっている。僕がぼんやりと彼の姿を見ていたら、ある時点で彼が目を上げ、僕を睨んできた。僕はハッとして、あなたのことを見ていたわけではありませんよ、という風に目をそらしたけれど...遅かった。彼はまだ僕を睨んでいる。その目がなんだか怖かったから、それからというもの、僕はじろじろと誰かを観察するのは控えている。

気づけば僕はラングストンが小指にはめている指輪を見つめていた。彼とベニーが同棲することについて考えてみた。その一歩はかなり思い切った決断だったはずだ。ラングストンが僕の視線に気づいて、眉をつり上げた。

「何かきっかけでも?」と僕は彼に聞いてみた。「つまり、大きな一歩を踏み出す準備ができたなっていう実感に至った理由というか、何かあったんですか?」

どうせ「お前には関係ない」とか、「お前に話してもわかりっこない」とか、そういうことを言われて突っぱねられるだろうなと思っていたら、彼が真剣な目つきで僕を見てきて言った。「べつに準備がどうとかそういうことじゃないんだ。―つまり、そんな大それた考えがあってのことじゃない。準備なんていつまで待ってもできないよ。そこに行ってみたら、十分準備ができていたんだなってあとから気づくだけだ。僕たちだって、一緒に住もうって決意したんじゃなくて、成り行きだよ。―お互いの家を交互に泊まり歩いているうちに、これって一緒に生活してるみたいなものだし、だったら一緒に住んじゃった方が手っ取り早いなって気づいただけだ。

「でも彼のこと愛してるんでしょ? つまり、―その指輪って」

ラングストンがほほえんで、その指輪をいじくり始めた。小指の上から下まで指輪をクルクルと行ったり来たりさせている。なんだか指輪が抜け落ちないかと確かめているみたいだ。

「もちろん愛してるよ。何も不安なんかないってくらい、愛するのを怖がるのはもうやめようって思えるくらい愛してるかもしれない。僕たちはそういう想いに至ったんだ。―毎朝一緒に目覚めて、一緒に一日を始める。そりゃ生きてれば、うまい具合に進んでいかない日だってある。いろんなことに気まぐれに翻弄されるし、ひどい目にも遭う。だけど、そういう一貫してない日々の中でも、僕たちはお互いにとって常に変わらぬ存在だってわかったんだ。僕は彼がいないと生きていけないって心から思うし、彼がいなかったら生きていたいとさえ思わない。―そう心から思った時が、一歩を踏み出す時だろ?」

僕は納得した...そしてもっと知りたくなった。「でもどうやったらそう心から思えるんですか? そこまでの想いに至るって、どうやったら?」

ラングストンは指輪から手を離し、背中を反ってシートに身を預けた。「君とリリーのことを言ってるのか?」

「たぶん」

たぶん?

「たぶんじゃなくて、そうです...僕とリリーもそこまで行けるとは思うんです。わかりますよね? どうにかすれば、いつかはたどり着ける気がするんですけど、でもかなり近づいたかなっていう地点まで来ると、お互いおじけづいちゃうんですよね。相手がどうこうっていうんじゃなくて、二人とも自分自身に対して踏ん切りがつかない感じなんです。僕とリリーは相性が良くないとか、一緒にいてもうまくやっていけないとか、僕が考えてるのはそういうことじゃなくて、―僕が、リリーにとってふさわしい相手なのかどうかってことです。僕は彼女にとって、なるべく明るい居場所になりたいんですよ。二人で一緒にいると本当に明るい空間になる時も、たまにはあるんですけど、でも大体は、ただの空間です。ぽっかり空いたすごく大きな、僕はただの空間なんです」

「電球がたまにしか光らないってわけか」

「まあ、新しい電球が見つかれば」

「いいんだよ、―そのままで。明るすぎたらまぶしくってしょうがないだろ」

慰めにもならなかった。そんなことを言われても、ピンと来ない。僕はもはや自分の発言の意味さえ見失っていた。なんだか落ち着かなかった。いつもならリリーのことを話してると、ある意味で彼女が近くにいる気がしてくるんだけど、彼女のことを考えるだけで彼女を身近に感じるはずなのに、今はその心の装置が作動してくれなかった。

「ピンと来ませんね」と僕は言った。

「なにが?」

説明するのも面倒でイライラしてきた。―たぶん僕のそういうイライラを、彼も感じ取っていたんじゃないかな? 「ここでこうして待ちながら、話しています。考えています。そういうことが全部、なんかピンと来ないんですよ。彼女は彼女がやりたいことをやっていて、家に帰りたくなったら帰ってくるでしょう。そして最終的に彼女が僕と一緒にいたいと思えば、彼女は僕と一緒にいることにするでしょうね」

「で、君も彼女と一緒にいたいんだろ?」

もちろん

「その気持ちは彼女に伝わってるのか?」

兄から見て、どう思います?」

「さあな」

まったくもう、と僕は思った。太鼓判を押してくれるんじゃないのかよ。僕にはそんな励ましを受ける資格もないのに、大丈夫だって後押しされるんじゃないかと期待しただけ馬鹿だった。

ラングストンが続けた。「まあ、パラドックスっていうか、難しいよな。その人についてどんどん知っていけばいくほど、もちろんそれくらい好きだから知りたいって思うわけだけど、―そのうち知らない部分、どうしても知りようもない部分の存在を感じるようになっていく。僕はベニーがいつも食べてるシリアルの銘柄を知ってるし、彼のお気に入りの靴下も、彼が映画のどういうシーンで泣くか、―それがどんな映画であっても、あ、このシーンで泣くなってわかるんだ。彼のネクタイの結び方も知ってるし、彼がいとこたちをそれぞれなんていうニックネームで呼んでるかも知ってる。彼が経験した中で3番目にひどい失恋も知ってるし、7番目も、10番目にひどい失恋も知ってる。10番目にひどいって、もうひどくもなんともない部類だけどな。でもたまに、彼が急に不可解な深い穴の中に落ちてしまったみたいに、見えなくなるんだ。彼のことがわからなくなる。僕が彼はこんなの好きじゃないよなって思うようなものを、彼が好んだり、こんなの彼には必要ないよなって思う何かを彼がしきりに望んだり、逆に彼が好きそうなことを嫌がったり、それで僕は怖くなるんだ。僕たちの関係の基盤がゆらぐっていうか、僕が知ってる彼のあらゆる要素はすべて間違っているんじゃないかって、そんな気がしてゾッとふるえる」

「そういう時はどうするんですか?」と僕は聞いた。ほんとに、ほんとに知りたくて仕方がなかった。彼の他にこんなことを話してくれる人はいなかった。僕の友達は誰もその地点まで到達していないし、僕の両親は一度は到達したんだろうけど、そこから真っ逆さまに落っこちてしまった。

「待つんだよ」とラングストンが言った。「自分にこう言い聞かせるんだ。すべてを知る必要なんかないんだって。お互い、自分以外には知られることはない大切な部屋が心のどこかにあるんだって。僕は頭の中で、彼についての凝り固まった考えを解きほぐしていく。そうすると、彼がまた見えるようになるんだ」

「リリーが見えなくなったとか、わからなくなったとか、そういうんじゃないんです。ただ彼女が...そこにいないっていうか、前より近くにいないっていうか」

ラングストンがため息をついた。「じゃあ、まだまだ先は長いな」

「そんなことわかってますよ。僕は全然まだまだなんです」

「言っただろ、自分の気分を良くするのが先決だって。自分で自分の気分を悪くしてどうするんだ」

「自分の気分を良くするって、あなたもそんなに得意じゃないですよね」

「まあ、僕も心配しすぎるからな。ベニーと僕が一緒に暮らすって決めたとき、一番つらかったのは、リリーがどう受け止めるかを考えてみたときだった。それで僕はもう少しでベニーにノーって言いそうになった。―正直言って、リリーがいるから同棲は無理だって思ったんだ。でもベニーがさ、―ベニーがこんなことを言ってくれたんだよ。今君が家を出ることは彼女のためにもなるんじゃないか?って。彼のその的を射た言葉のおかげでわかったんだ。リリーは今自分の進むべき道を探していて、彼女もまた、僕たちの住むアパートメントや家族の枠を超えて、いつかは独り立ちしなきゃいけないんだってわかったんだよ。まあ、そうなったらそうなったで、僕は彼女が自分の人生を歩んで行くのを受け入れたくない気持ちになるんだろうけど。それは僕が家を出て行くという事実を彼女が受け入れようとしないのと同じだ。だけど、もし僕たちがいつまでも独り立ちしなかったら、僕たちは一生同じ場所に居続けることになる」

僕は彼のその発言をなるべく距離を保って客観的に聞いていた。彼の言う、リリーが自分の人生を歩むということが、つまりは彼女が僕と一緒に暮らすということを指していて、それを受け入れるかどうかの話だと思いそうになったから、自分を制したのだ。ラングストンは彼とリリーのことを話しているのであって、僕とリリーの話をしているのではない。

「学校に行かなきゃ」と僕はラングストンに言っていた。

彼に「何言ってんだ」と抗議されたくもあり、すんなり受け入れてほしくもあった。

「そうだな、それがいい」と彼が言った。「こうしてここで待ってるだけだから、四つも目は要らない、僕の二つだけで十分だ。彼女が見つかったら、ちゃんと君も必死になって探してたって伝えとく」

その日から僕の中で何かが変わった。その日以前なら、彼がリリーにそんなことを言うはずないって、僕への当てつけとしか思えなかっただろうけど、なぜかすんなり彼の言葉を彼の本心として受け入れることができた。

でも本末転倒だよな、やっとリリーの兄と心を通わせて、彼を味方につけても、リリーがいなくなってしまったんだから。

僕はそういうことは考えないようにしようと努めた。

けれど、思考はなかなか思うように進んでくれなかった。


次にフェリーが充電するように〈バッテリー・パーク〉につながれたとき、僕は降りた。そして再び出港するフェリーを見送った。離れていくデッキの上にラングストンの姿が見えた。

僕は彼にうなずいた。

彼もうなずき返した。

しばらくするとフェリーは見えなくなり、あとに残ったのは波だけだった。


こういう時は学校をサボってしまうのが普通かもしれない。今日一日休みを取って、家に帰って寝直すとか、そういう考えも頭をよぎったけれど、僕はみんなが冬休みの計画について喋っているガヤガヤとした教室の中に紛れ込みたかった。その方が気が紛れると思ったし、一日中授業を受けていれば、時間もひとっ飛びで過ぎてくれる、と。

少なくともそう思うように自分に言い聞かせながら、僕は学校へ向かった。しかし学校に着いてみると、そこは思っていたような場所ではなかった。僕はうつむき、携帯を繰り返しチェックしていた。すでにリリーの失踪がニュースになっていて、周りの人たちが次から次へと僕に心配の言葉を浴びせかけてきた。なんだか彼らの不安な気持ちを僕に向かって吐き出しているみたいだった。友人たちが何かできることはないかと聞いてくる。友人たちが、うつむく僕に「話したくないのか?」と聞いてくる。友人たちが僕に彼女の居場所を訝しげに聞いてくる。まるで僕がそれを秘密にしているかのような聞き方だ。そして自分になら話してくれると期待しているらしい。他の誰にも打ち明けなくても、自分にだけは話してくれる、みんながみんなそう思っているみたいだ。

僕の父から電話が入った。

彼が心配するなんて、珍しいこともあるものだ、と僕は思った。

けれど電話に出てみると、一瞬でもそう思った僕が馬鹿だった。彼の電話はリリーとは全く関係がなかったのだ。

「リーザがさ、クリスマスはお前も俺たちと一緒に過ごすのか、ちゃんと確認しろってうるさいんだよ」と彼は言った。「人数がはっきりしないと予約できないんだとさ」

予約? 初耳だった。いったい彼らは何を計画しているのだろう?

「パパ、何の話をしてるのかわからないよ」と僕は彼に言った。「それと電話じゃなくてメールにしてくれないかな? 親って普通子供にメールするでしょ」

「あれ、言わなかったか?」

「じゃあ、リリーの家のパーティーで言おうとしてたんじゃないの? あんなことしでかして、さっさと逃げ出しちゃって」

ちょっと言い過ぎた気もしたけれど、構わない。たまには好き勝手にものを言える人になりたかった。

「おい、口の利き方に気をつけろよ、ダッシュ」

「パパから譲り受けた口の利き方だよ」と僕は言い返した。

そう言い捨てて電話を切った。

すっきりするかと思ったけれど、べつにいい気分にはならなかった。彼がこんなことで黙るはずがない。むしろ彼のエンジンに油を注ぎ、発奮材料を与えただけだろう。

ガールフレンドがどこかに行っちゃったんだよ、そう僕は言えたはずだ。

俺に何か力になれることはないか? そう彼は聞けたはずだ。

しかし、二人とも根源的にそんなことは言えないたちなのだ。

家族が空けた心の隙間は友達が埋めてくれる、少なくともそういう格言があることは知っていた。3時間目と4時間目の間の休み時間、廊下にいたソフィアとブーマーが僕を呼び止めた。二人の顔を見たらピリピリしていた気分がホッと和んで、二人に感謝したい気持ちになった。

「私たちもニュース聞いたよ」とソフィアが言った。「私たちにできること、何かある?」

「そうだ」とブーマーが提案した。「化学の授業があるから、あのアンバーっていう女の子に話してみるよ。彼女ならみんなに拡散してくれるんじゃないかな」

「それはちょっとうまくいくとは思えないわ」とソフィアが言った。「でもいい考えね」

「君にそう言われて嬉しいよ」とブーマーは言った。それから僕の顔を見て、彼は気まずそうに表情を陰らせた。「いや、べつにそんなに嬉しくはないかな。うん、誓って全然嬉しくない」

「きっと彼女はすぐに戻ってくるよ」と僕は彼に力を込めて言った。「たぶん彼女はスペースっていうか、心の空間みたいなものが必要だったんだ」

「それじゃあ、彼女はプラネタリウムにいるね!」

「あ、それはあり得る。さすがブーマー。彼女の兄にメールして、プラネタリウムを確認するように言ってみる」

僕の発言にブーマーは嬉しそうに表情をほころばせ、それからまた、僕の前であまり嬉しそうにするのを遠慮するように顔を引き締めた。でも彼は真剣な表情を作るのがあまり上手じゃない。すると彼は「もうすぐ国語の授業が始まる、―もう行かなきゃ!」と言って、廊下をぴょんぴょん飛び跳ねるように去っていった。

ソフィアが振り向いて彼の後ろ姿を見送っている。彼女のブーマーを見守るような視線は、彼に嫉妬してしまうくらい、優しさに満ちていた。

僕はリリーにも同じような視線を送れていただろうか? それって意識してできるようなことだろうか? 自分でも気づくことなく、呼吸をするようなレベルで、ふと気づくとしていた、みたいな行動なのかもしれない。

「彼女はスタテン島に行ったんだ」と僕はソフィアに話していた。「僕は彼女を探そうとしたけれど、フェリーに乗っただけで、帰ってきちゃったんだ」

「みんなそんなものよ」とソフィアが慰めてくれた。「スタテン島に住んでるわけじゃないんだし、仕方ないわ」

僕はかつてソフィアのボーイフレンドだった。僕は彼女にとって良いボーイフレンドだったかどうかを聞きたくなった。彼女と僕は結局うまくいかなかった。そんな僕が誰かとうまく付き合えると思うか、みたいなことを聞きたかったんだけれど、どう聞けばいいのか、言葉が出てこなかった。

でもソフィアはそんな僕の思いを察してくれたに違いない。彼女は僕の目を見て、こう言ってくれた。「彼女がどこにいても、何をしていても、―それはあなたがどうこうってことじゃなくて、彼女自身の問題なのよ。流れに身を任せて、あなたはそっと待つしかないの。時々ね、私もそうだけど、すぐに見つけてほしくない時もあるから。女の子がそうやって距離を置くってことは、そういうことなのよ、ちょっと時間を置いてから見つけてってこと」

「君はどこかへ消えちゃうなんてことはしなかったよね」と僕は指摘した。

「たぶんしたわ」と彼女が返した。「今もたまにしてる」

その時、チャイムが鳴った。

「彼女はあなたから去っていったわけじゃないわよ」とソフィアは去り際に言った。「もし彼女があなたと別れたいなら、あなたはそう気づくはずよ」

しかし僕には自信がなかった。僕がただ気づいていないだけじゃないのか。


ついに、もうすぐお昼という時間になって、ラングストンからメールが届いた。

彼女が見つかった。無事だし、元気だよ。

彼女が携帯電話を持っていないことはわかっていた。ラングストンは彼女の携帯を持っていったのだろうか?(僕は彼に聞きもしなかった。)でも僕はとにかくすぐに彼女にメールを打った。彼女がいつ家に帰って携帯を手に取っても、すぐ目に入るように、メッセージを送っておいた。

おかえり、と僕は書いた。君がいなくて寂しかった。

それから僕は彼女からの返信を待った。



6

リリー

腰をふりふり踊るガチョウ


12月17日(水曜日)

フェリーに乗り込んでみたら、すでに兄が乗っていて、私を待っていた。でもなぜかわからないんだけど、彼の姿を見ても、私は少しも驚かなかった。

ラングストンは私を引き寄せると、軽くハグした。それから力を強め、窒息するかと思うくらい私を抱き締めた。「もう二度と、僕たちにこんな恐ろしい思いはさせるな」と彼は言った。

フェリーが私たちをマンハッタンに送り返すべく出港すると、兄は携帯電話を取り出し、FaceTimeを使って両親に電話した。

「どこにいたの?」とママが金切り声を上げた。画面に映る彼女は、一晩中起きていたような顔をしていた。

「ちょっと休憩が必要だったのよ」と私は言った。べつに誇れるようなことでもないんだけど、私は完全に噓つきモードに入った。一般的な10代の子がどんな感じなのかわからないけれど、どうやら噓をつくことは、ホルモンの領域的にどうしてもしてしまう行為のように感じた。そして周りの大人はみんな、もう子供じゃないんだからしっかりしなさい、みたいなことを言っておきながら、いざ大人の領域に片足を突っ込んでみると、カンカンに怒るものなのね。「ロッコおじさんのところに行ってたのよ。彼のパニック・ルームっていうか、あの小部屋に入り込んだら寝ちゃって、部屋の中には光が入ってこなくて真っ暗だったから、つい30分前まで起きなかったの。心配させちゃって、ごめんなさい」

その嘘には前例があった。毎年スタテン島にお墓参りに行っていて、度々家族の誰かがロッコおじさんといさかいを起こしていた。そんないがみ合いを聞きたくなくて、私は墓地から2ブロックほど離れた彼の自動車修理場の地下にある、冷戦時代に造られた秘密の避難部屋に隠れていたことがあった。

それともこう言った方が良かった? 私、なんだか自分がわからなくなっちゃって、色々混乱しちゃって、学校に行く気がしなくて、それでスタテン島に行ったの。そしたらそこで新しいアイデンティティーっていうか、新しい自分を見つけることができて、―ヤーナっていうんだけどね。みんな彼女を気に入ると思うわ。私よりずっとかっこいいのよ。―そしたらね、誘われるように、ちょっと不思議なジンジャーブレッド・ハウス作りを手伝うことになってね、ちょっとだけ男性ストリッパーのクッキーを食べたのよ。そんなにたくさん食べたつもりはなかったんだけど、ヤーナったら、なんだかふしだらになっちゃって、アナ雪をモチーフにしたジンジャーブレッド・クッキーをね、ヤーナはクッキー製造マシーンになったみたいに作り始めたの。そしたら気を失っちゃって、たぶん男性ストリッパーのクッキーに入っていた秘密の材料が魔法をかけて、私を溶かしたんだと思う。それでね、目覚めたら、つまんない元のリリーに戻ってたの。それがほんの1時間前のことよ。

嘘でも避難部屋にいたって言っておけば、「リリーがまたおかしなことしてたのよ。あの子にもう一度セラピーを受けさせた方がいいかしら?」って両親が話し合うくらいで済むでしょうけど、もし真実を言えば、私はただちに精神療養施設に送られちゃうわ。

「もう二度と、絶対こんなことはやめてくれ」とパパが言った。「一晩中おまえを心配してたら、一気に10歳も年を取った気分だよ」

ママの顔を見ると、怒りと疲労の色がくっきりと浮かんでいた。でもよく見ると、それらを包み込むような穏やかな色、ほっとしたような表情もうっすらと感じ取れた。「ほんとに心配したんだからね」とママが言った。「でもね、私はあなたが無事だってわかってたのよ。直感でわかるの。私の母が亡くなった時も、私のいとこのローレンスがあんなひどい交通事故に遭った時も、おじいちゃんが倒れた時だって、私は電話が来る前にわかったのよ。何か大変なことが起きたって。でもね、昨夜はそういう不吉な予感はなかったから、あなたは私みたいにパニックになって、ふらっとどこかへ行きたくなったんだってわかったの。あなたがどこにいようと、元気だって確信してたわ」

つまらないことにケチをつけるタイミングじゃなかったみたいだけど、私は言ってしまった。「ケーブルテレビの〈ニューヨーク・ワン〉にまで知らせるって、ちょっとやりすぎだと思わない?」

パパが言った。「テレビ局の人たちがおまえを気に入っててな。赤ちゃんキャッチの一件から、おまえの映像を流すと視聴率が上がるとかで」

私は指摘した。「それは気に入ってるとかじゃなくて、単なるご都合主義だから」

ママが言った。「日の出までは待ったのよ。でもあなたから何の連絡もないから、テレビ局に知らせてテレビで流してもらえば、あなたがどこに隠れていても、近くにいる誰かが見つけてくれるんじゃないかと思って。そしたら思った通り、ロッコおじさんがテレビを見て電話をくれたのよ。昨日島であなたを見たって」

「もういい」と私は言った。

「ちょっと、あなたは文句を言えるような立場じゃないでしょ」とママが言った。

「おまえが家に帰ってきたら、今回の件について話し合わないとな」とパパが言った。「家族会議を開くぞ」

私は言った。「ごめんなさい。本当に」

ラングストンの携帯の画面から二人の顔が消え、通話が切れた。ラングストンが言った。「僕はこのフェリーに乗って、行ったり来たり5往復もして、君を待ってたんだぞ」

彼は私に「ありがとう」って言ってほしいみたいだったけれど、私はあえて言わなかった。彼が私たち家族を置いて家から出て行こうとしていることに腹が立っていたから。彼がベニーと幸せをつかんだことを祝福してあげたい気持ちはあったけれど、どうしようもなく私自身が寂しかったから。彼らは未来へ羽ばたく準備ができているのに、私はできていないから。

私が何も言わずに黙っていたら、ラングストンが付け加えた。「ダッシュも僕と一緒にフェリーに乗ったんだ。彼も何往復かここで君を待っていた。彼も本当に心配してたよ」

「そう」としか私は言えなかった。ダッシュが心配してたっていっても、それってクリスマスツリーの贈り物みたいなものでしょ。表向きを取り繕っただけの、「心配してました」って示すための心配でしょ。私のためにここで待っていたっていう事実は一応残しておいて、さっさと船から降りちゃったのね。冷たい人っていうか、よくわからない人ね。なんでそんなにかっこつける必要があるの? どうしてそんなに思いやりを示そうとするの? そうしないと私を好きな気持ちが消えちゃうとか?

ダッシュは私にとって、それくらいもやもやとした存在だった。私の人生にはもっと切迫した心配事が色々あった。たとえば、もし私の家族がみんなばらばらになっちゃったら、私はいったいどこへ送られ、どこで暮らすことになるのかしら? とか。

「彼はなかなかしっかりしたやつだよ」とラングストンが言い放った。私の首がくるっと360度一回転しそうになるほど、私はびっくりして彼を見た。

「え、じゃあダッシュのことが好きになっちゃったの?」と私は、信じられない、といった表情で聞いた。

「いや、そこまでじゃなくて、許容範囲ってことだよ」と彼は答えた。

私がこの世界について知っていたすべての常識が揺らぎ、ぐるりと大転換しようとしていた。私は混乱し、怖くもあった。それでもたしかに私は、人生という船がこれから進むべき新たな方向に広がる謎に満ちた未来に、ぞくぞくするような興奮を覚えていた。私は言った。「私もあなたとベニーが新しいアパートメントで幸せに暮らすことは、許容範囲よ。認めたわけじゃないけど、まあ一応、応援するわ」

「それはまさに、君とダッシュが付き合ってることに対して僕が感じてることだよ」ラングストンはそこで少し間を置いてからこう続けた。「彼は本当に君のことを気にかけてるよ」

私は思った。それが問題なのよ。私は愛してるのに、ダッシュは気にかけてる。心が痛いわ。

「だったらなんで彼は今ここにいないの?」と私は言ってみた。

「学校に行かなきゃって言ってたよ。最近の君は学校なんかどうでもいいって思ってるんだろ、彼は君よりも学校のことを真剣に考えてるようだな」と兄はいたずらっぽくニヤニヤと私を見てから、こう聞いてきた。「で、本当はどこにいたんだ?」

「ジンジャーブレッド・ハウスを作りながら、乱交パーティーをする館(やかた)」

ラングストンが言った。「そういう下品な冗談は君には似合わないよ、リリー。言いたくないなら、いいや」


家に帰ってみると、ママとパパが慌てふためいて旅行の準備をしていた。コネチカットへ1週間出かけるという。今学期の仕事の締めくくりに、パパの学校のクリスマスパーティーに二人で参加するらしい。ママも隣にいれば、校長先生の仕事がどんなものなのか体験できるし、校長先生用の宿舎も自分の目で視察できる。つまり、彼らは年が明けたら全寮制学校の敷地内に引っ越すことを見越しているのだ。

家族会議はニューヨーカーの手早さで、ちゃちゃっと済まされた。

学校からの懲罰は、私が無断で学校をサボったということで、学校の規則として、私が休んだ2日間に行われた課題などを後から提出することは認めない、つまりその間の課題はすべて0点として私の成績に反映される、というものだった。さらに、クリスマス休暇まであと2日学校があるんだけど、私はその2日間自宅謹慎になった。それは私には全く理解できないことだった。だって「懲罰」とか言っておきながら、逆にプレゼントみたいだったから。追加で2日も学校を休めるなんて! 課題を後から提出できないからなんだっていうの? 私にはやりたいことが山ほどあるから、2日間を有意義に使うわ。クッキーを焼くでしょ、犬の散歩をするでしょ、クリスマスプレゼントを作るでしょ、他にも学校に行くより面白いことをいっぱいやるわ。

ただ、両親からの懲罰で、犬の散歩の仕事以外では、クリスマスまで外出禁止になっちゃった。

私は両親から外出禁止令を受けるのは初めてだったから、それが何を意味するのか実際のところ、よくわかっていなかった。たぶん両親もよくわからずに外出禁止令を出したんだと思う。だって彼らが街を離れる直前にそう宣言されても、彼らには私がそれをちゃんと守っているかどうかを確かめるのは実質不可能でしょ。(私はあえてそんなつまらない指摘はしなかったけれど。)

白状すると、私は両親に一晩眠れない夜を過ごさせちゃったわけだけど、そんなに悪いとは思っていなかった。私はマンハッタンの女の子だから、心配事なんて二の次よ。コネチカットへ脱走しようとしているお二人さんには、じめじめとした心配事がお似合いでしょうけど。

だけど、おじいちゃんには心配の種を与えるわけにはいかなかった。彼は言った。「わしはしばらく妹のところで世話になるよ。ここは騒がしすぎるからな。おまえももうわしをわざわざ病院まで、予約の時間を気にしながら連れていく必要もなくなる」

「私がそうしたいのよ、おじいちゃん!」と私は言った。

すると彼は杖を使ってズボンのすそを持ち上げた。彼のすねにできたあざが露わになった。「見えるか?」と彼は杖でそこを指しながら私に聞いた。

「どうしたの?」と私は聞き返した。

「おまえがリハビリセンターのボランティアを休んだからだよ! おまえは506号室のサディーに読み聞かせをすることになっていたんだろ、おまえが一向に現れないから、彼女は怒り狂って、わしを蹴ったんだ」

「そんなことがあったなんて。おじいちゃん、ごめんなさい」

「おまえはわしの幸運の女神なんだから、おまえがそばにいないと、わしはいくらルーレットを回しても、からっきし当たりゃしないんだ」

「ごめんなさい、おじいちゃん」

「ほら、リハビリセンターでも老いぼれどもがみんなで見てるだろ、あの〈幸運のルーレット〉っていうクイズ番組がわしは大嫌いなんだよ! ただな、おまえがわしらと一緒に見てくれれば、なんとか許容できる」

「ごめんなさい、おじいちゃん」

私にそんな力が? 私ってどんなモンスターなの?

おじいちゃんは私の目を見ずに言った。「おまえは外出禁止だからな」それだけ言うと、彼は立ち上がって杖をしっかりとつかみ、足を引きずりながら私から離れていった。

私に背を向けた彼の後ろ姿を見ることが、私にとって何よりも一番こたえる懲罰だった。心がズタズタに引き裂かれるような、想像を絶する罰だった。


外出禁止令が下され、一時的に牢屋となった私の部屋に戻り、再会を果たした携帯電話を開くと、ダッシュからメールが届いていた。おかえり。君がいなくて寂しかった。

私も寂しかった、と返信した。

そのまま携帯を握り締めながら、私は眠りに落ちた。私の犬とおじいちゃんの猫が寄り添って、私の体を温めてくれた。そのぬくもりが、私をきつく抱き締める生身のダッシュが発する熱ならいいのに、と思った。メールじゃなくて、耳元でささやいてほしかった。けれど、何も言ってはくれなかった。


12月18日(木曜日)

エドガー・ティボーがトンプキンス・スクエア公園で、彼の定位置ともいえるテーブル付きのベンチに座ってチェスをやっていた。私は今日散歩することになっている犬たちを一斉に連れて、公園まで散歩にやって来た。彼のチェスの相手はこの公園のチャンピオンで、シリルという年配の紳士だった。シリルは灰色の髪をねじって編み込んだ、ラスタファリアンやレゲエの人がよくする髪型をしている。今年の春に行われたチェスのトーナメントの決勝戦でエドガーに勝って、奪い取ったチャンピオンの証であるベレー帽を、そのドレッドヘアーの上にかぶっている。

エドガーが言った。「おう、久しぶりだな、リリー。いったいどこにいたんだ? 今週はここにも来ないし、老人センターにも顔を出さなかったじゃないか」

「君と君が連れてくる犬たちがいないから、公園がいつもと違う雰囲気だったよ」とシリルが、チェス盤のルークが並んだ列を凝視したまま言った。

「うんち製造マシーンたちが来なくて、臭いはましになったけどな」とエドガーは言うと、ボリスをなじるように見遣った。「ああ、俺はおまえをにらんでるぜ、バディー」

私はいったいエドガーをどうしたいのか、わからなくなる。彼の首を絞めたいのか、それとも彼を更生させたいのか。

「私の犬にそんな荒っぽい口の利き方しないで、お願い」と私はエドガーに言った。ボリスも「そうだ」と追随するように吠えた。

「今夜俺んちでパーティーをやるから来る?」とエドガーが私に聞いてきた。

「どんなパーティー?」と私は聞き返した。

「毎年恒例のクリスマスセーターを着て集まるパーティーだよ」

「あなた毎年クリスマスセーターのパーティーやってるの?」

「今年はやる。今両親が香港に行ってて、家を俺一人で独占してるんだ。俺のクリスマス・セーターのコレクションもちょうどクリーニングから返ってきたし、パーティーの準備万端だよ」

「ダッシュも連れていっていい?」と私はエドガーに聞いた。

「じゃないと、おまえも来ない?」

「まあね」

エドガーはため息をついた。「ったくしょうがねえな、勝手に誰でも好きなやつを連れてこいよ。ただし、BYOBだぞ」

「BYOBって何?」と私は聞いた。

「Bring Your Own Boob!(各自おバカさん持参だな!)」とシリルが笑いながら言った。

「たしかに、彼女は連れてくるよ」とエドガーが言った。「おバカさんの名前はダッシュっていうんだ。ダッシュにBring Your Own Beer(各自ビール持参)って言っておいてくれ」

「ダッシュはお酒なんか飲まないと思うわ」

「まあ、彼は飲まないだろうな。神が彼に禁じてるんだろ。俺も祈っとくよ、彼がそのうち、お酒の虜になりませんようにってね」


「君と出会うまではリリーはすごくいい子だったんだ」とラングストンがダッシュに言った。ダッシュは私を迎えに私の家にやって来たところだった。私は外出禁止中だけど、これから二人でパーティーに出かけるのよ。大丈夫。両親の留守中、家のことを任されてるのはラングストンだから。ラングストンが家を仕切ろうとすると何をやってもうまくいかない、という彼の安定の実績もさることながら、彼には私に長年にわたる借りがあるからね。ラングストンが高校生の時、彼は何度も夜間外出禁止を破って、こっそり家を抜け出して、ボーイフレンドと一緒に夜を過ごしていたんだけど、そのたびに私は彼をかばってあげたのよ。

「去年のクリスマス、彼女に赤いノートのアイデアを提案して、彼女を良からぬ道へと導き、堕落した女にさせたのは誰なんでしょうね」とダッシュが言った。

ラングストンは私の顔を見て、ダッシュを指差しながら、「今のは極上の皮肉のつもりかい?」と私に聞いた。それから彼はダッシュに向かって、こう言った。「夜中の12時までにリリーを家に送り届けてくれれば、それまでなら彼女と好きなことしてていいぞ」

ダッシュと私は二人して顔を赤らめ、急いでドアの外に出た。「ボリスの世話お願いね」と私は兄に言った。

家の前の通りに出ると、ダッシュが私の手を握ってきて、私たちは手をつないで歩き出した。「じゃあ、エドガー・ティボーの家に行くってこと?」と彼は言った。「本気?」彼はこうは言わなかった。もっといい計画があるんだ。今夜は君にとっておきのサプライズがあるんだよ。君が見たがっていた映画『コーギーとベス』を一緒に見ようと思って、映画館を貸し切ったんだ。僕たち二人っきりで広い映画館を独占してさ、バラの花びらで覆われた、ど真ん中の特等席に座ろうよ。それからドーナツ・タワー・ケーキも注文してあるんだ。タワーの天辺からチョコレートが滴り落ちてるケーキが映画館で僕たちを待ってるよ!二人っきりで思う存分、タワーを丸ごと食べちゃおう!

私は言った。「エドガーはおじいちゃんが通ってるリハビリセンターで、罰則として働いてるのよ。それに私が犬の散歩で公園に行くと、いつも彼を見かけるの。彼はあそこで暮らしてるようなものね」

「友達ってこと?」

「そうなるのかな?」と私は答えた。

「僕はちょっと混乱してる。なぜ君はそう言ってくれなかったんだろうって」彼はこうは言わなかった。僕はすごく頭に来てる。君はエドガーと友達だなんて一言も言わなかったじゃないか!君が彼と仲良くつるんでるところを想像すると、僕は頭がおかしくなりそうだよ!エドガー・ティボーはブランド物のアーガイル柄のズボンを履いてる、女に手の早い一流のプレイボーイだってみんな知ってるよ。ってことは、僕は彼に決闘を申し出ないとじゃないか、君の愛情を勝ち取るために!

「なにか問題ある?」と私は聞いてみた。お願い、問題あるって言って!

ダッシュは肩をすくめた。「べつにないかな」男の子って絶対言ってほしいことを言わないのよね。それが私が今までの人生で学んだ、おそらく唯一の教訓よ。「でも、エドガー・ティボーの家じゃなくて、君の叔母さんの家に行くっていう選択肢もあるよ。ミセス・バジルがメールで僕たちを夕食に誘ってくれたんだ。そのあと、ミセス・バジルと君のおじいちゃんとみんなで〈カード・アゲンスト・ヒューマニティー〉をやろうって」

「え、あなた大叔母さんとメールしてるの?」

「うん、なにか問題ある?」

私は肩をすくめた。「べつにないかな」それから私はこう言った。「カード・アゲンスト・ヒューマニティーって、質問カードに対して一番そぐわない解答カードを出すっていう不謹慎なゲームなのよ」私はミセス・バジルにあのゲームを一緒にやろうと誘われたことは今まで一度もなかった。

「知ってるよ。だから僕はあのゲームが大好きなんだ」


ついに、良い子のリリーは私の奥に引っ込んだ。

ようこそ、やんちゃなリリー。とっても楽しい気分だわ。

やんちゃなリリーは黒のタイツと黒のミニスカートを穿いて、太ももまで達する黒いブーツを履き、ショート丈の(そうよ、おへそが見えるくらい丈の短い)クリスマスセーターを着たの。赤と金色と緑のセーターで、ちょうど胸を隠すようにキラキラした刺しゅうが二つ施されてるのよ。セーターがちっちゃくて胸がきつきつなんだけどね。

「ラングストンは君がその格好をしてるの見た?」私がコートを脱ぐと、ダッシュがそう聞いてきた。私たちはエドガー・ティボーのタウンハウスの前に立っていて、玄関のベルを鳴らしたところだった。

「こういうの好き?」と私は聞いた。セクシーに言ったつもりだったんだけど、声が上ずって、性に貪欲な女性みたいになっちゃった。(やんちゃなリリーがセクシーな口調を身につけるにはまだまだ練習が必要みたいね。生まれた時から付き合ってきた〈金切り声のリリー〉は私の中でまだまだ健在みたい。)

「やっと君がクリスマスの気分になってくれたみたいで僕も嬉しいよ」とダッシュが言った。

「あなたのセーターはどんなの?」と私は彼に聞いた。

彼はコートの前を開いて、見せてくれた。―緑色の無地のポロセーターに、その首元に襟が覗く白いオックスフォードシャツ。

「それってクリスマスセーターっぽくないわ」と私は言った。

「もっとよく見てごらんよ」と言うと、彼はセーターの首元に折り込まれていたオックスフォードシャツの襟を引っ張り出した。私が顔を近づけてよく見ると、白い襟を横切るようにダッシュの手書きで、『クリスマス・キャロル』の冒頭の一節が書かれていた。赤と金色のペンで一文字ずつ色を代えて、「この物語の始まりの時点で、マーレイはすでに死んでいた」と。

ドアが開いた時、私の顔はダッシュの首元から彼の体を覗き込んでいるような格好だった。ドアの内側でエドガーが声を張って公表するように言った。「ラブラブ鳥のつがいはもう公然とイチャイチャしてるのかい? まだエッグノッグも飲んでないっていうのに」

ダッシュは私から体を引き離すと、コートの前を閉めた。「僕は公然とイチャイチャなんてしないよ、エドガー」

エドガーはダッシュに向かってウィンクした。「まあ、君はしないだろうな。ようこそ、パーティーは好きだろ」彼は私を見ると、視線を上下させて言った。「そのセーター凄くいいよ、キラキラリリー」

エドガーはイエス・キリストが描かれたセーターを着ていた。イエス・キリストが逆さまのペペロニ・ピザの形をしたバースデーハットをかぶっている。そして神に選ばれし者の胸には、BIRTHDAY BOYという文字が書かれていた。視線を落とすと、エドガーはピンクとグレーのアーガイル柄のズボンを穿き、黒と白のサドルシューズを履いている。その上下の組み合わせは控えめに言ってもミスマッチで、いつも公園にいるエドガーが自分の家にいるのと同じくらい違和感があった。

彼の両親は、テレビドラマ『1パーセントの1パーセント』みたいなヘッジファンドを経営していて、何億とかもの凄い額のお金はあるけれど、息子と過ごす時間は全くないらしい。ミセス・バジルもタウンハウスに住んでるけど、彼女の家はひと昔前の家みたいな匂いがして、美術品とか家具とかが混然と置いてあって、居心地の良い空間って感じがする。それに対してエドガーの家は、建築雑誌に載ってるモデルハウスみたいに簡素で、ミニマリストの家みたいに家具も最小限しかなくて、100万ドルとかしそうな絵画があちこちの壁に飾ってあって、この空間にいるのが怖くなるくらい、冷たい雰囲気だった。

「キラキラリリー?」とダッシュが私の耳元でささやいた。私たちは大理石の階段を上って、2階のフロアーに向かっていた。「凄い家だね」

「君の友人たちは一足先に来てるよ」とエドガーが言った。「愉快な人たちだね。ほらあそこ、ああ、彼らはもうエッグノッグを飲んじゃったみたいだね」

客間の中央にはブーマーとソフィアがいた。二人はガチョウが描かれた、お揃いのクリスマスセーターを着ている。そして、どこにあるのかわからないスピーカーから打ち鳴らされるヒップホップに合わせて、ハチャメチャに踊っていた。二人は笑顔で見つめ合い、軽くキスを交わしたりしながら、腰をふりふりさせて踊っている。お尻が床につきそうなほど低い姿勢になったところで二人のお尻がぶつかり合った。すごく楽しそうで、しかもお互い安心しきっている。ひと目見ただけで、彼らは心を通わせているのがわかった。ダッシュと私もあんな風になれたらいいのに、と思った。ただ腰をふりふりさせるためだけに、腰をふって踊る。誰が見てたって気にしない。というか、彼らは他の人なんか眼中にない二人の世界に没頭していて、文字通り、お互いに夢中なのだ。

「君もエッグノッグ飲む?」とエドガーがダッシュに聞いた。「父親のビンテージもののジャック・ダニエル入りだけどな。シナトラ・センチュリー限定版だぞ」

「あたし、飲む!」とやんちゃなリリーは言って、私の恋人(ダニエルじゃなくて、ダシールね)の若さ溢れる青い瞳の中を覗き込んだ。二人が混ざり合い溶け合って、一緒にやんちゃになれるように、と願いながら。つまり、二人で泡立ったグラスをカチッと合わせて、それからシナトラ・センチュリー限定版の味がする熱いキスを1回交わすのよ。20回でもいいけど。

「いや、僕は遠慮しとく」とダッシュが言った。まったくもう、のろってやる、なんてね

赤ん坊が甘えるような声でエドガーがダッシュに聞いた。「ちっちゃい坊やはプレーン・ヨーグルトにしまちゅか?」

ダッシュは鼻の側面を触りながら、エドガーに言い返した。「君は霜の妖精に鼻をつねられたのかな?」

エドガーの顔を見ると、鼻水が垂れているようには見えなかったけれど、エドガーは信じ込み、アーガイルのズボンのポケットからハンカチを引っ張り出して、鼻をかんだ。それから彼は言った。「あとで、コマ回しゲーム〈ドレイデル〉をやらないかい? 君たちが勝ったら、ロバート・マザーウェルの絵の下でイチャイチャしていいよ。その絵は両親のベッドルームに飾ってあるんだけどな。ハハ、意味わかった?」

そう言い残すと、パーティーの主催者はエッグノッグを取りに行ってしまった。残されたダッシュと私は部屋の中を観察した。パーティーは宴たけなわといった感じで盛り上がっていた。―ただ、参加者は12人ほどしかいなくて、それもざっくばらんなというか、通常は一緒に集まらないような顔ぶれが並んでいた。私、ダッシュ、腰をふりふり踊るブーマーとソフィア、それからシリル。彼はイザベラ・フォンタナの腰に手を当てて、激しく踊っている。イザベラは料理本の元編集者で、私の犬の散歩のお客さんでもあるのよ。彼女は最近、股関節置換手術をしたばかりだから、もうちょっとおとなしくしてればいいのに。他には、サンバを踊る韓国人の酔っぱらった男の子たちがいた。彼らは私がエドガーからラーメンの緊急要請をFaceTimeで受けたとき、画面に映っていた子たちだとわかった。そういえばあれがきっかけで、私はスタテン島へ自分探しの旅に出かけたんだった。パーティーの参加者の年齢は大体17歳から70歳までと幅広く、みんな思い思いのクリスマスセーターを着ていた。雪だるま、天使、サンタ、妖精、トナカイ、クリスマスの猫たちがそれぞれのセーターの前面に描かれている。エドガーは壁に背中をつけて立っていた。彼の前にはパーティー・テーブルがあり、2羽のガチョウがキスをしている氷の彫刻が、このパーティーの象徴としてテーブルの中心に置かれていた。そして彼は、この相容れない感じの奇妙な集団を、それぞれが着ているてんでばらばらのセーターを、いとおしそうに眺めていた。ここは彼の家だというのに、なんだか彼は独りぼっちに見えた。私はこんなに孤独な彼を家の外で見たことがなかった。彼はまるで王国のない王子のようだった。

「どこか二人きりになれる場所に行きたいんだけど」とダッシュが私に言った。「落ち着いて話ができるところがいいな。君に伝えたい大事な話があるんだ」

とうとうその時が来た、と私は思った。ダッシュは私に別れを告げようとしているのだ。この気まずい、袋小路に迷い込んで行き場を失ったような関係に終止符を打つために。

「私たちも踊らない?」と私は、別れる前に最後にもう一度彼にしがみつきたくて聞いた。

『Let it Snow』のR&Bバージョンが流れ始めた。ささやくような優しい歌声がフロアーに響き渡る。さあ、うちにおいでよ、ツリーの飾り付けを手伝っておくれ/僕の両腕で君を包んであげたいんだ。

「お願い」と私はダッシュに頼んだ。最後に彼と踊って、彼の両腕に包み込まれる瞬間を覚えておきたかった。

それでも彼は突っ立ったまま、かたくなに動こうとしなかったけれど、二人の間に不快な空気が充満したところで、ブーマーとソフィアが私たちをフロアーの中央に引っ張り出してくれた。そして彼らはスローダンスを踊り始めた。それから彼らに先導されるように、ダッシュが私の腰に両腕を回し、私も彼の肩に両腕を回して、私たちは踊り出した。

私はめまいがするほど舞い上がっていた。ダッシュはこういうのが好きじゃないって知っていたけれど、それでもこうして寄り添うように踊ってくれる彼が、私は大好きだった。彼の体に私の体を押しつけると、私の心臓が喜びで激しく高鳴り出した。もっとぎゅっと押しつければ、彼の心臓が私の心臓と呼応して、競い合うように脈打つのを感じることができそうだった。彼の体にしがみついていると、とっても心地良くて、私は絶対に彼を手放したくないと思った。愛してる、そう彼に言おうと思った。―勇気を振り絞って、不安な気持ちや、そんなこと言えないよっていう声は振り払って、ちゃんと言おう。手遅れになる前に。

「あなたに言わなきゃいけないことがあるの」と私はダッシュの耳元でささやいた。

「僕も君に言わなきゃいけないことがあるんだ」と彼が言った。

言わなきゃ。ちゃんと言わなきゃ。


私の口が開きかけ、愛してる、という言葉が出かかった時だった。ダッシュが一瞬、腰をふって踊るソフィアをちらっと見た。彼のその視線は、私が前からずっと私に向けてほしいと願っていたまなざしだった。まっすぐに視線の先にあるものを望む瞳。私はいつも嫉妬しないように心がけてきた。だけどソフィアは努力なんかしなくても綺麗で華やかだし、しかも彼女とダッシュは以前付き合っていたという事実もあって、私がどんなに嫉妬心を振り払おうとしても、うまくいくわけなかった。

だから私は彼よりも先にこう言ったの。「私たち、もう別れましょ」



7

ダッシュ

白鳥の歌


12月18日(木曜日)

そして僕は言った。「嫌だよ」


12月17日(水曜日)

リリーがスタテン島で何をしていたのかは謎だけど、彼女が無事に帰ってきたとラングストンからメールがあって、僕は彼女の携帯に「おかえり」とメールを送った。でもすぐには返事は来なかったから、僕はラングストンとのメールのやり取りを見返していた。すると、一人の名前が存在感を放って目に飛び込んできた。

エドガー・ティボー

なぜラングストンは彼について僕に聞いてきたのだろう?

リリーにとって彼は何なのだろう?

僕が初めてリリーと直接会った時、あの二人は抱き合っていたし、僕の彼女への愛情がまだ芽生えたばかりの頃、彼が彼女の愛情を横からかっさらおうとしていたことも知っている。

何より、彼は王様級のゲス野郎なのだ。

ラングストンに聞こうかとも思ったけれど、やっと彼を尊敬できるようになったばかりだし、せっかく僕たちの間に芽生えた信頼の念をさっそくはかりにかけるようで気が進まなかった。

いつだったか、前にリリーはぽろっと口が滑ったみたいにこんなことを言っていた。ティボーは裁判所から命じられて、彼女のおじいちゃんがリハビリに通っているコミュニティーセンターでボランティアをしている、と。それで僕は放課後、そこに行ってみることにした。


12月18日(木曜日)

「嫌だよって、どういう意味?」とリリーが聞いた。「どうだっていいでしょ?」

彼女が僕から体を引き離そうとした。

僕は彼女にしがみついた。


12月17日(水曜日)

ティボーは例によって、従業員なのに患者みたいに神出鬼没で、いい加減な仕事をしているようだった。僕が彼の居場所を尋ねると、看護師によってまちまちの答えが返ってきた。そのどれもが間違っていて、言われた場所に行ってみても彼は見当たらなかった。

最終的に、そんな僕をふびんに思ったのか、鮮やかなピンク色の杖を使って歩いていたサディーという女性が、ニヤニヤと薄ら笑いを浮かべながら僕に話しかけてきた。

「あの問題児を探してるのかい?」と彼女はガラガラ声で言った。

疑いようもなく彼のことを言っているとわかり、僕はそうですと答えた。

「じゃあ、36A室と36B室の間の従業員が使う用具部屋を見てみ。いつも彼はあそこでさぼってるんだよ。ただ扱いには気をつけな。―彼はぐらぐらしてすぐ口から抜け出ちゃう入れ歯みたいなものだからね。彼が自分から離れて行っちゃうのが嫌なら、さぼってることは黙って見逃してやりな」

ニヤニヤ・サディーは、まるで彼にふられたみたいな声で、そんな物言いをした。

その用具部屋へ向かう途中、車椅子が集まっている一角があり、中の様子をちらっと見ると、テレビのある談話室でたくさんの人たちが〈幸運のルーレット〉を見ていた。僕は車椅子を避けるように回り込んで、そこを通り抜けると、サディーが言っていた用具部屋を見つけた。ノックすべきかドアの前で少し迷っていると、中からいかがわしい音声が聞こえた。ティボーがいるに違いない。

僕は突入した。

僕が目にしたものは、度を超えたひどい有り様だった。ティボーはスマホでポルノ動画を見ていた。画面には二人の女性と、馬が一頭と、それからドナルド・トランプに不気味なほどそっくりな男が映っていて、それを見ながら彼はタバコも吸っていた。病床で使うおまるの中にタバコの灰を落としながら、足を用務員用の机の上に投げ出している。

「明らかにこれは規則違反だな。しかも複数の違反行為を同時進行で!」と僕は声を張って、僕の中のありったけの権威を振り絞って言った。ティボーはしまったという顔をして飛び上がり、すかさずスマホの電源を切った。

「いったい何の―!」と彼は叫んだところで、目の前にいるのが僕だとわかり、彼の表情からパニックの色がさっと引いていった。「ああ、ダッシュか。君の行方不明のガールフレンドが、俺と一緒にこの中にいるとでも思ったか?」

僕は彼のそういう遠回しに嫌みを言うみたいな物言いが好きじゃない。僕は正直にそう言ってから、こう付け加えた。「それに、彼女はもう行方不明じゃない」

「もう彼女に会ったのか?」と彼が言い返してきた。僕がはったりをかましてやろうとしたところ、彼はおまるの底にタバコを押し付けて火を消しながら、「どうせまだだろ」と言った。

僕が彼の頭蓋骨に言葉で強烈な一撃をぶち込んでやろうとしたところ、彼はドアを開けて、そそくさと出て行ってしまった。僕も廊下に出て彼を追いかけた。

「ああ、じゃあ君は会ってないんだ」と僕は彼の背中に向けて言ったけれど、彼は僕を完全に無視して、テレビの置いてある談話室に勢いよく入っていった。

「誰か困ってる人、助けが必要な人はいますか?」と彼はそこにいるお年寄りの人たちに聞いた。

「母音!母音を一つ教えてちょうだい!」と青い髪の女性がテレビを指差しながら叫んだ。

L□□□ □A□□□R、とテレビ画面に映し出されている。

「LOVE CASTER!」(愛を振りまく人!)と、その青い髪の女性は鳥がさえずるように言った。

「LOVE MASTER!」(愛の達人!)と車椅子の男性が声を上げた。

「LOVE WASHER!」(愛を洗い流す人!)とグレーのコーデュロイ素材のズボンを履いた男性も声を上げた。

車椅子の男が「いったいLOVE WASHERって何なんだ?」と嚙みつくように言った。

「ハハ」とコーデュロイの男は笑って、「あんたはもう遠い昔のことで覚えちゃいないだろうな?」と言い返した。

「なんで君はリリーとメールしてるんだ?」と僕はティボーに聞いた。「君にとって彼女は何なんだ?」

「なんで君はそれを彼女じゃなくて、俺に聞くんだ?」と彼が撃ち返してきた。

L□N□ □AN□□R

「LONG CANTER!」(長いトレーラー!)と青い髪の女が甲高い声を上げた。

「LONE CANTOR!」(孤独の先導者!)と車椅子の男が主張した。

「LONE MANGER!」(ぽつんと置かれた飼い葉おけ!)とコーデュロイの男は咳き込みながら言った。

ティボーはこちらを向くと、僕を見据えてガツンと言い放った。「あんたは救いようもなく最低なボーイフレンドだな!例えるなら、あんたは誰でも入れる大学ってことだ。ボーイフレンドの中で最低ランク、おまえは誰でも簡単に手に入るプレーン・ヨーグルトなんだよ」

「リリーが君にそう言ったのか?」

「そうだよ!」と彼は会心の笑みを浮かべて答えた。


12月18日(木曜日)

彼女がそんなことを言ったなんて信じられなかった。本気でそう言ったとは思えない。

私たち、もう別れましょ。

僕は混乱していた。

僕は動揺していた。

僕は怒っていた

「君は何か誤解してる」と僕は彼女に言った。「君は何もかもを誤解してるよ


12月17日(水曜日)

ティボーの笑みがあまりに輝きを放っていたため、彼ははったりをかましているだけだとわかった。

「彼女をそっとしておいてくれないか」と僕は警告した。「リリーにちょっかい出すな!」

「さもないと、何? さあ、おまえのボキャブラリーで俺の首を絞めてみろよ。渾身の機転を利かせて、言葉で殴ってこいよ」

急に部屋の中が凍り付いたように静まり返った。テレビ画面に目をやる。

LUNG CANC□R

ジーザス、なんてことを。答えがよりによって「肺がん」なんて。

「彼に決闘を申し出ろ!」と車椅子の男がやかましい鳥みたいに僕をけしかけた。

「そうだ!」とコーデュロイの男も、詰まらせた喉から声を絞り出すように言った。「そのずる賢いろくでなしの息の根を止めてやれ。そいつはいっつも俺のアップルソースを盗みやがるんだ」

「いいでしょう」と僕は彼らに言ってから、ティボーの方を向いて言った。「君に決闘を申し出る」


12月18日(木曜日)

「どうして誤解だって言えるのよ?」とリリーが叫んだ。みんなが僕たちに注目していた。それから彼女は突拍子もないことを言い出した。「それだってちっともクリスマスセーターじゃないし!


12月17日(水曜日)

「で、どうやって決闘する気だ?」とティボーは、動揺している素振りもなく言った。

僕はお年寄りの人たちを再び見た。

「ピストルだろ」とミスター・コーデュロイが言った。「そりゃ、ピストルで早撃ちしかないだろ!」

青い髪のレディーはうなずくと、ゆっくり(とてもゆっくりと)椅子から立ち上がった。それから彼女はゆっくり(とーーーってもゆっくりと)角に置いてあった収納箱のところまで歩いていった。箱の中にはここを訪れたひ孫たちが遊べるようなおもちゃの類が入っていて、彼女はとーーーーーーってもゆっくりと中をあさり、底の方から二丁の水鉄砲を引っ張り出した。

それから彼女は簡易台所まで行って、水鉄砲の中にトマトジュースを入れた。

「この方が水よりはっきりわかるわ」と彼女が説明した。

僕たちはピストルを手渡された。車椅子の男がドアのところで見張っている。

「10歩な」とゴホゴホ男が僕たちに言った。

談話室は厳粛な空気に包まれ、僕たち二人は背中を合わせた。

青い髪のレディーがカウントを始めた。

1、2、3、4、5。

僕たちは一歩一歩離れていく。

6、7、8。

僕はリリーのために闘っているんだ。

9。

絶対に外すわけにはいかない。一発で決める。

10。

くるりと回転する。視界に彼が入ってきた瞬間、引き金を引いた。同時に彼も引いた。

僕たちは二人とも...弾が相手まで届かなかった。

誰もベッドに置いてあるバイアグラを僕たちのピストルには入れてくれなかったらしい。

「ああーーーーーー!」とティボーが叫びながら、僕の方へ猛進してきた。

「あーーーーーー!」と僕は叫びながら、逃げ出した。

僕は車椅子の男を押しのけて、廊下に出た。

ニヤニヤ・サディーが廊下をうろついていて、ピストルを手にした僕が前のめりに迫ってくるのを見て悲鳴を上げた。僕はティボーに離れた距離から撃ってきてほしかった。弾をすべて使い切ってほしかったのだが、至近距離で撃つつもりらしく、ひたすら追いかけてくる。

彼の獲物になんかなってたまるか。

「すべてはリリーのためなんだ!」と僕は大声で宣言し、僕の全身全霊で『スター・ウォーズ』に出てくる若きハン・ソロになりきって、銃を撃った。

僕の気合いが乗り移ったかのように、今度は勢いよくトマトジュースが飛び出てくれた。

ただ、撃つ前にかっこよくハン・ソロ・ポーズまできめたのがまずかったのか、ティボーは僕が撃ってくるのを警戒し、さっとかわされてしまった。

「そんなへなちょこに当たるかよ、腑抜け野郎!」と彼がわめきながら、撃ち返してきた。僕は左に身をかわし、右に振れ、彼の弾をよけた。

ちょうどそこで作業をしていたカレブという名の用務員が、空中に飛び交うブラッディ・マリーを目の当たりにして、実際の流血事件だと思い込み、悲鳴を上げた。彼の悲鳴に気を取られていたら、ティボーがまた撃ってきて、僕はとっさに食堂の受け皿を盾にした。それで弾は防げたものの、僕は自分の銃を落としてしまった。

ティボーは再び銃口をこちらに向けると、走って距離を詰めてきた。まずいと思った瞬間、彼が水たまりのように床にたまったブラッディ・マリーというか、トマトジュースに足を滑らせ、転んだ。

僕の魂の奥底、一番深いところから、僕はこんな決め台詞を引っ張り出してきた。「無様だな、あんたの負けだよ!」

ティボーが悲鳴を上げ、用務員のカレブも続けて悲鳴を上げた。ニヤニヤ・サディーがみんなを招集するように叫んだ。「ほら、ちゃんと見ておきな!」

僕は銃を構え、身をよじる彼に向けて、発射した。

彼の顔面に命中した。

彼が真っ赤に染まった時、僕もぬかるみに足を取られ、滑ってしまった。彼がすかさず僕の足をつかんできて、僕はぐらっとよろめき、倒れた。

でもなんとか彼の体の上に倒れ込むことができた。

「真面目な話」と僕は彼に覆いかぶさったまま、一旦息を落ち着けてから言った。「これで僕の勝ちだよな」

「わかった、参ったよ」とティボーが負けを認めた。「俺にどうしてほしい?」

「僕とリリーのために」と僕はうめくように言った。「パーティーを開いてくれ」


12月18日(木曜日)

「君は目の前にあるものの本質を見ようとしてない」と僕は彼女に言った。「まず第一に、これはクリスマスセーターだよ。派手じゃないからって、―キラキラしたラメが入ってないからって、悪党顔したトナカイがでかでかと描かれていないからって、―これがクリスマスセーターじゃないとは言えない。真実っていうのは、べつに自ら真実ですよってアピールしなくても、ただありのままに、真実でありさえすればいいんだ」

リリーはあっけにとられたような顔つきで言った。「あなた何言ってるの? なんでこんなことになってるのよ?」

さっきからずっと彼女に言おうとしていたことをやっと言える。

「リリー」と僕は言った。「これは予め用意されていたことなんだ」

「予め用意されていたこと?」とリリーはすっかり混乱しきった様子で聞き返してきた。

「神によってね!」とブーマーが声を上げた。「といっても映画『ピンク・フラミンゴ』に出てくるような、お下劣な神じゃないよ!」

「ブーマーが言いたいのはね」と僕は言った。「つまり、ここにいるみんなは君のために集まったってこと。まあ、ティボーの友達の中にはビールを飲みに来た人たちもいるみたいだけど、他のみんなは君に楽しい時間を過ごしてほしくて集まったんだ。いや、―ちょっと違うな。僕たちは君に楽しい時間を単に過ごしてほしいわけじゃなくて、楽しい時間を体感してほしいんだよ。実際、君は楽しんでるみたいだったし、―僕がそう思っただけで内心は楽しくなかったのならそう言ってほしいんだけど、―なのに突然、もう別れましょとか言い出して、全然そんな雰囲気じゃなかったよね」

僕は正しいことを言っているという確証がほしくてソフィアを見た。彼女はそっとうなずいてくれた。

リリーがティボーの方を向いた。「あなたも知ってて私を誘ったの?」

ティボーは手を左右に振って否定するように言った。「いや、拳銃を突き付けられて仕方なく。でもそれはともかく、トイレの個室にいるとき、メールをもらったんだよ。楽しい時間を用意してくれ、エドガーが頼りなんだって。まあ、俺も一応おまえの友達ではあるわけだから、おまえに楽しい時間を提供してあげたくなったんだ」

「ちゃんと僕がメールに書いたことを全部言わないと、今度はピストルじゃなくて、サーベルで決闘だぞ!」と僕は脅した。たぶん剣術の才能にはちょっと自信があったんだと思う。

「あなたたち決闘したの?」とリリーが聞いた。

「したよ。もしもう一度決闘するとしたら、―」

それは言うな!」とティボーが叫んだ。

「―、サーベルで勝負だ」と僕は最後まで言い切って満足した。

「ダッシュ!」とブーマーが大声を上げた。「ピストルかサーベルかはどうでもいいよ!」

僕はリリーに向き直った。「そう。それはどうでもよくて、要するに、僕は本当に君と別れたくないってこと。実際僕が望んでるのは、別れるのとは正反対のことで、二人でそれをしたいと思ってる」

「別れるの正反対ってことは、お互いの体に突入だね!」とブーマーがうながすように言った。

リリーと僕は二人して、その言い回しにぞっと身震いした。リリーと一体感が生まれたみたいで、良い兆しだと思った。


12月19日(金曜日)

僕たちは公園で待ち合わせした。僕は学校に行かなければならなかったし、彼女は外出禁止中にこっそり家を抜け出す必要があったから、ようやく午後になって会うことができた。そして僕たちは公園内をぶらぶらと散歩することにした。

公園の奥の方へと歩いて行き、アヒルの住む池の近くまで来た。(ある意味で)僕たちを結び付けてくれた作家、サリンジャーの小説の一場面が頭に浮かんでいた。それで僕は彼女にこう言おうとした。前から不思議に思ってたんだけど、冬になるとアヒルはどこへ行っちゃうんだろうね、と。冬のこの時期にアヒルは一羽もいるはずないと思ったから。

でもそこには、白鳥がいた。ぽつんと一羽の白鳥がたたずんでいた。


12月18日(木曜日)

僕は腕時計を見て、「門限の時間が迫ってるよね」と前置きしてから、笑顔で言った。「でもあと一曲くらい踊る時間はあるよね?」

選曲はティボーに任せた。僕はそういうことには疎いから、この時期にぴったりの今一番ホットな曲を彼に頼んだ。『サンタは興奮を隠せない』というR&Bの曲が流れ始める。


大量の雪が彼女に降りかかって

サンタは興奮を隠せない

冷たい風に彼女の髪がなびいて

サンタは欲求を抑えられない


ティボーはにやにやと笑みを浮かべていた。クリスマスソングにしては際どい歌詞だとわかった。―悪魔にお膳立てを任せるものじゃないな、と思いながらも僕はめげずにリリーの体に腕を回した。―彼女のセーターはぴっちりと彼女の体を包み込んでいたから、なんだか体を保護している層が何もない生身の彼女に触れているようで、最高潮に向かってビートを刻む音楽に乗せて、僕の体もグルーヴを感じていた。

「この歌最低!」とリリーが言った。

「僕も同感だよ、今それを実感できるのは君と僕だけだよ!」と僕は断言した。


煙突をくぐり抜ければ

夢のホワイトクリスマスが待っている

サンタは興奮を隠せない

でも彼はまだそりに乗っている


12月19日(金曜日)

「君にも見えるよね?」と僕はつい聞いてしまったけれど、もちろんリリーにもその白鳥は見えていた。僕たちは息をひそめてそっと近づいた。今ではすっかり寒くなり、僕たちはしっかり手袋をはめていて、僕は手袋越しに彼女の手を握っていた。

「あの鳥どうしちゃったのかしら?」と彼女が聞いた。

「ちょっと迷ったのかな?」と僕は思いつきで言った。「それか、あの鳥もみんなみたいに五番街のバーグドルフ・デパートでウインドウショッピングをしたいのかもね」

その白鳥は僕たちに気づき、凍ってはいなかった池の水面をすうっと滑るように近づいてきて、冷めた目ながらも好奇心も見え隠れする瞳で、僕たちをじっと見つめてきた。

リリーは僕から手を離すと、自由になった手で写真を撮ろうとした。

しかし彼女がシャッターを押す前に、その鳥が歌い出したのだ。


12月18日(木曜日)

その曲が終わっても、僕はまだ彼女を抱いていた。でもそれもほんの束の間で、ティボーがわざとなのか次の曲を流してくれなかったから、静けさに気まずくなり体を離した。

「さっき言ったことは忘れて。撤回するわ」とリリーが言った。

でもなんだか、彼女の口ぶりには戸惑いがにじんでいた。

とにかく彼女がそう言うのだから、そのまま受け止めたけれど、

何かを撤回するとはどういうことか?

そう、撤回されたものはその人の内側に戻り、心のどこかでくすぶり続けるのだ。


12月19日(金曜日)

その白鳥は歌い始めた。それはガーガーというやかましい鳴き声ではなく、葬送曲のように悲しみに満ちたものでもなく、美しいメロディーだった。礼拝やミサで歌われる讃美歌のような、悲哀と歓喜の混ざり合った調べだった。

その鳥が歌い終えたとき、僕は思わず拍手した。けれど手袋をはめていたから、音は大して鳴らなかった。

リリーが心配そうな表情をしていた。

「どうしたの?」と僕は聞いた。

「この鳥死んじゃうのかしら。だって白鳥ってすごく美しい歌を歌ったら...もうすぐ死んじゃうんでしょ」

「それは単なることわざだよ」と僕は彼女を安心させた。

白鳥はそんな僕たちを無視するように振り返ると、池の奥の方へと行ってしまった。その鳥は飛び立つことなく、泳ぎを楽しむように水面を漂っていた。


12月20日(土曜日)

次の日の朝、リリーは再び姿を消してしまった。



8

リリー

リリー姫、知恵をしぼる


12月20日(土曜日)

君はまたどこへ行っちゃったんだよ、と兄からメッセージが来た。

私は返信しなかった。

僕は今夜はベニーの部屋に泊まるよ。新しいアパートメントのことで色々計画を立てるんだ。だから今回は君を探し回るつもりはないよ。

私はそれでも答えなかった。

僕はちゃんと君のことがわかってるんだ。君がこのメッセージを見てることもわかってる。

まったくもう、兄は私のストーカーなのよ。メッセージには動画も付いていた。iMessage上でストリーミング再生してみる。

こんなこと言うとうざがられるだろうけど、リリー・ベア。君は今、いたいけな少女からやんちゃな大人への境界線を渡ろうとしてるんだ。

それ? すべての大人がすべての10代に言う台詞。

兄はもうすぐ新しいアパートメントに引っ越して、自分の所帯を持とうとしてるから、平凡な大人の一人になっちゃったみたいね。

私はあきれて目をくるりと回すと、スマホの電源を切った。

それに私は自ら失踪したわけじゃない。

迷っちゃったのよ。


あと5日でクリスマスだというのに、胸がワクワク感でいっぱいになるはずなのに、私はどんよりとした陰鬱感に包まれていた。まだレープクーヘン・クッキーも作ってないし、ユニオンスクエアにこの時期限定で出店している簡易店舗を見て回ってもいないし、セントラルパークでアイススケートもしてないわ。―それらは私が毎年クリスマスシーズンにやっている10個の恒例行事のうち、お気に入り順で言うと、2位、6位、8位に当たるわけだけど、そういうのを一通りこなしてから、(もちろん1位の)12月25日に盛大に行われる〈プレゼント交換会〉を迎えるっていう流れがあるわけ。それなのにまだ欲しいものリストも作成してないし、そういえば、今年はまだ一度も聖歌隊に参加して街角で歌ってないわ。―私が募集を出して集めた聖歌隊なのに。

私がクリスマスを前にしてブルーな気分に沈んでるのを心配して、クリスマスセーターのパーティーを開いてくれたわけだけど、なんだかいっそう私を取り巻くブルーが色濃くなっちゃったみたい。

おじいちゃんは逃げ出すように彼の妹の家に猫を連れて出て行っちゃった。私は今まで通り私たちと一緒にいてって彼にすがりつくこともしないで、すんなり彼を見送ったわ。私がスタテン島に自ら失踪したとき、きっとおじいちゃんは心配してくれたでしょうけど、心配かけてごめんなさいって彼の許しを請うこともしなかった。この動物好きの私が、猫だけは置いていってとせがむこともしなかったのよ。

私はもう自分がどういう人間なのかもわからなくなっちゃった。

ダッシュは私が動物の苦しむ姿を見るのがどんなに嫌いかを知っている。それでも私は昨日あの池で、あの白鳥がどれほど取り乱していたかを彼に言わなかった。きっと人間の私たちが近づいてきたことに動揺していたのよ。彼にそう言わなかったのは、もしかしたら、その後こうして、私はそのことについて思い悩みたかったのかもしれない。あの後、私は公園での散歩の終わりに、「じゃあ、また、たぶんそのうち」とだけ言って、他には何も言わずに彼と別れた。それから連絡を取っていない。もうあやふやな気持ちのまま、ごまかしてはいられない。私は彼と距離を置くわ。

「君は何もかもを誤解してるよ」ダッシュの言葉が私の頭の中で、アニメ『アルビンとチップマンクス』に出てくる、あの意地悪な男の叫び声とともに繰り返し再生されていた。彼がアルビーーーンと、シマリスのアルビンを怒鳴りつけるシーンとともに。

「君は何もかもを誤解してるよ

アルビーーーン!

「君は何もかもを誤解してるよ

アルビーーーン!

お願い、頭の中のリリー、彼らを静かにさせて。

私はむしゃくしゃして、もう少しでラングストンに電話するところだった。私には犬がいるでしょって言ってやろうと思った。私が飼ってる犬もいるし、散歩させなきゃいけない犬たちもいるんだから、私が勝手にどこかへ逃げ出すわけないでしょって。人生で関わりのある人たちなら、私は無視することもあるけれど、毛の生えた動物に対する責任だけは絶対に放棄しないのよ。ボリスは今朝早くにもう散歩に連れて行ったわ。今朝は遠出して、ランドールズ・アイランド・パークまで連れて行ったのよ。あそこはリードを外して犬を遊ばせることができるから、ボリスもいっぱい走り回れるの。ただ、タクシー代が往復でかなりの高額になるのが玉に瑕なんだけどね。それもこれも、ニューヨーク市交通局が公共の乗り物にペットを連れて乗る際には、「キャリーバッグに入れて、かつ他の乗客をイライラさせないように運ぶ」っていう決まりを作ったからなのよ。ボリスもキャリーバッグにはなんとか入るんだけど、後半部分は無理ね。ボリスはどうしても人をイライラさせちゃうから。それでタクシーを使ったんだけど、行きの運転手さんも帰りの運転手さんもかなり不満そうだった。大きなボリスが乗り込んできて、ちょっとおならをしたり、座席にちょっとよだれを垂らしちゃったりしたから。あと、私がハンドバッグから出して運転手さんに手渡したお札が湿ってて、小銭が臭かったのも嫌がってた。タクシーの中でずっとボリスが私のハンドバッグの上に座ってたから、中身がそんなことになってたのよ。そんなわけで、ボリスは今朝の遠足でくたくただから、今日は一日中、私がいないことにも気づかずに寝てるでしょうね。それなのに、私の兄ったら、私が行き先を言わずに外出したってだけで、どうしてあんなに心配してるの?

それに真面目な話、私がいなくなって心配なら、犬の散歩のお客さんたちに連絡して聞けばいいのよ。私は今朝、今日は用事があってできませんって律義にメールを送ったんだから。ちゃんと責任を持って犬の散歩をしてくれる代わりの人たちのリストも付けてよ。そこまでしてる私が姿をくらますわけないじゃない。だいたい、失踪って意図せずして姿を消すことを言うのよ。たとえば、女の子が間違って幻覚作用のあるジンジャーブレッド・クッキーを食べちゃって、それはクッキーじゃなくてリアルな男性かもしれないけど、そうして意図的に昼間どこかへ行くようになって、そうこうしているうちに年齢的にも合法的に朝まで失踪するんでしょ。

問題は、おそらく私もその過程にいることで、本当は迷っちゃったわけでもなくて、意図的に昼間どこかへ行こうとしてるの。私はどうやら幻覚のとりこになっちゃったみたい。もっともっとワイルドな経験がしたくてたまらないの。人生を危険にさらして、ヤーナにどんどん出てきてもらって、リリーには引っ込んでてもらって。

私はため息をついた。私の吐いた白い息が電車の中の冷たい空気に溶け込んだ。凍り付くような寒い冬がついに訪れた。でもそれは意地悪な寒さだった。気温も1桁台で、寒さのため信号機に問題が発生したらしく、電車ものろのろと走っている。ほとんど暖房の効いていない車内にはそれほど多くはない人たちが乗っていて、ダウンコート越しに身を寄せ合うように座っている。マフラーを頭や首にしっかり巻き直したり、手袋をはめた手をしきりにこすり合わせたりしている。誰も何も言わずに、ただ歯をガタガタさせながら、小刻みに震えている。

そんな冷たい空気と同じくらい私の心は冷え切っていた。窓の外に目をやると、午後の太陽が明るい光線を放っていて、こんなことを言っている気がした。私はここよ。あなたの希望の光のオーナーよ。私が全権を握って光を操ってるんだから、私のさじ加減ひとつで放射する熱を弱めて、あなたを暖めてあげないことだってできるわ。ちょっと意地悪しちゃってね。しばらくはこの極寒と付き合っていたいから、雪に邪魔はさせないつもり。雪が降ってくると私たちの関係は終わっちゃうから、雪をブロックしてるのよ。冬は誰のものだと思う? 冬も私のものなのよ。大西洋岸の北東辺りに住む人間たちはよく知ってるでしょうね。羨ましいでしょ、あの辺の人たちは今も私の熱を存分に浴びてるから!

私は涙を流して泣きたかった。けれどこぼれた涙はすぐに凍ってしまい、頬を伝って流れてはくれなかった。ダッシュの言う通りね。私は何もかもを誤解していた。彼の心が全然読めていなかったし、彼を説き伏せて別れることもできなかったわ。私はノイローゼになりそうなほど頭がごちゃごちゃしていたから、お互いのためにもすんなり別れさせてって言えなかったのよ。そう言えないほど彼を愛してるからでもあるんだけど。

電車が次の駅のプラットフォームになだれ込んで停車した。最初私は幻でも見てるのかと思い、涙の水蒸気で曇ったメガネを外して、ティシュで拭いてからメガネをかけ直した。確かにメトロノース鉄道の駅の表示はプレザントビル(陽気な町)となっている。ここって本当に現実の駅? もしそうなら、どうしてサンタの大群がどっと電車に乗り込んできたの? しかもサンタたちは酔っ払っていて、騒がしく怒鳴り散らしている。いろんなサンタがいるわ。―男性も、女性も、若者も、お年寄りも、太った人も、瘦せた人も、白く長い髭をつけて完璧にサンタのコスチュームに身を包んだ人から、ほとんど裸同然でストリッパーみたいなサンタまでいた。さらに目を疑ったのは、サンタの一団に続いて、こちらも酔っ払った聖歌隊の一団が乗り込んできたこと。彼らはウイスキーのフラスコ瓶を回し飲みしながら、やかましくクリスマスキャロルを歌っている。彼らはビクトリア朝風の衣装で着飾っているけれど、彼らが歌っている曲は私も最近耳にしたばかりの、優美なビクトリア朝時代にはあり得なかったはずの、あの歌だった。


子供たちは泣いている

トナカイは横たわっている

奥さんだけが理由を知っている

そしてサンタは興奮を隠せない


もうこの歌はうんざりよ。アルビーーーンよりひどいわ。神を冒とくするのもいい加減にしてって感じ。でもキャッチーで頭に残っちゃう!

騒々しくひしめき合う乗客たちの背後から車掌さんがこの車両に入ってきて、声を張ってアナウンスした。「次の駅は、チャパクアです!」乗り込んできた乗客たちは一向に意に介さずといった様子だったため、車掌さんはさらに大きな声で言った。「この電車はマンハッタン行きだと思っている方は、反対側のホームへ向かってください」それでも誰も降りようとしない。車掌さんはもう一度声を張り上げた。「これはマンハッタンへ向かう電車ではありません。ニューヨークを北上して郊外へ向かうつもりがないなら、ただちに降りてください。最終案内です、これはワセイク行きです」サンタたちと歌い手たちが次々と空いている座席に座り込んだ。「やれやれ」と言いながら車掌さんは呆れ顔で、この車両を去った。

初老の男性が私の隣に座ってきた。聖歌隊の一人らしく、ビクトリア朝風の衣装を身にまとい、シルクハットをかぶっている。彼はそのシルクハットを軽く持ち上げると、私に会釈してきた。「メリークリスマス、お嬢ちゃん。俺は田舎のワセイクから来たワセイルだよ」彼の息からは田舎のテネシー州に本社があるジャック・ダニエルっぽい臭いがした。(高級なシナトラ・センチュリー限定版ではなくね。)

彼の名前のワセイルは「酔っ払い」っていう意味でもあるから、本名なのか私をからかっているのかはっきりしなかったけれど、ぐでんぐでんに酔っ払っている彼からまともな答えを引き出すのは無理そうだった。これだけ酔ってたら、さっき車掌さんがはっきりと明言していたことも耳に入ってないかもしれないので、私も再度言ってあげることにした。私はちょっと自分を見失っていたからといって、今日が〈サンタコン〉の日だってことくらいちゃんと気づいていたし、人の役にも立ちたかったから、ワセイクから来たワセイルさんに言ってあげたの。「今日はマンハッタンにサンタのコスチュームを着た人たちが大勢集まるんですよね。あなたもそこに行くつもりなら、反対側のホームですよ」

私のお隣さんは鼻で笑うように言った。「俺らはグランド・セントラル行きの電車に乗ってたんだよ。2、3時間前はな。そしたら、マウント・キスコ駅で電車から追い出されちまったんだ」

「でもここはプレザントビルですよ」

「だからなんだ? 俺らはさっきまであちこちのバーをはしごしてたんだよ。それで一旦はもう一度都(みやこ)を目指そうって決めたんだけどな。ちょっとした抗争が勃発しちまって、おじゃんさ。サンタ隊とコーラス隊の衝突だよ。―そういや、今年はギャング団同士の抗争が多かったな、お嬢ちゃんにこんな話しちゃまずいか。で、我らがワセイク団の総長が決めたんだ、今日のミッションは諦めておとなしく帰ろうってな」

「そうね、都に行ったはいいけど牢屋の中で目覚めることになるより、こうしてメトロノース鉄道の中で酔いつぶれた方がましね」

「おやおや、可愛くて賢くて、小生意気なお嬢ちゃんだな」と彼は言った。その言い方も表情も、騎士道精神あふれるビクトリア朝の英国紳士というよりは、いやらしくニヤニヤしたアイルランドの妖精レプラコーンみたいだった。

私たちの前の座席に座っていた黒ずくめのゴス・ファッションをした女性が急に立ち上がって頭を出し、こちらを向いた。唇にピアスをして、耳に大きな穴を開け、黒髪をつんつん立てている。彼女は私のお隣さんを𠮟責した。「いい加減にしろ、ワセイル(酔っ払い野郎)。子供にちょっかい出してんじゃねえ!」

「俺はちょっかいなんか出してねえよ!」とワセイルさんは憤慨した。

「出してるよ!」と、私たちの周りを取り囲んでいたサンタ隊の一団が声を上げた。

「私は子供じゃないのにな」と私はつぶやいた。

私はギャング団同士の抗争が手をつけられないほど広がっていくのを食い止めたかったから、しばらく封印してきた昔ながらの子供らしいリリーを久しぶりに登場させることにした。とうとうクリスマスのお祝いムードに抗うことをやめ、やっと昏迷状態を抜け出せる。もしこの窮地を切り抜ける方法があるとすれば、歌うしかないと思った。

私は歌った。我らは陽気に歌い歩く/緑のツリーの間をくぐって!

ゴス・ファッションのサンタが悪魔のような目で私をにらんできたけれど、すぐにビクトリア朝の聖歌隊が私の後を歌い継いでくれた。我らはめぐりめぐってここまで来た/ほらごらん、こんなに素敵な景色を!

なんていうか、車内の雰囲気ががらっと変わるのを感じた。さっきまでのお酒の臭いが充満していて、寒くて、ピリピリしていた空気が、お酒の臭いと寒さはそのままだったけれど、ほとんどお祭りムードといっていいくらい、ぱっと華やいだ。

少なくとも車内の半分の人たちが一緒に歌ってくれた。―多くのサンタたちも参加してくれた。愛と喜びがあなたに訪れて/歌い歩くみんなにも訪れて/神があなたを祝福して、そこのワセイル(酔っ払い)にも贈る/ハッピーニューイヤー!

ワセイクから来たワセイルさんが立ち上がって、まるで彼のために書かれたような歌詞が歌われたところで、お辞儀をした。

誰も3番以降の歌詞を知らないらしく、歌が途切れてしまった。ここは昔から「3番のリリー」って呼ばれてる私の出番ね、と思ったところで、ビクトリア朝風の豪華なドレスを着た女性が悲鳴を上げて、車内が静まり返った。彼女はあごの下で結ばれていたひもをほどき、派手な帽子を脱ぐとすかさず、背中に天使の羽を付けたぽっちゃりとしたサンタの赤ら顔をピシャリと、強烈にひっぱたいた。

「サンタは興奮を隠しなさいよ!」と、ビクトリア・レディーが天使の格好をした太ったサンタに向けて金切り声を上げた。

「やれ!やっちゃえ!」と酔っ払いたちがはやし立てた。

私は酔っ払いの人たちが好きだけど、でも私が好きなのは陽気な酔っ払いで、こういう喧嘩好きみたいな酔っ払いはちょっと。

私は早くママに会いたかった。


終点のワセイクに到着し、私は飛び出すように電車を降りた。ワセイクから来たワセイルさんも、サンタコンに向かうつもりで着飾った、陽気なサンタとは言えないサンタたちも、やかましい聖歌隊も、誰も私を追ってこなかった。というのも、彼らはカトナ駅で電車から追い出されちゃったから。

ママは駐車場で待っていた。レンタカーの中でぶるぶる震えながら私を待っていてくれた。「あなたの乗った電車は1時間も到着が遅れたわね」

「意地悪な寒さのせいでね、のろのろ運転だったの」と私は言った。「それと、酔っ払いサンタたちを電車から追い出すのに時間がかかったのよ」

「サンタコンって今日だっけ?」とママが言った。私はうなずく。「なら都会を離れるのが一番ね。この時期はみんな都会に集まるから、こっちは道も混んでないし。でもあれね、マンハッタンの通りを埋め尽くすサンタたちも最初は可愛いもんだったけど、今では厄介な人たちよね」

ママの足元を見ると、長くて厚いコートの下からカクテルドレスのすそがのぞいていた。おしゃれなハイヒールも履いている。彼女はここにいるよりもっと大事な、いなきゃいけない場所があるんだろうなと思った。でも私は実存的危機っていうか、存在意義を見失っちゃって、誰よりも彼女を必要としてるのよ。「あんな急に呼び出しちゃって、こうして会ってくれてありがとう。パパにもラングストンにも言ってないでしょ?」

ママは首を横に振っただけで、あえてはっきりと明言しなかった。彼女が嘘をついているのは私にもわかったし、私がわかってることも彼女はわかっているようだった。私が初めてブラをつけた時も、初潮の時もそうだった。ママは彼らには絶対に言ってないと私に誓っておきながら、実際はしっかりと言っていたから。ママは言った。「私はせいぜい1時間しか時間がないのよ。パパは今、学校に寄付をしてくれた人たちをもてなしてるから、あの場には私はいなくてもいいんだけどね。生徒と教職員を交えたパーティーが始まる時間には戻らないといけないの。まあ、その時間までに私が離婚したくなったら話は別だけど。というわけで、あなたが私と一緒にパーティーに行って、校長の娘として振る舞ってくれるなら連れていくけど、それが嫌なら1時間以内にあなたをマンハッタン行きの電車に乗せなきゃね」

「わかったわ」そっか、電車が遅れて寒い中待たせただけじゃなくて、こうして暗い顔した私と車の中で向き合ってたら、素敵なパーティードレスとか、綺麗に化粧した顔とかが無駄になっちゃうのか。「ママとっても綺麗」普段のママはヨガパンツにゆったりとしたシャツとか、そういうラフな格好を好んでして、とかしてない髪を後ろに持っていってお団子に束ねてる感じだから、こうしてマスカラをつけて口紅を塗って、髪の毛をブローしてふわっと広げると、なんだか、ワオ、ママってすごくいけてる!

「ありがとう。これあなたに買っておいたのよ」ママは紙のコーヒーカップを手渡してくれた。コーヒーが見えないほどクリームたっぷりで、その上にクッキーも載っていた。

「これコーヒー? このカップ冷たいわ」彼女はこんな私にも優しくしてくれる。私にはそんな資格はないのに、すごく優しくしてくれるから、私はわからなくなる。どうして私はこんなにめそめそふさぎ込んでるのだろう? 実存的危機とか言って、単に気まぐれにいじけてる理由がわからない。

「コーヒーのはずよ。あなたが乗った電車が到着する前にね、コーヒーの移動販売車がその通りの向こう側に停まってたの。これから電車に乗って都会に向かう人たちに、クリスマスをモチーフにした飲み物を売ってたわ。そのジンジャーブレッド・ラテは最後の二つだって言ってた。それで私が買った直後に店を閉めちゃったんだけどね」

「ママのは?」

「とっても美味しかったから、あっという間に飲んじゃった。1分もかからなかったんじゃないかしら。ヒッピーっぽいコーヒー通って感じの人が売ってたんだけどね、やっぱりああいうサスペンダーをしたひげ面の職人は違うわ。美味しいコーヒーの淹れ方を熟知してる」

「でも、なんか見た目はラテにしてはちょっと」と私は言って、うたぐり深くカップの中にたっぷりと落とされたクリームをのぞき込んだ。

「そんな顔してすねてないで、飲んでごらんなさい。〈ラテ〉だって思うからだめなのよ。アイスクリーム・シェイクだって思えば見た目通りでしょ。バニラアイスクリームとエスプレッソを混ぜて作った〈シェイク〉なのよ。麦芽入りチョコボールとか、ジンジャー・キャンディーも入ってるわ」

なら美味しいかも!私はまずクッキーをコーヒーに浸してから、一口かじってみた。「オーマイガー!これはもしかしたら、私が今までの人生で飲んだ最高のドリンクかも」そういえば、去年一度だけ内緒でペパーミント・パイみたいな味のお酒を飲んで酔っちゃったことがあったけど、あれ以上だわ。最高。このジンジャーブレッド・ラテは天にも昇る極上の味だわ。「やっぱりママはすごい。ママの言う通りね」

「それがあなたの笑顔だったかしら? もう長らくあなたがそういう顔するの見てないから忘れちゃった」

私はラテの残りをがぶがぶと一気に口に流し込んだ。アイスクリームをそんな一気に流し込んだら急激に頭が痛くなるかもなんて気にせずに、瞬く間にカップを空にし、私は唇をぺろりと舐めた。「そう、これが私の笑顔よ!」と私は言った。そして、精神的に落ち込んだ時の教訓に加えようと思った。私の気分は糖分をちゃんと注入すれば、曇天模様がぱっと晴れて有頂天になるのだ、と。

10代のホルモン事情はよく知らないけど、きっとホルモンたちも絶えず目をとがらせてたら、疲れちゃって糖分が必要なのね。

ママが言った。「私もね、そういう時に必要なのはジンジャーブレッド・ラテだって昔から知ってたら、コーヒーの移動販売車を追いかけ回してたわね」彼女は心配そうに車のダッシュボードの時間表示に目をやってから、真剣な表情で言った。「さて、いったいどうしたの? リリー。私は2時37分まで一緒にいられるから、何でも相談に乗るわ。私はあなたのことが心配なのよ」

「私も私のことが心配なの」

彼女は車のヒーターに手をかざして、それから彼女の温かい両手で私の冷たい頬を挟み込んだ。ほっと安心する感触だった。「話してごらんなさい、リリーちゃん。ラングストンがもうすぐ家を出て行っちゃうこと? それともパパと私がこっちに引っ越しちゃうこと? おじいちゃんのことかしら? 心臓発作を起こした人ってね、回復するまでは気分が落ち込んだり、怒りっぽくなったりするものなのよ。もう昔の彼とは違うんだから、わかってあげなさい。いい?」

「今言ったこと全部、私は頭にきてるけど、どれも違うわ」

「じゃあ、私たちはもうあなたの人生の中心ではなくなったってことね?」と彼女は優しく言った。

「まあ、そういうことかな」と私は認めた。

「ああ」とママが言った。「ダシールのことね」

ママは何でもわかっちゃうのだ。

「私は彼と別れようとしたんだけど、彼が嫌だって言ったの!」

「ほんと? ちょっとびっくりだわ」私は彼女が何にびっくりしたのかよくわからなかった。私が彼と別れようとしたこと? それとも彼が嫌だって言ったこと? 「あなたは彼になんて言ったの?」

「『私たち、もう別れましょ』って」

「なんかピンとこない言い方ね。そしたらダッシュはなんて?」

「嫌だよって。それから『君は何もかもを誤解してるよ』って言ってた。でも私が何を誤解してるのかは言わなかった」

「ちょっとよくわからないわ。そもそもどうしてあなたは彼と別れたいって思ったの? もちろん私たちの家族の男性陣は彼のことを嫌おうとしてるけど、でも彼らだって内心はそんなに嫌いじゃないのよ。それに私は彼って素敵だと思うわ。すごく熱心にあなたに尽くしてくれるでしょ」

「それが問題なのよ!」私の瞳の中にじわっと、冷たくてほろ苦い涙が湧き上がるのを感じた。涙で私の顔が凍り付いてしまっても構わないから、泣いてしまいたかった。「ダッシュはただ好きなだけなのよ。私は...愛してるのに

「あら、かわいそうなリリーちゃん」ママは私の頬に流れた涙を拭った。そして私を引き寄せると、軽く抱き締めてくれた。「それを彼に言ったの?」

「うん。一度だけ。でもなんか、彼は聞いてないみたいだった。何も言い返してくれなかったし。愛が返ってこない人を愛するのってすごくつらいのね、ママ!」大声で思ってることを吐き出したら、なんかすっきりして、さっきまで曇り空だった私の気分に陽が射し始め、雲の切れ間から青空がのぞいた。まだ心に青あざは残っていたけれど。

「リリーちゃん、つらいのはわかるわ。でもね、考えてごらんなさい。『愛してる』って言葉で言うのって、そんなに大事なことかしら? お互いの関係を良くするのって言葉じゃなくて、行動でしょ」

「でもダッシュは言葉の人なのよ!」

ママの表情が曇った。それは私の言ったことが正しい証でもあった。「そうなのよね」と彼女は認めた。「でも彼だって、あなたが彼を想ってるようにあなたのことを想ってるかもしれないじゃない? もしかしたら彼はそんな気持ちがちゃんとあなたに伝わってるって思ってるのかもしれないわ。そういうのって周りの人にはわかるんだけどね」

彼女はただ私を慰めるためにそう言っているのだろう。優しく励ましてくれるのはありがたいけれど、彼女の話はちょっと的外れね。「そんなこと彼に聞けるわけないじゃない!」

「どうして? 彼はあなたのボーイフレンドでしょ。なんで聞けないのか私にはわからないわ」

一瞬考えて、私はとうとう真実にたどり着いてしまった。認めるしかなかった。「だって、そんなこと聞いたら、私が粘着質で、頭でごちゃごちゃ考えてばかりの気持ち悪い女だって彼にばれちゃうじゃない」

「私はあなたがそんな子だなんて言ったことないでしょ」

「言われなくても感じるのよ!前までは、ボーイフレンドができて気が変になっちゃった女の子たちを見て、お気の毒にって他人事みたいに思ってたけど、私もそんな女の子たちの一人になっちゃったのよ!彼氏に愛してるって言ってほしくてたまらない、ノイローゼ気味の女の子の仲間入りよ。彼の口からその言葉を聞かないと、自分の存在が崩れそうで気持ちが落ち着かないのよ。私はそんなの大っ嫌いなのに!」私はどうしちゃったっていうの? こんな風にママに内面をさらけ出したことなんて今まで一度もなかったのに。きっとあの酔っ払いサンタたちの影響だわ。彼らのせいで私までタガが外れたみたいに抑えが利かなくなっちゃったみたい。そこでママが笑ったから、「何もおかしなこと言ってないでしょ」と私はママを制した。

「そうね」とママは言うと、緩んだ唇をきゅっと結び直して、中立的で真剣そうな口元に戻した。「あのね、あなたの話聞いてたら思い出しちゃったのよ。私が初めてパパとデートした時のこと。それから彼に対して深い気持ちを抱くようになったんだけどね。でも2、3ヶ月付き合ったあたりで、自分でも不思議なくらい突然、私は彼に冷たく当たるようになってね、一度彼と別れたのよ。彼にあの家の中には入ってほしくなかったの」

「うちの家族はやっかいだから、彼氏なんて連れてきたら大ごとね」と私は言った。私にはもう一つ恐れていることがあった。私の家族と、それから彼の家族。

「そうなのよ」とママが追随した。「パパをうちのクリスマスパーティーに招待するまでかなり時間がかかったわ。やっと誘って、彼を叔母や叔父に一人ずつ紹介したんだけどね、いとこも次から次へと出てくるから彼は面食らってたわ。彼はいまだにあの時の、数にものを言わせた怒涛の攻撃で受けたショックから立ち直ってないみたい」

「ダッシュの家族は毒薬だから」

「だからって彼もそうってわけじゃないでしょ」

「わかってるけど、自分の両親がお互いに意地悪するのを見てるのって心がかき乱されるでしょ。もし彼も彼のパパみたいになっちゃったらどうしよう?」

「あなたに恋人ができることに私はまだ心の準備ができたわけじゃないけど、でもね、これだけは言えるわ。ダッシュは彼のパパに全くどこも似てないわよ。目の色を除いてわね」

「でもダッシュの目ってすごく綺麗なのよ!」私はまた泣きじゃくりそうになった。

「あなたは私に何を言ってほしいの? リリー。彼との仲を続けるように言ってほしいの? それとも彼との関係を断ち切るように?」

「私はダッシュにちゃんと言うべきことをわかってほしい。するべきことをしてほしいのよ!映画『コーギーとベス』を見に連れて行ってほしいの。そうすれば特別なクリスマスになるんだから。ただクリスマスツリーを届けてくれるんじゃなくて、そこで一旦時間を止めて、私と一緒にいるためだけに、ゆっくりしていってほしいの」もはやママに向かって話している感覚すらなくなっていた。私はまくしたてた。「私のことを大切に想ってるんだって行動で示そうとするのはやめて。ちゃんと私に向かって愛してるって言ってよ。そうじゃないなら、私と別れてよ。こんな惨めな気持ちのままでいるくらいなら別れたほうがましだわ。だってそうでしょ、私は私の気持ちの全部を捧げようとしてるのに、向こうは私のことをただのお花だと思ってるのよ。『ああ、なんて可愛らしいリリーの花が咲いているんだ。純粋で世間知らずで、そんなに花びらを広げちゃって。君を引っこ抜いて、地面に叩きつけて足で踏みつぶしても、君はニコニコ笑ってるんだろうね?』って」

ママが黙り込んでしまった。私は彼女が笑いを押し殺しているのかと思ったけれど、どうやら思いやりのある言葉をあれこれ探しているらしい。少なくとも、探している感じを醸し出そうとはしているらしい。しばらくしてやっと彼女が口を開いた。「まず第一に、ダッシュは超能力者じゃないんだから、あなたが心で望んでることを読み取ってって期待するのは無理があるわね。第二に、これはあなたが誰と付き合うことになってもいえることなんだけどね、そりゃ女の子が恋人に望むことのリストが長くなるのは当然だけど、そこにずらっと並んだすべての項目を自動的に叶えてくれる男なんて、そんな都合のいい男がいるわけないでしょ。男っていう種族はそういう風にはできていないんだから。もしそんな男があなたの前に現れたら、何か裏があるかもって警戒しなさい。第三に、あなたがそれほど彼に対して強い気持ちを抱いているのなら、それを正直に彼に打ち明けなさい。それがあなたの責任よ。待ってたってだめ。彼はあなたが言われるのを待ってる言葉なんて思いつきもしないんだから」

「でもダッシュが私と同じ気持ちじゃなかったらどうしよう?」

「リスクがあるのは当然よ。そういう瞬間をくぐり抜けてこそ、あなたは自分がなりたい自分になれるのよ。そこから抜け出すまでは視界も悪いし不快でしょうけど、そこでどんな自分になりたいのか、その方向性を決めるの。道を選ぶのはあなたよ。その結果傷つくことになったとしても、あなたは自分の気持ちと行動に責任を持つ人になる? それとも、心の中で望んでるだけでそれを求めようとしないから幸せをつかめない、そんな、いじけてるだけの人になるの?」

「なんか、どっちの道も最悪ね」

ママはもう笑いをこらえている様子はなく、とても真剣な顔つきで言った。「あなたを過保護に甘やかしすぎたかなって今になって思うわ。そのせいで、あなたは自分の心が傷つかないようにってすごく臆病になっちゃったみたいね」

「私は怖いの」

「よくわかるわ。突き詰めると、男女の情愛ほど恐ろしいものはないわ」

ママ!」私はこれ以上ないってくらい、ひどく困惑してしまった。「私が言ってるのはそういうことじゃない!」

「私だってそういうことは言ってないわよ。いやらしい意味じゃなくて、相手を自分のことのように思う感情のことよ。本当の親密さってこと。あなたが心で感じていることを認めて、自分のありのままの姿をさらすのよ。心を開いて相手に自分の魂を見せるんだから、それほど怖いものは他にないでしょ。それで、私は感謝祭の翌日にはショッピング・モール〈ウッドベリー・コモン〉に行くことにしてるのよ。感謝祭の翌日は受難の金曜日でしょ。私はその怖さを経験から知ってるの」

彼女が何を言い出したのか、その意味を理解するまで私はしばらく言葉が出てこなかった。私が黙っていると、ママはさらに付け加えた。「あなたがそういうことじゃないとか言い出したから、―」

「私たちはまだホテルには行ってないわ!」と私は苛立ちで身をくねらせながら言った。「というか、彼ってママが作ったルールもしっかりと守るのよ。私たちが二人きりで私の部屋にいる時は、ちゃんとドアを開けっ放しにしておくの」

「それは私じゃなくて、パパが作ったルールよ。でも私はダッシュを責める気にはなれないわね。私がダッシュの立場だったとしても、あなたの寝室であなたの体をもてあそびたいとは思わないわ。だってドアの外側では親戚も入れたら1ダースにもなる家族たちが見張ってるのよ。しかも、あなたの手を握る以上のことをしたらすぐにでも、彼の首を絞めに部屋に飛び込んでくるような人たちよ」

ママが「もてあそぶ」という言葉を使ってダッシュと私の関係を言い表したことに正直、身もだえしそうになるほど不快感を覚えたけれど、同時にママの発言の後半部分が示唆していることに私は気を良くした。「じゃあ、私がドアを閉めてもダッシュはそのまま私の部屋に居続けられるかな?」

「もし彼に勇気があるならね。大丈夫。パパが作ったルールは私が撤回するわ。ダッシュはいい男よ。それにあなたもこうやって私と男女の親密さについて語り合えるようになったんだから、あなたは自分でベストな選択ができるわ。ちゃんと自分の気持ちに責任を持って、あなたと彼にとって一番いいタイミングを見計らって、彼にこういう話をするのよ。でもあなたの寝室じゃない方がダッシュも落ち着いて話ができるかもね。彼が寝室のドアを開けっ放しにしてるからって、あなたに対して欲求がないとか、そういうことじゃないのよ」


1時間が経った。2時37分発のマンハッタン行きの列車がはるか遠くから近づいてくる音が聞こえた。

「ほんとにこっちに引っ越しちゃうの?」と私はママに聞いた。

「まだ決まったわけじゃないんだけどね。でも期待してた以上で気に入っちゃった。まあ、将来が約束されたわけじゃない単なる大学講師としては、ロング・アイランドを横断して通勤することになるから、かなり酷なんだけどね。しかも長旅の後に相手にするのは、偉大な詩人たちが残した詩には大して興味のない、ただ現代詩の単位が欲しいだけの学部生だから、モチベーションも上がらないわ。いっそのこと大学を辞めて、ここで詩人にでもなろうかしら、っていってもどこからも給料は発生しないんだけど」

「でも家族が都会にいるじゃない」

「パパがこっちに住みたがってるの。私もあなたと同じってこと。リスクは承知で彼を選ぶってわけ。私たちみたいな年寄りでもね、こういう思い切った行動に出たくなるのよ」

「でもおじいちゃんがいるじゃない!」

ママはため息をついた。「彼はすごく分からず屋になっちゃったわ。彼にとって一番いいのは、生活支援付きの高齢者向け集合住宅に入ることなのよ。家族みんなそう思ってるわ。そこに入居すれば、彼の生活の質が上がるんだから」

私はあえぐように言った。「彼が今の発言を聞いたら、きっと怒り狂うわ!」

「わかってる。それが問題の最たる部分ね。彼にとって最善であるのはもちろんだけど、周りのみんなにとっても良いことなのに、それがわかってないのよ。私たちに必要以上に世話をさせたがって、もちろん私たちは彼を愛してるけど、度が過ぎたら誠実に世話もできなくなるわ。彼が倒れてからというもの、私たちは自分のそれぞれの人生を一旦停止させてたわけだけど、もうそろそろ自分の人生を取り戻してもいい頃だと思うの。そういう決断をするこっちだって苦しいのよ」

「私はどこへ行くことになるの?」

「あなたもここに引っ越してきて、パパの学校に通ってもいいわ。それともミセス・バジルの家に住まわせてもらって、夏の間だけ私たちのところに来て、こっちで一緒に夏を過ごすっていうのもありね。彼女がそう申し出てくれたのよ。あなたももう大人なんだから、自分がどうしたいのか自分でわかるでしょ。大丈夫、誰もあなたを見捨てたりしないから。みんな、あなたの生活環境が良くなるように、できることは何でもしてくれる。それがあなたの家族なのよ。もう二度と、こんなに素晴らしい家族から逃げ出そうなんて思っちゃだめ」

まだ話し合うことはいっぱいあったけれど、あと1分以内には車から出ないと電車に間に合わなくなりそうだったから、重要な問題に話をしぼることにした。

「私はまだ外出禁止なの?」

「そうよ」

「そうなの?」と言って、私は悲しげな顔をした。「リリーの気分は真っ逆さまに転落して、再びうつの沼に落っこちました」と言いたげな表情を作ってみた。

「いいわ、解除してあげる。それと、あなたがここまで何しに来たのか、私にはわかってるのよ」

「何?」

「ママに甘えたくなったのよね。リリー姫は知恵をしぼって、ここまでやって来て、ママからありったけの共感をしぼり取って行きました。さあ、家に帰りなさい。スイッチをオンにして、あなたのクリスマスを始めるのよ。そしてダッシュに話しなさい、―」

私は彼女の頬にキスをした。「バイバイ、ママ。ありがとう。愛してるわ」

私は車から飛び出すと、電車に向かってダッシュした。あの電車は、私をダッシュがいるところへ連れて行ってくれる。


電車に乗り込むと、私はすぐにスマホの電源をオンにした。私の心はときめいていた。ダッシュに伝えたいことがいっぱいあった。外出禁止が解けたこと、アパートメントには私しかいないこと、そして、ある男の子を愛してること。

最初に画面に表れたのはダッシュからのメールだった。彼の名前が目に飛び込んできた瞬間、私の胸は張り裂けそうに高鳴った。今度彼に会ったとき、勇気をふりしぼって話をしようと思った。そして、彼からのメッセージを読みながら、私の心は沼の奥底へと沈んでいった。君に喜んでもらおうと僕なりに力を尽くして頑張ったつもりだけど、だめだったみたいだね。君を喜ばせるのは不可能だなんて言いたくはないけど、君を喜ばせるのは不可能みたいだ。こうしてまた君が行方をくらますってことは、そういうことなんだろう。君が正しいって気づいたよ。僕たちは一旦別れよう。



9

ダッシュ

絡み合うには二人必要


12月20日(土曜日)

僕はメッセージを打つ指を止めて、少し考えてから続きを書いた。

そして23時間後に再び付き合い始めよう。きっちり23時間だ。それ以上でもなければ、それ以下でもない。

「計算合ってるかな?」と僕はミセス・バジルにスマホの画面を見せながら聞いた。

「大丈夫よ。さあ...もう一言付け加えて」

「わかってる!」

次の指示は追って送る。と僕は打った。

送信。

リリーから返事が来るんじゃないかと僕は画面を見つめて待っていた。

けれど彼女からの返信はなかった。

「うまくいくといいけど」と僕の口から本音がこぼれた。

ミセス・バジルはソファーに身を沈めて、僕を見上げている。手遅れになって、僕が後悔しないように心配してくれている、そんな表情だった。

「全身全霊でぶつからないとだめよ。いい、あなたのためにもう一度言うから、よく聞きなさい。あなたが持ってるありったけの力をぶつけるのよ」

「でも彼女を喜ばせるのは不可能だって、もうわかったっていうか」

「何でも物事を完璧にしたがる人っていうのは、どこまでいっても満足しないから、喜ばせるのは不可能でしょうね。でもね、だからといって諦めちゃだめ。そういう人は期待が大きいから思うように事が進まないってだけで、洞察力がないわけじゃないの。あなただってすべてを正しく認識してるわけじゃないし、これからも誤解するのよ、ダッシュ。リリーもそれはわかってる。肝心なのは、何度も挑戦すること」

「大事なのは気持ちっていうか、どれだけ考えるかってことですね」

「そういえば、あなたは自分の考えを数えてみたことある? 頭の中を巡ってる考えってとりとめがないから、集合させたり並ばせたりってなかなかできないものなのよ」

僕もソファーの背もたれに体を預けて、ため息でもつきたい気分だったけれど、僕はソファーの前に置かれた豪華な装飾が施された足のせ台にちょこんと座っていたから、背もたれに寄りかかるわけにもいかなかったし、ため息をついても芝居がかってるというか、目の前の話し相手に「自己陶酔に浸ってる」とでもレッテルを貼られるだけだろう。

ため息の代わりに僕は言った。「これが僕にとってラストチャンスになる気がする」その台詞が僕の口をついて出ると、ため息以上に自己陶酔に浸ってるように響いてしまった...けれど、メロドラマ風に気取ったわけではなくて、それが僕の本心だった。

「恋愛指南してあげるわ」とミセス・バジルが返した。「あなたはラストチャンスにかけるのよ。それで、もしうまくいかなかったら、もう一つ別のラストチャンスを自分でこしらえるの。それもだめだったら、また別のラストチャンスを用意するのよ。自分の中のラストチャンスが空っぽになるまで、次から次へとラストチャンスを出し続けなさい」

「でも、ラストチャンスがいっぱいあったとしても、本当の最後のチャンスがいつ来るかは実際、―」

「私は言葉の意味をどうこう言ってるわけじゃないの」とミセス・バジルが僕の発言をさえぎった。「私が言ってるのは心の在りようのことよ。まあ、今のあなたのレベルで私の話が理解できるとも思ってないけどね。―あなたはまだ恋愛に関しては苗木みたいなものだから。その点、私はセコイアの巨木よ。だから私のアドバイスにはしっかり耳を傾けて、栄養にするの」

「僕のはるか上空にそびえ立ってるんですね。いろんな経験をしてきて、年輪の数も違いすぎますね」

「そういうこと」

僕はオスマン帝国の王族の家具みたいな足のせ台から、すっと立ち上がった。「アドバイスありがとうございました」

ミセス・バジルもソファーから立ち上がった。「どういたしまして。さあ、これからが本番よ。さっそく仕事に取りかからないと、準備することがいっぱいあるんだから。23時間なんて長いようで、あっという間よ、ダッシュ。本棚から本が床に落ちる時間と同じ、一瞬よ」

僕はスマホに目をやった。まだ返信は来ていなかった。

ミセス・バジルが僕の腕に彼女の手を置いた。そっとではあったけれど、進むべき方向を決定してくれるような確かな感触が伝わってきた。

「彼女はきっと来るわ」とミセス・バジルは力強く言った。「彼女もあなたと同じ苗木なのよ。ラストチャンスはこれから何度も、ラスト、ラストって続いていくことにまだ気づいてないの。でもそれが若い時の恋愛の美しいところね。―二人で一緒に立派な大木になりなさい」

「もしこれがうまくいけばね」

「そうね、うまくいけば、ね」


12月21日(日曜日)

僕はストランド書店の前でラングストンと待ち合わせした。ストランド書店は僕とリリーの物語の起源といってもいい場所だった。そればかりか、世界最大の書店で文学作品の宝庫でもあるから、僕のような文学をこよなく愛する者にとって、ワンダーランドだった。これがラストチャンスになるとしたら最初の地点に戻りたかったし、1年前はあらゆる可能性を秘めていたファーストチャンスをもう一度蘇らせたかった。

ラングストンは両手で箱を抱えていた。それを持ち上げるようにして僕に見せながら、彼は言った。「これが必要なんだろ?」

彼の胸中はきっとつらいだろうと察した。その箱の中身は彼にとって、なくなったら心がえぐられるくらい大切なものだと知っていたから。

「マークがちゃんと見張ってるって約束してくれた」と僕は彼に言った。「それが落ちる唯一の場所は、リリーの手の中だからね」

「でもなんでジョーイじゃないとだめなんだ? この男の子の人形は僕が5年生のとき、友達のエリザベスからもらったもので、貴重な思い出の品なんだよ。ジョーイは今ではもう、かけがえのない存在なんだ」

「要するに、リリーがそれを見たとき、それがあなたのものだって気づくことが重要なんです。そうすれば、僕たちみんながこれに関わってるってわかるはずだから」

ラングストンは納得しつつも、ジョーイと離れるのはまだつらいようだった。ヤングアダルト向けの本の売り場にたどり着くまで、彼はジョーイの入った箱をしっかり抱いたまま手放さなかった。ラングストンのいとこであるマークが、しかめっ面で僕たちの方をにらんできた。

「なんで俺がお前たちの手助けをしなきゃなんだよ」とマークは咳と一緒に吐き出すように言った。「でもまあ、せっかくここにいるし、ついでだから手伝ってやるよ。なんも考えずにお気楽に仕事をしていたい俺としては、ちょっとわずらわしいけどな」

とはいえ、ラングストンがジョーイ・マッキンタイアという名の人形を、その人形が元々入っていたケースから引き出すのを見ると、マークも神妙な面持ちになった。

「元気でな」とラングストンがジョーイの耳元でささやいた。それからマークに向けて言った。「ちゃんとリリーに届くようにしてくれ」

僕はバッグから『ベイビー・ビバップ』という本を取り出し、そのカバーを外した。それから、赤いモレスキンのノートにそのカバーを巻き付けた。このノートからすべてが始まった。僕たちはすべてを最初の地点に戻すべきなんだ。

「ジョーイから目を離すんじゃないぞ」とラングストンがマークに再度指示した。

「そんなに愛してるのか、なんだかティンバーレイクの歌みたいだな」とマークはぼやいた。「べつにいいけどさ」

「そして彼女がやって来たらすぐに知らせてくれ」と僕も改めて彼に念を押した。

もし彼女が来ればな」とマークは僕の発言を訂正するように、愉快げに「もし」を強調した。

「もし来れば」と僕は言い直した。

彼女は来てくれないのではないか、そればかりが頭に浮かんでいた。他にも準備しなきゃいけないことが山ほどあるというのに、時間は無情にも刻一刻と過ぎていった。


一旦別れようというメールを送ってから22時間57分後、僕はリリーに新たなメールを送った。

本棚の上のサンタの妖精のことは忘れてくれ。

すべてが始まった場所に行って、そこの本棚の中の新入りを探してほしい。

彼女からの返信を待っている時間はなかった。僕はもう最初のドミノを倒してしまったから、あとはただ、他のドミノがちゃんと連鎖して倒れてくれることを祈るばかりだった。

僕が次に向かったのはブーマーのところだった。彼がおそらく一番あやういドミノだったから。持ち場を放棄してどこかへ行ってしまう傾向が彼にはあるのだ。

オスカーの仲間たち、つまりツリーたちの数は見るからに減っていた。数日前のブーマーは道路脇のツリー置き場を受け持っていたけれど、もうお客さんの数も減ってきたのか、今はツタの絡まる仮設小屋の中にいた。それでも、彼の情熱はまだ衰えていないようだった。

「まだ3日あるから、まだ残ってる全員の家を見つけてあげるんだ!」とブーマーが僕に耳打ちしてきた。まるで彼がツリーのための孤児院を運営しているような口ぶりだ。

僕はバッグから正方形のタッパー容器を取り出すと、蓋を開けて中身をブーマーに見せた。

「おお!」と彼は叫び声を上げた。「香ばしい木くずだ」

僕は一瞬彼の顔を見つめて、本気で言ってるのか探った。

「木くずじゃないかな? 固まったトナカイのふん?」

僕はむせそうになった。

「面白い形だね。なんか、文字が書いてあるみたいに見える!」

「そうだよ」と僕は言った。「文字の形にしたんだ。これが手がかりになるように」

「でも、なんでトナカイのふんで手がかりを書いたんだ?」

「だから、トナカイのふんじゃない!僕が焼いたクッキーだよ」

ブーマーが吹き出すように笑い出した。遠慮したクスクス笑いではなく、ヒッヒッヒという生温い冷笑でもなく、肺から吹き出した笑い声はすぐさま大きくなり、爆笑の渦がブーマーの全身を包み込んだ。

「クッキー!」彼は話せるようになるまで十分呼吸を整えてから、言った。「これが...クッキー?...ボクはこんな不細工なクッキー初めて見た!」

「レープクーヘン・クッキーだよ!」と僕は大声を張り上げた。「少なくとも、レープクーヘン風のクッキーを作ったんだ!本場ドイツのニュルンベルク仕込みだよ!っていうか、マーサ・スチュワートのウェブサイト経由で見たレシピだけど、そのマーサの息がかかった主婦によると、14世紀まで遡る由緒正しき伝統のクッキーなんだ!」

ブーマーは息を落ち着けて、今度はまるで宗教的装飾品の入った箱の中を見るみたいに、そっとタッパーの中を見直した。「おお...なるほど」と彼は厳かに言った。「これは14世紀に作られたのか!」

いや、これ自体は違うよ!」と僕はクッキーを指差した。―とは言ったものの、よく見ると、僕が作ったクッキーはどこかしらゴシック様式の模様っぽいなと、(ブーマーにではなく、自分自身に向かって)つぶやくように認めた。昨夜、僕は急いでこれを作りながら、いくつかの材料をレシピとは違うものにしなければならなかった。(だって、マーサとは違って、クルクル回る椅子を一回転させて手を伸ばせば、ちょうどナツメヤシの実が4つ置いてある、なんて奇跡みたいなことが僕の家のキッチンで起こるはずもなかったから。)というわけで、グルテンフリーの食品をこよなく愛する人が考案したパンみたいに仕上がったのだ。

「ボクは彼女にこれを食べさせるわけにはいかない」とブーマーが言った。「彼女は病気になっちゃうかもしれないし、そうじゃなくても、きっと彼女は怒るよ」

「べつに食べなくてもいいんだよ。読んでくれれば」と僕は言って、クッキーをタッパーの底にきちんと並べ直した。

「wam-bam-thank-you-ma'am!(手っ取り早くやらせてくれてありがとう!)」とブーマーが読み上げた。それから彼は付け加えた。「なんか〈h〉が足りない気がするんだけど、最初の〈wam〉には、〈where〉とか〈what〉みたいに〈h〉が要るんじゃない? そういえば、〈wherewolf〉(人狼)にも〈h〉要るっけ?」 

「クッキーを焦がしちゃって、〈h〉の文字が読み取れなくなっちゃったんだ。それより、君が言う台詞をちゃんと覚えてる?」

「『リリー、clarification(説明)は必要?』」

「違う、―clarafication(クラフィケーション)だよ」

「clarification(クラリフィケーション)?」

「clar-A-fication(クラ『ラ』フィケーション)」

「clar-A-fication(クラ『ラ』フィケーション)」

「そう、ばっちり!それで彼女が必要って言ったら?」

「ボクは『くるみの中のそいつ(股間の玉)をかち割りたい!』って言う」

「違う。『決して割れない固いくるみだ!』だよ」

「『あんたのくるみ(頭)には笑っちまうぜ!』」

『決して割れない固いくるみだ!』だってば」

「『君のくるみは相当固いね!(君は頭悪いね!)』」

「ブーマー、リリーに『君のくるみは相当固いね!』とだけは絶対に言うな。わかったか?」

「じゃあ、紙に書いてよ。そうすれば、ボクはそれを渡せばいいだけだから」

「いいね、そうしよう」

僕が美術道具専門店〈ブリック〉のレシートの裏にそれを書き留めたところで、僕の携帯が鳴った。

あのボーカルグループは終わった、とマークが書いてきた。メンバーの少年たちに栄光あれ。

どういう意味? と僕はすぐさま打ち返した。

ビーバーのことだよ、ボーカルグループのことじゃない、とマークが返した。

ポップミュージックを取り入れた意味深なやり取りだな、と、グループメッセージのやり取りにラングストンが割って入ってきた。ジョーイの方は順調か?

ジョーイはしっかりリリーの相手をしてるよ、とマークが答えた。赤いモレスキンもちゃんと見つけた。

僕はもの凄くほっとしている自分に驚いた。何かが起こり始めている。リリーと僕にとって必要な何かが、今ようやく動き始めたのだ。

「じゃあ、ブーマー、僕はもう行かなきゃ」と僕は言った。

「ああ、そっか、ダッシュ、ごめん。―ここにはトイレはないんだ」

「『もう行かなきゃ』ってもれそうとかそういうんじゃなくて、『他に行かなきゃいけない場所がある』ってことだよ」

「じゃあ、その場所にトイレあるといいね!」

「あるよ」と僕は彼に断言した。「そこにはいくつかある」


リリーの足どりを追う手だては僕にはなかったから、彼女がそこにたどり着いたとき、僕がいなければならないと思う場所に向かった。

ストランド書店からブーマーのいる地点にたどり着くまでに、リリーは三つの手がかりを一つずつ摘み取っていくことになる。

92番通りに行き、10番目と11番目のキャンドルを見ろ。

(92番通りの入り口に、7 本のキャンドルを立てる大きな燭台があるんだけど、その横に僕たちの友人、ダヴとヨーニーの二人が、キャンドルを二本ずつと手がかりを持って立っていてくれる。二人とも型破りな性格なのに正統派のユダヤ教徒なんだよね。)

ブーツの片一方が脱げた場所に舞い戻って...もう片方を探せ。

(ソフィアが人気クラブのオーナーに甘い言葉をささやいて、リリーが店の中に入れるように、まだ昼間のうちから店を開けてもらった。それからミセス・バジルに彼女のブーツの片一方を借りて、1年前、僕がリリーにメッセージを書き残したトイレの個室にそれを置いた。あのメッセージはこうだった。中折れ帽をかぶったかっこいい探偵風の人にノートを渡してね。そして今回、ソフィアが僕の筆跡を真似て、そのメッセージにこう付け足した。『子狐たち』は君に「ここは袋小路ではない」って知ってもらいたがっている。『子どもの時間』はもう終わったのかもしれないけれど、凍ったココアを飲む時間ならまだある。

(幸運の連鎖が起こって、リリーは思わぬ出会いをすることになる。―というのも、アイスの載ったフローズン・ココアを飲めるマンハッタンで唯一の場所は、あそこしかないってニューヨーカーなら誰でも知ってるから。そこのテーブルで、リリーのおじいちゃんが待っていてくれる段取りだ。ソフィアが彼にメールして、「フローズン・ココアを買っておいて」って頼んでくれた。おじいちゃんにはリリーが話したいことはなんでも話に付き合ってあげてって、ただ、赤いノートのことだけは話さないようにって伝えてもらった。それから、お会計の伝票を持ってウェイターがやって来て、裏に次の手がかりが書かれたレシートを渡してくれる手はずだ。―もし一本の木が森の中に落ちてしまったら、その木の安否を確認しに、真っ先に森の中に入って行きそうな人は誰か?

それはブーマーだと気づいてくれるはず。

そしてブーマーが彼女をブルックリンへと導いてくれるだろう。


僕が地下鉄を降りたところで、ブーマーからメッセージが来た。

良い知らせは、彼女が順調に次の目的地に向かったってこと。彼女はclarAficationも必要ないってさ。

僕は悪い知らせが打ち込まれるのを待った。

さらに待った。

たまらず僕はタイプした。悪い知らせは何?

あ、そうそう!悪い知らせは、ボクは彼女に食べちゃだめってきつく警告したんだけど、彼女がクッキーを一つ食べちゃったんだよね。

それ? そんなことについて思い悩んでいる時間はなかった。―べつにクッキーが上手く焼けなくたってどうってことない。何かの技術に秀でているとか、そういうことが僕たちの関係を支えているわけではないのだ。だから僕のパンを焼く腕前がどうしようもなく下手だって彼女にばれてしまっても大して気にはならなかった。それで僕は足を速めて、ブルックリン音楽アカデミー(通称、BAM)に向かった。そこでリリーの到着に備えた。

BAMで現在上映されているのは、『決して割れない固いくるみ』という演劇で、マーク・モリス率いるダンスグループが『くるみ割り人形』を現代風にアレンジした作品である。おなじみの『くるみ割り人形』の物語の舞台を、1970年代の風変わりな郊外の家庭に移している。見どころはたくさんあるけれど、目玉の一つは休日の陽気なパーティーがハチャメチャな乱痴気騒ぎへと変貌するシーンと、もう一つの目玉は、マリー(『くるみ割り人形』でいえばクララ)が、ねずみの王様に対峙して、身を守るものは懐中電灯しかないにもかかわらず、ねずみの王様を上手くやり込めるシーンである。

その舞台は、1970年代の家庭の日常を描いたシチュエーション・コメディーのアニメ版みたいだった。―すべてが実物よりもちょっとだけ大きめに作られていて、舞台上には一本のクリスマスツリーがあり、その下にはいくつものプレゼントが置かれていた。

その中の一つはリリーへのプレゼントだった。

これは今回の計画の中で最も手の込んだ演出だった。運良く、ミセス・バジルがBAMとつながっていたのだ。(「私は長年に渡って芸術界に貢献してきたからね、私が一言声をかければ、芸術家たちはすぐに手を差し伸べてくれるわ」と彼女は説明していた。)マリーを演じるダンサーのローレンが僕を劇場の中に入れてくれた。リリーがここに到着すると、くるみ割り人形の王子を演じるダンサーのデイヴィッドが彼女をステージ上へと招き上げることになっている。それから彼は舞台袖に消え、他の出演者たちも舞台裏で待機する。これは観客を入れない、通常とは違うリハーサルのようなもので、今回に限り、リリーがゲスト出演するというわけだ。

僕は観客のいないオペラハウスの一番高いバルコニー席に座った。ラングストンとソフィアとブーマーとミセス・バジルとダヴとヨーニー、みんなから一斉にメッセージが届いた。みんなそれぞれの場所から、今どんな状況なのかを知りたがっている。僕はざっと状況を説明してから、スマホの電源をオフにした。

かすかに扉の開く音が聞こえた。僕が座っている止まり木のような高い位置からだと、リリーの姿はすぐには見えなかった。―客席の間の通路をステージに向かって歩いてくる彼女の姿がやっと視界に入った。彼女は片手に赤いモレスキンを持ち、もう片方の手でジョーイ・マッキンタイアを抱えていた。ここからだと遠すぎて、彼女の表情までは読み取れない。

ツリーを照らすスポットライトが一つ光っていた。リリーは階段を伝って舞台に上がると、誰かいないかと周りを見回した。ツリーの周りに大きな光の輪を作っていたスポットライトが焦点を狭め、一つのプレゼントを照らし出した。リリーがそちらに向かって歩き出す。こじつけるようにして見れば、リリーがクリスマスの朝に起こされたばかりのクララに見えるかもしれない。よく考えれば彼女はもうすぐ大人になる年齢なので、クララとは違うかもしれないけれど、彼女の動作の節々に見て取れる、ライトに照らされた驚きの表情はクララと同じだった。それっていくら年を取っても、無くさなくてもいいものだから。

僕はプレゼントが入った箱をレープクーヘン・クッキーのレシピが書かれた紙で包んでおいた。そしてその包みを開けると、中にはまた箱が入っていて、その箱を『ベイビー・ビバップ』の中で僕が気に入った表現を書き留めた紙で包んだ。それから、その中にはまた箱があって、今度は〈FAOシュワルツ〉でおもちゃを買った時に取っておいた包装紙でくるんだ。その中にはさらに小さな箱があって、それは映画『コーギーとベス』の新聞広告でくるんだ。そして最後の一番小さな箱の蓋に、僕が手書きで彼女の名前を書いておいたのだ。

彼女がその箱を開けた。そして中の封筒を取り出し、ギフトカードを引く抜く。カードを開く。僕が書いたという印に僕のサインを入れた二語のメッセージを彼女が読んだ。すると、ギフトカードがするりと落ちて、彼女が視線を下に向ける。そのカードは元々どこにあったのかを確かめるように、視線で軌跡をたどった。

笑顔だ。

それから彼女はまるで、僕が彼女の笑顔を見ようとここに座っていることを最初から知っていたかのように、こちらを見上げた。確実に見つかると思った。見つかるのが悪いことなのかどうか考えあぐねている間にも、彼女の視線がバルコニー席のひさしの部分へと上昇してくる。その時、いくつもの照明が一斉に点灯し、ステージ上が光で満ち溢れた。チャイコフスキーの『くるみ割り人形』が流れ出す。リリーが慌てふためいた表情で後ずさり、ツリーにしがみつく。

雪の妖精たちが踊り始めた。

これはこのバレエの中で、僕のお気に入りのシーンだった。そしてリリーのお気に入りのシーンだということも知っていた。ダンサーたちが、見ているこちらも目が回りそうになるくらいクルクルと回転している。空中に舞う雪の動きを表現しているのだ。それから音楽も雪の妖精たちと一緒になって、うねるように音量を上げ...両腕を大きく広げたかのごとく、跳ねた...そこで雪が降ってきた。指の爪ほどの紙でできた無数の雪が、空中を舞いながら落ち、舞台上に降り積もる。

この雪が合図となって、僕はここを後にする予定だった。パズルの最後のピースをはめるために、先回りしておく必要があった。しかし僕はどうしても立ち上がったまま、動けなかった。リリーがどんな表情をしているのか、しっかりと確認せずにはいられなかった。―兄のかけがえのない人形を抱え、おじいちゃんと一緒に飲んだココアでお腹を満たし、友達や家族みんなに、ここまで導かれてきたリリーの顔を。もしこれで彼女をハッピーにできないようなら、おそらくもう二度と僕には不可能だろう。もしこれでも彼女を、彼女が沈んでしまった暗い場所から、色がひしめく明るい世界に引き戻すことができなければ、たぶんもう手遅れだということだ。

でも僕は間に合ったみたいだ。一番高いバルコニー席からでさえ、それがわかった。

煙突から忍び込んだサンタのように、僕はつま先を立てるような足どりでそっと劇場の外に出た。そしてスマホの電源をオンにして、グループメッセージにこう書き込んだ。

人生って素晴らしい。


僕はこの計画の最後の部分が最も難しいチャレンジになるだろうと予想はしていた。ただ、事前の見立てとはかなり違う様相で、事は進んだ。

僕はサンタが面倒な問題になるだろうと思っていたんだけど、蓋を開けてみると、あの妖精がやっかいだったのだ。

僕はメイシーズ・デパートの試着室で、リリーの大叔父さん、つまり、あの気色悪いサルおじさんと待ち合わせした。僕は普段外出する時に着るいつもの服装で、彼はサンタのコスチュームを着ていた。

「さっさと済ませてしまおう」と彼が言った。「君はあそこに出て行って、リリーとやるべきことをやって、そしたらすぐにここに戻って来るんだ、いいかい?」

「わかってます」と僕は彼に言いながら、自分でサンタの衣装を借りてくればよかったな、と悔やんだ。(昨夜僕は三ヶ所に電話をかけたんだけど、どこも品切れだったのだ。)「僕は隣の試着室で待ち構えているので、カーテン越しにその衣装を投げてください」

「ダメ、ダメ」と彼は言うと、肩や腰を揺らしながらサンタの上着を脱ぎ始めた。「ここでいいじゃないか、今すぐここで」

試着室は二人が一斉に着替えるには狭すぎて、僕はサンタのどぎつい汗の臭いにむせ返りそうになった。

僕は1年前このサンタとひと悶着あったので、彼がサンタの上着の下に何も着ていないことを知っていた。とはいえ、知っているのと実際にこの目で見るのとでは大違いである。リリーが彼に託した封筒を手に入れるために、サンタの大きくて毛深いお腹に触らなければならなかったあの感触と、丸々と太った実物のお腹を目の当たりにするのとでは、共通項が何もないと思えるくらい隔たりがあった。それは肌の色をした海から突如として姿を現した、毛むくじゃらのクジラのようだった。そればかりか、そこにはタトゥーが見えた。「その通り、ヴァージニア」と書かれている。ただ、その後に続いているはずの「ちゃんとサンタはいる」の部分は、お腹の肉が折りたたまれて見えなかった。

僕はサンタのコスチュームを受け取ると、頭にそれをかぶせるように着た。自分の目を覆ってしまいたかったというのもある。その衣装は僕にはかなり大きかったけれど、それで良かった。―僕が求めているのは正確さではなく、単にそれらしさだったから。頭からかぶった上着をしっかりと着てから、顔を上げると、サンタが赤いズボンを脱いでいた。赤と白のキャンディー柄のボクサーパンツが露わになっている。

サンタが僕の視線に気づいて、小声で聞いてきた。「こういうのが好きなのか?」

僕は彼の手からズボンをもぎ取って、急いでそれを穿こうとした。けれど急げば急ぐほど気持ちは焦り、僕の視線はキョロキョロとあちこちを泳ぎ、片足をズボンに入れて、もう片一方も入れようとしたとき、ぐらっとバランスを崩してしまった...僕はつんのめるように倒れ込み、気づくとサンタの胸の上に覆いかぶさっていた。

「ほっほっほー!」と彼が高らかに喜びの声を上げた。

「違う、違う、違うよ!」と僕は叫び返した。

僕はズボンを引っ張り上げて、上体を起こそうとしたけれど、なかなかすんなりとはいかなかった。僕が前かがみになって、スニーカーに引っかかったズボンの裾に手を伸ばそうとしたちょうどその時、試着室の扉がさっと開いたかと思うと、妖精が叫んだ。「いったい何をやってる? ここをどこだと思ってるんだ!?」

妖精ではなく、―妖精の格好をした従業員だった。

そしてただの従業員ではなく、サンタの右腕ともいえるあの男だった。

1年前僕たちは乱闘寸前のもみ合いになったのだ。こいつとまたここで対峙することになるとは。

「暴行だ!」と彼が叫んだ。「試着室4で暴行事件発生だ!」

「デズモンド」とサンタが言った。「落ち着きなさい」

「こいつがサンタの衣装を奪おうとしてるじゃないですか!」

「彼に貸しただけだ」

「そんなことは許されてません!」

僕はズボンをしっかりと穿き、上着のポケットに手を入れた。約束通り、中には付けひげが入っていた。

僕がサンタの帽子をつかもうとしたとき、その妖精が試着室の中に踏み込んできて、身をていして僕の邪魔をした。

「サンタ!」と彼がとがめるように鋭く言った。

「行け」とサンタが言った。

それは僕に向かって放たれた言葉だと一瞬で理解した。

「そりの下に予備の帽子がある」とサンタが付け加えた。

僕は瞬時に体の向きを変え、試着室を出ようとしたが、そのためには妖精のブロックをかいくぐらなければならなかった。

「こんな不正は許さない!」と彼が大声を上げた。「警備員!セキュリティー!」

リリーがもうすぐここに着いてしまう。僕は彼を押しのけてでも行かなければならない。僕は覚悟を決めた。―僕が妖精に向かって体当たりしようとしたその時、サンタが上半身裸のまま、両腕を伸ばし、妖精の肩をつかむと、彼を自身に引き寄せ、キスをした。

目の前に道が開け、僕は猛然と走り出した。

試着用の大きな鏡の前を通り過ぎるとき、僕は付けひげを装着した。僕にはかなり大きかったけれど、これで事足りるだろう。

「サンタ、あんたって人はいっつも!」試着室4の中からデズモンドの叫び声が聞こえてきたけれど、僕は僕の向かうべき場所へと急いだ。


ベニーがこの階のサンタ村で僕を待っていた。彼は今日のミッションの中で一番危険で、リスクを伴う役割を担うことになっている。これから10分間、彼はメイシーズにインターンとして雇われている従業員のふりをして、子供連れの親たちに、「只今こちらのサンタはトイレ休憩に入っておりますので、もし今すぐサンタに会いたいようでしたら、2階のサンタ村へ回ってください」と言うことになっている。彼はメイシーズのバッジさえ付けていなかったから、それらしいクリップボードを手に持ち、あとは彼の真剣な表情だけが命綱となる危険極まりない任務だった。(「クリップボードを手に持って、何かをチェックしてるふりをすれば、不思議と人々は何も言い返してこないものなんだよ」と彼は断言していた。「サンタの正体はアデルだって言われてるけど、君もアデルみたいにサンタの中の人になりなさい。お客さんたちは食い止めておくから」)

サルおじさんのサンタ・ステーションは〈そり〉をぐるっと回り込んだ裏手にあった。〈そり〉の下に手を伸ばしてみると、予備のサンタの衣装が、なんと一式揃っていた。僕はその中から帽子だけをつかんだ。そこには鏡がなかったので、僕はスマホを鏡代わりにして自分の姿を写し、身だしなみを整えた。そうしてスマホに注目していたら、声をかけられるまで僕の前に少年が立っていることに気づかなかった。「サンタさん、なんで自撮りしてるの?」

「わたしは坊やが来てくれるのを待っていたんだよ」と僕は言った。そう言いながら頭では、なんでこの少年はベニーの包囲網を突破できたんだ?と思っていた。

(答え:子供にクリップボードの魔術は通用しないから。)

何の躊躇もなく、その少年は僕の膝の上に乗っかってきて、僕の太ももの上に座った。

いいだろう、と僕は思った。やってやろうじゃないか。

「坊やの名前はなんていうのかな?」と僕は聞いた。

「マックス」

「坊やは今年いい子にしてたかな? それとも悪い子だったかな?」

彼は頭の中で計算している様子だった。つまり、どちらを答えればプレゼントにありつけるかを算段している表情だった。

「いい子」と彼がきっぱりと宣言した。

「よし。わたしはそれを聞けて満足じゃ。それでは楽しいクリスマスを過ごしなさい。メリークリスマス!」

しかし、マックスは僕の膝の上から全く降りようとしなかった。

「ぼくのクラスのタナーがね、あなたは本当はいないんだって言ってたよ」と彼が言った。

「わたしはちゃんとここにいるじゃないか」と僕は指摘した。でもなんだかしっくりこなかった。もし嘘を言っているとしたら、ごまかしやセールストークと同じだ。マックスに対して口から出まかせを言っている気分だった。

「いいかい、マックス」と僕は言った。「ちゃんと聞いて、―これだけは覚えておいてほしいんだ、―わたしが実際に北極に住んでいるのかどうかは重要なことじゃない。毎年クリスマスイブに君にプレゼントをあげているのはわたしなのかどうかも重要じゃない。そりゃ、タナーみたいな人は、わたしが架空の存在だって言うし、君がもっと大人に近づいたら、タナーみたいな人は、他のいろんなことが嘘っぱちだって言い出すよ。でもね、そんな時に使える魔法の言葉を教えてあげる。だから何? 彼らにそう言い返すだけでいいんだ。いいかい、夜寝る前にその日一日を振り返ってみて、今日のストーリーが本当だったかどうかはどうでもよくて、重要なのはどれだけそのストーリーに気持ちを注ぎ込んだかってこと。それを愛情っていうんだ。もし何かが架空の存在だとしたら、架空だとしても存在してるってことは、誰かがたっぷり時間をかけてそのストーリーを築き上げたんだよ。君がそのストーリーの中を生きていけるようにね。そういうストーリーを作り上げるのって、すごく大変な仕事なんだ。もちろん、そのストーリーが本当じゃないって気づく時が来るわけだけど、でもね、その背後にある、作った人の意図を考えてみてほしい。その気持ちは正真正銘の真実なんだ。その後ろには、たっぷりと愛情が溢れているんだよ。本物の愛情がね」

マックスの目は少しきょとんとしていた。僕が話し終えると、彼は目をぱちくりさせて聞いてきた。「じゃあ、プレゼントはどうなるの?」

「もらえるよ。君を愛してる人からちゃんともらえる。トナカイに乗ったどこかの気まぐれな男が、袋の中から適当に引っ張り出したプレゼントをもらうより、君のことをちゃんと考えてくれる人からもらった方がずっといいよ」

マックスはそれを聞いて満足そうだった。

ふと彼の背後に目をやると、女の子が立っていた。

もうリリーがここまでやって来ていたことに気づかなかった。それほどマックスとの会話に夢中だったのだ。

「あ、やあ」と僕は言った。

彼女の手にはジョーイも赤いモレスキンのノートも、メイシーズの12.21ドル(12月21日を記念した金額)のギフトカードも見当たらなかった。彼女が唯一手に持っていたのは一枚のカードで、そこに僕は彼女に向けて二語のメッセージを書いたのだ。

Happy Anniversary(僕たちの記念日を祝おう)と。

「さあ、行って」と僕はマックスに耳打ちした。彼はそれを合図にベニーが立っている方へと駆け出した。ベニーが彼を両親の元へ連れていってくれるだろう。

「こんにちは」と彼女が言った。

「こんにちは」と僕も言った。

「サンタの格好をしてるのね」と彼女は僕の衣装に目をやりながら言った。

「君を過去の人にするなんて、無理だよ」

「私のため?」

「もし君と出会っていなければ、まあ確実に、こんなところでこんな格好をすることもなかっただろうね」

リリーがスマホを取り出して、いたずらっぽく笑った。「ごめんね、どうしてもこれは」

彼女は僕にスマホを向けて写真を撮った。でも僕の方こそ、写真を撮りたい気分だった。―サンタの衣装を着た自分の写真を、ではなくて、サンタの衣装を着た僕を見つめる彼女を撮りたかったのだ。彼女はまるで僕が本物のサンタであるかのような、そう信じてる人みたいなキラキラした表情をしていたから。

「ハッピーアニバーサリー」と僕は、彼女が手に持っているカードに書いた二語のメッセージを直接伝えた。

「ハッピーアニバーサリー」

「さあ、おいで、お嬢さん。また次の子供がベニーの包囲網をかいくぐって来ちゃうかもしれないから、急がないと」

「私はあなたの膝の上に座るつもりはないわ」とリリーが言った。

僕はそりの形をしたベンチをパンパンと軽く叩いた。「ここが君のために用意した特等席だよ」

彼女はバッグを下に置くと、僕の隣に腰を下ろした。彼女はまだ少し息が切れているようだった。ここにたどり着くまでに走り回ったのだろう。

「それじゃあ」と僕は言った。「君の一年を教えてくれるかな」

それに反応して、彼女が泣き出してしまった。

これは予想外だったけれど、とても自然なことのようにも思えた。彼女の内側にずっと溜まっていた涙なのだろう。今日まで涙がこぼれるのをずっと我慢していたのかもしれない。僕は今サンタの格好をしていることに感謝した。おかげで自然と彼女を引き寄せることができたから。僕は彼女をゆったりとしたサンタの衣装で包むように抱きしめた。

「大丈夫だよ」と僕は彼女に言った。

彼女は首を横に振った。「ううん、大丈夫じゃないの」

僕は彼女のあごに手を添えると、僕の目を見るように彼女の顔の向きを変えた。ひげ越しに彼女の瞳が、僕の目の中をのぞき込んできた。

「いや、僕が言ってるのは、大丈夫じゃなくても大丈夫だってこと」

「ああ、そうね」

ひとりぼっちで空を飛び回ってるサンタって、なんて馬鹿なんだろうと思った。だって、こうして隣にいる誰かの鼓動を感じることもなく、彼は世界中を旅して回りたいってことでしょ?

「僕たちはちゃんと面と向かって話す必要がある」と僕は言った。「僕たちは常に外を走り回っていて、ずっとお互いを追いかけてる感じだけど、二人とも心のどこかでは帰るべき場所を知っているんだ。僕たちにとっての北極、みたいなものかな。たとえ実際には存在していなくても、僕たちが、それは存在してるって二人でその思いを共有すれば、ちゃんとそこにたどり着ける、そういう場所だよ。僕は君を愛してる。君が取り乱してるのを見ると、僕は気が変になるくらいつらいんだ。だからどうにかしたいけど、僕には無理だってこともわかってる。それでも僕はなんとか君の周りの世界を書き換えたい。そうすれば君自身がそれを修正していけるから。僕はストーリーを考え出したいんだ。その世界にいる人みんなが祝いたくなるようなストーリーをね。そうすれば、僕たちの周りの大好きな人たちは、誰も気を病むことがなくなる。僕たちの大好きなみんなは、ずっと悲しまなくていいんだ。アイスの載ったホットココアだって無限に出てくるよ。まあ、たぶん僕の力量だと、世界中の人々にサンタクロースを信じさせることは無理だろうね。でも、みんなに信じてもらえそうなことが一つだけある。僕たちって人生が魔法がかったものだって思い込みたがるからね。そうすると、その道すじで混乱してる様子の美女に出くわすことになる。つまりね、じっくり考えた結果、僕は一つの結論にたどり着いたんだ。現実っていうのは、とんでもなく退屈になりかねない。元々がそういうものなんだよ。放っておけば限りなくつまらないものになる。でもそれを回避する方法もあって、それはね、時々現実から抜け出して、完全に心を許せる誰かと、何のためらいもなく一緒に楽しめる人と過ごすことだ。そうすれば普段よりちょっとだけ人生が楽しくなる。僕の人生では、それが君なんだよ。君にちゃんとわかってもらうにはサンタの衣装を着る必要があったのかもしれない。それなら、サンタの格好くらいいくらでもするよ」

「でも、もし全部がただの絵空事だったとしたら? ただそういうふりをしてるだけとか」とリリーが聞いてきた。

「たぶんだけど、何かのふりをすると、本当の自分が何者なのかがよりよくわかると思うんだ。今の僕はサンタになりたい気分だよ。もっと言えば、サイコホラーの映画に出てくるサンタのふりをしたい。君の心理を追うためにね」

「サイコホラー?」

ちょうどその話に移ったタイミングで、僕たちのいるサンタ村の外で騒動が巻き起こった。あの妖精の大声がはっきりと聞こえてきたのだ。「店内に侵入者がいるぞ!」

僕はリリーを見据えて言った。「僕がさっき言ったこと覚えてる? っていっても色々言ったね。ストーリーを作るんだとか、君を愛してるとか、サンタの格好をすると君をハッピーにできるとか。全部本当の気持ちだけど、その前に僕はこうも言ったよね? 僕たちはそんなに走り回って追いかけっこをするべきじゃないって。でもそれについては訂正するよ。今こそ、追いかけっこにうってつけの時だ」

「このそりに乗って?」

「残念だけど、このそりは床にボルトで固定されてるよ。足を使ってここから脱出するしかないかもしれない。できそう?」

リリーは勢い良く立ち上がると、目の下の涙を拭い、そりのベンチから飛び降りた。「できるわ」

僕たちは非常口を見つけて、そこを通った。それから男性用トイレを見つけ、僕はサンタの衣装を脱ぎ捨てることにした。―サンタコンからの帰り道で、路頭に迷って家にたどり着けなくなり、家に通ずる橋とかトンネルとかを探し求めて、ふらふらとさまよい歩いてる人だと思われたくなかったのだ。サルおじさんの衣装を個室のドアの上に投げかけてから、それを写真に撮って、メールで彼に衣装の在りかを知らせた。

男性用トイレから飛び出すと、リリーが立っていて、赤いモレスキンのノートに何かを書き留めていた。彼女は顔を上げて僕を見ると、ノートを閉じた。

「行きますか?」と僕は聞いた。

「どこへ?」

「〈フィルム・フォーラム〉で7時から上映される『It's a Wonderful Life?』を観るっていうのはどうかな? 僕のカバンにはクッキーも入ってるし」

それを聞いて彼女が顔に浮かべた表情は、傑作だった。優しいリリーは考え込んでしまったのだ。僕が作った不味いクッキーを食べたくないって、どう僕に打ち明ければいいのかと。

「ルヴァンのクッキーだよ」と僕は付け加えた。「なんでそんな計算になるのか詳しくは知らないんだけど、ルヴァンのクッキーって、90パーセントが砂糖で、90パーセントがバター、それからたぶん6パーセントが小麦粉でできてるみたいだよ。言い換えると、僕たちは若いうちに、計算をはみ出るくらいの栄養を若い体が全部吸収できるうちに、できるだけたくさんルヴァンのクッキーを食べておくべきってことだね」

僕たちはヘラルド・スクエアに通ずる扉の前までたどり着いた。扉の向こうでは現実世界の34番通りが手招きしている。

「覚えておいて」と僕は彼女に言った。「すべては僕たちの意のままなんだ。僕たちがストーリーにこう進んでほしいって望む方向へ、僕たちのストーリーは思い通りに進んで行く。クリスマスだからね、現実世界の時間は止まってるんだよ。もし現実に戻りたければ、ちゃんと1月には戻れるから。今は、―この街全体が、僕たち二人で作り上げる不思議の国なんだ」

僕たちは扉の外へ飛び出して先を急ぐつもりだった。―しかしリリーがその場に立ち尽くしたまま動こうとしなかった。買い物客が次々と僕たちを押しのけるように通り過ぎて行く。

「ダッシュ?」と彼女が言った。「さっきあなたが言ったこと、本心? 二回も言ってたけど」

「ほんとに?」と僕は聞き返した。「『何のためらいもなく楽しめる』って二回も言っちゃった? 一回だったと思うけど」

彼女の表情が曇った。「私が言ってるのはそれじゃない」

僕は彼女の目をまっすぐに見つめた。

「しょうがないな、君が望むなら何度でも言ってあげるよ。せっかくだから、通行人のみなさんにも知ってもらおう」僕は、僕たちを押しのけるように行き交う人たちに向けて演説するように、声を張った。「みなさん、僕はリリーを愛しています。そこのご主人もご婦人も聞いてください。僕はこのリリーを愛しちゃったんです。リリーを愛してるんです。―リリー、愛してるよ。―リリー、大好きだ!僕はサンタの格好をした、リリーにくびったけのお馬鹿さんなんです!リリーを愛することが罪だとしたら、告発通り有罪にしてもらっても構わない!続けてもいい?」

リリーがうなずいた。

「みなさんがクリスマスを好きな気持ち以上に、僕はリリーが大好きなんです!ここメイシーズの社長さんは、みなさんがクリスマスの買い物をして落としていってくれるお金が大好きなんでしょうけど、僕はそれ以上にリリーが大好きなんです!好きすぎて、もうこの気持ちをそこのウインドーに飾ってもらいたいくらいです!リリーへの僕の愛は、先進諸国のGNPの合計よりも上を行くんです!僕はそれくらい―」

リリーが僕の腕に手を置いた。「もういいわ。やめて」

「僕たちは今、ちゃんと同じページにいるかな?」

「そうね、ちゃんといるわ」

「ここにはヤドリギのクリスマス飾りは見当たらないけど、というか、こんなにも人で溢れかえったデパートの入口のど真ん中なんだけど、ここでキスしてもいいかな?」

「うん」

そうして僕たちはその場で唇を重ねた。巨大なデパートメントストアの出入口の真ん中でいちゃつく、完全に厄介な10代のカップルってやつだ。でも不思議なことに、通り過ぎる人々に怪訝な目で見られても、くたばれ的な言葉を投げかけられても、ちっとも気にならなかった。

「ハッピーアニバーサリー」と僕は、唇を離して言った。

「ハッピーアニバーサリー」と彼女は言って、唇をつけてきた。

それから、僕たちは手をつないで、夜のとばりの中へと歩いていった。

クリスマスまでまだ4日も残っている。この4日間を僕たちの望むストーリーでいっぱいにしよう。



10

リリー

ペストリーバッグからほとばしる


12月22日(月曜日)

クリスマスなんかどうでもよくなっちゃった。だって私はもう欲しいものを手に入れたから。つまりダッシュをね。

朝の日差しのほのかな光が私の顔に降り注いでいた。でも目を開ける前に、私は私の胸の上で息づく彼の呼吸の波を味わうように感じていた。重力が彼の温かい体を私の体に押しつけてくる。

昨日は間違いなく、『スターウォーズ』シリーズの公開初日を除けば、私の人生で最高の日になった。ダッシュと私はお互いに愛を誓い合ったんですもの。昨夜ダッシュは私を家まで送ってくれて、そのまま私の家の暖炉のそばで二人寄り添いながら、私たちの子供みたいな美しいツリー、オスカーを眺めていた。私は彼をどれほど愛しているかを、とうとうと語った。「私はあなたのマイナー志向の本の趣味やムーディーな音楽の好みや、あのひどいクッキーさえも愛してるわ。あなたの優しさが大好きよ。クリスマスを好きになってくれて、余計にあなたのことが好きになったわ。あんなにクリスマス嫌いだったあなたが、私のために好みを変えてくれたんですもの」私は長い間ずっと胸の内に溜め込んできたものを、すべて語り尽くす必要があった。「私があなたを愛してるって、いつ気づいたの?」と私はダッシュに聞いた。

彼は言った。「はっきりとした瞬間とか区切りはないよ。そんながっかりした顔しないでほしいな。だんだんと気づいていったんだよ。君が僕の人生の中にいてくれることで、人生がすごく優しさに満ちて、輝き出したんだ。ソフィアが言ってたよ、僕が前より明るくなったって。君と知り合ってからの僕は幸せそうだってさ」

私はもうソフィアに嫉妬なんかしていなかった。少なくともダッシュのことでは、嫉妬心は湧かなかった。でもまだ、彼女のヨーロッパっぽい優雅さとか、アメリカ人とは違って、糖分の多い食べ物にそれほど依存していないところとかには、羨ましさはあったけれど。「ブーマーとソフィアにはもう話してあるの? あなたが私を愛してるってこと」

「そんなの言う必要なかったよ。明らかにみんな前から知ってたからね」

「私たちの記念日なのよね!あなたのそういうところが好きよ!記念日に愛の告白をしてくれるなんて!」

「君はもしかして、覚えてなかったの?」

「すっかり忘れてたわ」と私は白状した。12月に入ってからの私は過密スケジュールに追われて、つまり毎年クリスマスシーズンに立て続けにやってくる恒例行事にすっかり心を奪われていて、私自身の恋愛の記念日が、この時期に連続する重要なイベントの中に含まれているなんて思いもしなかった。「ねぇ、ニコラス・スパークスの本の中で、私たちみたいなカップルに一番ぴったりなのはどの本だと思う? やっぱり『The Notebook(きみに読む物語)』よね!」

ダッシュの夢を浮かべたような青い瞳が、一瞬で凍り付いたように灰色を帯びた。「冗談でもその作家の名前は出さないでくれ」

私は冗談で言ったつもりじゃなかったのにな。

私は聞いた。「もしかして私、喋りすぎて二人きりの時間を台無しにしてる?」

「うん。きっと無言でも会話できるよ」

それから私たちは言葉を交わすことなく、いっぱいいっぱいキスを交わした。いつの間にか私たちはリビングルームの床の上で眠り込んでいた。―洋服を着たまま、すっかり疲れ果てて。

そして今、目覚めるとお互いの匂いを楽しめるくらい体が密着している。よだれが私の腕に滴り落ちて、私は目をパチクリさせてしまった。現実の方が悪夢だわ!私が二つのスプーンみたいに重なり合っていたのは、ダッシュではなく、ボリスだった。目覚めてがっかり、私ってお馬鹿さんね。でも私は二年連続で幸運に恵まれたんだわ。今年、そして去年も、私は欲しいものを手に入れることができた。ダッシュと、一匹の犬。私の赤いモレスキンがもたらしてくれたのね。


ダッシュはボリスの向こう側で、半分目を開けて横になっていた。ダッシュも今まさにクリスマスに欲しかったものを手に入れた、といった様子だった。彼のママは毎年恒例の休暇旅行に出かけていて、彼女はダッシュにパパの家に泊まるようにきつく言ったりはしなかったみたいで、ダッシュも両親に寝泊まりする場所のことで噓をつく必要はなかった。彼が最も欲しいもの、それは彼自身の居場所なのだ。そのうち、それも叶うでしょう。でもとりあえず今のところ、彼のすべては私のものなのよ。

私の胸はまだ張り裂けんばかりに高揚感でいっぱいだった。私はこの男の子を愛してる!彼も私を愛し返してくれる!彼は私にクッキーを焼いてくれた!ちょっと食べちゃったけど、具合が悪くなったりしてない!

彼の愛情を勝ち取るには、まだライバルがいるらしいとわかった。しかもかなりの強敵みたいだ。ダッシュの視線の先を追うと、オスカーの隣の本棚に行き当たった。彼は物欲しそうに、本棚に並ぶ背表紙をじっと見つめている。「おはよう」と言う代わりに、私は彼に聞いた。「どうしてそんなに本が好きなの?」べつに意地悪な質問をしたわけじゃなくて、私は本に嫉妬していたの。いろんな色の硬い背表紙が一つにまとめている...ページの間に、彼が夢中になるくらいの驚くべき不思議が挟まっているんだと思うと、私は純粋に興味があった。

ダッシュは言った。「僕が赤ん坊の頃から、ママが少なくとも週に一度は僕を図書館に連れて行ってくれたんだよ。そこの図書館員たちは、僕にとってメリー・ポピンズみたいだったな。いつも僕の気分に合う本を見つけてくれて、その時の僕がどんなことに悩んでいても、ぴったりの本を手渡してくれた。だから僕は新しい本を開くたびに、本の中に安息の場所を見つけられたんだ」

「現実逃避?」

「逃避といえば確かにそうだけど、逃げ出すというよりも、入って行くという感覚が強かったな。本の中の場所へ、そこがどこであれ、僕は冒険の旅をしていたんだ。知識や知恵が溢れた、あらゆる可能性を秘めた、魔法の世界をね」

私は愛しのダッシュが、ひねくれてる彼が、そんなストレートに内面をさらけ出して、神の教えに背くようなことを言ったから、自分の耳を疑ってしまった。私は床から上半身だけ起こすと、仰向けに寝そべっている彼の、輝きを放つ顔を見下ろした。(そしてダッシュの隣では、ボリスのくしゃっとつぶれた顔も同じように輝きを放っていて、私ってなんて幸運な女の子なんだろうと思った!)「あなた、魔法を信じるの?」と私はダッシュに聞いた。この二つの並んだ顔は、私のボーイフレンドと私の犬は、私の魔法がもたらしてくれたんだ。

「信じるよ」とダッシュは言った。それから彼は重々しく付け加えた。「僕が言ったこと、絶対誰にも言わないでくれ」

「聞いちゃったー!」とラングストンが高らかに声を上げた。彼はちょうどリビングルームを通って、キッチンへ向かうところだったのだ。彼は歌うようにメロディーに乗せて言った。「ダッシュは魔法を信じてる~。愛ってやつだな~!」

ベニーも私の兄に続いて、リビングルームに入ってきた。ダッシュと私が二人並んで床の上に寝そべっているのを見て、ベニーはラングストンのお尻に自分の腰を近づけ、くねくね腰を回しておどけて見せた。そして私に向かって、ベニーは言った。「ボーイフレンドと朝まで寝泊まり? マミーとパピーがまだコネチカットから帰ってきてなくてラッキー!ってことね」彼はダッシュに目をやってから、ラングストンに視線を戻すと、聞いた。「今すぐダッシュをボコボコにしちゃう? それとも後にする?」

「もうすっかりダッシュとは仲がいいんだよ」とラングストンはため息交じりに言った。

ノナエース!」とベニーが声を上げた。たぶんプエルトリコ語で、「そんなのあり得ない!」みたいな意味だと思う。

「愛ってやつかも」とラングストンがせせら笑いを浮かべて言った。

それに対してベニーが、「ふざけたこと言わないで!クリスマスプレゼントを渡すのはまだ早いでしょ?」と返した。

ラングストンは肩をすくめると、ダッシュの方を向いて言った。「君は僕たちに感謝しなきゃだな。君のガールフレンドの両親が帰ってきてからじゃなくて、今この場でプレゼントを渡すんだから。うちの両親の前でこの箱を開けたら、大変だぞ」

ダッシュは何も言わずに黙っていた。

「まったく恩知らずなやつだな」とラングストンは言った。

ベニーはクリスマスプレゼントが山積みされているところまで行くと、一つの箱を取り上げた。それはストランド書店のカラフルな包装紙に包まれたギフトボックスだった。彼はそれをダッシュにポイッと軽く投げる感じで手渡した。ダッシュが包み紙を開ける。それはどうやら、本がまとまって入ったボックスセットみたいだ。それでどうしてダッシュの顔がそんなに赤くなったのか、私にはわからなかった。彼が私にもはっきり見えるように、そのボックスセットを上に掲げた。それはD. H. ローレンスの全集だった。

フェリッツ・ナヴィダード!(メリークリスマス!)」とベニーが声を上げた。

私はD. H. ローレンスについてよく知らなかったから、なぜ私のボーイフレンドがそれを見て戸惑うくらい赤面してるのか、まだ理解できずにいた。(その後すぐにグーグルで検索したから、わかったけど。)「セクシーであれ、文学青年、ちゃんと避妊はしろよ、ダッシュ!」とラングストンが笑いながら言った。

「ニュージャージーのホーボーケンに引っ越しちゃう人に言われてもね」ダッシュが上手く切り返した。「セクシー、避妊、ホーボーケン。さて、この中で仲間外れの言葉はどれでしょう?」

ホーボーケン?」と私は叫んだ。聞いていられずに口をついて出た本能的な反応だった。ボリスが私の横で寝ていることを考慮に入れる間もなかった。私の大声に、ボリスがびっくりして飛び起き、この部屋の中で一番馴染みのないベニーに殴りかかるように飛びかかって、そのまま彼を床に押し倒してしまった。

「僕たちが引っ越す新しいアパートメントの場所、そういえば言ってなかったっけ?」とラングストンが私に聞いてきた。

「絶対わざと言わなかったのね」と私は彼を非難した。でも私にも同様に非があるわね。ラングストンに引っ越しちゃうって言われて、それで私は気が動転しちゃって、どこへ引っ越すのか聞くのを忘れてたわ。

ラングストンは言った。「マンハッタンとブルックリンは住むには家賃があまりにも高すぎるし、クイーンズ地区とブロンクス地区はダウンタウンからちょっと遠すぎるし」

ホーラ!(ちょっと!)」とベニーが声を上げた。「アユダメ!(助けて!)

「こっちに来なさい」と私がボリスに命じると、ボリスは羽交い締めにしていたベニーをようやく解放した。

「朝ご飯」とダッシュが言った。

「僕が軽く作ってやるよ」とラングストンが言った。「君の分もな」

「遠慮しておきます」とダッシュが答えて、私の手を取った。「僕たちはこれからミセス・バジルの家でモーニングデートをします。クリスマスの夜にミセス・バジルの家でやるパーティーのことで、色々話し合って計画を立てたいんですよ」ダッシュの表情には明らかに興奮の色が浮かんでいた。かつてはあんなにクリスマスを毛嫌いしていた人が、裏と表で全く色合いの違う葉っぱをひっくり返したみたいに、葉っぱじゃなくて、ヒイラギの木が新しく芽を出したみたいに、天からのギフトみたいに!あるいは、本の世界からヤドリギの魔法が飛び出してきたみたいに、変わった。ダッシュが私の手を引っ張り上げて、彼の顔の前まで持っていった。そして私の手のひらにそっとキスをした。もし彼がそう念じれば、きっと私の手のひらに落ちたキスは、キラキラと周りに飛び散って、砕け散ったキャンディーみたいに弾けるのだろう。

ダッシュは魔法を信じ、ダッシュはクリスマスが大好きで、ダッシュは私を愛してる!

私って実際すごく単純だから、胸いっぱいに溢れる愛と、朝食の約束ばかりに心を奪われていて、私の兄が人里離れたさびれた町、ホーボーケンに引っ越しちゃうことはもうどうでもよくなっていた。何はともあれ、ラングストンはもうすぐ行っちゃうのだから、私がとやかく気にしたって仕方ないのだ。それよりも私が本当に気がかりなのは、私がボーイフレンドと仲良くしてるのって、私の本当に大切な人、つまり80歳を超えてる大叔母さんが、ダッシュともっと多くの時間を過ごせるようにっていう策略めいた気持ちからかもしれないってこと。

ラングストンがダッシュに言った。「君がひねくれてた頃よりも今の君の方がずっといい」

ダッシュが返した。「あなたは僕のことをとことん嫌ってた」

「たしかに」とラングストンが応じた。


おじいちゃんの姿を見て、私の胸が少し痛んだ。私と家で暮らしていた時よりも元気そうに見えたからだ。「おじいちゃん元気そうね」と私はミセス・バジルにこっそり言った。朝食のためにミセス・バジルが応接室からダイニングルームへと私たちを案内している途中だった。おじいちゃんはダッシュと並んで、私たち二人の前を歩いていた。彼の歩みには弾力が戻り、私とダッシュに向かって挨拶した時の彼の目には、昔の彼の陽気でいたずらっぽい輝きが溢れていた。

ミセス・バジルは言った。「彼も神経をすり減らしていたのよ。あなたたちが親身になって彼の世話をすればするほどね。要するに彼はあなたたちの重荷になりたくなかったの。彼はずっとあなたたちに悪いなって思っていたのよ」

「重荷なんかじゃないわ!」と私は言って、私たちが介護していた時の姿勢を正当化しようとした。ミセス・バジルが唇に指を当てて、それをさえぎった。

「彼は私にも同じように思ってるのよ」と彼女は言った。「それにあなたは若いんだから、若者らしく自分のことだけ考えてればいいの。それでね、在宅介護の補助をしてくれる人を雇おうと思って、来週、応募してくれた人が何人かうちに来ることになってるの。面接して、おじいちゃんと相性の良い人を選ぶわ」

なんだか私がおじいちゃんの元気を奪っていたみたいに思えた。「でもそれなら私ができるわ」と私は言った。

「ええ、そうね、あなたならできるわ。でもね、あなたの家族はみんな、あなたに10代らしく、前みたいに若者の本分に専念してほしいのよ」

「犬の散歩屋さん?」

「あなたがそうしたければね」

きらびやかな朝食がダイニングテーブルの上にずらっと並べられていた。卵、ベーグル、コーヒー、ジュース、フルーツサラダ、そしてダッシュの大好物のヨーグルトもたっぷりとあった。私たちは腰を下ろすと、一目散に食べ物を口に運んだ。

ミセス・バジルが私に言った。「ベーグルにそのサーモンをのせて食べなさい、リリーベアちゃん。今朝、〈バーニー・グリーングラス〉から配達してもらったばかりなのよ。新鮮ですごく美味しいわ」

ミセス・バジルがテーブルの上の、かつて目がついていた調理済みのお肉を私に食べるように勧めるとき、だいたい私はそれを一切れ、丁寧にお皿にのせると、その上でくるくると回してみるだけで、決して食べない。今回もそれは同じで、私は言った。「もうリリーベアって呼ばないでちょうだい。それから私はベジタリアンなのよ」

「お魚も食べないの?」とミセス・バジルが聞いてきた。お肉が大好きな人たちって、私がベジタリアンだって言うと、どうしてこうも同じ質問ばかりしてくるの? 全く理解できないわ。もし彼女が次に、いったいどこでタンパク質を取ってるの? とか聞いてこようものなら、私はリリーベアの着ぐるみを脱ぎ捨てて恩知らずの娘みたいに、目の前のお皿を壁に投げつけてやろうかとも思った。それくらい、その種の質問にうんざりしてるってこと。

「お魚も食べないわ」と私はなるべく優しく声を出した。

「今までそんなこと言ってなかったじゃない」とミセス・バジルが言った。「こんなに美味しいのに、あなたの鈍感な舌には合わないってことね。あなたが食べないのなら、もったいないわ」

彼女はサーモンの一切れを、おじいちゃんのベーグルの上のサーモンに上乗せした。「うまい!」とおじいちゃんがそれをもぐもぐと嚙みながら言った。

「彼女はもう私たちのテディーベアではないんですって」とミセス・バジルがおじいちゃんに言った。二人とも悲しそうに首を横に振った。「あなたに影響を受けちゃったのかしら?」とミセス・バジルがダッシュに聞いた。

ダッシュは言った。「いや、そういうわけじゃないです。リリーは幼稚園の頃からずっとベジタリアンだったみたいですし」

ミセス・バジルがあえぐように声を発した。「みんなして私に黙っていたのね!」

私は彼女に百万回くらい話したことがあるし、彼女と一緒にベジタリアン向けのレストランにも何度か行ったことがある。彼女は優れた知性の持ち主だけど、―大叔母さんも年のせいで、おじいちゃんと同じように段々と忘れっぽくなっているのだ。それが気がかりだったから、その時に私は、もし両親がコネチカットに引っ越しちゃったら、ミセス・バジルの誘いに乗って彼女の家で暮らそうと決心した。そうすればおじいちゃんとも住めるし、きっと二人とも私を必要としてるから。ここは5階建てのタウンハウスで、私が加わっても有り余るほどの部屋があった。ボリスも一緒に加わってもね。階段がたくさんあるのがおじいちゃんにとって問題になりそうだけど、彼も階段を上り下りして、あちこちの部屋へと動き回っていた方が運動になると思えばいいわ。

ダッシュが言った。「このベーグル美味しいですね」

「そりゃそうよ」とミセス・バジルが言った。「ありきたりな炭水化物食品だって馬鹿にできないわ」

「それで、ここでやるクリスマスパーティーのことですけど、僕たちにお手伝いできることって?」とダッシュがミセス・バジルに尋ねた。

「当日来てくれればそれでいいのよ」と彼女は言った。そんなの決まってるじゃない、みたいな言い方だった。

「え、でも、何か手伝ってほしくて、こうして朝食に招いてくれたのかと。それに僕たちは喜んで何でも手伝いますし」とダッシュが申し出た。

「パーティーのお手伝いさんなら雇うからいいのよ、お坊っちゃん」彼女は彼を見てから、私を見て、それから再びダッシュを見据えた。「もう今は、ちゃんと愛なのね?」

「一周年記念なの!」と私は誇らしげに言った。冗談半分で始めた赤いモレスキンの挑戦状だったけど、私はノートに導かれるようにして、こんなに不可思議な男の子と出会えた。それから一年経つうちに、二人の絆はどんどん強まって、ついに正式に愛を宣言できたのだ。

「あのリストを渡してちょうだい」とミセス・バジルがおじいちゃんに言った。

おじいちゃんはポケットの中に手を入れると、折りたたまれた一枚の紙を取り出し、ミセス・バジルに渡した。彼女はその紙を広げ、しわしわの紙をテーブルの上でまっすぐに伸ばしてから、ダッシュにそれを手渡した。「もしあなたが正式にリリーとお付き合いするのなら、これを持ってなさい。上から重要度の高い順に大事なイベントが書かれたリストよ。私の家でやるクリスマスパーティーが一番上になってるわ、そりゃそうよ」

ダッシュがそのリストを手にすることになるとは、ちょっと信じがたかった。親戚の誰かが婚約したとき、つまり家族の一員になる見込みのある人にだけ、そのリストを渡すっていうのが我が家のならわしだったから。それから、ミセス・バジルの承認を得た証として、ウェディングギフトショップに会員登録することになる。

「ちょっとよくわかりません」とダッシュが言った。

「それは出席表だよ」とおじいちゃんが笑いながらダッシュに説明した。「せいぜい頑張って、皆勤賞を目指すんだな」

「そんなんじゃないわ」とミセス・バジルがたしなめるように訂正した。「それは単なるイベントのリストよ。あなたがうちの家族の仲間になるのなら、一緒に祝いましょうってこと。重要度の高い順に並んでるわけだけど、イベント名の横に星印がついてるものは、任意のイベントだから必ずしも出なくてもいいわ。それで、下に脚注がついてるものは、あなたの家族も一緒に参加してもいいイベントよ。ローテーションで年によって変わるんだけどね」

ダッシュはそのリストにざっと目を通してから、顔を上げ、いぶかしげに目を細めた。「カナダの感謝祭は脚注つきイベントなんですか?」

「カナダ人じゃなくたって祝ってもいいでしょ」とミセス・バジルが言った。

ダッシュは言った。「それを聞いたら、うちの父は喜ぶと思います。彼はカナダ人なんですよ」

食卓を囲んでいたみんなが一様にショックを受けたように、黙り込んでしまった。私はなんだか裏切られたような気持ちになって、食卓を覆っていた沈黙を破るように声を発した。「あなたのお父さんがカナダ人だなんて、一言も言ってなかったじゃない」

「何か問題ある?」とダッシュが聞いた。

「もちろんあるさ!」とおじいちゃんが返した。けれど、それは売り言葉に買い言葉みたいなもので、実際には問題などないことをみんな知っていた。

さらに驚いたことに、私たちはみんな、ダッシュのお父さんがどんな人なのかを知っていた。「でも、あなたのお父さんって」私は口から出かかったそれに続く言葉を、言っていいものかどうか思案した。うるさいとか、うざいとか、そういう言葉がお似合いよね。

ミセス・バジルが私の気持ちを察したのか、そのとげのある言葉を私の口の中に押しとどめるように、ぴしゃりと言った。「カナダ人だって全員が良い人ってわけじゃないのよ、リリー。そんなに考え込まなくたっていいわ。ダシール、カナダの感謝祭には、あなたは私たちの家族の一員として参加するのよ。あなたのお父さんが何か良からぬ動きを見せたら、彼を私のところに連れて来なさい」

「僕はこの家族が大好きです!」とダッシュが、ぱっと光を放つように顔をほころばせて言った。

ミセス・バジルと私は目配せし合って、心得顔でうなずき合った。ダッシュが心から私たちを好きだというのが伝わってきたからだ。カナダの感謝祭よりも、私たち家族の方が大事なんだって。

ダッシュの幸せに満ちた表情から溢れ出た喜びが、洪水のように私の心に流れ込んできた。そして再び私を溢れんばかりの幸福感で満たしてくれた。昨日あんなにいっぱい注ぎ込んでくれたばかりなのに。

私はクリスマスをこの手の中に収めることができた。みんなもそれに気づいてくれたみたいだ。もうダッシュをクリスマスの外側へ放り出すことはしない。二人でロマンチックな気分に浸っていよう。屋上から彼への愛を大声で叫びたくなった。ダッシュは半分カナダ人だってわかった今、私は具体的に誰の家の屋上から叫びたいのかわかっていた。

「ザンボーニさんはどうしてるの?」と私はおじいちゃんに聞いた。


おじいちゃんは女好き、というか、女性にもてるタイプだけど、心臓発作を起こして以来、新しいガールフレンドはまだできていない。男性の仲間たちとは今も強い絆で結ばれてるみたいで、彼は近くのイタリアン豚肉店で必ず週に一度は気の合う仲間と過ごしている。集まったみんなでエスプレッソを飲みながら、バックギャモンを楽しむのだ。私は子供の頃からずっと、おじいちゃんの友達は、彼らの本名ではなく、お店の名前で呼んでいた。餃子屋さんは、中華料理店の元オーナーで、コーヒーよりもお茶が好きな人。ボルシチさんは、ポーランド料理店の元オーナーで、自分のバックギャモンの能力を過信しているのか、どんどんお金を賭けるから、最終的には大量の25セント硬貨を失うことになる。(ズブロッカというバイソングラス・ウォッカも、彼はどんどんソーダ水に注いで飲んでるから、たぶんそのせいで余計に失うお金がかさんでいく。)それでザンボーニさんは、年は取ってるけど、まだ現役の不動産屋さんで、今はグルテンフリーの食生活を実践している。なのでバックギャモンのゲーム中、彼にパン類を差し出す人はいないんだけど、ザンボーニさんは、私が彼のために定期的に作ってあげるグルテンフリーのピーナッツバタークッキーには首ったけなの。私の作ったクッキーがすごく好きみたいで、「君には感謝してもしきれない」みたいなことをいつも言ってくれるから、つけこめそう、というか、彼の力は借りられそう。

私がザンボーニさんを指名したのは、アイススケート場を貸し切りたかったからなんだけど、彼はスケート場関連のビジネスには手を出していなかった。でも数年前、彼はマンハッタンの西端に新しい分譲マンションを建てたんだけど、そこから〈ハイライン〉を見下ろせるのよ。〈ハイライン〉の屋上は冬の間、公共のスケートリンクになるからね。個人的には、私はロックフェラーセンターやセントラルパークのウォルマンリンクに行って、アンドリュー・ジャクソンが描かれた20ドル札を支払って、ごった返した人たちの輪の中で、みんなとセッションしてるみたいに滑る方が好きなんだけど、世の中には、クリスマスにアイススケートを楽しもうと思ったら上から眺めるのが一番とか言って、100万ドルものお金を支払って、あのマンションを手に入れる人もいるのよね。ちょっと理解しがたいけど、クリスマスを特権的に独占してる気分にでも浸っているんでしょう。とはいえ、少なくとも今日だけは、彼らのそんな常識外の感覚が私にとって好都合なのよ。

私はダッシュにそこの住所を伝え、午後7時に待ち合わせましょうと言った。その前に午後は一人で、色々と細かい準備をする必要があった。招待状でしょ、食べ物やパフォーマーの手配でしょ、それから花火もね。


夜になって、ダッシュはザンボーニさんが所有している建物のロビーにやって来ると、開口一番こう言った。「そんな格好で寒くない?」たしかに空気はかなり冷え込んでいた。私はAラインのドレスの下に厚手のタイツを穿いていた。―赤のクラッシュベルベット生地のドレスで、ちょうどひざ上にかかるワンピースよ。スカートの裾に沿って人工の白いファーが付いてるの。ダンサーみたいに飾り帯を腰にきつく巻き付けてるし、胸元がV字にざっくり開いてるのよ。

「寒くないわ」と言って、私はダッシュにキスをした。言われてみれば少し寒かったけど、私の心は寒さも感じないほど、ぽかぽか温かかった。彼を見た瞬間に湧き上がるこの幸福感を、私を一気に押し流すこの感情を、私はいつか慣れっこになって、せき止められるようになるのかな? たぶん永久に無理ね。

次にダッシュはこう聞いてきた。「これからハイラインに行くの?」ハイラインはマンハッタンの中で、彼のお気に入りのスポットの一つだった。―ニューヨークのウエスト・サイドを走る高架鉄道の線路跡で、今は美しい庭園と公園エリアになっている。

「そんなところね」と私は言った。

私は彼の手を取って、手をつないだままエレベーターの前まで彼を連れて行った。「上」ボタンを押す前に、私は腰に巻いていた白い飾り帯をほどいた。「目隠ししてもいい?」と私はダッシュに聞いた。私たちのパーティーの幕開けが、彼にとってサプライズになるようにしたかった。

「なんか、そういうボンデージ・パーティーとかじゃないよね?」とダッシュが聞いてきた。彼はきっとD. H. ローレンス全集の中の一冊を読み始めたんだわ。あ、そうそう、ちゃんとググって調べたからね。

「ううん、そういうんじゃないけど、私にもそういう変態っぽいアイデアが思いつくって思ってくれてありがとう」

私はダッシュの目に飾り帯を巻き付けて、彼の頭の後ろで結んだ。それからカード・キーをセンサーにかざすと、エレベーターの扉が開き、私たちは建物の最上階へと上がっていった。

「これって、もしかして、サプライズパーティーとか?」上昇していくエレベーターの中で、ダッシュが不安そうに言った。「僕の誕生日は12月じゃないよ」

「そうね」

「わかった。屋上の庭園の茂みにみんなが隠れてて、急にわって飛び出してきて、僕をびびらせよう、みたいな? そういう肝試し的なことは好きだけど、何も高層ビルの屋上でやらなくても」

「リラックスして」

エレベーターが開き、私はダッシュの手を引いて、ステージみたいに一段高くなっていて、テーブルと椅子が並べられているエリアへ彼を連れていった。氷雪で作ったかまくらみたいに、頭上がへこんだドーム状になっている。音楽が騒々しく鳴り響き、パーティーはすでに盛り上がっていた。ブーマーとソフィアが手をつないでスケートしているのが見えた。エドガー・ティボーと彼のアーガイル柄のコートも見えた。彼はなんだかレッドブルを一ケース飲み干した直後みたいに荒々しく滑っている。他には、個人的にはよく知らないけど、来賓の皆さんもリンク上で滑っていた。中にはすいすいと軽やかにリンクを駆け巡る人もいたけれど、それ以上に、外側のリンクレールにすがりつくようにしている人が多かった。かまくらエリアには、皆さんの脱いだ靴やブーツが並んでいて、その近くには本がいっぱい詰め込まれたトートバッグがいくつも置かれていた。

私はダッシュの目を覆っていた飾り帯をほどいて言った。「見て。クリスマスの定番といえばアイススケートでしょ。あなたの大好きな人たちがみんな集まってるわ!」

ダッシュはリンクに目をやってから、私に目を戻した。「リンクにいる人たちの中で僕が知ってるのは、ブーマーとソフィアだけだね。あ、エドガーのやつもいたか」

私は言った。「他の人たちは図書館員の皆さんよ。私のいとこのマークがストランド書店で働いてるでしょ、その関係で図書館員のメーリングリストを知っていて、招待状を拡散してくれたの。今夜のあなたは文字通り、本にまつわる人たちに囲まれて、本づくしよ。どう?」

ダッシュは私のちょっと凝り過ぎたかもしれない企画に引き気味だったけれど、かまくらの向こう側の端にある軽食スタンドを見て、目を輝かせた。「あれってホットチョコレート専用のドリンクバー?」とダッシュが聞いた。

「そうよ!〈ジャックトレス・チョコレート〉にケータリングを頼んだの。普通のチョコレートもあるし、チョコチップクッキーをホットココアにのせても美味しいし、よりどりみどりよ」

「帰る頃にはみんな糖尿病になっちゃうね」

「そうなってほしいわ!そういうのが良いパーティーの証なのよ。ミセス・バジルがいつも言ってるわ。『参加した人たちが次の日具合が悪くなって寝込んじゃうくらいじゃないと、最高のパーティーとは言えない』って」

ダッシュは微笑んだ。それから眉をひそめて言った。「でも、これだけ準備するとなると、相当お金がかかったよね」

「ケータリング代だけよ。あとはパフォーマンスを頼んだから、その出演料ね。これくらいお安い御用よ」

自慢するのは好きじゃないけど、実は私は結構お金を貯め込んでいた。べつに安月給の教員をやっている両親からもらったわけではなくて、私が個人でやっている犬の散歩の仕事で貯めたお金よ。私の銀行口座には、小数点の前に5つも数字が並んでるの。(この前やっと桁が繰り上がったのよ!)そのお金は私の大学資金にするつもりだけど、クリスマスなんだから少しくらい使ってもいいでしょ。

「パフォーマンスって?」とダッシュが聞いた。

「すぐにわかるわ」と私は言って、彼にスケートシューズを手渡した。「さあ、これを履きましょ」

「正直に告白すると、実は僕、スケートが苦手なんだ」

「え、だってあなたは半分カナダ人でしょ!」

「僕がカナダ人の遺伝子から受け継いだものといえば、カナダ出身のロックバンド、アーケイド・ファイアをこよなく愛してることくらいかな」

私は自分のスケートシューズを履いてから、もたついているダッシュの靴ひもを締めてあげた。彼は立ち上がると、ふらふらしてよろけてしまった。私は彼の体を支えるようにして、二人寄り添ってリンクを目指した。「きっともうすぐ信じられない光景を目の当たりにするわ」と私は彼に予め言っておいた。

私は彼の手を握って、彼をリンクの上に導いた。彼は本当にスケートが下手だった。おっかなびっくりといった感じで、慎重すぎるほどゆっくりと、ぐらつきながら進んでいる。私は彼の手を軽く引くようにして、なんとかリンクの端までたどり着いた。そして彼の目に、そこからの眺めが映った。北の方角には、マンハッタンの高層ビル群が立ち並んでいた。その二大巨頭が、エンパイア・ステート・ビルディングとクライスラー・ビルディングだ。西の方には、ハドソン川と、(兄の新天地)ニュージャージーが見える。そして私たちの真下には、〈ハイライン〉が伸びていた。「素晴らしすぎる」とダッシュが言った。「高すぎて吐きそうだけど、吐いてもいいかなって思えるほど素晴らしいよ」

「メリークリスマス」と私は彼に言った。

私たちは見つめ合うと、キスをした。冷たい夜風が祝福するように顔をなでた。それから私たちはみんなの輪の中に加わって、スケートをした。そしてリンクを1周もしないうちに、パフォーマーが到着した。予定ではもっと遅い時間にパフォーマンスしてもらうつもりだったんだけど、天候が寒いを通り越して、凍えるような、もうすぐ雪か雨が降ってきそうな気配だったから、雪ならまだしも雨だと困るので、ダッシュが到着したらすぐに始めてほしいとエンターティナーのみなさんにメールしておいたのだ。

エドガー・ティボーがプロホッケー選手のような滑らかなスケーティングでリンクの中央に立った。私が彼をMCとして雇ったのよ。彼はパーティーの始まりを告げる花火に火をつけると、それを両手に持って、スピーチを始めた。「レディーたち、ジェントルメン、それから素敵な司書のみなさん、ようこそお越しくださいました。それでは、みんなで、スペシャルゲストを呼び込みましょう...ザ・ローケッツ!(The Rawkettes!)」

ザ・ローケッツはパンクロック・ダンスユニットで、私の大叔父さんにあたるカーミンおじさんの孫娘が中心となって始めたグループなの。彼女は本家本元のプロダンス集団、あのロケッツ(Rockette)のオーディションに何度も落ちた経験を活かして、彼女の才能に見合った形で、趣味として舞台活動をしていくことに決めたのよ。彼女のグループのダンサーたちは、元々SF好きの仲間でもあったから、ダンスユニットを結成してからしばらくは、『スタートレック』にちなんで、ザ・スポケッツというグループ名で、青い宇宙服をあしらったダンス衣装を着て練習に励んでいたんだけど、なかなか出演依頼が入らないということで、最近、新たな方向性に進むとかで、ザ・ローケッツに改名したの。このスケートパーティーが改名後の彼女たちにとって、最初のブッキングステージなのよ。もしかしたら、改名前も含めて初めてかもしれないけど。

「あれがケリー? いとこの?」とダッシュがステージの中央に立つ彼女を指差して聞いた。彼女が一団を率いるようにセンターで踊っている。みんなお揃いの『パンク』っぽいステージ衣装を着ていた。パンクといっても、シド・ヴィシャスというより、ジギー・スターダストっぽい感じで、1970年代に流行ったキラキラ光るスパンコールを散りばめた衣装を着て、顔にもゴールドのラメをたくさんつけている。私はミセス・バジルがこの場にいたら、すぐにでも伝えたかった。彼女の見立て通り、ダッシュにはあのリストを受け取る資格があるって!彼はあの集団の中から、カーミンおじさんの孫娘のケリーを見分けることができたし、ちゃんと「ケリー」って呼んだのよ。私たち家族の会話を聞いていて、ごっちゃになっていないの。つまり、「キャリー」は叔母さんで、「カーリー」はご近所さん、そしてケーリー・グラントは、カギかっこでくくる必要もなく、みなさんご存知、誰もが敬愛する映画俳優ね。

「そうよ!」と私は答えた。

エドガーが音楽のスイッチを入れ、合図を送ると、いとこのケリーと彼女が率いる一団が足並みを揃えて、自分たちでこの曲を解釈して振り付けたダンスを踊り始めた。流れ出した曲はダッシュの大好きな一曲、ザ・ディセンバリスツの『Calamity Song』だった。ディセンバー(12月)以外でもこのバンドの曲を聴くかといえば、私はそこまで好きじゃないけど、彼らの曲の歌詞って、意味を成していないところが好き。つまり、耳を風のように通り抜けていくところが大好き。Hetty Green / Queen of supply-side bonhomie bone-drab.

ダッシュが私を見て、「だよね!」と目で同意してくれた。私も彼を見て、「やっぱり、そうよね!」と目配せした。

私は自分で準備しておきながら自分で気づいて、はっと息をのんだ。ダッシュの大好きなもののオンパレードじゃない!〈ハイライン〉でしょ!司書さんたちでしょ!ホットチョコレートもあるし!それからザ・ディセンバリスツ!

その時、私が心配した通り、雨が降り始めた。シャーベット状のみぞれに近い雨だった。「さあ、今よ!」と私はケリーに向かって声を張り上げた。雨が本降りになる前に、ザ・ローケッツに急いで今夜のグランドフィナーレを挙行してもらいたかった。ダンサーたちがサンタのプレゼントが入っていそうなカバンをつかむと、それを持ってリンクを回り出した。その後に続いて司書さんたちもくねくねと滑り出した。私とダッシュも後に続き、ソフィアとブーマー、そしてエドガーもカバンを抱えて、みんなで中からキラキラ光るラメをリンクにまき散らしながら滑った。氷の上でクリスタルカラーが弾けるようにきらめく幻想的な光景に包まれて、その夜を締めくくりたかった。

しばしの間、そこは色とりどりのマジカルワールドと化した。まるでディズニーランドみたいだった。氷上がピンク、緑、紫、ゴールド、シルバーでまばゆく輝いていた。しかし、すぐに私は気づいてしまった。こんなにラメをまき散らしたら、どんどんけばけばしい空間になっちゃう。もっと透明に近い虹のように、柔らかいスノーフラワーのように、優しい世界になってほしい。

どうしてみんなが次々と崩れ落ちるように転んでるの? みぞれで滑ったのかしら? それともラメに足を取られたとか?

「このキラキラっていったい何なの?」と私はケリーに大声で聞いた。ケリーがスケートを滑らせ、ダッシュと私の間に割り込んできた。キラキラ、キラキラ、キラキラ、―どこもかしこも氷上でラメがまたたいていた。ザ・ローケッツのメンバーたちがフェアリーダスト(妖精の粉)をカバンからつかみ取っては、リンク上にまいている。

「手芸用品店で買ってきたのよ!」と彼女が答えた。「あなたが費用はかさんでもいいから豪華にしてって言うから、大量に買ったのよ」

私は氷の上のキラキラしたものを一握り拾い上げてみた。それはケリーが顔につけているような化粧品のラメではなかった。一つ一つが小石より小さな、細かいすりガラスの破片のようで、マーサ・スチュワートが手芸をする時に使っていそうな派手で高級感溢れる装飾品だった。フェアリーダストなんかじゃなかったのよ。何千、何万もの細かく鋭い、危険な兵器を氷上にまき散らしていたってことになる。それでドタバタとリンクの上で次から次へとスケーターが転倒するという事態に陥ったのだ。

ブーマーがもの凄い勢いで私たちのところへ滑り込んできた。「ヒャッホー」と叫びながら、彼は足元のキラキラにつまずいて激しく転倒してしまった。ダッシュが手を差し伸べて、ブーマーを抱きかかえようとしたとき、一人の司書がすぐ近くで転び、勢い余って彼女のスケート靴の刃がダッシュの顔面を直撃した。

「目が!」とダッシュが悲鳴を上げた。

「膝が!」と他の誰かが叫んだ。

「私の手首、折れたかも」と別の声も聞こえてきた。

目まぐるしい展開だった。ついさっきまでザ・ローケッツがパフォーマンスをしていて、その周りを司書さんたちが楽しそうに滑っていたかと思ったら、いつの間にか、緊急治療の現場と化していて、救急隊員がアイスリンクに運び入れた担架に負傷者を乗せている。スケート靴の刃で負傷した人が続出して、あちこちで切り傷から赤い血が流れていた。キラキラ光るリンクの上はカオス状態で、司書たちの大虐殺が行われたみたいだ。

ダッシュが担架に乗せられて運び出されていく。彼の負傷した目は血まみれのガーゼで覆われていた。彼の手にも切り傷ができていた。他のスケーターが彼の上にのしかかるように転んだ時に切ったのだ。私は彼に言った。「本当にごめんなさい、ダッシュ!すぐにあなたのお父さんに電話して、あなたが病院へ運ばれてるところだって知らせるわ」

「そんなことして、これ以上傷口にキラキラした塩を塗らないでくれよ、リリー」とダッシュが皮肉交じりに言った。

いとこのケリーが私に請求書を手渡してきた。「ちゃんと百ドル払ってちょうだいね」

史上最悪の気分だった。私のせいでこんなことになってしまった。図書館の司書さんたちを、―つまり、この世界で最も優しさに溢れている人たちをこんな目に遭わせてしまった。司書さんたちをねぎらうパーティーでもあったのに、彼女たちが次々と救急車に乗せられていく。そして、私はボーイフレンドに致命傷を負わせてしまったのだ。

この私が、クリスマスを愛していたはずのリリーが、クリスマスの息の根を止めてしまった。



11

ダッシュ

笛吹きを恐れるな


12月22日(月曜日)

クリスマス3日前の真夜中、病院の一室でうごめく生き物は...5、6人の司書たちだけだった。彼らは鎮痛剤が効いてくるのを待ちながら、痛みに悶えていた。

僕たちは「キラキラリンク殺人事件」の現場から、〈ニューヨーク長老派教会病院〉に一斉に運び込まれ、僕は彼らと同じ病室を分け合うことになった。司書たちの中に僕の知り合いは一人もいなかったけれど、彼らはみんな普段から一緒にいる仲間のようだった。―あのスケートイベントは、彼らが毎年クリスマス前にみんなでニューヨークの繁華街に繰り出して、羽を伸ばす恒例行事のおまけみたいなものだったのだ。そして病院に僕と一緒に幽閉されることになったわけだけど、本棚に囲まれた職務から完全に解放された、いわば〈オフ〉の司書たちと間近で接するのは、幻滅しそうでちょっと悩ましくもあり、でも目を見開いて注目してしまうほど興味深かった...とはいっても、片目しか開かなかったけれど。スケート靴の刃は僕の目に直接は当たらずに済んだんだけど、傷口が角膜のすぐ横まで来ているということで、医師の指示で完治するまでは片目に眼帯をしていることになった。眼帯を当てられる前に一度鏡で自分の目の具合を見たんだけど、なんだか眼球の中の血管一本一本がすべて破裂してしまったみたいに真っ赤になっていた。一年間まばたきするのを忘れてずっと起き続けていたら、こんな状態になるかもしれない。もしクリスマスの余興で演じるデーモン役を争うオーディションに僕が参加すれば、ぶっちぎりでデーモン役を勝ち取れるな、と鏡を見ながら思った。(眼帯をつけた状態なら、海賊役に抜てきされるだろう。)

僕の父から「今向かってる」とメールが来たんだけど、―それからもう2時間も経つから、いったいどの道を通って今向かってるのかと、その辺でナンパでもしている父の姿を思い浮かべてしまう。そうこうしている間にも、司書たちは、読み始めたらページをめくる手を止められない本みたいに、僕を惹きつけてやまない。

「『サンタは興奮を隠せない!』」と、ミシガン州カラマズー出身のケビンがメロディーをつけて言った。(彼は首を損傷したようでネックカラーを巻き、痛み止めのモルヒネを打たれていた。)「この歌にこんなに親近感が湧いたことは、今の今までなかったよ!」

「サンタはこの病室を模様替えして、クリスマスの飾り付けをするべきだな!」と、ロードアイランド州プロビデンス出身のジャックが付け加えた。(彼は肩を脱臼していた。)病院の味気ない内装に彼が憤るのも無理はないな、と彼の服装を見て思った。彼の感性に合わなかったのだろう。―彼はクランプス(悪魔)が前面に描かれた派手なセーターを着ていた。今まで見たことないほど緻密にクランプスが描かれている。それから、明るいネオンブルーのズボンを穿いていた。レギンスと呼んでもいいくらい足にピタッとしている。「部屋を飾り付けたら、サンタもウイスキーのダブルで乾杯したくなるだろう...」と言って、彼は〈マーク・ジェイコブス〉のブランドバッグに手を伸ばすと、その中から、魔法瓶、カクテルシェーカー、それからカクテルグラスを6つ取り出した。「じゃじゃーん!」

「俺の酒はトリプルにしてくれ!」とクリスが声を上げた。ニューヨーク出身の彼はジャックの連れのようだった。(彼はちょっとした打撲であざができた程度だったけれど、家に帰るより、ここで他のみんなとつるんでいたいらしい。)

「じゃあ、僕はダブルで」と僕は言ってみた。

室内がシンと静まり返って、司書たちが一斉に首を曲げて僕を見た。

「気の毒だけど、これを飲んだら君も司書の仲間入りだぞ。退屈な図書館業務が延々と続くんだ。毎日毎日、一般市民の皆さんのご要望にいちいちお応えするんだよ。ここ数年予算も削減されてるから、余計に大変だ」とクリスが親切に教えてくれた。「でも大丈夫だ。ダッシュ、君ならやれる!いつの日か、君は立派な司書になれるよ。俺たちは一目見れば、司書に向くタイプかどうかすぐにわかる。君は若いし、磨けば光る片目の原石だ!」

それから、みんなで僕のために乾杯してくれた。僕は怪我をしていて、もうすぐ父親と片目で対面しなければならないという状況だったけれど、僕の心は満たされていた。みんなに励まされて、ふわっと心が軽くなったような気がした。リリーの計画とはだいぶ成り行きが違ってしまったのだろうけど、きっとリリーはこういう気分を僕に味わってほしくて、今夜のイベントを用意してくれたのだろう。

僕は看護師が僕の横に残していった水の入った紙コップを上に掲げた。

「僕たちを結びつけてくれたキラキラに乾杯!」と僕は言った。「キラキラ光るものがすべてゴールドとは限らないけど、キラキラの方がゴールドよりも、ずっと楽しいことだってある。それを教えてくれたリリーにも乾杯。まあ、僕たちは重傷を負っちゃったわけだけど、彼女が頑張ってくれたおかげで、こうして絆が生まれたわけだし」

「リリーに!」と彼らも声を上げた。

ジャックが二杯目をグラスに注いでいるとき、僕の父親が病室に飛び込んできた。

「ここにいたのか!」と父は、まるで僕が彼に見つからないように、こそこそ隠れていたかのような口ぶりで言った。

「ずっとここにいたよ」と僕は返した。

彼の姿を一目見て、彼はパーティーの真っ最中に呼び出しの電話を受けたんだな、とわかった。(彼はスーツにネクタイといういで立ちで、彼がパーティーの時につける〈ボンベイ・サファイア〉のコロンの匂いを発散させていた。)そして、2時間以上経ってからのこのこやって来たということは、僕が病院に運ばれたという知らせは、彼にとって緊急を要する事態ではなかったのだろう。

「なんか、お祭り騒ぎの邪魔しちゃった?」と僕は聞いた。

「まあな」と父は答えた。 「フィラデルフィアにいたんだ」

それでこんなに時間がかかったのか、と僕は自分の誤りを認めた。一瞬、彼が必死の形相でタクシーに飛び乗り、息子が運び込まれた病院の名前を早口で運転手に告げている姿が頭をよぎった。心揺さぶる場面だ。

「行くぞ」と父がじれったい様子で言った。「リーザが車で待ってるんだ。早く荷物を持って」

やっぱり、そんなことだろうと思った。

僕が自分の荷物をまとめ始めると、父はもう部屋を出ようとドアに手をかけた。

「そんなに急がなくても」とジャックが言って、車輪付き担架の上に手に持っていたグラスを置いた。

「君は誰だ?」と父が聞いた。

「誰でもいいじゃないですか。それより、ちょっとだけ時間をもらって、説教じみたことを言わせてもらいますけど、何事にも標準的な順番ってあるじゃないですか。病院に担ぎ込まれた息子を迎えに来た親なら、開口一番『大丈夫か?』と言って、次に言い方を変えてまた大丈夫か聞いて、それからさらに息子の体を気遣う言葉をかけるのが筋なんじゃないですか?」

「彼の目の眼帯が見えない?」とクリスが割って入った。「ファッションでしてると思ったとか?

僕の父は短気で、何かをしろと言われるのを黙って聞いていることができない。父は母としょっちゅうこんなことを繰り返していた。父の防衛戦術は攻撃に打って出ることなのだ。

「お前は何様のつもりだ?」と父がふくれっ面で反撃した。

ケビンが父に向かって歩いて行き、飲み物を押し付けるように突き出した。勢い余って飲み物が父の洋服にピシャッと飛んだ。「私たちは図書館員なんですよ、お父さん。これだけは約束してください。そうしないと、この未来の図書館員を連れて行かせるわけにはいきません。いいですか、彼が家に戻ったら、ちゃんと彼の面倒を見ると私たちに約束してください」

首にネックカラーを巻いた図書館員と父が対峙して、にらみ合っているのはなんだか面白い光景だった。さらに面白いことに、他の図書館員たちも周りから父を非難するような目でにらみつけている。この部屋の中で悪者は父だけだと全員の意見が一致しているのがはっきりとわかった。僕はこれまでの人生でこういうことには慣れっこだったので、冷静になって本当に悪いのは父だけなのかと考えてみた。

「じゃあ、こうしましょう」と僕は病室にいるみんなに言った。「パパは先に待合室に行ってて、僕もすぐに行くから。そうだ、病院の人から予備の包帯をもらっておいてよ。毎日同じ包帯をしてるわけにもいかないでしょ、他で買うより病院でもらった方が安上がりだよ。それから、司書のみんなにも頼みがあって、メールアドレスを教えてくれないかな? みんなを招待したいパーティーがもう一つあるんだ。もしみんながクリスマスにまだこの街にいればだけど」

みんなが僕の頼みを聞いてくれて、僕の手帳の最後のページにさらさらとメールアドレスを書いてくれた。みんなが書き終わるまで待っている間に、リリーからメールが来た。

今どんな感じ? と彼女が聞いてきた。(僕たちはすでに、『本当にごめんなさい』『君のせいじゃないよ』的な長文メールを交わした後だった。)

今退院するところ、と僕は返信した。明日から遠近感のない世界が待ってるけど、覚悟はできてる。

困ったことがあったら何でも言って。とすぐに返ってきた。

そうするよ。と僕は返した。

しかし明日からの世界よりも、まず父親と過ごす今夜を切り抜ける方が大変そうだった。


僕が車に乗り込んだ時のリーザの第一声はこうだった。「あらまあ、かわいそうな坊や!」

心配してくれてるのはわかるけど、相変わらず残念な言葉のチョイス。

家に着くまでの間ずっと、彼女は僕の目のことで大騒ぎして、あれこれ心配の声を上げていた。アパートメントに到着する頃には、そんなやかましい彼女に父があからさまにいら立っていた。父のいら立ちが僕から彼女に向いたことで、僕はほっとして、解放感にほくそ笑んだ。

多くの点で、リーザは僕の期待にそぐわない継母だった。まず一つには、僕はもっと若い、僕の年齢に近い人が良かった。でもリーザは僕の実の母より1歳年上だった。―その事実は果てしなく僕の母を悩ませることになった。ユーザーが乗り換えた機種が新型なら納得いくことでも、それが自分と同じくらい年季の入った機種だったのだから、もやもやはつのるばかりなのだろう。(そんなたとえ話は子供に言うべきことじゃないのに、もやもやがつのりすぎたのか、僕が10歳の時、母は僕に話してしまった。継父が家にやって来る前の晩のことで、僕はげんなり暗い気持ちになったのを覚えている。)

さらに記憶をたどると、僕の性格がまだ定まっていない成長期に父親とリーザに連れられて多くのディナーパーティーに参加した。そのたびに父がもう新たに子供を作るつもりはないと触れ回っていたから、僕は子供ながらに、ほっと胸を撫で下ろした。僕の一人息子としての地位が守られたと思ったわけだ。しかし同時に、そもそも父は子供嫌いで、僕自身が望まれて生まれてきたわけではないのかもしれない、とも思えた。なぜなら、もし父が生まれてきた僕と至福の時間を過ごしていたら、もう一度それを経験したいと思うのではないか?(まあ、もっと複雑な感情の機微があるんだろうけど、僕は折に触れて、そういう思いに囚われていた。)

父親のアパートメントに入って、僕はまず自分の部屋に行ってみた。僕の部屋は、大体4分の1くらいが僕の寝るスペースで、残りの4分の3はヨガ道具だとか、ごちゃごちゃといろんなものが置かれている物置部屋だった。僕がここに来る時は、少なくとも50%の確率でリーザが僕の部屋を掃除してくれているんだけど、今回は不意打ちだったため、掃除はされていなかった。

「ごめんなさい」と彼女は言いながら、通常は僕の枕が置いてある場所からエクササイズボールをどかした。「あなたが望むなら、もっときれいなシーツをもってくるわ。あなたが最後にここに来た後に変えてはあるんだけど、―でも、あれからもう数ヶ月も経つわね」

ありがたいことに、彼女はそう言いながらも、僕があまりここに来なくなったことを非難するつもりはないようだった。だがそこに父親がやって来て、その事実を耳にしたことで、部屋の雰囲気が一変した。

「そうだぞ、俺が気づいていないとでも思ったか? ダシール。お前はここに寄り付かなくなったな」と彼がドアのところから言った。「この一年、来てもせいぜい数ヶ月に一度って感じだ、そうだろ? 俺の認識が間違ってなければ、お前がリリーと出会ってからだな。俺だって、10代のホルモン事情がどんなものかわかってるよ。だがな、家族は家族だろ。そろそろそういうことを自覚した方がいいぞ」

「まあ、まあ、いいじゃない」とリーザは言いながら、敷いてあった何枚かのヨガマットをくるくると巻いて両腕に抱え、クローゼットにしまった。「私たちはリリーが大好きよ」

「何度か会った印象だけでリリーが大好きっていうのもちょっとな」と父が返した。「思い出してみろ。―1年前、彼女はお前を刑務所行きにしただろ。そして今度はお前を病院送りだ。こんなことばかり続くと、リリーがお前にふさわしい子かどうか疑問に思わざるを得ない。この辺で彼女との交際を考え直した方がいい時期に来てるんじゃないか?」

「僕をからかってるの?」と僕は言った。

「そんなわけないだろ」

僕は片目で彼を見下すようににらみつけた。「父さんはリリーのこと何にも知らないくせに、っていうか、僕のことだって全然わかってないじゃないか。いっつも自信満々で言ってくるけど、父さんの意見なんて僕には、たわ言にしか聞こえないよ」

父の顔が真っ赤になった。「おい、ダシール、俺とやる気か?」

「そうじゃないよ」と僕は言って、首を振った。「もういいよ。これ以上何も言わないでほしい。父さんの判断なんか聞きたくないんだよ」

「俺はお前の父親だぞ!」

「そんなことわかってるよ!僕が何もわかってないみたいな扱いはもうやめてくれよ。それから、僕の話をしてたのに、いつの間にかリリーをけなしてるとか、そういうことはもうやめてほしい。ママは父さんと違って、リリーのことを悪く言ったりしない。どうしてこうも正反対なんだよ」

父が笑い声を上げた。「ああ、そういうことか。―お前の母親が入れ知恵したんだな。お前が言ったことは全部、あいつがお前に言ったことだろ」

「違うよ、父さん。僕が自分で考えたことだよ。何度も何度も繰り返し考えたんだ。僕だって、父さんは驚くだろうけど、自分でちゃんと僕なりの結論を導き出せるんだよ!」

「二人とも」とリーザが割って入ってきた。「ほら、今日はいろんなことが起こりすぎて大変だったでしょ。ダッシュはあんな目にあったんだから、もう休まないといけないわ。今夜のところはこの辺にしましょうよ、ね?」

「ごめんなさい」と僕は言った。「でも、もし父さんが僕にここにいてほしくないのなら、僕は今すぐママの家に帰るよ」

「だめよ、ダッシュ」とリーザが厳しい口調で言った。「あなたは今夜は一人でいちゃだめ。病院でどんな薬を打ってもらっていたとしても、そのうち薬が切れて目の傷が痛み出すわ。片目に包帯を巻いたまま寝るのだって、寝心地悪くてなかなか寝付けないわよ。今夜はあなたの世話ができる人のそばにいなくちゃだめ」

僕は黙って聞いていたけれど、一瞬、彼女の言い方が僕のママみたいだと思った。実際、ママがこの場にいたら、僕と同じことを思っただろう。

「リーザの言うことを聞きなさい」と父が言った。

「明日は学校ないんでしょ?」と彼女が続けた。「朝食にリリーを招待してよ。ジンジャーブレッドのパンケーキを作るわ」

「ジンジャーブレッドのパンケーキを注文するんだろ」と父が皮肉った。

「違うわ」とリーザが訂正した。「ちゃんと作るのよ。だって周りに食べてくれる人たちがいるんですもの。作り甲斐があるわ

「まったく、俺の出る幕ではないようだな」と父はむっとして言った。「じゃあな、また明日の朝に会おう、ダシール」

「彼はあなたを愛してるのよ」と、父がいなくなってからリーザが言った。

「それを僕に言うべき人はあなたじゃないでしょ」と僕は返した。

「そうね」

リーザが新しいシーツを取りに行っている間、僕はリリーにメッセージを送って、彼女を明日の朝食に招待した。もう遅い時間だったから、彼女がまだ起きているとは思わなかったんだけど、すぐに彼女から返信が来て、頭がビビッと興奮した。

「リリーもジンジャーブレッドのパンケーキを食べに来るってさ」と僕は、シーツを抱えて戻ってきたリーザに言いながら、シーツを受け取った。そして自分でベッドにシーツを敷いた。

「よかったわ!」と彼女は歓声を上げると、僕の部屋でヨガをしていることを償うみたいに聞いた。「あなたが寝る前に、他に何かしてほしいことある?」

なぜ僕の父と結婚したのか教えてほしい。と言いたかった。僕が間違ったことをした時は、父さんのせいにしないで、ちゃんと僕をしかってほしい。

「べつにないよ」と僕は彼女に言った。

それでも彼女はコップ一杯の水と、鎮痛薬の〈タイレノール〉を何錠か持ってきてベッドの脇に置いた。それから僕の頬におやすみのキスをして、一歩後ろへ下がってから、もう一度僕をじっと見つめてきた。

「眼帯姿もそんなに悪くないじゃない。私に言わせると、海賊というより賞金稼ぎのハンターって感じね。せっかくの機会だから、その眼帯をうまく利用しなさい」

僕は引き出しの奥に手を入れて、パジャマを引っ張り出した。

「それとダッシュ?」とリーザがドアに手をかけて言った。僕は振り向いて、彼女を見上げた。「あなたの判断は正しいわ。リリーを手放しちゃだめよ」

それから眠りにつくまで、長い、長い、幾分拷問のような時間を悶々と過ごした。父親との関係は切っても切れないとしても、どうしてリーザは血のつながっていない僕に優しくするのだろう? そんなことを考えていた。


12月23日(火曜日)

僕はリリーにジンジャーブレッドのパンケーキのことは伝えていなかったから、リリーも焼き立てほやほやのジンジャーブレッドのマフィンを持って来てしまった。それで僕が、たまたまリーザも作っちゃってさ、と言おうとしたところ、それよりも先に彼女が叫び声を上げた。「あなたの顔!」

「僕の顔が何?」と僕は聞いた。「これね、こうやって包帯を巻いてると中は見えないだろうけど、この下は凄い事になってるんだぞ。僕の目標は怪人になって、23歳までにオペラハウスに出没することなんだ」

「面白くないわ!」

「いや、面白いでしょ。こういう自虐ネタの場合、面白いかどうかを判断する決定権は僕にあると思うんだけど、違う?」

僕は身を乗り出して、彼女にキスしようとしたけれど、片目だけの視界ではうまく方向感覚がつかめず、唇の到達地点が少しずれてしまった。しかし彼女が唇をうまく動かして軌道を修正しながら、優しくいたわるように僕の唇を受け止めてくれた。

「これからの僕はアダム・ドライバーみたいになるかもしれないぞ」と僕は彼女を脅すような口調で言った。「面白半分でマスクをかぶってさ。っていうか、アダム・ドライバーって『スター・ウォーズ』のかっこいい悪役俳優だよ。って女子に言っても通じないよね」

「その俳優はわかるわ」とリリーが言うのを聞いて、ほらね!もう僕の怪我のことなんか全然考えてない!と僕は思った。

彼女がそのことに気づいて謝罪攻勢をかけてくる前に、僕は彼女をキッチンへ連れていった。そこではリーザが鉄板に向かっていて、父は『ウォール・ストリート・ジャーナル』に覆いかぶさるようにしていた。

「女子力が高い二人って考えることが似ちゃうのね!」と、リーザがリリーの持ってきたマフィンを見て、高らかに宣言した。

「最近のクリスマス料理といえば、なんでもかんでもジンジャーブレッドだな」と父が付け加えた。「誤解しないでくれよ。―パンプキンじゃなくて俺はむしろ嬉しいんだ。ただ、ジンジャーブレッドはもう独創的な発想とは言えなくなっちまったな。俺に言わせれば、それもこれも〈スターバックス〉のせいだ」

「わざわざ作ってきてくれて、どうもありがとね」とリーザは優しい口調で言いながら、マフィンを取り出すと、トレーの上に載せた。

数分後、出来立てのパンケーキも並べられた。リーザはパンケーキをジンジャーマンの形にしていた。(目の前に並んだ女子っぽいクッキーに僕はちょっと戸惑った。)その後にテーブルを覆ったのは、―僕の家族ではよくあることだけど、リリーの家族には全く馴染みのない―沈黙だった。時折、誰か一人がぽつりぽつりとパンケーキの美味しさを褒めた。父も「美味い」くらいは言ったけれど...それ以外の話題は誰からも出てこなかった。リリーは僕の目に巻かれた包帯をじっと見つめながら、食べている。リリーは恐ろしい空間に入り込んでしまったのかもしれない。父は食べながらも新聞を読むのをやめない。リーザは曖昧に微笑んでいる。リーザの耳元には見えない妖精がいて、何か面白いうわさ話でもささやいているのかもしれない。

リーザと父と僕で食事をする時はいつもこんな感じだなと思っていた。まだ両親が離婚する前、母と父と僕で食べていた時は、沈黙は休戦を意味した。でもここでは、沈黙は何も意味しない、ただの空虚だ。

僕たち二人はこんな風にならないようにしよう、と僕はリリーに言いたかった。

もしかしたら、それがリリーに伝わったのかもしれない。僕が彼女を見つめ返したら、彼女が瞳をぐるりと一周させたから、この雰囲気にあきれてるのかも。

僕も目をぐるっと回し返そうとして、この目でそれをやるのはまずい、と気づくのが一瞬遅れた。僕の網膜にアイスピックがグサッと突き刺さったかのような激痛が走った。

思わず僕は叫び声を上げたのだろう。リリーとリーザがすぐに「大丈夫?」と心配そうに聞いてきたということは、きっと僕は叫んだのだ。父はいら立ったように顔をしかめただけだったけれど。

「だ、大丈夫」と僕は彼らを安心させようとした。「今思い出したんだけど、―包帯を変えた方がいいかな」

「手伝うわ」と、リリーとリーザが同時に言った。

自分でできるよ、と僕は思った。

でもすぐに、やっぱりリリーにやってもらいたいな、と思い直した。

「ありがとう、リーザ」と僕は言った。「でも、そんなに大勢でやってもらわなくても大丈夫。リリーに手伝ってもらうよ」

僕たちは僕の部屋に行き、そこで僕は自分のリュックサックからガーゼとテープを取り出した。それから僕たちは洗面所に行った。僕自身はもう鏡で自分の目を見たくもなかったけれど、手近に鏡があった方が何かと便利だろうと思ったのだ。僕は自分で眼帯を外すと、医師が巻いた包帯をほどいていった。そこでリリーが僕を制して、言った。「ここに座って。私がやってあげるから」

僕は目を閉じた。彼女ができる限り慎重に僕の皮膚からテープをはがすのを肌で感じた。僕の目を覆っていたガーゼがゆるみ、どんどんゆるんでいって、そしてついに落下したのがわかった。リリーがはっと息を吞んだ。傷口や縫い合わせた跡が露わになったのだろう。―それでも彼女は何も言わずに作業を続けた。僕たちはここでも黙りこくっていた。そう、この沈黙の意味は、集中だ。彼女は手元に意識を集中する必要があったのだ。ただ、集中力を必要としたのは、彼女だけではなかった。僕はまるでバラバラになった僕の部品を、彼女が一つ一つ組み立て直してくれているような錯覚に囚われてしまった。僕の頭の側面に彼女の指が触れている間、僕はその感触に意識を集中せざるを得なかった。僕は彼女の呼吸を感じ、彼女の体の一番深いところから伝わってくる鼓動に、寄り添うように意識の波を合わせていた。彼女が新しいガーゼを僕の目にそっとかぶせた。そのままそれを押さえながら、包帯を優しく巻いていって、眼帯をはめる。僕の背中がポンと叩かれた。―ほら、終わったわよ。

僕は目を開けた。

「ちゃんと出来てるといいんだけど」とリリーが言った。

「僕が自分でやってたら、反対の目に包帯を巻いてたよ」

「よく見たらね...キラキラした破片がまだ残ってたわ。顔の側面の皮膚にめり込んでる感じ。取り除いた方がいいのか、放っておいた方がいいのか私には判断がつかないから、今度お医者さんに診てもらって」

「最先端のキラキラファッションってことで、僕の街の評判が上がるよ」と言って、僕は彼女を安心させようとした。「すでに流しのバラード歌手たちが、あちこちで僕のことを吹聴してくれてるよ。〈キラキラ・パイレーツ〉として名高い少年の、巧みな剣さばきの伝説をね」

「本当にご...」

「その言葉は言わないで!アンドリュー・カーネギーのせいじゃないのと同じくらい、君のせいでもないから。そもそもアンドリュー・カーネギーが潤沢な資金をばらまいて、あちこちに図書館を建てなければ、100年後のスケートリンクにあんなに大勢の図書館員が集まることもなかったし、彼らが不用意にキラキラをリンク上にばらまくこともなかったんだ。それはともかく、病院に運ばれるまでは、君が用意してくれたあの空間は、とても居心地が良かったよ。ザ・ローケッツのパフォーマンスには度肝を抜かれたね。―圧巻だった。抜かれた度肝を取り戻すのにひと苦労したくらいだよ」

そこで、リーザの甲高い声が聞こえてきた。「あなたたち、大丈夫? バスルームにいるの?」

父が昨夜、リリーの悪影響について言っていたことを思い出し、それを逆手に取って、「今シャンパン風呂に入っていて、リリーにスポンジで体を洗ってもらってるんだ」と叫びたかったけれど、そのジョークの意味を、リリーの気持ちを傷つけずに説明できる自信がなかったので、代わりに「全部順調だよ!」と叫んだ。それから僕はリリーの耳元でささやいた。「なるべく早く、人間に可能な最大限のスピードで、このアパートメントから出よう。っていうか人間のくくりも取っ払って、チーターやガゼルの素早さで出よう」

「本気で言ってるの?」と、リリーが僕の片目をのぞき込むようにして言った。

「なんで本気じゃないと思うの?」

「わからないけど、彼らはあなたにパンケーキを焼いてくれたし」

「彼らじゃなくて、僕にパンケーキを焼いてくれたのは彼女だよ。父さんがあんなに世間知らずだから、彼女は僕に責任を感じて、父さんの埋め合わせをするつもりでパンケーキを焼いてくれたんだ」

こういう場合、あなたのお父さんはそこまで世間知らずじゃないわ、とか否定するのも自然な受け答えに思えるけど、僕の父親は「こういう場合」には含まれなかったようだ。

「街が僕たちを手ぐすね引いて待ってるよ!」と僕は、黙っているリリーに言った。

「それじゃあ」と、彼女は僕のリュックサックに医療用具を戻しながら言った。「街を待たせておくのは悪いわね」

僕たちはキッチンへ行って、リーザにパンケーキのお礼を二人で各々十回ずつくらい伝えた。それに対して、リーザも「ほんとにもう食べないの?」と十回くらい聞き返してきた。

「もう行くのか?」と、新聞を読み終えたばかりの父が顔を上げて言った。

「クリスマスの買い物をするのに、あと2日しかないからね!」と、僕は意気揚々と言ってみたけれど、僕自身の耳にもなんだか白々しく響いた。

「そうか、それでクリスマスはどうするつもりだ? ここに来て俺たちと過ごすのか?」

「それはない」と言いそうになったけれど、リーザとリリーの手前、あからさまに否定するのは気が引けて、なんとか踏みとどまった。

「残念だけど、他に予定があるんだよ」と、僕はキッチンを出ようとしながら言った。

どんな予定だ?」と父がいぶかしげに聞いてきた。

ミセス・バジルのパーティーについて父に話したくはなかった。というのも、僕の父がリリーを招待することはないだろうというミセス・バジルの見立てで、僕は彼女のパーティーに招待されたのだ。その二人をかち合わせるのはまずい気がした。

「リリーと過ごすんだよ」と僕は答えた。なるようになれ。

「素敵!」とリーザが言った。

父が僕をにらみつけるように見てきた。リリーは家族じゃないぞ、と言いたげだ。

僕は父をにらみ返した。彼女は僕にとって、父さん以上に家族だよ、と目で訴えかけた。

キッチンを出る間際、僕はリーザの頬にキスをした。彼女は驚いた表情を見せた。―そういえば、リーザと僕は別れ際にそういうことをする間柄ではなかった。

「クリスマスが終わったらまた来るよ」と僕はリーザに言った。「約束する」

「私たちはいつでもここで待ってるわ!」と彼女が答えた。

父は椅子から立ち上がろうとしなかった。

「バイバイ、パパ」と僕は言った。

「バイ!」とリリーが同調した。

二人で外に出ると、僕はほっとひと安心して、午前中の空に向かって両腕を伸ばした。


「それで」とリリーが言った。少し歩いて大通りに出たところだった。「どこに行く? 私は3時に犬の散歩があるんだけど、それまでは、どこまででもあなたについて行くわ」

「じゃあ」と僕は言って、腕時計を確認した。「〈ソルティー・ピンプ〉でアイスクリームでも、と思ったけど、まだ10時前だからもう少ししないと開かないかな」

「そうね。アイスは後にしましょ。さっきコーヒーを飲んだばかりだけど、もっとカフェインを摂取するっていうのはどう?」

僕は首を横に振った。「これ以上コーヒー系を飲んだら、カフェインが僕の頭の中で暴れ出しちゃう」

「そうすると...」

「それじゃあ...」

これはニューヨークの面白いところでもあるんだけど、―ニューヨークっていう街は一日中歩き回ってもやることに事欠かないほど、たくさんのものが溢れていて、だからなのか、時々急に、いったい何をしたらいいのかわからなくなる瞬間に襲われるのだ。そういう時って自分でも可笑しいくらいもどかしいんだけど、この街のどこかに自分のやるべき何かがあることはわかっていながら、それが何なのかがわからないんだよね。

「何も計画を立ててないの」とリリーが申し訳なさそうに言った。「昨夜あんなことがあった後だから、もう計画を立てたりとかしない方がいいかなって思って」

「僕もノープランだけど、計画がないくらいで、世をはかなむほど絶望することはないよ」

「ラングストンとベニーの荷造りを手伝いに行くっていうのはどう?」

「それはちょっと、僕たち二人で行ったら色々とややこしくなりそうだし」

「それもそうね」

「やっぱり〈ソルティー・ピンプ〉に今から向かって、店が開いた瞬間にアイスクリームにありつくっていうのがいいかも」

「開店時間が10時だったかどうかもあやしいわ」

この街全体が僕たち二人の手の中にあって、何でも自由にできるはずなのに...

「聞こえる?」とリリーが聞いてきた。彼女が何のことを言っているのかすぐにはわからなかった。というのも僕は自分の思考に意識を集中していたからで、彼女の言葉に導かれるように意識を外の世界へ向けてみた。―すると僕にも聞こえてきた。

「バグパイプかな?」と僕は聞いた。

「そうね、この音はバグパイプだと思うわ」とリリーが答えた。

それから、一人のバグパイプを抱えた笛吹きが角から現れて、その説が証明された。その後に続くように、また一人、また一人と、続々とバグパイプ奏者が角を曲がってこちらに歩いてきた。ざっと数えてみると、11人ほどのバグパイプを奏でる音楽隊で、ジョニ・ミッチェルの『River』を演奏している。彼らの後ろには、歩行者たちが後を追うように歩いていた。歩行者たちは隊列を組んで行進するわけでもなく、彼らの演奏に導かれるように自然と集まった感じで、この音楽隊がどこへ向かっているのか見届けようとしているようだ。

時々は自分で計画を立てて、たまにはこうして偶然性に身を任せていると、計画の方が勝手に向こうからやって来ることもある。

特にニューヨークっていう街ではね。

「僕たちもついて行こうか?」と僕は、手を差し出して言った。手をつなぐとロマンチックなムードを演出できるのではないかと思ったし、それに、僕は視力が弱いので、あのどんどん膨れ上がっていく群衆に紛れ込んで、一人でちゃんと歩けるか不安だったから。

「そうしましょ」と彼女が答えた。手を握られた瞬間、僕たちの周りが、ふわっとロマンチックな世界へと様変わりした。ただ、手をつないだ彼女の意図としては、彼女も僕の視力が弱いことを知っているので、あのどんどん膨れ上がっていく群衆に紛れ込んだら、僕が一人でちゃんと歩けるか心配だったのかもしれない。

手をつなぎながら、僕たちは2番街を南へ下って行った。周りの人たちの会話が耳に入ってきて、どうやら誰も、このバグパイプ奏者たちが何者で、どこへ向かっているのか知らないらしいとわかった。憶測や仮説の類は、次々と耳に飛び込んできたけれど。

「消防団のバグパイプ隊だろうな」と、ある年配の紳士が言った。

「ニューヨーク市消防局がジョニ・ミッチェルを演奏するかしら?」と、彼の奥さんらしき女性が答えた。「彼女はカナダ人歌手でしょ」

しばらくの間、僕たちのすぐ前を、小洒落た服装をした男が二人並んで歩いていた。二人ともひげを生やしていて、少し興奮気味に話している。

「『トキメキを探せ!』的なイベントじゃないか?」と、カーディガンを着た痩せすぎの男が言った。

「『トキメキを探せ!』だったら、こんな昼間からやってないだろ」と、ピー・コートを着た乱れたヘアースタイルの男が返した。

「だからこその『トキメキを探せ!』なんだよ!昼間にあえてやることで、日光で見つけにくくして、俺らをけむに巻こうって魂胆だ!」と痩せた男が反論した。

僕には彼らが何のことを言っているのかわからなかったけれど、はっきりと僕にもわかったことは、バグパイプ隊の奏でる曲が、『Fairytale of New York(ニューヨークのおとぎ話)』に移り変わったことだった。―この曲は僕の知る限り、クリスマスソング史上、最高の曲だと思う。

「私たちってどこへ向かっていると思う?」とリリーが聞いてきた。

それが実存哲学的な質問ではないことはわかっていたけれど、僕はそういう意図も含まれているんだと思い込んだ。きっと僕は父親から逃れたくて、父親が僕の心に投げかけた不吉な気分から解放されたくて、リリーの質問をそう認識したのかもしれない。あるいは、リリーと僕が再び安息の地にたどり着けるかどうか、そういう問いかけにも思えた。もしくは、僕たちは盲目的に11人のバグパイプ隊の後について歩いているけれど、『ハーメルンの笛吹き男』みたいに、このままみんなで失踪してしまうのではないか、という恐れも想起された。11人のうちの目に入った1人が良い笛吹きに見えるからといって、あやしい笛吹きが紛れ込んでいないとも限らないのだから、警戒は常に必要だ。

ミッドタウンを歩いている間に、ますます多くの人々が僕たちに加わっていった。一瞬、嫌な予感がよぎった。ひょっとしてタイムズスクエアに向かっているのではないかと思ったのだ。この時期のタイムズスクエアは、文字通り観光客でごった返しているに違いない。そんなところには行きたくないと思っていると、僕たちの行列はタイムズスクエアを迂回するように通り過ぎてくれて、ほっとした。バグパイプ隊が演奏する曲に乗って、めくるめくように想像が溢れ、どこへ向かっているのだろうという思いが募っていった。

トンプキンス・スクエア公園にたどり着いた頃には、僕たちは少なくとも200人の行列を成していた。公園の中央広場でバグパイプ隊が立ち止まり、音楽がやんだ。先ほどの小洒落た二人組が辺りを見回しながら、他の音楽隊も現れるのではないかと話し合っている。しかし、このバグパイプ隊だけのワンマンショーが繰り広げられるようで、彼らはバグパイプを抱え直すと、次の曲を演奏する構えだ。

まだ正午にもなっていなかったけれど、彼らは『Silent Night(きよしこの夜)』の冒頭の旋律を厳かに吹き始めた。夜の闇に包まれているわけでもないのに、僕たちは全員、黙り込んで聴き入った。彼らが奏でる調べは僕らの心の奥深くまで、じんわりと沁み入るようだった。その曲は穏やかながらも、心をしんみりとさせる悲しみも漂っていて、歌い手はいなかったけれど、僕らはみんな頭の中で歌詞を思い浮かべ、各々に歌っていた。

All is calm, all is bright.(すべてが穏やかで、何もかもが輝いている。)

僕はクリスマスキャロルを聴いたり歌ったりする方ではないんだけど、クリスマスキャロルが流れるだけでこんなにも素敵な空間になるのなら、もう少し聖歌というものを重視してもいいかなと思った。聴いている僕たちは少しずつ不思議な感覚に包まれていった。じわっと感謝の念が心の内側から湧いてくるようでもあった。たとえその年が大変な一年だったとしても、毎年この時期に祝福する理由は必ずあるのだ。そんなことを思っていた。リリーも同じような気持ちでいてほしいと願っていた。

次の曲はクリスマスソングではなく、ヴァン・モリソンの『Into the Mystic(神秘の中へ)』が流れ出した。聴衆の中にはメロディーに合わせて歌い始めた人もいた。リリーのぽかんとした面持ちから、彼女の知らない曲だとわかったので、彼女の耳元で僕なりの低いキーで、そのセレナーデを歌ってあげた。「僕らは風が吹く前に生まれ、太陽よりもずっと若い。霧の中から汽笛が聞こえてきたら、あの船に乗って故郷に帰ろう。君にもさすらいのジプシー魂があるだろう」そう歌い聞かせながら、僕はリリーの琴線に触れたかった。彼女の心を揺さぶりたかった。

霧の中から段々と光が差し込むように、彼女の表情がほころび、笑顔に変わった。彼女の心の深いところからジプシー魂を引き出せたようだ。

その曲が終わる頃には、彼女も一緒になって歌っていた。次の曲はリリーも知っていたようで、サム・クックの『A Change is Gonna Come(もうすぐ変化が訪れる)』の熱を帯びた演奏が始まると、彼女はことさら声を大にして歌った。バグパイプの音色に導かれるように、次から次へと中央広場に人が集まってきて、即席の奇妙なコーラス隊が出来上がっていた。僕たちはみんなで声を一つにして歌っていた。これは僕にとって、70%オフのセールよりも心躍るプレゼントだった。ハリウッドでこしらえた虚像よりも胸を打ったし、父親が金額を書いてくれる小切手よりも嬉しかったし、テレビに映し出されるどんなコマーシャルよりも心に響いた。

僕はリリーの肩に僕の腕を回し、彼女は僕の腰に彼女の腕を回した。そして僕たちは、いわば一心同体となって、その歌を最後まで歌い切った。それから腕を大きく広げて、周りの人たちと一緒に大きな拍手を送った。11人のバグパイプ隊は僕たちに向かって一度お辞儀をしてから、蜃気楼のように光の中へと消えていった。

「こうしてみんなで歌えて、すごく幸せな気分だわ」とリリーが言った。

「そうだね、僕も同じ気分だよ」

「もうソルティー・ピンプが開いてる時間じゃないかしら?」とリリーがうながしてくれた。

僕は大喜びでうなずいた。それから僕たちはゲイの二人が始めたというアイス屋に向かった。そして、ソルティー・ピンプのバニラ(ドゥルセ・デ・レチェという液体キャラメルと、チョコレートディップのかかった、海の塩味アイス)と、アメリカン・グロブのバニラ(プレッツェルが載っていて、チョコレートディップのかかった、海の塩味アイス)を食べた。アイス屋を出た僕たちはマーサーストリートへ向かい、〈Think Coffee〉に入った。その店のピンク色の髪をしたバリスタは心が広い人で、12月の末だというのにバニラアイスが載ったソイラテを注文した僕に対して、驚くそぶりも見せずに笑顔で給仕してくれた。それでもまだ時間があったので、8番街に立ち寄って、ラングストンとベニーにクリスマスプレゼント兼引っ越し祝いを買うことにした。ビヨンセの体型に似た形のランプをリリーが選んだ。

(「なんでランプ?」と僕はリリーに聞いた。

「ニュージャージーって、あんまり電気が通ってなさそうだから」と彼女が答えた。ちょっと嫌味なギフトだなと思ったけれど、リリーがマライア・キャリーっぽいランプを選ばなかっただけ、まだましだと思うことにした。)

買い物を終えた頃には、僕の目が痛み出していた。リリーが犬の散歩に行く時間も迫っていたので、僕たちはそこで別れることにした。―別れるといっても、一時的にね。僕は母親のアパートメントに帰って、体を休めた。それから夜になって、リリーがピザを持ってやって来て、一緒にクリスマス映画を何本か見た。僕が『ラブ・アクチュアリー』を見るのは初めてだと言うと、彼女はショックを受けていた。実際に見てみたら、思っていたほど悪い映画ではなかったことに、僕はショックを受けた。『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』を見て、これはクリスマス映画なのかハロウィーン映画なのか、という問題で僕たちはもめたけれど、何はともあれ、二人で楽しいひと時を過ごした。

映画が終わっても、僕たちは横たわったまま、数分間ぼんやりとテレビ画面を見つめていた。エンドロールが流れ、音が消え、画面が青くなる。

「こういう感じが好き」と僕は言った。「こういう風に二人とも自然体でいられるっていいよね。眼帯をしていなくても、きっと同じ気持ちだと思うよ」

リリーが僕の唇にキスをし、僕の眼帯にもキスをした。それから眼帯をしていない方のまぶたにも、彼女はそっと口づけた。

「私、そろそろ帰らなくちゃ。まだクリスマスプレゼントの包装が終わってないの」と言って、彼女は手を伸ばすと、バッグの中から赤いモレスキンのノートを取り出した。

「明日の指示が書いてあるから、明日まで開けちゃだめよ」と彼女が僕に告げた。

明日の朝まで絶対に開けないと僕は約束した。

彼女がアパートメントからいなくなると、すぐに寂しい気持ちに襲われた。でも大丈夫。僕たちの間に愛がある限り、彼女はちゃんと僕の隣に戻ってくる。愛ってそういうものだと思ってみると、不思議と安心感に包まれた。



12

リリー

タン タタンという軽快なリズムに乗ってやっかいなやつらがやって来る


12月24日(水曜日)

街中が一年で一番活気に溢れる日、ストランド書店も慌ただしくクリスマスの贈り物を探す人たちで賑わっているはずで、そんな中にボーイフレンドを一人置き去りにするなんて、私の計画にはなかったことだし、私がモレスキンに書いた今年の冒険ツアーには、それぞれの目的地で彼を立ち往生させる意図なんてなかったの。

「キラキラリンク殺人事件」の夜、すべてのごたごたが終わった後で、私は夜中に犬の散歩に出かけた。クリスマス休暇で家を空けている飼い主が多く、勤務予定表が立て込んでいたっていうのもあって、(ダッシュが流血するほどの重傷を負っているのはわかっていたんだけど、本当にごめんなさい!って気持ちで、)私は病院を後にした。それに、みんな怪我をしていたとはいえ、優しい図書館員たちと一緒だったから大丈夫かなって思ったの。だって彼らはあんなに上手に本を扱うことができるんですもの。私がそばにいなくても、きっと彼らがダッシュを上手に扱ってくれるって思ったから。

「行って」とダッシュも、犬の散歩に行かなくちゃと言う私をうながしてくれた。目の傷が糸で縫われ、ダッシュの状態もだいぶ落ち着いた後だった。「そうしてくれると僕も安心するよ。君が散歩を待ってる犬のことを心配してるんじゃないかって、僕も心配する必要がなくなるからね」

それから私は夜遅くまで犬の散歩をして、その日の予定をすべて終わらせた。家に帰った時には、私はぐったり疲れ果ててしまった。それでも私は眠れずに、この状況を好転させる名案はないかと考え続けた。もちろん罪の意識も感じていたし、ダッシュを盛大に喜ばせようと思って立てた大掛かりな計画について後悔もしたけれど、―でも、もうすぐクリスマスだと思うと、前を向いた方がいい気がしたの。私は素敵なクリスマスイブになるような、一日の行動計画を細かく考えて、それを赤いモレスキンのノートに書き込んだ。

ダッシュの愛らしい顔に重傷を負わせてしまったことに対して、謝罪の沼に溺れるように、どんどん深みにはまり込んでいくよりは、それを記念日に変えちゃうくらいの逆転の発想が必要だと、私は明け方まで考え続け、イブの一日が彼にとって、人生で最高の「海賊の日」になるようなプランを練ったんだけど、またしてもうまくいかなかった。

ごめんなさい。


午前10時。


ヨーホーホー 我らは海賊だ

パークスロープを抜けて行こう

スーパーヒーローショップで会おう

どんな軍艦でも撃沈してやろう


私たちが最初に立ち寄ることになるのは、スーパーヒーローグッズの専門店だった。その店の奥には秘密のドアがあって、その向こうでは放課後の危険な香り漂う学習指導が行われていて、ボランティアのチューターが子供たちに勉強を教えているという。私のスマホのロック画面はサンタの格好をしたダッシュの写真で、それも大好きな写真なんだけど、せっかくだからダッシュに海賊の衣装を着てもらって、その写真を待ち受け画像にしたくなっちゃったから、その店で待ち合わせすることにしたの。海賊だからってお店から強奪するわけじゃなくて、ちゃんとお金を払って海賊の衣装を一式揃えるわ。海賊の眼帯を彼の片目にかぶせて、大きな三角帽子を彼の頭に載せて、それから勇敢な剣士が着るみたいな白いフリルのシャツを着させて、その上に海賊船の船長っぽいガレオンコートを羽織わせるの。そうやってダッシュの全身を海賊風にコーディネートしながら、スーパーヒーローショップの店長に放課後の学習指導について尋ねることもできるでしょ。文学青年のダッシュがチューターのボランティアに申し込んで、ここで読み書きを教えたら、将来の図書館員の仕事のためにも良い経験になると思うし、キラキラ大虐殺みたいに誰かを傷つけるより、誰かの役に立った方がずっとましかなって。

モレスキンには、クリスマスイブの午前11時30分にスーパーヒーローショップで会いましょうと書いた。私はダッシュとの冒険に出航する前に、ボリスの世話をしなければならなかった。昨夜はボリスも一緒にミセス・バジルの家に連れて来て、おじいちゃんとも再会させて、そのままボリスもミセス・バジルの家に泊まったから、朝の散歩は近場で済ませるつもりだった。ミセス・バジルのタウンハウスの目と鼻の先にはグラマシー・パークがあるから、公園の中には入らずに、公園の周りを急ぎ足で回ろうと思っていた。そうすれば、ボリスは鼻をクンクンさせながら用を足せるし、私は散歩しながら、明日開けることになるたくさんのプレゼントについて考えたり、今日海賊になるボーイフレンドから奪う予定の、たくさんのキスを思い浮かべられる、はずだった。

私はボリスのリードをつかんで、ミセス・バジルのタウンハウスの玄関を開けた。すぐ目の前のグラマシー・パークをぐるりと一周しようと思いながら玄関を出たところで、公園の入り口付近から聖歌隊の歌声が聞こえてきた。玄関を開けたまま、そちらに目を向けてみると、中年の白人男性たちがビートボックスを織り交ぜながら、ヒップホップ風のリズムに乗せて、『リトル・ドラマー・ボーイ』を歌っていた。彼らの周りには多くの聴衆が集まっていて、拍手を送ったり、ビートに乗って腰を揺らしたりしている。そこで私はその四人組の合唱団を知っていると気づき、裏庭のテラスでまだ朝食を食べているおじいちゃんにこの歌声が聞こえなければいいな、と祈るように思った。

おじいちゃんはこの歌が嫌いなわけではなくて、このグループが大嫌いなのよ。

彼らは昨年イースト・ヴィレッジやロウアー・イースト・サイド辺りに出没したやっかいな一座だった。自分たちを〈カナージー孤児院カルテット〉と名乗るア・カペラ合唱団で、元々はそれぞれウォール街で人を騙してお金を稼いでいた詐欺師だったらしく、刑務所で服役中に出会った四人組だという。そして彼らは出所すると、サウス・ブルックリンに移り住み、ごろつきみたいな生活を再開させたんだけど、今は投資家を言葉巧みに騙すのではなく、観光客相手にパフォーマンスしながら、歌っていないメンバーが観光客の財布とか、スマホとか、買い物袋とか、その他貴重品を手当たり次第に盗んでいるのだ。

私が玄関をすぐに閉めなかったから、その歌声が家の奥まで聞こえてしまった。「ノー!」と、 おじいちゃんが叫ぶ声が廊下を伝って私の背中に届いた。彼は心臓を患っているにもかかわらず、全力を振り絞って杖と足を交互に動かし、怒涛の勢いで外に飛び出してきた。そして彼は玄関前の踏み段の上から、杖を合唱団に向かって振り回した。「このくずども!またやってるのか!警察だ!警察を呼べ!」

おじいちゃんがあまりに急に飛び出してきたので、5段ほどの踏み段の途中にいたボリスが驚いて、前の通りに向かって駆け出した。手に持っていたリースが引っ張られ、私もボリスに引きずられるように踏み段を転がり落ちた。「リリー!」と、地面に転げ落ちた私を見て、おじいちゃんが叫んだ。私は全然平気で、ちょっとしたあざが足とか腕にできた程度だったんだけど、おじいちゃんが私を助け上げようとして、階段を踏み外してしまった。

おじいちゃんが降ってきて、激しく地面に打ちつけられた。

すぐにミセス・バジルが911番に電話して、私はダッシュに電話した。


午前11時30分。

ダッシュに電話をかけると、ボイスメッセージにつながった。その時、彼はFラインの地下鉄に乗っていて、ブルックリンの地下で立ち往生していた。(Fラインは地元では「最悪な列車」として知られていて、乗れば必ず「最悪!」と口から漏れるほど、いっつも遅れるのよ。)その地下鉄がようやく地上に出たところで、私のメッセージを聞いた彼からメールが来た。私は彼に「モレスキンに書いた次の目的地で会いましょう」と伝えた。そうすれば、私はそれまで病院でおじいちゃんに付き添っていられるし、おじいちゃんもそれまでには退院できるかもしれないから。

私は怖くて現実を直視できず、どうしたらいいのかわからなかったの。

おじいちゃんが救急治療室で治療を受けた後、私はダッシュにメールで今の状況を知らせた。おじいちゃんは顔に包帯を巻かれてるけど、きっと大丈夫よ。次の目的地では会えるわ!ほんとにごめんなさい!

海賊になって毒舌さが増したダッシュから返信が来た。あー!サンタは包帯を巻かれて興奮を隠せたってこと? サンタっていうかおじいちゃんか。

私は笑った。笑うことで張り詰めていた顔の筋肉がゆるみ、顎までほぐれていくようで気持ち良かった。

おじいちゃんの顔はすっかり隠れてるわ。頬にいくつか青あざができてて、頭にこぶができてるのよ。と私はメッセージを打ち返した。でも彼はもうお腹が空いたって昼食を要求してるから、すっかり元気よ。ちゃんと胃の感覚はあるってことだからね!

すぐにダッシュから返信が来た。僕のことは気にしないで一緒にいてあげて。僕は今ブルックリンの〈パークスロープ〉にいて、スーパーヒーローショップに入ったところだけど、ませガキたちが僕の顔を見て目を丸くして怖がるから、僕は楽しい午前のひと時を過ごせてるよ。

子供たちに眼帯を見せつけてるの?

いや、眼帯を外して、子供たちの反応を見て楽しんでる。ちょっと間があって次のメッセージが来た。今お店から出るように注意されちゃったから、先に次の目的地に向かってるよ!


午後3時。


リッパーシティ号に乗って宝を探そう

海賊の宝が隠されたバーを襲撃しよう

マンハッタン島を一周しながらね

船上から愛してるって大声で叫ぼう

ヤッホー、大好きー!


私はすっかり時間の感覚を失って、どれくらい時間が経ったのかわからなかった。それに携帯の電波もむらがあって困った。どうして病院とか、地下鉄とか、映画館とか、一番電波が必要な場所に限って電波状況が悪いの?

たくさんの医師が病室に入って来ては出て行った。

両親が到着した。

サルおじさんとカーミンおじさん、二人の大伯父さんも到着した。

ベニーとラングストン、それから、いとこのマークもやって来た。

おじいちゃんの病室はこれからパーティーでも開かれるような混雑ぶりだった。実際、親戚たちは持参したプレゼントを包装紙で包み始めた。暇を持て余してというよりは、クリスマスが明日に迫っていて、一刻の猶予も許されない状況なんでしょう。

おじいちゃんの病室は個室だった。医師たちはおじいちゃんを数時間監視下に置いて、慎重に容態を見極めたいようだった。

誰も「なぜ?」とは聞かなかった。

私は海賊ツアー2番目の目的地である遊覧船に乗るためのチケットを、モレスキンに挟んでクリップで留めてダッシュに渡した。詩的な指示と一緒に。

なのに、私は出航の時間までにダッシュに会いに行くのを忘れちゃったの。

いいんだよ!とダッシュからメッセージが届いた。一人で船に乗ってハドソン川を眺めながら風に吹かれていると、傷ついた角膜が癒されるよ。

ごめんなさい。

謝らなくていいよ。今船内の海賊バーにいて、バーテンダーの仕事をやってみないかって誘われたところだよ。

海賊の眼帯をしてるから?

いや、しらふなのは僕だけだから。


午後6時。


大海原にゾクゾクしたわ!

さあ、ストランドに戻りましょう

興奮を沈めないといけないわ

恋人を横取りする人や、海に不慣れな船員や、いたずら好きな骨なし男たちについての本を見つけましょう

あの地下室にまた閉じ込められて、知恵を絞りましょう...


私はまたしても、そこに行けなかった。

私はメッセージを打った:ごめんなさい!また無理みたい!

謝らないで!イブの買い物客でひしめく喧騒から離れて、こうしてストランド書店で足止めされるのは本望だよ。ストランド書店は世界一リラックスできる場所だからね。こんな至福の時をくれるなんて、君は僕のことがほんとに好きなんだね!

もしかして、中古本売却カウンターに自分の本を持ち込む人たちに説教してるとか?

いや、今「私たちだってここにいる」というスローガンが掲げられたLGBTのセクションにいて、ソファに埋もれるように座って休んでる。こうしてメッセージを打ってないと寝ちゃいそうで、凄く幸せな気分だよ。だから謝らないでおくれ。おじいちゃんはどんな感じ?

おじいちゃんは寝ていて聞いていなかったけど、心臓専門の医師が私たちに言った。「彼を介護付集合住宅に住まわせることをお勧めします」

おじいちゃんが忌み嫌っている言葉、「特別養護老人ホーム」のマイルドな言い方ね。

ミセス・バジルが言った。「あり得ないわ。彼は私の家でちゃんと暮らせるし、彼の面倒は私が見るから大丈夫」

間抜け顔の医師が聞いた。「あなたの家には階段がありますか?」

ミセス・バジルは答えた。「5階建てのタウンハウスですからね。そりゃありますよ」

間抜け顔の医師が言った。「もし彼がもう一度階段から落ちたら、今度は大きな危険にさらされます。チェアリフトを備え付けるという方法もありますが、マンハッタンの古いブラウンストーンの家はそういう増改築には適さないんですよね」

「私が使ってる1階の部屋を彼に使ってもらうわ」

「24時間彼の介護をする覚悟ができていますか? 抗凝血薬は彼の様子を注意深く見ながら服用する必要があるんです。彼の顔を見てわかるように、彼は簡単にあざができてしまいますし、ちょっとしたことで心臓発作を起こす危険性があります。彼にとって階段の上り下りが一番リスクが高いんです。5階建てなら、なおさら危険ですね」

ママの顔が険しくなって、匙を投げてしまった。「私たちはいつかこういう日が来るってわかっていました。今決断するか、また先延ばしにするか、いずれにしても、また数ヶ月とか1年後には同じ選択を迫られるだけでしょう。それまでに彼の状態がもっと悪くなってしまう可能性もありますよね?」

私は口には出さなかったけれど、それがおじいちゃんにとって最良の選択肢だということもわかっていた。でも彼がどれだけ嫌がるかも想像できたから、彼が必死で抵抗する姿が目に浮かび、私の心は苦痛に押しつぶされそうだった。医師がそう勧めるのは、おじいちゃんの生活の質を押し広げ、良くしようという意図なんだけど、おじいちゃんは死刑宣告を言い渡されたように感じるはず。

私はミセス・バジルが当然、母の意見に反論するだろうと思ったんだけど、彼女はため息交じりに「そうね」とつぶやいた。

大伯父のカーミンおじさんが、「今年のクリスマスのナイトパーティーは取りやめしかないか?」と聞いた。50年間続いている我が家の恒例行事である。もし取りやめってことになれば、伝統をないがしろにするどころか、それはもう我が家にとって、世界の終わりに匹敵する!

「いいえ」とミセス・バジルが言った。「パーティーはやりましょう。むしろ今こそ、去年まで以上にお祝いしましょう」

その時、私はついカッとなってしまった。


午後7時。

カッとなるといった生易しい感じではなかったようで、私は頭を冷やしなさいと言われ、かんしゃく室と呼ばれる個室に押し込まれてしまった。そこは質素で心が落ち着くような病室だった。白いパッド入りのクッションが壁を覆っていて、かんしゃくを起こした人が暴れても怪我をしないように、という配慮なのだろう、ソファも柔らかく、硬い家具は一つも置いてなかった。大切な家族を失って嘆き悲しむ人が思う存分、感情を爆発させられる部屋のようだった。そうね、私の口からも当然のように汚い言葉が飛び出したわ。くそっ!

いったいこの状況はなんなのよ。

クリスマスなんてくだらないわ。

何もかも馬鹿みたい。くそっ。

少ししてミセス・バジルがやって来て、私に寄り添って慰めてくれた。今までも私がこういう感じになった時、私を落ち着かせることができたのは、おじいちゃんかミセス・バジルくらいだった。ただ、今回私の怒りを沸点まで高めたのは彼女自身だった。こんなに最悪なクリスマスだっていうのに、彼女がお祝いしましょうとか言い出したのよ。

私は金切り声を上げて、ありったけの大声で訴えかけた。「おじいちゃんを老人ホームなんかに入れないで!彼が口癖のように、わしがこの家を出る時は棺おけに入る時だって言ってるの、みんな知ってるでしょ」

ミセス・バジルは何も言わなかった。

「何か言ってよ!」と私は訴えた。

それでも彼女は何も言わなかった。

「お願い、何か言って」と私は静かに、哀願するように言った。

「施設に入れたら彼は傷つくでしょうね。でも彼と同じくらい私もつらいのよ」やっと彼女が口を開いてくれた。「それに今日集まった親戚みんなの意見が一致したの。今がその時なのよ」

「おじいちゃんの意見は一致してないわ」

「あなたも、あなたが思うほどおじいちゃんの気持ちをわかってるわけじゃないのよ。彼は怒りっぽいところがあるけど、でもね、彼は家族のために一番良いことを望んでるの。彼は重荷になりたくないのよ」

「彼は重荷なんかじゃないわ!どうしてそんなことが言えるの?」

「そうね。彼は重荷なんかじゃないわね。彼は私の兄だから、彼と一緒にこの人生を最後まで歩んで行きたいのはやまやまだけどね、でもこれ以上彼の状態が悪くなったら、彼自身も自分を重荷だって感じるでしょうね。もうすでにそのことが彼の心には重くのしかかっているのよ。そもそも彼が私の家に移って来たのも、そういう気持ちからなのよ。彼は口ではああいうことを言いながらも、もうすぐこういう日が来るってわかっていたの」

私は自分がとても愚かで、わがままで、いい加減な人間に思えてきた。おじいちゃんは彼が一番恐れている介護付き施設に入る運命だったってこと?―彼が心臓発作を起こして以来、私は彼につきっきりで、惜しみなく愛情を注ぎ込んできた。彼が施設に入るのをなんとか阻止しようと、実質的に私自身の生活の大半を投げうってきた。何のために?

去年のクリスマスシーズンは、おじいちゃんはまだ外出もできていて、私は素敵なボーイフレンドと親密な時間を過ごしていた。

素敵なボーイフレンド!そうだった。今日は一日中、私の指令に従って、彼は野生のガチョウを追い求めるような冒険をしてるんだった!

私は泣いた。ミセス・バジルは私を抱き寄せることもせずに、ただ横でそんな私を見守っていた。

「思う存分泣きなさい」とだけ彼女は言った。

「おばさんも一緒に泣いてもいいのよ」と私は鼻をすすりながら言った。

「私が泣いたって状況が悪くなるだけよ」と彼女は答えた。「元気を振り絞って、優しい笑みをたたえて、折り合いをつけていかないといけないの」

「何と折り合いをつけるの?」

「人生ね。ほろ苦く輝かしい人生よ」


午後9時。

ついに奇跡が起きた。

頭上から雪が降ってきた。大雪ではなく、柔らかくて軽い、甘いわたあめのような雪が、さらさらと舞い降りてきた。私は一人で通りを歩いていた。これからミセス・バジルの家に戻って、ボリスを散歩に連れていって、おじいちゃんの猫にも餌をあげるつもり。それから病院に戻る前にクライアントの家に寄って、ちゃんと犬の散歩の仕事もする。私の体をそっと包み込むように降ってくる雪の感触が、私の冷たい心を温めてくれた。私は天を仰ぎ、舌を突き出して雪を味わった。口の中で溶ける雪が、私の待ち望んでいた良い兆しに感じた。一年で最も心躍る日の前夜だった。正しいことは何もなく、当たり前のことも何一つ見当たらなかった。

ダッシュがミセス・バジルの家の前の踏み段に座っていた。ダッシュ!私のスマホのバッテリーは1時間前に切れていたので、それ以上謝罪のメッセージを送れずにいた。

彼は海賊の三角帽子をかぶっていて、眼帯には雪の結晶がぽつぽつと降りかかっていた。そしてボリスも彼の隣に腰を下ろしていた。踏み段に座るダッシュとボリス、私が今まで見た中で一番絵になる光景だった。

「あー」とダッシュが声を発すると、私の腕を引っ張って、彼の胸にうずめるように私を抱き締めた。「もうボリスの散歩は行ってきたし、グラントにも餌をあげたよ」と彼は私の耳元でささやいた。「それから君のクライアントリストを見て、今夜の散歩も全部済ませておいた」

ごめんなさい、という言葉はもう私の口からは出てこなかった。

「ほんとに愛してるわ」と私は言った。

それ以上私たちは何も言わず、ただ抱き合っていた。彼の胸に私の頬を押し当てると、彼は私の髪を優しく撫でてくれた。彼の裸の胸は、買ったばかりのガレオンコートで覆い隠されていたけれど。

彼のコートのポケットが膨らんでいて、一冊の本のようなものが入っているのを感じ取れた。きっとモレスキンだろうと思った。今日一日彼を虚しい冒険の旅へといざなったノートね。去年のクリスマス、ストランド書店の何百万冊(というか何十マイル)にも及ぶ本の中に挟んでおいた赤いノート、ちらっとノートを開いて中を覗き見た人は何人もいたでしょうけど、そこから先に進んでくれたのがダッシュだった。きっとそれにも何かしらの意味があったのでしょう。これから先、彼と私の間に何が起きるのか今はまだわからないけど、何が起きようと、きっと私は大丈夫な気がするし、どんなことが起ころうとも、このコート越しに感じるノートに彼が惹きつけられた事実は変わらない。それは彼と私が同類だってことを意味している。

そう、彼は家族なのだ。



13

ダッシュ

だって今日はクリスマスだから...


12月25日(木曜日)

ブーマーがしょんぼりしていた。

どうやらソフィアの家族がどうしてもクリスマスはスペインで過ごすと言って、ソフィアを連れて行ってしまい、ブーマーは一人取り残されたようだ。意気消沈した様子で、彼は僕の母親のアパートメントにやって来た。それで僕らは一緒に、ミセス・バジルの家で開かれるパーティーへ向かうことになった。

「心配することないよ」と僕は玄関のドアに鍵をかけながら言った。それから僕たちは二人並んで、勇んで戦場に向かうような足取りでアパートメントを後にした。「彼女はまばたきしてる間に帰って来るから」

「まばたきって一瞬だよね」とブーマーが返した。そして、これ見よがしにパチンとまばたきしてみせた。「ほら、一瞬でしょ?」

僕はまばたきするのにかかる平均時間の細かい数値を知っていたので、それを彼に言おうとしたら、間髪入れずに彼が続けた。

「でも、まばたきっていいことだよね? だって、もしまばたきしなかったら、ずっと何かを見つめてなくちゃならないし、そしたら目が痛くなっちゃう。それに、ダッシュがまばたきって言ったのは哲学的な意味でしょ? だったらたぶん、彼女はまばたきしてる間に帰って来る」

「いや、単なる喩えとして言っただけだよ」と僕は訂正した。

「違うよ」とブーマーが真顔で言い返した。「ボクは哲学的な話をしてるんだ。というか、あらゆる物事が哲学的だって言ってもいいね。君がまばたきするでしょ、それからまた目を開く。すべてがそんな感じで進んでるんだよ...まばたき一つ一つはそれぞれ微妙に違うけど、でも全部まばたきでしょ? 絶対に必要なことだよね」

僕はそれを聞いて、リリーと僕の関係に当てはめて考えてみた。―たぶんリリーと僕はつい先日までまばたきの期間を過ごしていたんだ。そしてたぶん、僕たちの目は再び開かれた。(少なくとも僕の片目は開かれた...それは喩えではなく、哲学的な意味でもなく、医学的な意味でだけど。)

僕はリリーへのクリスマスプレゼントを抱えていた。―インターネットで注文した買った最高級のクッキー用プレートで、彼女はこれを使えば美味しいクッキーを焼けるはずだ。それと、(母親の家に僕宛に送られてきた)父親からのクリスマスギフトの小切手を使って、ダウンタウンにあるフランス料理の専門学校で、彼女のためにベーキングレッスンを予約しておいた。

僕はそのクッキー用プレートを包装紙で包まずに、直接リボンを巻いた状態で持ち運んでいたから、ブーマーがこう言った時もそんなに驚かなかった。「リリーにそんな小さなそりを何枚か重ねてプレゼントするなんて、なんかしゃれてるね。雪が降ったらそのそりの出番だから、みんなでセントラルパークへ行かなくちゃ!」

「それで君はソフィアに何をプレゼントするんだい?」と僕は聞いた。

「彼女がこっちに帰って来たら、スペインが恋しくなるだろうと思って、インターネットでバルセロナの写真をかき集めたんだ。そしてそれをデジタルフレームに入れて、スライドショーで流せるようにした。プロジェクターも買ったから、彼女がバルセロナに帰りたいなって思ったとき、家にいながらそれを見て帰った気分を味わえる」

僕がソフィアにあげた最後のプレゼントは何だっただろう?―ガンドのテディベアだった気がする。ガールフレンドにおもちゃ屋で買った物ではないプレゼントをあげたのは、(そのプレゼントが皮肉めいていたかどうかは別として、)リリーが初めてだったから。

「ブーマーは凄いよ。こんなに長く彼女とうまく付き合えてるんだから。コツを教えてほしいな」と僕は彼に聞いた。僕の中には、こんなことを聞く自分にあきれる気持ちもあったけれど、それ以上にどうしても聞いてみたかったのだ。

「べつにコツなんかないと思うよ」とブーマーは言った。「ボクがソフィアと一緒にいるとき、ボクは彼女とうまく付き合おうとかそういうことは全然考えてないんだ。だからじゃないかな、それがうまく付き合うコツかも。家に帰って一人になると、寂しくなって心配になったりするけど、でもまた彼女と会えば嬉しい気持ちになれるから。その繰り返しが付き合うってことだと思う」

僕たちがミセス・バジルの家に着いた時には、すでに大勢の人でにぎわっていた。―何人かは知っている顔もあったけれど、大半は僕の知らない人たちだった。僕は図書館員たちに手を振った。彼らは手に持っていたグラスを持ち上げて、にっこり微笑んだ。僕はクッキー用プレートのような重いプレゼントを直接リリーに手渡したくはなかったので、名女優デイム・ジュディ・デンチの彫像が飾ってあったから、とりあえずその後ろにプレートを隠しておいた。

ブーマーはヨーニーを見つけると、跳ねるように近寄って、ハイと挨拶した。僕はリリーを探したけれど、リビングルームにも客間にも見当たらなかった。

僕はミセス・バジルに聞こうと階段を上りながら、でも「僕のガールフレンドを見ませんでしたか?」って聞くのもちょっと間抜けだなと思っていたら、幸いミセス・バジルは、僕がそう聞くまでもなく、開口一番こう言ってくれた。

「リリーなら私の兄、つまりリリーのおじいちゃんと一緒にキッチンにいるわ。彼女はね、もうリリーベアって呼ばれたくないんですって。私たち家族は愛情を込めてリリーベアって呼んでるのに。キッチンにいる二人に、出てきてみんなの輪に加わって、談笑しなさいって言ってきてちょうだい。パーティーっていうのはね、人の体みたいなものなのよ。きちんとした血液の循環がなければ、死体みたいに固まっちゃうの」

僕はキッチンに向かった。昨日リリーからおじいちゃんのことを色々聞いていたから、おじいちゃんはどんな様子なのかと少し心配だったけれど、彼をひと目見て安心した。キッチンに入ってきた僕を見つめる彼のまなざしが以前と同様に生き生きと輝いていたから。ただ、僕と握手しようと手を差し出す彼は、椅子から立ち上がることなく、座ったままだったけれど。

「おお、わしの大好きなロング・ダッシュ・シルバーじゃないか!」と彼はファーストフード店の名前をもじって、笑いながら言った。「リリーから聞いたよ。昨日は悪かったな...おい、そんな、タコとの戦いに負けたみたいな顔するなよ。タコに2、3発はくらわせてやったんだろ」

「4発はくらわせてやりましたけど、タコの足はまだ4本も残っていて、やられちゃいました。それで気分はどうですか?」

「バイオリンの弦並みにピンピンだよ!84年間弾き続けた弦だけどな、まだまだちゃんと音楽を鳴らせる!」そう言うと彼は、ゆっくりとではあったが、威厳をたたえたまま椅子から立ち上がった。「さて、わしは行くとするか。昨日のこともあるし、二人きりにさせてやらんとな。インガがその辺でカナッペだかクッキーだかを配ってるだろうから、そいつをもらいに、はるばる隣町まで長旅に出るとするか」

おじいちゃんが足を引きずるようにしてキッチンから出て行くのを見届けてから、リリーは言った。「私、すごく悲しいの」

「わかるよ」と僕は彼女に言った。「でもそうすることで彼の生活が改善するのなら、彼にとってはいいことだろうし、君が悲しむのはちょっと的外れかな」

彼女が若干身を引いて、怒ったように目を丸くした。それを見て僕は、僕の発言が彼女の耳にはひどく恐ろしい内容に聞こえたんだと気づいた。

とっさに僕は前のめりになって彼女に詰め寄った。「つまり僕が言いたいのは...彼とミセス・バジルはとても頭がいいよねってこと。君が口出ししなくても、ちゃんと彼らは正しい判断ができるよ」

それでもリリーの怒りは収まらないようだった。「つまりこういうことね、私は正しい判断ができないって言ってるのね?」

「ああ、違うよ!」

リリーは椅子から勢い良く立ち上がった。「悲しませてよ。私が悲しんだっていいじゃない。どうしてみんな、私の悲しみを奪おうとするの!?

僕は慎重に言葉を選んで答えた。「リリー、悲しむのに誰かの許可は必要ないんじゃないかな。悲しかったら悲しめばいいし、嬉しかったら喜べばいい。スリルを感じたければ感じればいいし、しょんぼりしたければすればいい。ただ、ハッピーな時も悲しい時も、いつでも周りのみんなを視界の片隅にちゃんと入れておかないとね」

「もしかして、私があなたを無視してるって感じてたとしたら、ごめんなさい...」

「いや、そうじゃない!」

「なら、あなたこそ的外れね、ダッシュ。もう私の家には誰もいなくなっちゃうの。視界に入れたくても、みんなどこかへ行っちゃうのよ!」

「でも、みんなそのどこかにはいるんだから。みんなこれからも変わらず、君の周りにいるってことだよ」

「そんなの、わかってるけど、でも...」と彼女は何か言いたげに口ごもった。

僕は言葉尻を捕らえて、彼女の思いを引き出そうとした。「でも?」

「でも、私はそういうのが嫌いなの、わかる? すべてが変わっていくことはわかってるけど、私はそういう変化が嫌いなのよ。子供の頃は、クリスマス休暇が来ると嬉しくて、こういうのがずっと続くんだろうなって思ってた。毎年こんな素敵なクリスマスが訪れるんだって。何も変わらず、毎年みんなでお祝いできるんだって思ってたの。だからクリスマスは特別だった。でも、年を重ねるにつれて、思い出す過去が増えるに従って、段々とわかってきたの。そうね、毎年同じ言葉をかけ合って、みんなで同じ歌を歌ってお祝いすることは変わらないわね。でも少しずつ状況は違ってきてるって気づいたの。それに気づいたら、その変化に合わせて自分も変わっていかなきゃいけないって感じて。たぶん普段の何気ない日にはそういうことって気づかないから。たぶん今日みたいなクリスマスだからこそ、そういうことに気づくんだと思うわ。そういう状況の変化に対応できるように自分も変わっていかなきゃとは思ってるんだけど、でも、私にできるかどうか不安なの。たとえば私たちよ、ダッシュ。私たちの関係を考えてみて。まず、私たちが一緒にいる時、時間ってどういう風に流れているか考えてみて、いい? 私たちは今を生きてるわけでしょ。そして今、この瞬間は唯一無二の一瞬よね。―そういうことを知ってるかって言ってるんじゃなくて、実感として気づいてほしいの。すごく急激な変化が今、この瞬間にも起きてるんだって。私はそう思うの、っていうか、そう思ったの。大好きなボーイフレンドがいるってこと、そして私はそのボーイフレンドを愛してるってことも、そういう時間の流れと同じなのよ。そういう気持ちにはそこまで急激な変化は伴わないにしても、でもやっぱり何かがそこから失われていくってどうしても感じてしまう。そうでしょ? 誰かが去っていく時も同じよ。もう私の周りにはいなくなるの。もしかしたら、あなたは何かが失われても平気なのかもしれないわね、ダッシュ。あなたはそんなこと気にもしてないんでしょ。でも私はそういうことを大切にしたいのよ、ダッシュ。失われるのが嫌なの。だってすっごく愛おしく感じるんですもの。でも、私はどうしたらいいのかさっぱりわからないけど」

「僕だってわからないよ」と僕は告げた。「この数ヶ月間、僕はずっと状況が良くなるような、何か良い方法はないかって考えてきたんだ、リリー。そしてやっとみつけた唯一の答えを今、君に言うよ。それは、どうすることもできない物事っていうのがあるってこと。時間はその最たるものだね、時間を変えようとしたって無理だ。そして二つ目は、他の人の行動だよ。僕は父親が母親を壊すのをこの目で見たんだ。―父は母をこてんぱんに壊したよ。それから二人は結婚を解消した。僕が家族だって思ってきた唯一のつながりを二人は引き裂いたんだ。その時、僕は8歳だったけど、たとえ僕が18歳だったとしても、状況は変わらなかっただろうね。僕は自分を守ることしかできなかった。他に自分にできることはないかって必死で考えたけど、何もできなかったよ。そして僕は、僕の決められるようなことじゃないって諦めたんだ。今もそうだよ。僕は今も父親を変えることができずにいる。すごく変えたいって思ってるのに、できないんだ。今、君に打ち明けるよ。僕が父親を変えたい理由の一つは、もし彼を変えられたら、もし彼の間違っているところを変えることができたら、僕の中にある同じ部分を変えられるんじゃないかって思うから。怖くないかって聞かれたら、そりゃ怖いけど、自分がそれを望んでいるのかどうかもわからないけど、変えたいんだ」

「今まで一度もそういうこと話してくれなかったじゃない」

「わかってるよ!だから今言ってるんじゃないか。―だから今、僕の思いのすべてを打ち明けてるんだ。―さっきだって、僕の悪い部分が出ちゃったじゃないか。君のことを的外れだとか言った時、君が感じたことだよ。そういう面が僕の中にはあるから。君は時間の流れを止められないし、君の周りのみんながいつまでもずっと健康でいることもあり得ない。いついかなる時でも恋をしてずっと愛し続ける、なんてことも無理だよ。ただ、君と僕のことは、―僕たちの関係だけは、僕たちでなんとかできるんじゃないかな。僕たち次第でなんとかなる唯一のことだよ。時には君次第だって僕が感じることもあるだろうし、別の時には、僕次第だって君が感じることもあるかもしれない。でも僕らは一緒に前に進まなければならない。これからは前みたいに急激な変化は訪れないこともわかってる。―けど、それはこういうことだと思うんだ。単に今を一緒に生きてるんじゃなくて、過去、現在、そして未来を全部まとめて共有してるってことじゃないかな」

その時、リリーの表情が和らいだ。僕にはそう見えた。彼女は負けを認めたわけではなく、そもそも勝ち負けでもなく、彼女は僕のことを実感として理解してくれたんだと思う。僕も実感としてそう感じ取った。僕らはどうしてもっと早くこういう会話をしなかったんだろう?

おそらく今までの僕たちは、まだこういう会話をする心の準備ができていなかったんだ。

「ずるいじゃない」そうリリーは言うと、僕の近くに歩み寄り、体を寄せてきた。「大好きな人たちのことで、一つだけ望むとしたら何? 時間よね、一緒にいる時間。じゃあ、その大好きな気持ちがどう変化するのか、恐ろしいまでに教えてくれるものは何? それも時間ね。私たちが一番望むものと、私たちが一番恐れてるものが同じだなんて、なんかずるいわ。そして、時間は今もどんどん減っていってる。そんなずるい時間の中に...すべてがあるのね」

彼女が僕の体を包むように、そっと腕を回してきた。僕も彼女をそっと抱きしめ返した。僕たちはしばらくそのまま抱き合っていた。お手伝いさんのインガがその時キッチンに入ってこなければ、僕たちはいつまでもそうしていただろう。

「私は絶対に何も聞いてませんよ」と彼女が言った。その言い方から、彼女は絶対に聞いていたとわかった。「そろそろチーズパフが焼き上がる頃なのよ。オーブンからチーズパフを取り出さなきゃいけないの」

僕とリリーはキッチンを出ると、みんなのいるパーティールームへ向かった。廊下を歩きながら、僕は「ブーマーのまばたき理論」をリリーに話して聞かせた。リリーはそれを気に入ってくれた。

「私たちにとって、まばたき期間だったのね」と彼女が言った。

「そう」

「そして、今やっと私たちの目は開かれた」

「少なくとも片目は」

「片目はね」

「そして、それは避けて通れない」

「私たちはまたいつか、まばたきするわね」

「でも大丈夫」

「うん。まばたきした後って、前よりいろんなことがくっきり見えるから」

「たしかに」

僕たちはパーティー会場のドアを開けた。視界が広がり、友達、家族、見知らぬ人たちが視界に入ってきた。和気あいあいとした会話があちこちで鳴り響き、一つの音楽のように僕の耳を包んだ。―不思議な集まりが奏でる良質なオーケストラだった。

僕は彼女の手を取ろうと、手を伸ばした。すると先に彼女が僕の手をつかんだ。

「僕たちも入れてもらおう」と僕は言った。「すごくいいパーティーだね」



14

リリー

私の今をあげる


12月25日(木曜日)

不思議な気持ちだった。―まだ処理しきれていない悲しみは私の中に残っていたけれど、それでも私の人生で最高のクリスマスだと感じていた。

私の大好きな人たちが私の大好きな家に集まっている。今日は一年で一番大好きな日。笑って、喋って、プレゼントを贈り合って、食べて、エッグノッグを飲む日。

広いリビングルームを見回すと、部屋の一角にエドガー・ティボーの姿が見えた。そして彼を取り囲むように小学生くらいの子供たちが円を作って座っている。子供たちはうっとりした表情で熱心に彼の話に聞き入っていた。彼は手慣れた手つきでトランプを切ると、一枚ずつ子供たちにカードを配っていく。どうやらポーカーのやり方を教えているらしい。

「エドガー・ティボーもこのパーティーに招待したんだ?」とダッシュが私に聞いてきた。

「おじいちゃんが招待したの」

実際、おじいちゃんはこう言っていた。「エドガー・ティボーを招待しないのか? 仲間外れなんて、かわいそうじゃないか。あの不良少年とわしはな、老人センターでハイタッチを交わした仲なんだ。その時、わしの妹の家でクリスマスパーティーがあるから来るかって聞いたら、必ず行きます、薄着のギャルたちと暖炉を囲んで、ウイスキーの入ったフラスコ瓶を回し飲みしましょうって張り切ってたぞ」

私はおじいちゃんから聞いたエドガーの下品な発言を思い出して、ぞっと身ぶるいした。それでも私は自分が嘘をついたことに耐えきれず、すぐに今の発言を訂正した。「っていうか私が招待したの。おじいちゃんがかわいそうだって言ってたし、彼はクリスマスも独りぼっちみたいだったから」

「なるほどね」

「虐げられた人たちや、ろくでなしにだって心を開いてあげなくちゃ」と私はダッシュに言って、彼の手を優しく握った。「今日はそういう日でしょ」

「エドガーにも、家族のイベントリストを渡したとか?」

私はびっくりして唾を飛ばしそうになりながら言った。「まさか!」ダッシュは私の反応を軽くあしらうように身を寄せてきて、耳元でささやくように言った。「僕は君がまた、あのチャラチャラしたお調子者のエドガー・ティボーに惹かれるんじゃないかって心配した方がいいかな? 彼とキスするのはどんな感じだろう、とか想像してない?」ダッシュの顔を見ると、眼帯で隠れていない方のまゆ毛が高々と吊り上がっていて、唇がわずかに歪み、にやけているのがわかった。私をからかっているのだ。

「想像するわ」と私は白状した。「けど彼に限らず、下痢ぎみのオラウータンともイチャイチャするのはどんな感じだろうって想像するけどね」

「そんなこと聞くと、インガが作ってくれたカナッペを食べる気が失せるよ」

私は彼の唇にそっと私の唇を重ねた。「どう? これでまた食べる気になった?」

「なんか美味しい味だね」とダッシュが言った。「ジンジャーブレッド味のキスだ

嬉しいこと言ってくれるじゃない。私が選んだボーイフレンドは私がときめく言葉をちゃんと心得ているのよ。言葉のギフトのお返しに、私も気の利いた言葉を返そうと頭をひねった。「エドガーってね、おべっか使いの使い手なのよ

「何?」とダッシュが笑って耳を寄せてきた。

「彼ってね、おべっかを使われるのが好きだから、そうしてくれる人たちを周りに集めてるの。つまり、おべっかを使ってくれるようにお金を渡してるのよ。彼がお金持ちだって知ってるでしょ。公園のチェス仲間もそうだし、韓国人のパーティー仲間もそう、きっとあそこで床に座って彼を囲んでる、小学2年生くらいの小さなハスラーたちにもお金を渡してるわ」

「エドガーって、彼とつるんでくれってみんなにお金を渡してるってこと?」

「そう。あのアーガイル柄のズボンのポケットにはね、5ドル札の束が丸めて入れてあるのよ。いつでもさっと渡せるように」

「それでか。今やっとすべてが腑に落ちた」とダッシュが言った。

ミセス・バジルがソファの横に置いてあった足乗せ台の上に立って、シャンパングラスを掲げた。「親愛なるみなさん、お耳をお貸しください!」と彼女が声を張り上げた。通常、これほど多くの人たちが集まり、これだけお酒が出回っていたら、部屋が静かになるまでに何度か声を張り上げる必要がありそうなものだけど、ミセス・バジルは一度で全員の注意を引きつけてしまった。「まず初めに、今夜みなさんがこうして集まってくれたことに感謝します。それでは、メリークリスマス!」

「ハッピークワンザ!ミセス・オレガノ!」と、ブーマーがアフリカ系アメリカ人のお祝いの言葉を叫び返した。

ミセス・バジルはブーマーの方に顔を向けると、うなずいた。「どうもありがとう。あなたの返答は全く読めないわね」それから彼女は一人一人の顔を順に目で追うように、ぐるりと部屋を見回してから、最後に彼女の隣に座っているおじいちゃんに視線を向けた。「みなさんご存知の通り、今年は色々なことがあって、私たちにとって大変な一年でした。来年には、また新たな試練が待ち受けていることでしょう。だからこそ、今、みんなで感謝しましょう。みんなの友情に。みんなでこうしてお祝いできることに。それから私の隣に座っている―」

おじいちゃんが杖で彼女の足首を軽く叩いた。「早くわしにも話をさせてくれ!」

ミセス・バジルは足乗せ台から降りながら、「あなたはサディーみたいに暴力的にならないでちょうだい」と彼をたしなめた。

おじいちゃんは笑って立ち上がると、こう言った。「もう長年にわたって恒例となっていますが、このクリスマスパーティーの後半戦は、大人だけで歌って騒ぐ時間としましょう」

「歌って歌って、歌いまくろう!」と、彼のたくさんの姪っ子や甥っ子があちこちで声を上げた。

おじいちゃんは続けた。「はいはい、どんどん歌って盛り上がりましょう。そして、子供たちはもう疲れてる頃でしょうから、家に帰ってゆっくり休みましょう。それから、地下の部屋で映画を見ることもできますよ。映画を見ながら眠るというのもいいですね」

「『オズの魔法使い』がいいわ!」と、いとこのケリーが言った。

「『サウンド・オブ・ミュージック』が見たい!」と、いとこのマークが言った。

「『クリスマスのゲイたち』にしよう!」と、ラングストンが叫んだ。

「それはどんな映画なのかしら?」とミセス・バジルが、初めて聞いたクリスマス映画のタイトルにあきれたように目を丸くして聞いた。

「冗談」とラングストンは言った。「それはアフターパーティーのさらにアフターだな。夜中まで起きていられる人向けだ」

「それから、今年は特別なサプライズを用意しています」とおじいちゃんが言った。彼の温かなまなざしが私に注がれた。「リリー、わしを地下の部屋まで連れて行ってくれ。そこにわしからお前へのプレゼントがある。他にも映画を見たい人は、みんなついて来てくれ。映画を見たくないやつは、ついて来るなよ!騒ぐのはこの部屋だけだ。ここで引き続き、楽しく過ごしてくれ」おじいちゃんはエドガー・ティボーに目を向けると、杖を振った。「おい、今夜はギャンブルでもうけた金を全額、老人センターに寄付だぞ」

エドガーが笑い声を上げた。彼が裁判官以外の人からの命令に従うはずはない、と私は思った。しかし、おじいちゃんの凄みのある言い方に気圧されたようにパーティーの参加者たちが一斉にエドガー・ティボーを見つめると、彼にもおじいちゃんの本気が伝わったようで、彼は肩をすくめて言った。「しょうがねえな、わかったよ」それはクリスマスの奇跡だった!彼が心を開いたのよ!

何人かのいとこたちが地下の部屋へ移動を始め、ダッシュと私は二人でおじいちゃんの両脇を抱えるようにして階段まで連れていって、ゆっくりとおじいちゃんが階段を下りる手助けをした。「このこと知ってた?」と私はダッシュに聞いた。こんなに早くからパーティーを中断して映画を見るなんて、なんかちょっとおかしな気がしたけれど、これから見る映画は、おじいちゃんと彼の兄弟たちが子供の頃にみんなで見たホームムービーだったらいいなと思った。最近古い映画の復刻版がDVD化されて、たくさん発売されてるから。

「大がかりな策略だったりして」とダッシュが言った。

その地下の部屋は、アメフトやサッカーが盛り上がる季節になると、ミセス・バジルが親戚の男性陣に提供しているスポーツ観戦部屋だった。おしゃれなカウンターがついていて、大画面テレビが置かれている。(それはミセス・バジルのタウンハウスにある唯一のテレビで、他のどの部屋にもテレビは置かれていなかった。)私たちがその部屋に入った時にはすでにテレビはついていたけれど、まだ画面には何も映っていなかった。カウンターは映画館の売店のように準備されていて、ポップコーンメーカーがあり、ガラスケースの中には、M&M's、Milk Duds、Junior Mintsなどのチョコレートやキャンディーが並んでいた。そして壁一面の棚には、私のお気に入りのチョコ〈スノーキャップス〉が何十箱も積み上げられていて、全体としてクリスマスツリーを形作っていた。

さっきまで、いったい何を見るのかしら、としきりに考えていたけれど、その疑問は、テレビの横のブランケットが外された瞬間に吹き飛んだ。大きな厚紙でできた等身大パネルが露わになったのだ。それは私の大好きな映画で主演を演じた女優ヘレン・ミレンの切り抜きボードで、彼女が年老いて今にも倒れそうなエリザベス女王に扮しているものだった。彼女はシルクのスカーフを頭からかぶり、顎の下で結んでいた。そして、エリザベス女王が生涯をともにした愛犬のコーギーを抱きかかえていた。実写の彼女とCGの犬の見事な合成だった!

どういうこと?」と私は金切り声を上げた。世界的に人気のボーイズグループが、一人の十代の女の子のために個人的なコンサートを開いてくれた時のような声量で、叫んだ。

「落ち着け、金切リリー!」と、ラングストンがそこに集まった人たちの中のどこかから、大声を飛ばした。

私の心臓はすごい速さで高鳴り、私はこの幸せな気持ちが絶頂に達して死ぬかもしれないと思った。「これってCGの犬でしょ? どういうこと?」と私はおじいちゃんに聞いた。

彼は言った。「わしの友人の〈電気屋さん〉だよ、お前も知ってるだろ。あいつが最新の映写機を用意してくれたんだ。CGだか、スクリーナーだか、わしにはよくわからんがな。あいつは〈パナビジョン〉の社長だし、今の時期は映画賞が立て続けにあって忙しいんだ。あいつは選考委員をいくつも掛け持ちして務めてるからな。映画館に宣伝用で置く切り抜きも用意してくれたよ。ただな、これは貴重な知的財産だって言ってたからな。もし悪党の手に渡ることにでもなったら、FBIを呼ばなくちゃならん。エドガー・ティボーにこれを見せたらいかんってことだ。誰も彼をこの部屋に連れてきちゃならん

ママが言った。「この映画館の売店は私たちからのプレゼントよ、リリーちゃん」

ダッシュが言った。「〈スノーキャップス〉は僕が積み上げたんだ」

ラングストンは言った。「残念なツリーだな。なんだかうんちの山みたいだぞ」

世界には間違ってることがたくさんあるけれど、―戦争とか、地球温暖化とか、おじいちゃんが介護施設に移っちゃうこととか、家族がバラバラになって、私が今までずっと住んできた家はおそらく売られちゃうこととか、―色々間違ってることはあるけれど、それと同じくらいたくさん、正しいこともあるんだと思った。いがみ合っていた私の兄と私のボーイフレンドは、今では打ち解けて気さくに話してるし、パパは〈リーシーズ〉のピーナッツバターを、他のお客さんたちが手をつける前に一人で全部食べ尽くす気なのか、むしゃむしゃと食べてるし、ミセス・バジルはお客さんたちの海の中心でみんなにちやほやされてるし、ポップコーンの良い香りがするし、おじいちゃんは私に寄り添って、そっと肩を抱いてくれている。私の大好きな人たちが一つの部屋に集まって、女王と愛犬の映画を見ている。

私が思い描いていた夢の一日は、映画館を貸し切って、この映画をダッシュと二人きりで見ることだった。でも、この隠れ家の方がずっといいわ。なんだか魔女の集会みたいだし、ここに集まってる人たちは私の家来ってことね。みんなが私に敬礼してるわ。メリークリスマス、リリー女王陛下って。


私はその映画をすごく気に入ったし、パーティーもすごく楽しかった。

でも、私には優先すべきことがあった。

その貴重なCG映写機を使って立体的に映し出された87分の映画が終わったところで、私は席を立った。キュートなCG犬をもっと見ていたかったけれど、私が現実に飼っている愛犬の元へ急いで帰らなければならなかった。

ボリスの振る舞いは去年と比べると、この一年でだいぶ良くなったとはいえ、―まだ一ヶ月に一回か二回は誰かを床に押さえつけてしまうことがあり、大勢の人が集まるパーティーでうまく立ち振る舞えるほどの社交性はまだ身についていなかったので、クリスマスパーティーの間、ボリスは私のアパートメントで留守番をしていた。それで、ダッシュと私は映画が終わると、すぐにミセス・バジルの家を後にした。家に着くなり、私はボリスの野獣の毛に顔をうずめた。

それから、私たちはボリスを散歩に連れ出した。散歩の間中、私は映画の興奮冷めやらぬまま、ボリスに向かって、私がどれだけダッシュを愛しているか、さっきの映画を彼と一緒に見られて、バルモラル城を取り囲む深い森で彼と一緒に迷子になれて、どれだけ歓喜したかを語っていた。そしてアパートメントに戻ると、私はボーイフレンドと愛犬にクリスマスプレゼントを渡した。まず、私はボリスに嚙んでも大丈夫な犬用のおもちゃを与えた。すると、1分もしないうちにボリスはそのおもちゃを嚙みつぶしてしまった。それはドナルド・トランプを完璧に模した人形で、ボリスは彼のカツラを引きちぎり、胴体をバラバラにしてしまった。

「よくやった、ボリス」とダッシュが声をかけ、満足げなボリスの頭を撫でた。それからダッシュはしゃがみ込み、ボリスと同じ高さで目を合わせた。彼はできるだけ女王様っぽく、ヘレン・ミレンのイントネーションを真似て、映画『コーギーとベス』で印象的だった台詞を口にした。「いいかい、尊厳をもって嚙むんだよ、スクラムちゃん」

ダッシュにあげるクリスマスプレゼントは、私自身の尊厳を損なうことになるかもしれないものだった。でも、私は勇気を振り絞って計画を実行することにした。その前に私はまず、簡単に渡せる方のプレゼントを彼にあげることにした。私たちはオスカーの横に座っていたから、私は手を伸ばしてオスカーの下に用意しておいた最初のプレゼントを取り、ダッシュに手渡した。(手渡しながら、私はダッシュにチュッと軽くキスをした。―軽くじゃなかったかもしれないけど。)

そして、この前ダッシュからもらった12.21ドルのメイシーズ・デパートのギフトカードで買ったサンタの帽子を彼の頭にかぶせた。「当ててみて」と私は言った。

サンタの帽子をかぶったダッシュはプレゼントを持ち上げて、振ってみた。「塩を入れておく容器?」と彼が聞いた。形と大きさから、一冊の本だとわかるはずなのに、彼はこう続けた。「サンタってまだ柔らかくて暖かいものを持ってないみたいで、自分へのプレゼントに毛布みたいな生地のパジャマを頼んだって知ってる?」そこで彼はボリスを見て言った。「柔らかくて暖かいって君のことを言ってるわけじゃないよ。そういう映画があるってだけだよ。僕は『プランサー』が大好きなんだ。頼むから床に押し倒さないでくれよ」

ボリスはダッシュに飛びかからずに、彼の足首をなめた。

「開けてみて」と私は言った。

ダッシュは慎重にプレゼント用の包装紙を取り除き、彼の横にたたんで置いた。再利用するつもりらしい。私の彼氏は環境にも優しいのね。「本だ!」とダッシュが、新車をもらって興奮したみたいに叫んだ。「信じられない」

それから彼はその本に顔を近づけて、隅々まで見ていた。―それは『クリスマス・キャロル』だった。ただ、どこにでもある普通の本ではなかった。赤い表紙にタイトルが空押しで彫られていて、金箔でタイトルの文字が縁取られ、本の縁や背表紙も金箔で装飾されていた。「リリー!これってもしかして、初版本?」

「そうだといいんだけど!あなたにそれをプレゼントしたくて、でも約3万ドルもかかるって知って、ミセス・バジルに相談したら、もしあなたがこれからもずっと優雅な生活を送りたいのなら、節約しなくちゃだめよって言われて。だからこれは1843年に出版された初版本を正確に模したレプリカなの。本物じゃないけど、その分ほこりも少ないし、1世紀半前の病原菌がページの間に住んでるなんてこともないわ。それに、本物に比べたら、かなり手ごろな値段で買えたし」

ダッシュはその本を胸に抱き締めた。「すごく気に入ったよ!」

私は彼に寄りかかるように近づくと、眼帯の上から軽くキスをした。それから私は彼にもう一つのプレゼントを手渡した。「これはストランド書店のレア本のコーナーで衝動買いしたの」

彼は2つ目のプレゼントを開けた。「『宝島』だ!」と彼は叫んだ。「こっちは正真正銘の初版本よ。しかもイラスト付き」と私は誇らしげに言った。「私の大好きな海賊にあげようと思って」

あぁーー!」と私の海賊が雄叫びを上げた。

「実は他にもプレゼントがあるの」と私は言った。

「本はもう十分だよ!」

「本じゃないわ。もう一つのプレゼントはね...ちょっと来て」

ここで私は勇気を振り絞る必要があった。私は彼が笑ったり茶化したりすることなく、ちゃんと向き合ってくれることを願った。私の最も無防備で、おそらく最もふしだらな姿をちゃんと見てくれることを。―私にとっては大きな挑戦だったのよ。


ダッシュには私の寝室の前で待っててもらって、私は先に部屋に入って着替えた。それから私はドアを少し開けて、さっき彼にあげた本の中の台詞を言った。「さあ、お入りなさい。もっとよく私のことを知るのよ!」

ダッシュの笑い声がドア越しに聞こえた。『クリスマス・キャロル』からの引用だとわかってくれたようだった。そして彼はゆっくりと慎重にドアを開けた。「なんでそんなにこそこそしてるの?」と彼が聞いてきた。

私は深く息を吸い込むと、覚悟を決めて、ドアを全開にした。彼の目に私の姿が映った。

彼がハッと鋭く息を飲んだ。―嫌悪感からではなく、驚いた表情を浮かべていた。

「プレゼントってリリー自身だ!」と彼が言った。

その通り!大、大、大正解!

それは派手なランジェリーではなかったけれど、ちょっと際どい感じの下着だった。私は老舗の婦人服専門店のホームページで注文して買った真っ赤な下着を身につけていた。ビクトリア朝っぽい雰囲気のあるゆったりとしたカプリパンツみたいな、膝下までかぎ針編みのレース模様が施された下着を穿き、腰ひもを巻いて、胸を控えめに隠す赤のコルセットを身につけていた。現代的な感覚からすると、ちょっと着込みすぎな気もしたけれど、リリー的には、裸も同然だった。私はメガネも外していたのよ。

「『クリスマス・キャロル』のミセス・クラチットがドレスを脱いだら、こんな感じじゃないかしら?」と私は頬を赤らめてダッシュに聞いた。どうして私は電灯のスイッチからこんなに離れて立ってるのかしら? すぐに電気を消さなくちゃ!

「ミセス・フェジウィッグの方が近いんじゃないかな。彼女は豪勢なパーティーを開いていたからね、ちょうど君みたいに」

「彼女も私みたいに図書館員たちに重傷を負わせちゃったとか?」

「ミセス・フェジもアイススケートをしていたら、そうかもね」

そこで気まずい沈黙が訪れた。私はその格好のまま、突っ立っていた。寝室のドアを挟んで見つめ合ったまま、私たちはこの状況をどうしたものかと思案に暮れていた。

「リリー、プレゼントありがとう」とダッシュが言った。

私の大好きな海賊は私の手を取ると、ぐっと私を引き寄せた。そして私の唇に彼の唇を重ねた。それから立て続けに何度もキスをした。ゆっくりと、唇の感触を確かめるようなキスをしてから、深く、お互いの中まで入り込んで、熱く、とろけるようなキスをし続けた。

彼は私を抱き締めたまま寝室の中へと入ってきた。私はダッシュの頭からサンタの帽子を取って、彼の髪に私の指をからめるように頭を撫でた。そして彼のおでこに何度もキスをした。彼の頬にもキスをして、それから彼の美しい唇に吸い寄せられた。「興奮を隠せないサンタになった気分だよ」とダッシュがつぶやいた。

その時、私の両親の声が玄関ホールから聞こえてきた。ママとパパが帰宅したのだ。お酒を飲んでご機嫌な様子で、笑い声を上げている。

「リリーの様子でも見てくるか?」とパパが聞いた。

「リリーはクリスマスの夜は毎年決まって、12時前に寝てるでしょ」とママが言った。「一日中興奮しっぱなしだったから、遅くまで起きてられないのよ」

二人がママとパパの寝室の方へよろめきながら向かう足音が聞こえた。

私は開けっ放しだったドアの方へ歩いていった。両親が帰宅したとなっては、ダッシュは私たちのラブラブな時間を切り上げて、今すぐ家に帰るのだろうと思った。

しかし、ダッシュは今まで一度も閉めたことがなかったドアを指差して、こう言ったのよ。「ドアを閉めて、リリー」


ドアを閉めてダッシュの元へ戻ると、1分もしないうちに、ノックもなくドアが再び開かれた。

パパがドアの隙間から、ダッシュの三角帽子を部屋に投げ込んで言った。「おやすみ、ジャック・スパロウ」

ダッシュは言った。「ジョニー・デップじゃないけど、どんな攻撃でも受けて立ちます」

「いい度胸だ」とパパが言った。「今すぐ家に帰りなさい」

私はダッシュを玄関ホールまで送っていき、彼におやすみのキスをした。

「真実の愛によってもたらされる最高のものって何かわかる?」と私は彼に聞いた。

「何?」とダッシュは言った。

「真実の愛よ」

彼は私にもう一度だけキスをして、海賊の三角帽子をかぶると、眼帯をつけていない方の目で私に向かってウインクした。それから颯爽と玄関を出て行った。

私は全然疲れていなかったので、ダッシュが私にプレゼントしてくれたピカピカのクッキーシートを取り出すと、キッチンへ向かった。今からクッキーを焼く練習を始めなくちゃ。

だって来年のクリスマスまで、あと364日しかないのよ!






〔訳者あとがき〕


「New York has everything.」(ニューヨークにはあらゆるものがある。)という言葉を、某K合塾の先生から聞いた時、ぼくは19歳だった。ダッシュとリリーは高校生最後の学年みたいだから、18歳くらいだろう。

当時のぼくはニューヨークなる街に思いをはせている場合ではなく、自分の身近な場所で繰り広げられる受験勉強や片想いの恋に精一杯だったわけだけど、その「New York has everything.」という言葉を聞いて以来、今までずっとニューヨークは気になる場所だった。その間、何度か引っ越ししたので「身近な場所」はその都度変わったけれど、自分の体とともに移り行く「身近な場所」を除けば、ニューヨークは常に一番惹かれる場所だった。

思えば、19歳からではなく、14歳くらいの時、『NO. NEW YORK』という曲が含まれたロックバンドのアルバムを何千回と繰り返し聴いていた頃から、ぼくは「ニューヨーク」なる場所を意識していたのかもしれない。そんなに大声で「ニューヨーク!ニューヨーク!」と熱唱するくらいだから、すごい場所に違いないと14歳のぼくの脳に刷り込まれたわけだ。

当時、そのK合塾の先生は「ニューヨークには犯罪が多い」ことを強調していたので、「everything」(あらゆるもの)は、ことさら良いものばかりではないのかもしれないが、それでもテレビやインターネットなどで見るニューヨークの街は、なんだか夢やロマンに満ち溢れたアミューズメントパーク的な様相でぼくを魅了し続けている。ぼくが一度も現実のニューヨークに行った経験がないことも、それに拍車をかけているのだろう。


『ダッシュとリリーの冒険の書』では、まだダッシュとリリーは面と向かって出会っていなかった。会ったことのない相手に思いをはせていると、どんどん妄想は膨れ上がり、脳内で勝手に「理想の相手」を創り上げてしまう、というのが『ダッシュとリリーの冒険の書』のテーマの一つだったと思う。


『ダッシュとリリーの12日間』では、実際にご対面した後の二人が、どうわかり合っていくのか、自分の思い通りになる脳内の理想の相手と、自分の思い通りにならない現実の相手とのギャップをどう埋めていくのか、ということがテーマの一つだったと思う。そして、100%完全には理解できなくても、お互いに相手のことをちゃんと見つめていきましょう!という結論だった気がする...笑


ぼくはダッシュとリリーの二人に思い入れがあるのはもちろんなんだけど、実はブーマーとエドガー・ティボーにも思い入れがあって、笑

たぶん現実のぼくはブーマーに近いと思うので、そんなブーマーが美人のソフィアと付き合っていることが、ぼくにとってすごく励みになったし、これからも「ブーマーを見習ってぼくも頑張るぞ!」と勇気を奮い立たせてくれる存在です。

そして、エドガー・ティボー。彼が自分とつるんでくれるようにお金を渡している、ということがわかって、ますます気になる存在になった。ぼくはギリギリで生活しているので、そんなお金はないけれど、もしぼくにお金があったら同じことをする予感がある...笑

ぼくはいわゆる「会社」で働いた経験がないので、これは想像だけど、「ビジネススマイル」という言葉があるように、たぶん上司や取引先の相手などに愛想を振りまくことも含めて通常業務なのだろう。

では、パーティーはどうかというと、ビジネスではないのに愛想良く振る舞って、談笑したりするという、よく考えてみると不思議な空間なのです!

ミセス・バジルが「パーティーは人の体みたいなものだから、血液がちゃんと流れてないとだめ」と言っていたように、お金の発生するビジネスではなくても、自分の気持ちを高ぶらせて、自ら血液となる努力が必要だということでしょう。

「真実の愛」というのもそういうことなんだと思う。損得勘定からではなく、相手を思いやる気持ちから真実の愛は生まれ、そうすることで自分にも真実の愛が返ってくる、ということを最後にリリーは言おうとしたのでしょう...


リリーの側からこの物語を見ると、性的なストーリーにも思えてくる。初めての相手を誰にしようか選び、少しエドガー・ティボーにも惹かれたけれど、結局ダッシュにして、ダッシュに決めたはいいけれど、初めての経験を前にして、不安や怖さから、あれこれ混乱したりしている...(のかもしれない。ぼくは選択肢のないもてない男なので、知らないけど。笑)


ぼくの感想の結論は、「濃密な一日」です。

昔々、「℃-ute」というアイドルグループがおりまして、笑

『大きな愛でもてなして』という曲の歌詞にこうあります。

「一日の間でも告白をしたり キスしたり OH YEAH OH YEAH 一日が大人より相当濃ゆいのです 相当長いのです」


ダッシュとリリーの一日も相当濃ゆいですね!特にぼくなんかの一日と比べた場合、驚愕の格差が浮き彫りになります!笑

「食べて、ぼーっと(テレビやパソコンの)画面を見つめて、ちょこっとこの小説を訳して、寝る」

はぁ、ぼくの一日って大概こんな感じなのです...汗


この10ヶ月間、数々の人生訓が散りばめられた『ダッシュとリリーの12日間』を訳していて、ぼく自身もいくつかの気づきや発見をしました。

たとえば、

「食べた後の1、2時間は、胃の消化に体内の血液のほとんどを持っていかれている感じで、つまり頭に血液が回ってきていない感じで、目の前の世界が談笑のないパーティーのようにぼんやりしてしまって、そんな状態で翻訳をしても、ちっともはかどらないから、1、2時間仮眠を取った方がいい」とか。笑

まあ、ぼくの気づきなんてこんな程度で、ダッシュやリリーが放つ人生訓とは雲泥の差なんですが、それでも気づいたことで、ぼくの生活は少し改善したかなと思う。

これからもぼくは一日のほとんどの時間をぼんやりと過ごして、頭がさえているほんの2、3時間に集中して翻訳する日々を過ごしていこうと思う。というか、もてないぼくには他に選択肢などないから。恋人がいれば、「恋人の家に行こうか!」という選択肢もあり得るのだけれど...泣



「訳者あとがき」でよくある記述。

その一、著者の略歴。

これはウィキペディアなどが充実している現代では必要ないでしょう。というか、ぼくみたいな、しょうもない人生を送っている人間が、ダッシュとリリーに命を吹き込んでくれた「偉大な二人の著者」について、とやかく言えるはずもありません。

その二、社会との相関関係。

たとえば、「この時代のこの国はこういう状況で、そんな空気感がこの作品を生んだ...」みたいなことです。

『ダッシュとリリーの12日間』は現代の話なので、同じ時代性をぼくたちも共有しているということで書く必要はないでしょう。

ぼくは日本人なので、「場所」については最初に書きました。


社会との関係でいうと、小説というものはその時代を写す鏡となるわけだけど、ごくまれにベクトルが逆方向へ振れることもある!つまり、小説の側から社会に向かって強い影響力を放つ作品も、数少ないながらもある、ということです。

『ダッシュとリリーの冒険の書』と『ダッシュとリリーの12日間』の中で何度も登場したサリンジャーも、そういう小説家でしょう。

そして、トルーマン・カポーティの名前は一度も出てこなかったと思いますが、意図的に『ティファニーで朝食を』に似せた表現を使っている箇所に、幾度となく出会いました。


『ダッシュとリリーの冒険の書』と『ダッシュとリリーの12日間』の中で何度も登場した「玄関前の踏み段」なるものを、映画『ティファニーで朝食を』で見てみましょう。



ニューヨークのマンハッタンに数多く建っているブラウンストーン(赤レンガ)のタウンハウスの玄関前には、このように何段かの階段があるのです。(ぼくは実際には見たことないけど...汗)

字幕の「見えないわ」というのは、お面をかぶっているから、段差が見えなくてつまずきそう、という意味です。実際、リリーのおじいちゃんは落ちちゃったわけです。

『ティファニーで朝食を』では、タウンハウスの階ごとに別々の住人が暮らしていたわけだけど、ミセス・バジルはタウンハウスを一軒丸ごと所有しているということでしょう。



そして踏み段を駆け上がって玄関に入ったら2秒でキス、というのが定番の流れなのかもしれません。(ぼくは手をつないで玄関に入ったことなどないので知りませんが...泣)



話がだいぶ逸れてしまいましたが、というか元々ぼくの話に本筋などないので、どれだけ逸れてもいいのですが、笑

まとめると、この翻訳はビジネスではないので、訳したからといってお金がもらえるわけでもなく、いつでも途中でやめられる状況だったので、「誰かが読んでくれているから」というのは、かなり大きなモチベーションになりました。毎回翻訳を始める際に目に入るアクセス数を見て、やる気を奮い立たせていました。なので、読んでくれた一人一人に感謝します。←これも言ってみたかったー!笑



最後に損得勘定の話。笑

この『ダッシュとリリーの冒険の書』と『ダッシュとリリーの12日間』を、もちろんぼくの訳で出版して頂ける出版社を募集します。お話だけでも構いませんので、こちらのメールアドレスまでご一報をお待ちしております。


hinataaienglish@gmail.com


そういえば、リリーもこうやって聖歌隊のメンバーを募集していたな!ぼくってダッシュとリリーに影響されまくりなのです...



あ、美味しそうなジンジャーブレッドクッキーとか、ホットチョコレート(ホットココア)とかについて書くの忘れた...笑


ストランド書店ほど大きくはないけれど、ぼくは日銭稼ぎの労働の帰りに、レンタルショップとつながった中型書店に立ち寄っては、サリンジャーやカポーティの本が並んでいる小さなコーナーの前に立ち、赤いモレスキンのノートか、あるいは青いコクヨのノートが挟まっていないかと、目をしばたたいて探しています。

本屋の片隅で目をぱちくりさせて、書棚の上から下までまんべんなく何かを探している人を見かけたら、それはぼくなので声をかけてください。







No comments:

Post a Comment